<桶狭間の戦いへの疑問>
十年以上前に藤本正行氏が『信長公記にみる戦国軍事学(信長の戦争)』(1993年)で「桶狭間合戦は織田信長が迂回による奇襲などではなく正面からの強襲であった」と書かれて、それが現在の定説になっています。それでもなお、二千人程度と少ない兵力の織田勢が、その十倍もいたといわれる駿河勢を打破って、今川義元の頸を討ち取ることができたことについては満足のいく説明はなされていません。
実際問題として、二千ほどの少ない兵力しかなかった信長が優勢な今川義元の前衛部隊を襲って後退させ、そのうえ2kmも後方にある今川本陣に追い込んでそれを崩壊させたなどという事は、常識的に考えては可能なことだとは思えません。………考えてもみてください。水道ホースの口から勢いよくでた水流も、最初は一本の筒のようにまとまっていますが、先に行けば行くほど広く散らばってしまうのです。2kmも先で本陣を混乱させるほどの奔流を保つことの方が難しいはずです。
そのほんの少し前までの駿河勢は、信長軍から抜駆けした三百ばかりの尖兵を撃破して意気軒昂っだったのです。………もし、信長がわずか二千ばかりの兵力で十倍もの今川義元の軍勢を追い散らすなどという、そんなことが可能ならば、それこそが奇跡ですから、義元の首をとったことよりも先にそれが説明されるべきだと思います。
この藤本正行氏の説を説明するために、谷口克広氏が「苦戦する先備(前衛)を救おうとした今川義元が、桶狭間山の本陣から下りたところを、意外のスピードで殺到した信長軍に衝かれた」のが敗因であるとされる説もあります。しかし、よく調べてみますと信長軍の行軍速度や機動力というものは、他の戦国大名に比べて抜きん出て速いものではありません。事に臨んでの判断と決断が速いだけなのです。それに、軍人の常識として、前衛の救援に4kmも先に総力を上げて、狭い狭間に繰り出したと考えることは、すこぶるつきの疑問註 なのです。また、最近では漆山義元本陣説が提起されもしました。これらの説については、附録「藤井戦国史を読む」などで検証します。
註 『孫子・地形篇』には「隘なる形には、我まずこれに居らば必ずこれを盈たしてもって敵を待つ。もし敵まずこれに居り、盈つればすなわち従うことなかれ、盈たざればすなわちこれに従え」とありますから、武人の常識として事前に渓谷の入口を占領して、信長軍に狭間の中に侵入させるはずがないのです。
他にもまだ多くの疑問があります。
- なぜ今川義元は昔の人の習慣に反して朝遅く沓掛城を出陣したのでしょうか。当時の人は日の出とともに起床していたはずです。北条早雲などは午前五時には起きていたといいます。その代わり、寝るのも早いのですが………。電灯がありませんでしたから。それに、今川義元は四才で仏門に入り、臨済宗の駿河富士郡瀬古の善徳寺に預けられ、教育係であった一族の禅僧・太原雪斎崇孚とともに京都に上って五山に学んだ人なのです。朝寝坊(?)であったなどとは、小生にはとても思えないのです。そして、未だにこの問題に回答できた人はいないのです。
- 今川義元はすぐ近くの大高城に行くのに、なぜ桶狭間山などで昼食をとったりしたのでしょうか。沓掛城と大高城との間は、およそ11kmぐらいしかありません。<添付距離表参照>ですから、通常速度の行軍で三時間もあれば着いてしまいます。昼前には大高城に着ける距離なのです。 ………因みに、駿府を五月十二日に発った義元は、多い日は30km以上も行軍しているのです。この問題にも回答できた人もまたおりません。
- それに、暑くなる前の早朝を選ばず、わざわざ暑い盛りを選んで行軍しているのは何故なのでしょうか。 ………当日は雨のことだけが注目されていますが、暑さも厳しかったらしいのです。何故そのようなことが分かるかといいますと、局地的な集中豪雨が突風を伴って派生したと『公記』にあるからです。それには地面が熱せられた所の上空に寒気が入ることが必要だからです。従って、通説のように今川義元が陽も高くなってから沓掛城を出発したとしますと、汗だくで行軍したわけですから、桶狭間に着いたばかりの将兵らはまだ武装などしておらず、というよりも雑兵などは殆ど半裸であったでしょうし、大休止中の本陣でも乗馬身分の武将でさえも、行軍時の小具足姿のままで休息していたと思われるのです。つまり、本陣の防備は極めて脆弱であった可能性があると小生は思うのです。
- 一体、義元は何時に大高城に入る予定だったのでしょうか。夕方になって義元が討死した午後三時頃(?)になっても、城番として大高城にいた松平元康は、義元が到着しなくても不思議なこととは思っていなかったのです。 ………信じられますか。江戸時代でも旅人は暗くなるまえには宿に入ったらしいのです。暗くなってしまっては、街道は物騒ですし、町の木戸は閉められ、宿の風呂が濁ってしまいますから。
- 鷲津砦を攻略した軍勢(朝比奈備中守)はなぜ信長軍の背後を襲わなかったのでしょう。彼等は何処に行ったのでしょうか。鷲津砦にいたとしたならば彼等は鷲善照寺砦が望見できたと思われるのにです。 ………(2008.07.17挿入) 現在の回答は、(1)砦攻略に午前10時頃までかかったため、戦後の処理で忙しかったというもと、(2)乱取に出かけてしまったという黒田説と、(3)安心して見ていたら突然の天候激変に戦機を逃したというもが考えられそうです。
- 千秋・佐々は何処を戦場として駿河勢のどの部隊と戦ったのでしょうか。駿河勢の先鋒隊と戦ったのでしょうか。それと義元本陣の先備と戦ったのでしょうか。未だに彼等は信長に命じられて陽動作戦を展開したとする説が時折持ち出されていますが、陽動作戦でないとしたならば、単なる抜け駆けとみてよいのでしょうか。………先鋒隊という「支隊」と「本陣先備」では、その布陣していただろう場所は、義元本陣からの距離が全くことなります。本陣先備は義元から大きく離れて配備されたのでは、本陣を守という本来の意味をなさないからです。
- 駿河勢はとても伊勢湾の潮の干満を気にしていますが、何故なのでしょう。それなのに、研究者はそれについて何も言及しておりません。牛一は、現役の軍人であり、その彼が特筆しているのにです。 ………義元勢は少なくても二万程度の大軍勢であったと思われているのにです。それだけの大軍であったならば、干満などは関係ないでしょうに。
- それに、義元が桶狭間で討死するまでは、尾三国境でのそれまでの争いを通じて、今川方は決して弱くはありませんでした。織田信長が駿河勢や三河勢に勝ったことが確実なのは、村木砦を奪回した戦だけでしかありません。北方の品野城なども奪回したようにも言われますが、相手は籠城している松平勢だけなのでして、何れの場合も松平方は味方からの後詰を受けられなかったことが敗因でした。駿河勢が劣勢な兵力である織田勢に負けるわけがないのです。……… (2008.07.17挿入) 問題の本質は、今川勢がこれらの拠点に後詰を出さないという事実です。大高城などは何度も兵粮の補給や兵力の補給を行ったかのように諸軍記にはあるのですが、付城まで築かれてしまっています。駿河勢の勢いは安祥城を攻略してからは、村木や蟹江などに盛んに中入りを行うのですが、いずれも拠点を保持できず単発的であり勢いを失っています。
- 一般には、今川義元は十七日に沓掛城に到着しており、十八日夜に大高城へ兵糧を入れ、十九日に丸根・鷲津砦という付け城の排除にかかったと理解されておりまして、いかにも連日の日程は任務でいっぱいのように思えます。でも、よく考えてみますと、「十八日の昼間は何もしていない」ことに気が付くはずです。 ………そういう目でみますと、十七日も池鯉鮒(知立)から沓掛城へ約7kmを移動しただけです。時間にして二時間弱のことです。急に行動力が落ちています。不思議だとは思いませんか。
- 今川義元が池鯉鮒(知立)や沓掛で行動が鈍ったのは、配下を尾張や知多に乱取りに出張させていたからなのでしょうか。とすれば、駿河勢はその遠征の始めから無統制であったとも疑われます?また逆に、義元の征西の目的自体が、上杉兼信同様に「食うため」に尾張国境へ連れ出したことも考えなければならなくなります。 ………(追加 2007.2.19) 最近では、黒田日出男氏が「駿河勢の乱捕り」に注目されています。
- 私たちが暗黙のうちに容認し、前提としてしまっていることに、信長と義元には「隔絶した兵力差」があったということがありますが、それは本当なのでしょうか。……… (2008.07.17挿入) それなのに、最近では桶狭間山の義元本隊だけは少ない兵力でしかなく、多くは輜重であったとする説明がちらほら見え始めています。
- そもそも、如何なる史料にも明確には書かれていないのに、多くの現代人は「義元は沓掛城から大高城へ向かう途中」であったと見做しているのですが、それでよいのでしょうか。義元は大高城に何をしに行こうとしたのでしょうか。この疑問に納得のいく説明をした人はまだ誰もいないのです。 ……… (2008.07.17挿入) 最近では、伊勢湾海運を過大視して環伊勢湾経済圏を想定したうえで、湊でも江でもなかった大高を伊勢湾進出の拠点にしようとしたという考えも出されています。ところが、大高は江戸期になってもこの地方の海運の中心にはなったりしていないのです。なぜ、義元は一時は味方であった佐治氏の大野湊を目指さなかったのでしょうか?
- 信長の成功が「今川義元の油断」が原因であるとしたならば、なぜ義元はそれほどの油断をすることになったのでしょうか。
- さらに、多くの人が、桶狭間の奇跡は「信長の戦況判断の誤り」によって生まれたとして、明らかに根本史料であるはずの『信長公記』を無視していますが、それは正しい史料の扱い方なのでしょうか。
- 明治の旧軍参謀本部の打ち立てた指導方針に縛られて、桶狭間の戦いの勝因を「奇襲」に求めているため、多くの人はその手段として「迂回の経路」を追及するか、「別動隊の存在」で回答しようとする傾向があるように思えます。未だにその呪縛から抜けられないようです。
- 最近の傾向は、サラリーマンの経営術としての知的要求に応えるために、信長の諜報能力が優れていたことに勝因を求めたがる傾向がありますが、信長だけでなく戦国時代の大名たちに、それほど優れた諜報能力があったとも思えません。
- (2008.07.17追加) 最近は、桶狭間山を漆山や高根に比定する説が飛び出していますが、次は二村山もその候補にされる可能性があります。何故ならば、そこら中に桶狭間や田楽狭間がありますから、強権付会するのには事欠かないうえに、これら全てが近隣に存在するために行程的には矛盾が生じにくいからです。但し、『信長公記』に対して多くの根本的な矛盾を抱えていて、それを説明できていないのが現状です。
もうひとつ問題があります。それは研究の方法論の問題です。藤本氏の方法論は、『信長公記』を根本史料にして『三河物語』など比較的信頼できるとされる史料を補助的に利用し、その余を切り捨てるとしたのですが、そもそもこの問題提議をした藤本氏自身が、こともあろうに、自らの方法論に忠実でないというよりも、無視してしまっているということです。
そこで、ここでは藤本氏の示された方針に従って、第一級史料であるといわれる『信長公記』を素直に読むことによって、桶狭間合戦の真相に迫ってみたいと思います。
これは純粋に推理ゲームです。
御断り、 これは、推理の過程を現在進行形で叙述しているものでもありますから、結論から導かれて一貫した体系にはなっていません。そのため、極めて難解なものになっていますが、その点はご容赦ください。






