<信長出陣における問題>   (2007.9.25 加推敲)

 

<熱田までの「一時」の検証>

 さて、前線の付け城が攻撃を受けたと知らされた信長について、『信長公記』は、

此時、信長、敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ具足よこせと仰せられ、御物具召され、立ちながら御食を参り、御甲(兜)をめし候て、御出陣なさる。其の時の御伴には御小姓衆、岩室長門守・長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨守・加藤弥三郎、是等主従六騎、熱田まで、三里一時に駆させられ、辰の尅(午前八時)に源太夫殿宮(上知我麻神社)の前より東をご覧じ候へば、鷲津・丸根(の両砦は)落去と覚しくて、煙上り候。此の時、(従う者は)馬上六騎、雑兵弐百計なり

と伝えています。

信長は「主従六騎」で出陣しており、桶狭間の戦いには「家老衆註 という言葉はみえますが、その当時の尾張では大物であったと思われる那古野城を預かるオトナの林秀貞や柴田勝家、佐久間守次、守山城主の織田信次、織田信広、北伊勢方面の調略を担当していたと思われる滝川一益らの名前はいっさい出てきません。 

  1. 註−1 {2007・9・25 天理本信長記には、善照寺砦でに御家臣之林(秀貞?)・平手(監物?)・池田(恒興)・長谷川(丹波守)・花井(三河守?)・蜂屋(頼隆)らがいたといいます。} 
  2. 註−2 『信長公記』では「長」のほかに桶狭間の戦いまでに、「年寄衆」と「家老の衆」、「御馬廻」、「御小姓歴々衆」が出てきます。「オトナ」は家宰の長であり「年寄衆」は信長の親族(連枝)であるならば、「家老衆」は被官たちの頭役=侍大将や足軽大将のように思えます。「年寄衆」が重役ならば「家老衆」は部長の感じがします。後世の江戸幕府の老中などとは違うように感じます。なぜなら、「一長の林新五郎、その弟美作守兄弟、不足を申し立て、林ノ与力あらごの前田与十郎城へ罷り退き候。御家老の衆、いかが御座候はんと申しへどもも、左候へども、苦しからざるの由、上総介仰せられ候て、御働き。」とあって、オトナと家老は別のものであることが分かるからです。(2007.12.21 挿入)

なかには、これを信長が家臣たちに有無を言わさず出陣させるためにとった演出であったとされる研究者もいますが、それならば、道中をのんびり行軍などせずに、熱田で諸将の参着を待つのが道理でしょうし、だらだら行軍したならば兵士達に戦意を疑わせることになり、逆に士気を落としてしまっただろうと思います。

それに、芝居をうった割りには重臣たちの名前がみえないのです。『信長公記』が記載しないのは、彼等が桶狭間合戦には参加していなかったからだと思うべきなのではないでしょうか。そして、そのことが合戦後に彼等の地位を低下させ、信長に口応えを出来なくさせた原因であると考えるのが合理的だと小生には思えるのです。

註:『天理本信長記』の記す交名が正しいとした場合には他の諸本に彼等の名前が欠ける理由をどのように解釈したらよいのでしょうか。なぜ、首巻には一貫してかれらの交名が欠けるのでしょうか?

小生には、信長が芝居をうったようにはとても思えません。確かに、信長の一生は謀略や裏切りに満ちていますが、それは政治上の事です。信長は、こと戦術としては終生そのような小手先の演技をしたことはないと思います。常に、敵に優大軍を集めて正攻法で攻撃しています。敵が出撃しなければ、一大土木工事をおこして付け城を築き、鹿垣や柵を結い回し、堀をほりそれで土塁を築いて敵を封じ込めています。これは秀吉や家康(小牧合戦)にも引き継がれて更に大掛りに発展させられた戦法です。迂回や奇襲や伏兵などの策を弄したことは一度もないのではないかと思います。

信長は、調略が不調に終わり、いざ戦闘というときにとる戦法は極めて単純であったと思います。それは、素早い決断で、近侍する精鋭の小姓・馬廻を率いて突撃する。これだけです。後年、朝倉勢を追撃したときには、配下の武将たちが指示に従わないときでも、彼らの参集を何時までもぐずぐず待っていたりしていません。註 ですから、桶狭間でも出陣する以上は、行軍に時間をかけたりするはずがありません。先んずれば人を制すです。

註 『信長公記』大筒・丁野攻破らるるの事「然らば、信長御諚には、(大嶽・丁野の要害が落ちた今)必定、今夜(余湖・大本・田部山に布陣する)朝倉左京大夫退散すべく候。(このとき)先手に差し向けた候衆、佐久間右衛門(中略)此の外歴カの諸卒、爰を逃がし候はぬ様に覚悟仕るべきの旨、再往再三仰せ遣はさる。其の上、御いらでなされ、十三日夜中に越前衆陣所へ、信長又、御先懸なされ、懸け付けられ候。然れども、度々仰せ遣はさ候御先陣に差し向け候衆、油断候て、信長の御先懸なされ候を、承り候て、御跡へ参られ候。(そして)地蔵山(滋賀県木之本町内)を越え候て、(信長公に)御目にかかり候へば、数度仰せ含められ候に、見合わせ候段、各手前(自分達に)の比(あわせ)興(おこなふ)、曲(よこしま)事の申、御諚候ところに、信長へ越され申し、面目も御座なきの旨、滝川、柴田、丹羽、蜂屋、羽柴、稲葉、初めとして、謹んで申し上げ候。」

ところで本題の「熱田まで三里一時」ですが、これは「二時間」でしょうか、それともチョットの間なのでしょうか。

常識的に考えれば、三里を二時間というのは時速6kmになりますから、甲冑を着て駆けたものとしては妥当な速度ではないでしょうか。現に、その後熱田で兵を集めた信長は、丹下までを揉みに揉んで駆けていると牛一は記しています。ですから、清洲からの「一時」はどちらにしろ短時間のことと思います。通説がいうように、嫌がる国人衆を戦場に引っ張りだすためにノロノロしていたはずがありません。昔、村木砦を攻めたときなどは、異論を唱えて出陣を拒否したオトナ・林秀貞などは、放っておいて出陣した信長なのですから。

これとは反対に、清須城をたった六騎で駆け出しながら、三里ばかりしかない道程を四時間もかけたと主張されるのが『桶狭間の戦い』の小和田哲夫氏です。馬で行きながら時速3kmというのは、通常の歩兵の行軍速度である時速4kmよりも遅いものです。これは論外の想定ではないでしょうか。………何故、小和田氏は信長にそのような時間をかけさせねばならないのでしょうか。その結果、熱田に随伴できた兵士は二百名にしかなっていないのです。それならば、焦って清須城を飛び出したりせずに、城で将兵の集合を二時間待ってもよかったはずですし、熱田で待ってもよかったのです。熱田からの信長は、一里25町余(7km)を騎馬で揉みに揉んで駆けているのです。

小和田氏は、その理由を「嫌がる家老衆を無理やり戦場に連れ出すため」と考えておられますが、果たしてそういえるでしょうか。村木砦を攻めたときの信長は、不服を唱える林秀貞になどには構わずに強風のなかを熱田から出航しているのです。その結果が、熱田に到着した信長に追いついたのが雑兵弐百計なのです。何とも締らない話しではありませんか。それでも熱田で待っていると、諸方から集まって総勢がたった二千だといいますから、清洲城の家老衆相手の演技は役に立たなかったものと思われます。それとも、最近紹介された天理本では、前夜に軍議があったうえ、善照寺砦を出撃する場には御家臣の林(秀貞)・平手(監物)・池田(恒興)・長谷川(丹波守)・花井(三河守)・蜂屋(頼隆)がいたと云うのですから、家老衆が必死になって諸方に働きかけたから二千人も集まったのだと強弁されるのでしょうか。………いずれにせよ、前夜に至ってまで清州にしかるべき人数を集め得ずに、出撃か籠城かを議論していたというのでは信長のカリスマ性を疑われます。

 

<馬上六騎、雑兵弐百計>

では、「雑兵弐百計」しか清洲から付き従えなかったということは何を意味するのでしょうか。桐野作人氏などは信長の一騎駆けや前夜に軍議を開かなかったことをもって軍事カリスマの証としているのですが?雑兵二百にしか支持を受けなかった信長が軍事カリスマ………?

この一事を、藤本正行氏は信長の勝因としてあげておられますが、氏が「信長が(丸根鷲津の砦で)戦闘開始まで、主力(を温存して、彼等)とともに清須城にいた」とされる事は、明らかに氏が一級史料とされる『信長公記』が「雑兵弐百計」と書くのを無視したものですから、藤本氏の事実誤認だと思われます。軍記物も熱田で待つ信長の下に一千人ほどが集まったとしていますから、主力が清洲にいたはずがありません。………尤も、藤本氏のいう「主力」の意味が、それまでに度々記載されている「究竟の度々の覚えの侍衆七、八百」を意味するのであるならば問題はないでしょう。但し、彼等は清洲城下に「甍を並べていた」のではなく、清洲城に通勤していたことになります。また、尾張一国をほぼ統一し終えたはずなのに、その結果としての国人・地侍の参加がなかったことになります。

 閉話休題 <城下集住>

『信長公記』には、「究竟の度々の覚えの侍衆(が)七、八百、甍を並べ御座候の間」といいいまして、馬廻が清須城下に集住していたとされる向きもありますが、それにしては雑兵二百計といいますから、小生は馬廻ともいうべき輩は、桶狭間合戦当事には清洲城下に居住してなどはいなかったものと思います。おそらく、城下集住は小牧山築城からのことなのではないのでしょうか。

逆に、すでに善照寺砦などの前線に信長軍の主力がいたとされるのは藤井尚夫氏です。しかし、信長の主力兵力をどれほどに見積もられるのでしょうか?どんなに少なく見積もっても善照寺砦に残した千人と信長が自ら率いた二千人の合計三千人はいたことになりますが、これだけの兵力を集められるのであれば、八百人程度の兵力と推定される鳴海城は義元の出陣以前に攻略できそうなものですし、丸根・鷲津砦の守備兵を全滅させる必要などないはずです。そう考えますと、信長が事前に主力を前線に集結させており、自身だけが二百ばかりの雑兵どもと幾人かの家老衆ばかりで清洲城にいたという考えには賛成できません。

当然、主要な国人の所へは使者もたてたかもしれませんが、触れ太鼓・法螺貝が鳴った場合に熱田に参陣することは、既定のことであったと考えることもできます。何故なら、常識的にも義元が鳴海城を救出することに成功したならば、次の防衛線は戦略拠点の商業都市で門前町でもある熱田湊だからですし、戦術上でも鳴海から一里程度のところにある熱田は、戦闘準備のためにここで武装し、火縄に点火をするにはしているからでもあります。また、現代の大使館付き武官のように、出仕していた家族から集合地について知らせを受けたのかもしれません。

『尾張志』が、「諸勢は、用意次第、早々、熱田へ馳せ來れといひ捨て、清須の城を出らる」といいますのも、城中の将兵に言ったのではなく、各方面へ飛ばした伝令にそのように伝えるように命令したものと思われます。「用意次第」も何も、敵が間近に迫っているのですから、城中の者も城下の者も皆、鎧を脱いで寝てなどはいなかったでしょうし、少なくとも小具足姿で仮眠していたものと考えるからです。それなのに主従六騎に雑兵二百人なのです。

通常の場合の将兵の呼集方法では、寄子に寄親の城館に登城させることを意味します。平時には彼等は輪番制で城中(寄親の城館)に出仕していたらしいのですが、多くは通いであったようです。何しろ出勤時間も退出時刻も定められているわけではありませんから。また、輪番制で寄親が清州に出仕する場合にも、寄子を率いて来てはいなかったようですし、重臣らは城下に屋敷を構えて、自領との間で二重の生活をしながら出仕したようです。

信長の場合は定かではありませんが、当時の他家の定めでは、法螺貝による城中への集合の知らせの前には、太鼓を打って武装して待機することを指示しておき、その前の鐘によって兵粮を準備しておくようにさせ、さらにその前に法螺貝・太鼓・鐘を鳴らすことによって「耕地より直ちにあがる」ようにさせたのだといいます。ですから、当時の将兵の動員は、寄親単位で行われていましたから、事前に籠城と決めていない限りは、清須城下には全軍が終結していたわけではないようです。

勿論、今回の場合は、臨戦態勢ですから重臣は寄子も率いて来ているのでしょうが、それでも信長の出陣に際して、つき従った者が雑兵二百計というのでは、多くの武将たちはそれぞれ各所に派遣されていたのか、それぞれの寄親の城砦・城館に集合して、清須の法螺貝が聞こえるのを待っていたのかだと思います。問題の多い『武功夜話』でも、桶狭間合戦ではありませんが、於久地城攻めの時には生駒屋敷に詰めて、信長からの出陣の触れを待っている様子が紹介されています。

 そうだとして、未だ城下集住ができていなかったとしたならば、信長に随伴したものが雑兵ばかりであっても仕方がないのかもしれません。それでもそれが二百程度というのは、正徳寺で山城道三と会見したときの、総勢一千人の足軽というのは、信長の主力全軍であったように思われますから、桶狭間合戦当時、付け城に馬廻や足軽を貼り付けていたとしたならば、真実の常備兵力であったと考えるべきなのかもしれないのです。

 

<辰の尅>

辰の尅」には、午前七時から午前九時という幅がありますから、信長の清洲出陣時刻は午前五時から午前七時の間であったということになります。前章で、午前三時五十分に使者が丸根を出て午前五時に清洲に駆け込んだものと想定していましたから、問題はありません。あとは、信長の出陣仕度にどれだけの時間をとるかです。

ところで、この「辰の尅」は両砦が焼けていたことが判る時刻です。おそらく砦が陥落した時刻はそれよりも前になるでしょう。攻防中の出火は守備側が消火に努めるでしょうから、それほど盛大な黒煙は上がらないでしょう。また、丸根砦の佐久間大学らは城外へ出撃していますから、当然に炎上したのは砦陥落後のことです。そして、たとえ激戦であったとしても決着は早く着いていたと考えられますから、信長が見たのは、少なくとも丸根砦の焼ける煙であることは間違いありません。それに、熱田の浜からならば、海上5.5km程しかない鷲津砦は十分に見えますので、『信長公記』の記戴は間違っていないものと思います。

この「辰の尅」という時刻は非常に重要な時刻です。なぜなら、鷲津砦を攻略した駿河勢がいつまでも鷲津の辺りにいては、戦術上の責任問題が生じるからです。どのような責任かといいますと、鷲津砦からは善照寺砦が望見できるからです。そうしますと、信長が参陣して桶狭間山に向かったときに、その背後を襲わなかった怠慢により、総大将の御館様を討死させてしまったという責任です。ですから、駿河勢は信長が善照寺砦に参陣する前に鷲津から撤兵していてくれなくてはならないのです。

従って、丸根・鷲津両砦の陥落した時刻は、遅くとも『信長公記』の記す辰の尅」以前でなければなりません。『信長公記』では、信長が熱田に着いたのが「辰の尅」であるとは言ってはいませんし、この時刻に砦が燃え始めたと言っているわけでもありません。信長は「辰の尅」以前に熱田・旗屋口に到着しており、「辰の尅」に境内の南西隅にある源太夫殿の宮の前にまで行って望見した事実を述べているだけでなのです。そこでは、東方に煙が上がっていただけでなのです。それは一筋とも二筋とも書いていません。つまり、「辰の尅」以前に砦が陥落したであろうという事実があるだけなのです。このことは、「一刻」(二時間)という幅のある時間のなかで、砦の落去時刻を卅分ほど繰り上げたとしても、攻城戦に要した時間がそれだけ縮まるだけですから、極端に短い戦闘時間にならない限り、特別な不合理も不都合も生じないものと思われます。

ところで、『信長公記』には、桶狭間合戦に関して明確な時刻の記載があるのは三箇所しかありません。

  1. 辰の尅(午前七〜九時)に源太夫殿宮(上知我麻神社)の前より」と、
  2. 五月十九日、午刻(午前十一〜午後一時)、(義元は)戌亥に向って人数を備へ」と、
  3. 未の刻(午後一〜午後三時)、東へ向かって懸かり給ふ」の三つです。

従って、この三つの時刻を基準にする必要があるのですが、これらの時刻は夫々二時間の幅を持っているという問題があります。

先ず「辰の尅」ですが、これは午前七〜九時の幅をもっており、早い時刻に仮定すれば、それだけ義元が桶狭間山に滞在する時間が長くなり、遅い時刻に仮定すれば、急いていたはずの信長の行程を説明し難くします。

 

<方角の問題>

もう一つ問題があります。

藤本正行氏は、「牛一は地理描写に常に気を配っているから、(中略)ようするに牛一は徳川軍を含む織田軍全体ではなく、信長を中心とする織田軍主力の戦った方向をあげているのである」といわれます。ところが、どうにも腑に落ちない方角が、この熱田からみた鷲津砦・丸根砦の方角です。地図をみればわかりますが、鷲津砦は熱田から南南東にあたります。東とはとてもいえません。源太夫殿宮からみた「」のカバーする範囲は広すぎます。北を向いて右手を全て東と見ているように思えるからです。そうなりますと、藤本正行氏の唱えられた「正面強襲説」も怪しいものになってきます。

『信長公記』桶狭間合戦の段には、この他、三箇所に方角の記載があります。

  1. 午刻、戌亥(北西)に向って人数を備へ」と、
  2. 雨にへ降り倒る々」と、
  3. へ向かって懸かり給ふ」です。

このように漠然と「」と書いたところが三箇所と、正確に表そうとしたのか十二支で「戌亥」と表示したところが一箇所あります。これは困ったことになります。信長勢が義元旗本に切掛った方角の「東」も曖昧なものになってしまうからです。信長からみて東であるとしても、中島砦からみたらどの程度東なのかが問題になるからです。何しろ『信長公記』は信長が山際に行ったところまでしか書いていないのですから。………問題は、信長が山際から何処へ前進したかによって、そこからみた東が変わってしまうことです。これは、逆にいうと義元の所在を決めてその西に信長がいたとすることと同じですが、どちらの場合も同様に困難なものになります。

(2008.08.14 追加) 桶狭間村の周辺では深田のある地域は限られていますから、西方の中島砦から東海道を進撃した信長がその深田に阻まれずに義元本陣(塗輿を放置した場所)に突入したということは、信長は義元本陣の直近ではその西方から攻撃したのではないことになるはずです。地形から見れば北方または東方から攻撃するしかありません。………このことは、信長は中島砦から見たならば全体的には東方に進撃して義元を討ち取ったということは正しい理解なのですが、『公記』が態々「東へ向かって懸かり給ふ」と書くのには意味があり、信長が塗輿を発見しただろう場所からそう離れていない地点から見て東方に義元を発見したということになりますから、信長はそこで討ち入った方角から方向転換して東方に向けて攻撃を再開したと理解する必要があります。牛一の地理描写が正確であるならば、そのように理解することにならざるを得ません。

(2008.08.21 追加) 本日、図書館で桐野作人氏の『信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ/歴史読本』連載第9回(2008年9月号)を拝読しましたところ、「『信長公記』首巻の東へ向かっての振りかかったという急雨は、どうも不自然ではないか。今川方が中島砦方面を志向していれば、北を向いていたはずで、急雨は北から南に降ったほうが自然である。(中略)首巻に三ヶ所でてくる東はいずれも南だと解釈した方が自然だろう。熱田神宮から見て、鷲津・丸根は明らかに南の方角である。」とされ、さらには「今川義元がどこから敗走したかにもよるが、本陣が漆山だったら、敗走する方向は南でなければならない。一方、桶狭間山に本陣があったとすれば、信長勢がその西にいたとはとても地勢的にありえない。これも南へ向かって攻めたほうが合理的である。」と言われます。

しかし、この議論の問題は当時の街道を桐野氏が全く理解されていないことにあります。まず、当時のメイン海道は鎌倉往還ですが、東海道も利用され始めてはいました。しかし、軍記物の多くが東海道は「間道」扱いにしてしまっていますように、大軍が利用するためには狭く整備も不良であったことは、家康らも東海道を遅くまで使用していないことから窺えます。それに反して、桶狭間合戦に関係した地方道で最も重要なのが鳴海〜桶狭間道であり、鎌研・祇園寺の辺りから長坂を登り高根・幕山辺りで峠超えをして桶狭間村に入る道があったことです。このことは、桶狭間村の山に義元本陣があったならば、義元勢は必ずや『信長公記』の言うように西北に向けて備えをたてたことは確実であり、絶対に北方に向けて備えるなどということがなかったであろうことを意味しています。桶狭間の義元本陣にとっては、北方の東海道方向から来襲する敵は脇備えが之にあたったはずなのです。何故ならば、桶狭間村に入る道は鳴海道しかなく、これは鎌研から来るしかないからなのです。

東海道から桶狭間村に通じる道路は、鳴海道この一本しかなかったことを認識しなければなりません。とにかく当時は有松村も落合村も間米村もなかったのですから。村がなければ人も通わず、人が通らなければ道は通いません。江戸期以降に東海道に強制的に村が作られ、開発が進んだ時代の絵図や現代の道路から桶狭間合戦を想像してはいけないのです。ですから、今川方が中島砦方面を志向していようとも、北を向いていたはずはなく、牛一の記述の方が正しいのです。

風雨が北から南に降りかかった場合に矛盾が生じることを桐野氏は見逃しています。桐野氏は、「本陣が漆山だったら、敗走する方向は南でなければならない。」と云われますが、南に逃れたならば、小川道によって大高城に騎馬で駆けこむことは非常に簡単なことであったはずですし、南には深田はありませんから敗残兵が『信長公記』の書くような様を呈するはずはありません。一方、「桶狭間山に本陣があったとすれば、信長勢がその西にいたとはとても地勢的にありえない」とも言われるのですが、東海道が間道であれば、桶狭間山の西北の鎌研辺りが山際になりますから、『信長公記』の記述によくマッチすると言った方がよいのではないでしょうか。この点については、小生の推理の続きを読み進んでもらえば明らかになるはずです。

牛一の記述で問題になるのは最初に指摘しましたように、「鷲津・丸根砦は、熱田神宮から見て東というよりは、明らかに南の方角と云った方がよい所にある」ことなのですが、『信長公記』を一級史料として認めて之を活用するには、闇雲にその記述を否定してはならないはずです。従って、この問題の解決には(1)牛一の自筆本で東が写し間違いなどであり、正しく南に書かれている自筆本が発見されることか、(2)山際にいた信長が義元を東に発見した場所までの移動経路を矛盾なく説明できることの何れかが必要になるものと思います。………小生の場合は、(2)の方法を採ることを「桶狭間の戦場を復元する」章で試みることにしまして、『公記』の誤記の可能性は最後まで保留したいと思います。

  1. 『総見記(織田軍記・1702)』「熱田大明神の旗屋口に着かせ給えば、諸勢方々より駆け参じて、はや千騎ばかりになりぬ」
  2. 『伊束法師物語』「旗谷口にては方々より馳せ加えて、壱千余騎とぞ覚へける」
  3. 『武功夜話』「祈願している間に一千騎に膨れ上がった」
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