<今川義元の謡の問題>

 

<牛一の書順>

 牛一の書く『信長公記』における桶狭間山の義元軍を描いた場面の時間経過には混乱があります。

  1. 御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり
  2. 五月十九日、午刻、戌亥に向って人数を備へ、鷲津・丸根(を)攻め落とし、この上もない満足これに過ぐべからざるの由にて、謡いを三番謡はせられたる由に候
  3. 今度(の戦いに)家康は朱武者にて先懸(駆)けをさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、ご辛労なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり
  4. 信長、善照寺へお出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎の二首、人数三百計りにて、義元へ向つて足軽にまかり出で候へば、(敵方からも)瞳とかかり来て、槍下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして五十騎計り討ち死し候
  5. 是をみて、義元の矛先には天魔鬼神も忍べからず。心地は良しと悦んで、暖々(悠々)としてをうたわせ陣を据られ候

以上が、『信長公記』にある記事の順番なのですが、その書き方はといえば、

  1. 先ず最初に、信長が善照寺砦で戦況判断をしたら、(1)「義元は桶狭間山で休息中であった」という文があります。
  2. それに続いて、日付が文頭にくる(2)「桶狭間山での義元の様子」を書いています。
  3. 次に、(3)「正午における松平元康の様子」が挿入されます。
  4. その後に、千秋らは信長の善照寺参陣を見て出撃したのですから、どうみても先のはずの(4)「千秋・佐々らの行動」が描かれています。
  5. そして、最後に(5)千秋らに勝ったのを見て喜ぶ義元のことが書かれています。

『信長公記』の書きたいことは、信長が善照寺砦に参陣して見た桶狭間山の義元本陣の様子であり前哨戦の話なのですが、ここでの記事は藤本正行氏のいわれるように、ただ乱雑に書き並べているだけのようです。『信長公記』の文体に問題があると言われるのは藤本正行氏ですが、『信長の戦争』に書かれた「牛一の信長公記」の研究によると、その特徴は、

  1. 読者であり貴重な情報提供者でもある武士たちが要望する軍記に記録されることに迎合することに努めている。
  2. 内容的にみると首巻が日記や覚書をかなり雑駁に纏められているという印象を与える。
  3. 首巻は個々の書き方は大抵「何月何日に----」という書き出しになっており、それが何年のことか分かりにくいものが多い。
  4. 信長公記の奥書によれば、彼は編纂にあたって多くのメモを用いたらしい。
  5. 牛一は、信長よりも家康に対して敬意を払い、また遠慮しているとされています。

即ち、牛一の『信長公記』の首巻は、日記や覚書をかなり雑駁に纏めて、家康に気を使った文書であると思われているのです。

それに、『信長公記』の書順は、今川方からみた唯一の記録である『三河物語』とも整合しません。『三河物語』では、前哨戦については何も記戴されていないことからみますと、前哨戦は信長勢が駿河勢の目の前に公然と出現する以前に戦われ、既に終わっているものと判断できます。石川六左衛門尉が呼び出された時には、既に千秋らとの戦いは終わっていたと思わなければならないからです。何故かと言えば、「(六左衛門尉が)急ぎ早めて行くところに、(織田勢の)徒の者は早五人三人づつ山へ上がるを見て、(駿河勢は)我先にと退く。」と書くのですから、『信長公記』に「義元へ向つて足軽にまかり出で候へば、(敵方からも)瞳とかかり来て」とあるように、駿河勢が絶対優勢であったらしいことからみても当然に前哨戦の終了後に、駿河勢の撤兵する最後の部隊のようにみえるからです。

公然と駿河勢の前に信長軍が出現したということは、信長とその幕僚だけが善照寺砦に入って、物見をした後のことです。信長が善照寺砦で戦況判断したときには、その余の織田勢は未だ熱田から行軍中であったり、朝日出の山間に身を隠して整列中であったということです。

以上のことから、この前哨戦についての記述を再度みてみますと、牛一の文章は次のように並んでいます。

  1. (1)信長の戦況判断
  2. (2)桶狭間山での義元本隊休息
  3. (3)午刻に備を戌亥に向けて義元、謡
  4. (4)家康、大高城番交代
  5. (5)信長参陣を見た佐々らが前哨戦を開始。
  6. (6)前哨戦の勝利をみて義元、謡

これは明らかに、信長が善照寺砦から戦況を判断した(1)〜(2)のグル−プと、正午の義元や元康の状況を記した(3)〜(4)のグル−プと、佐々らが信長参陣をみてから前哨戦を行った(5)〜(6)のグル−プの三つに分かれた夫々別個の事柄の記録であり、それが説明なしで併記されているものと小生は考えます。

そのような目でみますと、正午の義元の状況について、『信長公記』が「この上もない満足これに過ぐべからざるの由にて、謡いを三番謡はせられたる由に候」と書くのは後日聞き書きしたものだとしても、その一方で、「是をみて、義元の矛先には天魔鬼神も忍べからず。心地は良しと悦んで、暖々としてを謡をうたわせ陣を据られ候。信長、御覧じて、中島へ御移り候はんと候つるを」というのですから、義元が高所にあってこの小競合いを実際に観戦していたのを、信長も遠望したと見做すことができそうです。………実際に義元がこの小競合いを見たか、それを信長が見ることができたかについては、縦断をとって検証する必要がありますが。

そこで、取敢えず納得しやすい筋書きになるように文章を時間の推移に従って並べ替えてみます。

  1. 先ず(5)の前哨戦の記事がくるべきでしょう、何故なら(5)の信長参陣を見た佐々らが前哨戦を開始しているからです。 
  2. ですから、信長は善照寺に到着すると佐々・千秋らの先駆けによって起こった前哨戦とその先にあるはずの今川義元の軍勢の様子を見たことになります。つまり、(1)の信長による善照寺砦での戦況判断とは並行して起きたことになります。
  3. そして、(1)の説明(2)の義元が桶狭間山で休息していた様子を説明したものであり、その様子は(3)の配備状況であったことになります。
  4. 次に前哨戦の結果として(6)があり、(6)(3)午刻の謡の説明でもあるということになるのだと思います。
  5. 『三河物語』の話は、更にこの後のことになるわけです。

そうしますと、今川義元が桶狭間山で謡った謡は三番であり、四番ではなく、一つは丸根の勝利に、二つは鷲津の勝利に、三つは敵先鋒との前哨戦での勝利に謡われたことになるわけです。

 

<謡いは義元の油断か>

出現した織田軍を前にして、義元が謡いを謡ったということについては、義元の油断であるという批判があるでしょうが、これは必ずしもそうとは限りません。義元勢からは、信長軍の規模も行動も逐一みえていたからです。

信長軍は二千程度の兵力でありまして、それが前哨戦の敗残兵などを収容しながら深田の一本道を行軍隊形で前進してくるのが、駿河勢からは丸見えになっているのです。これは、駿河勢からすると威力偵察程度の兵力でしかなく、織田勢は水田を抜けても戦闘隊形に展開するには十分な広さを確保できない狭間の中を行軍している途中なわけですから、駿河勢は特に脅威を受けるような状況にあったのではありません。

それに、その後の戦闘の経緯を見ますと、織田勢は坂道の下の山際に屯し、駿河勢は坂道の上の峠に布陣して、雨が降りだすまで睨み合う恰好でいたわけです。その間約1km。道はそれ以外にはなかったのです。

当時の東海道註 をみますと、鎌研辺りで分岐しています。桶狭間村に行くには手越川を渡って山道にかかり、そこから峠を越えるのです。この他には、東海道から桶狭間村に通じている地方道はありません。桶狭間村自体が南朝の落人部落と言われるぐらいですから、道の必要性それ自体がないのです。 

註: 当時の東海道は未だ幹線道路にはなっていませんでしたし、整備もされていませんでしたから、大軍を行軍させるには適しておりませんでした。メインになっていたのは鎌倉海道でしたが、東海道も交通量が増え始めており、その証拠に中島砦を作った場所には小村があって、信長はこれを接収して砦に改造しておりますし、此のころにはすでに東海道沿いの平部にも人家が小川道から移ってきていたようです。ですから、東海道はありませんでしたが原東海道はあったと考えるべきです。従って、その意味では、旧陸軍参謀本部の作成した桶狭間合戦図は間違っていると考えます。

従って、鎌研から東の東海道上は全て山際といえます。このようですから、桶狭間山から最も遠い鎌研を「山際」と仮定した場合には、そこに信長が到着しても脅威にはなり得ません。道は一本道ですし、織田勢が山中に展開して攻め上がって来たとしても、山上にあって有松神社のある高根の峠を押さえていれば、簡単に撃退できるからです。しかし、鎌研をさらに東進されて大将ケ根などに行かれると、面倒なことになります。それは、鳴海に向って陣を立てている駿河勢の横腹にあたるからです。

ところが、通常はそうはなりません。何故なら信長がさらに東海道を東進しようとして、織田勢が自軍の横腹を曝したら、生山武侍に布陣した脇備の駿河勢が、山上から駆け下ってきて殲滅されることになりかねないからです。このようでしたから、突然の予期せぬ集中豪雨さえなければ、信長軍は姿を隠して大将ケ根まで進出することなどはできなかったはずなのです。このように、駿河勢にとっては、何の危険もないどころか、逆に敵軍を殲滅できる千載一遇の戦機をもたらすものだったといえるのです。こうしたわけで、義元は鳴海〜桶狭間道の峠を先備に確保させて、悠々としていられたのです。

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