<十八日に於ける今川義元の所在の問題>    (2007.9.25 加推敲)

 

<信長公記を読む>

ここでのテーマは前章の結論を受けて、合戦当日の義元は沓掛城から出陣してなどはいないということから、桶狭間の戦いの前日十八日の今川義元の動向をテーマとします。この問題についても多くの人は疑問に思わないようでして、何のコメントもしないのが普通のようです。

『信長公記』の「今川義元討死の事」は、こう書き出しています。

永禄三年(1560)五月十七日、今川義元沓懸へ参陣十八日夜に入り、大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、(潮)の満ち干を堪が(考)へ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより(清須の信長公へ)御注進申し上げ候ところ、その夜の御話、軍の行(救援の軍勢を派遣することについて)は努々(ユメユメ)これなく、色六(イロイロ)世間のご雑談までにて、既に深更に及ぶの間、(みなみな)帰宅候へと、御暇下さる。家老衆申す様、運の末には知恵の鏡も曇るとは、この節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ候

これをみますと、今川義元も織田信長も桶狭間の戦いの前日十八日の「昼間」は何も行動していないようにも受け取れます。それは十八日の出来事の主語を義元とみないことによって可能になります。

その場合の信長は清洲に、義元は沓掛城に居たきりです。………と云う事は、牛一がこう書くのですから、少なくとも当時の織田方では「十八日の晩の義元は沓掛城に在陣していた」と認識していたと考えることもできるわけです。

これが事実であるかどうかは別にして、飽くまで牛一を始めとした織田方に共通の戦況判断としては、十八日の晩の「義元は沓掛城にあり」と認識していたとみなすこともできます。しかし、これは飽く迄清洲城の織田方だけに限定される認識だと考えるべきだと小生は考えます。何故なら、これまで毎日行軍してきた義元が、最前線の沓掛城で丸一日鳴りを潜めてしまったからです。一体何のために?

勿論、同じ織田方でも善照寺・中島砦や鷲津・丸根砦のような最前線の将兵は別の認識を持っていました。前線から駿河勢が兵粮を大高城に搬入するのは十八日夜であることは確実であり、翌日早朝に潮の具合を考慮して付城が攻撃される計画があることを清須に注進しているからです。これは一面の真実ですが、そこで確かなことは駿河勢の一隊が攻めてくるということだけであって、その指揮を義元が執っているかどうかまでは確認できなかったのだろうと小生は考えます。

『信長公記』は「夕日」といいますから「日の入る前」に、信長は前線から敵の作戦について確度の高いと思われる情報の報告を受け取っているわけなのですが、それにも関わらず、信長は何も行動を起こしていません。………なぜでしょうか。

『信長公記』は、十八日の義元の所在については、主語を省いているため何も触れてはいないように受け取れます。しかし、前線からの報告で、「駿河勢が兵粮を大高城に搬入するのは十八日夜であることは確実であり、翌日早朝に潮の具合を考慮して付城が攻撃される計画があることを清須では承知していたと書かれています。

ですから信長には、義元もそれに伴って大高城に入城した可能性を否定することはできないわけです。しかし、『信長公記』では否定はしていませんが、その文面から判断しますと、少なくとも信長に限っては、「義元が確実に大高に入城した」とは把握することはもちろん、考えも及ばなかったものと小生は考えます。つまり、信長は義元本隊の所在を大高城にいるとも、付け城攻撃に出陣するとも、特定できるとは考えてはいなかったことになります。

信長は、駿河勢の一支隊が大高城に兵糧を搬入したり、また別の支隊が付け城を攻撃することがあったとしても、義元自身がそれらの攻撃に加わっていることについては、懐疑的であったように小生には思えます。何しろ今川軍は四万五千という大軍であるという触れ込みなのですから、信長がそれを信じたとすれば、大高や丸根・鷲津への行動が主目的だなどとは、信長にはとても思えなかったのだろうと小生は考えるわけです。 

因みに、この考え方(大軍であれば何でもできるはずなのに、現実の今川義元は大軍を率いているような行動をしなかったのだから、駿河勢は喧伝されるような大兵力などではなかったということ)が正しければ、巷で唱えられる信長の諜報戦能力はそれほどのものではなかったことになりますし、梁田出羽守や蜂須賀小六の索敵などは後世の創作であったということになります。

 

<『三河物語』を読む>

ところで、一方の駿河方はどういうことになっていたのでしょうか………。当時の駿河方を内部からみた史料としては、唯一『三河物語(1622)』がありますが、そこにはこう書かれています。

永禄三年庚申五十九日に義元は池鯉鮒より段々に押して大高へ行き、棒山之砦をつくづくと巡見して、諸大名を寄せて、やや久しく評定をして、さらば攻め取れ、その儀ならば、元康責め給えと有ければ、元よりすすむ殿(元康)なれば、即ち押し寄せて責め給いければ、程なく堪らずして、佐久間(大学)は切て出けるが、運も尽きずや、討ち漏らされて落ちて行く。家の子郎従共をば悉く打ち取る。その時、松平善四郎殿・筧又蔵、その外の衆も討死をしたり、其れより大高城に兵糧米多く籠める

さて、この文章をどのように解釈したらばよいでしょうか。この記事の「五月十九日」に今川義元がしたことは、「大高へ行き」なのでしょうか、それとも「(付城を)責め給」なのでしょうか?

『三河物語』はこの文章に先立ち、「吉田を立ちて岡崎に着く諸勢は屋萩(矢作)・鵜頭(宇頭)・今村・牛田・八橋・池リフ(鯉鮒)に陣取る。明ければ、義元、池リフに着き給ふ」としていまして、十七日に池鯉鮒(知立)についた後の義元については何も記してはおりません。

 従って、「五月十九日」が「大高へ行き」である場合には、「段々に押して」の意味は義元が前日に沓掛には泊まらず、十九日の合戦当日に、池鯉鮒から出陣して、暗夜の中を行軍してきたという意味になります。………これでは、「段々」という本来、「高さの違う面が上下に順に並んでいる様」を示す表現にはそぐわないうえ、大高に入城した後に、「薄明の中」で自ら大物見をしたうえで軍議を開き、夜明頃に丸根・鷲津砦を攻撃したことになりますから、時間的に無理があると思われます。同様に、「五月十九日」が「巡見して」にかかる場合も、「諸大名を寄せ」でも、「評定をして」でも、「元康責め給え」でも同じことで、行程的に無理が生じます。

そうしますと、この「五月十九日」は「即ち押し寄せて責め給いけれ」であり、「段々に押して」の意味は、「十八日には、池鯉鮒から沓掛へ寄り、そこから順を追って(手順を踏んでですから、織田方の諸砦を大物見を敢行しながら)大高城へ行き」と解釈すべきだと小生には思われます。即ち、『三河物語』は、義元とその率いる駿河勢は、十八日は大高城に宿営したと見做しているのです。 

但し、駿河勢全軍が大高城に宿営したとまでは言えません。何故なら、それまでも駿河勢は諸方に分散して宿営しているからです。例えば、義元が掛川に着いたときの先手は、原河・袋井・見付・池田に分宿していますし、義元が吉田に着いたときには、下地の御油・小坂井・国府・御油・赤坂に陣取ったといいます。さらに、義元が岡崎に着いたときには、諸勢は矢作・宇頭・今村・牛田・八橋・池鯉鮒に陣取っています。しかし、これ以後の諸勢の動向は何も記されていません。全軍が合同したとも書かれてはいません。ですから、義元がいったいどの程度の兵力を率いて沓掛から大高に行ったのかは、史料からは分からないのです。

 ところで、この『三河物語』の書くところは重要です。何故なら、そこには今川義元自身が丸根・鷲津の付け城を大物見したとあるからです。さらにそのうえで、大高城を確保するにはこれらの付城を取り除くべきだと考え、軍議を開いて決定しているのです。そして、その情報が佐久間大学のもとにもたらされたのが、「夕日に及ぶ」前であったことが『信長公記』から判明しています。………これらのことが意味することは、義元が駿府で立てた事前計画や岡崎城で軍議決定した事項には、大高城の救援としての物資搬入や兵力の増派などはあっても、付城の攻略や義元自身の大高城入城はなかった可能性があることを窺わせます。つまり今川義元は、細部は前線を自分の目で視察したうえで決定しようと始めから思っていたのであって、大高城には一支隊を派遣して通路を開けば事足れりと考えていたということでして、本来の目的は他にあったように小生には思えるのです。

そのように義元が決定を急遽おこなった結果、準備のなかった駿河勢は、松平元康が岡崎あたりから兵糧を運ばせることになったのだとも考えることができます。何故なら、大軍であるはずの駿河勢が態々、作業の困難な夜間に兵粮を搬入する必要などはないはずだからです。前もって計画していたものならば十八日の早朝に搬入できたからです。………そうしますと、岡崎に早馬をたてて蔵出しの準備させなくてはならないことになります。その夜のうちに搬入したのですから、20kmとみても五時間はかります、早馬が一時間で岡崎まで行けたとして、積降の時間を考えなくても所要時間は六時間になりますから、兵糧搬入を決定することになった評定は、十八日の夕方までに行われたものとみなければなりません。

今川義元が上洛や清須城攻略を計画していたのでない限り、必要な兵粮は予め立ち寄る支城に備蓄させてあるものを使用していたでしょうから、腰兵粮以外の余分な兵粮などの荷駄は帯同していなかったと小生は思います。沓掛城池鯉鮒城などの領国内の支城には、行軍に備えて兵粮を備蓄させておいたはずです。註 三河までは今川領国ですから無暗に徴発することなどはできません。 

註 戦国時代の武器兵粮は自弁です。しかし、兵粮を必ずしも用意できるとは限りませんから、大名や寄親が立替えて支給し、後で利息を加えて清算することは多かったものと考えます。要するに、動員回数が多すぎて過重な負担になっていたと思うからです。食料自弁の実態はよく解りません。武器についても同様です。北条氏の文書を見ていると必ずしも調っていないのですが、だからといって寄親が用意してやる余裕もなさそうです。では、食糧の場合はどうなのでしょう。

さて、大物見を行った義元は沓掛城に戻ったのでしょうか、それとも大高城に宿営したでしょうか。………小生は翌朝の付け城攻撃がありますから、最も戦場に近い大高城に宿営したものと考えます。何故なら、義元は『信長公記』が「河内二の江の坊主、うぐゐら(弥富町・鰍浦服部左京助」と書く人物に対しても、恐らくこの日この時に使者を派遣して参陣を促したと考えるからです。そして、翌日十九日註 、時刻はわかりませんが、服部左京助は「武者舟二十艘計りを大高の下、黒末川口まで乗り入れ」ていますから、彼は明らかに義元に面会したものと小生は考えます。左京亮が義元に面会しないで引き揚げるはずがないからです。 

註 これに反対する意見に永井勝三著鳴尾村史』があります。そこでは「尾張国西端長嶋城主服部左京亮等は織田軍に当然味方すべきを、今川軍に味方し数十艘の兵船に、多量の兵粮と士卒をのせ、前夜黒末川口に着岸したが、風雨強く陸揚ができず、合戦の朝大高城に兵粮入をし、今川軍をば歓喜させたが、午后義元の敗戦を知るや将士は船に戻り、奮激の棄場に帰途熱田ノ宮に上陸したが、此処でも加藤図書の土民に追いまくられ、民家に放火しやっと帰城したニュースは、当時の著作者の心を引いたので、各書に記された黒末川の名も世間に知れた」とされています。 しかし、牛一の記事では信長が善照寺砦に参陣した時点での戦況に服部水軍については一言も触れていないのですから、戦術的に脅威であったとは看做されていないと思いますので、小生はこの見解には賛同しかねます。

十八日について『惣見記(1702)』は、「十八日沓掛へ発向、十八日、松平蔵人元康を以って大高の城へ兵粮を入れさせ、その夜この城にて合戦の評議を調へ翌十九日、鷲津・丸根両城を攻めんと議定す」としていますが、ここでの「この城」は明らかに大高城であると考えられますから、義元は大高城にいたと考えているようです。 

『惣見記』は小瀬甫庵の『信長記』を補訂するという形で記しており、信長の諸孫にあたる貞置に校閲を依頼し完成したといわれるため、史実に潤色がされていて信用性に欠けるのが難点です。

逆に、十八日に義元が沓掛城にいたとも解釈できる記事があるのは、『朝野舊聞蓬藁(1841)』と後世の研究である桶山澄英竜の『狭間合戦記』です。そこでは、「十八日、今川義元池鯉鮒より尾張国沓掛に至り、諸将を集めて軍議あり」と書きますが、その晩に義元が沓掛城に泊まったとまでは書いていません。断定することは避けたものと小生は考えます。

(2008.08.14 挿入) 軍議については、『総見記』が「十五日に三州岡崎の城に陣す、是にて陣々城々の手分け手配を定めらる」として、岡崎で軍議を開いたとするのだが、この時の先鋒は「岡崎に付。所(諸)勢は屋萩(矢作)・鵜頭(宇頭)・今村・牛田・八橋・池リフ(鯉鮒)に陣之取。」と記していますから、義元は彼等を態々岡崎にまで呼び寄せて軍議を開いたのですから、かなりしっかりした持場と役割の分担を決めたのでしょう。それなのに、三日後になって諸将を沓掛に呼び集めて相談しなければならないような情勢の変化が何かあったのでしょうか?

もし、岡崎での事前の計画にない丸根・鷲津の砦攻略という軍事行動を急遽計画したとしたことによって、諸方に散らばった先鋒隊全体に何か影響が起きたのでしょうか?例えば、信長のように鉄炮の諸手抜きを行ったり、彼等から兵力を引き抜くのでなければ、翌十九日に行うはずであった軍事行動を急遽延期したとしても使者を派遣すればすむことのように思えるのですが?………そう考えますと、翌朝の攻撃手順を協議するだけであるのならば、十八日に沓掛で諸将を集めてまで軍議する必要などはないように思えます。何故なら、兵力からしても付城攻略ぐらいは義元が率いてきた部隊だけで十分間に合うものと思われるからです。本隊の兵力までをも各地に分散配備したりしていなければですが。

つまり、十八日には諸将を集めての軍議などが沓掛城で開かれることはなかったものと考えます。

ここで、『信長公記』と『三河物語』を比較してみますと、『信長公記』では「五月十七日、今川義元沓懸へ参陣」としているのに対し、『三河物語(1622)』は「明ければ(十七日)義元池リフ(鯉鮒)に着き給ふ」としており、旅程に一日のずれがあります。これは駿河勢の先手が沓掛城に先乗りしたのを織田方が、義元自身が参陣したものと誤認したのだと小生は考えます。………つまり、『総見記(1702)』に「十七日、本陣ヲ池鯉鮒へ押し出し、(先鋒は)鳴海表ノ桶狭間に陣して、それより知多郡の一辺に働き在々所々を放火し作毛を薙ぎ捨てる」とあるうえに、瀬名伊予守氏俊がここに陣を布いたという伝承もあり、知多郡の一辺に働いた際には、水野方の氷上砦や正光寺砦も排除されたらしくも思えますから、義元の率いる本隊も沓掛に到着していたと清須の織田方が考えたとしてても、それには無理がないと思うからです。

(2008.1.10 追加) ここで、『三河物語』が義元は十八日に沓掛城へ行き、十九日に丸根・鷲津の砦を排除してから、大高城に兵粮を籠めたのだと書いていると解釈した場合を考えます。

まず、『信長公記』の当該部分の解釈を再考します。

そこには、「十八日夜に入り、大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、塩(潮)の満ち干を堪(考)がへ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候ところ、」と書かれているのですが、これをこの文章の前半部分だけを「十八日夜に入り〜必定と相聞こえ候ひし」と「大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、塩の満ち干を堪がへ、取手を払ふべきの旨」いう二つの文章からなっていると看做す必要があります。こうすれば、一応は大高城への兵糧入れも十九日の砦攻略後という文意にすることはできます。しかし、後半の文章と明らかに矛盾します。そこでは、「十八日、夕日に御注進」があったと云うのですから、清州に注進した後で佐久間大学や織田玄蕃が情報を手に入れたことになるからです。

ですから、障害になる怖れのある鷲津・丸根をそのままにして大高城への兵粮入れが行われた分けがないと考えることは間違いであるということになります。

では、何故それが間違いであるのかと言えば、

  1. 大高城へ兵粮を運ぶ道は丸根砦の下を通る大高道だけではないということでして、地元の伝承では木ノ山村を通って大高城に兵糧を入れたとしているからです。これは、『桶狭間合戦名残』といいまして、豊明市旧間米村で発見された写本で、豊明市史編纂室で保管するものだそうです。「神君様(が)兵米(を)御運びあそばされ候よし、その節、木之山村(大府市共和町)を御通り、兵糧を御運びあそばされよし申し伝え候、同村(には)開け城へ再度籠城あそばされ候よし伝えもあり。」とあります。
  2. また、松平勢が一千もいれば、丸根砦の兵力では鷲津砦からの応援を得たとしても、手出しなどは出来なかったかも知れないからです。砦の将兵たちは伏兵を恐れるからです。何しろ織田方は駿河勢が大軍であると信じているはずですから、迂闊に手を出すことはできなかったはずです。

ところで、この氷上砦正光寺砦は、どの軍記物にも見えないのですが、『張州雑志』と『尾州知多郡大高古城図』にその存在が紹介されています。但し、正光寺砦は『蓬左文庫桶狭間図』にみることができますから、桶狭間合戦に何等かの働きをしたことが考えられます。常識的にみても、大高城の東と南にも付城がなければ、効果的に大高城を封鎖することができず、伝えられるような城兵が飢えて、兵糧を搬入する必要も生じなかったものと思われるからです。 

<蓬左文庫桶狭間図を参照してください。最近、天理本・『信長公記』には「大高之南、大野・小河衆被置」という記載があることが紹介されました。 2007.7.11挿入

『豊明市史』によりますと、豊明市旧間米村で発見された写本に、年記や著者の記載のない『桶狭間合戦名残』なる研究書があり、現在は豊明市史編纂室で保管されているらしいのですが、その著者は『三河物語』の義元大物見の記事を受けて、「桶狭間前書きに、今川義元、五月十八日中島まで攻め来たり、扇川の汐高くして、其の日の軍は止とあり」と書き、義元の大物見は中嶋まで足を伸ばしていたとみています。………因みに、この日の満潮は午前八時廿四分2007.7.11、午前八時台に訂正します。海上保安庁のHPのソフトで算出しました)ですから、池鯉鮒を早朝に発って沓掛に着いた義元は、すかさず東海道を中島辺りに出陣したことになります。これが正しければ、今川義元は朝寝坊などではないことにもなります。

もう一つ重要なことを『三河物語』は教えてくれます。それは、義元自身が軍勢を陣頭指揮していることです。つまり、飾り物の総大将などではなく。義元自身が物見をしたうえで砦攻略を決定しているのです。それも、偵察したのは善照寺砦などだけではなく、中島砦から丸根・鷲津砦の全てなのです。このことは、二つの事を我々に教えます。一つは、義元の計画には鳴海城の後詰などは最初からなかったこと。もう一つは、義元自身が翌朝の丸根砦の攻城戦を督戦していた可能性があることです。それは、今後の三河経営において松平元康の器量を見極めるためでもあります。

ですから、『惣見記』に「今朝城攻めにも、松平元康朱具足の出で立ちにて真っ先を掛け、比類なき働きなり、義元これを感じ、元康毎日の働き神妙なり、今日は、大高の城に居住し、暫く昨今の疲労を休息せられよとて、元康を大高城へ遣わして、籠め置かる」とあるのも、いかにも元康の勇姿を本陣から実見したようでもあり、元康と直に対面して、城番として大高へ派遣しているようにも受け取れます。

従って、もしそうであるならば、駿河勢が大軍をもって大高城に入城したために、丸根・鷲津の織田方は手を出すこともできずに砦に籠っていたとも考えられます。そして、これらのことはみな、義元の実像を京被れの惰弱な政治家などではなく、少なくとも太原雪斎の薫陶を受けて、外交・調略に長けた戦国武将であったことを窺わせることになります。………しかし、彼の経歴をみますと、国主として軍勢をあちこちに向わせてはいますが、実際の戦闘を指揮したことなどはなさそうです。おそらく丸根・鷲津砦攻めが義元にとって殆ど始めての実戦なのではないでしょうか。

 

<十七日を軍事的に検証すると・・・>

さて、ここで通説のいう十七日と十八日の二日間にも渡って今川義元が沓掛城に宿営していたということについて、軍事的な妥当性を考えてみます。

確かに、一時は笠寺辺りまでが今川方の支配地域になっていましたが、当時は尾張をほぼ統一した信長によってかなり後退させられており、控えめに見ても沓掛辺りは紛争の対象地域だったと考えられます。例えば、『東照軍鑑』は、永禄二年四月廿六日に信長が平針(天白区)に出陣して、三河との国境福谷(三好町)に砦を構えて酒井忠次を配していた松平方と戦ったと伝えます。この時、信長自身は丹羽氏を牽制するため岩崎面を押さえ、柴田勝家・荒川新八郎らに福谷(ウキガイ)攻めをさせたが失敗したといいます。 <電子国土ポータルcyberjapan.jp北緯35°07′東経137°06′参照> また、『武辺咄聞書』ではこの年四月のこととする大高城兵糧入れも伝えています。つまり、大高城や鳴海城を封鎖するほど、信長の勢力は伸張していたわけです。

<2007・7.11挿入>  さらに、最近公表された天理本・『信長公記』に「大高之南、大野・小河衆被置」とあるなかの「大野衆」というものが、大野佐治氏寺本花井氏註 を指すものであるならば、知多半島はその付け根にあたる鳴海・大高を除いた全てが信長と同盟し、その勢力圏に入っていたことになります。

註 村木砦が攻略された際に帰路の信長に焼討されて落城したと家譜にあるというその場合には、信長の村木砦攻めは単に喉元に刺さった棘を抜いただけででなく、花井氏の背後にいた大野佐治氏の心胆を寒からしめたことになり、これによって佐治氏と緒川水野氏の同盟などを促進させたことを推測させる。(2008.1.19追加)

それも、今川義元が着々と西三河を領国化しつつあるなかでの寝返りになるわけです。これは重大なことです。佐治氏や花井氏はそれまで今川氏の親派でしたから、かれらが水野氏や荒尾氏との競合いのなかで、和解があったらしいことになるわけです。例えば、荒尾氏は当主の空善の許に娘婿として佐治宗貞の次男・善次が娘婿として養子に入っておりますし、『寛政譜』によりますと、弘治二年(1556)に空善が今川氏との戦いで戦死すると、信長の同意を得て荒尾家を継いだということがあるからです。

………しかし、疑問もあります。鯏浦の服部氏が廿艘ほどの兵船で大高河口に来襲しているにもかかわらず、伊勢湾東半に武威を張っていたと思われる大野水軍(?)は、これを阻止していないのです。さらに、渥美氏などは知多半島の南端・師崎を回って、佐治氏の目の前を通って兵粮を運んで元康に献じているのです。師崎には千賀氏が佐治氏の陣代として見張っていたのにです。 このように見てきますと、事は複雑です。どうも、知多半島の豪族らは半手を切っているように思えます。信長とも同盟しているようですが、駿河勢や松平勢との戦争に対しては、自らの領国が危機に晒されない限り、消極的な協力しかしなかったようにも思えます。そうでなければ、知多半島には海賊はいても水軍などはなかったのではないかということも考えなければなりません。

そう考えますと、天理本・『信長公記』にみえる「大野衆」も、その実態は荒尾家を継いだ大野善治が率いる荒尾衆のことであったとも考えられます。 その場合には、十七日に駿河勢先鋒が桶狭間に進出し、知多郡に働いたという記事もありますから、それを機に氷上砦や正光寺砦の荒尾衆・大野衆・水野衆らの将兵も開城して退きあげたものと考えることができます。我が身大事ですから………。

そこで、そのような状況をみた松平元康が、十八日に阿久比の坂部城で母・於大と面会したという話も、もともと親今川であった大野氏を調略するために、母の嫁ぎ先の久松氏を口説きに行ったと解釈することができます。彼等は、緒川の水野信元に押され放しでしたから、あくまで独立して生き残り地位を向上させるためには、三河松平氏と結ぶことは魅力的な選択肢であったはずです。その証拠に、大野佐治氏も緒川水野氏も「当主」が信長の軍に参陣するのは、信長が将軍義昭を得て大義名分を掲げて上洛を果たして以降のことだからです。 <挿入終り>

さらに、『西尾市史』によりますと、桶狭間合戦のあった永禄三年五月五日には、信長が吉良に出兵して付近を放火し、名刹実相寺も兵火で焼失させたということですから、沓掛城は付城こそつけられていないものの、織田方の善照寺砦や丹下砦へ約12kmしかはなれていない最前線であったことになります。ですから、沓掛城は決して安全な後方などではないのです。それに、『三河物語』によると一日先行していた先手諸勢の五月十六日の宿営地が矢作(岡崎市)・宇頭・今村・牛田・八橋そして最先端が池鯉鮒という具合に、東海道に沿って布陣したことわかっています。 

『日本戦史・桶狭間役』の考えでは、岡崎に一千名、来迎時城・牛田城・重原城・池鯉鮒・今岡に合わせて四千名の兵を控置したとしています。これでみますと北から沓掛城・今岡城・重原城と一直線上に並んでおり、これらが今川方の合戦前日の最前線であったと旧参謀本部は考えていたことになります。 

これをみますと、十七日の駿河勢の先手はほとんど前進していなかったことになりますから、先手の諸将は十七日に池鯉鮒に着いたその日の今川義元と会ったことになります。そして、『武功夜話』では、「佐々党は善光寺道に出て平針村に居陣」とか、「佐々内蔵之助(成政)と隼人(政次)殿は、先発して平針というところまで夜中に進出、前野長兵衛、稲田大八郎らは岩作の砦に止まっていたところ」と書いていますから、これを信じるならば、駿河勢は十八日の夜には平針方面には部隊を配備していなかったことになります。つまり、鳴海城は封鎖されていますから、沓掛城が駿河方の最前線になるわけです。註 此の続きは付録の「諜報戦」

で。………何を言いたいかといいますと、沓掛城も大高城と条件は同じだということです。沓掛城は後方地帯でも安全であったわけでもないのです。そこから考えますと、今川義元は合戦前日までの十七日には進軍を止めた先手に、そして翌日の十八日には全軍に、という具合に駿河軍の諸勢に対して尾張国の愛知・知多の両郡に対して「二日間の乱取り・刈働き」の実行を許可したとも考えることができます。これについては、『天白区の歴史』に、「島田山地蔵寺は永禄三年(1560)桶狭間の合戦の折この寺も焼かれている」と紹介しています。但し、最近では黒田日出男氏が乱取説を出していますから、これは十九日のことかもしれません。 

:この焼失について書かれた古文書は、現在名古屋市博物館が保管されているそうです。(今川義元の先鋒であった三河の岡崎軍が近郷沓掛の砦を攻略したときのことと取り違えているのかも知れません。 2007.7.25追加)  

乱取については一先ずおいて置いて、戦術的妥当性を検討してみますと、沓掛城に泊まった場合の義元は、最前線のそれも最右翼で織田方に露出した場所に着陣したことになります。これは、ちょっと考え難い行動です。よほど安全なら別ですが、通常は右翼は最も危険な位置だからです。 

因みに、古代ギリシャのファランクスでは、最右翼には「左側は手盾で護れても、自分の右半身を守ってくれる隣の兵士」は存在しないために、右縦列には最強の戦士を、右翼には最強の部隊を配置したうえで、これを援護するために若干の騎兵や軽装歩兵を配備するのが理想でした。

桶狭間の戦いでのこの状況は、姉川合戦のときの信長の布陣と似ていると河合秀郎氏はいわれます。氏の『日本戦史・戦国編・死闘七大決戦』には、「この(姉川合戦)ときの織田・徳川勢は、まるで桶狭間での今川勢のように分散し、しかも本陣を最前線に突出させたまま、朝倉・浅井勢に背を向けていた」とあります。卓見だと思います。尤も、氏がこれを「信長が意図的に朝倉・浅井連合軍を誘致するために採った囮作戦だ」ということについては、深読みしすぎだと思いますので組みしませんが。………桶狭間の今川義元も同じような過ちを犯したことになるわけです。(但し、小生は今川義元が沓掛に宿営したとは考えません。)

2008.07.10 挿入、後小松、後柏原、後奈良三帝の勅願道場として東海中本山として栄えた浄土宗玉松山裕福寺〈愛知郡東郷町春木字屋敷〉には、今川義元が桶狭間で戦死の前日に陣をとったという伝承があると『東郷町誌』はいうのですが、勅願寺であるから訪れたのであって、最前線に相当する地域でありながら防御に劣りますから、直近に沓掛城がある以上は宿営したとまでは断定できないと小生は思います。)

前野家文書『武功夜話』には、「十八日夜には卅有余人を尾三国境に派遣し、百余の佐々成政一党が信州道から裕福寺に出張した」「蜂須賀らは、裕福寺村長に同道し、百姓になりすまして街道筋で義元の通過を待った」とあります。

 

<なぜ前夜の信長は動かなかったのか>

さて、こうしてみますと、信長が義元の所在を正確に把握していたならば、義元が沓掛城を出陣して行軍しているところを襲撃することが最も良い作戦であることになります。後年の長久手合戦で徳川家康が中入した三好秀次の総勢二万人を撃破したようにです。

註 藤本正行氏は、「調略で奪われた鳴海・大高両城に付城で攻囲されたことにより、この事態を打開すべく義元が後詰したことによって生起した、当時としては平凡な群雄間のローカルな境界争いである。」とされ、信長の戦略は「西三河の経営に手を焼き、三国同盟が成ったとはいえ背後の不安な義元の弱みに付け込んで、戦局を膠着状態に持ち込むのが狙いであった。」とされている。そして、信長が善照寺に入り中島砦に進んだのを見れば、信長には自身の行動を秘匿するつもりはなかったし、十分な情報網を持っていなかったといわれながら、一方ではフロイスの「決断を秘し」という言葉を紹介し、信長は「敵の疲労を待って温存していた自軍の主力で叩こうとしていた」と見做している。そして、『信長公記』に記された信長の一連の行動から、信長は敵の動きを確認しながら行動した結果、ようやく前線について直接みた戦況を誤認したとされる。

しかし、『公記』のいう事実は逆のように思える。信長は最前線のはずの丸根・鷲津からの注進を確認しようとさえしていない。それなのに実際に攻撃されたという報告があって初めて、主従六騎・雑兵二百ばかりで慌てて飛び出している。これは、沓掛城へ善照寺砦から物見を出して駿河勢が出陣の支度をしているかどうかを確認した形跡がないことで分かる。兵を動員していないことを見ると、決心を秘匿したのではなく、決心ができなかったために、兵力を予定される戦場に広く分散配置したままであったことを疑うべきなのではないのか。ただそれが何れにせよ東部国境であることは間違いことであったため、敵の行動が鈍ければ比較的間に合って戦場に駆け付けることができるだろうという期待があったのではないのか。その傍証に天理本には「於是非国境にて可被遂(トグ)御一戦候、寄地へ被踏迯(ニゲ)候而(ソウロウテ)は有に無甲斐との御存分也。」という信長の思いが紹介されているし、『三河物語』は「引退く処に、信長は思いのままに駆けつけ給う。」としている。………とすると、家老衆が「各嘲弄して罷り帰られ候」とも、最早時間もない夜分に至って斥候を放ってその事実と義元の所在を確認したうえで、夜分に前線各地へ使者を派遣して動員したのでは、直卒の将校を減じるうえ参集するのに混乱するばかりであり、そこを西三河に義元の残置する駿河方に突かれることを恐れたからではないのだろうか。

そうだとしますと、もし信長が十七日に今川義元の所在を把握しており、十八日の時点でが沓掛城にいることを確認できたとしたならば、夜間であろうと沓掛城に向かって進発していたに違いありません。これは、後の信長の行動からみても確かなことだと思えます。それをしなかった時の信長には、他所に大敵がいて動けず、手元には兵力がなかったことが明らかです。例えば、戦力を集中できなかった岩村城の喪失や三方ケ原手取川での敗戦がその代表例です。

ですから、信長が沓掛城へ向けて即座に出陣しなかったのは、信長は駿河勢の侵攻については知っていても、義元本隊の所在については把握できておらず、そのような情報があっても信長はそれを信じていなかったのだと考えるべきだと小生は思うのです。………このことは、現在もて囃されている「織田信長が情報戦に優れていたことが桶狭間での勝因である」とする説は、全くの誤りであるということを意味します。勿論、信長が情報を軽視したということではありません。現に、『信長公記』には信玄が鷹狩での「鳥見の衆」のことを知って、「信長の武者を知られ候事、道理にて候よ」と言ったという噺が載っていますから、信長の索敵が疎かであったわけではないと思います。

一方、義元にとっての沓掛城は、翌朝に鳴海城を救出するために善照寺砦や丹下砦を攻撃する予定があるのでなければ、極めて不用心な宿営地であったということになります。義元本隊が大軍であれば問題はないのですが、とかく問題の多い『武功夜話』によると、佐々内蔵之助成政や隼人政次らが義元の右翼である平針裕福寺辺りで駿河勢と接触していないのですから、義元が沓掛城に宿営していた場合にはその直卒兵力には疑問が残ります。

以上のように、沓掛城は敵に暴露されている最前線であり、決して安全な後方などではないのです。

<この章のまとめ>

  1. 『信長公記』が「永禄三年五月十七日、今川義元沓懸へ参陣」と書くのは、駿河勢先手を義元本隊と誤認したものであることが考えられます。それは、後年の牛一によっても訂正されることはありませんでした。つまり、少なくと合戦当時の織田方は誰も「正確な義元の所在」を知らなかったということになります。その他の史料でも、五月十七日に今川義元が沓懸城に宿営したということは証明されておりません。ただ、沓懸(城とは限らない)へ立ち寄ったことは、諸書に一致した見解であることは変わりありません。
  2. 『三河物語』の記事は正しいものと考えられます。義元は十八日は大高城に入城していたことを否定できる証拠はありません。義元が丸一日を沓掛城などで、なにもしないで過したものとは思えないことからも、これは妥当なことだと思えます。
  3. 『信長公記』の記載するところを信じるならば、信長自身は翌朝の付け城攻撃の時に、義元自身がそれに参陣するものとは、信じられなかったものと思われます。

以上の三点を総合しますと、「信長の考える義元の目的」と「実際の義元の目的」とは、当初から「大幅なズレ」があったものと考えられます。その結果、信長は前線からの報告を信じられなかったのだと思われます。まして、その情報が敵方からのリークであったとしたならば、なおさら信じられなかったのではないのでしょうか。

ここで新たに生まれた課題は、今川義元が喫緊の課題とした「大高」とは、なぜそれほど重要であったかということです。そして、反対に信長は義元の目的を何故信じられなかったかということです。もうひとつは、丸根・鷲津の諸将は信長の御後詰が間に合わなかったにしても、何故玉砕したかということも疑問です。

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