<信長の戦況判断の問題>
<善照寺砦における信長の戦況判断は誤りか?>
(2008.07.17 挿入)最近は桶狭間の戦いについての新説・奇説が目白押しに発表されていますが、残念なことには、小生が「疑問」として掲げた諸問題について納得の行く回答を与えてくれたものは皆無なのです。その多くは、専ら信長の迂回経路の新説や別動隊の創出でして、あげくに漆山まで桶狭間山を動かすものまで現れる始末です。
藤本正行氏が『信長公記にみる戦国軍事学』で、信長は運を味方にしてではあるのですが、真正面から義元の本陣を強襲したことで勝利を掴んだことは、ほぼ間違いなさそうだということを唱えられました。これによって、旧陸軍参謀本部の見解として長い間の定説であった信長の迂回奇襲説が結果的には葬られることになったのですが、だからと言ってそれにかわる納得のいく信長の勝利の理由を提示できたという訳ではないのです。
以前として問題は解決されてはいません。………それどころか、義元が何故それ程までの油断をしていたのかという疑問が益々膨らむばかりなのです。藤本正行氏は「金持ち喧嘩せず註 」という常識的?な対応が敗北を曳きこんだとされ、本陣と前線の間で情報と命令のやりとりに時間がかかって臨機応変な対応註 ができなかったのが敗因であるとされていますが、皆さんはそんな説明で納得できるでしょうか。
註 義元や重臣たちの判断は、後方に退けば味方もいるし城もある。こんなところで計算外の戦闘を行うより、一旦退却する方が無難であるという健全で常識的なものであったというのが藤本氏の説です。………一般に最も精鋭が集められているのが本隊です。おまけに通常の本隊は七段(先・先・脇・旗・後・荷・遊)に構えているのです。その本隊が敵に迫られたからといって退くのは論外の対応でしょう。それこそ裏崩れの引き金を引くことになります。戦争は「勢い」だからです。
註 戦場にそつなく展開した今川軍であるが、信長の戦場到着を知りながら、信長不在という前提に立って作戦を進めてきたために、信長出現という計算外の事態が生じて、前軍と3kmも離れた義元との間で報告と命令を交換していて適切な動きの採れなかった今川前軍は簡単に討ち破られたというのが藤本氏の説です。………当時は前近代ですから、命令も任務もありませんでした。何よりも優先されたのが個人の功名です。従って、絶好の功名の機会が生じたというのに、義元に御伺いを立てなければ戦闘が開始できないなどという事態が生じるはずがありません。全くの時代錯誤の議論です。このような間違いが生じた原因は、藤本氏が太平洋戦争という近代戦で前近代の合戦を説明しようとしたことにあります。
そこで、よく考えてみますと、『信長公記』を一級史料に押し上げた藤本正行氏自身が、『信長公記』を無視していることに気がつきます。つまり、藤本正行氏自身もまた、自分が主観的に想定した結論に都合の悪い記述については、端から牛一の記憶違いや信長の誤認として恣意的に排除しているのです。
では、藤本氏が切り捨てた記事は何かといいますと、それは信長自身が敵を目前にした攻撃前進にあたって、最前線の中島砦において兵士らに演説した、「おのおのよく聞かれよ。あの武者どもは、前日の宵に糧食をとり、夜通し大高へ兵糧を運び、鷲津・丸根に手をやいて、疲労しきっている。こちらは新手である。小勢だからといって大敵を恐れるな」という部分です。
藤本氏がこの演説を信長の誤認とする理由は、信長が最初から義元との無二の一戦をせんとして入れ込んでいたために、目前に見た敵を砦攻めからの帰りの敵だと誤認したというのです。しかし、この立論の誤りは、例え信長が誤認しようとその余の善照寺砦や中島砦にいた織田軍の将兵は、今川勢が鷲津や丸根から移動してきたのではなく沓掛から着陣した場合には、突然桶狭間方面の峰々に駿河勢の軍兵が湧きだしたように見えたはずですから、見間違えようがないという一事で明らかなはずです。ところが、藤本氏は「信長はそれを冷静に判断した家老衆の制止を振り切って出陣し、熱田から着いたばかりで戦況を知らない将兵たちは信長を信じて奮戦した」というのです。………無理な議論ではないでしょうか。確かに、信長勢が勇戦したことの説明にはなりますが、兵力に優今川勢を打ち破るほどの精神力を付与できたとするのは納得できません。それに天理本によると、熱田・山崎辺りから見物についてきた人たちは、敵の威勢をみて引き揚げてしまったというのです。
『信長公記』の史料価値を重要視する人や信長の諜報能力を持ち上げる人でさえも、この信長の戦況判断を信長の事実誤認であるとするか、兵士を鼓舞するための扇動演説に過ぎないとして、誰一人この信長の判断を直視しようとはしないのです。
(2008.07.17 挿入) 最近は、桐野作人氏が全てを信長のカリスマ性と革命性に関連付けて説明しようとしたりする論文などでは、この演説を「好機到来と高揚した気分だったのではないだろうか。そして、麾下にも自分と同じ気分を味わえとばかりに演説したのだろう。いかにも軍事カリスマらしい。」などと書かれます。同氏はその前号で「しかし、勝算のあてはなかった………。」と言われているのにです。しかも、「主従六騎での出陣こそ、軍事カリスマにはふさわしい。」とまで言われるのです。カリスマとは「兵士らに熱狂的に支持されてこそ」ではないかと思われるのに、主従六騎と雑兵二百人の追従なのです………?そして、突撃に従ったのは二千人ほどしかいなかったうえ天理本などは、熱田・山崎から付いてきた町人らは引き上げてしまったというのです。おまけに、牛一の『信長公記』は麾下の将兵が熱狂して信長を支持する姿というものは、一切描写していません。それどころか、冷静に信長を諌止しようとする姿があるのみです。
ここに全ての問題があります。
著者の牛一は、この前段で信長が善照寺砦で戦況判断をしたことを書いています。そこでは、義元が桶狭間山に「兵馬を休ませていた」とはっきりと証言しているのです。牛一は、目前の「鷲津砦や丸根砦がある丘陵」やそこを緒川から鳴海へ山越する「緒川道」には、軍事的脅威としての駿河勢を発見してはいないようです。………何の関心も払ってはいません。ですから牛一の『信長公記』には、早朝に鷲津などを攻めた軍勢については何の記事もありません。従って、常識的に『信長公記』を読んだ人は、今川義元が率いる駿河勢が二つの付城を攻略し終えて西三河に引き上げる途中の桶狭間山で休息していたところに、信長が間に合って前線に到着したと受け取るはずなのです。
それが何故か、歴史家たちは当日の義元は沓掛城から出陣したとして、駿河勢の兵力を二分してしまっているのです。この思い込みが全ての間違いの根源にあります。
前から述べていますように、信長は麾下の兵士たちに対しても、一言も鷲津砦の敵に「背後を衝かれる心配」をするなとは言っていませんし、ましてや鷲津砦や丸根砦の駿河兵に背後を襲われる心配などは微塵もしていません。大高河口には服部党が兵船を浮かべているにも拘わらずです。 (2008.07.10 挿入、服部左京助が如何なる目的でどれだけの兵力で参陣したか、何時引揚げたかについては別途考証します。)
一度、国土地理院の「電子国土地図」でみてみてください。その中で前之輪の300m南にある卍(明忠院)の裏山が鷲津砦です。史跡のある場所ではありませんから念のため。 こちら⇒cyberjapan.jp/index3.html
そこでの信長は、ただひたすら駿遠参三国の大軍を率いる東海一の弓取・今川義元と戦わねばならないという兵士たちの恐怖心を払拭したかっただけのように小生には思えます。
繰り返しますが、大高城の下にある黒末川の河口に荷之江鯏浦の服部左京助が兵船廿艘を率いて遊弋していたということについても、牛一はちゃんと記載しています。しかし、鷲津砦の駿河勢については何も書いていません。牛一が書かないということは、鷲津砦の辺りには脅威になるような兵力はいないからに違いありません。信長の戦況判断は正しいのです。
因みに、側背を脅かされるということは、戦術上では重大な意味を持ちます。古今東西、世界各国の軍隊で側背に敵を受けて安穏としていられる軍隊はありません。戦列の側背を脅かされることには、本能的な恐怖心を抱くものです。例えば、第二次大戦初頭でドイツ国防軍によって、踏破不能と考えられていたアルデンヌの森林地帯を突破作戦されたフランス軍があります。アルデンヌのフランス軍は、簡単に崩壊してしまっています。このときのフランス軍は『背後』から痛打されて崩壊したわけではありません。突破されたことによって生じる恐怖から、戦わずに崩壊したのです。単に『背後』へ突破されただけなのです。………正確を期しますと、アルデンヌでは歩兵がその後から前進していますし、中国戦線では後方へ浸透したのが小銃だけの小部隊ならば、敵を動揺させることはできなかったとも言われています。もう一つの例は、我が国の戦国時代に賤ケ岳の戦いで見られます。あろうことか、前田利家は戦線の遥か後方で俄に引揚げ始めたのです。すると、それまで粛々と戦線を縮小させていた柴田勢も、それを見た途端に前線の統制は一気に崩壊してしまったのです。
ここがポイント。
単に『背後』や『横』へ回られただけで、多くの軍勢は恐慌を来たして敗走してしまうものなのです。人は、戦線に間隙をつくること、側背をがら空きにすることには、本能的な恐怖心を抱くものらしいのです。そして、アルデンヌの仏軍は武器を持ったまま降服しています。………そのようなわけで、少なくとも信長や牛一の目に入る範囲で警戒すべき敵影はなかったと考えてもよいと思います。勿論、始めから包囲されることを覚悟して籠城する場合は、ちょっと違います。敗走したくても逃げ出せないからです。だからといって、直ぐに「別動隊」を仮想して義元軍の裏崩れを想定するならば、それはもう小説の域と言わねばなりません。
さて、もう一度『信長公記』で今川方の動向を見直してみますと、
「永禄三年五月十七日、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、塩の満ち干を堪がへ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、………案の如く、夜明け方に、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取りかけ候由、………鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り候。………御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、(この間の経過時間は不明)五月十九日、午刻(正午)、(義元は)戌亥(北西)に向って人数を備へ、鷲津・丸根ヲ攻め落とし、この上もない満足これに過ぐべからざるの由にて、謡いを三番謡はせられたる由に候。」とあるのみで、これが全てです。
5月17日の義元は沓掛に到着しており、十八日には大高城への兵粮搬入を決定しており、19日夜明方に鷲津・丸根山攻撃し、その正午には謡をしたとの記載があるのみです。ただし、十八日以降については主語が省かれているように見えるため、通説ではこれを駿河勢の先鋒隊(朝比奈勢)と解釈しています。
しかし、この文章の主語は全て義元であるとすれば、義元は沓掛から鷲津・丸根砦を攻略して帰りがけに桶狭間山に休息していたらしくしか見えません。しつこいようですが、「今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり」とあるからです。明らかに、全軍を引率して桶狭間山に居たと牛一は認識しているのです。そして、何処にも義元が十九日に沓掛城から出陣したなどとは記していません。
このように、少なくとも『信長公記』の記事を見る限りは、信長の戦況判断を誤りであると決めつける根拠は何もありません。
牛一の記述に問題があるとしたら、義元が四万五千も率いていたと書くことだけのように小生には思えます。なぜなら、二千程度の信長が廿倍以上の大軍に挑むなどということは、その軍勢がジンギス汗やヌルハチの軽騎兵のような機動力のあるもので構成されていない限り考えられないからです。………そう考えると、ここでの「引率」とは四万五千人の総支配人・総責任者として尾三国境まで率いて来たという意味であって、桶狭間に全軍を駐屯させていたという解釈をすべきなのではないのかも知れません。
ところで、なぜ信長は桶狭間山に屯する義元軍を見て、それが「疲労しきっている」軍勢と判断できたのでしょうか?
情報社会に生きる多くの現代人は、「信長は情報戦に優れていて義元の居所を察知できた、だから桶狭間に勝てた」と考えたいようです。それなのに、信長は目前に出現した駿河勢が丸根・鷲津砦攻めからの帰りであると「誤認」したというのです。………あり得ないことです。
なぜなら、信長の許へは夜明け方にから「追々ご注進これあり」だったのですし、前線の善照寺砦からも物見は出ていたはずですから、信長が誤認する要素などは無いはずなのです。ましてや、最近の漆山義元本陣説の場合には、鷲津からの駿河勢は善照寺砦の織田勢の目前を緒川道から漆山に上ったのであり、沓掛城からの義元本隊は、これも善照寺砦の織田軍の目前で東海道から漆山に上がったはずなのですから、信長も麾下の将兵も誤認のしようがないはずなのです。それは、『信長公記』は明確に「おけはざまやま」に義元を認めていることから断言できると思います。註
つまり、鷲津砦の朝比奈勢らは、決して沓掛方面から出現し漆山に上ったわけではありません。東から来たか西から来たかは善照寺砦の織田勢の目の前を通ったのですから、見間違えるはずなどはないのです。見間違えるはずのない駿河勢が善照寺砦の織田勢に目前を通過したのですから、彼等が疲れきって元気がなければ、織田勢にもそれが分かったはずです。後は兵数の問題だけなのです。
このようですから、『公記』の信長の判断を正しいものであり、義元勢は沓掛から来たのではあり得ないのです。もし、義元勢が沓掛から桶狭間山に上がったとしたならば、善照寺砦の織田勢からは、まるで峰々に雲が湧き上がるように駿河勢が俄に湧きあがって見えたはずだからです。
このようなわけで、『信長公記』を一級史料と認めるならば、信長の戦況判断が誤りであるなどとは、闇雲に否定することなどできないはずだと小生は考えるのです。
註 信長を欺くために、義元は大脇から大高道を使い、途中から緒川道によってその行動を秘匿したのだと言い張る向きが居られるかも知れませんが、もしそれが事実ならば、義元は足手まといになる小荷駄隊を少なくとも奪取した丸根砦か、本来なら大高城に送ったはずなのですが、太田城番の元康は何も知らなかったというのです。
では、信長は麾下の将兵の士気を鼓舞するために態々ウソをついたのでしょうか?
そんなこともないでしょう。注進の内容も、戦況の全ては全将兵が善照寺砦などから確認することができたのですから、情報を隠すことなどはできなかったはずです。現に、天理本には熱田・山崎から見物に付いてきた町民どもでさえ、敵の様子をみて「御合戦に可被負、急帰れと申」して引き揚げているのです。ですから、数だけは今川軍が極めて優勢であったことは確からしいわけです。
(2008.07.10 挿入) 「藤井戦国史…」章の「桐野説の検証」からの転載ですが、漆山義元本陣説には大きな弱点があります。それは、義元勢が桶狭間山から東海道を漆山に上ると、有松の狭間を抜けてからは善照寺の織田勢にその姿を曝すわけですから、織田軍は信長だけでなく大勢の将兵が諜報や偵察などによらずに義元の兵力をつぶさに観察して具体的にその数さえも勘定できたことになるはずだからです。
そのようなわけで、信長の戦況判断を誤認として取捨することは、専門の歴史学者を含めた誰もが、自らが幻想した「丸根・鷲津攻撃隊と義元本隊は別行動をとっており、しかも義元は当日沓掛から遅れて出陣した」というストーリーから逆に辿って、信長の善照寺参陣時点での状況を「かく在る可」と規定した結果であるように思えます。
では、なぜ先学は揃いも揃ってこのような解釈をするのでしょうか?
このような流れは既に江戸時代から始まっているようです。『歴史群像No.87』で橋場日月氏が紹介している『落穂集』には「(大高城の元康は)義元を御待請の為本丸をば御明け」とあり、『岩淵夜話別集』には「(大高城の元康は)二の丸に御座ける」あるといいます。両方とも前後の文章を読んでいないので即断はできないのですが、18世紀初めには「元康は義元を大高城で待っていた」という認識が、何の疑いもなく出来上がっていたようです。(これは、至近で起こった義元討死に対して、神君家康を免罪にするための事かも知れません。)
しかし、これらの文章に現れた元康の行動は三つ程の解釈が可能です。
- 十九日、丸根砦攻略後の軍議で大高城番が元康に決定して、大高城に入城してからのこととする場合
- 十八日、大高城に兵粮を搬入した際、翌日の丸根砦を攻めるために大高城に宿営したときのこととする場合
- 十八日、当時の大高城番は鵜殿がいたから本丸に入れないのは当然であるし、義元が宿営したためであるかもしれないと考える場合
(1)の場合には、『武徳編年集成』が「大高の城へも漸く薄暮に義元戦死の由聞ゆるところ駿州勢のたまたま当城に在る者皆遁れ去り、鷲津、沓掛の守兵も皆逃亡する由告あり、」と書くことと矛盾します。義元は薄暮になって義元が大高城に到着しなくても少しも不思議に思わなかったという事実があるのです。
(2)の場合には、翌日の義元を迎えるための用意であるということも可能ですが、その場合にはやはり『武徳編年集成』の記事に矛盾しますので、主君である義元のために本丸に入れないのは当然であることをこの軍学者(大道寺友山)は失念していたことになります。また、当時の大高城番は鵜殿長照でしたから、元康隊が本丸に入れないのは至極当然なことなわけです。
(3)元康が当夜本丸で泊ったとしたならば、それは城番鵜殿に客として歓迎されたからでしょう。元康本人以外の部隊が二の丸に宿営するのは当然なわけです。
このように考えますと、大道寺友山がこのような記事をものしたのは、元康が二の丸に宿営した事実についての解釈について、不用意に元康が岡崎城に帰還したときの逸話を仮借したことが考えられます。………このように考えるのは、当時の軍学者というものが、軍事技術者というよりは当時幕府によって奨励されていた朱子学による武士の道徳である忠義を色濃く反映した行動規範を教えるようなのものであったために、純粋に軍事的な面からみると疑問が多いからです。川中島の車懸りの陣のように。
問題なのは、十八世紀初頭になると軍事的常識すら失われてしまっていて、朱子学による道徳規準によって軍事行動が潤色され変質してしまっていたのではないかとも疑わなければならないことです。
<小和田氏著『桶狭間の戦い』の問題>
そこで、通説ではどのように考えているかを、小和田哲夫氏の『桶狭間の戦い』で検証してみます。小和田氏は、その著『桶狭間の戦い』で両軍の十九日の軍事行動について、時間経過を追って具体的に記述されていますから、検証するには都合が良いのです。
氏によって当日の信長の軍事行動をみてみますと、
- 元康による丸根砦の攻撃は暗夜の午前三時頃にはじまり、
- 丸根〜清須を早馬で一時間で知らせが届き、
- 午前四時頃に信長は清須城を飛び出しています。これは臆した重臣を否応なく出陣させるための演出であったとされています。ところが、
- 実際の信長はゆっくり進軍して午前八時頃に熱田社に到着し、そこで一千人ほどにもなったとされています。 (実に、四時間も費やしたのんびりとした行軍です。)
- さらに、午前十時に鷲津砦が陥落し、 (戦闘時間は七時間という長時間であるというのは本当だろうか?)
- 午前十時に善照寺砦に入った信長は、
- 佐々正次・千秋季忠らに兵三百をつけて、陽動作戦のため鳴海城攻撃に向かわせたとされるのです。
- そして、この小競合いの勝利をみた今川義元は祝いの謡をし、
- 織田信長は正午頃に善照寺砦から中島砦へ進んだとされています。
ここには、いくつも矛盾や問題がありそうです。
一方、小和田氏の書かれる今川義元は、
- 午前八時頃に沓掛城を出発し、
- 午前十一時頃桶狭間の少し手前で砦陥落の報告を受けたとされています。
- 桶狭間山に設営してあった本陣(それなのに、桶狭間山らしいと思われる場所では、堀切の痕跡は今にいたるまで発見されてはいないのです)で正午になり昼食の休息に入り、
- 謡を謡い昼食後に千秋・佐々らの首実検をしましたが、
- その後降出した雨により義元本陣の警備が疎かになったといわれます。
- さらに、丸根砦を攻略した元康は、正午頃に義元からの使者を受けて大高城番を交代することになったとされています。
さて、このように考えられた小和田氏の桶狭間の戦いの抱える矛盾はといいますと、
第一に、
丸根砦の攻撃を「午前三時」頃であると小和田氏がされることは、当日の干潮時刻が八六計算によると午前三時十二分、実際は午前二時十五分頃であることからみますと妥当だとは思えません。それは、『信長公記』では砦守将の佐久間大学らが「今川軍は満潮で信長が後詰をできない時刻を狙って付城を取り除こうとするだろう」という警報を信長の許に送っているからです。それなのに、小和田氏はその「いまだ干潮時刻である午前三時頃に攻撃を開始」させる計画をし、それを実行していることになるからです。つまり、これから潮が満ちてくる時刻の前ですから、信長は駿河勢の機先を制して干潮の天白川を渡り、今川軍を待ち受けることができるからです。 (干潮の天白川を渡河できたかは後で検証します。)
永禄三年、ユリウス暦6月12日名古屋港毎時潮高(海上保安庁の計算ソフトを使用)
時 | 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
(cm) | 156 | 129 | 116 | 120 | 139 | 167 | 193 | 211 | 216 | 205 | 178 | 140 |
時 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
(cm) | 100 | 65 | 43 | 40 | 56 | 88 | 129 | 170 | 202 | 219 | 218 | 200 |
これでは、今川義元や朝比奈備中守そして松平元康(後の徳川家康)までもが兵法の常識を知らないことになってしまいすから、徳川幕府の天下になった時に『信長公記』を発表した牛一が、それを暗に揶揄するようなことを書いたとも思えません。従って、駿河勢による砦の攻撃は、干潮時に敵の後詰がないことを確認したうえで、「満潮に向う時刻の、しかも日の出を期して攻撃を開始する」のが常識だったと考えるべきです。………とすると、どんなに早い時刻でも午前四時より先に遡ることはできないと小生は思うのです。
第二に、
元康が暗夜に出陣した「夜戦」であったという小和田氏の推定も問題です。何故なら、攻撃を予期していた佐久間大学らは、松平勢の意表をついて砦から出撃し、これを迎え撃っているからです。すると元康は、逆に暗夜の中で佐久間大学に裏を掻かれたことになりますから、夜襲隊は混乱を起こすはずなのですが、そのような伝えは一切ないのです。これは単に、家康を憚ったとは言えません。何故なら、それを手際よくまとめて苦境を脱して丸根砦を攻略し得たならば、家康の武勲を喧伝するには絶好のエピソードになるからです。………それなのに、そのような家康を顕彰する話が伝わっていないのです。
第三に、
『信長公記』には、辰の尅(午前七〜九時)には丸根砦辺りから煙が立ち昇っているのを信長が見たと書かれていることがあります。それなのに、敢えてこれに反対して午前十時頃に砦が陥落したと小和田氏が言われることも問題です。これは、駿河勢が松平隊が丸根砦を陥落させた後に、外様であった彼等を鷲津砦攻撃にも使役したと主張する穿った見方にも繋がるのですが、十二分に優勢な兵力がある駿河勢としては、考え難い用兵ではないでしょうか。勿論、駿河勢の兵力が喧伝されているようなものでなかったならば話は違いますが………。それはそれとして、午前十時に鷲津山に駿河勢が居ることは不都合なことです。小和田氏はご自身で「鷲津砦と善照寺砦は互いに望見できる」と言われていますから、信長が朝比奈勢に背後を衝かれる危険を冒してまで中嶋砦を出撃したことや、朝比奈が東海道を行軍する信長を攻撃しなかったということは、矛盾した設定だと思います。それに、諸史料の記戴註 に反して、砦攻略に時間が懸かりすぎることも問題にしなければなりません。
註 『三河物語(1626)』は「程なく」、『総見記(1702)』は「難なく」、『信長公記』は「はや鷲津・丸根の両砦は落去したと覚しくて」
まだあります。
第四に、
信長が熱田に行くのに時間がかかり過ぎていることです。兵の集合を熱田で待てば良いのに、信長が態々のんびり行軍しなければならない必然性を説明することは容易ではありません。それなのに、熱田にも大した兵力は集まらなかったようです。天理本は熱田・山崎から町人が見物についてきたと書きますが、これは信長が旗持ちとして徴発したものかも知れません。後世の軍記物には、信長が擬兵を設けたという話が流布します。………はたまた、意に反して将兵が集まらなかった時には、逃げだすつもりだったとでも云うのでしょうか?これは、明石散人氏むきの解釈です。
第五に、
付城を攻撃した時刻の義元は、未だ寝ていたことになるでわけですが、小和田氏は何故そのような遅くまで義元が寝ていたかについての説明をされてはいないのです。当時の人たちの起床時間は一般に早かったはずなのですが、先鋒が戦闘していた時刻にその総大将が就寝中であったなどという事は信じられないことですから、説得力に欠けることだと思います。何しろ義元は、太原崇孚雪斎の薫陶を受けた文武に秀でた人物でもあったからです。………それとも、義元には軍事行動を遅らせてまで対処しなければならないような、沓掛城を離れられない重大な事情があったのでしょうか。
第六に、
『信長公記』は桶狭間合戦に先立つ小競り合いを、「佐々隼人正を初めとして五十騎計り討ち死し候。是をみて、義元の矛先には天魔鬼神も忍べからず。心地は良しと悦んで、暖々として謡をうたわせ陣を据られ候」と書いておりまして、義元は千秋・佐々らとの前哨戦を目の当たりにしたようにも受け取れますから、「是をみて」という文句を小和田氏が義元が大高への行軍途中で、伝令により結果だけを知ったと恣意的に解釈することには問題があります。
第七に、
義元が砦陥落の報告を午前十一時頃に受け、元康の方では城番交代の指示を、正午に鷲津なり丸根の戦場において義元から受けたと小和田氏はされていますが、これも問題です。そのような設定では、元康は信長の善照寺砦参陣を知らないわけがないことになるからです。これは、小和田氏が自ら「鷲津砦から善照寺砦が望見できる」とする主張に矛盾することになります。例え元康が鷲津にいなくても、朝比奈備中守が鷲津砦にいるのですから同じ事です。
以上の諸点から、小和田氏の「桶狭間の戦い」は、常識的に考えてあり得ないストーリーである可能性が濃いものだということができると思えます。………そのためでしょうか、小和田氏は「陽動説」や「冠水説」などという『信長公記』に牛一が書かないことを想定することになりますが、これらの説の妥当性については「附録」で検証します。
<なぜ、これほどまでに『信長公記』は無視されるのか>
何故、後世の人々は、これほどまでに『信長公記』の記事をないがしろにし、戦術の天才と自らが持ち上げた信長自身の判断を無視するのでしょうか。………これを考えますと、小和田氏を始めとした通説が「信長が戦況を誤認した」と考えた理由が、「合戦当日の義元が沓掛城から出陣した」ということを無条件に前提にしていることから生じていることに気づきます。
なぜ、そう解釈することから離れられないかと考えますと、
- 義元が兵力を先鋒と本隊とに兵力を分散していたことになりますから、信長が義元本陣を衝くのに障害を少なくでき、大軍であったという義元の敗因を納得させやすくなります。
- 義元が砦の攻撃を指揮していなければ、本隊の構成を少数の旗本と多数の小荷駄であったと決めつけることが可能になり、義元勢が簡単に崩壊した説明の助けになります。
- 義元が全軍を掌握していたとしたならば、四万五千もの大軍の布陣を、現実的に想定することができません。桶狭間から溢れ返ってしまいますから。………信長が、群衆の中を義元の許まで辿り着けない事態が生じる可能性があります。
- 兵力を分散させなければ、義元が四万五千もの大軍であることを説明できません。
などの理由を潜在的に脳裏に持っているからなのだと思われます。
ところが、兵力を分散させるために義元を沓掛城から出陣させますと、違った矛盾が湧き出ます。
少なくとも『信長公記』には、そのようなことは書いてはいないのですが、そう信じる限りは、当日朝に鷲津・丸根の砦を落とした朝比奈勢と義元本隊とは、別々の部隊であると考えるしかなくなります。すると、どうしても(1)朝比奈備中守も松平元康も、義元が大高城に入城するのを待たねばならないという必要が生じます。………何故なら、総大将の義元が大高城に向かっているのに、中嶋砦を攻撃した事実などはないのですから、鷲津や丸根の戦場付近で待機している外ないのです。 (因みに、最近では黒田日出男氏が駿河勢先鋒は乱取に興じて各所に散らばっていたという説を発表されました。)
そして、このことは付城を攻撃した駿河勢は嫌でも、(2)善照寺砦に到着した信長勢を発見することを意味します。………そして、発見したならば、攻撃しなければならないという矛盾が生じます。何故なら、彼等先鋒隊だけでも信長勢二千よりも優勢な兵力を持っているだけでなく、義元本隊とで信長を挟み打ちすることができるという、滅多にない絶好の機会であるからです。当時の、功名にどん欲であった武将たちが、これを見逃すはずがありません。
また、(3)彼等大高城番の松平勢は午後二時になっても四時になっても、大高城に到着しない義元を心配することもなく、使者もたてずに漫然と半日を過ごしたことにもなるのです。………『武徳編年集成』は、大高城の松平元康の許に義元討死の噂が聞こえてきたのは薄暮の頃だと書き、元康などは日が落ちてからも義元討死を信じられずにいたといいますから、これは「義元が大高へ向かっていた」という通説の理解には問題があることを示唆しています。
この、「何故、朝比奈勢は中島砦から桶狭間に向かう信長の背後を衝かなかったのか」という疑問は、義元が十九日当日に沓掛城から出陣している限り付きまとう問題なのです。

繰り返しますが、『信長公記』の何処にも今川義元が沓掛城を当日出陣したなどとは書いてはいませんし、朝比奈勢が鷲津砦の辺りに居続けたとも書いてはいないのです。唯一確かなのは、松平元康は大高城番を命ぜられて大高城にいたということだけなのです。………しかし、鷲津砦で戦ったもう一隊の朝比奈勢の行方について記した史料はなにもありません。彼等は戦場から忽然として姿を消してしまったのです。
以上のことから、全ての問題の根源は「十八日夜の義元が沓掛城に宿営した」と考えることにあることは明白だと小生は思うのです。
おまけ <乱取状態急襲説の登場>
平成十七年には、黒田日出男氏が「砦攻略に成功した駿河勢は、乱取りに興じていた」という説を唱えられました。小生は、駿河勢が具体的に何処で乱取りをしたと黒田氏が想定されているのかについては、氏の論文を読んでいないので承知しておりません。従って、以下の論述は新聞記事から推測したものです。詳細を知り次第、適切に修正を加える予定です。
もし、黒田氏の解釈が、大高城周辺の知多郡北部地域や鳴海城の南の農村・田畑を略奪に出かけていたと考えているのでしたならば、これは問題です。まず、知多郡北部に出張していた場合には、如何にして彼らが落ち武者狩から逃れられたかが問題になります。松平元康でさえ義元の討死に気づかずにいて、大高城からの帰還に苦労しているからです。
鳴海城の南で狼藉を働く場合も、彼ら駿河勢が引き揚げるのに入り混じって二千人もの織田軍が義元本陣へ接近できた可能性はありません。何故なら、『三河物語』に石川六左衛門尉と駿河方武将が信長勢出現を見てその一部が駿河勢のいる山に上ってきているという記事があるからです。もそこれに入り交じったのであったならば、今川勢は大間抜けということになるでしょう。
彼ら乱捕りに興じていた駿河勢が先備なのか殿軍なのか、はたまた本陣なのか、そして何処にいたかは不明なのですが、義元本陣にしかるべく報告したであろうことは確かであると考えられます。何故なら、『三河物語』は乱捕りしていた駿河勢が織田軍の主力が出現した時点で、本陣に引き揚げ始めたのだと考えているからなのです。何故、黒田氏は同じ風聞でも当事者が書いたものよりも、又聞きの風聞を記したであろう『甲陽軍鑑』の方を採るのでしょうか?
ところで、黒田氏は織田勢が本陣に帰陣する駿河勢に紛れ込んだと想定しているのですから、それらの駿河勢は黒末川(扇川)の南にあったであろう村々や田畑に乱取りに出掛けていたことになります。そうでなければ中島砦まで進んだ信長は駿河勢に紛れ込むことができませんから。そして、千秋や佐々が小競り合いをしたのも乱取りに出ていた駿河勢だということになります。勿論、彼らを迎撃した部隊は、乱取り隊を掩護して善照寺砦や中島砦の織田勢を警戒していた部隊でしょう。また少なくとも、義元本陣から一町ほど先に陣取っていた先備は、当然信長を迎撃する態勢をとったはずです。それが役目ですから………?
ただ、解せないのは織田勢から4kmほどしか離れていないところに本陣が休息しており、信長が主力を率いて善照寺砦に姿をみせた状況下で、本陣の幹部らが沓掛から出陣してきたばかりの本陣を手薄にして、先鋒隊の朝比奈勢と一緒になって乱取りに興じさせ続けていたことです。もしそうであったとするならば、今川義元の率いる駿河勢の軍紀は武田・北条にはるかに劣るものであったことになります。乱取に興じていて敗北した部隊というのはそうあるものではありません。なぜならば、乱取は現在の我々が思うよりもはるかに組織的に、警備兵の警戒の下に行われていたからです。
註 井伊直政が他界するにあたって、石原主膳・孕石備前・広瀬左馬助の三人に命じて、特に甲州・信濃及び越後での経験と見聞を取捨按配して、井伊家末代の作法(軍事)を策定させたという『井伊家御軍法』では、「かり田・小屋おとし者、下知次第に、騎馬一人づゝ、足軽鉄炮二拾挺・弓拾挺宛(ヅツ)苅取遣す可く候。稲・薪等其所に而割符之事。但し間遠に候はゞ、これにしたがひ人数下知有る可事」とあります。
註 『信長公記』の記事は乱取ではありませんが、「清洲の並び(に近い)三十町隔ており(下)津の郷に、正眼寺とて会下寺あり。然るべき(要害ともなりそうな)構えの地なり。上郷岩倉より(ここを)取手(砦)に仕るべきの由、風説これあり。これに依り、(信長は先手を打って)清洲の町人どもをかり出し、正眼寺の藪を切り払ひ候はんの由にて、(清洲城から)御人数出され候へば、馬上(の者は)八十三騎ならでは御座なく候と申し候」とあるように、少ないとはいえ護衛兼監督をつけているのです。
『雑兵たちの戦場』の藤木久志氏は、「島津軍の兵士たちの中には、その日の戦いの目標などそっちのけに、早く戦利品を持って帰りたいと、掠奪だけに熱中する指揮官と若干の兵士たち、つまり明らかに組織された掠奪集団が含まれていた」と言われ、朝鮮出兵の秀吉も彼自身が技術者や女の選別献上を要求しているのですから、明らかに戦争の目的の一つは略奪にあったことは間違いないようです。ですから、当然に組織化されていて効率的に実施されたものと思われ、「下知なくして」「御意なき以前」と軍法で定めるのであって、作戦や軍律を乱さぬ限り野放しにしたのではなく、安全かつ効率的に略奪をするのが戦争の大きな目的であったものとと考えた方がよさそうなのです。そう考えますと、少なくとも駿河勢は織田勢をまったく見縊っていたことが窺えます。これが潜在意識に作用して、歴史に残る油断を招いたのだということになるのだと思いますが、………本当にそうだったのでしょうか。
ところで、鷲津を攻めた先鋒隊が乱捕りをしていたとしたならば、その大将である朝比奈備中守は、すぐさま部隊をまとめて出現した信長に備え、その後本隊と合流すべく指示したに違いありません。そうするのが役目だからです。それに、先鋒大将自らが略奪して回ったとも思えません。彼は許可し命令し監督し、そして上納させて再配分したはずだと考えられるからです。さらに、朝比奈は桶狭間合戦で戦っておらず、それをしなかったと咎められてもいないのです。それに、乱取りを終えた駿河勢はその後は何処へ向かう心算だったのでしょうか。義元と一緒になるために大高城へ向かうのでしょうか。それとも義元と別れて、一足先に西三河に帰還するのでしょうか。………いずれにせよ、筋の通った説明はなかなか困難です。
参考:桶狭間山の付近に織田方の村は殆どないのですが、全くないわけでもありません。東海道沿いには平部の集落があったらしいですし、中島砦は信長が「南中島とて小村あり」というのを砦にしたことが知られています。また、その砦に程近い善明寺や瑞松寺(瑞泉寺)の辺りにも檀家になった住民の村があったはずです。しかし、諏訪神社にも、善明寺にも安堵されていたかは不明なのですが、戦火にあったという伝承はないのです。勿論、桶狭間村にもそこにある長福寺も戦火に合ってはいないのです。他にも村はあります。大高城下にも村がありますし、前之輪や丸内にも集落はあったものと思われます。
因みに、黒田説にも有利な記事が、何かと問題視されている『武功夜話』にあります。そこでは、「一、佐々党と我等一同が鳴海から転じて、善照寺に辿り着いたときの人数は、八十有余人でしかなかった。中島砦はすでに駿河勢が満ち溢れ、手の施しようもなかった。おりしも大師嶽の辺りで鬨の声があがったが、四面は真っ暗で雷を伴い、天地は鳴動して止まない有様。なすすべもなく、その場に呆然と立ち竦んでいると、やがて狭間辺りから勝鬨の声が天地に木霊した。が、それは味方か敵かも判らなかった。佐々内蔵之助(成政)殿は、遅参したと知るや、顔面を引きつらせて一同に下馬を指示された。見れば三町ばかりの間は、幔幕は泥土にまみれ、辺りには人馬が倒れていて惨状を呈し、駿河勢も潮の引いたように一人もいない。佐々内蔵之助はじめ柏井衆は、田楽狭間の近くにありながら、かくの如きの不覚であった。織田上総介様は、佐々党らには目もくれず、治部少輔の首級を鑓先に掲げて清須へ御引き揚げになった。一党の者も致し方なく、夕方には竜泉寺砦へ戻った」と書いているからです。
何れにせよ、『信長公記』を見れば、二千名にも上る信長勢が中島砦から出て、駿河勢に紛れ込むことができたうえ、山際についた信長勢が他の駿河勢のように本隊に合流せずに、山麓辺りに屯していたことが明らかなわけです。まだ、雨は降りだしていません。それが、それでも怪しまれることがなかったか、軽視されたことになりますから、もしこれが事実であったとすると、駿河勢の迂闊さ、お粗末さは特筆すべきものだということになります。事実は小説より奇なりという言葉どおりであったわけです。
ところで、黒田説が正しければ、義元本陣の兵力も推定できるという副次効果も考えられます。つまり、旗本が三百騎ばかりしかいなかったわけですから、それ以外の武士を百人と見積って、武士の割合を一割と仮定して計算しますと、義元本陣は四千人、それに本陣先備えの松井勢を一千人とみて、凡そ五千人規模であったことになります。すると、信長は歴々の衆が六七百いたことが知られていますから、実戦力では互角かそれ以上であったことになりますので、信長が決戦を挑もうとするのも、そう無謀なことではないともいえそうです。
こうしてみますと、この黒田説は、義元が大高からの帰還途中であったとし、先鋒隊が緒川や沓掛方面へ乱捕りに出かけたとして始めて『信長公記』との整合性が得られるのだと小生には思えます。
さらに、この学説が学会に認められるようでしたならば、さらにいろいろ面白いことが考えられます。
例えば、義元も上杉謙信と同様に「食うため」に尾張国境へ出てきた可能性があることになります。永禄二年の駿河遠江の作柄はどうだったのでしょうか。天候は不順だったのでしょうか。それとも、武田信玄と同じく国内の矛盾(過重な軍役負荷)を国外に転嫁するために、頻繁に隣国への領土拡張を今川氏も行う必要に迫られていたのでしょうか。




