<桶狭間合戦場の地理>  

この章の最終項に、国土地理院の米軍撮影航空写真を参照できるようにしてあります。 

<海岸線について考える>

現在、桶狭間の戦い当時の海岸線について想定されたものには、

  1. 旧参謀本部の桶狭間戦史付図と、
  2. 小和田哲夫氏の『桶狭間の戦い』の付図と、
  3. 藤井尚久氏のイラスト合戦俯瞰図とがあります。

これ以外にもあるかも知れませんが、多くは無批判に小和田氏の推定図を使用しているように思えますので、ここでは前の二点を検証したいと思います。最後の説は小和田氏の説とあまり変わりません。

実際に合戦当時も存在した道には、「前之輪」を「丸内(マルチ)」から北東へ行き、「善明寺」から現在の日本車両工場の中を横切り、「手越川」を「車路橋」で越えて、「下中」で東海道へ通じる砂州上の道があります。

因みに、現在の地図では日本車両工場の南側が「母呂後」になります。

『蓬東大記』によると善照寺・善妙(明)寺・光正寺・などは寺の名が字名になったものだといい、これらはみな室町以前の寺ですから、その周囲には檀家になる農家と農地があったことになります。ということは、少なくともこの時代の海岸線は「砂州上の道」より相当西側になければならないはずだと思うのですが、参謀本部も小和田氏も陸地を狭く見積もっています。唯一、広く考えているのが蓬左文庫桶狭間図です。

  1. 小和田哲夫氏による当時の海岸線の推定復元図では、概ねこの「前之輪〜丸内〜善明寺道」を境にして、その西と北を伊勢湾と考えておられますが、これは適当とは言えないのではないのだろうか。
  2. 旧参謀本部桶狭間戦図や『蓬左文庫桶狭間図』では、その道路からもっと北と西に広い範囲で陸地があったと考えています。これは、上汐田の旧字のうち武者(歩射)山は『鳴海旧記』や『蓬東大記』の記事から、室町時代には既に耕地であったことが知れますから、これは妥当な推定であると言えると思います。
  3. 『蓬左文庫桶狭間図』では、前之輪から丸内、京田、上汐田を経て、鳴海城下の作町の土場付近に舟で渡るらしい道まで描かれていますから、この辺が満潮時に水没したとは思えません。
  4. 『信長公記』には、「爰に河内二の江の坊主、うぐゐら(弥富町・鰍浦)の服部左京助(友定)、義元へ手合せとして、武者舟二十(干?)艘計り、海上は蛛の子を散らすが如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ候へども、」とあり、服部氏の船は大高河口に遊弋しておりまして、鳴海城下まで侵入できておりませんから、当時の天白川と黒末川は鳴海城下で合流し、河口は大高川と合流するあたりにあったものと思われ、『蓬左文庫桶狭間図』の表現は正しいように思われます。

以上のことから小和田氏の海岸線復元図は不適切だと考え、旧参謀本部の作成図の方を採りたいと思います。

次に、小和田氏や旧参謀本部桶狭間戦図で想定している「黒末川の川幅と河口」は非常に広く、笠寺台地は非常に瘠せて描かれているのですが、それに対して『蓬左文庫桶狭間図』のイメージでは、天白川と大高川が河口で合流しているだけでなく、川幅が狭いことを強調していることがあげられます。これは、干潮時における実際の水路は『蓬左文庫桶狭間図』のようであり、その余は干潟が広がっていて、満潮時には小和田氏や旧参謀本部桶狭間戦図ほどの川幅になったからだと思えます。なぜなら、現代の伊勢湾では最大干満差が約3m弱程もあるからです。

 

 

これについては、『信長公記』も「鳴海の城、南は黒末の川とて、入海塩の差し引き、城下までこれおり」と伝えておりまして、現在でも大潮の時には、扇川の上流の中嶋橋付近や、支流手越川の元名古屋下中郵便局裏辺まで潮がさしていますが、あくまで城下に面していたのは潮入ではあっても「黒末川」であると言っています。伊勢湾ではありません。『公記』は海であるとは言っていないのです。ですから、当時の海岸線は蓬左文庫図の方が正しいのだろうと考えます。

当時の黒末川河口の干潮時の水深がどの程度であったかは不明なのですが、丸根砦の佐久間大学らが、頻りに鳴海潟の「汐の干満」を気にしているのは、もしかすると干潮時には鳴尾の浜から鷲津砦の西にあたる汐田辺りに渡渉できたのかもしれません。これは飽く迄想像に過ぎません。明治二十六年発行の地形図では鳴尾村から汐田へは現在の大慶橋−汐見橋のところに車輌渉所の地図記号で表示されています。 

因みに、現在の天白川には堤防があり、天白川と黒末川が合流してからは、両川を分離する中堤上をサイクリングロードが造られていまして、その辺りの干潮時の水深は深くても膝下までの50〜60cmだということですが、確認はしておりません。

注意すべきなのは、『信長公記』には「武者舟二干艘計り、海上は蛛の子を散らすが如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ候へども」とあることです。駿河勢が鷲津砦も攻め落とした後であるにも関わらず、大高城に兵粮を入れた外は、天白川河口の右岸にあたる鳴尾浜辺りに上陸したとも伝わりますが、午前八時頃が満潮であるのにも関わらず鳴海城下近くまでは乗り入れていないのです。これが、当日の午前中は潮が干き初めていたことによるものなのか、善照寺砦・丹下砦や中島砦などの付城の警備が厳しかったからか分かりませんが、彼ら服部らも鳴海城は包囲されてはいても危機に瀕していたとは思っていなかった可能性も考えられます。

しかし、どちらにしても『信長公記』は海上から武者舟が乗り入れたのは「黒末川口」であり、それは「大高の下」であると明記していますから、やはり当時の河川の状況は蓬左文庫の示す如くであったと見るべきだと考えます。

また、牛毛、荒井は天白川河口にできた砂州上にあり、中世以降の集落のようであると看做されており、慶長十三年の記録といいますから恐らく検地帳だと思うのですが、それには荒井・牛尾・南野・本地・笠寺・戸部・山崎を星崎七カ村とするという記録があるといいます(確認はしていません)。『鳴尾村史』によると、松炬島が海退によって港の機能がなくなると、その代わりとして星崎村の鳴尾ノ浜(鳴尾ノ松の所)が平安時代から江戸期に及んで使用されたといいますから、小和田氏の海岸線推定は不適切であるものと思えます。その点では、旧参謀本部の推定図の方が満潮時における海岸線をよく表しているのではないかと推測されます。

逆からみると、桶狭間合戦当時の「干潮時」の海岸線を最もよく表しているのは、『蓬左文庫桶狭間図』であるということになると思います。

<参考>また、以上のように、伊勢湾の潮汐の問題が満潮時に熱田から鎌倉海道の下手の道を通れないというだけの理由であるのならば、実際に信長が通ったように、上野道を通ればよいだけのことですから、多少時間がかかるという問題にしか過ぎず、軍事的に大きな意味を持つとは思えないのです。それなのに、『信長公記』は特筆しているのです。これは、鳴尾から鷲津砦の近くに徒渉出来る場所があったからだと思います。この場合には、上野道は軍事的に相対的に不利なものに転落します。何故なら、扇川を越すのに中島橋を渡って中島砦から出撃することになるので、前面の水田が邪魔になり兵力を展開できずに行軍隊形でいるところを駿河勢に迎撃され易くなるからです。ところが、小和田氏を始め多くの方々は、鳴海と大高の間、手越川の左岸を大平原であることを前提として考察されておられるのです。例えば、旧参謀本部が鷲津砦のある山の北に、朝比奈勢を善照寺砦にむかって布陣したと想定したりするのがそれですし、藤井尚夫氏が『日本の合戦・織田信長と桶狭間の戦い』で、前之輪と作町を南北に結ぶ道より西は、海浜であり満潮時には冠水するものと想像され、その道と前之輪と善明寺を結ぶ道との間には大きな池を想定されていて、その道より東は平原に見做して天白川の左岸も広大な干潟と考えておられることがあります。しかし、『蓬左文庫桶狭間図』には池らしいものは描かれていませんし、天白川流域の開発は黒末川よりも早く、現在の浦里については『信長公記』も「(鳴海の)西又深田なり」と記しており、後には裏田圃と通称されたところなのですから、明らかにこれなどは史実に反する想定だと思われます。

以上のことから当時の海岸線を復元しようとしますと、鳴海城下・中島砦辺りでは川幅はそれほど広くもなく、水深は深くもなく、船底の浅い川船ぐらいしか入れなかったことが考えられます。

そうしますと、

  1. 善明寺辺りは陸地であった事
  2. そこへ前之輪から通じる砂州上の道の西側も広く陸地化していたことが考えられます。
  3. 少なくとも、河川敷や干潟になっていたと考えられますので、小和田氏の推定海岸線は、余りに陸地に食い込み過ぎていることになり、参考にすべきではないことになります。

従って、推定海岸線としては旧参謀部の推定の方が好ましく思えますが、その川幅を考えますと、それは満潮時の最大川幅を表したものであり、干潮時の川幅は『蓬左文庫桶狭間図』の如くであったものと考えるのが良いのではないかと愚考します。

当時の海岸線を考えるには名古屋市消防局が平成5年5月に発行した『天白川洪水ハザードマップ』が参考になりますが、現在は国土交通省のものを手軽に見ることができます。こちらから⇒

<戦場について考える>

鳴海と大高の間にある陸地が当時水田でしたならば、足場が悪くて大軍を展開する戦場には向かなかったと考えられることは、前項でも少し触れました。

日本において、当時の大軍が戦場に選んだのは、主に荒野や川原、丘陵や山地に限定されます。両軍が田を戦場に選定するのは、そこが休耕田であるか乾田であって、水田の場合は水を抜く季節に限られたものと思われます。もし、水を張った季節に水田地帯を戦場にしたとしますと、龍造寺と島津が沖田畷で戦ったような情況になるからです。

黒末川左岸には下中・平部・曾根といった地名があり、黒末川南部、手越川左岸には柳之長・向田・京田・母呂後・丸内などという地名があるのですが、更にその西には上汐田・中汐田・下汐田といった田畑にちなんだ字名が見出せます。そのため、この辺りが当時どの程度までが、水田として開発されていたかが大きな問題になります。

また、下中(シモナカ)は、中島で別れる扇川と手越川の分れ一帯の間上流部分を言い、中島の砦が有った場所ですが、十六世紀初めの桶狭間合戦の前には、大府・共和方面から平部山(諏訪山)越えをして鳴海で鎌倉海道に繋ぐ緒川(小川)道の人家も東海道ぞいに引っ越してきていたらしく、今の鳴海町平部の町並みを作り始めていたと考えられています。 このことは、東海道を人々が利用しはじめていたことを表します。もちろん、軍隊の大群が行軍するようになるのは、信長が街道整備を始めた後のことにはなりますが。

京田(キョウデン)は経田(キョウダ)として、読経料として鳴海八幡宮へ寄付した田だといいますから、早くから開拓されたものでしょう。汐田という字は、満潮のときには海水の影響のある新しく開拓された農地だといいます。海が陸化して田とされた所だそうで、製塩が行われた事により付いた名ではないといいます。上汐田の旧字のうち武者(歩射)山は『鳴海旧記』『蓬東大記』の記事により室町時代には既に耕地であったことが知られています。

柳長(リュウチョウ)または柳の長(ヤナギノオサ)という地名は、柳の木の生えている田という意味で、「長」は田の一区画だそうです。昔の柳長は現在の向田・保呂後・丸内を包含している大きな地域でした。向田(ムカイダ)は村の向へ側に有る田という由来で、丸内(マルチ)は丸く囲まれた土地だといいます。

 中汐田の辺りは、江戸時代に「八幡のはな」と呼ばれていて八幡宮との関連があるそうです。下汐田のなかで最も古い干拓は寛永十七年の縄入れの小原新田だといいます。平手・平子・平部という地名は傾斜地の意味といい、黒末川左岸の下流側の曽根田(ソネダ)というところは、石ころの多い耕地としては良い土地ではなかった事によって付いた字名だといいます。その上流側に若田という地名がありますが、ここは元禄本多新田名寄帳にも見える地名で、その南半分を薮下といい、1557年に今川義元が安堵したことで知られています。

このようですから、深田は桶狭間ばかりではなく、黒末川や手越川の両岸の多くも深田が広がっていたとすべきかも知れないのです。尤も、当時の水田は、現在のように見渡す限りの水田ということはありませんから、畑や休耕地も多くあったと思うのです。中世の一般農村の景観は、見渡すかぎりが水田であったというような、現在の濃尾平野のようなものではなかったといいます。雑穀・桑・野菜・果物を季節によって雑然と栽培していたらしいのです。しかも、連作が効かなかったことから、所々は何も作付けせずに休耕地として放置してあったと考えるべきだと思います。

濃尾平野においての現在の一面に水田が広がる景観は、戦前から高度成長期に形成されたものだと云います。 中世の農業技術の特徴のひとつに「片荒らし」農法があります。中世では、平地に一斉に苗を植えるというような稲作技術はまだ整っていおりませんでしたし、灌漑技術も未熟で肥料に関する技術や知識も浸透しておりませんでした。また、家父長制的地主による経営が中心でして、隷属した労働力の投入も自発的意欲を欠いていたため非効率でしたから、水田一枚に毎年続けて作付けされることは稀であったといいます。そこで、地力を維持させるために、意図的に作付けと休耕が交互に繰り返したために、耕作地と休耕地が入り交じることが一般的であったのだといいます。

このようなわけで、桶狭間合戦時も丘陵地以外は大軍を展開するに適していたとは考え難いものがあります。つまり、日本において大陸式の隊伍を整えて陣形運動をしての戦法が発達しなかったのは、恐らくこのような地形によると思うのです。このような地形的制約もあって、家子郎党らを単位とした小集団で戦闘する方が有利であったからに違いないと思います。それでも、大兵力を有した方が強いであろうことは疑いのないことではあります。地形的な制約により小集団での戦闘が有利であったために、軍記物では頻繁に一騎打ちが起こり、彼方此方で一休みしている光景が描かれ、出かけて行っては戦い、疲れたならば陣地へ戻って休むというようなことが行われたのだと思われます。従って、武田信玄が行おうとしたような中国式戦法は、その哲学を別にすれば、日本においては極めて特殊なものであったと思うのです。

そのように考えますと、『信長公記』が「脇は深田の足入り、一騎討ちの道なり」というのは、通常は中島砦までの道までしか考えませんが、もしかするとそればかりではなく、中島砦から先の道の両側にも深田があった可能性もあります。一般には信長が中嶋砦を出陣するにあたって、「今度は、無理にすがり付き、止め申され候へども」というのは、信長が小勢だからと理解されているのですが、これもそれだけの理由なのではなく、東海道も漆山辺りまでは深田の中の一本道であったのかもしれません。それに、東海道も神明から先は山間を通るために軍勢を展開できませんから、そこで迎撃されると全滅する恐れがあったからなのではないでしょうか。

では、当時どこまで開墾されて水田になっていたかといいますと、これが不明なのですが、『蓬左文庫桶狭間図』を手掛りにして想像しますと、そこに描かれた義元本陣の山陰にある雨池を琵琶ケ池に比定しますならば、左京山の北、四本木の南辺りまでの手越川河畔は全て水田であったとも考えらます。そうしますと、荒蕪地になるのは有松の入口になる鎌研辺りから東であったものと考えることができるのではないかと思われます。

 閉話休題 <有松村>

「有松」という地名の由来が、江戸の始めまでの此辺りは松林が一面に広がっていたことによるとも言われています。また、『有松町史』は、ここの谷底平野は狭いうえ、砂礫層とシルト層の互層となっている崩土地帯であり、農地としての利用が困難であって、戦国期には田畑の開発がなされなかったとしています。明治年間の測量図においても琵琶ケ池より東の東海道沿いに溜池はみられませんし、その山間には田も畑もありません。このように、手越川左岸が小川道と合するあたりから西にあたる伊勢湾側が水田に開発されていたとしますと、そこは大軍を展開する戦場にはなり難かったと思われます。それらの中に散在する畑や休耕地、砂堆や里道が戦場になるだけだからです。従って、大軍を展開して組織だった攻撃を受けることは考えられません。そのために義元は、安心して桶狭間山に休憩していたとも考えられるのです。

<前哨戦の戦場を検討する>

もし、漆山に義元の本陣があり、その前面で前哨戦が戦われたのであったならば、手越川の西で東海道からかなり隔たった場所である母呂後が千秋・佐々らの討死場所だと『鳴尾村史』がいうのは何故でしょうか。………それが可能な場合を考えてみます。

母呂後は、北は善明寺、南は諏訪山麓と山腰、西は丸内、東は柳長と境を接しています。それを『蓬左文庫桶狭間図』でみますと、東海道と小川道の合流地点は、中島砦に近い「車路橋」辺りと思われ、義元本陣の前面は実際よりも大きく描かれているように思えます。但し、手越川は描かれていませんが「田」と記戴されています。

このような地形で、千秋や佐々らが中嶋砦から出陣したと仮定しますと、車路で手越川を渡り小川道を南下して漆山の裾野に向かうために、正面にある水田を避けて西側から迫ったものと考えることができると思います。歴史読本8月号に附録としてつけられていた『天理本・信長公記』には、「中島之砦より、信長善照寺へ御出でを見申、佐々隼人正・千秋四郎(の)、二首、山際迄被懸向候」と書かれていると紹介されていましたから、『鳴尾村史』は天理本を見て推察されたのかもしれません

寛政期(1789年〜1800年)のものと思われる『愛知郡村邑全図・鳴海村』を参考にしますと、平部山とその西の向山(青山)の北は、街道になっていた砂州や小塚以外は「田」と表示されて水田になっています。明治廿四年の地形図をみましても、東海道と小川道の合流地点は、やはり車路橋で手越川を超えています。そこ以外に手越川を超える橋の記載はありません。漆山の北面は田になっていますが、結構広い面積があります。母呂後・柳長は全部水田です。前之輪から丸内(マルチ)、善明寺、車路を通る道は砂州上にあり、桑畑と墓地になっています。

『信長公記』には、「槍下にて」とあって、駿河勢が法面で高所を占めており、小川道は漆山の西裾を通っていますから、前進した千秋・佐々らは西から漆山を攻め上がることになります。これに対して迎え撃つ駿河勢は、漆山の高所から西に向かって攻め下りることになったものと思います。そこで押し捲られた織田勢は、諏訪山の山裾を後退して母呂後で討死することになったと考えるわけです。母呂後もこの山裾以外の場所の大部分は、水田であったと考えるべきだと思うのです。

閉話休題 <上鑓下鑓>

因みに、ここでの「槍下」を戦闘中とか「戦場で」という意味で捉えるひともいるようですが、牛一は赤塚合戦において「(両者は)四間、五間をへだてて折り敷いて数刻の戦に、九郎二郎は、うわやりなり。其の比、うわやり、下鎗と云ふ事ありと言い、山の斜面や坂路での上側・下側を表現しています。また『名将言行録』補遺には、「利政(斎藤道三)、先きの兵士に三間柄の直鑓を持たせ、鑓の石突の際を縄にて結び手がかりにし、鑓前に成て人々之をかたげ上より下しかけて叩き立れば、味方忽ち上鑓になりて敵は自から仰形になる。仰形になりては踏留められぬものなれば、之を以て突崩し勝利を得たり」ともありまして、この場合には上から叩き押さえられて槍を担ぎ上げられなくなってしまった状態を言っています。ですから色々な意味合いがあるようですが、ここでは牛一の解説に従って、千秋・佐々らが討死した場所もかかる地形であったと考えるべきだと思います。但し、『信長公記』も上洛戦になりますと、永禄十二年(1569)正月四日の六条合戦条では、「御敵薬師寺九郎左衛門、幢本(旗本)へ切つてかゝり、切り崩し、散々に相戦ひ、余多に手を負はせ、鑓下にて両人討死侯なり。」という具合に、完全に「戦闘によって」とか「戦場で」という意味で使用しているようです。

灌漑技術や施肥の進歩によって、作付面積が増加していただろうことを除けば、戦国時代の水田耕作地も休耕田が多く、結構戦場になったのかもしれません。勿論、大軍を展開するに適した条件ではありませんから、大軍で押し捲る戦法は効率が悪いように思えます。その代わり、丘陵地に陣取って水田が散在する平地を前面にして布陣することは、織田勢の後詰を妨げるには有効であったと思われます。

 このように解釈した場合の、これから使用します積算上の諸数値を明らかにしておきますと、

  1. 中嶋砦から漆山裾(現鳴海町平部交差点)までは610mで、時速4kmで10分弱の距離になります。
  2. 漆山裾から諏訪神社北の山裾(母呂後)までは200mで、時速4kmで3分の距離です。
  3. 漆山から有松神社の松井宗信の本陣先備陣地までの距離は1,070mで、時速4kmで16分の距離です。但し、手越川には橋はありませんでしたが、水量は少なく渡渉は難しくはなかったと考えます。『蓬左文庫桶狭間図』に手越川じたいが記載されていないからです。
  4. 漆山から桶狭間山本陣までは1,970mで、時速4kmで30分の距離です。

今川義元は、前哨戦を観戦したかのように受け取れますから、ここではその条件を検討してみます。

 まず、中島砦の眺望を検証するために、64.9mの通説桶狭間山の前面に位置する高根(標高50m強)や幕山(標高55m強)から中島砦が眺望できるかを旧参謀本部桶狭間図で検証します。

高根と中島砦の縦断(区間距離2,150m)をとりますと、最も中島砦に近い位置(1,450m)にある最高標高は25mなので、それぞれのtangentを求めますと、高根で0.0232、標高25m地点で0.0175となりますから高根の方を見る場合の仰角が大きくなります。従って、視界の妨げにはなりません。

次に、幕山と中島砦の縦断(区間距離2,300m)をとりますと、最も中島砦に近い位置(1,260m)にある最高標高は30mなので、それぞれのtangentを求めますと、幕山で0.0239、標高30m地点で0.0238となりますから幕山の方を見る場合の方がほんの少だけし仰角が大きくなりますから、辛うじて視認できるようです。辛うじてということは、中島砦の前面で戦闘が行われたとしたならば、それを見ることは難しいだろうということです。

以上は、中島砦の場合ですから佐々・千秋らとの前哨戦の場合に直ちに適用することはできません。

そこで、いま、漆山か諏訪山の前面で前哨戦が行われたと仮定しますと、それが標高50mの高根山から観戦できる条件は、その視界にある戦場から最も近い30mの標高地点までの距離と戦場から高根までの距離の比が6対10より小さいことが一応の条件になります。これは、戦場が北方に上がれば上がる(中島砦に近付くこと)ほど条件は緩くなります。

 

<4.義元討死は深田ではない>

義元最後の地を桶狭間の谷地と誤解している人は多いのですが、義元もその歴戦の旗本も漸次減少していったとはいえ、深田に追い込まれて身動きがとれずに討たれたわけではありません。昔から、そのように書いた軍記も絵画もないのです。それなのに、今でも深田に遮られて討たれたと不用意に書く人がいます。

大体、『信長公記』はそのような書き方をしてはいません。『信長公記』が、いったい桶狭間というところは、土地が低く入り組んで、深田に足を取られ、草木が高く低く茂って、この上も無い難所であった。深田に逃逃げ込んだ敵兵が、ところかまわず這いずり回っているところを、若者たちが追いついては討ち殺し」と書く段は、雑兵が敗走した際の状況です。深田は桶狭間村辺りの土地の特徴を説明したものでしょう。それに、この辺りでは明治期においてさえも地蔵池より北に水田はないのです。

また、『信長公記』は、「義元側では初め三百騎ばかりが輪をつくり、義元を中に囲んで退いていったが、二度三度、四度五度と返しあって戦ううち、次第に軍兵も減り、後には五十騎ばかりとなってしまった」と言い、義元とその旗本達は騎乗して三百騎が一塊になって撤退しているのですから、水田の畦道を後退していたとは思えません。従って、騎馬で行く義元らが身動きをとれなかったのは、道のない松林を後退せざるを得ず、集団で一気に逃走できなかったからと考えるのが一番自然だと思います。

もし、八人担ぎの塗輿と軍隊が通れるような道(近崎道)があったならば、旗本たちは必ずや総大将の義元一人を逃そうとしたでしょうし、義元も逃げ遂せたものと考えるのが自然ではないでしょうか。それなのに、三百騎もいた旗本たちは、義元を逃がせなかったかったのです。これは、義元が道まで下りられなかったか、または道があったとしても塗輿どころか騎馬も通れなかったのだろうことを思わせます。

『信長公記』は服部小平太が義元と切り結んだことを紹介しているのですが、深田に追い込んで立ち往生させたような描写ではありません。このことは、義元の死地が山中であったか、台地上であったか、窪地であったかは別にして、湿地や水田ではなかったということだと思います。

そこで、水田の所在を調べるために、江戸後期の『尾張誌附図知多郡』をみてみます。

  1. 桶狭間村周辺の集落は阿野・大脇・近崎・北尾・伝右衛門新田・追分新田ぐらいしか知られていませんから、これらの村にしか水田はなかったでしょうし、飛地に開拓されたとしても、そこには溜池があり谷地であったと思われるのです。
  2. それに、桶狭間村は近代に至るまで他の村々からも孤立していたともいいますから、桶狭間村に限った水田の状況の推定だけでよいだろうと思われます。
  3. さらに、明治廿四年の地図から水田を調べてみますと、地蔵池から大池を経て西南にある共和村原の谷底平野を流れる鞍流川中溝川の間の狭い範囲にしか水田は分布していないことがわかります。
  4. 『有松町史』によりますと、慶長十三年に桶狭間に実施された備前検地では、村高213.975石の殆どが水田であっったらしく、それが229反925歩あり、畑は37反021歩しかなかったといいます。これが、明治九年の調査では、水田が491反627歩になり、畑は249反509歩になっています。二百七十年間で水田は二倍、畑は七倍弱に増加しているわけですが、水田はほとんど増えていないということがいえます。

つまり、明治期の地図の半分しか水田はなかったというわけです。天保十二年(1841)に作成された桶狭間村絵図でも明治期と大して変りません。因みに天保八年までの面積は、田畑の合計が156,555歩、畑が58,013歩で37%を占めています。これは備前検地に比較して二倍強になっています。

明治期の地図の表記は水田なのですが、『有松町史』によりますと、鞍流川流域の稲田は湿田が多いといいいますから、それから当時の桶狭間にある湿田を想像しますと、当時から存在した地蔵池や大池や二ツ池など小数の溜池の下部と、鞍流川流域の狭い範囲にその存在に限定され、現在存在する谷地の溜池は、その殆どが存在しなかったものと見做せばよいと思うのです。

有松商工会議所の運営するHP「有松人」によりますと、現存する備前検地の『桶狭間村御縄水引帳』には、「いくうら(池裏、池浦)」に二町歩に近い深田が存在していたといいます。また、田楽坪の南には二町歩の大きな大池があり、天明元年の『桶狭間合戦絵図』には、「池うら田面本田二町歩、午新田一町四反三畝歩、未新田一畝歩」とあるとも紹介しています。この意味するところは、深田に嵌って討たれた兵士というのは、駿河勢が幕山巻山など鞍流川の西の丘陵地に陣取っていたならば、それらの兵士たちだと考えられますし、高根生山武路武侍など大池の北の山上に布陣していた兵士の場合も、南に追い落とされて深田に填ったということになるのだと思います。

桶狭間山の本陣にいた兵士は、その南方に東ノ池があり、その西側が水田なのですが、それ以外は疎林や原野です。『信長公記』の記述が正しければ、義元本陣は東から信長に攻められているのですから、水田のある方へは逃げることはできませんし、本陣後方にあたる東や南には深田などは存在しませんから、本陣の将兵の殆どは深田に嵌ることはなかったと思われるのです。その証拠は、長福寺桶狭間村が戦火にかかっていないことがあります。

 最後に、誤解されるといけませんから書いて置きますが、田楽坪(ヒロ坪)という場所は深田の中に浮かぶ島などではなく、東の丘陵が岬のように迫出してきている突端です。谷間の底にはなりますが、低湿地などではありません。ですから、義元が此処で討たれる可能性は十分にあります。当時の鳴海〜桶狭間道は此処を経由して、現在のように大池の西側を通らずに東端を通り、瀬名陣地から長福寺の門前へと続いていた可能性があるからです。義元が海道へ下りようとした場合には、此処へ来るのです。

 

<5.義元が本陣を置いた場所>

義元が討死した場所を特定するには、彼が何処へ逃げようとしたかが問題なのですが、その逃げようとした方向を確定するにも義元の本陣位置を特定しておかなければならないという、堂々廻りに陥りそうです。

先ずは、諸資料が記す本陣位置について、その表現方法を比べてみることから始めます。勿論、これらの資料の著者が当事者から聞き取って記したとも断定できませんから、意味がないと言われればそれまでのところがありますが、少なくとも現代の人間より以前の人々がどのように認識していたかだけは分ります。

  1. 一部で言われるように、義元が低地にいたとしますと、桶狭間山の西なら田楽坪(ヒロ坪)瀬名陣所、北なら武待の東にあたる浅い廻間か東海道沿いの山麓が、義元が討死した場所の候補地として考えられることになります。
  2. 蓬左文庫桶狭間図の距離に関する注記では、「同所(鳴海城)ヨリ桶狭間合戦場迄廿三町拾三間」とあり、これは漆山を遥かに超えている場所を指しています。
  3. 戦術的な桶狭間山の意味は、北をはしる東海道と刈谷・緒川から鳴海に抜ける鳴海道および大脇から大高に通じる大高道を扼す位置にあることです。ですから、あくまで敵軍の監視や防御の意味合いが強いものであって、攻撃的な要地にはなりません。
  4. 戦術的には、義元がその本陣を、西は高根・幕山、北は生山・武待、東は桶狭間山などの高地に囲まれ、南は深田であるような田楽坪の窪地や、東海道沿いの林の中に置くようなわけはないように思われるのですが、それでも義元が本陣で討たれたのではなく、そこから低地に下りていたとする人が多いのも事実です。その根拠とするところは、当日の暑さを避けるのが目的であると言うことと、信長が高所から駆け下って義元本陣に攻め込んだという軍記物があるからです。
  5. 軍記物には、『成功記』が「山際に陣取って悠々と御座しける」と書き、『総見記』が「桶狭間の山下芝原に敷皮敷かせ、義元それに座し休ひ、勇み誇りける処へ、近郷の寺社の僧・社人ら悦びの樽を進上しければ」としています。
  6. 『三河物語』は「(義元討ち死にの風聞を受けて大高城から斥候にでた)右三人桶狭山の北の松原に至りて今川の陣所を見るに」と書き、『慶長見聞集』は「義元は松原にて酒盛りし給う所に」とし、『甲陽軍鑑』は「義元は三河の僧と路次のかたはらの松原にて酒盛りしておはします所へ」といい、『山澄本・桶狭間合戦記』は「桶狭間山の北の松原」とし、『水野家譜・水野勝成覚書』は「桶狭間にて昼弁当あがりけるところ、上の山より服部小平太突き掛かり」とし、『三河東海記』は「名僧を集め連歌などしけるそ今川の武運の末と知られけり」といいます。

そこでこれらの記事をよくみますと、「桶狭間山の北の松原」と書くものが多く、決して「窪地」であるとは書いてはいないことに気がつきます。

唯一そこを「桶狭の内、田楽坪註 と云う処に、昼弁当遣い、酒飲んで雨を凌ぎ何心なく居たるところへ」と明記しているのは、あまり信用されていない『三河後風土記』ぐらいなものなのですが、これについては、八切止男氏が、「明治四十四年に非売品として出された史籍雑纂・第三巻に収録されている大系図抄に、(三河後風土記は)江戸の元禄時代まで生きていた近江の百姓沢田源内という贋系図屋が、書いた贋造史料本の一つで、内容が面白いのは、興味本位に書かれてあるせいだ」と、一刀両断に切捨てられています。 

註 現ヒロ坪が田楽窪と呼ばれたのは、合戦廿七年後の天正十五年(1587)に行われた雪斎卅三回忌に「護国禅師三十三回忌拈香拙語并序」とあることで、戦国時代からのものであると小和田氏が考証しておられます。

ところで、問題なのは、これら史料の言う「松原」や「山下・山際」それに「路次のかたはら」を「狭間」と解釈してよいかということにあります。

果たして、狭間は折からの熱暑を避けるために、風通りがよく避暑に適しているのでしょうか。確かに、西風が吹けば東海道は、東西に通じた狭間ですから風も通るでしょうが、田楽坪は南北の風でなければ通りが良くはないと思います。それに風通しということだけならば、山上でも松林の中ならば同じことですし、暑さを避けるために日陰を求めるのでしたならば、当時も存在したと考えられる「長福寺」や桶狭間の村人の家屋を接収して本陣にすればよさそうなものだと思うのですが………。 

 暑かろうが寒かろうが、本陣は高所に設営するものであって、それらを理由に山麓の民家を本陣にしたりは、絶対にしないものです。通常は、小屋掛けをします。そのためには近隣の民家を取り壊して建築材料にしています。

それなのに、それが「狭間の低地」であったと誤解を招くのは、『成功記』が『山際』、『総見記』が「桶狭間の山下」、『甲陽軍鑑』が「路次のかたはら」、『水野家譜・水野勝成覚書』に「上の山より」などの書き方をしていて、如何にも低地にいたかのようにも思わせるからなのです。

しかし、これらは皆64.9mの山頂を「山」と言い、それより一段下の台地をさして「松原」「山際」「路傍」と表現したのであると云うのであれば、特に書き方に問題がある訳ではなく、読者の側の受け取り方の問題でしかないようにも思えるのですがいかがなものでしょう。

特に、甲陽軍鑑に「路次のかたはら」とあることが、東海道の路傍に比定する根拠にされますが、これなどは大将ケ根の真下にあたるのにそれに対する備がないことになりますから是認できるものではありません。つまり、東海道の路傍に本陣を置く場合には、当然に大将ケ根太子ケ根の山上にも駿河勢を脇備として布陣させたはずなのです。ですから、東海道の路傍に本陣を移したという説は、信ずるに足らないものだと思うのです。 

因みに、小和田氏は、田楽坪古戦場の方がより低湿地で深田のイメージに近いという理由から、義元最後の地を緑区の方に比定しておられるのですが、田楽坪古戦場の西の山・巻山や高根は山林でして、そこに攻め来るには桶狭間から鳴海へ通う道を攻め上ってくるしかないのですから、必ずや松井宗信の守る先備に阻止されたはずなのですが、実際に信長と真っ先に戦ったのは先備の松井宗信ではないらしいのです。松井宗信は、信長が先備をすり抜けたのを発見して本陣に急を知らせようといわれ、本陣に取って返して乱戦の中に一族ともども討ち死にしているともいわれているからです。

百歩譲って、義元が大高城に行くために桶狭間山から田楽坪に下りた註−1,2 ところに、運良く信長が行き当たったのだとしましても、信長が義元を東方に見つけるには、信長は幕山方面から来なければならないのです。ところが、『集攬桶迫間記、総見記、尾洲桶狭間合戦記、家忠日記、中古日本治乱記、尾陽雑記、将軍記』などは、みな信長が先備を迂回したと伝えているうえに、『塩尻、集攬桶迫間記、知多郡大脇村山絵図、桶狭間村合戦記』などは、討ち入る前の信長本陣は、田楽坪の北約1kmにる会下山(大将ケ根)であるというのです。

 註−1 今川義元が田楽窪(ヒロ坪)に下りる理由について、藤本正行氏は、タクテクスという雑誌で、「桶狭間山で先鋒隊の敗走の様子を見ていた義元は、それを救援しようとして本陣の将兵をまとめようとしたのか、金持ち喧嘩せずで、無理をする必要はないと判断して、本隊に一時撤退を指示したとかして、田楽窪に下りたところを、織田軍のスピードが予測より早かったために、補足されて討ち死にしてしまった」という趣旨の説を唱えていたような気がします。定かではありません。 

 註−2 室蘭民報ニュース:第43回市民文化祭のぼりべつ2007参加の「郷土史の夕べ」が6日夜、登別市民会館で開かれ、登別郷土文化研究会と登別市立図書館の共催。市内美園町在住の戦国史研究家・谷口克広さんが「織田信長の合戦〜桶狭間の戦い・長篠の戦いの真実〜」と題して講演した。「今川軍の前衛部隊が押し戻され苦戦していた。今川軍は構えていた山から下って、正面から攻め込んだ信長軍と戦ったのが真実ではないか。奇襲ではない」と述べた。氏の『信長の天下布武への道/戦争の日本史13』と同じ内容かも知れない。その場合は、概略「義元は東海道を行軍し、北から桶狭間山に上って正午頃に陣を布いた。信長が善照寺砦に着いた時には、今川軍の前衛部隊は東海道をすでに中島砦近くまで進んでいた。佐々・千秋別動隊が今川前衛隊にしかけて撃破された。信長が中島砦に進出した時、今川前衛隊は中島砦の間近にいた。これを撃破して山際まで進んだところで風雨に見舞われた。一方前衛が敗れたのを見た義元は桶狭間山を下り、高根山をうち越して谷あい(東海道)に至った。これで信長は東に向って攻めかかることになる午後二時。義元は押しまくられ再び長坂を後退し、高根山から桶狭間の田楽坪まで押し戻されて、そこで討たれた。」というものである。(2007.11.22 追記)

『信長公記』の桶狭間山を64.9mの山に比定し、義元の本陣をその頂上に求めている限り、田楽坪を始めとした低地で義元が討死することは難しく思われます

これは、義元は深田で討たれたのではないと思われるからです。桶狭間山は、小島広次氏が『今川義元』で推測し、小和田氏らもこれを支持している通り、64.9mのその辺りで最高の標高を持つ無名の山と認められていて、妥当であるようにも思われるのですが………。

では、義元の本陣が本当にその頂上にあったかというと、これがどうもはっきりしません。今川義元の本陣としての桶狭間山を特定する便(ヨスガ)は、現在のところ『信長公記』しかないのですが、そこに書いてあることは、

  1. 夫より善照寺、佐久間居陣の取手へお出であって、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、………固有名詞としての桶狭間山というものは現在に至るまで存在しない。
  2. 槍下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして五十騎計り討ち死し候。是をみて、義元の矛先には天魔鬼神も忍べからず、心地は良しと悦んで、暖々として謡をうたわせ陣を据られ候。………「是をみて」とあるからには、義元が直接この前哨戦を観戦したように思える。
  3. 信長、御覧じて、中島へ御移り候はんと候つるを、脇は深田の足入り、一騎討ちの道なり。無勢の様体、敵方より定かに見え候。………敵方とは義元をいうのか、先備えか、朝比奈勢かがよく分からない。
  4. 山際まで御人数寄せられ候ところ………山際とは義元が本陣を据えた山か、その先備えの布陣した山か、それ以外かがはっきりしない。
  5. 旗本は是なり是へ懸かれと御下知あり(中略)初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ々ゝ、次第々々に無人になって、後には五十騎計りになりたるなり。………三百騎もの騎兵が一塊で撤退できる広さがある場所であったらしい。

という五ヵ所だけなのです。そこから言えることは、

  1. 桶狭間山は、駿河勢が布陣していることを善照寺砦から確認できる場所です。
  2. 義元は千秋・佐々らの戦闘を観戦できたようです。………義元がいた場所を本陣と定義しますが、行軍途中の小休止であった場合もあり得ます。
  3. 信長が「御覧じ」たのは佐々らの討死であって、謡をした義元でなくてもいいのですが、謡をする義元が見える場合も確認する必要があります。
  4. 「山際」が義元本陣の置かれた山か、先備の置かれた山かは不明ですが、その東南方向に義元本陣はあるはずです。ただし、常識的には先備の布陣していた山の際とみるべきであります。何故なら、まだ風雨が起こっていないのですから、そこをすり抜けたり迂回したりすることはできないからです。(本陣と先備が同じ山の上下にある場合もあり得ますが、その場合には義元本陣の方を現在比定されている場所より、西の山上=高根などに想定する必要があります。)………2008.07.10追加:天理本によれば、義元勢は段々に備えたとありますから、その場合の山際は明らかに先備の布陣した山ということになります。
  5. 義元は本陣から乗馬によって後退し、それを騎兵の集団が囲むことができるだけの余地があったことになります。しかし、義元一人さえも逃げ延びさせることができなかったのですから、街道からは少し離れていたと考えられ、その海道側から攻められたものと思われますが、関係する海道は東海道、鳴海道ですが近崎道も地方道として機能していたという説もあります。
  6. 当時から桶狭間村に存在したと思われる大池の傍らにある長福寺は戦火にかかっていませんから、駿河勢とはこの辺りで戦闘が行われてなかったものと思えます。信長は義元を東側から攻めたといいますから、これより北または西の丘陵上が主戦場であったと考えます。丘陵から下りれば深田と大池に阻まれるからです。

さて、牛一は明確に「おけはざま山」としていますから、それが桶狭間村に利用権のある山であれ、桶狭間村方面にある山であれ、善照寺砦の東にある二村山のある丘陵や南に対面する平部山(当時から固有名のあったであろう)などではなかったことは確かだと思われます。では、標高25mある善照寺砦からみえる桶狭間方面の山はといいますと此れは、高根付近の高地に限られてしまいますから、決して漆山や二村山方面の丘陵などではありません。

次に、今度は今川義元が佐々らの戦いを見ることができる条件を考えます。

 最近では、藤井尚夫氏が小島氏の比定した付近から1kmほど北西の高根辺りに義元本陣を想定し、東海道上で戦闘が行われたとしておられるものがあります。ここは40〜50mの丘陵で南の幕山との鞍部に桶狭間〜鳴海道が通っており、善照寺砦から見通すことができる場所ですから、『信長公記』の記載に矛盾することはありません。

しかし、昨今いわれるような東海道を東行して、義元を強襲する場合には、義元の前備を迂回することはできませんから、多くの軍記物の主張に反するという欠点があります。『塩尻』は太子ケ根から攻撃したとし、『老人雑話』や『武徳編年集成』は間道より攻撃したとしていますし、『井伊家伝記』『奥山孫市郎遺言』『参州事実録』などは先備と本陣の二手に分かれて攻撃したとしているのです。

それ以上に、藤井尚夫氏の仮説の問題点は、東海道は狭間の中を通っていて大軍を展開するに適さないのに、その狭間の中に駿河軍が充満していることにあります。狭間を封鎖することは軍事的には意味があるのですが、その中に大軍を止めることは、兵法の常識に反します。せっかく敵に優る兵力を有していても左右に展開して、両翼で敵を包囲殲滅する可能性を自らなくしているからです。

また、瀬名伊予守氏俊の陣所伝説地よりも1kmほども離れておりまして、瀬名氏が事前に自陣よりも敵に近い場所に本陣を設けて置いたとは思えないことがあります。本陣整備中にも敵の攻撃から守るために、瀬名陣所の背後に施設するのが相当であるからです。ただし、瀬名氏が事前に本陣として陣城を築造した痕跡が発見されたとは聞きませんから、義元が事前に桶狭間山に止まる計画があったようには思えません。

また、東海道が山間を抜けてもその先、曾根から中島までが水田の中を通っているとしたならば、これまた大軍を展開して決戦などが出来ない場所であったことになります。従いまして、義元が大高城に向かっている途中である限りは、高根に布陣して昼食をとることはまともな布陣とは言えないと思います。

また、藤井氏のイラストが描くように、駿河軍が互いを臨見できるような状態で布陣していては、山鹿素行が『武家事記』で「先手後備ともに義元討死を知れるものなく、手に遇うもの少なし」と評していることに矛盾していますし、氏真が朝比奈らの武将を免責していることにも矛盾します。………おそらく、素行の場合には、「駿河勢は行軍隊形で長く伸びたまま、街道傍らの山上にあがっての休息中」であったとみなしての発言なのでしょうが、歴戦の駿河勢の軍事行動としては信じ難いものがあります。

 従って、藤井氏の高根本陣説が現実的になるには、義元の兵力が非常に少ない場合しか考えられません。その場合の本陣前備は東海道と鳴海〜桶狭間道の分岐点(現・祇園寺辺り)を扼す高所に、手越川を堀に見立てて陣取っていたことになると思います。手越川は小さな川ですが、それでも其れは堀と同じ役目を果たします。ですから、最近いわれるように今川義元が先鋒の救援に赴くときにも、この川を超えようとする信長軍を討とうとするはずなのです。決して渡りきってしまった信長軍と比較的平たんな東海道上で戦闘しようなどとは思わないはずです。信長に手越川を渡り終えられてしまったならば、次には東海道と鳴海道との分岐点から坂道にかかる高所に陣取って迎え撃とうとするはずです。………信長が東に向かって攻め掛ったということに拘泥していると、軍事的にありえないお粗末な指揮を義元にさせることになってしまいます。

 

<別動隊を考えた場合>   2008.1.27

以上の他に、義元が低地に降りたところを討たれたとするものに「桶狭間にて昼弁当あがりけるところ、上の山より服部小平太突き掛か」と書く『水野勝成覚書』と「上の山よりも百余人程突て下り」と書く『松平記』があります。最近、この「上の山」を固有名詞の地名だと解して大脇村の字上ノ山に比定しそこから織田別動隊が攻め込んだために今川軍は裏崩れしたとされる仮説を橋場日月氏が歴史群像に提唱されました。しかし、そこには大きな問題があります。

氏は「暴風が吹きはじめる中、服部小平太他百名の部隊は大高道を南下して上ノ山に到達する。」とされるからです。駿河勢が面も上げられない状況の風雨の中を、真横からの風を受けて3km(小一時間はかかる)も移動できたという仮定は、今川方にフェアであるとは思えません。しかも織田軍が清洲〜熱田間の12kmを一時間弱で移動できたなどということは、とても信じられないことです。大正六年(1917)に行われた最初の駅伝「東海道五十三次駅伝競走」は、京都の三条大橋を午後2時に出発し、東京の上野不忍池までの23区間、約508kmを走り抜き、到着したのは翌々日の午前11時34分で、時速11km強だったのです。もし、騎兵だけであったから可能であるとされても、三里もの距離を強行軍させたならば、戦場では使い物にならなかったでしょう。『信長公記』には、「余人の馬どもは飼つめ候て、常に乗ることが稀なるに依つて、究竟の名馬ども、三里の片道さへ運びかね、息を仕り候て、途中にて、山田治部左衛門馬を初めとして、損死候て、迷惑せられ候。」という記事があるからです。

次の問題は、上ノ山から九左山を経て桶狭間山へは、当時は道などなかったと思われることです。そして、直線距離にしてこの間3kmほどもありますから、例え疎な松林であったとしても雑木などが繁茂していて、その踏破には小一時間はかかったものと思われることがあります。勿論、風雨が止まなければ西向きには進めませんから、当然に風雨は止んでいなければなりません。これは、どういう問題を惹き起すかといいますと、信長が空の晴れるのをみて攻撃開始を命じてしまっているということです。従って、信長が義元本陣を発見し、義元の旗本らが義元を守って引き退き、二度三度と取って返して戦った時間が一時間ほどもあった後に、服部小平太らは義元勢の背後に辿りつけたということです。………つまり、橋場氏が言われるような桶狭間山の東の上ノ山方向にあたる義元本陣の背後から襲撃された事によって義元本陣が崩れる(裏崩れ)などということは起こり得なかったということです。

以上のことから、雨があがって信長が未(ヒツジ)の刻に義元を発見してから、服部小平太の到着まで優に小一時間を費やしてしまっているのですが、『信長公記』には「上総介信長は、御馬の先に今川義元の頸を持たせられ、御急ぎなさるる程に、日うちに清須へ御出であって」とありまして、信長は当日の「日の入の19:10」までに清洲に帰還していなければならないのです。そして、桶狭間の戦場から清洲までは23km強ありますから時速6kmの騎馬行軍で約4時間ほどかかることになりますから、午後3時には引揚げを開始しなければならないことになりますが、果たして服部小平太はこれに間に合うように義元を討ち捕れるでしょうか。………尤も、薄暮を考えると30分ほどはオマケできなくもありませんが。

ところで、何も大脇村まで行かなくても桶狭間村にも橋場氏が切り捨てられた「字上ノ山」があります。桶狭間村の字「上ノ山」は、字郷前の南が天保十二年の村絵図で「上之山畑」と呼ばれています。名古屋市合併前の小字名です。もし、ここから織田方が攻め込んだとしたならば、それを担当したのは緒川の水野勢でしょう。

この場合には、先の説よりもっと面白い仮説を展開できます。何故なら、戦後の信元は、家臣・浅井六之助道忠を派遣して大高城番になった元康に撤退を促したとされているからです。ところが元康は、叔父であるとはいえ敵方の信元の言うことは信用できないとしているのです。………但し、これはあくまで仮定でのお話ですから念のため。

信元が緒川から攻め上がってきたということは、大高道を封鎖しているのですから、元康が叔父・信元を信じられないのは当然です。そして、躊躇する元康に浅井が先導して無事に逃がすことを元康に売りつけて松平勢を無事脱出させたというのですが、それを知った信元が怒ったという話があるのです。また、元康は大野村〜常滑村〜岩成村へ行き乙川浜から船で対岸の三河田戸へ渡って逃れたという説もあります。

しかし、小生は、元康が義元が討死したことを信じられなかったり、信元を信じられなかったのではなかったと思います。信元が浅井六之助を派遣したのは、降伏の勧告のためであり、だからこそ元康は使者である六之助を捕縛したりしたのです。現実に水野信元に退路を断たれており、再び虜になって今度は緒川水野氏の麾下に服さねばならなくなることを、元康は按じたのです。

そうだとしたならば、なぜこのような水野信元の偉功が伝承されなかったかといえば、それは江戸幕府の創始者である神君家康を貶めることになるからでしょう。叔父とはいえ家臣になった緒川水野氏に敗れて降伏寸前にまで追い込まれたからです。しかし、実際の元康ら松平勢は降伏開城して撤兵したのかもしれないのです。それを疑わせるのは、その後の水野信元が三河の政治に調停役として大きな役割を果たしていることがあることです。それが、元康の大高開城を証明しているように小生には思えます。………どうです、この仮説の方が小説にするにも気が利いているでしょう。

(2008.07.08追加) 「上野山」という表記ではあるが、天保十二年丑五月の有松村絵図には長坂あたりにもそのような地名があります。史料上の一般名詞などを無暗に「固有名詞」として解釈することは、もはや遊びに過ぎないのではないでしょうか。特に地名は、当時から人に利用されていなければ固有名詞化していないはずなのですから、当時の資料によらずに固有名詞として扱うこと自体が、史実を歪めていることになるのではないかと危惧します。いかに古い字名とはいえ、現代に残る地名を探索することは問題がありますから、当時の集落・寺社・街道・河川の位置などとも含めて総合的に判断する必要があるはずです。また、地名は移動・変遷していることも多く当時の呼称であると断定することも難しいものがあると思います。

<地図を見る>

通説でいう義元本陣の位置を、第三師団参謀部による明治廿一年名古屋近傍図で表された植生によってみてみますと、桶狭間村の回りは伐採し尽くされたのか、全てが疎な矮松になっています。等高線は明確に描かれていまして、桶狭間山と思しき標高64.9mの丘もあります。日本図誌大系の明治廿四年の地形図でも、桶狭間山の周り全ては疎な松林なのですが、等高線ははっきりしません。武侍や生山も全て疎な松林です。次に大正九年の地形図でみますと、64.9mの丘の北側は伐採が進み疎な矮松地でして、その北の武侍や生山も明治期の地形図よりも疎な松林に変わっています。

これを昭和63年の国土地理院の地形図に比定してみますと、桶狭間山の北側には、武侍に朝鮮中高級学校ができています。この朝鮮中高級学校の南、64.9mの丘の北側辺りで標高40m代の辺りを、『成功記』の「山際」、『総見記』の「桶狭間の山下」に想定できるように思われます。

この辺りの詳細図には、昭和31年に愛知用水を作るときに測量された五千分の一の地形図があり、豊明市史に紹介されています。これによる地形の概容は大正期の山容とほとんど変化はありません。桶狭間山の山頂から北にあたる場所は、北の武侍や生山まで全て矮松地であるようです。僅かに高徳院の周りのみが疎な松林です。また、複数の小峰をもっているのですが、その勾配は五分の一程度(約12度)ですから、それ程急勾配というわけではありません。

最寄の街道からの利便性をみますと、桶狭間山の北で大池の東丘陵、武路、生山、武侍の順に悪くなります。大池の東丘陵と武路は街道からの距離は共に300m程度と同距離にあるのですが、大池の東丘陵は先行していた瀬名伊予守氏俊の陣地の直近にあるため、通路と本陣が整備されていた可能性が最も大きいものと思われます。一方の武路や武侍は共に里道は通っていなかったと思われますので、疎林であるとはいえ、塗輿で移動していたと言われる義元が、低草木を掻き分けて登ったものとは考え難いものがあります。勿論、義元以外の将兵は、踏み分けて登ればよいのですからこの限りではありません。

愛知用水公団が愛知用水を建設した時の竣工写真が二葉だけ、『愛知用水・その建設の全貌』に掲載されています。一葉は中京競馬場駅の西から武侍の朝鮮中高級学校方面を写した竣工写真であり、正面上方にみえる池は大池であり、64.9mの桶狭間山は左縁の外になり写ってはいませんが、開発が進んでいる様子からみて、おそらく既に削り取られているものと思われます。旧東海道の凸部が標高27.11mの場所でして、右手の丘で標高56m程度ですから、桶狭間辺りは極めて緩やかなうねりの丘陵地であることが窺えます。もう一葉は名鉄中京競馬場前駅から田楽坪〜NHK方向を写した竣工写真です。 (写真にはリンクしていません。悪しからず)もしかしますと愛知用水公団には、着工前の同景の写真が残っているかもしれません。そうすれば、桶狭間山の全容が理解しやすくなるのですが。  2007.9.30 追加: 国土地理院が航空写真の閲覧サービスを試験的に始めていますが、そこに米軍が1947年11月7日に撮影したものがあります。  ⇒こちらからhttp://mapbrowse.gsi.go.jp/cgi-bin/airphoto/photo.cgi?index=523647&group=USA10kCB&course=R514&num=46&size=normal  附録に参照して注釈をつけました。

<桶狭間山の植生>

桶狭間の丘陵地はみな疎林であったとしましたが、これに対して反対の意見もあります。

有松商工会議所の主催する『HP有松人』は、「合戦当時存在していた集落は沓掛村、阿野村、大脇村、桶狭間村、大高村、鳴海村、相原村しかなく、沓掛−桶狭間の間は山林で里道もあるとは考えられない。合戦より262年後に書かれた尾張徇行記には、当地付近一帯は山林650町歩とあり、延亨二年(1745)、天保十二年大脇村庄屋の作った絵図を見ても、このあたり一帯は山林となっていて、64.9mの山はその中心部に在って、塗輿は勿論のこと乗馬隊、荷駄隊も通行は極めて困難所である」とされています。

しかし、桶狭間の山林を、鬱蒼たる広葉樹の原生林と想像しているのならば、それは正しいこととは思えません。何故なら、戦国時代は地域を支配する領主によって、また江戸期に入ると、山林は尾張藩の管理下に置かれて、厳しく伐採を制限されたことも事実であったとは思われるのですが、この地域は古くは猿投窯生産地帯の外縁にあたり、桶狭間の辺りにも窯があったことが知られていますから、この辺りの山林資源は窯業の燃料として利用されていて伐採され尽した後の二次林であったと小生は考えるからです。

(2008.08.14 挿入) 現に、『HP有松人』の参照する延亨二年(1745)の大脇村山絵図には、「所々生山 但壱反ニ付、概五六尺木 十五六本程 但三四尺以下小松生うすはけ共」「拾三町所々兀山(コツザン)」などという気になる注記が多数施されています。兀山とは樹木の茂っていない山つまりはげ山のことです。「生(ナマ)」は人の手が入らず、作為をほどこさず、自然のままであることなのですが、それでも一反(約100m四方)につき1.5〜1.8m程度の貧弱なおそらく赤松が15〜16本しか生えていないというのです。………この事実からみますと、桶狭間村の「生山」も元来は人手の入らない山がその意味であったものが、「織田軍兵士は這い上って攻撃したから這山」という意味付けした伝承が生まれたものと思います。

猿投窯での焼成には大量の薪を消耗としたので、またたく間に森を消滅させ、窯は燃料を求めて波紋の様に広がった歴史があります。初期の窯は一回焼くために四畳半一部屋分ほどの木材を消費したといい、薪には火力が強く炎が長く灰量が少ない松(特に赤松)が使われたといいます。そして、須恵器を焼かなくなったのは、五百年間にわたり燃料の木を伐採しつくしたからであるといわれており、『日本後記』には陶邑の薪争いとして記録されています。

このことを『名古屋市史』によってみますと、東尾張天白川流域の中世窯業は十二世紀までは東山地区にあり、そこから十三世紀以降は天白川・扇川流域の鳴海地区・有松地区(有松支群)へ移動しており、十三世紀後半にはそれも廃れていったとしています。おそらく、猿投窯が活動していた頃は付近の自然林の楠・椎・樫・ウバメガシなどが燃料(研究について未見、常滑窯の分析結果から推定)として使われていたものとも考えられますが、陶土だけでなく燃料も枯渇したものと愚考します。

またそれだけではなく、『有松町史』によりますと、愛知郡と知多郡境の谷底平野は狭いうえ、砂礫層とシルト層の互層となっている崩土地帯であり、農地としての利用が困難であったことにより、戦国期には田畑の開発がなされなかったといいますから、戦国時代に領主から利用を制限されて、里山として手が入らなければ、疎な赤松林になっていたものと思われます。従って、後世、尾張藩によって植林されたとしても、疎な黒松林にしかならなかったと思うのです。

『大府市誌』によって尾張藩の林政をみますと、「知多の山林には木曾ほどすぐれた美林がないため、木曾に敷かれたような厳しい統制ではなかった。(中略)知多郡で御林が設定された年代がわかる村は、(尾張徇行記によると)延宝六年(1678)緒川村、元禄七年(1694)寺本村・岩屋村・切山村・大符村・西大高村、同八年古布村・草木村である。(中略)知多郡の村絵図には御林がほとんど描かれているので、元禄七年〜八年を足がかり、以後すぐれた山林を順次御林に設定していったと考えられる」といいます。しかし、現代に残る御法度がほとんど「」に関する条文であるともいいます。そして、その理由を「知多の山林は松がよく繁茂しているだけで、ほかはあまり役に立たない灌木類の故に、このよう(な御法度)になったと考えられる」と述べています。

このことは、太平洋戦中から戦後の森林伐採とか、洪水や土砂災害の多発に対して、治山治水の国策事業として植林がされた際にも、乾燥した痩せ地が杉・桧などの植林には適さず、また燃料および砂防用に主として、松が植林されたらしいことが知られていますから、決して鬱蒼たる広葉樹林などでなかったことは確からしく思われるのです。

因みに、現在の植生については、第2回自然環境保全基礎調査・植生調査報告書 1979年 愛知県(下図参照)によりますと、黒松植林かモチツツジ・赤松群集、アラカシ群落に一部コナラ・栗群落がみられるに過ぎません。 註 拡大図は附録にあります。詳細はそちらをご覧ください。

従って、戦国時代の桶狭間山は赤松の疎林であり、付近には大脇村と桶狭間村しかなく、人家がなかったため山中には里道も通っていなかったと考えるべきだと小生は思います。これは、『有松町史』に桶狭間村は南朝の落人が隠れ住んだことが立村の起源と伝承されるように、近代に至っても他村との交渉が少ない孤立的な集落であったとしていることからもいえると思います。

このような疎林の通行可能性ですが、輿は無理であっても兵士や軍馬の踏破能力を見縊るべきではありません。これは、当時この北方を沓掛から二村を経て鳴海に通っていた鎌倉街道が特定できない理由として、境川の流路や流量の変動によって渡渉地点が変っただけでなく、それに連れて比較的簡単に交通路が変更できるような低い丘陵と松の疎林が広がっていたからだと考えられていることからも云えます。桶狭間山が同様な状況であっても不思議ではないと思います。

このように、人馬が全く通れないなどとは考えるべきではないのですが、道がないために低草木が生い茂っていたことは確かだと思います。特に夏草の生い茂る時期には、通過が困難であったために、義元の旗本が東に逃げたとした場合には、何度も取って返して織田勢と渡り合わねばならなかったのはそのためとも考えられます。そのため、義元は本陣から然程遠くへは逃れられず、桶狭間山の東または東南の山中で討たれた可能性は高いものと思います。 

(2008.08.20 追加) ところで、こうも考えられます。人肥(人糞尿)を肥料として使用し始めたのは鎌倉時代末期あたりからと考えられていますが、人肥は都市近郊でないと大量には入手できませんので、桶狭間村人は荒れ地の草を肥料にしていたことも考えられるわけです。そうしますと、桶狭間村の山では数少ない歪松の下草や灌木などは、あるいは燃料として或は草肥として刈り尽くされいて、意外と障害にはならなかったかも知れません。………但し、この場合には、迂回説を採る人が注意しなければならないことは、義元本陣の近辺に潜むことが難しくなるということです。

 

<追加:進撃路について>    2008.5.30

以上のことは、桶狭間山について考えてきたのですが、これを当時の広義の戦場である鳴海−沓掛−大脇−大高出囲まれた地域全ての丘陵地帯に言える可能性もあります。

その場合には、この地域がすべて松の疎林であったならば、丘陵の凹凸を除けば道がなくても比較的自由に進軍することができるということが可能になりますから、そのようであれば信長には如何なる接近経路をも使用できることを許すことになるわけです。そして、合戦時に信長の乗馬の口取りをしていたという従僕の証言に「私(山澄淡路守英竜)が若い頃、昔、桶狭間の合戦のときに、信長公の馬をひいた下僕だったという男、もはや老人だが、この男が存命していて、鳴海辺りに子孫と住んでいるということを聞いた。(中略)私は成瀬氏と同道して、その孫という者の家に行き、老人に面会して昔の話を聞いたが、信長公が御馬にて山へ乗り上げ、また山を下りられたなどということのほか、格別のことは聞いておりません。(後略)」とあることを山澄淡路守英竜が語っていることが傍証になるかもしれません。

しかし、例え信長が山中どこでも行軍できたとしても、敵に接近して兵力を展開して対陣するまでは、できるだけ道路を通るだろうと考えるべきではないでしょうか。丘を上がったり下がったりしていては、谷間に下りている間は敵を見ることができませんから、何時々々敵に伏撃されるか分かったものではではありませんし、それを高所から眺めていただろう駿河勢は、おさおさ監視怠らないものと思われます。何しろ、信長勢やその別動隊(千秋・佐々・前田ら)が列をなして、岡の頂きから顔を出したり引っ込めたりしているわけですから。

従って、小生は攻撃隊形に展開する直前までは、両軍とも既存の道路を利用して行軍したものと考えるべきであると思います。………このことは、逆に桶狭間山で大休止している駿河勢の方も既存の道路を遮断し、山裾で兵を展開して攻め上がってくるだろう織田勢を迎撃する布陣をしていたものと考えられますので、駿河勢と信長軍の間に既存の道が存在しないような場所(山頂)に駿河勢が布陣したとは考えられないことになります。その点は、現地の地名に騙されないようにしなければなりません。

そのように考える必要がない場合もあります。それは、多くの先学が考えたように、義元が沓掛城からの行軍途中であり、信長勢に対して無防備にも横腹を曝したままで、不用意に海道の傍の手近な山々に上って休息していたと考える場合です。その場合の義元は、『信長公記』がいうように形式ばかりの僅かな先備を配備しただけで、長蛇の列を連ねて彼方此方の丘陵上で休んでいたことになるわけですから、駿河勢が何処にいようと街道沿いの山上ならばよいわけです。この時の駿河勢は、決して中島砦方面への戦闘隊形をとったりしてはいないことになりますから、念のため。

閉話休題 今川義元の塗輿

義元が沓掛城より桶狭間村までは塗輿に乗ってきただろうことは、『信長公記』に「義元は塗輿を捨てて逃げた」と書かれているので間違いないと思われます。だから、本陣が山上にあろうとも、義元は輿に乗ったまま山上の本陣にまで上がったはずだと、無意識に思い込んでしまわれるでしょうが、そう単純ではありません。道があって行けるところまでは輿で行き、そこからは徒歩で登頂したと考えるのが常識でしょう。乗馬が達者ならば騎乗したまま本陣にあがったはずです。

因みに、信長などは金華山の天辺にある岐阜城まで、日常的に騎馬で往復しています。他の者には騎乗しての登城は許さなかったといいます。対州馬などは、体高は、107cm〜136cmで、平均メス125cm・オス127cm位で小さい。普通130kgから150kgの荷物を運搬している。性格温順、粗食に耐え、負担力に富み、蹄が強靱なことから装蹄は行っていない。肢蹄が強く険峻な坂路に最も適し山路を上下するのに巧みである。

桶狭間の戦場に「義元の塗輿があった」ことは、義元がそれに座したまま山上にあがったという証明にはなりません。事実、義元は騎乗して逃げたと『信長公記』に書いてあります。ですから、「力者」が捨てなかったとしたならば、塗輿も後から担がれていっただろうと思います。塗輿は権威の象徴なのですから、それに乗って来ようが来るまいが、義元の行先にはついていきます。

ところで、今川義元は山上の本陣(?)に輿のまま上がったでしょうか?急な坂道は別にして、桶狭間山に設営されていただろう本陣まで、義元は輿に乗って行けたでしょうか?………この事は、多くの人が義元が沓掛城から間米を経て東海道を渡って桶狭間に向かったのいう説をたてることによって、問題化します。小生などは沓掛城〜間米〜東海道〜桶狭間という道などは当時はあるはずがないという立場ですから、鼻から問題にしませんが、ここでも駄目をおしておこうと思います。

  1. まずこの経路には当時は集落は一切ありませんでしたから、権威を見せつけたい義元がこのような人気のない道を肥満体であったために歩くのを嫌がっったからと云うだけで、塗輿で通るはずがありません
  2. 当時の東海道ですら多くの人は、海道として認めていません。 (小生は、鎌倉海道にとって代りつつあったと考えています。ただし、軍隊の通常行軍に適すまでには整備されていなかったと思います) ましてや、東海道にも劣る地方道では、八人で担ぐ(?)ような塗輿の通れる道幅があったとは考えられません。

義元が本陣の山麓まで塗輿できたであろうことは、『駿河実記』に義元が館を出る直前に落馬したため、「八人持ちの塗輿」に乗り替えたことが見えますから、信じてもよさそうかな………?と、思ったのですが、そうでもなさそうです。

というのは、信長が上杉謙信に贈った洛中洛外屏風・上杉本があるからです。今谷明氏は、屏風に描かれている武家屋敷に注目して天文十六年(1547)の京都であると結論しておられますが、そこには前に赤い毛氈の鞍覆いを置いた乗馬を歩ませている塗輿に乗った上杉謙信が描かれているのです。そして、その輿は前後各々一人づつの計二人の力者が、肩で担ぐのではなく、腰のところで舁いでいるので。ですから輿の幅は三尺位にしかみえません。 この画像は、「ギャラリー洛中洛外」で陶板で作成したものを実物大でみることができます。こちらから⇒<http://www.rakuchu-rakugai.jp/world/index.html#>さらに、最近発見された元和六年の東福門院入内を描いた洛中洛外屏風の中の多くの輿もみな二人の力者が腰のところで舁いでいます。時の関白・九条忠栄(タダヒサ)が乗る輿もです。また、三井美術館蔵の東福門院入内行列屏風図の場合の輿は、三人一組がそれぞれ輿の前後に付いて都合六人で舁いでいます。

『故実叢書・輿車圖考』によりますと、一般の者が乗る輿は力者が肩で担ぐのではなく、轅の左右両端を結んだ白布を、一人の力者が肩に掛け、左右の轅の両脇から二人の力者がそれを支え、そのような三人一組がそれぞれ輿の前後に付いて都合六人で舁くのだそうです。この場合にも、やはり輿自体の幅は三尺程度だと思われますが、それで通行するには三人が横に並ぶわけですから、少なくとも一間の道幅が必要になるものと思われます。これが、八人担ぎになった場合には、幅は変わらないでしょうが、長さが十尺(3m)ほどにもなるものと想像します。それに、担ぐ場合には相当な高さも必要になります。人の肩の上に座るのですから2m50cmにもなるのでしょうか?しかし、関東管領であった上杉謙信の塗輿が二人舁であるのをみますと、『駿河実記』のいう「八人持ちの塗輿」というのは再考を要しそうです。 注 輿については京都の風俗博物館の絵が参考になります。 HPはこちら⇒(http://www.iz2.or.jp/koshi/shurui.html) 

(2008.07.11 挿入) 中には、輿の場合には行軍速度が落ちると主張されるかたもあるでしょうが、輿で京都〜鎌倉を移動した四代将軍頼経の上洛の場合には、全行程19日(萱津に二泊)、実質行程18日でしたので、距離を550kmとしますと、一日30kmですので時速4km弱になりますから軍隊の行軍の支障にはならないものと考えます。

再び、桶狭間山の植生の話に戻ります。

於保俊氏と松原輝男氏の研究による、『名古屋大学博物館報告・近世名古屋東部丘陵を通っていた古道からの古景観』という論文があります。ここには、天保から弘化年間(1830〜1847)頃の八事−末森御林道を中心として、高針道、駿河町街道、伊勝御林道と妙見道から見たであろう景観を復元してありますが、そこで見られる光景は荒涼としたものです。

名古屋東部丘陵地一帯の表層は砂礫であり、表層の撹乱により著しく裸地化が進行する。再生する植生としては痩せて乾燥した土地に適応した草本類と、マツ、シャシャンボ、ソヨゴなどの先駆的陽樹であり、山林資源の利用を止めない限り、植生遷移の進行は遅く、マツ疎林に留まるであろう。東山丘陵地帯が現在のような林相になったのは、田畑の肥料が落葉落枝から化学肥料に替わり、また燃料革命による立木の残存と、都市化により田畑がなくなった、などによる。その結果一帯の景観は著しく変化した。この論文でとりあげた天保・弘化年間では、日常的な、いわば等身大の視点で広大な視野が開いていた。緑地率は現在と大きな違いはないが、樹高の低いマツの疎林が優占し、非緑地は浸食により荒地化していた。したがって、視野の広さに関しては「砂漠の民」と同様な日常環境であった」と述べられています。

ここで復元された景観は、桶狭間合戦から270年も後の、しかも戦場よりも北部なのですが、桶狭間辺りについても同様なことが言える可能性を示唆しています。桶狭間についても天保七年ぐらいまで遡って復元してもらいたいものです。確かに、天保年間の桶狭間・落合・大脇などの村絵図をみますと、「御林」として尾張藩有林も多いのですが、これが広葉樹の美林であったと考えるのは幻想にすぎないのではないでしょうか。尾張藩が村民を締め出して、そして初めて比較的豊かな植生が保たれたと考えるられるからです。

それまでは、農民が燃料に使用しただけでなく、領主が城砦を築造しかつ維持するために伐採したことも考えられます。また、当時の焼物は常滑地区に収束したうえ、その常滑焼も16世紀前葉には全く衰退したらしいのですが、必ずしも途絶えたわけではなさそうです。江戸時代の常滑焼の燃料は三河や熊野の方からも船で運ばれてきていますが、戦国時代にもそうだったと考えることは可能でしょうか。つまり、少なくとも知多半島北部付け根の森林資源は枯渇していたのではないかと疑うのです。

綿貫友子氏の『尾張・参河と中世海運』によると、「常滑で中世古窯の用いられていた頃には、燃料は窯周辺に繁茂していた楠・椎・樫・ウバメガシなどの自然林の樹木が利用されていたことが炭化物の分析によって推定されており、松葉(ニゴ)が熊野や奥郡(渥美)などから(波不知船・イサバセンによって)運ばれてくるのは大窯の出現した近世以降のことと考えられ、『尾張徇行記』の記述をそのまま中世に当て嵌めることはできない。」とされていますから、知多半島の中世を全くの禿山と印象することは誤解させかねないようです。

しかし、十六世紀初頭の室町時代には、地下からの湿気を避けるため地上式の焼成室を持ち、燃焼室と焼成室との間は分焔柱に加えて段差を付て、更に窯は大型化していて、一度に最大で三万個焼いた窯の例もあるといいます。また、渥美半島の例では、燃料を求めて時代とともに東から西へ、半島の付け根から先端へと移動しているのですが、鎌倉・室町時代の最盛期には、約三千の窯があったといわれているうえ、燃料が無尽蔵ではないにも関わらず、常滑焼は常滑一ヶ所に集約して生産しているのです。

 閉話休題 <作られた歴史・観光立村>

余談ですが、義元に関する地名伝承に、義元が沓掛に着陣して陣屋を建てさせたから「館(屋形)」と称したというものがあります。屋形号は室町幕府では守護以上の身分で遇される足利一門や、代々有力守護であって幕府の重職につく家や特に功績ある家柄に許された称号に因んだものです。これは、現在の豊明市にある桶狭間合戦記念公園の東海道を挟んだ北側にあたる地名のことなのですが、この一帯は崩土地帯で農地利用ができず開発が遅れた地域で、「館」は慶長十三年に作られた落合村よりも1kmも西、有松村との中間にあります。

何故、唐突にこのような話題を持ち出すかといいますと、この他にも東海道沿いには、多くの伝承地があるからなのです。義元塚・草履取塚・小姓塚・山田塚・松井塚が東海道の南側にあり、千人(仙人・戦人)塚・信長公鎧掛の松・首洗い井・沓掛山首実験場が北側にあります。以上あげたような名所は、『尾張国・知多郡桶狭間合戦記』の挿絵、『東海道分間絵図』にみえるものです。そして、これらは皆、落合村周辺の東海道沿いに存在しているという特徴があります。

この落合村というのは、有松村と同様で、徳川幕府の交通政策というより、軍用道路としての東海道保全のために強制的に作られた村なのです。経済的に重要な役割を果たしたというのは結果に過ぎません。そして、地質の関係から有松村同様農業では生計をたてられなかった所でもあります。有松は運良く絞りで有名になり、知多・三河の木綿の供給を受けて、元禄時代には一大生産地となることが出来たのですが、それに比べて落合村にはみるべきものがありません。村民は狭い農地を耕しながら一方で旅人相手の茶屋を営でいたものと考えられています。また、東海道を旅する旅人は、東は矢作で宿泊し、西は下津か萱津で宿泊して、有松も落合も素通りされていました。というよりも、藩の政策では「立場」として設けたものでしたから、旅人には宿泊も休憩もさせなかったといいます。このようでしたから、落合村は設立の当初からその経営は難しかったらしいのです。そこで、何とかして旅人の足を止めさせ、金を落とさせる工夫の必要から、歴史に名高い治部大輔義元を謹んで弔うことにより、当初を名所に育て上げたと思われています。今でいう村興しです。

この問題については、先人の研究があります。

海福三千雄氏の『桶狭間合戦史究明』では、古戦場呼称の推移を調査すると、織豊時代(永禄三年〜文禄五年)の三十六年の間に著された文献数は十七冊あり、豊明市栄町南館古戦場伝説地の南舘を古戦場としているものは皆無であるが、江戸初期(慶長九年〜貞亨五年)の九十二年間では、文献数は百廿二に増えたうえに、南館を古戦場とするものが七件現れるといいいます。それが、江戸中期(元禄元年〜天明元年)になると、文献総数百十二に対して、南館を古戦場とするものが五十件と飛躍的な増加をみているのだそうです。更に、江戸後期(天明二年〜慶応四年)の九十七年間をみますと、百七冊の文献中六十一件が南館であるというのだそうです。これらのことから、海福三千雄氏の結論は、庶民が豊かになり文化が向上し、観光旅行も盛になるに連れ、『甫庵信長記』などで、参勤交代の大名だけでなく庶民にも桶狭間合戦にも関心が深まったこともあって、古戦場伝説地は東海道沿線の、豊明市栄町南館の現在地に移されてきたのだというものです。まことに尤もであると思えます。勿論、地元では単に義元と討死した者たちの慰霊を供養しただけであり、討ち死の地などとは称さなかったものも、時代が経つにつれて供養の地が事跡に変わっていったものと考えられるのです。

 

<戦術面から考える>

  1. 義元本陣は軍陣ですから、それを防御面から考えてみますと、善照寺砦の織田軍に対する防御としては、武侍に本陣を置く場合には高根・幕山・生山らの山上に備を置くことが考えられます。
  2. 大池の東丘陵上を本陣にした場合は武侍を右備えに加えることができます。従って、最も縦深があるのは桶狭間山の西南・大池の東丘陵に本陣を置く場合です。
  3. それに対して、武侍や生山の上に本陣をおく場合には、東海道以北に対して脇備が無いため無防備になります。そのため脇備は太子ケ根や大将ケ根に置くことが必要なのですが、いかなる軍記物も太子ケ根や大将ケ根に駿河勢が布陣したとするものはありません。
  4. とにかく、東海道に沿った丘陵上はどこであっても本陣の場所としては不適切です。それは何れの史料も東海道より北側の丘陵上に脇備を置いたとする見解が見えないことからも窺えます。

つまり、義元が右翼を無防備にしたままで桶狭間山にいたとは考えられないということです。

このようなことからしますと、既存の街道や最寄の陣地からの利便性、山地上にとれる陣地の広さと平坦性、そして防御面からの縦深性と右翼・東海道以北からの横撃に対する備えの強靭性からいって、64.9mの桶狭間山の西南・大池の東丘陵が最も義元本隊の屯した場所として相応しいと思われます。因みに、これを本陣としないのは、山頂ではないからです。暑かろうが寒かろうが、本陣は高所に設営するものであって、寒暑を理由に山麓の民家を本陣にしたりは、絶対にしないものです。通常は小屋掛けをします。そのためには近隣の民家を取り壊して建築材料にしたりもしています。

これならば、『甲陽軍鑑』に「路次のかたはら」とあるのも可笑しくありません。桶狭間山の西側でヒロ坪の東にあたる大池の東丘陵は、鳴海〜桶狭間道からみても500m、瀬名陣地から300m程度の場所なのですから、「路次のかたはら」と言えると思います。それに64.9mの山にたいしては、『成功記』のいう「山際」でもあり、『総見記』の言う「桶狭間の山下」でも問題はないように思えます。

 義元の本陣が設営された場所と義元が信長の襲撃を受けたときに居た場所を区別して考えることも必要です。

  1. なぜなら、第一の理由は、急な風雨に見舞われたからですが、最も大きな理由は中島砦から出陣した信長に西から襲われているからです。それもいとも簡単に、前備を迂回されているらしいからです。
  2. 第二に、藤本正行氏らが想定されるように、本陣先備または先鋒隊の劣勢を救援するために、桶狭間山の本陣から東海道上におりた場合です。

そこで、再考してみるために、戦国時代の戦闘方法を考えてみますと、ほとんどの場合は山城に拠って戦っています。攻める側の陣城も山上に築造しています。山腹に設けるのは腰曲輪などの副次的なものです。最も急峻な高い場所が、例え狭くても本丸に選ばれています。そう考えますと、高峰がある以上は、掘りが切られ累が積まれ櫓が上げられなくても、そこが本陣として整地され、柵が結われ逆茂木が設置されたはずです。そうしますと、二日前から瀬名氏俊が山麓に布陣していたという伝承が事実であり、義元の行動が計画的であるならば、当然に氏俊は桶狭間の然るべき峰に本陣を用意していたはずです。

多くの人が、当時の武将の常識として「窪地などに本陣を置くことは有り得ない」といいますから、義元の本陣は桶狭間村の「田楽窪」などではないはずです。そこに義元馬つなぎの杜松があろうと、今川義元公水汲みの泉があろうと、瀬名氏俊の戦評の松があろうとです。………但し、これはその付近の高地に本陣を構えただろうということの傍証にはなります。

なかには、先行した瀬名氏俊隊が短時間で山頂まで道をつけ休息用の陣場を伐採・整地できたかを疑われる人がいるかもしれませんが、関が原合戦の折の西軍は一晩で関ヶ原に陣城群を築造して東軍を迎え討っているという事実もあるのです。また、総大将の本陣は如何に狭かろうと山頂に縄張りしたらしいのですが、供の者については山麓に居した例がありますから、壕や累を伴わない柵・逆茂木の本陣ならば、容易に築造していたはずですから、大変だということを理由に64.9mの山頂に本陣がなかったということはできません。

『武徳編年集成』には「慶長十九年十一月二十二日、神君、茶磨山に御渡、この山を御本営とせられるべしとて、矩縄(縄張)の御沙汰あり。山頂狭小にして近臣の外おるべき地なく、御番士は一心寺を以て屯すべしと言う」とあります。

また、高根だけでなく幕山にも駿河勢の陣地があったと考えることもできます。その場合に幕山と64.9m山の間には大池と深田があったために、幕山の駿河勢は義元を救援できなかったことが今川方の失敗の原因の一つであり、太原雪斎が生きていたならば、そのような過ちを起こさせなかったろうと主張するむきもおられるようですが、これは明らかに戦国時代の合戦の実態を知らない人の机上の議論です。

先にも述べましたように戦国時代の合戦では、遭遇戦を除いてはできる限り高所に陣取っています。これは、賤ケ岳合戦・小牧合戦・関が原合戦などをみれば歴然としていますし、織豊系築城思想以前の城砦は全て尾根々々峰々に砦を築いていて、それらは家臣(寄親寄子)毎に守備しているのです。つまり、始めから中央の統制の下に戦おうという思想などは、信長以前にはないのです。山城というものは元々そういうものだからです。

それが織豊系築城思想に至って初めて本丸の周りに何重にも曲輪を廻らす形式になり、本丸からの指揮統制によって戦闘するという仕方に変わったのです。ですから、最も遅れていた九州の諸大名の城郭は、近世になっても中世の分散形式の地取りになっています。………と、言うことは、本陣の前面に池や深田があることは防禦に益することがあっても、不利益になるとは考えなかったはずです。例え太原雪斎であろうともです。問題なのは、完璧なはずの防御陣地群を破って、攻撃の恐れがないはずの側背に信長が現れたことなのです。

以上のように考えますと、高所がある以上は、掘りが切られ累が積まれ櫓が上げられていなくても、そこが本陣として整地され、柵が結われ逆茂木が設置されたはずです。そして、それより下の山腹や高原・台地には旗本や本陣に所属する雑兵・軍夫が詰めたものと考えるのが妥当でしょう。そうしますと、やはり義元の桶狭間での本陣は64.9mの山頂にあったと考えるべきではないでしょうか。但し、何時までもそこに居たとは限りません。佐々等との前哨戦を観戦したときには山上にいたかも知れませんが、東からの風雨が強くなったときには、尾根の陰に退避したかもしれません。雨があがってからは、再び吹き飛ばされた本陣へ戻ったのか、大高へ行くために下の台地まで下りたのかは検討しなければなりませんが………。

次に、『信長公記』の記述が示す条件から検証してみます。『信長公記』には、「勢衆揃へさせられ様体(戦況を)御覧じ、御敵今川義元は四万五千引率し桶狭間山に人馬の休息これあり」と書きますから、これを素直に解釈すると、善照寺砦から見える所に駿河勢が居たことがわかります。確かに、見えたのは「御敵今川義元」と書いているのですが、これが義元本人であったか、義元の率いる軍勢のことを云っているのかは特定できません。義元自身であることを確認するには、大将の所在を示す旗幟が翻っているのが見えたと解釈する必要があります。それはそれとして、善照寺砦から東海道より南の丘陵のなかで視認できる範囲を調べてみます。

  1. 64.9mの桶狭間最高峯から、東西の方向約55°に善照寺砦があります。
  2. そして、標高約21mの善照寺砦から直線距離で約4.2km先の64.9mの桶狭間最高峯との間には、標高50m級の生山・武路山・武侍山が約4kmのところにあります。
  3. 善照寺砦から見える範囲の高さを調べますと、h=(64.9−21)×4000÷4200+21≒62.8 と計算できますから、途中に標高62.8mの丘がない限り、最高峯の山の頂上は視認できただろうと思われます。
  4. 次に、善照寺砦から64.9mの桶狭間最高峯との間には、約3.2kmほどの場所に50mを超える高根(52.3m)・幕山・巻山があります。
  5. そこで、これらの丘陵でも遮られない部分の高さを試算してみますと、h=(64.9−21)×3200÷4200+21≒54.4 となりますから、64.9mの最高峯ではありましも、その約55m以上の部分しかみえなかったものと思えます。これは64.9mの西側から南側にかけて広がる台地よりも上の部分ということです。

つまり、信長や牛一に見えたのは高根・幕山・巻山の尾根に陣取った今川勢であるか、または最高峯の64.9mの山ならば、その西側斜面の標高55m超る高所に布陣した場合だけなのです。………這山・武路・武侍(待)などはほとんど見えなかったものと思います。 正確な視認位置の特定には縦断をとってみなければ分りません。

ところで、『信長公記』にはもう一つ問題になる記事があります。そこには、「槍下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして五十騎計り討ち死し候。是をみて、義元の矛先には天魔鬼神も忍べからず。心地は良しと悦んで、暖々(悠々)として謡をうたわせ陣を据られ候」とあることです。そして、「是をみて」という文句は、実際に義元自身が目撃したように思えることです。

もし、義元自身が実際にこの小競合いを見ていたとしたら、それを見ることができるのは、高根や幕山などの丘陵地であることが考えられます。勿論、この小競合いの合戦場が問題になりますが、それが平子ケ丘などの丘陵上であったなら別ですが、鳴海表ということで鳴海城の南であった場合を考えてみます。 この小競合いの戦場についての考証は別途行います。

標高64.9mの山上から約2.3km先の標高0m(母呂後)での戦闘を見ようとした場合に、800m先に50m級の山がある場合は果たして可能でしょうか。

計算してみますと、h=64.9×(2300−800)÷2300≒42.3、となりそれより高い50m級の尾根が存在したのでは、最高峯の山頂からでも、途中の丘陵に遮られて見通せません。つまり、今川義元が千秋・佐々らとの戦闘を見たとしたならば、それは64.9mの山上からなどではなく、おそらく高根山の峠(標高45m)にある最前線の松井陣地でのことだと考えなければなりません。つまり、漆山からの引揚げの途中でのことです。義元軍は繰り退きしていたため、総大将の義元が高根山で後続の軍勢を収容にあたっていた場合になります。

では、64.9mの山の前にある高根や幕山などの丘陵地は、沓掛城から出陣した場合の義元本陣であり得たでしょうか?………これは、十分にありうると思います。少なくとも義元が沓掛からきて中島砦の織田方に圧力をかけようとするという意図を持っていたならばですが。

ただ、これは一つ問題を抱えています。「弓・鎗・鉄炮・幟・指物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。」と書く『信長公記』を読む限り、織田勢は直接本陣に突入しているように見えるからです。1kmも先備を追撃したようにはみえません。一般に最近の論者は、藤本正行氏の論文の影響を受けて、義元本陣先備を追い崩して混乱を惹き起したという理解が多いのですが、そのように記す史料はありません。江戸期を通じての軍記物はみな一様に本陣先備を迂回したと考えているのです。『奥山孫市郎遺言、井伊家伝記、老人雑話、武徳編年集成、塩尻、尾陽雑記、集攬桶迫間記、参州事実録』などがそれです。

ところが、義元本陣が高根や幕山にあったならば、その一町先に布陣したと『信長公記』がいう本陣先備はちょうど東海道から鳴海道に分岐する谷底の鎌研の南あたりに、東海道を扼し、桶狭間への坂道を遮るように布陣することになるのです。これでは、信長が義元先備を迂回することはできません。ですから、可能性があっても義元が高根や幕山に本陣をおくことは、義元が中島砦の信長方に攻勢をかけようと思っていない限り、考え難いことです。

以上のことから、今川義元の本陣は64.9mの山頂に設けられていたものと考えます。但し、急の風雨を避けるために、義元はいったん尾根の陰におりたことや、黒雲の沸起るのをみて早く大高なり沓掛なりへ移動しようとして50m代の台地まで下りていたところを信長からの襲撃を受のかもしれません。または、先に述べましたように、先備えの松井陣地まで出かけて小競合いを観戦したこともあり得ますし、逆に義元は漆山からの帰途に高根で佐々らとの合戦を観戦し、その後で64.9mの山にある本陣へ移ったのかもしれません。これは、十分にあり得ることです。

 

<大将ケ根と沓掛の峠>

では、信長が駿河勢の本陣に攻め入った場所は何処になるのでしょうか。

先にも紹介しましたが、『集攬桶迫間記、総見記、尾洲桶狭間合戦記、家忠日記、中古日本治乱記、尾陽雑記、将軍記』などは信長が先備を迂回したと伝えているうえ、『塩尻、集攬桶迫間記、知多郡大脇村山絵図、桶狭間村合戦記』などが、討ち入る前の信長本陣は田楽坪の北、約1kmにあたる「会下山(大将ケ根」であるとしています。

ここで大将ケ根という「字」の特殊な地形を知っておかなければなりません。

付図を参照してもらえば理解は早いと思いますが、大将ケ根という地形は時計回りの巴形をしているのです。大将ケ根の山は右に向けた頭にあたるのですが、「おたまじゃくし」形の左に向けた尾の部分は大将ケ根の左に隣接する「太子」という丘陵の裾を廻っているのです。つまり、山上から離れた場所にも「大将ケ根」はあるのです。名鉄名古屋本線の鳴海駅の東、国道一号線の大将ケ根交差点の西の旧東海道の辺りになります。大将ケ根拡大図掲載予定> そして、この山裾の東海道こそが、信長が雨が上がって義元勢に突入する将にその時に織田軍を集結させた場所だと小生は考えるのです。

そうしますと、『信長公記』にいう「沓懸の到下(峠)の松の本に、二かい(抱え)、三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ」というのは、現在の字境松の旧東海道の最高標高27.11mを「沓懸の峠」といったと考え、そこに楠の大木が生えていたのだと小生は考えます

勿論、「松の本」は、松の木の根本のことです。信長が義元本隊に突入するする寸前と考えられる場所から見えるところに「松本」という地名はありません。………『信長の戦国軍事学(信長の戦争)』で、藤本正行氏は「牛一は地理描写に常に気を配っているから、(中略)ようするに牛一は徳川軍を含む織田軍全体ではなく、信長を中心とする織田軍主力の戦った方向をあげているのである。」と言われていることがあります。『信長公記』の全てを追試していませんから断定はできませんが、これが正しいものとしますと、『信長公記』に記載された風景は、原則として信長から見た場合の方向にあることになるだけでなく、実見したかのように書かれている場合には、まさに「信長自身から見ることができる場所」でなければならないことになります。

ですから、『信長公記』の「沓掛の到下」は信長が居た場所から見えたことになります。勿論、「松の本」もです。信長から見えた場所でなければなりません。善照寺砦に残置された将兵が見た景色でも、桶狭間山の駿河勢がみた情景でも、ましてや別動隊が見た風景などではないと小生は思うのです。

そして、峠ですから街道にあるわけですが、当時の街道の第一は鎌倉往還で二村山を超えていたようです。この二村山に現在は展望台もでき「峠の地蔵」もあって、平安時代の昔から歌にも詠まれたりしているのですが、鎌倉海道の経路や二村という地名については、いま一つはっきりしていません。

二村山の峠は、「二村ノ峠」であったり「嶺(トウゲ)」、「嶺山(トウゲヤマ)」と書かれたりするのですが、一例も「沓掛の峠」と呼ばれたことはありません。つまり、この尾三国境地帯において「峠」といったならば、二村の峠以外にはなく、鎌倉往還での代表的な眺望の場所であり、誰にでもわかる地名であり、まさに定冠詞がついた「the 峠」らしいのです。………現代に至っても「沓掛峠」などはなく、過去にも「沓掛の峠」と云われたことはないと小生は思います。

そこで、第二の街道を考えますと、当時は東海道が鎌倉往還に取って代わりつつあったことが窺われます。何故なら、『信長公記』にも中島にあった小村を砦に改造して使用しているというように集落ができ始めているからです。………とすれば、「沓掛」の峠と態々地名を冠して牛一のいう峠は、次第に旅人の通行量がふえつつあった現東海道にある峠をいうのが適当ではないかと小生は考えるわけです。

そして、ここから信長義元本陣に攻め入ったとしますと、二つの攻口が考えられます。一つは東海道の大将ケ根交差点の東の狭間から生山と桜花学園大名古屋短大のある武侍の間を進んで田楽(ヒロ)坪に出ることです。この説を採るのは、梶野渡氏です。多少論旨は違いますが、ここで信長勢は待機し、ここを攻め口とされています。具体的には「釜ヶ谷」というのだそうです。 

※ 昭和41年3月に作成された名古屋市教育委員会による『桶狭間古戦場調査報告』の付図によりますと、64.7m山と現朝鮮中高級学校の間の谷間の田楽挟間側の出口辺りに「釜ヶ谷」の表示があります。しかし、どちらにしろ、ここに二千もの信長勢が潜んでいることなどはできそうもありません。二千人の軍勢というのは、二列縦隊で優に1kmの場所を必要とします。

もう一つは、旧東海道の有松郵便局(現東海道の桶狭間交差点)から高根(御岳神社)と生山との狭間から攻め入り、地蔵池を経て田楽(ヒロ)坪にでることです。こちらの方が義元本陣より西になりますから、桶狭間山の義元を東に向かって攻めたという『信長公記』に符合します。但し、当時は道などありませんから、念のため。

次に、義元が逃走した方向から考えてみます。現在、義元討死の地として考えられている場所は二箇所あり、東海道脇の豊明市栄町南館の「史跡桶狭間古戦場」と、鳴海〜桶狭間道脇の名古屋市緑区有松桶狭間の「田楽坪古戦場」がそれです。

 

<史跡桶狭間古戦場>

 豊明市の「史跡桶狭間古戦場」の方角に義元が逃れることができるのは、生山・武侍の狭間(釜ヶ谷)から攻め込んだ場合には、織田勢が、瀬名陣所辺りまで攻め込んだ後に、方向を転じて西から東へ攻めた場合です。この場合には、義元が桶狭間山の北に居たならば、沓掛城に逃げるためには東海道に出なければならず、豊明市の「史跡桶狭間古戦場」へ向かうことが考えられます。史跡のある狭間には、道が通っていたわけではありませんから、敵に追い込まれなければ逃げ込むことはない場所です。しかし、山中を東海道へ出て間米を経て沓掛城を目指そうとしても、結局は追いつかれて山中で討ち取られることになります。従って、史跡方面で義元が討死にすることは十分にあり得ます。

それは、北から攻め込んだ信長が、瀬名陣地辺りに攻め込むまで、山頂に拵えていたであろう義元本陣に義元の姿を見つけられず、義元も信長が瀬名陣地辺りにまで侵攻するまで気づかず、道のある西側に下りることができなくなることです。そうしなければ、『信長公記』の記述に矛盾するからです。但し、信長が義元本陣自体を発見できないということはあり得ません。当時の常識として本陣は付近の最高所に布陣するからです。ですから、陣幕が吹き飛ばされた山頂の本陣跡に義元の姿を発見できなかったものと考えます。

<信長の帰還路の問題>

『尾陽雑記』には、「義元の軍崩れるを東に向かって山を越えて追い討ちす、十町余り行って仙人塚とてあり」とみえるのですが、山中の大方は低草木が生繁っていたはずですから、これなどは騎馬であった義元らのことではなく、武侍や桶狭間山の北にいて、東海道を徒で逃げた雑兵らのことだと思います。

もう一つ、『桶狭間合戦名残』も、「是は沓掛村間米村地え懸り古戦場之辺りえ小縄手あり義元も此道より本陣え通行之由、敗軍の節、義元方の士卒(は)この道より間米村を指して逃げ行き、千人塚辺りまで追い討ちいたし候ところと申し伝え候、千人塚(は)始め、戦人塚と申し候由、信長公もこの間米村にて味方の勢を集め給い、丹下の方へ向かい候、敵に会わざるようにお引きのよし申し伝え候」としています。この『桶狭間合戦名残』の問題は、

  1. 義元が沓掛城から間米村を通って桶狭間山に上ったとしていること。
  2. 駿河勢が東海道を逃げず、沓掛城への近道になる間米村方面へ逃げたということ。
  3. 信長が敵に遭わないようにしたということです。

先ず、間米村が当時存在したかが問題になります。

これは、梶野氏の説の受け売りですが、『尾張志』は両村郷間米とあり、沓掛宿の馬宿は二村山の東皿池付近のヤマドに置かれたとしています。間米村に氏神や寺が創設されるのは江戸期になってからだそうですから、合戦当時に村があったとは思えませんが、開拓部落として数戸は存在した可能性が無いわけではありません。また、当時の鎌倉街道が常時定まった街道などではなく、渡河点とともに移動していたらしいことからみますと、東海道への連絡も踏み分けられていたかもしれません。もしそのようであれば、当時の東海道は二村山越えの鎌倉街道に取って代わって主要街道になっていたことになり、沓掛城から間米を経て落合の東にでる道が無かったとは断定できないことになります。

だからと言って、東海道を横断して南館の史跡へ行ける桶狭間村に通じる道があったというのは短絡に過ぎます。明治期の地形図にさえそのような「小縄手」などはなく、落合の東へ通じる道があるだけです。勿論、戦国時代が終わって盛んに新田開発が行われるようになりますと、これまで否定してきたような道は、みな作られるようになってきます。

天保期の村江図をみますと、今川義元が使用できそうな道は全てできあがっています。しかし、戦国期にそれらが既に存在したとするのは早計でしょう。東海道でさえ大軍が通る道に整備されるのは、信長をまたなければならないからです。また、当時の旅人が、二村山を避けて、楽な間米から小坂に抜ける鎌倉海道を選ぶことがあっても、間米から再び東海道へ戻るとも思えません。旅人にも人にも、その必要性がないことを考えれば、間米から東海道を横断して桶狭間山へ通う道があったとは認め難いものがあります。

次に、駿河勢が何故間米を指して逃げたかということが問題になります。

そのようなことが起きるには、陣地を織田勢に突破されて、取り残された駿河勢が東海道では逃げ切れず、北の山中に逃げ込んでそれを織田勢が追撃したことを意味します。しかし、まず道がありません。少なくとも軍隊が行軍するような道があるはずがありません。これは、天正十二年(1584)の小牧長久手合戦に際して徳川軍が東海道を利用したらしいことが『家忠日記』から分かるのですが、それによりますと、天正二年から信長によって行われた尾張国中の道路整備の結果を待つ必要があったものと思われます。ですから、それ以前は沓掛から東海道へ抜ける道が必要とされたわけがありません。つまり、まともな道などはなかったものと思います。しかし、通れないわけではありませんが、それには織田勢に東側から攻められなければなりません。

 閉話休題 「戦人塚

国道1号線の北150mの小高い丘上に、桶狭間の戦いでの戦死者二千五百余人を大脇村の曹源寺二世快翁龍喜和尚が埋葬供養したといわれる「戦人塚」があります。「駿河塚、千人、仙人」とも呼ばれます。ここに桶狭間合戦の戦死者を埋葬した塚があることから、二千五百もの亡骸を桶狭間村から戦人塚までどうやって運んで葬ったのか分からないという疑問を持って、ここの戦人塚近辺で合戦が行われたに違いない、だから今川義元の本陣もこの付近にあったに違いないと考える人もいるようなのです。しかし、亡骸が歩くわけがありませんから、普通の人はそんなに遠くまで「亡骸を運んだ」などとは考えません。普通の人なら、織田軍に追撃された駿河方の兵士がそこまで逃げてきたが、その辺りで追い詰められて大勢が討ち死にしたと考えて問題になどはしないものですところで、大脇村の曹源寺の裏山を「上ノ山」というのですが、曹源寺には此処を織田軍の別動隊が通って今川本陣を背後から襲ったというような伝承はなさそうです。確かめてはいませんが・・・・・・。

次に、信長が「敵に遭わないようにした」という問題について考えます。

これはどういうことかと言いますと、沓掛城からの新手の駿河勢と自軍が戦闘状態に陥り、これに拘束されている間に、西三河の沓掛城などに駐屯する駿河勢の加勢が駆けつけ、不測の事態が起きることを避けるために、信長は兵を纏めて引揚げたということだと考えられます。つまり、信長は桶狭間山から間米を経て鎌倉街道を小坂から善照寺砦・丹下砦への道を帰還したことになります。東海道を戻ったのではありません。決して、東海道を中嶋砦に戻ることが、朝比奈勢と克ち合うからなどではないと思います。例え、黒田日出男氏のいう「乱捕り」が中島辺りで行われていたとしましてもです。すでに今川義元が討ち死にしてしまっていますから、残された今川軍の将兵には戦意も規律も消し飛んでいると思われるからです。

ところがです、『信長公記』には「深田へ逃げ入者は、所をか去らず這いずり回はるを、若者どもが追ひつき々ゝゝゝ、二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、(信長公の)御前へ参り候。頸は何れも清須にて御実検と仰せ出だされ、義元の首を御覧じ、御満足斜めならず、もと御出での道を御帰陣候なり。」とあって、桶狭間の戦場から直接東海道を通って中島〜丹下を経て清洲に帰還したように記載されています。

『桶狭間合戦名残』は後世の一研究であり、村人の伝承を基にしているのでしょうから、「義元も此道より本陣え通行之由、」とか「信長公もこの間米村にて味方の勢を集め給い」という部分は多分に、後世の軍記物の影響を受けて脚色された伝承のように思われます。この説のポイントは、「沓掛村間米村地え懸り古戦場之辺りえ小縄手あり」ということでして、合戦当時ここに「小縄手」があったかどうかということにあります。そして、落合村辺りに水田がなかったことを考えれば、窯が廃れずに営業していな限りは小畷もまた存在しなかったものとみなければなりません。そうであれば、義元も通わず信長もそこまでは行かなかったものと考えるのが相当でしょう。

 

<田楽坪が最期の地である条件>

今川義元が名古屋市の「田楽坪古戦場」方面で討死する場合を考えます。このようなことが起きるには、

  1. まず、信長が大将ケ根方面から攻め入った場合には、義元が織田勢を避けて田楽坪に下りることが当然でなければなりません。そうしますと、義元も信長も互いに敵を瀬名陣地より遥か北で発見していなければならないことになります。そうしなければ、義元が敵の迫ってくる西側には下りられなくなってしまうからです。例えば、地蔵池の東辺りの武路辺りか武侍付近でお互いを発見しなければなりません。
  2. 次に、藤本正行氏や谷口克弘氏の考えられるように、苦戦に陥った味方前衛を救援するために義元の本陣までもが、総力を挙げて高地から下りたと考えることもできます。その場合は信長が東に向けて攻めかかったという『信長公記』の記述と合致することにはなりますから極めて魅力的ですが、それが当時の武将一般にとって妥当な判断であったかというと、疑問が残ります。

(1)まず、信長が北の大将ケ根方面の武路狭間(釜ヶ谷)から攻め入った場合ですが、義元が「桶狭間山の北側台地」に居た場合には、義元は本陣の旗本らが信長勢を防いでいる間に、すぐさま径のある西側の田楽窪に下りようとしたと考えられます。

しかし、義元が「桶狭間山上」にいた場合には、田楽窪に下りることは、かなり難しいことになります。桶狭間山の山頂は南北に尾根が伸びているからです。等高線をみますと桶狭間山は南北に尾根がのびていまして、南側の傾斜が緩いですから、瀬名氏はこちら側に径を仮設しておいたものと考えられるのです。そして、南の台地上九十九折に西に折れて瀬名陣所の北200mの所にある田楽坪に下りるようになっていたものと思われるからです。それが、最も勾配が緩やかな道になります。つまり、瀬名氏のつけた道は、鳴海と桶狭間村を結ぶ当時の街道(鳴海道)から田楽窪を経て東の台地にあがり桶狭間山にのぼる径を仮設したと考えられるのです。つまり、東海道を鳴海方面から帰還するときに便利なように道をつけたのであって、沓掛城から大高城に向かう場合に便利なように考えて桶狭間山への道をつけたのではないということです。ただし、その径は北西に向かっていますから、織田勢の進行方向と正面からぶつかることになります。

このように、「武路狭間(釜ヶ谷)」から信長が攻撃したという設定には、方角だけを問題にした場合には、かなりの無理があります。地図を眺めてみれば判るのですが、「桶狭間山」は「武路」から東南にあたるからです。牛一の言うような「東」ではありません。そこで牛一の言う「東」は上知我麻神社から鷲津の方角も東であったことを考えて、それは「真東」などではなく「概ね東」でしかないと考えなければなりません。そうしませんと、信長は武路辺りで義元本陣を発見することはできなくなります。

(2008.08.14 挿入) 桶狭間邑の周辺では深田のある地域は限られていますから、西方の中島砦から東海道を進撃した信長がその深田に阻まれずに義元本陣(塗輿を放置した場所)に突入したということは、信長は義元本陣の直近ではその西方から攻撃したのではないことになるはずです。地形から見れば北方または東方から攻撃するしかありません。………このことは、信長は中島砦から見たならば全体的には東方に進撃して義元を討ち取ったということは正しい理解なのですが、『公記』が態々「東へ向かって懸かり給ふ」と書くのには意味があり、信長が塗輿を発見しただろう場所からそう離れていない地点から見て東方に義元を発見したということになるはずです。そうしますと、信長は塗輿を発見した場所付近で、討ち入った方角から方向転換して東方に向けて攻撃を再開したと理解する必要があります。牛一の地理描写が正確であるならば、そのように理解せざるを得ません。

それでも、まだ無理があります。田楽坪に義元が逃げるには、織田勢が高根山方面から攻め来る、西側に向かうことになるからです。従って、義元がそちらへ逃れるためには、高根峠方面や生山と高根の狭間から攻め来る織田勢の進出が、松井陣地や生山の脇陣に阻まれて遅れていなければなりませんが、それは十分に可能です。これではじめて、義元は桶狭間山上から道のある南側斜面を下りることができるようになるわけです。

北から攻め入った織田軍が義元を追って桶狭間山に登った頃、義元は台地上を田楽坪へ下りるために西北に径を辿らねばならないのです。従って、武路辺りへ侵入した織田勢が、駿河勢の防衛線を突破して、面的広がりをもって浸透していてもならないことになります。それでは、義元を守った三百名もの集団が田楽窪へは下りられないからです。このことは、義元が田楽窪で討死するには生山・武侍の駿河勢が必死に戦うことによって、一千名からの信長の軍勢の大部分が拘束されていなければならないことを意味します。

即ち、義元を追う織田勢は、駿河勢の戦線と戦陣を突破した、極少数の二・三十騎位の馬廻だけでなければならず、逃げる側の義元を守る駿河勢の旗本たち三百騎も、小具足だけの軽装のままであり、武装も不十分でなければなりません。

要するに、猟犬が兎を追うように追跡するのでなければ、義元は桶狭間山上から北西にある田楽窪には逃げられないのです。また、本陣に駿河勢が充満していても逃れ難いことがあります。これは、義元が桶狭間山や西の台地にいた場合でも同様です。

ですから、猟犬が獲物を追うような(少数の織田勢が山を駆け下るようにして、義元ら三百騎に追い迫った)場合にのみ、『水野家譜や水野勝成覚書』が、「上の山より服部小平太突き掛かり」と書が説明できることになるのです。即ち、信長の奇襲が山上からなのではなく、義元らが山から逃げ下りたために、相対的に上方から追いかける状況を呈したことが、「上の山より」という表現になったと解釈するわけです。

これは同時に、前備の松井らと戦う織田勢などが、未だ田楽坪の底地には迫っていなかったことを表していますから、このことは義元本陣の前備が打ち破られて、その敗残兵が壊走するのに巻き込まれたために義元本陣が壊乱したのではないことを意味します。

また、『集攬桶迫間記』が「伝仁義元家老松井八郎、上の高山に旗を立、人数を揃え、遠見の所に、信長卿忍び寄ありの躰見出し、義元へ注進しきりの所に、早押し来たり、戦死す」と書き、『尾陽雑記』が「信長の勢い思いもよらず、海道の上なる山より横合いに衝いてかかる。松井是を見付けて使いを走らせて義元に急を告げる」と書くこととも矛盾しません。藤本正行氏などが提唱されるような、「前備が崩壊する」ことなどは、あってはならないことなのです。

 

<東海道上で戦闘が行われた場合>

義元が本陣の軍勢を率いて先備えなどの味方を救援に駆けつける場合を考えます。信長は中島砦表まで進出した義元前衛を打ち破って山麓にあたる鎌研辺りまで約1.4kmほどを追撃し、そこで桶狭間山を下りて約2kmを進出してきた義元本隊と東海道上で激突します。これで、『信長公記』にいう東に向って攻めかかったことにはなります。

ところが、そこで信長は義元の打ち捨てられた塗輿を発見するのですから、義元は輿でそこまで来たことになるだけでなく、義元自身が輿を乗り捨てたのでなければ、攻撃のために前進していた駿河軍では、輿の方が義元より先におしたてられて来ていたことになります。これが谷口説の問題点になります。

………か、または信長が、義元が本陣に置いてきた輿のあるところまで義元本隊を追い崩したことになりますから、その場合には約1kmほども追いかけたことになりますので、非現実的です。

ところで、この義元はその本隊の何処にいたのでしょうか。谷口氏などは信長の進軍速度が意に反して速かったために、義元は敗れたと想定していますから、義元は長く伸びた行軍中の最後尾にいたところを、信長に叩かれたということになるのでしょう。そうしますと、義元はそれこそ田楽坪に下りたところだったかも知れません。

  1. さて、義元は有利な高地に布陣していた本陣を捨てて、救援に行こうとして中島砦表に行きつく前に東海道という狭間の中で信長勢と義元の尖兵が遭遇しました。これは、小豆坂合戦と同じ状況ですが、義元にとっては第一の誤算です。そして、結果的には小数兵力の遂次投入になってしまい、後続する義元軍も皆敗れたわけです。
  2. それでも後続の武将が高根山の高地に急遽陣を布けば、織田軍を防ぐことはできたはずです。先に高地を占領した方が有利になるからです。従って、これが第二のミスです。命令しなかった義元の責任にしろ、義元に先行した武将の責任にしろ、とにかくこれは戦術上のミスです。
  3. 第三のミスは義元本人のミスです。何故なら、義元が最後尾にいたならば、高根山の峠辺りで自軍が敗れるのが丸見えなのですから、桶狭間の深田を堀に見立てて桶狭間山に再度布陣していれば、信長勢を食い止めることができたはずだからです。
  4. このように、今川軍を立て直すチャンスは二度あったのですが、その二度とも生かせなかったことになります。いずれにせよ、4kmも先に五千程もいる前衛を救援しようとして山中の挟間のなかを本隊の大軍を移動させて駆けつけさせようとしたことが、根本的な誤りであったということになります。

………さて、本当にこのようなことを義元はしたのでしょうか?

というわけで、最近流行?になっている駿河勢前備や先鋒が敗北し、それらの敗走に巻き込まれて本隊が敗れたという解釈は、あり難いことだと小生は考えます。

実際は、駿河勢の本陣を突破して侵入した少数の決死隊的な馬廻の働きによって、本陣にいた総大将の義元が討たれたために、全軍が総崩れになったのです。つまり、実際は逆だったのです。本陣が崩壊したために、前軍も崩壊したのです。これば、軍事的に極めて起こりやすいことです。

以上、現在考えられている二箇所の義元討死の地について検証を試みてきたのですが、信長が大将ケ根から討ち入る限り、何れの場合も認め難いものがあり、桶狭間山南や東の山中であることが最も自然であるように思えます。

ところで、もう一つ重要なことは、南には長福寺があり、ここは兵火にかかっていないことがあります。これによって、義元らはここまで、またはこちら側には逃げられなかったと考えられることです。このことは、大池や長福寺の南にある桶狭間村にまでは、織田兵が進出しなかったことを意味し、義元軍は桶狭間山より北と西の凡そ7km四方の地域にしかいなかったものと考えられるからです。

当時、桶狭間山頂に登る道は、先乗りした瀬名氏俊が開削しただろう田楽坪から上がる道しかなく、東海道側から登る道はなかったと考えれば、逃げ延びようとした義元が沓掛城へ向おうとするとは考えられません。(これには、近崎道という主要街道が長福寺の裏山を通って田楽坪まであったとする説もあります。後述)すると、桶狭間村に下りて、大脇村を経て最も近くにある今岡の自軍陣地を目指したと考えることが最も妥当なものと思われるのですが、この場合に始めて田楽坪で討ち死することになる状況が生まれます。

義元が逃げ延びようとした先については異論もあり、『続明良洪範』が、「この時、元康公の家中から来ていた松平某という者が、義元の前に進んで、元康殿が大高の城におりますから、そこへおいで下さいと申し出て、庵原兄弟と松平某と三人が供をして大高へ落ちて行こうとした」と伝えます。

しかし、これをもって義元が史跡方ではなく、田楽坪の方に向かったとすることは難しいことです。なぜなら、当時の義元にとって大高城を目指すことが妥当な選択かを考えると、義元が桶狭間で敗北した時点で、大高城は敵中に突出して孤立した城になり、防衛上も鳴海城と違って何度も兵粮を補給しなければならないほど脆弱であったことや、今岡へ向かってもほぼ同距離であることを考えれば、敵中に孤立する大高へ逃れるよりも、味方が大勢いる自領の西三河へ逃れる選択をする可能性のほうが高いものと思われるからです。従って、『続明良洪範』が伝える進言が事実であり、徳川家に胡麻を擂ったものでなければ、出発地に戻るという単純な発想でしかないことになると思われるのですが、その場合には駿河勢は喧伝されるほどの大軍などではなかったことになります。大高城に篭る多くても一千名程度の松平元康を頼るのですから。

 

<近崎道について考える>

ここでは、桶狭間村への道と桶挟間からの道について考えます。

これまでも、折にふれ「当時の道」について考えてきましたが、ここでは今川義元がいかなる経路をたどって64.9mの山あるいはその西の台地にあがったかを考えます。なぜなら、義元は来た道を逃れようとしただろうと考えるからです。すなわち、来た道を逃げようとして途中で討死したものと考えることが自然だからです。

まず、今川義元が沓掛から桶狭間にきたとした場合に、小生の考える経路は阿野村から大脇村を経て、そこから西に大高道を進み、桶狭間村に入ると「石池(東池)」の傍を経て、その先の郷前といわれる辻を北上します。郷前で南に下れば大府(小川)・横根方面へ向かいます。郷前から現在は暗渠になっている鞍流瀬川にそって長福寺の前を通り、「大池」の縁を北上して田楽坪に至ります。そこから北は深田です。田楽坪(ヒロ坪)を東に向い丘へ登りますと、そこは64.9mの山の北裾に当たり高原の様を呈しています。………当時は松原であったでしょう。

「大池」の縁を北上して田楽坪から北へ深田の際を行きますと、「地蔵池」の西縁を経て高根山の峠を越えて、「長坂道」を下り有松の祇園寺