<抜け駆けの問題>

 

<前哨戦を戦った駿河勢>

『信長公記』は、「信長、善照寺へお出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎の二首、人数三百計りにて、義元へ向つて足軽にまかり出で候へば、(敵方からも)瞳とかかり来て、槍下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして五十(17%)計り討ち死し候」といいます。 2007.8.5挿入 『天理本信長記』では佐々らは中島砦にいた、討死は卅騎[10%]とある。) 

ここで問題になるのは、佐々隼人正、千秋四郎の二将は何処で信長を待っていたのかという事と、彼等を迎撃した駿河勢は何処に布陣していたどのような部隊かという事、そしてその戦場です。

そこは、「義元へ向つて足軽にまかり出で候へば」と書きますから、義元が何処にいたかに関わらず、佐々隼人正、千秋四郎は義元本隊に対して仕掛けたと考えているようです。『武家事記』の山鹿素行なども「義元の先手へ」といいますから、本隊に対して攻撃が試みられたと考えています。しかし、「先手」という表現は「義元が大高へ向かって行軍中」と考える人からみた言い方であり、それを「駿河方は撤退中」と考える者からみれば「殿軍」となると小生は考えます。

何れにせよ『信長公記』は 「義元へ向かって」と書いており本隊の一部であって、それが先鋒隊などの独立した部隊(朝比奈勢や三浦勢)とは考えていないように小生には思えます。つまり、早朝から鷲津砦を攻撃した朝比奈備中守の率いる「先手」ではないということです。それに、本陣先備の松井宗信にも先鋒隊の朝比奈備中守にも前哨戦での功績を顕彰するような伝承はありません。それどころか逆に、『三河物語』には敵が接近しつつあるために、駿河勢が逃げるように撤退している様子が書かれているのです。それに、松井家の伝承にはこの前哨戦の武功は入っていないのです。絶好の功名であるにもかかわらずです………。従いまして、これらのことから考えますと、それが義元本陣の先備であろうはずがありません。ですから、『武家事記』などが「義元の先手」と書き、後世の人々が「先手」と思ってしまうのは、義元が大高へ向かっていたという先入観がなせる故であると考えたほうがよいように小生には思われます。

それに、『信長公記』が「水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり」と書くのを受けて、義元本陣の「先備」が崩壊して、それに巻き込まれて義元が討ち死にしたと書くようになったのは、藤本正行氏の指摘によって「正面強襲説」が言われるようになってからのことだと思われます。それまでの史書も、信長勢は先備えとの接触を回避したように伝えているのです。それに、『信長公記』には信長が山際に寄せたとは書くのですが、先備えを攻めたなどとは書いていませんし、信長が攻め込んだ先には塗輿があったといいますから、義元本陣に直接討ち入ったようにも受け取れる書き方をしています。さらに、江戸時代の研究者はみな信長が「駿河軍の備」を迂回して、直接本陣に討ち入ったという認識なのです。 

従いまして、これら先人の伝えることが正しいとしますと、千秋・佐々らは義元本隊へ向かっているのに対して、駿河側では先備以外の部隊がこれを迎え撃ったことになります。………これは、駿河勢の先備以外の部隊、即ち駿河勢の撤退を援護して残っている殿軍なのだと小生は思うわけです。そうしますと、これまで「千秋・佐々の二将は功を焦って抜け駆けして、旗本から抜け出した岩室長門守や信長が派遣した百名程の援兵の出現に煽られて、功名に逸って死に急いだ」と解釈されてきたことを考え直さなければならなくなります。

つまり、実際の千秋・佐々らの意図は、「撤退する義元を、信長が率いる本隊が集合し戦場に到着できるまで、引き止めて置きたかった」のだということになるわけです。勿論、功名のためではありますが、陽動作戦などではありません。ですから、牛一も千秋・佐々らの名誉のために、闇雲に駿河勢に突っ込んでいったのなどではなく、「義元へ向つて」と記録したのではないのでしょうか。

前哨戦のあった場所は、中島砦に対面する丘陵の全てが候補地になるため、現在は平子説、高根説、鎌研説という三地名が候補地にされています。その他に中嶋表説と諏訪山説を紹介します。これら以外には、陽動のために鳴海城に攻撃を仕掛けたものであるとする小和田哲夫氏の説があります。 

2007.8.5挿入 『天理本信長記』には、「中島之砦より(中略)山際迄被懸向候」とありますから、小和田氏の鳴海城攻撃説は完全に消えました。鳴海城へ向かったのならば牛一も「城下迄被懸向候」と書いたでしょう。

 

平子説

これは、藤本正行氏の『信長の戦国軍事学』での主張でして、概略は次のようなものです。

桶狭間山の北西、わずか2km余に織田方の中島砦がある。桶狭間山と中島砦の間は浅い谷筋で直線的に結ばれているから、義元がこの危険な地形を無視したとは考えられない。(中略)今側軍は両砦(善照寺・中島)に対して戦闘態勢をとったのである」………このように、藤本氏は鷲津砦の北に駿河勢が進出していたとはみておられません。というよりも、鷲津砦を攻略した朝比奈勢の問題には、一切触れられてはおられません。また、具体的に「先手」の布陣場所を特定されているわけではないのですが、その掲載図を見る限りでは、前備の中嶋砦からの距離は中島砦〜桶狭間山の距離の四分の一程度であり、中島砦から約300m付近を比定されておられますので、平子台地の坊主山辺りになるものと思われます。ここは桶狭間山にある本陣との間に東海道や手越川の流れる狭間を間に挟んだ、標高20m程度の丘陵です。

因みに、藤本氏は中島砦と桶狭間山の距離を2kmとされておられるのですが、これは通説でいう桶狭間山には1kmほど不足していますので、それを現在の地図に置き換えてみますと高根の有松中学校辺りになります。従って、藤本氏は通説のように64.9mの山を桶狭間山とはしていないように見受けられ、通説より1kmほど前進させた幕山辺りに比定しているようにも思えるのです。実際のところは藤本氏に聞かなければ分かりませんが………。  おそらく、この図面からヒントを得て現在の有松神社のある丘を義元本陣に比定したの思われるものに藤井尚夫氏の「高根説」というものがあります。

ところで、藤本氏の説で問題なのは先備の本陣からの距離と配置です。藤本氏が考えられる案では、戦国時代の最盛期に関東で三国鼎立を戦い抜いてきている義元にしては、当時の軍人としての常識に反した布陣をしていると思われるのです。

『信長公記』によれば、義元は「戌亥(北西)に向けて人数を備」ており、中島砦方面からの敵襲に備えていることが窺えます。決して攻撃的な布陣ではありません。両翼を張り出して布陣して敵を包囲しようとも、魚鱗に組んで敵を粉砕・突破しようともしていない、最悪の兵力の分散になるからです。

<2007.7.12追記>  まして、『天理本信長公記』では、「段々に人数を備」としてあり、大軍が山間に数段に渡って縦深に陣備をしたというのですから、攻撃的な布陣などではありません。延翼運動ができず寡兵を包み込む戦術機動ができないからです。但し、天理本の記述は軍事的には平面的に前後に縦深にと考えるのではなく、山の下から上に何段にも備えたと解釈すべきだと小生は思います。そうでなければ、善照寺砦の織田勢には大勢に見えませんから。 <以上>……… (2008.07.18 追加) 但し、天理本の書くこの「段々」という言葉には牛一の文章と下は違和感を感じます。何故なら、姉川での十三段備えのときも、長篠での蓮五川を前にした野戦築城の場面でも「段々」に布陣したなどとは書いていないからです。牛一は、どの場合も「備え」としか書いていないのです。

藤本氏の説による先備は、本陣からは北西にあたりますから方角的には問題はありません。問題なのは、先備と本陣との距離が先備と中嶋砦との距離の二倍以上もある事と、その間に浅いとはいえ長い谷間を挟んでいる地形があることです。また、藤本氏は、北西の織田方からの脅威である中島砦と善照寺砦に対して防御の布陣を布いたといわれることも問題です。また同時に、今川軍は両砦に対して戦闘態勢をとったとも言われております。これは非常な矛盾なのです。攻撃と防御では隊形が異なるからです。防御とは、戦線にそって薄くなる犠牲を払っても横に兵力を展開して包囲されたり迂回されることを防ぎ、それを維持し続けることです。攻撃とは兵力を一点に集中させ、縦に厚い隊形をとって突破することなのです。………逆に、戦線を突破分断されることには、多大の恐怖を抱くものなのです。この恐怖から開放されるには、古代のファランクスのように、縦深を厚くして敵に空けられた穴を即座に埋めることも必要です。ですから、義元が大休止をするために先備を立てたのならば、それは防御陣地です。攻撃を意図していたならば、きっと先鋒とか先陣・先懸と書いたはずだと小生は思うのです。

義元が中嶋砦を攻撃する心算なら、それは攻撃隊形でなければなりません。そして、その場合は大軍ですから鶴翼の陣形をとったはずなのです。決して防御と同じ隊形ではないのです。中には、三方ケ原の武田信玄を思い出して魚鱗の陣もあると思われるかもしれませんが、あの場合は徳川家康の方が寡兵であるにも関わらず鶴翼の陣を敷いたから、それに応じただけです。と云うよりも、武田信玄の軍勢が隘路から出たばかりで、十分に軍勢を展開できなかったから、出口で団子状態になっていただけなのかも知れないのです。一説には、武田軍の礫隊の挑発に乗って徳川軍が軽率にも突っ掛けてしまったというものがありますが、逆に徳川軍の方が武田軍が態勢を整え終える前の混乱を狙って、乾坤一擲の勝負に出たのかも知れません………?

攻撃と防御では前線の部隊の本陣からの距離も違います。義元が攻勢をとったという表現は、確かに先備が本陣への距離よりも二倍以上も敵砦に近いところに布陣したことの説明にはなでしょう。しかし、その場合には『信長公記』も本陣を守るための「備」などとは言わず、独立した軍としての「先手」と言うはずです。………表現は別にしても、戦術的には非常識な布陣を想定されたものだと思います。

例えば旧軍の『作戦要務令』では、その「第156前衛」において、「(行軍における前衛は)通常、縦隊全歩兵の三分の一以内、必要の騎兵、野砲兵および工兵をもって編組し」とし、「第160」では「前兵と前衛本体との距離は、(中略)師団にありては500ないし1,500mを標準とす」として、余り遠くに配置したりはしていないのです。旧軍も歩兵が主体であり、鉄砲の射程距離が伸び発射速度が増して、そのうえ大砲に掩護されていることから、兵士や部隊間の相互の距離は開く傾向にはあったでしょうが、それでも1.5kmを標準に規定しているのです。当然、軍勢の大きさや地形など種々の条件によって適時組織するのですが、それでもその基本的な考え方の基になっていることは不変です。即ちそれ以上では、通信方法・移動方法に規制されて、相互に有効な連携・援護をし合うことができなくなるからなのです。以上の作戦要務令の規定は行軍についてですが、行軍の途中の休憩についても適用されるものと思います。このように考えてきますと、藤本氏説の布陣図は、大休止をとる場合の本陣を守り警戒するには適した距離関係であるとはても思えません。大休止であるからには、本隊は少数の警戒兵を残してみな休息に入るのですから、前備えが突然急襲されても即座に救援には駆けつけられませんし、逆に既に武装を解いている本隊が襲われたときには、前備えが引き返すには間にあわないことになります。例えば『太田道灌兵書』には、「味方の先手が不利と見ると、雑兵どもはすぐ後方へ崩れかかってきて全体が友崩れとなりがちなものである。(中略)競い合って走り進む勢いは、一町以内は元気旺盛である。しかし一町を過ぎると心身ともに緊張が続かぬものだから注意せねばならない」としています。それに距離だけでなく地形的にも問題があります。前備と本隊との間に手越川のある狭間を長く抱えていることがそれです。また、坊主山では将に旧軍参謀本部が考えた奇襲作戦での黒末川渡河点である「小坂」から、織田勢に対して駿河軍前備の背後を攻撃して欲しいと言っているようなものです。 :小坂は鎌倉街道における黒末川の一般的な渡渉地点です。

さらにまだ疑問があります。「平子が丘」と東海道の間は「曾根」と言って、石ころが多くあまり良い土地ではなかった事によってついた名前だというのですが、それでも田であり、明治の地形図では水田になっています。寛政頃の愛知郡村邑全図の鳴海村図や蓬左文庫桶狭間図などでも水田と認識されています。 但し、大正九年の測量図になりますと乾田になっています。  そして、季節は五月であり現在の六月の梅雨期にあたりますから、これらが乾田ならば既に田には水が張られていたはずなのです。これでは、信長は中島砦から出撃して水田の中の畦道を平子が丘に攻め上ったうえで水田を背にして、文字通り背水の陣を布くことになるわけですから、とても考えられないことだと思います。丘陵上は軍を展開して戦闘に及ぶには適当でしょうが、これ以上の「死地」はないと思われます。但し、守備には適しています。また、藤本氏の説では、信長の軍勢は平子台地に展開し、東南に向かって駿河勢先備を追い崩し、狭間のなかの東海道を敗走させて、2km弱も追撃したことになります。これではとても遠くて、前衛の崩れが本陣に波及したとすることはできない距離であるように小生には思えます。敗走してきた兵により後にある本陣の戦列が崩壊するには、余りに遠すぎる距離ですし、鳴海〜桶狭間道の坂路を駆け上がることになりますから、勢いが途切れてしまい容易に味方から阻止されるとも思われます。

他にも、この説には致命的な弱点もあるのです。敗残兵が緩やかな坂路である東海道を逃げたならば、桶狭間山の義元本陣に逃げ込んだりはしませんし、できないからです。何故なら、当時は東海道からは、松井家信が先備として峠に待ち構えていたであろう鳴海から桶狭間村へ通う道があるだけだったのです。現在あるような有松から桶狭間に行くための「郵便局からの県道」などは当時はありませんでしたから、敗残兵はひたすら阿野村間米などへ向かって逃げるはずなのです。さらには、東海道が当時どの程度利用されていたかは別にして、合戦当時は有松村も落合村も存在しなかったことがあります。村が無いどころか、この辺りが桶狭間を除いて農耕に適さなかったため、人が住めなかったからです。従って、豊明市の桶狭間古戦場旧跡から郷前に抜ける道も、当時は存在し無かったものと考えられます。必要がないからです。因みに、有松村は尾張藩が慶長十三(1608)年に有松への入植者を奨励して阿久比庄(愛知県知多郡)から竹田庄九郎始め八名が移住させてまず宿場を開かせたのですが、それは正式な宿場町ではなく知鯉鮒宿と鳴海宿の間にある合いの宿であったのです。つまり、街道沿いに人気がなくて物騒だったのです。落合村も有松村と同年に、徳川幕府によって強制的に作られた村でして、有松村と同様に農業では生計を立てられなかった所です。普通の東海道を旅する人たちも、東は矢作で宿泊し、西は下津か萱津で宿泊しましたので、有松も落合も素通りされましたから、宿泊場所としての意義は立村の当初から殆どなかったのです。桶狭間からの唯一の街道は、高根と幕山の間の峠を越えて祇園寺辺りで、現在はありませんが手前に一里塚があったと伝えられる鎌研橋を渡り、東海道に抜ける標高差20mの2%勾配の長坂だけだったのです。これは明治廿四年測量図からも窺えることです。現在は国道一号線と名鉄有松駅から東名高速有松ICへ通じる道により分断されてしまっています。

現在、通説で桶狭間山と推定されている64.9mの丘陵が義元本陣であるとしましたならば、西から来る敵を防ぐには、その山から1kmにある高根幕山の間にあるこの峠に先備が布陣するのが定法であると思います。ところが、藤本氏は「ここ(中島砦)から東進して前軍に正面攻撃をかけた。この前軍が簡単に崩れたので、義元の旗本も退却を始めた。追撃中に敵の旗本を補足した信長は、ここで始めて義元に狙いをつけ、ついに倒したのである」と説明されます。これは、一部言われるように義元が暑さを避けるために、丘陵の下を通る東海道の松原に下りていれば想定できることではあります。しかし、それは義元とその配下の武将たちが無能であって始めて成り立つ議論だと思います。しかも、前軍が敗れたとはいえ、本隊とは2km近くも離れており、疾走しても10分程度の余裕があるのですから、簡単には前軍の潰走に巻き込まれるとは考えられないのです。 因みに、2,000mの中距離走の日本記録は2006年7月14日に小林史和がだした5分7秒24なのです。 また、藤本氏の軍勢配置ならば、前備の様子もその間についても、本陣からよく見通せます。従って、本陣では「喧嘩か失火か」などと疑うこともないはずですし、本隊が一戦にも及ばず、直ぐさま旗本が後退を始めたりするはずはありません。ですから、前備を追い崩して本陣に至ったとみる人には、特に、『集攬桶迫間記』に、「伝仁義元家老松井八郎、上の高山に旗を立、人数を揃え、遠見の所に、信長卿忍び寄ありの躰ヲ見出し、義元へ注進しきりの所に、早押し来たり、戦死す」とあり、『尾陽雑記』に「信長の勢い思いもよらず、海道の上なる山より横合いに衝いてかかる。松井是を見付けて使いを走らせて義元に急を告げる」と言う見解があることをあげておきます。これらの著者は、信長は先備などに遮られることなどなく、直接本陣を衝いたと考えているのです。そして、先備の兵部少輔家信は自陣を「素通り」されたのを知って慌てて、本陣救出に軍を返していると考えているのです。このような古人の理解の仕方は、義元の討死のしかたとあわせて無視できないものがあると思います。

もうひとつ問題があるのは、瑞松寺(瑞泉寺)という寺が、文亀元年(1501)に平部山(諏訪山)を離れて、当時出来上がりつつあった東海道の町並みの中(中島橋西の辺の現在地)に移っているのですが、特に兵火にあったという伝承がないことです。「平子が丘」に駿河勢の先備があって、この部隊が千秋・佐々ら三百を打ち破ったものならば、ここが黒田日出男氏のいわれる「乱捕り」にあってもよさそうなものです。

 

<高根説>

藤井尚夫氏は数多くの戦場俯瞰図を発表されている人ですが、その俯瞰図では、義元本陣を桶狭間から鎌研を経て東海道を鳴海に至る地方道の高根と幕山の間の峠にある現有松神社に想定しており、鎌研辺りまで本隊を布陣したように描き、東海道が山間に入る口辺りですから、平子が丘と左京山の間辺りに相当するものと思われる辺りに前衛を布陣させておられます。

高根の有松神社に本陣を構える場合に、問題になるのは義元の目的です。通説通り、義元が大高城へ向かっている限り、高根に本陣を置くことは考えられないからです。何故なら、東海道を使用して高根に上るには、当時は鎌研から後戻りする道路しかなかったからです。特に、義元が塗輿を使用したと考えるならば、道のない山の斜面を進んだとは思えないからです。それ以上に人に見られることもない山中を今川義元が塗輿に乗って進むとは小生には思えないのです。

次に、十七日から構えられていたと伝わる瀬名陣所よりも敵に近い方に本陣を用意していたということも考え難いものがあります。それは、例え大高からの帰途であった場合でも、既存の瀬名陣所を後にした本陣の設営は考えられません。また、大脇からの道を使用して桶狭間に到着し、示威を目的にして態々遠回りになる東海道に出て平部山を越える小川道をとろうとした考えた場合には、正午過ぎまでも桶狭間でのんびり過ごしていることは目的に矛盾します。

さらに、 藤井氏の俯瞰図でみた駿河勢の布陣ですと、幅300m程の狭間に2kmに渡って何段にも布陣していますから、これを信長が突破できた理由について合理的な説明ができないこともあります。

では、義元が信長との決戦を考えていた場合はといいますと、大軍が展開できる河原や平原などを望めない地形ですから、まともな軍人ならば、さっさと通り抜けなければならない死地であるといえます。例えそうでなくとも、普通の軍人ならば、隘路の出口に待ち構えて、隘路から出て来る敵に集中攻撃をかけようとするものです。隘路の中に充満していては、大兵力を活かせないからです。従って、義元が高根・幕山に本陣を置き、隘路の出口まで溢れさせるように布陣していた可能性はないと言わざるを得ません。更にこの俯瞰図の問題点は、昼食をとるために大休止した義元軍の大部分が、有松辺りの山間の低地に屯しており、側の丘陵上に上がっていないことがあります。これは、当時の武将の常識としては考えられないことです。見通しがよく防御に利する高地に上がらずに布陣することはあり得ないことです。もし、行軍中であったとしても大軍をもって狭間の中に止まることもまた常識外れの行為です。必ずや狭間を抜けて最寄の高地に上がって布陣するはずだからです。従って、このような布陣はあり得ませんし、あったとしても討たれた武将の中に義元の重臣たちの名が見えないことの説明できなくなるという問題が生じます。

 

鎌研説>

次に、藤本正行氏の説を改変して、義元本陣を通説の桶狭間山とし、先備を藤井尚夫氏のいう有松神社のある峠と見立て、『武家事記』が「義元の先手へ切ってかかり」と書き、山崎真人の『桶狭間合戦記』で「(義元の)御先手の輩」と考えていることも踏まえて、義元本陣の先備・松井兵部少輔家信と、鎌研辺りで戦ったとすることは可能かを検証してみます。

義元の本陣を桶狭間山上として、現在定説化している64.9mの丘陵に比定した場合には、その1km先の有松神社の峠辺りに松井の先備え陣地を想定することは、戦術上は合理的であると思えます。駿河勢は高みに布陣した強みを生かすために、織田勢が鎌研・祇園寺辺りまで進出するのを待って坂路を駆け下って戦うことになり、勢いがつくからです。

そこでまず、千秋・佐々らが信長を待ち受けていた場所を考えます。根本史料の『信長公記』は、「信長、善照寺へお出でを見申し」と記しますから、彼らが居たのは中島砦辺りとも解釈できます。ところが、『桶狭間合戦記』では「清洲衆に先をせられじと心掛けんで々進み、山の間に控えて信長を待居たり」と考えて、千秋らは駿河勢から身を隠して山間にいたと考えていまして、「信長の旗先見へければ、佐々隼人・千秋四郎急に山間を押出す」と書き、信長が丹下砦に到着した頃に中島砦へ向ったと理解していることになります。この山間が朝日出だというわけです。中島砦から有松神社の峠に布陣した松井家信の先備までは2.95kmになります。そこで、千秋・佐々ら二百人は、朝日出で信長が丹下砦辺りに来たのを見てから中島砦へ移ったものと考えます。

  1. 中嶋砦の守備兵は丹下砦に到着した信長からの伝令に促されて、みな朝日出に集合しとものと思われますから、千秋・佐々らは中嶋砦から制止されずに出陣することができるようになります。矛盾はありません。
  2. 千秋・佐々らは、信長が善照寺砦に現れたのを知ると、中嶋砦から馬上のまま出陣したと仮定します。何故なら、敵陣の直近までは騎馬で進むのが普通だからですし、鉄砲が普及してからでも、通常の下馬は60mぐらいから始まったようでして、柴田勝家の北ノ庄城を前田利家が攻めた際に、寄せ手が下馬する以前から城兵が撃ち始めたので、笑われたという例もある位ですし、鎌研までの距離が1.41kmと遠いからです。
  3. 三百人の隊列は354mになりますから、強行軍でも約20分はかかります。
  4. 千秋・佐々らは鎌研で馬を降りて手越川の手前に残置し、徒になり攻めあがるものと仮定します。すると、松井勢も有松神社の峠から駆け下ってきて、祇園寺辺りで前哨戦が五分後ぐらいに始まったと考えます。
  5. しかし、多勢に無勢であるために、瞬く間に討ち取られてしますのですが、これを善照寺砦から信長がこれを見たことになります (2007.8.5  実際には善照寺砦からは見通せません。)ところで、桶狭間山の義元からはこの合戦は、峠の陰になってしまい残念ながら見えないのです。その意味では前哨戦の戦われた場所としては不適当です。
  6. 戦場の祇園寺から桶狭間山の義元本陣までの1.74kmを、強行軍で報告に向うとすると約20分かかりますから、義元の許で首実検が始まるのはそれからです。義元が昼食時でない時間に謡いを行ったとしましても、信長はこれを望見することができたかも知れません。
  7. 正午の20分前が祇園寺辺りの戦場から、本陣へ向かう時刻になり、その五分前が戦闘開始時刻であり、その二十分前が佐々・千秋らが中島砦を出陣する時刻になりますから、正午の45分前の午前11時15分が信長が善照寺砦に着いた時刻と推定できるからです。

このように考えますと、鎌研辺りを前哨戦の戦場と比定することも、不可能とは言えなくもありませんが、千秋・佐々らが「足軽に出撃した」と『信長公記』がいうのに照らしてみますと、鎌研までの約3kmという距離は遠すぎて相応しくないように思えます。

 

<中嶋表説>

『桶狭間の合戦・歴史と旅』では林亮勝氏が、『戸田本三河記』によって、今川本陣の先陣で鳴海方面に派遣されている部隊が中島砦辺りで戦闘したとされています。

千秋・佐々らは午前十時五分頃に無人の中島砦に乗馬を乗り捨てて徒で出撃したとしますと、前哨戦が戦われたのは藤本正行氏のいわれるような平子ケ丘の駿河勢に対して行われたようにも思えます。『信長公記』も、「足軽にまかり出候へば、(敵方からも)どっとかかり来て、槍下にて」と表現しており、敵味方ともにあまり離れておらず、しかも駿河方の方が高所にいたようですが、中島砦の付近では高所は平子ケ丘しかないのです。

旧軍参謀本部の『桶狭間役』は、鷲津砦を攻撃した駿河軍(朝比奈備中守泰朝)が、鳴海城に対面する丘陵の北側に進出していたかのように記載しているのですが、これが正しければ多くの面で納得のいく説明ができます。例えば、鷲津を攻撃した部隊が敗残兵を追撃するとその一部は自然に前之輪から山腰に出ることになりますし、小川道から追撃した部隊は諏訪山にでることになりますから、高所を占めようとすれば諏訪山に布陣することは自然だからです。また、織田軍の中島砦にも近い場所でもあり、沓掛城に引揚げるのであるならば、東海道を選択することは織田勢に対する示威の面でも意義があるからでもあります。しかし、このような「中嶋表」という表現は、あまりに漠然としすぎておりまして検証できません。

 

<諏訪山説>

地元には、千秋加賀守季忠が母衣後で討ち死にしたという説もあるといいます。現在のところは裏づけがとれていません。 2007.8.5  『鳴尾村史』に記載あり。) 母呂後は諏訪社の北、手越川左岸・柳長の西にあり、善明寺の南辺りまでの地域です。また、『和歌山藩家老久野家文書』や久野城跡保存会発行の『久野城物語り』では、久野三郎太郎元宗が千秋季忠を討ち取ったと伝えています。但し、ここでは戦場については記しておりませんし、元宗についても久野城主の久野三郎四郎宗経ではないかという疑義も出されています。以上は、HP「久野氏+諸氏ミニ情報」の「桶狭間の合戦と久野(久能)氏」から参照しています。

しかし、山崎真人の『桶狭間合戦記』の見解では、「鳴海表より(義元の元へ)注進来たり、御先手の輩、鳴海へ出張し善照寺等の砦を攻めんと相議する所、清須勢、後詰として数千軍、出陣し先手進み来るに依りて、即ち相戦い打ち勝ちて」としていまして、駿河勢の先手が中島砦を攻撃することを協議していたと考えています。ですから、もし「諏訪山」に駿河勢が居れば、「母呂後」で戦闘がおこるのは極自然に思えます。逆に、駿河勢がいない場合に母呂後で戦闘があるのは、千秋らがここに追い立てられてきた場合しか考えられないのですが、ここは東海道から離れていますし、手越川の西になっていますので、東海道を桶狭間方面から追われた場合には、味方の陣所である中島砦から離れてしまうことになってしまい不自然なのです。地図をみると分かり易いのですが、千秋が「母呂後」で討ち死にした場合の最も合理的な説明は、小川道の口にある「諏訪山」に義元が布陣していた場合なのです。

これは、鷲津砦の北側には、結構な数の水田が広がっていたと考えられるからでもありまして、戦場になるのは、現在となっては知り得ないのですが、水田の中の畑・休耕田や山際のほかは砂州上しかないと思われるからでもあります。「諏訪山」に殿軍が布陣していたのでしたならば、駿河勢はすでに桶狭間山方面に撤退していることになりますから、信長は鷲津方面に敵影を認めることはありません。安心して東海道を前進できることになります。

次に、合戦のあった場所は、『信長公記』にそう書いてありますように、義元の本陣と標高21mの善照寺砦にいる信長の両方から見える場所でなければならないという条件があるのですが、母呂後は善照寺砦の信長からも桶狭間山の義元からも望見可能に思えます。その意味では、母呂後は戦場として合理的な戦場候補地であると思えます。ところが実際に縦断をとってみますと、は母呂後は桶狭間山頂からは見えないのです。………それどころか、鳴海城南にあたる平原か水田の全てが標高64.9mの桶狭間山頂きからでも前方の50m級の丘陵群に隠れて見えないのです。

しかしここでもう一つ問題になるのは、何故この辺りに駿河勢の先備が布陣したという言伝えがないのかということなのですが、この問題については『蓬左文庫の桶狭間図』で検討します。

母衣後から桶狭間本陣までは3km程もありますから、佐々らを討ち取った駿河勢が桶狭間山の本陣に移動するには、兵数にもよりますが約50分はかかります。すると、午前十一時以前に前哨戦で勝利していれば、正午に弁当をつかう前の義元本隊と合流することができることになります。これは小和田説の“午前十時信長参陣説”の場合でも充分に可能なことであり、頸実検が終わった後に義元の謡いがあったことを窺わせます。その場合には、義元の謡いは二度に渡って行われたのではなく、正午に一度であったことになります。そして、一度に三番謡われたことになります。一番は丸根の勝利に、二番は鷲津の勝利に、三番は前哨戦の戦勝を寿いだものであったわけです。このようであれば、義元が陣中で昼の弁当をつかっていた時間が、午後一時頃までにずれ込み、集中豪雨に見舞われることになっても不思議ではないことになります。

即ち、義元が大高からの帰還の途中であったならば、午前十時頃から織田軍尖兵と駿河勢殿軍による前哨戦を見守るうちに、信長軍が続々と朝日出に集結して勢揃いするのをみることになり、義元は殿軍が撤収するのを援護しなければならず、それも正午頃には完了して首実検を行ったと言うことになりますから、午後一時頃までを緊張をもって織田軍と対陣していたことになり、義元は無為な時間を過ごした訳ではないことになるからです。 

注  関連項目は、「謡」「蓬左文庫桶狭間図」「桶狭間合戦場の地理」及び「母呂後」にあります。

追加:<幕山の西という説>  2008.5.30

最近発表される新説をみますと、みな揃って当時は道などなかったであろう山中を織田勢に踏破させて駿河勢を襲撃させることが流行のようです。

現在入手できる江戸期の村絵図を根拠にすれば、それらの説を可能にするだろう道を発見することは、強ち不可能なことではありませんし、当時のこの辺りは何処をとっても歪松の疎林でしたでしょうから、これ等の説を論破することは困難な事になります。根拠にできるような物証を提示できないからです。

そのような説に、漆山辺りから東海道の南の山中を信長勢に踏破させる説や千秋・佐々・浪人組の前田犬千代ら別動隊に同様な道のなかったであろう山中を挺身させて幕山の駿河勢を攻撃させ、信長本軍のために陽動を行ったとする説があります。

こうなると、最早なんでもありの状態です。

ただこれ等の説の難点は、信長の大勝利を説明することに急であるために、根本史料であるはずの『信長公記』や駿河勢側からみた唯一の史料である『三河物語』の記事に矛盾することです。

第一の矛盾は、幕山の西面山腹で戦われたであろう佐々・千秋らの戦いは、桶狭間山の義元からは見えないということです。勿論、山上で戦われたと強弁することは可能ですが、高々三百程度の織田勢に山上まで攻め上られ、山上に張った陣幕を押し破られ引き倒されて幕内に踏み込まれたとあっては、大苦戦ということになります。そうでもなければ、桶狭間山の義元からは見えるはずがありません。勿論、善照寺砦から観戦していた信長からも、山上で戦いが行われたのでなければ見えなかったでしょう。

第二の矛盾は、中島砦で信長の参陣を知った千秋や佐々らが、それから出陣して漆山から山中に分け入り、幕山まで踏破して戦端を開くまでに要する時間はとてつもなく長い時間が必要だということです。そして、信長はその戦いに味方が敗れたのを見てから出陣しているのですから、およそ陽動作戦などには程遠いものになっているうえ、おそらく午後二時に信長が義元本陣に突入するのは無理なことだと思います。

ですから、多くの研究者が信長が勝利した原因にのみ拘泥することによって、根本史料であるはずの『信長公記』を無視することになっているはずですから、『信長公記』に明確に記された時刻によって、それらの新説が実現不可能であることを証明できるかと期待しています。

 

<前哨戦の場所の調べ方>  2008.07.11追加

『信長公記』にある佐々・千秋らとの前哨戦を今川義元と織田信長の双方が観戦できたものと解釈するならば、まず第一に善照寺砦から視認できる範囲を特定することから始めなければなりません。その上で、それら義元本陣が存在し得るだろう場所かろの視界を確認して、両者の重複するところが前哨戦の行われた場所としての候補地に仮定するわけです。

そうした場合、善照寺砦からの展望を明治廿四年地形図で調べますと、鳴海東方から南方に展開する丘陵地帯の「前面」は全てその対象になります。これは、諏訪山・漆山・平子ケ丘などです。次に、これらの丘陵の背後になる左京山・幕山・高根なども其の高所は善照寺砦から展望されます。更にその背後になる丘陵になりますと、此処に通説の「桶狭間山」が入るのですが、桶狭間山・無侍・生山などとなりますと、これはもう前面にある高地(高根・幕山)の標高より高い部分しか善照寺砦からは見えません。………これは、縦断をとってみれば直ぐに判明することですから、善照寺砦の視界を地形図に色分けして提示しなければと考えています。

今度は、義元側からの視界を考えてみますと、最前面の諏訪山・漆山・平子ケ丘などからの視界は完全に開けていますが、その背後の左京山・幕山・高根などからの視界は、平子ケ丘に遮られて、一部見通せない場所がありことがわかります。ところが、さらにその背後の桶狭間山・無侍・生山などからの視界は前面にある高根。幕山の標高50m級の丘陵に阻まれて、鳴海城南の開闊地は全く見えないのです。見えるのは伊勢湾と笠寺台地なのです。

また、当然のことですが、『信長公記』が「義元へ向つて足軽にまかり出で候へば」と記し、天理本に「山際迄被懸向候」とある記事を、両者とも正しい情報であると仮定するならば、中間に視界を遮る丘陵がある高所から前哨戦の戦場を視認することができる可能性は全くありません。

つまり、通説の桶狭間山から佐々・千秋らとの前哨戦が見られたとすると、それは高根〜幕山や平子ケ丘の尾根上でなければならないということになります。そうでなければ、今川義元が高根〜幕山または、さらにその前面にある諏訪山・漆山・平子ケ丘の上にいなければ前哨戦を観戦することは不可能であったことが判明します。なぜなら、信長の方は善照寺砦から移動していないのですから、専ら義元の存在場所の問題になるからです。もしくは、義元は直接観戦したのではなく、注進によって知ったと解釈を変えるしかありません。

以上の事実を踏まえて、「五月十九日、午刻(正午)、戌亥に向って人数を備へ、」とある『信長公記』を仔細に検討すると、午刻以前に前哨戦が行われたのであれば、今川義元が桶狭間山にいなくても矛盾は生じないことになることに気づくはずです。とにかく、『信長公記』がいうのは、「先ず丹下砦へ行、善照寺砦に着陣し、戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。同時に、信長着陣を知った佐々らは出撃した。」という時間経過があるからです。………これは、歴史読本8月号で桐野作人氏が、「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで、午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」といわれることは、全くの誤りであることを指摘することになります。午刻には義元は桶狭間山にいる必要があるからです。

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