<三河物語からみた桶狭間合戦>

 

『三河物語』には、「(元康は丸根・鷲津を落とした後)其れより大高城に兵糧米多く籠める。その上にて、また長評定これ有けり。その内に、信長は清須より人数を繰り出し給う」という記戴がありますが、この文章にある評定が行われた場所については四通りの場所を想定できます。

  1. 大高城
  2. 戦陣
  3. 桶狭間山
  4. 蓬左文庫の桶狭間図を信じて漆山

このうち、大高城で軍議をしたと考えること、義元が沓掛城から大高へ向かう途中で桶狭間山で軍議をしたと考えることについては、時間的にそのような余裕はないことを<大高城番交代>の章で論じました。戦陣での軍議については十分考えられることですが、それが成立するためには、鳴海城方面から後詰に出現するはずの信長勢を阻止する部隊を配置する必要があることも指摘しました。

『信長公記』で伊勢湾の干潮時刻が話題として採り上げられていることからしますと、この作戦では織田軍の後詰の有無が、駿河勢にとって大きな問題であったとが考えられます。これを重く考えますと、旧参謀本部の両軍配置図において、桶狭間合戦時に葛山氏元が五千もの兵を率いて、星崎に向かって進軍しているように表記することは、明らかに誤認だと思われます。当日の干潮午前三時十二分午前二時台に訂正しますですから、この頃に星崎に渡河していたならば、その後は凡そ十二時間後までは、ここから逃げ出せずに孤立してしまい、各個に撃破されてしまう恐れがあるからです。尤も、五千もの兵力があったならば、そのような恐れはなかったことになるのですが。また、これだけ優勢な部隊であったならば、星崎からは鳴海方面の戦況が丸みえなのですから、中島砦へ移った信長勢を挟み討ちの舉にでることができたはずなのです。しかし、そのような事実はなかったのですから、このような葛山氏元隊が存在した可能性はないものと考えます。

以上のことは逆に、干潮時には黒末川河口で渡河できた可能性があることを窺わせるものがあります。そして、明治廿年制式1/20,000地形図には鳴尾村から上汐田に車輌渉所であることをしめす記号が記載されているからです。

従って、そうである場合には、『蓬左文庫の桶狭間図』が漆山に義元が本陣を置いたとするのは、干潮時に天白川を徒渉して信長が大高城の後詰に来ることができずに、中島砦から信長が出撃するであろうものを迎撃する目的であったことになり、極めて説得力のある見解であると思われます。干潮時に星崎方面から織田軍が現れなければ、残るは鳴海方面から出現するしかないからです。………その場合の駿河勢は、午前四時過ぎに大高城を出陣すれば、午前四時半頃までに鷲津・丸根に手勢を配備し終えることが可能です。そして義元は、そこから更に進んでその先1.5km程のところにある漆山に本隊を進めて布陣し、織田勢の後詰に備えたと言うわけです。

実際、丸根・鷲津砦の攻略に辰の尅までかかっていたり、その後大高城に海上から兵粮を搬入しているのをみても、敵の後詰に備えることは当然の用心ですし、信長勢が中嶋砦から出てきて十分に戦闘隊形に展開できるのは、一面が水田が多かったと見做せば、当然に山際辺りだけになりますから、それを高所から叩くことは義元にとって絶対的に必要な戦術となります。因みに、『蓬左文庫桶狭間図』に当時の主要地方道である前之輪から丸内を経て善明寺への砂州上の道を描かなかったのは、その周囲が水田であって、戦場にはなり得なかったからなのかもしれません。

また、今川義元が漆山に陣取っていれば、黒末川の上流にある鎌倉街道の渡渉場所の小坂も見張ることができますから、敵に奇襲されるような心配もなく、万全な構えであったと思われるのです。

 

<駿河勢殿軍の陣内の様子>

ところで『三河物語』は、物見から帰陣した石川六左衛門尉の報告を受けている場面を伝えています。そして、それは決して、経験のない駿河の武将が歴戦の六左衛門尉の意見を聞くために、山の上で並んで善照寺砦に現れた織田勢を観察しているようなものではありません。それに、『三河物語』には義元が登場しませんから、桶狭間山本陣の様子を書いたものでもありません。………一般には義元の今川本陣での会話であるとされていますが、厳密に検証したわけではないようです。おそらく、山上にいるのだから桶狭間山であり、桶狭間山ならば義元本陣であると短絡しているだけだと思われます。

何故、本陣や本陣先備ではないと思うのかといえば、それは、三人・五人といった織田勢が六左衛門尉らがいる山に上がってきており、駿河勢が我がちに逃げ出しているからです。本陣前備の兵士が、本陣を守る為にそこに居ることを忘れて、そのような事をするでしょうか?………絶対にあり得ません。と云う事は、本陣などではないということです。

それに、織田方がまるでナポレオン以降どころか現在の軍隊のように、少人数の部隊に分散した「散兵戦術」で攻撃するなどということが考えられるでしょうか。信長方は圧倒的に兵力に劣るのです。………としますと、これは織田軍の中から抜駆けした佐々・千秋隊の残存部隊であり、駿河勢は佐々・千秋隊を撃破して撤退中の部隊であるものと考えることができます。

では、石川六左衛門尉は、何処の山上の何れの部隊にいたのでしょうか?

これは、義元が出立した後の「漆山」に残っている殿軍の様子を書いたものと見做すべきだと小生は思います。そして、駿河勢の殿軍陣中では、武将らが織田軍の意向を計りかねて困惑していた様子を描いたのだと思うのです。それもこれも、信長の出現が「遅きに失した後詰」だったからです。信長にやる気があるなら、駿河勢が丸根・鷲津砦を攻めている最中に、その背後を襲うのが定道だろうと、今川方は思っていたでしょうから、駿河勢としては戦闘が終わって退き上げの頃に現れた、そんな信長勢がどういうわけか意気軒昂に見えるのが理解できないからなのです。

『三河物語』には、「信長は思いのままに駆けつけ給う」という文章がありますが、「思いのまま」という文句が気になります。………大久保彦左衛門は、信長にとっては計画通り・想定通りと捉えてるようですから、信長は最初から義元を捕捉して戦闘に及ぶ心算であったと見做しているようです。逆に、義元側の武将たちは大高救援や付城攻略などは、初めから目的を外れた余計な仕事でしかなかったらしく、織田軍との戦闘は考慮していなかったかのようにも受け取れる書き方であるように思えます。そして、駿河勢の武将には大高の重要性をよく理解できなかったらしいところをみますと、当時の駿河武将達の中には「義元の戦争指導」に多くの不満があったことも窺えることになりますので、彦左衛門の見解(三河物語)が正しい様に、小生には思えるのです。

そのような目でみますと、『三河物語』が「誰か是かと言ううち、やや久しく、誰とても無し」と書くのは、戦国大名今川義元の権力が強くて、国人衆が反抗できなかったのではなく、義元の仕方が国人衆に軽視されたからのように思えます。現代では、義元の側に宿老ら重臣がいなかったために、急場に義元に代わって指揮を執る者がいなかったことが大敗北の原因であったという人もいるのですが、中央集権化を図りつつあった義元が、後の武田勝頼と同様に有力国人衆に嫌われた結果であったことを暗示していると見た方が良いのかもしれません。

ところで、『三河物語』には、「嵩にある敵を下より見上げてみるときは、小勢をも大勢にみるものなり」という記述あります。

これについて、『豊明市史』は駿河勢が「織田軍を小勢と判断している」ことから、彼等が上から下の敵(信長勢)をみていると解釈すべきあるといいます。………と言うことは、駿河勢は山の上にいて織田勢が山の下にいることになり、織田軍は中島砦にいるか、その背後の丘の斜面を下っている最中であると考えられことになります。

これは、重大なことです。つまり、『豊明市史』の解釈にしたがえば、駿河勢と同じように山の上にいる善照寺砦や朝日出の織田勢を見ているのではないということになるのです。そして、見ている駿河勢の武将が桶狭間山にいるという先入観をもって臨めば、信長勢が山際にきた場面だと考えて、何の疑問も持たないでしょうが、よく考えてみてください。もし、桶狭間山の駿河勢であるならば、六左衛門尉にわざわざ聞くまでもなく、行軍してくる織田勢を指を折って数えることができたはずなのです。………従って、ここは桶狭間山ではありませんし、その前備が陣取った山でもあり得ません。実際に数えられない状況にある織田軍を見ている駿河勢のことなのです。

同時に、織田勢を過大に見積もった石川六左衛門尉は、「下から上にいた織田軍を見上げた」ことになるはずです。つまり、石川六左衛門尉は織田勢の間近まで物見に出向いていて、黒末川河岸から善照寺砦のある丘のうえにいる織田勢を見上げていたということになるのです。そうでなければ、六左衛門尉の見積もりが過大になるはずがありません。『三河物語』が六左衛門尉の相貌をあれこれ描写し、彼が歴戦の勇者であったと書くのは、駿河勢の武将が三河武士を臆病者と見做したからなどではないのです。六左衛門尉は危険を冒して、出撃しようとしている敵陣近くまで物見に出かけてきたからです。

山鹿素行は『武家事記』に、「この時の戦に、義元方より石川六左衛門と云う、度々の軍功ありしものを物見に遣わす。石川帰りて敵戦(敵軍の情報)をもちたり、只今寄せ来るべしという。」と書きます。

ここで、その意味するところを考えます。

駿河勢がいたのは、漆山や桶狭間山など何れかの山上にいたことになると考えられるのですが、石川六左衛門尉が桶狭間山の前備から斥候に出て往復したと仮定しますと、桶狭間山の前備から物見をする場合は、漆山から物見をする場合に比べて倍の時間を要することになります。それに、桶狭間山から中島砦辺りまでは3km程も距離があることを考慮しますと、態々物見を出すまでもなく、東海道を行軍してくる信長勢を充分に観察する時間があることになります。ということは、そこを行軍してくる実際の織田勢を数えればよいのですから、わざわざ斥候を派遣する必要などはないことにもなります。信長が行軍する最中に、その兵力をつぶさに観察できるからです。

先にも申しましたように、この時の六左衛門尉は、織田勢を大勢と見積もっており、「敵を嵩より見下ろせば、大勢の敵であっても少勢にみえるものだ」と言っています。『豊明市史』の解釈を敷衍すれば、それは下から見上げているからだということになるわけですが、これは彼が斥候に出かけて、善照寺砦の対岸である黒末河畔にかなり近くまで寄って観察したらしいことを示しています。逆に、漆山にいた駿河勢の殿軍の将は、六左衛門尉が敵陣近くから帰陣する間に、織田軍の先頭が中島砦に入り後続の兵が対岸の丘陵斜面を下りてくる様子をみて敵兵力を実際に数えたに相違ないことになります。これならば、駿河の武将が織田勢を適確に見積もり、六左衛門尉が過大に見積もったのも合点がいくことになります。………従って、石川六左衛門尉がいたのは殿軍がいた漆山であると見做すことが適当だということになります。殿軍の場合には、中嶋砦から800m程度しかありませんから、撤退を急がないと少数の今川勢では、補足殲滅される恐れがあるのですから、朝日出から出現した織田勢の実態を的確に把握する必要があったわけです。

(2008.08.11 挿入) もうひとつ六左衛門尉が過大に見積もった原因がありました。それは「天理本」に熱田・山崎辺りから見物人が大勢ついて来ていたというからです。彼等は即席の旗竿なんぞを持たされて如何にも兵士のように見せかけていたのかも知れません。

さらにもうひとつ『三河物語』が示唆している重要なことがあります。それは、ここが義元本陣ではないことです。何故なら、『三河物語』はこれに続いて「早々帰らせ給えと六左衛門尉申ければ」と書くからなのです。そして、織田軍が彼等のいる山にまで登ってきているのです。

一般には、六左衛門尉は元康のいる大高城に帰るのだと解釈するようですが、そのようなわけはある筈がありません。それは、六左衛門尉が大高城の元康の許へ向かったのならば、元康が合戦のあったことを知らなかったと言う『武徳編年集成』の話は嘘になるからです。だからこれは有り得ません。

六左衛門尉は当然その原隊に戻ったと考えるべきでしょうから、彼が向かったのは彼の寄親の許だと考えられます。そして、義元が松平勢の全てを元康に預けて、大高城へ籠め置いてきたとも思えませんから、六左衛門尉が帰るのは先に撤退している原隊の許であると考えるべきだと思うのです。即ち、この場合は桶狭間山の義元本陣です。

『三河物語』では、続いて「(六左衛門が)急ぎ早めて行くところに、(織田勢の)徒の者は早五人三人づつ山へ上がるを見て、(駿河勢は)我先にと退く」と書き、六左衛門尉が帰陣する途中で、織田勢の一部が丘を登って来るのをみているのですが、これからしましても、ここが本陣前備であるはずがありません。先備は高所に陣取っているはずですから、そこから帰陣する途中である六左衛門尉からは、山の反対側を登坂中の織田勢が見えるはずがないからです。このように敵兵に遭遇せずに且つ敵兵を見かけることができるのは、漆山なら東斜面を下りて東海道を東へ退いている場合と、西斜面を下りてから小川道を大高方面へ退く場合なのです。

さらに『三河物語』に「徒の者は早五人三人づつ山へ上がる」とある織田の兵は、信長の率いる織田勢の本隊などではなく、佐々・千秋らの敗残兵と前田犬千代ら一旗組みだと考えるべきです。

駿河勢は、決して信長本隊に追われて逃げているわけではありません。駿河勢の殆どは撤退しており、そこへ信長の本隊が姿を見せたため、最後に残った殿軍の将が六左衛門尉を斥候に出して敵情を偵察し、安全を確認したというのが真相だと思うのです。その偵察の結果、殿軍の駿河勢も早々に引退く仕儀になったのだろうと小生は考えるのです。

 

<牛一はなぜ書かないのか>

ところで、漆山に駿河勢が布陣していたと仮定した場合、先ず問われなければならないことは、千秋らの兵三百人を一蹴した一千人程度の兵力を持つ駿河勢のことです。なぜ一千人程度かといいますと三百人を一蹴しているのですから、ランチェスターの法則から三倍以上の兵力であったことが想像できるからです。そのような駿河勢がいたならば、当然信長はこれを当面の敵としてとらえ、牛一も『信長公記』に記載しただろうとと思われることです。………ところがそれがないのです。

なぜ牛一がそれを書かないのかと言えば、これは牛一にとっては余りに当たり前であって、詳細に書くまでもなかったからだからだと、小生は考えます。また、詳細に書くことを求める人もいなかったから、書かなかったということなのだとも思います。即ち、前哨戦を戦った千秋・佐々・岩室ら名誉の武将の後裔から、先祖の武功を顕彰して詳細に記載させる要請が無かったということです。さらに思いますに、千秋・佐々らが戦ったのが義元勢そのものであり、先鋒の朝比奈勢などではなかったから、態々「義元本隊の殿軍」であると説明しなかったのだとも思います。同じような理由で、善照寺砦の前面にある山々に敵影がないことも、特段の記載をしなかったのかも知れません。

(2008.07.22 挿入) それでも、この軍が殿軍であることを思わせる軍記物もあります。小瀬甫庵の『信長記』がそれなのですが、そこでは「簗田出羽守進出て仰(オオセ)最可然候。敵は今朝鷲津・丸根を責て其陣を易(カフ)へからす。然れは此分にかからせ給へは、敵の後陣は先陣也。是は後陣へかかり合ふ間、必大将を討事も候はん。唯急かせ給へと申し上けれは、いしくも申つる者かなと高声に宣を各聞て実(マコト)に左もあらんとて、弥(イヨイヨ)軍の機をそ励しける。」と書くからです。

では逆に、牛一にとって当たり前ではなく、特別に記録した事は何かと言えば、義元本陣が善照寺砦から直線距離で3.5kmほどしかなく、如何に常識的に安全な距離をとっているとは言え、義元が信長を迎え撃つための布陣をせず、桶狭間山という「敵前」で大休止したことだったと思うのです。これには牛一も仰天して、名も無い山に敢えて桶狭間村の山と名付けて覚えにしたものと思います。当日の目的を達し終えたはずの義元がなぜ最前線で大休止などしているのか、理由が判らなかったにちがいありません。

牛一が、「桶狭間と云ふ所は、狭間組みて、深田足入れ、高み低きみ茂り、節所と云ふ事、限りなし」と特筆していのは、低いと言えども標高が50mほどしかなく、高低差なら20程度しかない大小の丘陵が連続して里道もなく、開拓された場所は深田であって、大軍を展開させるには不適当な地形だったからであるように思います。つまり、これらの山々に四万もの軍勢を布陣しようとすれば、峰峯に分散して布陣しなければならないのですから、決戦するにはせっかくの大軍も宝の持ち腐れになってしまうと思うのです。それぞれ互いに援護し合い難く、大軍でしたならば各個撃破されることはないでしょうが、それが付近の山々峰々に大軍を布陣させるでもなく、善照寺砦から信長が見る限りは桶狭間村方面にある山の前面に「備」(義元からすれば殿軍)を段々に備えただけなのです。

因みに、これは賤ケ岳合戦で秀吉・勝家の双方が山々峰々に布陣したのとは訳が違います。秀吉も勝家も北国街道を扼す位置に砦を築き、砦どうしは尾根道で連絡し、秀吉の方では街道も堀と土塁で遮断しているからです

中央の本丸から一元的に指揮・統制されるように作られた織田・豊臣式築城術を学ぶ以前に築城された城は、寄親単位でそれぞれが独立した峰々に拠って戦っていましたから、大掛かりな山城であっても、殆どが独立した郭の集合でしかなく、中央から指揮統制を必要とする戦闘は実行できませんでしたし、守備兵たちもまた統合されたくも無かったらしいのです。つまり、大軍を用いて決戦を求めるという観点からすれば、兵法の常道に反した布陣だと思うのです。

だいたい、義元が信長との決戦を意図するならば、その正攻法は鎌倉往還を西進して善照寺・丹下の両砦を攻めるべきでしょうし、同じく布陣するにしても相原北方の丘陵上に本陣を置いてその前面の丘陵地を戦場に予定したはずです。何も天然の堀である黒末川を間において布陣する必要などはないのです。

織田勢の多くは義元が大軍であるという先入観に縛られて消極的な戦況把握をしていたのに対して、信長だけがただ一人義元の布陣を見て「駿河勢には既に戦意なし」と見破ったものと思えます。それが、信長に「あの(今川の)武者(は)、(前日の)宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、疲れたる武者なり」と言わせるわけですし、簗田出羽守がただ一人積極的に信長を支持して織田勢を一丸とすることに貢献したことを以て勲一等を与えられたのだと小生は思うのです。………このように、牛一や信長にとって、千秋・佐々らの合戦場は目の前で行われたのですから、特別に場所を書く必要なくてもよい至極当然のことだったのでしょうが、逆に義元が止まった場所(桶狭間山)の方が意外だったのでないのでしょうか。もし、こように考えることが許されるなら、これは信長方では十七日から桶狭間村に瀬名氏俊が陣所を構えていたことも知らなかったということになりますから、戦国時代の諜報能力というものは、その程度のものであったということを示していることにもなります。

翻って、現代の我々にとって不思議な状況は何かを考えます。すると、それもやはり「義元が、桶狭間山にいる事」であると思われます。それが現在の我々にとって不思議なのは、「義元が、沓掛城から大高城という極近所へ行く途中であるのに、何故そこに長時間止まって休息しているのか」ということにあると思います。後世の人にとっては、どの様に頭を捻っても午前十時頃から討ち死にすることになる午後二時までの「四時間」にものぼる長時間を、例えその途中に雨に降られたとしても、それも炎天下の桶狭間山上で過ごす意義も大高城の重要性も見出せないからです。

ところで、善照寺砦にいた織田勢にとって、牛一の信長公記に書く「」とは、将に現在目の前で進行中のできごとだったのだと思うのです。「望楼から物見をしてみたら、そこに駿河勢の全軍が、既に山上に陣を敷いていた」というようなものではなく、「今まさに、駿河勢の先頭は山に上がり、その後に陸続として部隊が移動中であった」のだと思うのです。つまり、その様子は、駿河勢の最後尾にいたってはまだ漆山辺りに布陣したままであったとも思えるます。もしこのようであれば、信長には目前に出張してきている義元勢は、例え大軍であってもその大半を各地に分散しており、兵力は案じたより少なく、撤退中なのですから、既に戦意に乏しいと映ったのだと思うのです。まさしく信長がみた通り、「あの(今川の)武者、(前日の)宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、疲れたる武者なり」という様子だったのだと思います。

そこで、信長が午前十時頃に善照寺砦に参陣したとしますと、到着してからはずっと戦況を観察していたことになりますから、駿河勢が戦場から整斉と引き退くのも見ていたことになります。従って、その時にはまだ兵が集まっていない信長としては、前哨戦を撃破して粛々と退いていく駿河勢を切歯扼腕しても見逃すしかなかったのです。事前に兵を集結していなかった信長にはする事もできる事もなかったのです。これは、明らかに信長の当日の行動が事前に計画されたものではなかったことを表しています。

同様に、後世の我々と同じく、牛一にも信長が何を考えていたかが理解できなかったように思われます。それは、付城が攻撃を受けたのを聞いてからの信長の一貫してみられる駿河勢を捕捉・攻撃しようとする意志と、それ以前の煮え切らない信長の行動とは矛盾しているからです。牛一には、なぜ前線からの情報に基づき、鷲津・丸根に後詰をして駿河勢の背後を衝かないのかが理解できませんでしたし、少なくとも事前に兵を集結させて置かなかった理由も分からなかったでしょう。

もう一つ考えられるのは、信長が義元の征西を水野氏と義元との争いとみており、義元の尾張侵攻は無いと考えた場合です。もとより、信長は大高城などには何の未練もないうえ、水野信元から救援依頼も受けていませんから、敢えて出撃しなかったという場合もあります。事実、この時の水野氏は織田氏と連携した行動をとったようには見えませんし、既に今川方に寝返っていたのか、その動向は不明瞭なのです。ところが、義元が突然矛先を北に転じて丸根・鷲津砦を攻撃したのです。そこで、信長は始めてこれを迎撃する決心をしたと見做すこともできなくはないと思います。可能性はあまりありませんが。

ホームページ制作、ホームページ作成歯医者転職SEOインプラントオール電化