<鷲津砦の問題>  (2007.9.25 加推敲)

 

<戦闘開始時刻の検証>

 『信長公記』には、「夜明け方に、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ(敵の)人数取りかけ候由、追々ご注進これあり」とあることを先に紹介しました。そこには「追々」とありますから、鷲津砦からの使者や、城外に打って出たことを知らせる使者などが複数あったものと思われます。

ところで、この文章から大まかにでも松平元康による戦闘開始時刻を知ることは可能でしょうか。

丸根砦と清須城の間は、五里十二町余といいますから約21kmです。これを時速18kmと仮定した伝騎で駆けた場合には、一時間強の70分程度で到着できたものと思われます。そして、「夜明け方」は一般的には午前5時から午前7時の間のことを言いますから、佐久間大学の使者はその70分前の午前3時50分から午前6時50分の間に丸根砦を出発したものと考えることができます。ですから、この時刻が丸根砦の監視兵が松平勢を発見した時刻であったということができます。しかし、それが大高城を出陣するところであったか、砦前に現れたときであったかは今は特定できません。

では、この三時間もに広がってしまった時刻をもう少し絞り込むことはできないでしょうか。

そこで、佐久間大学らが前日の内に仕入れた情報を手がかりにします。そこでは、駿河勢は「十九日朝ニ塩(潮)の満ち干を堪が(考)へ、取手(砦)を払ふべきの」計画をしていましたから、それに、陰暦五月十九日(陽暦6月22日)の「日の出」は4時38分であり、八六計算註 によれば名古屋港の干潮は3時12分であるという事実を考慮しまして、干潮を過ぎて満ち潮に反転したときを見計らって攻撃を開始したものとするならば、午前3時50分に攻撃を開始することが、使者が「夜明け方」に清洲につくために丸根砦を出発した時刻であったと考えることができます。

註 八六計算については、<第六章 桶狭間山の今川義元、第二項 八六計算>で説明しています。

(追加: 海上保安庁のHPにある潮汐情報・潮汐推算で名古屋港の永禄三年五月十九日の潮位を推計しましたところ、約一時間早く午前二時台に干潮が訪れることがわかりました。しかし、干満を考えて砦攻撃にかかったということについての影響を与えることは特にありません。 2007.7.12 )

(1)五月十八日、ユリウス暦6月11日毎時潮高(平均水面の季節変動を含む。)

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(2)五月十九日、ユリウス暦6月12日毎時潮高(平均水面の季節変動を含む。)

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1

2

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5

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9

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(cm)

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120

139

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前夜の内に兵糧を大高城に入れたとされる松平隊は、当然、大高城に泊まっていたはずですから、当日は大高城から出撃したはずです。そして、丸根砦との距離は僅かに800m程度しか離れていませんから、夜の明けぬうちの日常薄明註 に配備を終えて、夜の開けきらぬ前に攻撃を開始することを計画したと考えることが実際的であるように思えます。

註 日の出の空は少々薄暗くはありましても、屋外で明かりが必要なほど暗い状態ではありません。日の出前の空が薄明るい状態を「薄明」といっています。そうしますと、八六計算で算出した午前3時12分の干潮時刻頃に、信長の後詰がなかったことを確認したうえで、日常薄明のうちに丸根砦への攻撃の布陣を行い、日ノ出前の午前4時半頃を攻撃開始時刻とすることが、より実際的ではないかと考えたわけです。

もう一つ疑問があります。なぜ駿河勢は「塩(潮)の満ち干を堪が(考)へ」なければならないのでしょうか。………おそらく、大高川河口は干潮時には渡渉できたということなのでしょう。このことは案外見落とされていますが、単に信長が清洲から駆けつけるのに海岸沿いの道を通ることはそれ程重要な問題ではありません。三角形の二辺を通ったからといって、三十分ほどしか遠回りにはならないからです。    

詳しくは第十三章 行軍を考える 第一項 行軍速度を参照してください。

 

<朝比奈勢の出撃陣地は?>

前夜大高城に兵糧を入れた松平隊は大高城に泊まり、そこから出撃したものと仮定したのですが、では鷲津砦を攻めたといわれる朝比奈勢はどこから来たのでしょうか。朝比奈勢の場合も丸根を攻めた松平勢とほぼ同時刻に鷲津砦を攻めたといわれています。その場合、朝比奈勢が沓掛から来たとしたならば、どのような行程であったかを考えてみます。

これも攻撃開始時間の午前四時卅分頃になる日の出直前の時刻から遡って考えます。その場合、十七日から桶狭間に布陣していたとされる鷲津砦の手前約4kmにある瀬名陣所の辺りで武装を調えなければなりません。沓掛城から甲冑を着けて行軍したのでは、肝心の合戦時に披露してしまっているからです。というわけで、二千名の兵が時速4kmで行軍したとして、約八十分前の午前二時十分頃には瀬名陣所を出発する必要があります。すると、朝比奈勢が距離が7.15kmある沓掛城から瀬名陣所に来たものならば、約二時間前の午前0時頃には出発しなければならないことになります。さらに、旧参謀本部が考える三浦勢の三千名も考慮しますと、三浦勢が沓掛城以外の地に宿営していない限り、さらに廿五分強ほど早く出発する必要があります。

また、鷲津砦を攻めた朝比奈備中守や先鋒予備隊とされる三浦備後守の出陣時間を考えますと、大高城から丸根砦を攻めた松平隊が北進するのと、東進する朝比奈隊の“進撃路が暗夜の中で交差する”ことになります。そうすると、行軍に混乱をきたすことにもなりかねません。これでは、両砦攻撃計画の存在自体が疑われることにもなります。

これを避けるには、朝比奈隊が東海道を利用して鷲津砦の北から回りこんで、鷲津砦を西から攻撃する必要があります。その場合には、中島砦や善照寺砦の織田方に発見されますから、これまで考えた以上の早い時刻に、清洲に注進されたことになります。それだけでなく、織田勢が中島砦から後詰にでる用意があった場合には、行軍の横腹を襲撃されることにもなりかねませんから、そのときは駿河勢は松平勢なども各個に撃破されて、総崩れになる恐れが生じます。従って、朝比奈勢が暗夜の中を東海道を行軍することは考えられないことになります。このようですから、朝比奈勢もやはり当日の朝は大高城から出撃したと考えることが合理的だろうと思います。

さらに、稲垣史生氏の『戦国武家事典』などをみますと、軍隊の出撃準備には四時間注 もかかるようですから、実に前日の午後八時頃から太鼓に合わせて食事の準備などを初めていなければならないことになります。そうしますと、そのように深夜午前零時以前から騒然とし始めた状況のなかで、義元だけが床に就いていたとも思えなくなります。 

注 稲垣史生氏の「戦国武家事典」に、「一の鐘(一回目の鉦を合図)に諸軍(食事を)したため、二の鐘に武具を着よ、三の鐘に打ち立つべきと兼信出でらるるを催しを聞き」とか、「明日打ち立つには夜八つ(午前2時)太鼓をつきて、旗本、一番貝を吹き、これを聞きて総陣貝吹きおきて支度す。七つ(午前4時)太鼓に二番貝を吹き、総陣貝吹き食す。六つ(午前6時)太鼓に三番を吹き、総陣貝吹き打ち立つ」という例があるのをみますと、実に出立の四時間も前から準備を始めねばならなかったようです。

次に、駿河勢の中で本隊を率いていたはずの今川義元だけが、本当に皆から遅れて出陣したと考えることは、正しい仮定と言えるかを考えてみます。

義元出陣が遅くなる理由について考えられることは、近隣の村々から安堵の要請が、朝早くから沓掛城にひきも切らなかったことがあります。………しかしそれならば、これまで言われてきたような、行軍途上で付近の村民や寺社を安堵するのに長時間を費やしたということは、考え直さなければなりません。何故ならば、大体が沓掛から大高までの間で、当時の村というものは、阿野・大脇・桶狭間の三ケ村ぐらいしかなかったからです。彼等は、義元が十八日の一日を沓掛城ですごしたのなら、当然そこへご機嫌伺いをして、安堵を受けているはずだと小生は考えます。実際の安堵は沓掛城の城番であった浅井小四郎を仲介として受けたものでしょう。

また、義元は特に許された塗輿(『常山紀談』は網代輿であったといいます)に乗って移動したようですから、義元はその威容を村人に見せつけたかったに違いありません。………と、考えるならば、後世の参勤交代と同様に、村人に村口で出迎えさせようとしたかもしれません。いずれにせよ、義元の場合も朝比奈勢同様、前日は大高城に宿営して当日の朝は大高城から諸勢とともに出撃したと考えることが合理的だと小生は思います。

 

<鷲津砦からの眺望の検証>

多くの研究者は、鷲津砦からの眺望が善照寺砦を見通せることに苦慮しています。

もしこれが事実ならば、信長が善照寺砦に現れたときには、駿河勢がこれを見逃したはずがありません。その結果、これらの駿河勢は当然に織田勢を迎撃すべく、鳴海表の高所を占拠するために現・青山の高所に進出したに違いないのです。しかし、そのような事実はありませんでした。………そうしますと、普通の人なら駿河勢は既に撤兵しており、鷲津砦辺りにはいなかったと考えるのでしょうが、歴史家はそうは考えないようです。

歴史家は皆、何か駿河勢が信長を迎撃できなかった理由を考えるようです。その代表的?なものが小和田氏の冠水説陽動説です。その他に、「信長は既に降服していた」と主張して突然の雨で気が変わって裏切ったという説が八切止男氏で、偽文書行使の名人であった信長の欺瞞であったというのが明石散人氏です。また、朝比奈勢は信長の後を追おうとしたのだが、突然の豪雨で道路を奔流が走り不可能であったとするのがNHKの説です。

追加 そして最近では、黒田日出男氏が緒戦の勝利に有頂天になった駿河勢は、乱取りに夢中になっており、それに紛れて信長は襲撃できたという説を唱えられています。しかし、どの場合でも、合戦後に織田方の落ち武者狩に合わずに、どのようにして無事に戦場から離脱できたかについては、納得のいく説明はできてはいないようです。大高城に孤立した松平元康は、脱出に苦労しているのです。特に不思議なことは、朝比奈勢が大高城の松平勢と合流もせず、落武者狩にも遭わずに、駿河まで無事に帰還したことなのです。>

ところで、小和田哲夫氏は『桶狭間の戦い』で、「何せ、信長軍が中島砦に入っていく様子は、丸根砦・鷲巣砦からも望見できたからである」と書かれていますので、鷲津砦からの眺望を検証してみます。………善照寺砦の標高は21mあります。現在史跡として指定されている鷲津砦公園は、JR大高駅前の東、長寿寺の裏山にあり、標高25mあるのですが、背後には標高27mの山から続く尾根があるために、必ずしも北方の視界が開けていたわけではないように思えます。朝比奈勢が砦に幟をたてていれば、善照寺砦から辛うじて見えたかもしれないという程度でして、丸見えというわけではありません。『中世城館跡調査報告』でも、現況は明らかでないとしながらも、この史跡を鷲津砦としています。但し、『大高町誌』や旧参謀本部の桶狭間戦図では、蓬左文庫桶狭間図に描かれた位置関係から明忠院裏山に比定しています。ここは西方に岬のように張り出しており、当時の標高は不明ですが、現在でも30m超ありますから、善照寺砦への展望も効ききます。一方の丸根砦は、標高35mでありまして、途中に標高44.4mの山がありますから、善照寺砦からは恐らく見えなかったものと思います。これらのことは、「電子国土ポータル」で確認してみてください。 こちらからどうぞcyberjapan.jp(北緯35°04′16″東経136°56′32″)

以上のことからみますと、鷲津からの眺望はやはり小和田氏の言われる通りであり、織田勢が善照寺砦に出現したときに鷲津砦に駿河勢が屯していたならば、当然にこれを発見していたはずです。そして、発見した以上は対策を講じたと考えねばなりません。義元の本陣よりも自分たちの方が危ない状況にあるからです。そのように考えますと、やはり朝比奈勢らは既に鷲津砦を引き払っており、鷲津にはいなかったと考えるべきであり、本陣が集中豪雨に見舞われる以前に、朝比奈勢らは桶狭間辺りから遠く離れていたとしか考えられないことになります。

この仮説を補強するのは、駿河勢の先鋒は駿府を発って以来、常に本隊の二日前を先行して行軍しており、常に単独行動をとっていた事実があります。このようであっても、駿河勢が大軍であれば、義元本隊が敵との最前線に置き去りにされても何も問題は生じないものと思われます。その場合、朝比奈勢の西三河帰還経路は、大高〜大脇道を通るか東海道を利用するしかないのですが、巧く調整しないと大高城へ向っているとされる義元一行と克ち合う恐れがでてきます。

また、通説のように義元が大高に向っている場合には、朝比奈勢が義元本隊と合流するために桶狭間に移動したということは、桶狭間まで出掛けて行ってそこで昼食をとり、またそこから大高に戻らなければならなくなるため、合理的な行動とは見做せません。誰も意味も無く桶狭間と大高のあいだを一日に二度も往復したがりはしないだろうと思われるからです。

最近の黒田日出男氏による「乱捕り」に夢中になっていたという説の場合も、朝比奈勢が、どのようにして無事に西三河に帰ったが問題になります。

ところで、『信長公記』は固有名詞のない桶狭間山については、“桶狭間村方面にある山“という意味で山名を書いているようですが、朝比奈勢が目前の山に布陣していたならば、当然その「山の名」も記したはずだと思うのです。しかし、山の名はおろかその存在すら話題にされていないのです。特に、鷲津砦のある山、平部山や諏訪山などは当時から小川道が通い、諏訪神社があったらしいのですから、何等かの「山の名」を記載してもよいはずだと思うのです。しかし、それがありません。それどころか、桶狭間襲撃の前に戦われた千秋・佐々らの前哨戦についても、それが何処であったかを具体的に書いてはいないのです。但し、信長と義元の双方から観戦できた場所であったらしいことだけはわかります。『信長公記』が示唆するのは、義元も信長も高所にある自軍陣地に居たらしいことだけなのです。

『信長公記』がこのように前哨戦の合戦場所を書かなかった理由には、牛一はあえて記さなかったという場合が考えられます。

一つは、それが小規模なものでしかなく、桶狭間合戦での一挿話に過ぎないものであったうえ、合戦が目前で展開したという意味で、自明の場所であった場合がそれです。そうした場合には、朝比奈勢が信長の目前に居た可能性があります。つまり、鷲津砦を落とした朝比奈勢が、織田勢の眼前に布陣していたうえ佐々・千秋らを一蹴した後に、桶狭間に向けて信長らの目前を悠々と撤退して行った場合です。その場合には、誰もが周知している事実ですから、牛一も記録に残さなかったと考えられる可能性があります。このような場合には、信長が善照寺砦を出て中嶋砦に移る間に、駿河勢が目前からいなくならねばならないのですが、それでも敵が目前から居なくなるのですから、背後を衝かれる心配などはしなくても済み、信長が言うように桶狭間で休息する駿河勢は朝からの合戦に疲れた労兵に違いないといえるのです。そうすれば、何の根拠もなく、信長の誤認だと決め付ける必要もありません。

鷲津砦に駿河勢がいない理由に、もう一つ考えられることは、朝比奈勢が大高城から南に進んで氷上砦を攻撃しに出かけた場合があります。 

因みに、この砦は『張州雑志』『尾州知多郡大高古城図』『蓬左文庫桶狭間図』によってでしか知ることのできないものですが戦術上は絶対に不可欠であった砦なのです。これがなければ、大高城は飢えることはないからです。 (2007.7.12 追加:天理本・『信長公記』にもそれを窺わせる記述があります。) 

鷲津砦の攻撃を終えて一息ついた朝比奈勢が、付城として存在したかも知れない氷上砦を攻略し、知多郡の名和辺りまで略奪に出かけることは、考えられなくもありません。ただし、ここでも問題は如何にして彼らが落ち武者狩から逃れて、駿河へ帰還したかということにあります。

ところで、信長も村木砦を義元に作られた時には、それを奪回して水野氏を救援するために荒天の中を出陣して火のように烈しく攻め立てたのですが、大高城に対しては付城を置いただけなのです。それも城の北側の大高川を隔てたところだけに築いているのです。海や川が近い大高城を封鎖するためには南側にも付城が必要なのです。不思議なことです。<追加 天理本には「大高之南、大野・小河衆被置」とあるようです。>

 

<三河物語>

ところで、駿河側から桶狭間合戦をみた史料としては、唯一つ『三河物語』があります。それには、「次郎三郎様を置き奉りて、引退く処に、信長は思いのままに駆けつけ給う」とあるのですが、この「引退く処」という語の主語を、先鋒の朝比奈勢ととるか、義元本隊と解釈するかによって事実は異なることになります。

例えば主語が朝比奈勢であるならば、彼等は戦場から西三河に引揚げる途中だったのかもしれませんし、主語が義元本隊である場合でも、義元は元康や朝比奈らと鷲津の戦場にいてそこから西三河に向かって引上げる途中であったかも知れないからです。そして、この咄は黒田日出男氏による「乱捕り中」の部隊を監督していた指揮官の話かも知れないわけです。

このように、『三河物語』も重大な問題を提起しています。それは、十九日の義元は何処から来たか。十八日の夜は何処に宿営したかという問題です。ところが、これまでの歴史家を始め多くの研究者は、『信長公記』も『三河物語』も無視してしまい、「鷲津砦」の駿河勢の存在については敢えて触れずにきているのです。その理由は、「鷲津砦」に駿河勢存在した場合には、信長を攻撃しなかったか理由を追求され、存在しなかったとすればその駿河勢が何処で何をしていたかを追求されて返答に窮することを避けたいからです。

そのために通説では、「鷲津砦」には朝比奈勢がいたことにして、逆に信長の背後を襲えない様々な理由を提案しています。先にも記しましたように、その代表的なものには「冠水説」「陽動説」「謀略説」などがあり、最近では「乱取り説」も加わりました。何れにせよ、義元の前日の所在と、朝比奈勢の桶狭間合戦時の所在について明快な説明が得られない限り、桶狭間合戦は永久に理解の外でしょうし、戦史として後代に資することはないものと思われます。

注)『三河物語』には「義元は池リフ寄、段々に押て大高え行、棒山之取手をつくつくとジュンケンして、」とありますが、ここにいう「棒山之取手」を丸根砦と比定される方もいるようですが、それを証明する史料を未だ知りません。おそらく「棒」は「」であり、名前のない丘陵ではないかと小生は考えます。つまり、鷲津砦や丸根砦のある名のない山ということでしょう。

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