<桶狭間山での今川義元問題>  (2007.9.30 加推敲)

ここでのテーマは、信長が善照寺砦に参陣したときの今川義元の動向です。 

『信長公記』には、「浜手より御出候へば、程近く候へども、塩(潮)満ち差しいり、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ(上手の)道を、もみにもんで懸(駆)けさせられ、先(まず)、丹下の御取手(砦)へお出で候て、夫より善照寺、佐久間(大学)居陣の取手へお出であって、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体(戦況を)御覧じ、御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、五月十九日、午刻(正午)、(義元は)戌亥(北西)に向って人数を備へ、鷲津・丸根(を)攻め落とし、この上もない満足これに過ぐべからざるの由にて、謡いを三番謡はせられたる由に候」とあります。

<満潮になる時刻について>

桶狭間山の義元に行く前に、潮の干満という問題をとりあげます。なぜ、牛一は殊更に潮の満ち干をいうのでしょうか。

浜手より御出候へば、程近く候へども、塩(潮)満ち差しいり、御馬の通ひ是れなく」というのは、五月十九日(中潮)の干潮時刻は、(19−15)×0.8=3.2 という八六計算により、午前三時十二分でしたから、その約十二時間後の午後三時十二分が次の干潮と推定できます。従って、am3:12+6.13≒午前九時廿五分が満潮になります。(2007.7.19、海上保安庁のHPにより推計しますと、八六計算よりは一時間ほど早くなり、干潮は午前二時台、満潮は午前八時台になるようです。)

ユリウス暦6月12日(グリゴリオ暦6月22日)毎時潮高

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218

200

熱田と善照寺砦間の一里廿五町余(約7km)ですから、辰の尅(午前七〜九時)に源太夫殿宮(上知我麻神社)の前から信長がみた伊勢湾は、ちょうど満潮の時間帯に当たっていたことになります。<江戸期熱田神宮配置図掲載予定

ところで、牛一がその『信長公記』で態々、満潮で「御馬の通ひ是れなく」というのは、浜手の道が通れなくなったというだけのことだったのでしょうか。上野道を通っても30分ほど余計にかかる程度なのです。それならば、小和田説のように熱田までを四時間もかけなければ良いだけのことなのです。

「鷲津砦」の章で、おそらく「天白川が渡渉できた」のではなかったかと書きましたが、ここではもう少し詳しくみてみます。

佐久間大学は、汐が満ちると「助けなき」ようになると言っています。汐が満ちるとなぜ「助けなき」なのでしょうか。汐が満ちて、ただ単に近道が使えなくなるだけのことであるならば、軍事的には大した問題だとは思えないのです。当時、熱田から鳴海への道は、鎌倉海道のうち古渡から野並の間を通称「上野道」と「浜手の道」の二つがあり、浜手の道は満潮時には通行できなくなったことが、広く知られていたようですから軍事的な機密事項であったとは思えません。しかし、多少(三割ましぐらい)遠回りしなければならないだけで、時間的には三十分強ぐらいでしょうから、大した問題だとは思えないのです。これは、証明はできませんが、おそらくは干潮時には河口付近の鳴尾と下汐田の辺りで渡渉できたからだと、小生は考えます。そうでなければ、納得のいく説明がつきません。

現在の天白川と黒末川が合流してからをみますと、両川を分離する中堤上がサイクリングロードになっています。<電子国土ポータルサイトhttp://cyberjapan.jp北緯35°04′40″東経136°56′30″>その辺りの水深は、深くても膝下までの50〜60cmだといいます。そして、現在の伊勢湾での最大干満差は約3m弱もあるのです。もし、渡渉できたとしたならば、鷲津砦を攻める駿河勢の背後を襲撃することができるわけです。そしてここを渡渉できなければ、織田軍は中島砦から後詰に出撃するしかないのですが、それでは対面する丘陵地上(諏訪山)に陣取られた敵勢に効果的に迎撃されてしまうことになります。………と言うことは、満潮時を狙って付け城排除を企画した駿河勢は、中島砦に対面する丘陵上に陣取って、後詰に来るだろう織田勢に備えていたことになります。では、それはどの手の武将でしょうか。小生は、それが今川義元自身が率いる本隊であったと考えます。

ところで、汐の干満が戦術上それほど重大な意味をもつということは、義元の兵力が伝えられているほど、多くはなかったのではないかという疑いも生じます。大軍であったならば、汐の干満などは何も問題としないはずです。

義元勢が信長軍よりも多いことは疑いないと思うのですが、丸根・鷲津攻めに拘束されているときに、新手の信長に出現されると、困るということは、その程度の兵力しか義元は連れていなかったのではないかと小生は疑います。つまり、鷲津砦を餌にして、後詰にくるだろう信長を待ち伏せる作戦がとれるほどの兵力を義元持たなかったのではないかということを疑うわけです。元康や朝比奈らは、丸根・鷲津を短時間に攻め落とせたかも知れませんが、後詰にくるだろう信長を喜んで待ち受けるだけの兵力を持っていなかったと考えるならば、義元が直卒していた兵力は、五、六千人ぐらいでしかなかったかもしれないのです。

『三河物語』にはそれを窺わせるような記事があります。石川六左衛門尉という駿河軍に編入されていた松平の武士が、駿河勢の軍の悠長なやりようを非難している文章がそれです。「その上にて、また長評定これ有けり。その内に、信長は清須より人数を繰り出し給う。評定には、鵜殿長持を長々の番をさせてあり。誰を替えにか置かんとて、誰か是かと言ううち、やや久しく、誰とても無し。さらば元康を置き申せとて、次郎三郎様を置き奉りて、引退く処に、信長は思いのままに駆けつけ給う」とあります。ぐずぐずしているから、信長が彼が計画したとおりに間に合って来てしまったではないかというわけです。決して、信長の後詰を待ち受けて補足し痛撃してやろうと考えていたようには見えません。このことは、当日の今川義元が信長軍主力と決戦するには十分な兵力を率いていなかったことを証明しているのかも知れません。例え義元が国境に通説で二万五千といわれるような大軍を率いていたとしても、あちこちに残置していて、当日の直卒兵力というのは一万未満だったのかもしれません。朝比奈らの先鋒隊を除けば、義元本隊は五千人程度の兵力であったとも考えられます。

 

<八六計算>  (2007.7.5新設)

 昔のことですから、伊勢湾の干満についても実際のところはわかりません。そこで、昔からある簡易計算法を用いて推理を進めてきました。

その方法というのは、太陰暦の日付というものは月齢(新月からの日数)によって決められていますから、三日月が出ていれば三日であり、満月が出ていれば十五日、上弦の月が出ていれば七日か八日であり、下弦の月が出ていれば22日か23日なのです。そして、その太陰暦の日付を八掛けすると、その日の干潮の時刻が算出できるという便利な方法です。

満潮時刻はその約六時間前と約六時間後になるわけですが、これはあくまで目安でして多ければ二時間程度も誤差があります。しかし、鎌倉時代の昔から漁師達はこれによって干潮を知り、それに春夏秋冬、天候、地形などを勘案して利用したといいます。そして、三河湾周辺ならこの「八六計算」で大体間に合うので、潮干狩や海釣などに現在でも応用されているといいます。

その具体的な計算方法は、先ず旧暦の日に(十五日を越した時十五日を引く)八を掛け、出た答えの整数部分は時間を示し、小数点以下は分を示しますから、それには六を掛けて分を求めるというものです。

これによって推理しましたところ、桶狭間合戦のストーリーについて一応の目途が立つことがわかったのですが、ここにきて現実の天白川河口の干満を調べてみますと大きな差があることがわかりました。

ここ数年の旧暦五月十九日の天白川の干満状況は愛知県のデータによりますと、次の通りです。

  1. 2007年7月3日の干潮は1:30で109cm、満潮は6:59で230cmでした。二時間の誤差があります。
  2. 2006年6月14日の干潮は1:24で167cm、満潮は6:42で281cmでした。やはり二時間の誤差があります。
  3. 2005年6月25日の干潮は1:52で178cm、満潮は7:30で297cmでした。一時間半の誤差があります。
  4. 2004年7月6日の干潮は2:21で185cm、満潮は8:05で305cmでした。一時間の誤差があります。
  5. 2003年6月18日の干潮は2:27で188cm、満潮は7:51で288cmでした。一時間の誤差があります。
  6. 2002年6月29日の干潮は2:22で175cm、満潮は7:49で277cmでした。一時間の誤差があります。

以上のように約一時間から二時間早く午前一時台に干潮が訪れることがわかりました。しかし、干満を考えて砦攻撃にかかったということについて影響を与えることは特にありません。

しかし、一度実際に合戦当時の名古屋港の潮位を推計しておこうと思いまして、海上保安庁のHPにある潮汐情報・潮汐推算で名古屋港の永禄三年五月十八・九日(西暦1560年6月11、12日)の潮位を推計しました。

ユリウス暦6月11日毎時潮高 (平均水面の季節変動を含む)

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1

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4

5

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22

23

(cm)

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63

107

154

194

221

229

215

188

ユリウス暦6月12日毎時潮高 (平均水面の季節変動を含む)

0

1

2

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10

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(cm)

156

129

116

120

139

167

193

211

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14

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19

20

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(cm)

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65

43

40

56

88

129

170

202

219

218

200

その結果約一時間早い、午前二時台に干潮が訪れることがわかりました。それでもやはり、干満を考えて砦攻撃にかかったということについての影響を与えることは特にありません。また、午後の干潮時刻については変更はありませんから、この推理に及ぼす影響はほとんどありません。

ところで、天白川河口と扇川の中島砦あたりでは、潮の満ち引きに時間差がありそうなものですが、実際の記録をみますと、同じ時間帯であったり二時間後の時間帯であったりしていまして、そう簡単ではないようです。河川の構造(堰の有無)や支流からの流入なども詳細に調査しなければ、何ともいえないようです。

 

 

<信長正午参陣説を検証する>

さて、いよいよ桶狭間山の今川義元の出番です。『信長公記』では、義元の所在について伝える部分は、(1)「御敵、今川義元は桶狭間山に人馬の休息これあり」という信長が善照寺砦に到着してからみた状況と、その様子を解説した(2)「五月十九日、午刻(午前11〜午後1時)、(義元は)戌亥(北西)に向って人数を備へ、謡いを三番謡はせられたる由に候」の二つの部分からなっていますから、義元の休息と「本陣前備」の配備は午刻に行われた謡いの前に行われたことが判ります。従って、信長の善照寺砦へ到着した時刻も午刻以前であったことになります。信長は桶狭間山の義元を視認しているからです。

(2008.08.11 挿入) この『信長公記』の文章の(1)と(2)との間には時間の経過がある可能性があります。桐野作人氏などは桶狭間山で信長の参陣を知った義元はこれを迎え撃つべく漆山へ移動した可能性があるとされるからです。そして、牛一の文章は細切れなメモの寄せ集めのようですから、それを積極的に否定することはできないのです。ただ問題は、態々信長軍の目前まで800mというような至近距離にまで進出しながら諸葛孔明ばりにその面前で謡を謡ったかという疑問があります。それも念を入れて三番も。

ところで、谷口克広氏の『織田信長合戦全録』は、信長「正午参陣説」を唱えられます。氏の説では、「信長が参陣してから、義元が正午頃に桶狭間に到着し」として、『信長公記』を無視して全く逆の順序であったとされます。そして、『信長公記』には書かれていないことを藤本正行氏の説で補って、「その前衛部隊はさらに前進して、中島砦に近づいたときに佐々らの挑戦を受けた」とされますから、義元本隊の前衛は善照寺砦で戦況を観察していたその目の前で兵を前進させ布陣したことになります。ここでは、(1)信長到着⇒(2)義元到着⇒(3)義元勢前備展開⇒(4)尖兵が長嶋砦表に前進⇒(5)千秋・佐々らの挑戦という展開であったとしています。………おそらく、これは藤本正行氏の『信長の戦争』の説と、そこに掲載された図を踏襲されたものだと思われます。

『桶狭間の合戦・織田信長総覧』での林亮勝氏も「信長正午参陣説」です。氏の場合の根拠は、『信長公記』の「午刻、戌亥(北西)に向って人数を備へ」という記載です。つまり、今川義元は午刻に桶狭間山に到着して先備を立てたと文字通り解釈されているわけです。確かに、この文章がこれだけあったならば、異議はありませんが、しかし実際の文章は先に示したように、二つの部分からなっています。つまり、(1)信長が善照寺砦に参陣して観察した光景が最初の文であり、(2)後の文は「午刻における義元本陣の様子」を詳しく紹介したものであると解釈するのが相当だと小生は思うのです。………素直に『信長公記』を読むかぎりでは、信長が参陣したときには、既に義元は桶狭間山にいたと読むべきだと考えます。そして、「その後の文章で」午刻の義元の様子が記されているのですから、その間に千秋・佐々らとの前哨戦があって、しかる後に義元は「午刻に」謡を三番謡ったと理解するべきだと小生は考えるのです。

それに、信長が正午に参陣したとしますと、信長は辰の尅の熱田から善照寺砦まで四時間も費やしたことになります。7kmを一時間強で「もみにもんで駆けた」としましても、三時間も熱田で軍勢の揃うのを待っていたことになるのです。信長は何のために主従六騎で清洲を飛び出したのでしょうか………?信長は、敵の監視下に善照寺砦から中島砦へ移ろうとするほど気が急いていたり、小勢でありながら中島砦から出撃しようとしたほど戦意が高揚していたという心理状態であったのですから、敵と対陣もしていない熱田で、何を好き好んで愚図々々と長時間を費やし、兵が集まるのを待っていたりするでしょうか。

ところで、谷口克広氏の『織田信長合戦全録』の種本となったと思われる藤本正行氏の『信長の戦争』ではどのように主張されているかと申しますと、「合戦当日の昼、遅くとも信長が善照寺砦に進出した頃には、その南東の丘陵に今川軍の一部が進出し、善照寺・中島砦を制圧すべく、北西に向って布陣していた。その背後の桶狭間山には義元の旗本が布陣していた」とあります。谷口克広氏は、時間については藤本説を無視し、布陣については藤本説 藤本氏の予想図を掲載予定> を採用していることになりますが、その根拠についての説明はありません。藤本正行氏は続けて、「信長は中島砦)から東進して前軍に正面攻撃をかけた。この前軍が簡単に崩れたので、義元の旗本も退却を始めた」と書き、谷口氏もそれを採用しています。ところが、藤本氏はその掲載図によりますと本陣と前衛の間の距離を2kmと想定しているのです。時速5kmで追撃したとしても約25分かかるのです。信長が本陣に到達するまでには、十分に対応処置のとれる時間です。この矛盾をカバーするために、藤本氏や谷口氏は「義元は、前衛の敗走をみて、(これを救援すべく)桶狭間山を下りて前衛部隊に合流しようとした」と想定され、思いのほか信長軍の進軍速度が速くて間に合わなかったと言われるのです。確かにこうすれば、義元が低地で討死した説明はできそうに思えますが、武将としては考えられない反応です。信長が中島砦を出陣した時点で、行動を起こすべきだからです。

しかし、それでも義元の布陣も行動も常識はずれであることは変わりありません。それに、この説明は時間的にも難しいものがあります。義元が桶狭間山頂にいたとして、そこから田楽坪までは直線距離にして200mほどしかないのですが、藤本氏のいわれる前衛までは3kmはゆうにあるのです。十五倍の距離の差です。そして、その間には高根山の峠まであるのです。一体、義元は何時の時点で桶狭間山から下りて迎撃する決断をしたというのでしょうか?義元が田楽坪の低地で討死するには、少なくとも信長勢が高根山の峠に姿を見せてから、山を下りようとしたのでなければなりません。何故なら、信長勢より先に高根の峠を確保していたら、駿河勢が負けようがないからです。義元は高根の峠を確保できなかったのです。つまり、その時の我彼の状況は信長も義元も互いに高所に陣取っている状況なのです。それをなぜ、不利な位置関係になり兵も展開できない深田が広がる谷底に下りるという判断を義元はしたのでしょうか?常識外れというほかはありません。………つまり、藤本氏の優れた研究の結果辿り着いた展望は、机上の空論でしかなかったわけです。折角の優れた研究も竜頭蛇尾にしてしまったようです。勿体ないことです。

谷口克弘氏の『織田信長合戦全録』では、もう少し詳しく書かれていまして、「桶狭間山の本陣に居た義元は、当然前衛部隊の苦戦を知ったはずである。(中略)義元はこの時、前衛部隊と合流すべく山を下って桶狭間の低地に移ったのではなかろうか。」とされ、『信長の天下布武への道/戦争の日本史13』ではそれを補って「おそらく桶狭間山を北に下って、谷あい(東海道)に位置していたとものと思われる。これ以後の信長軍の突進が”東へに向て”なされたと『信長公記』にあることはそれを示している。主力の衝突は午後二時頃、東海道上においてなされた。」とされています。

この説も、常識にそぐわないことに変わりはありません。もし、東海道上で両軍が激突したならば、それは鎌研より西でなければなりません。そうでなければ道がありませんから、騎馬で離脱を図り義元を守った旗本三百騎は東海道をそのまま東へ阿野村か沓掛城を目指して逃走するため、深田のある桶狭間には行けないからです。その場合には、義元の討死場所は豊明市の史跡になるわけですが、ここには深田などはありません。また、義元は桶狭間山の北側に下りたのではなく、西側に下りて当時の鳴海道を使って鎌研で東海道に出たはずなのです。義元軍が道のない山の斜面を北側に下りるはずがありません。それに、例え鎌研から西で激突した場合でも、なぜ義元勢が高所の高根の峠で持ち堪えられなかったかが疑問として残ります。

従って、「東」や「深田」にこだわって義元を無暗に本陣から移動させることには疑問を感じざるを得ません。史料としては問題があろうとも多くの江戸時代の文献はみな、信長は義元本陣に討ち入ったと考えているからでもあります。

 

<義元の布陣が兵法の常識にそぐわないこと>

そこで、藤本正行氏の『信長の戦争』が義元のとったとする布陣について詳しくみてみます。藤本氏は、「桶狭間山と鳴海城の間には、織田方の中島砦がある。両者は2km余の浅い谷筋で直線的につながっているから、義元は前軍を中島砦付近まで進出させ、織田軍の反撃に備えている」とされ、それに加えて、「義元がこの危険な地形を無視したとは考えられない。彼自身は旗本とともに後方にいたとしても、その前方に一部隊を進出させ、中島・善照寺の両砦を牽制したはずである。(中略)今川軍は両砦に対して戦闘態勢をとったのである。こうして、善照寺砦の信長と桶狭間山の義元とは真正面から対決することになった」と主張されます。しかし、「戦闘態勢をとった」というのは、藤本氏の思い込みでしかありません。通説では、義元は大高城へ向かう途中での昼食のための休憩なのですから、中島砦を攻撃するための布陣などを敷くはずなどが在る筈がありません。専ら不測の事態に備えるための陣構えを布いたはずなのです。………それが常識でしょう。誰が戦の直前に食事をとったりするでしょうか?腹をやられたら取り返しがつきません。

百歩譲って、義元が中島砦を攻略することを意図していた場合を考えるにしても、それには義元の出陣時刻が遅すぎます。普通は、朝比奈や元康が丸根・鷲津を攻撃したように、日の出を期して攻撃するものです。以上のことは、みな軍事常識以前の問題でしょう。ですから、義元は沓掛城から大高城に移動している限り、中島砦攻めなどは念頭にはなく、休息のための防御を目的として前備を配備したはずなのです。飽く迄、本陣の防御が目的であり、攻撃態勢などとるわけがないのです。それが常識でしょう。それに、義元が中島砦を攻略したいのならば、なぜそれを前にして昼飯を始めたのでしょうか。

さらに問題なのは、義元の本陣先備えを、手越川と東海道のある谷を越えたそのまた先の、しかも2kmも離れた丘陵に布陣させるわけがないということです。常識で考えて、(1)2kmも離れていては、急場に間に合わないからですし、(2)谷口を塞いでそこを扼す高地を確保していないなどということは考えられないことだからです。現に、藤本氏も『タクテクス』という雑誌などで間に合わなかったことを認めていますが、義元はそれほど兵法に疎い愚鈍な武将だったのでしょうか。飽く迄、先備は本隊の一部であって、先鋒隊のようなものではなかったと考えるべきです。

後世の人々も、『桶狭間合戦記』の山崎真人や『武家事記』の山鹿素行などは、「旗本の先陣の将松井兵部少輔家信等は拾町(1km)計り張り出て備えを堅くする」とか「先手十余町を出し義元は桶狭間の山間に旗本を立て」として、1km程度前方に布陣させたと考えているのです。1kmは徒歩で十五分かかります。2kmという距離は三十分ですから、その報告を受けて駆けつけるのに一時間もかかることになるのです。ですから、互いに援護できる距離ではないと思います。優勢な敵に攻撃されたらば到底間に合いません。………これに対しては、本陣から先備は監視できるのだから問題はないという主張があるかも知れませんが、言い訳にもにもなりません。突然の雨が有ろうがなかろうが、史実の義元本陣は、信長勢が山際に勢揃いするのを見ていても、何の対応もしなかったのですから、対応する必要などがないだけの十分な隔たりを確保していたと看做すべきだと思うのです。………戦争は予期せぬことや失敗の連続だといいますが、とに角、一方が常識外れに間抜けであったと看做すような説には賛成できかねます。

百歩譲って攻撃のため布陣だとしても、常識はずれであることは変わりません。今川義元は、前衛部隊の左右に兵力を展開していないからです。優勢な兵力であれば誰もが鶴翼の陣をとりたがりますし、また取るのが常識でもあるのです。なぜかといいますと、人の側背は攻撃に弱いからです。特に右側は盾を持てないこともあって、弱いものとされていて、古代ギリシャのファランクスなどでは、最強の戦士をここにあてます。このため、互いに衝突した兵士は敵戦列を突破することを図るとともに、敵の側面に回り込むべく、互いに延翼運動を自然に行いだします。ということは、優勢であれば最初から翼を伸ばした布陣をした方が得だということになるわけです。その方が、攻撃してきた敵を包囲しやすいからです。因みに、第二次大戦での日本軍参謀は、馬鹿の一つ覚えのように、劣勢な兵力でも縦深を薄くしてまで常時敵を包囲しようとしたとしたり、劣勢な兵力でも敵正面を拘束しておいて一隊を敵の側背に迂回させようとしたとして批判にさらされています。しかし、腹背への攻撃はそれほど魅力的なのです。また、三方ケ原の武田信玄は魚鱗の陣を布いたといいますが、実際は隘路から出たばかりで広く展開する暇がなかったための団子状態であったというのが真相かもしれません。優勢な兵力を持っているのに、敵より正面幅の狭い攻撃のための縦深な部隊配置であったはずなどありません。なぜなら、我彼が互いに延翼運動をしたならば、兵力に劣る方は薄く兵力を配置しなければならないわけですから、必ずどこかに綻びがでるからです。

『信長公記』は、「五月十九日、午刻(正午)、(義元は)戌亥(北西)に向って人数を備へ、鷲津・丸根(を)攻め落とし、この上もない満足これに過ぐべからざるの由にて、謡いを三番謡はせられたる由に候」と書きます。この書き方を見る限り、義元は織田方の不意の攻撃に備えてはいても、中島砦を攻撃するために布陣をしたとは到底思えないものがあります。

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