桶狭間の戦いには、今川義元が沓掛城から出陣している限り、解決できない問題が数々生じます。そこで、発想を逆転させて義元が前日に大高城に宿営しており、当日は大高城から出陣していたとし、それを織田信長が信じられなかったとしたならば、納得できる筋書が描かれるはずです。信長が東海道を進撃しながら、なぜ後世からは迂回であったと言われるのか?桶狭間の戦いはどこにも作戦計画などはなく、全てが「成り行き」であったことがわかるはずです。我々はもっと『信長公記』や『三河物語』を熟読すべきなのではないでしょうか?
- 桶狭間の戦いで鷲津砦・丸根砦攻撃を指揮したのは義元であったこと・・・御存じでしたか?
- 桶狭間の戦いで今川義元の本陣は漆山にあったこと・・・御存じでしたか?
- 桶狭間の戦いで佐久間大学が何故、伊勢湾の干満をいうか、伊勢湾の干潮時刻・・・御存じでしたか?
- 桶狭間の戦い当時、天白川は徒渉できたこと・・・御存じでしたか?
- 桶狭間の戦いで千秋・佐々らが母呂後で討死したこと・・・御存じですか?
- 桶狭間山は原生林などではなく、桶狭間山は赤松の疎林であったこと・・・御存じでしたか?
- 桶狭間の戦い当時、東海道はすでに準幹線道路であったこと・・・御存じでしたか?
- 桶狭間の戦いで信長は情報戦を行わなかったこと・・・御存じでしたか?
- 桶狭間の戦いで簗田出羽守が義元の所在をもたらしたというのは嘘だったこと・・・御存じでしたか?
- 織田信長自慢の三間半の長柄鑓は寿命が短かかったこと・・・御存じでしたか?
- 桶狭間の戦いで信長が大将ケ根から攻撃発起したのは正しかったこと・・・御存じでしたか?
- 桶狭間の戦いで駿河勢の先鋒隊の朝比奈備中守らは既に撤兵を完了していたこと・・・御存じでしたか?
- 桶狭間の戦いで大高城が飢えるには氷上砦・正光寺砦が必要なこと・・・御存じでしたか?
- 水野十郎左衛門尉とは大高城主・水野忠氏だということを御存じですか?
- 桶狭間の戦い当時、伊勢湾や三河湾に水軍などがなかったこと・・・御存じでしたか?
- 大高城は最初から最後まで松平方であったこと・・・御存じでしたか?
最新改稿月日:2008年07月23日 所々、追加中。
御断り、 これは、推理の過程を現在進行形で叙述しているものでもありますから、結論から導かれて一貫した体系にはなっていません。そのため、極めて難解かつ解り難いものになっていますが、その点はご容赦ください。………できるだけ誤解をされないように書き改めるようにします。
何とか、地図を掲載して説明できればよいと思っていますが・・・・難しいです。
今川仮名目録の第一条に対する静岡県史の解釈は間違っているという私見を、附録「今川氏の研究」に載せました。
歴史読本8月号に附録としてつけられていた『天理本・信長公記』で初めて知ったのですが、そこにははっきりと「中島之砦より、信長善照寺へ御出でを見申、佐々隼人正・千秋四郎ノ、二首、山際迄被懸向候」と書かれていると紹介されていました。さらに、鎌研説の項で書きもらしましたが、ここは義元からだけではなく善照寺砦の信長からも観戦できません。また、64.9mの山頂からは、前にある高根山に遮られて母呂後の戦場もみえません。従って、鎌研説の場合には、義元は先備えや前線からの伝令の報告によってこの戦闘の結果を知ったものと思われますので、関連する文章は書き改めます。
- 国土地理院が試験公開している米軍の撮影した航空写真(本文中にも掲載)
- 450年前の合戦当日の伊勢湾の水位を推計し直し潮位表を掲載しました。
- 天白川洪水ハザードマップ削除(代わりに国土交通省版にリンク)
- その他一部に、電子国土ポータルをリンクしました。
- ダイアグラムを作成しました。
- 『信長公記』の読み下しは、ブログに移す作業中です。
公開月日:2006年12月12日(原コンテンツの公開日)
旧版(biglobe)は、2007年03月21日に閉鎖しました。
「AMIGOホームページ( http://amigo.in/kagiyasanjin)」での公開月日:2007年03月21日
本作品は、『史疑・桶狭間合戦』のダイジェスト版に加筆したものです。
コンテンツは、ただ今作業中ですので不備が多いですが、漸次公開する予定です。
著作、かぎや散人、 by.『史疑・桶狭間合戦』
相互リンクのページの作り方がわかりません。悪しからず。




