<大高城番交代の疑問>

 

<三河物語は信長公記と矛盾するか>

『信長公記』は、「今度(の戦いに)家康は朱武者にて先懸(駆)けをさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、ご辛労なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり」と伝えるのですが、松平元康の大高城番は何時決められたかまでは、記しておりません。

この次第を伝えるのが『三河物語』です。

  1. 大久保彦左衛門は、「(略)即(ち)押シ寄て責(攻め)給ひければ、程無(く)タマラズ(堪)して、佐間(佐久間大学)は切て出けるが、雲(運)もツキ(尽)ずや、討ち漏らされて落ちて行く。家の子郎縫(従)供をば悉ク打取る。(中略)其レ寄リ大高之城に兵ラウ(糧)米ヲ多く誉(籠む)。その上にて、また長評定これ有けり。その内に、信長は清須より人数を繰り出し給う」といいます。
  2. その評定の内容についても『三河物語』は伝えています。「評定には、鵜殿長持を長々の番をさせてあり。誰を替えにか置かんとて、誰か是かと言ううち、やや久しく、誰とても無し。さらば元康を置き申せとて、次郎三郎(元康)様を置き奉りて、引退く処に、信長は思いのままに駆けつけ給う」とあります

つまり、松平元康の大高城番が決定したのは、丸根砦を攻略して大高城に兵糧米を搬入した後で行われた軍議においてであるというわけです。

ここには見逃せない問題があります。『三河物語』は「其れより大高之城に兵糧米を多く籠む」として、丸根砦を攻略した後に、大高之城に兵糧米を搬入したと言っているのです。これは、『信長公記』の大高城へ兵糧を入れ、その後に鷲津・丸根を攻略したという理解と矛盾します。

さて、『三河物語』が正しいものとすれば、丸根砦攻めは十八日の夜であったことに『信長公記』の解釈を変えなければならなくなります。そのように考える人は、牛一の表現方法の誤りであるとするようです。………例えば、「十八日夜に入り、大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、塩(潮)の満ち干を堪がへ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、」とあるのは、「大高の城へ兵糧いれ(のため)、(織田方の)助けなき様に、十九日朝、塩(潮)の満ち干を堪(考)がへ、取手を払ふべきの旨(が)、十八日夜に入り、(前線から清州の信長の下に)相聞こえ候ひし由、」が本来の意味であると考えるわけです。

この場合は、兵粮搬入の支障になる丸根砦を排除することを先にするのが、合理的だと考えるわけですが、これはその地方の道路網や位置関係を把握していないことから生じるものでしょう。『桶狭間合戦名残』という研究では「神君様兵米御運びあそばされ候よし、その節、木之山村(大府市共和町)を御通り、兵糧を御運びあそばされよし申し伝え候、同村開け城へ再度籠城あそばされ候よし伝えもあり。」と紹介しています。必ずしも丸根砦の下の大高道を通る必要などはないのです。但し、こちら方面に睨みを利かしているのが正光寺砦なのですが、この存在や兵力の有効性は確実なものではありません。

 ただ、この考え方には致命的な欠陥があります。丸根砦を陥落させ兵粮を大高城に搬入した上で、今川義元や鵜殿長照らと軍議するためには、義元が丸根攻めを督戦していたのでない限り、とてつもない時間を要すことになります。これでは、義元が沓掛城から出陣している限りは、善照寺砦に信長が出現したことを松平元康らが知らないでいるわけがないことになります。これは非常に不都合なことです。

もしかすると、鷲津砦攻めだけが翌朝であった可能性もあります。なぜなら、信長が辰の尅に源太夫殿宮(上知我麻神社)から、鷲津・丸根両砦の落去と覚しき煙が上るのを見ているからです。この信長の目撃証言はおいそれと動かすわけにはいきません。

その場合には、丸根砦攻めは十八日の夜九時ごろの満潮時を狙って行われたと考えられることになるのですが、その後に大高城へ兵糧を運び入れて一休みしたうえで、改めて次の満潮を狙って鷲津砦攻めを翌朝に行ったということになるのでしょう。

すると今度は、使者が清洲に着いたのが夜明け方だったのですから、佐久間らからの報告が相当遅れたという問題がおこります。このことは、佐久間大学の得た情報は偽であったことになりますから、佐久間らは裏を掻かれたわけです。そうしますと、佐久間らが砦から打って出たのは、起死回生の一手であるとともに、清洲に緊急の警報を注進するためであったことになりますが、それにしても清洲への到着が遅すぎます。早馬などではなく飛脚であったとしても時間がかかり過ぎています。ですから、このような設定は正しいとは思えません。

しかし、その代わりに、丸根砦攻めが一段落した後の長評定で元康の大高城番が決定したことには変わりありませんから、十八日のことであれば評定の時間は十二分にあったわけですから、駿河勢の方にはあまり問題はないことになります。これならば、大久保彦左衛門が「その内に、信長は清須より人数を繰り出し給う」と批判するのは益々当を得たものになるからです。

さて、困りました。『三河物語』をどのように評価しましょうか。

これには、もう一つ可能な解釈の仕方があります。それは、『信長公記』にある「河内二の江の坊主、うぐゐら(弥富町・鰍浦)の服部左京助(友定)」と渥美太郎兵衛友元および今村彦兵衛勝長なる者らが各々舟で兵粮を元康に献上しているというからです。これが合戦当日であったとしますと、『三河物語』のいう「其れより大高之城に兵糧米を多く籠む」も『信長公記』と矛盾しないことになります。ここでの「多く」は自分たちが昨晩搬入した分に加えてという意味になるわけです。

註 参州碧海郡今村(今本町)は近境たるゆへ御家人・今村彦兵衛勝長及び渥美太郎兵衛友勝(が)兵糧を献ず。又、服部左京は知多郡(海部郡の誤り歟?)河内二の郷に住し、近境勢州長嶋の一向宗に与(クミ)し、宇久井良(鰍浦)の砦を築き、今川に志を通じければ、今日一向宗の徒(を)余多引惧し軍船数十艘に取乗り大高の城下黒末川まで漕いれて糧米を神君へ献ずる所なり。」『武徳編年集成』幕府大番頭・木村高敦(タカアツ)

大高城番を選定した長評定が、十九日の丸根砦攻めの後のことであり、元康らも臨席してのものらしくみえる『三河物語』の記事を信用するならば、今川義元の前でその軍議が行われたことになります。そして「次郎三郎様を置き奉りて引退いた」とある引退いた」のは今川義元本人であったことになります。朝比奈らを引き連れて撤兵したことになるわけです。………このことは、義元は大高城へ向かっていたのではなく、大高城から出撃して丸根・鷲津砦を攻略した後に引揚げの途中で桶狭間山で休息したと『三河物語』は言っていることになるのです。

この問題について、小和田哲夫氏は「戦いが一段落した後、元康は大将首を選んで、義元の本陣に届けさせた。午前十一時頃には義元の元に届けられたと思われる。時間的にみると義元は沓掛城を出て桶狭間に向う途中であったろう。(中略)(元康の)使者が戻ってこの旨を元康に伝えたのは、時間の経過からちょうど正午ごろのことではないかと考えられる。鵜殿長照が大高城を出て、元康が大高城に入ったのである」と言われます。

これでは、明らかに小和田氏は自己矛盾に陥っていることになります。氏は、「何せ、信長軍が中島砦に入っていく様子は、丸根砦・鷲巣砦からも望見できたからである」として、鷲津砦からだけでなく丸根砦からも善照寺砦が望見できるとしているからです。元康や朝比奈が戦場に屯していたならば、信長参陣を当然知ったはずなのです。

注:小和田氏はこの自己矛盾を解決するために「冠水説」と「陽動説」を提唱しておられます。これらについては別途付録で紹介します。

<城番交代の指示を受けるという問題>

そこで、小和田氏の言われることが可能かどうかを、時間の面から検証してみます。

まず、小和田哲夫氏が言われる「元康が正午に大高城番交代の指示を義元から受け取ること」がどういう意味を持つかを考えてみます。

これは、小和田氏が信長が善照寺砦に参陣したと言われる午前十時頃から正午までの間に、「信長に脅威を与えかねない今川軍先鋒は、みな丸根・鷲津砦の戦場から撤兵していなければならない」という大前提に反することなのです。

そして、駿河勢が鷲津砦にいないということは、元康が義元の許に差し向けた使者が、信長の善照寺砦参陣を知ることができる時刻以前に、鷲津砦の元康本陣に帰陣していなければならないということを意味します。これは信長の善照寺砦参陣の前に朝比奈勢らは鷲津の戦場から離れていなければならないからです。

そこで、先ずは義元が桶狭間山の本陣にいたと仮定します。………これは、元康の使者から報告を受けるだけならば問題はないのですが、防御に支障をきたすような路上で義元が頸実検と大高城番交代の評定を長々としたとは考えられないからです。必ずや近隣の高所に陣幕を張り、仮本陣を作って防御を整えたうえだったはずです。ですから、それなりの時間がかかります。特に頸実検については義元が格式を重んじたでしょうから、古式に則って行ったとしますと、相当の時間がかかったものと思います。

  1. 因みに、笠間良彦氏の『日本戦陣作法事典』によりますと、「戦国時代には、休憩・宿泊には必ず幕を張り、神社・寺院・一般家屋を宿営に利用する場合にも必ず幕を張り巡らし、下級者の集団でも幕を用いた」とあります。但し、陣幕には一般に思われているような弓矢を防ぐ効果はないといいますから、陣内を覗き見て兵力などを知られないようにし、敵味方を識別することが元々の目的なのでしょうが、建物を使用する場合にも幕を廻したということになりますと、何か結界を張るような呪術意的な意味があったのかも知れません。
  2. 『軍禮抄』「一、首実検の場所は其所の寺などにて有べし。首御覧ずる人は門の内、首御目にかくる人は門の外にあるべし。門もなき所は幕をはりて、中を巻上げて、内外の隔をなす也。敵来て首をうばひ返す事も有べき歟の用心をきびしくすべし。」桶狭間村には長福寺がありますし、瀬名氏陣所もあれば、桶狭間山には本陣が用意してあったでしょう。
  3. 『越後軍記』「一、戦場にて直に頸披露する事あり。(中略)一、野山にて不時に実検の時は、(中略)一、同馬上首実検之事。」義元は、余裕を持っての行軍中ですから、馬上(輿上)で実検する必要はなかったでしょう。

それを考えますと、実際には既に先発していた瀬名氏俊が桶狭間山に本陣を設営しているのであるならば、そこまで行ってから首実検を行ったと考えるべきだと思います。その場合、元康の使者が騎馬で義元の許へ勝利の報告に駆けたとするとき、その速度を時速18kmと仮定しますと、大高城と桶狭間本陣の間の距離5.14kmを往復するのに、約30分強で駆けることができたものと思われます。これは、使者が義元に首を届けたならば、間を置かずにその場から蜻蛉がえりをしたとしてのことです。

そこで、小和田氏の主張される「元康が正午に大高入城の指令を受け取る」ということが、どのような意味を持つかを検証しますと、元康の使者は桶狭間山上の本陣から20分弱で駆け戻ることができますから、午前11時30分過ぎに桶狭間本陣を後にすればよいことになります。この場合には、彼は当然、桶狭間山上から信長参陣を見たはずですから、見たからには元康にも先鋒の朝比奈にも知らせたはずなのです。………つまり、元康の使者が桶狭間山本陣から帰陣し、朝比奈備中守が鷲津からの退去を完了する時刻が信長の善照寺砦参陣以前であるためには、元康の使者が小和田氏の想定された午前十時より相当早い時刻に帰陣していなければならないことになります。そしてこれは、元康の使者が桶狭間山を出発した時刻もずっと早かったことを意味しておりますから、丸根・鷲津砦の陥落時刻は、『信長公記』が記す信長が熱田から煙をみた時刻であった可能性が高いということになります。

つまり、元康の使者が往復に40分、頸実検と評定に80分を必要としたと仮定したとしましても、騎馬の使者は午前8時に元康の許を出発すれば良いことになりますから、丸根・鷲津の陥落時刻は極めて牛一の書く記事に近かったことになります。但し、この場合でも、信長の方が熱田で時間を費やさずに、直ちに善照寺砦へ向ったとした場合には、元康の使者は桶狭間山で信長の参陣を知ることになります。このように、元康が義元から指示を受け取る時刻は、信長が熱田で過ごす時間や両砦が陥落する時刻に左右されているのです。

そして、信長が善照寺砦に参陣したときに朝比奈勢が鷲津砦に屯しているという矛盾を生じさせないためには、使者が桶狭間山まで往復している時間などはないということです。これは、今川義元が大高城に本陣を置いていた場合でも同じです。『三河物語』から窺われるような元康や重臣たちが義元の前での軍議に出席していたかのような場合に生じる戦場と大高城の間の800mという短い距離であっても、そこを往復している時間的余裕などもないということです。

唯一、可能なのは義元本人が前線に出張ってそこで軍議を開き、そこから諸将各自が次の行動を起こすことです。………このように義元が戦場にいた場合で問題なのは、当然に想定される織田軍の後詰が鳴海方面から駆け付けてきた場合に、高地や隘路という有利な位置を占めて之を迎撃できないことです。従って、義元が鳴海方面から来るだろう織田勢を迎撃する部隊を鳴海の南に対面する丘の上に配置せずに、城攻めの戦場にある本陣に参陣していたとは考えられません。ところが、そのような部隊についての記述は蓬左文庫桶狭間図を除いては誰も記していないのです。

他にも問題があります。

砦攻略後の評定では、大高城番交代の相談をしているのですが、それを当事者である鵜殿や元康そして筆頭家老らの重臣抜きで行ったとは思えないことです。それに、桶狭間合戦では重臣が討死していないという事実がありますから、それらのことを勘案するならば、彼ら重臣たちは桶狭間にいてはならないのです。

 

<鵜殿長助長照>

ところで、義元から城番交代の願いを聞き入れられた鵜殿長助長照は、元康と引継ぎを行って交代するのですが、義元が大高城に入城する予定になっているならば、当然その到着を待っていてもよさそうなものです。そう考えますと、義元入城後に城番交代を決めてもよさそうなものでもありますから、義元が大高城へ向かっていて、その途中の桶狭間山にいたという通説には、やはり疑問を感じざるを得ないものがあります。

それに、鵜殿らは飢えを経験するような籠城戦を行って開放されたばかりでして、それを慰労して城番の交代させたのですから、西三河の領国(幡豆郡西郡上ノ郷)に帰還するまでは、義元の本隊と行動を共にしたと考えるのが自然だと思います。もしそうだとすると、今度は、義元が清洲を目指していたというような説も怪しくなってきます。

注:この鵜殿隊のその後の行動については異説もあります。『鳴尾村史』は、葛山信貞が星崎に進軍するために天白川を渡河するのを手伝ったとしています。『大高と桶狭間の合戦』の服部徹氏も同様に、「鵜殿長照は翌日(19日)の清州方面侵攻軍として、大高城をでる」と主張されています。

それにしても、当面は鵜殿も先鋒の総大将である朝比奈備中守の指揮下に入るのでしょうが、だからといって鷲津砦の守備をしたとも思えません。すると当然、鵜殿らは義元本陣に向けて出発したということになるのでしょう。その場合には、大高と桶狭の間の道(約5km)を行軍したとしますと、小和田氏の言う使者が帰陣した正午に、即座に出発しても道中は一時間強かかりますから、午後一時過ぎに桶狭間に到着することになります。これは信長が義元本陣を襲撃する一時間前になり、もしかすると集中豪雨に遭遇する時間にあたるかもしれません。そうしますと、合戦に巻き込まれた可能性が高くなります。しかし、そのような伝承はなく、鵜殿は無事に領国に帰還しているのです。

また、長照の父長持は今川義元の妹を妻としていましたから、鵜殿隊だけを急ぎ帰郷させたとも考えられるのですが、義元は本陣で昼食をとって謡いを催しているのですから、長照が正午以前に桶狭間に伺候していた場合には、挨拶を終えたら相伴もせずに慌ただしく領国へ帰国したとは考え難いものがあります。信長勢の出現をみることのない午前十時以前に大高城を出発した場合には、鵜殿長照は桶狭間山で義元の労いを受け、義元の謡い三番を相伴し、義元と一緒に昼弁当を使っていた可能性が高くなります。その場合には、当然に集中豪雨に合い、信長の攻撃を受けることになる可能性も高くなります。

このように考えますと、朝比奈備中守に続いて鵜殿長照の行方までもが不明になったことになりますが、これも義元が沓掛城から出陣していることが原因です。ということは、『三河物語』が「次郎三郎様を置き奉りて、引退く処に、信長は思いのままに駆けつけ給う」というのは、朝比奈備中守ではなくて今川義元本人が引退いたのだと考えるべきだということになります。

 

<二之江の坊主>

彼が何をしに何時きたのかということについては、『渥美家伝』に「永禄三年、今川義元が討たれて、今川勢は駿河へ引いたが、そのとき大高城は兵糧不足だった。そこで兵糧米を差し上げたところ、家康公はご褒美として、服部左京というものと渥美太郎兵衛方へ御奉書を給わった。また、左京には、御道具を下され、太郎兵衛には金で紋が付けられた頭形の御兜を下された」とあり、兵粮を大高城に搬入したらしいことが窺われます。但し、渥美太郎兵衛友元なる人物は『貞享書上』『家譜』にしかみえず、『寛永系図』には友元の記述自体がありません。そのため、この噺は後代に創作された事跡であるものと思われますが、服部氏が大高河口にきた理由については、十分に納得のいく説明であると思います。 

ところで、服部左京助の現れた時刻ですが、これは合戦前夜の十八日の兵糧搬入作戦とは別に行われたものに違いありません。何故なら、夜間の航行や荷揚げを行うことは危険だからです。すると、丸根・鷲津が陥落して元康が城番に決まり鵜殿長照との引継ぎが終わってから城へ兵粮を搬入したものと考えるのが合理的であることになります。それならば、元康が感謝して褒美を与えている事と辻褄があいます。尤も、創作ですから辻褄を合わせたのでしょうが。因みに合戦当日の満潮は午前八時頃ですから大高河岸に接岸するには都合がよいことになりますが、同時にこの様子は熱田の浜から信長も見たことになります。

しかし、これは重大なことを示唆しています。何故なら、今川義元が大高へ向っていたとしたならば、服部左京助は兵粮を搬入したからといって、義元が大高城に到着するのも待たずに引上げたりはしないはずだからです。そもそも、服部も渥美も義元の家臣にすぎない松平元康に感謝されても嬉しくなどはないはずなのです。一番欲しいのは、今川義元の安堵状だからです。特に、一向宗徒の服部氏は後の「石山本願寺なみ」の安堵(守護不入)を戦国大名からも獲得したかったはずだからです。それを、大高城に来ることが分かっていながら、義元に会もせずに引き上るなどと言うことがあるはずがありません。このように考えますと、黒末川口に遊弋していた服部左京助は、大高城か戦場の本陣で義元と面会して、安堵されてから帰ったと考えるのが合理的だと小生には思われるのです。

以上の考察が正しければ、服部左京助が引揚げたのは、義元には鳴海城を救援する心算も尾張へ侵攻する心算もなかったことが分かっていたからだということになり、帰えりがけの駄賃に熱田を襲ったということになるわけです。決して、義元が桶狭間山で討たれたのを見たから引揚げたのではないと小生は思うのです。つまり、牛一が書く黒末川口に遊弋していた兵船は、大高に来たのではなく大高から帰るところだったのであり、信長が中島砦から東海道を東へ出陣したからこそ信長の後方に当たる熱田を襲ったのです。

2007.11.7追加、 天理本『信長公記』によりますと、「此時、(中島へ移った信長の)御人数二千には不可過。熱田・山崎近辺より見物に参り候者共、御合戦に可被負、急帰れと申、皆罷帰候えき。弥(イヨイヨ)手薄に成候也。」とあるそうですから、見物に参集した熱田・山崎の町人らは服部党の引揚げを見て熱田襲撃を察知し、急いで帰ることによってその防衛に間に合ったことになります。ということは、信長が善照寺砦に参陣した後、熱田からの織田勢についてきた熱田・山崎の町人共が善照寺辺りに到着した時刻頃が、服部党の大高河口からの引き上げ始めた時刻になるのでしょう。これが十一時頃になることは、”真説・桶狭間の戦い”の章で論じています。)

服部らは大高で義元と会談し、義元を始めとした駿河勢は、信長が本気で戦闘を仕掛けて来るなどとは思っていないことや、義元の西三河へ帰還する予定を聞き知っていたからこそ、自分たちも帰ったのです。戦国時代の武者が、敵を挟み撃ちすることができて、しかも敵の背後を襲える好機を見逃すわけがありません。 

 

<服部左京助の役割については異説もあります>

『鳴尾村史』では永井勝三氏が、「五月十九日朝、今川軍の清州前進隊六千は葛山信貞が指揮して、大高より渡河し鳴尾松に上陸し、星崎城に進むのであるが、渡船困難にて進捗しないので、義元は大高城主将の鵜殿長照に協力応援方を命じたのが午前十時であるから、全軍が星崎城に終結し得たのは、午后二時を過ぎたであろう」と主張されています。

また、播磨良紀氏は「桶狭間の戦いの時に今川氏に味方して千艘の舟註 を出している。千艘の舟を出すこと自体相当な勢力を持っていたと考えられ、長島一向一揆の主要部隊と考えても良いのではないか。」されています。

註 参州碧海郡今村(今本町)は近境たるゆへ御家人・今村彦兵衛勝長及び渥美太郎兵衛友勝(が)兵糧を献ず。又、服部左京は知多郡(海部郡の誤り)河内二の郷に住し、近境勢州長嶋の一向宗に与(クミ)し、宇久井良の砦を築き、今川に志を通じければ、今日一向宗の徒(を)余多引惧し軍船数十艘に取乗り大高の城下黒末川まで漕いれて糧米を神君へ献ずる所なり。」『武徳編年集成』幕府大番頭・木村高敦(タカアツ)

最近では、『大高と桶狭間合戦』で服部徹氏が、「大高進出にあったては)蟹江註 の服部左京進も義元への手合わせとして武者舟千艘を大高の下、黒末川まで乗り入れ兵糧とともに義元を応援する体制を整えていた」と主張されています。 

註 服部氏の根拠地は蟹江ではありません。蟹江より西へ6kmほどの弥富町鯏浦といわれています。

まず、最も簡単に反論できるのは服部氏の説ですが、「武者舟千艘」で運べる軍勢は一艘五人としても五千人の大部隊になるのです、その彼等が引き揚げに際して熱田湊を襲っていながら、土民に追い返されているのですから、これは検証するにも値しません。

問題なのは、永井勝三氏の説でして、これは旧参謀本部の推定した駿河勢二万五千人説の主要部分を占める葛山信貞の六千が何をしていたか、なぜ信長の背後を突くことができなかったかを一応は説明していますし、服部左京についても渡河に関わっていたわけですから、手塞ぎであったことの説明ができます。

しかし、完全ではありません。仮に午前八時頃から渡河を開始した場合には、午前十一時(信長参陣と永井氏は主張)にどれだけの兵を渡河させ終えていたかを考えますと、午後二時に星崎に全軍が終結できたのですから、おおよそ半分の三千人弱は大高河口に待機していたことになります。つまり、この兵力に朝比奈勢を加えれば、信長を迎撃するには十二分な兵力になるわけです。それなのに、彼等は功名の機会を放棄して、ただ只管命じられた星崎への進軍を粛々と続けたことになるわけです。これは戦国時代の軍隊では考えられないことです。近代的な合理的精神をもった官僚軍隊などではないのですから、功名の絶好の機会を見逃すはずなどがないからです。それでなくとも、葛山は星崎から鳴海表に転身して、信長の退路を断つ挙に出なかったのは、解せません。武将にあるまじきことです。

さて、播磨良紀氏の「荷之上鯏浦服部左京亮という人物は、後年の長島一向一揆の主要部隊と考えても良いのではないか」という意見ですが、小生はこれは一向一揆を買被り過ぎていると感じます。加賀にしろ三河にしろ一向一揆で結集した勢力というのは、階級的にも雑多であったようでして、内部に矛盾を抱えており、本願寺の教義はそれを解決することはできませんでした。本願寺の教義が有効だったのは、外部に敵が存在するときだけに強力に効果を発揮する種類のものだったのです。ですから、加賀では本願寺が派遣した坊主どもが戦国大名化してしまいましたし、三河でも小領主と耕作者と商工業者らとの矛盾を克服できずに、小領主は徳川家の家臣団になる道を選びました。長嶋一向一揆のときも伊勢大湊・桑名・津島の商人たちが積極的に加担したようには思えません。それは、堺湊の会合衆が三好らには従わず、信長に屈服したのと同じ構図です。それらを統合して組織する方策などは、本願寺は持ち合わせていませんでした。その結果、本願寺の教義は小領主層によって下剋上に利用されたのです。

現代労働運動における組合貴族、共産主義ロシアのノウメンクラツーラのようなものの温床といえるでしょう。

もし、服部左京亮が本願寺の威光を背にしてでも一千艘もの船を集める力を持っていたとしたならば、彼が亡くなった後であろうと、第三次の長嶋一向一揆において一大海戦が起こっていてもよいはずだと考えられはしないでしょうか。ところが、海戦などは起こらずに一方的に攻めまくられたのです。例え、小船であろうと数があるのですから、火船にして攻撃すれば多大の戦果を得られたはずなのにです。

しかし、小型船舶にしろ一千隻を集めるには、服部氏の根拠地である荷之江付近だけでは無理であったものと考えます。おそらく、伊勢大湊までの船をかき集めなければならなかったでしょう。ところが、そのような隻数は織田信長の権力をもってしても、長嶋一向一揆の最終段階になって、伊勢湾岸全体から集めなければ無理な数なのです。因みに、近世前期(寛文十一年・1671)の『尾州知多郡覚帳』によると、知多郡沿岸の船数は廻船から渡海船まで含めて四百七十五艘あったといいますから、一千隻という数字は伊勢湾岸全域の船舶数にあたるものと小生は考えます。

青木美智男氏の『近世の尾州知多半島沿岸村落と伊勢・三河湾岸諸都市』によりますと、近世後期(寛政二年・1790)の知多郡沿岸の船数は二千二百五十艘、五万五千五百八十一石(平均一艘あたり廿五石積)であるといいます。

それに、長嶋一向一揆の時でさえ、本願寺の威光を持ってしてさえも一揆方は、信長に伊勢湾岸および河川の水上兵力を結集して、アメリカ独立戦争のような組織的で徹底したゲリラ戦を挑むことはできなかったのです。第二次の長嶋攻めにおいて伊勢大湊が商船の供出を渋って、門徒の避難民の移送に用立てた事がたことが、精一杯の抵抗でした。ですから、桶狭間の戦いで服部氏が集め得た船舶というのは、木曽川河口の漁船・小型商船でしかなかったはずです。従って、せいぜい廿艘というのが相当ではないでしょうか?それでも、一艘あたり五人運べば百人の戦力ですから、土豪の兵力としては妥当な数字です。桶狭間の戦いで前哨戦を戦った佐々・千秋でさえもニ氏合わせて二百人(残りの百は信長からの援兵)だったのです。 

因みに、『大高町誌』では、「元禄四年(1692)の船舶員数記録には、83艘、480石とあり、船頭とか船問屋を稼業とした家がかなりあり、大橋西の通りは江戸時代前期には舟戸町と書いていた」としています。これは平均すると一艘6石にしかならず、廻船を除けばほとんどが極めて小さな漁船であったことになります。そして、慶長十三年(1608)の検地での大高の石高は一千七百拾二石二升九合ですから、万石当りの軍役を三百人としても五十人の兵力でしかないのです。 

それに、本願寺の御墨付きがなければ、服部左京亮が門徒衆を大名同士の国境紛争などに動員できたとは考えられないのです。そして、今川義元は本願寺に対してその守護使不入権を末寺にまで認めるような提案をしたとも思えません。三河の征服過程をみても寺社の安堵はケースバイケースでして、本願寺が優遇されたわけではないようです。そして、服部氏は津島や桑名などの湊に対して、義元に提供し得る支配権を持っていたとも思えないのです。としますと、服部氏が目論見、近隣の土豪・百姓・渡が群れ集まったのは、純粋に自分たちの既得権を信長から守り、次の尾張国の支配者になるであろう今川義元には、安堵してもらうのが目的であったものと考えられます。ですから、そのときに群れたのは、当時信長に抵抗していた河内と呼ばれる地域(海部郡)の地侍たちに限定される勢力であったものと考えます。

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