<行軍を考える>

 

ここでは、前章で作った「矛盾のない物語」に本当に問題がないかを、時間経過の面から検証するための基準を明らかにしておくことにします。戦国大名の軍隊がどのように行軍したのかということについては、ほとんど知ることができません。戦国末期の大名たちについては、参勤交代の大名行列がその実例になりますが、我々が知ることができる大名行列については、かなりパフォーマンスに偏ったものですし、各大名家によっても異なり、その持ち運んだ小荷駄もかなり贅沢になっているようですから、あくまで参考にしかなりません。

 

<行軍速度>  (2008.1.23 改訂)

1.戦場における飛脚による伝令の速度を時速9kmと仮定します。

戦国時代の史料には、あまり”早馬”註 という言葉は現れません。ほとんが”飛脚”を使用しています。その飛脚も敵国を通らなければならない場合には、実際には何日かかるものか、それよりも果たして届けることができるかどうかも定かではありませんでした。従って、ここでは領国内での戦場からの伝令の場合だけを考えます。

註 飛脚の制度は鎌倉時代はじまる。文治元年(1185)源頼朝は駅法を改め、同四年には京都・鎌倉間の飛脚(早馬)の行程を七日と定めた。さらに建久五年(1194)には、所々に新駅を作り、大宿・小宿の言葉を使用するようになった。弘長元年(1261)になると今までの飛脚を早馬と称し、飛脚は徒歩に限るようになったという。

江戸期の飛脚は東海道を7日で繋いだと云いますから、日に十八里(日速71km)になります。継飛脚で手形を所持していましたから廿四時間、二人一組で昼夜走り続けておりますから、平均時速3km程なのですが、江戸時代で最も早い急飛脚は江戸と京都の間を三日で馳けたと云います。江戸と京都の間を550km(現東海道線で513km)とすれば、一日二十四時間・昼夜走り続ければ日速180kmになりますから、時速に換算すると約8kmですが、ここでは比較的近距離を考えますので時速9kmと仮定します。

  1. 江戸時代の宿場の中の問屋場には飛脚人足が常時詰めており、飛脚は二人一組となって次の宿場まで走り継いだ。二人が交互に担ぎ、夜間は一人が提灯を下げて先導したという。これは万が一の事故、急病、強盗などに備えてのことだったという説もある。
  2. 三度飛脚は江戸と加賀藩の国元金沢を結ぶ月に三度の定期便なのですが、約475kmの北陸道を七日間で駆けていますから、一日約68km、時速3kmになります。道中には親不知子不知や碓氷峠の難所がありますが、平坦な道では一日に約80km、時速3.3kmを約15kgの荷物を背負ってい走ったといいます。
  3. 『旅行之節諸事聞書』では金沢〜江戸間について、常飛脚が夏期で十日、冬期で十二日、早飛脚が五(時速4km)〜六日(時速3.3km)とされているようです。
  4. 競技として最初の駅伝は、大正六年(1917)に行われていて、これは「東海道五十三次駅伝競走」として京都の三条大橋を午後2時に出発し、東京の上野不忍池までの23区間、約508kmを走り、到着は翌々日の午前11時34分でしたから、計45時間34分で時速11km強でした。

2.騎馬による使者の速度を時速18kmと仮定します。

『日本交通史』児玉幸多・編によりますと、「吾妻鏡』によれば、京都六波羅からの飛脚が、二十日未(ヒツジ)の刻(pm2)に発して、二十三日の申(サル)の刻(pm4)に馳せつけたが、”殆んど飛鳥の如し”とある。(中略)三昼夜と二時間である。京都と鎌倉の間を当時の東海道で500km(現在の東海道線では470km)とすれば、一日二十四時間(走り通すこと)で約170km(?162km/日)である。」としていますから、宿駅の間をつなぐ早馬の場合には平均時速7kmであったことになりますから、凡そ人の二倍の能力が日本馬にはあったことになります。

 閉話休題 <飛脚あれこれ>

  • 幕府が飛脚の制度で今までの飛脚を早馬と称し、飛脚は徒歩に限るようになったのは弘長元年(1261)であり承久の変(1221)の後のことですから、この飛脚は早馬です。
  • 江戸時代の飛脚の料金は、荷物一貫目(3.75km)につき、江戸〜大阪間が9匁5分(現在の3,500円ほどか?)といいいます。手紙の場合はもっと安くて、手紙一通を一週間で運ぶ場合なら六百文くらいです。但し、三四日の特急便ですと七両二分だったといいます。

戦国時代の実際では、おそらく味方の支城や味方の城館にで飼う軍馬を借用する慣習的制度があったものと考えますが、平時には宿々にそのような軍馬(駄馬ではない)を各藩が個別に馬を宿ごとに常備し置くことは困難ですし、各藩共用ならば需要が偏りすぎて供給不能に陥りますから、江戸時代には早馬は廃れたのだと考えます。つまり、馬は人間よりも割高なのです。需要が多ければいいでしょうが、何時あるかわからない早馬のために常備しておくのでは採算がとれるわけがありません。

ところで、実際に馬を必死に駆けさせた例としては、賤ケ岳合戦で羽柴秀吉が大垣から大返ししたものがあります。

事件の経過は以下のようなものです。旧暦四月廿日、盛政軍は大岩山の中川清秀(摂津茨木城主)、岩崎山の高山右近(同じ高槻城主)の陣を攻撃し、清秀は戦死、右近は敗走。盛政は手筈を違え、勝家の命に従わずに大岩山に駐屯し続けました。『太閤記』によりますと、「清秀戦死」の報を同日の午の刻(正午)にうけた秀吉は、直ぐに飛脚を出して、大垣から木の本に至るまでの村々里々に触れて、各家一間(ママ)から米一升ずつを炊いて兵粮とさせ、とくに長浜以北にあっては、これを木の本にまで運ばせるとともに、松明の用意をも命じたといいます。ついで、いくばくかの兵を残して岐阜の信孝に備えを手当しました。

『秀吉事記』と『豊鑑』によりますと、この後、秀吉は加藤光泰・一柳直末ら近臣数騎を随えて申の刻(午後四時)に大垣を騎馬で出発し、馬を早めて垂井・関が原・藤川を過ぎ、小谷で夜に入り、戌の刻(下刻なら午後九時)に二時半(五時間)かけて木の本に到着したといいますから、十三里(52km)を休息なしで五時間(時速10km強)要しただけであったといいます。

この間、秀吉は二回馬を乗換て三頭に騎乗していまして、最初の一頭は18km(時速10km強)乗り、次の一頭は22km(時速13km)乗って死なせ、最後の一頭は12km(時速7km)乗っているようです。これからしますと、五里(20km)が日本馬の早駆けの距離限界であったように思えます。『信長公記』には、「余人の馬どもは(信長公ほどには馬を鍛錬しておらず)飼つめ候て、常に乗ることが稀なるに依つて、究竟の名馬ども、三里の片道さへ(人を乗せて)運びかね、(荒い)息を仕り候て、途中にて、山田治部左衛門(の)馬を初めとして、損死候て(倒れ死ぬ馬がでて)、迷惑せられ候」とあります。

そうしますと、秀吉による騎馬での大垣からの大返しは時速10.4kmになるのですが、これは伝騎としてはそれ程早いとは思えません。飛脚と同じ程度の速度です。勿論、少なくとも小具足姿でしょうからかなりの重量を負っていることにはなります。従って、走破距離が比較的短い戦場からの伝令の場合に時速9kmを仮定することは適当であると考えます。

  閉話休題 <ナーダム>

  • 日本馬と馬格が似ている蒙古馬の例をみてみますと、現在も行われているナーダムでの競馬があります。但し、ナーダムの騎手は体重の軽い子供であることに注意しなければなりません。しかし、何しろ、モンゴル大使館公式HPをみても、どのように運営されているのかよく判らないのです。従って、以下の記事の速度については、これは飽く迄想像です。
  • ナーダムでは、走る時間を一定(三時間)に定めて、逆に馬の年齢によって走る距離を変えています。これは馬のマラソン競争です。勿論、優勝を争いますがスピードよりも完走することの方が重要そうです。出走する蒙古馬(?騎手か?)は、参加の廿から卅日前から食事を控えてぜい肉を削ぎ落とし体重を抑えるといいます。
  • ナーダムの競馬は、三日間に渡り午前と午後に夫々一レースが行われます。例えば、
  • 12:30〜15:30の三時間が2才馬(ダーガ)で15km、16:30〜19:30の三時間が3才(シュドレン)で18km。
  • 7:30〜10:30の三時間が4才(ヒャザラン)で22km,12:30〜15:00の三時間が5才(ソヨロン)で25km,13:00〜16:20が6才馬以上で28km。
  • 7:30〜10:30の三時間が種馬(アズラガ)で25km、去勢馬(イヒ・モリ)が28kmであったことがあります。
  • 競技は、まずゴール地点からスタート地点まで騎乗して移動して行き、凡その地点まで行くと一精にUターンして帰りの道程を競争しますので、実際倍の距離を移動することになります。つまり、単純に考えると、ナーダムでは15kmから28kmを凡そ一時間半で駆けることになります。ただし、騎手は6歳から12歳の子どもたちですが、鐙なしです。
  • ですが、翻って現代馬の常歩、110m/分(6.6km/h)で推測し直しますと、136分でスタート地点に行けますから、二才蒙古馬の15kmレースを考えますと、帰りの15kmを74分で駆けることになります。つまり、分速203m(12.18km/h)の速歩になります。森浩一氏の『馬』によりますと、独仏の騎兵の速歩は240m/分(14.4km/h)、明治期日本の騎兵(改良種であり在来馬ではない)では210m/分(12.6km/h)であるといいます。
  • これが28km競技の場合は、ほとんど二才馬の二倍のスピードになります。スタート地点に行くにも220m/分(時速13.2km)の速歩でなければなりません、帰りの28kmを53分で駆け抜けることになりますから、速度は528m/分(時速31.7km)という驚くべきスピードになります。これはディープインパクトの半分の速度で、騎兵が襲撃する際の襲歩(gallop)すら越える速度です。因みに、旧陸軍では伸暢駆足歩(襲歩)で420m/分(25.2km/h)と規定していますが、近代重騎兵(Grosse cavalerie)が襲歩を実施するのは、敵前60m(10秒弱)程度なのです。注:ディープインパクトの3,200mのタイムは3.2分ですから、分速1,000m、時速60kmになります。
  • 勿論、これらは出走した全ての馬がこのスピードを出せたわけではなく上位五六頭のことらしくも思えますから、本来この競馬は完走することに価値があったらしく思われます。ゴールして倒死する蒙古馬も出るようです。現に、現在のナーダムでも最後尾の蒙古馬と騎手まで見届けるのは日本人観光客だけらしく、現地のモンゴル人はゴールする時だけ見にきて、上位入賞者を見届けると帰ってしまうらしいのです。どうも、上位入賞者以外の蒙古馬と騎手は家族や部族の人にだけしか迎えられなかったかもしれませんが、完走しただけでもその家族らは、大変な称賛を騎手と蒙古馬に与えたものと思われます。これは飽く迄想像です。何しろ、モンゴル大使館公式HPをみても、どのように運営されているのかよく判らないのです。
  • ところで、現地のモンゴル人はナーダムに出かけるのに、60km程の道程を4時間(15km/h、250m/分)くらいで、その道中ほとんど蒙古馬に駆け足させてビールを廻し飲みしたりしながら行くそうです。

 

3.行軍速度は、歩兵が時速4kmと仮定します

口取りを従えた騎馬武者だけで、従卒を随伴しない場合は、時速6kmとします。現代馬の常歩は、一般に110m/分(6.6km/h)とされています。………これは、実際には騎馬武者は徒の従卒を伴っていまして、彼等が武器を捧持して駆け従う必要があるため、明治時代の騎兵隊の行軍より遅く、歩兵の急行軍の時速5kmより早く設定しました。本当のところは分かりません。

因みに、歩兵の場合には、カナダの外交官であり日本近代史研究者でもあったE・H・ノーマンが、『日本における兵士と農民』の中で、日本人農民の頑強な体力について「160cm足らずの農氏出身の日本兵が、30kgの荷を背負い、日に60kmの強行軍(時速4kmで15時間)に耐えた」と観察していますから、荷駄隊を伴わない戦場行軍である場合には、十分にゆとりのある速度だと思います。

賤ケ岳合戦では21時に全軍が着陣したといわれています。実際の一万五千名の軍勢は漸次出立していて、最後尾の兵が大垣を出たのが16時であったといいますから、歩卒は武装なしで7時間(時速7.5km)という飛脚なみの速さで駆けたと考えるのが相当であると思います。これは、旧軍が『作戦要務令・第320』には、「撃兵団の前進速度は1時間4粁、兵の負担量を軽減せる場合は1時間5粁とす。大隊以下の小部隊にして負担量を軽減せる場合は、急行軍の速度は1時間8粁に達す」と規定していたことに合致します。

但し、戦国時代の兵站は整備されていませんから、軍馬には秣や水を与えねばならりませんし、兵士は食事毎に炊飯しなければならないという日本軍独特の事情があります。ですから、敵地を通過する遠征の場合には、極端に行軍速度が落ちても、それは否めません。勿論、必要があれば腰兵粮で済ませたでしょうから、これも一概には言えません。

(2008.07.11 挿入) 中には、輿の場合には行軍速度が落ちると主張される方もあるでしょうが、輿で京都〜鎌倉を移動した四代将軍頼経の上洛の場合には、全行程19日(萱津に二泊)、実質行程18日でしたので、距離を550kmとしますと、一日30kmで時速4km弱になりますから、軍隊の行軍の支障にはならないものと考えます。

 

4.騎馬武者だけの部隊の行軍速度については分かりません。

明治以降の馬とは馬格がことなるのが第一の理由です。また、当時の馬は去勢しておらず、口取がついて行軍していたでしょうから実際のところは不明なのです。参考までに旧軍の騎兵隊の普通行軍速度は1時間7.5kmと規定されていました。勿論、明治陸軍騎兵隊の軍馬は去勢されていましたから特に口取は必要ありません。

因みに、天正十一年の賤ケ岳合戦時の大返しでは、夜も徹して岐阜の大垣から近江木之本までの52kmを5時間で軍勢を移動させたといわれており、14時に大垣を出て19時に木之本に秀吉と騎馬の武士が参陣しています。休息なしで52kmを5時間、時速10.5km弱の騎馬行軍ということになりますが、秀吉は二回乗換えていますから、三頭を使用しているのですが、最初の一頭には18kmを走らせ、乗り潰した一頭は22km走らせています。

そこで鎧を着用した騎兵の急行軍は時速9kmと仮定しておきます。

NHKの歴史への招待で、中世の馬と同じ体高130cm体重350kgの現存木曾馬に、体重50kgの騎士と甲冑相当分45kgの砂袋を乗せて走らせる実験をしていました。そのときには、現存する木曾\馬は駆足をさせたのが直ぐ速足に落ちてしまい、毎分150m(時速9km)を出すのがやっとで、十分くらいでへばってしまったと報道していましたが、このことは、如何にも科学的に見えるために、大変な誤解を生んでいると思います。現代の競争馬であるサラブレッドに、100kgもの重量を負わせて、敵陣を襲撃する実験をしたようなものです。現に蒙古馬は日本馬と同等の馬格なのですが、ヨーロッパまで遠征していることを顧みれば、実験方法の不備を知るべきだと思います。

また、NHKの歴史への招待で豊田有恒氏は「源平当時の馬は、ある時は乗用車、ある時はトラック、ある時は戦車と言う色々な使われ方をしたのではないかと思う」と、とんでもないことを言っています。馬は高価でしたし、軍馬はさらに得がたいものであったのですから、乗馬はともかく荷駄に使役されたわけがないと思います。畠山重忠は鵯越を担いで下りたのです。現代でも競走馬と農耕馬がいるように、軍馬は選別されたうえで、訓練されてはじめて軍馬になるのだと思うのです。競馬馬、搬載馬、乗用馬、軍馬は皆それぞれに育て方も訓練も違うのだといいます。近世ヨーロッパでさえも戦場までを騎馬で移動する機動歩兵ともいうべきドラグーン(竜騎兵)は常用馬(小型)をもちいてましたから、騎乗したまま戦闘することなどはできなかったのです。(後世の竜騎兵やオランダ、スエーデンの竜騎兵は例外です。)

 

<行軍長径>

桜井芳明氏の『尾張の街道と村』によれば、「(尾張藩の大名行列の)供揃え一行、1,200〜1,500人、行列の長さ400m以上、それに人足2,000人内外、馬100疋以上」と記されています。

それに従えば、戦場間近や閲兵時に600〜750人が二列縦隊で歩兵が行軍する場合には、行列の長さは約400mになりますから、1mあたり0.75 [600人÷2÷400m] 〜0.94 [750人÷2÷400m ] 人が並び、一人が占有する間隔は107 [400m÷750人÷2] 〜133 [400m÷600人÷2]cm であったということになります。

 いま、平均700人で400mと仮定しますと、1mあたり0.875人が並び、一人が占有する間隔は114cmになります。これは900人なら510m [400m÷700人×900人=514.3≒500m]  、千人で570mということになります。

ところが実際は寄親毎、寄子毎に順次出立するのでしょうし、戦場から遠くにいる場合の足軽鑓隊などは鑓を引きずって歩いたといいますから、自然に前後の間隔は間のびしてしまいます。敵に遭遇する恐れのない行軍中は、鐺を地面に引き摺って歩いたらしく、その際には、先行者の鑓を踏むことがあっても無礼とは見做されず許されたといいます。

確かに、前後の間隔は50〜70cmでは近すぎます。観衆に見られていないときには、大名行列は常に整然としていたわけではなかったようでして、道中はあまり隊列にこだわらないというのが普通だったようです。きちんと列んで歩いたのは、国元の出発や到着、領地の境、宿場の出発や到着、江戸入りのときだといいます。あとは列もばらばらで、かなり自由な歩き方をしたそうです。これらのことからしますと、通常の行軍長径は二倍の800mあったものと仮定してもよいのかも知れません。

次は騎兵の行軍長径を考えます。

戦国時代の軍馬は体高が約120〜140cmであり、日本馬は正方形の体型をしていますので、体長も120〜140cm程度と見做してよいと思われます。そこで、135cmを平均体長、平均馬身を270cmと想定します。

相馬野馬追の「馬行列」には、「一馬身半」離れて隊列を組む規定があるそうです。一馬身は、馬の鼻先から尻までの長さをいいいます。現代では、通常の乗馬で隊列をつくって行くときは、前の馬との間隔を半馬身から一馬身程度に保つといいます。近すぎると、前行する馬の機嫌が悪いときには後脚で蹴ることがあり、また前の人が木の枝を押し除けたりした場合には、それが跳ねて後ろの人に当たったりする危険を避けるための処置だそうです。そこで、明治以前の日本馬は去勢されておらず、軍用には雌馬も用いられなかったことを考慮しますと、野馬追の規定を戦国時代にも適用することが妥当だと思われます。

そうした場合、騎兵が一馬身半の距離を保って一列縦隊で行軍しますと、その行軍長径は 馬身×(2.5×騎数−1.5)であらわされますから、百騎の行軍長径は約670mになります。

一般に戦国時代の軍勢に占める騎兵の割合は一割程度といわれます。『落穂集』によれば15%程度が武士で残りは農民・下人であったといいますし、『長雲寺文書』では「軍役の総人数において310人中、乗馬の者は23人」としていますから、ここでは騎兵を一割と仮定した場合の単純モデルを考えてみます。

一千名の軍勢が、騎兵は一列縦隊、歩兵は二列縦隊で行軍した場合の行軍長径は、百騎で670mと九百人で510mの合計約1,180mの隊列になります。これは、騎兵一割を含むのですが、一m当り0.85人 (1,000人÷1,180m)  、一人当たり1.18mの勘定になります。

このような隊列が、時速4kmで行軍した場合には、一時間当り約三千四百人 (4,000m×0.85人/m) を送り出すことができます。これは一分当り56.7人になります。一千名の隊列が戦闘隊形をとるには、約20分弱 [1,180m/隊÷4km/h=0.295≒18分] かかることになります。

歩兵を二列縦隊、騎兵を一列縦隊と仮定したのは、当時の海道が一般にそれ以上の道幅をもっていないからです。また、桶狭間の戦いを考える場合には、中島から四本木で山間にかかるまでの道の両側は深田であったと考えられるうえに、山間に入ると赤松の疎林と低木の荒地となっており、街道以外に広く展開して前進できるとは思えないからです。それに、当時の東海道の中嶋から阿野までは人家もなく、整備されてはいませんから、それほど広い道幅にはなっていなかったと考えます。

以上の隊列の長さは最も迅速に行動している状況を仮定しておりますし、小荷駄の存在を想定しておりません。ですから、各単位部隊(先鋒隊や独立支隊がある場合など)毎に小荷駄を伴っていた場合には、はるかに長い隊列になるものと考えねばなりませんし、前進時には最後尾に、撤退時には最前列に位置させることになりますから、移動に要する時間は遙かに多く必要とします。

ただし、この時期の軍隊の行動は支城から支城へと移動していますから、後世の桃山期以降のような膨大な小荷駄を随伴することは、兵粮を除いてはなかったものと仮定しています。

 

<舟の速度と運搬能力>

これについては、馬よりもわかりません。

そこで、長崎大学水産学部研究報告 第82号(2001)http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/6539/1/82-001.pdfから、高山久明氏の『櫓漕ぎ和船漁舟の船型調査と運動性能に関する研究』を基準にして想定します。以下はその研究成果から必要な部分を摘出したものです。

  1. 鯨船の長さはおよそ七尋(約10m)で,八丁櫓十二人乗りが一般的であり,速度は10ノット(18.52 km/h)を超えることもあったという。江戸時代の藩船には,鯨八丁といわれるものがある。
  2. 和船漁舟の推進は,人力の櫓漕ぎや自然の風を利用する帆に依存したことから,実船で考えられる最大速度は精々10ノット程度までと考えられる。主として櫓を用いた推進法において実船相当の船速で見積もると4〜6ノット付近である。
  3. 熟練者の有効馬力は0.04ps程度とみなせるが,最大では0.06ps程度となる。これは端艇競技の漕ぎ手十二人の内の一人に対する有効馬力(0.10〜0.14ps)に比して平均では30〜40%程度となる。但し,端艇では多人数で漕ぐ伴流(wake)を利用した漕法の競技であり、船速が増すと船体表面近くでは船速と同一方向の流れが生じ、一人漕ぎの場合に比して有効馬力が増加することが考えられる。
  4. 海況および使用艇の条件が良い時,一人漕ぎで平均船速2.5kt(4.7km/h)が得られ,その時の全抵抗値から有効馬力は平均で0.04〜0.045ps,最大で0.06psと算定できた。また操櫓法に習熟すれば,低速のうちは推進抵抗が極めて小さい和船漁舟では,比較的非力であっても長時間安定的に漕ぎ続けられることが実証された。
  5. 八丁櫓の高速鯨船(壱岐の勢子船)をあてはめると,設定した半載の稼動状態で船速は4.0ktを超えるとみられる。同船の設定喫水における艇重量は3.2tであるが,船重量および搭載の櫓の重量や漕ぎ手八人の重量を勘案するとまだ軽量となることが予想(1.8t程度)され,このことは抵抗値軽減につながるとともに船速の増加が期待でき,史実通りの7〜8ktの船速も瞬間的には可能であったことも考えられる
  6. 1986年6月,対馬北西端の大河内湾に面する河内地区の住民らによって七丁櫓の地船と称する和船漁舟を用い古代航海を模擬する渡海実験が実施された。対馬棹崎から韓国釜山まで直線距離にして53km余の朝鮮海峡を風力3〜4、海潮流の影響も大きい中を八時間かけて漕ぎきったものであり,この平均船速3.5kt(1.852×3.5≒6.6km/h)程度に相当する。実験に用いた地船は対馬においてかつて定置網の網起こしや地引網に用いられたもので,現在は櫓漕ぎ競争の「船グロー」に用いられている全長10m,幅2mのものである。
  7. 端艇の1,000m往復,計2,000mのタイムは696〜791秒であった。いずれも回頭に要する時間を15秒,また往復であるので潮流による影響もないものと仮定すると,実際の速力は5.01〜5.71ktとなる。

以上の研究成果を拝借して、その内から、「一人漕ぎで平均船速2.5kt(時速4.7km)」を渡河時の航行速度と仮定します。

因みに、帆走の事例としては、弘治二年(1556)三月十六日に山科言継が未の下刻(pm3)に常滑を出航し、海路七里を四時間ほどかけて酉の下刻(pm7)に鈴鹿市の長太(タゴ)に到着し、船長に酒肴料として百文を渡しているというものがあります。これは時速7kmということになります。………実際のところは、常に風任せであるためにはっきりしたことは何も言えません。

 

<戦国時代の行軍について考える>

小荷駄は常に戦場の邪魔ものであったことは事実ですが、重い弁当や水筒の水はかえって機敏な動作を妨げ、敵との戦いにおいて手足まといになるからだと考えるならば、これは現実を知らない机上の空論になってしまいます。蔚山城の加藤清正・毛利元就・織田信長は腰兵粮を離しませんでしたし、『雑兵物語』でも兵粮第一を説き打飼袋を用意するように注意を促しています。また、現代でもベトナム戦争では、温かい食事を空輸できた米軍の兵士でも水筒を二つ持っていたなど、水と食料は手放せないものであった事例ついては事欠きません。特に水に困らない日本では、食糧は重さに関わらず肌身離せないものであったことは間違いないことでしょう。

それに、そもそも、戦国時代は災害と飢饉の時代といわれており、戦国大名の戦争自体が食うための出稼ぎに比定されるほどだったのですから、「邪魔な小荷駄」の意味を取り違えてはいけないと思います。

現代人が「重い弁当や水筒の水はかえって機敏な動作を妨げ、敵との戦いにおいて手足まといになるから、小荷駄は邪魔にされた」というような文章を書くようになったのは、比較的記録の多く残るようになり、かつ武士たちも比較的裕福になって、江戸期の参勤交代なみの小荷駄を随伴できるようになってからの現象を目にするからだと思えます。これは、桃山期以降に顕著になったものと考えますが、それでも比較的に高級な武士のことだと思えます。つまり、常に万余の軍勢が動いた戦国後期の織豊式になるまでは、小荷駄に占める生活用品は極めて少なかったに違いないのです。

因みに、関ヶ原町歴史民俗資料館には、島津軍の陣所址から出土した鉄鍋や薬研(ヤゲン)などが陳列されていますが、長篠や桶狭間の戦場からは、そのような生活用品は出土していません。尤も、何も出土しないほうが普通なのですが、出土するほど当たり前に大量に使用されたことを窺わせることにもなります。

戦国も中期までは遠距離に長期にわたって戦争に出かけることはなかったからです。応仁の乱に際して上洛するときでさえ、対戦時以外には野陣を張ったとは思えません。そのため、小荷駄は邪魔になって当然なのです。

 また、古代から武器・武具・兵粮は自弁でしたから、よほど大身の武士でないと小荷駄を準備することなどはできなかったと考えます。できる限り、自身と軍役の者で運んだはずです。その代り、昔から総大将などは鎧持ち・兜持ち・鑓持ちなどから始まって様々な日用品を運ぶ者共を引き連れていたことも事実です。これは、信長も同じで、長篠合戦屏風図などをみますと、兜持から手鑓持などが周りを取り巻いています。

但し、元亀・天正以前とそれ以降では分けて考える必要があると思います。

信長の単騎駆けが性格によるものではなく、制度として備わっていたものだとしたならば、相当早い時期から家政官僚組織に人材を得て充実していたことになるからです。

対美濃戦時代であったならばまだしも、上洛を果たしてからの岐阜からの一騎駆けに追従するには、常に出陣の準備をしているだけではなく、路銀も用意しておかなければなりません。それが最も手軽な方法だからです。としますと、後で当人の扶持と相殺するにせよ、立て替えてやらねばならないことになります。どちらでしょうか。信長の配下の各武将は心がけがよかったのでしょうか。それとも、拙速第一で金で解決するシステムが出来ていたのでしょうか。

特に、当座の出陣には対応できても、長陣になったり遠方に転戦することになった場合には、追加の補給が必要です。そして、これが全軍に及ぶのですから、全てを岐阜から運ばせようとすると街道は大渋滞を惹き起すことになるはずですが、後の関ヶ原合戦に伝えられるような状況は聞こえません。………と、しますと、やはり当時の軍隊は現地調達の敵地略奪に多くを依存せざるを得なくなりますが、それを禁じますとやはり路銀が必要になります。

 

<桶狭間合戦の距離表>

ここで使用する距離は、昭和63年版国土地理院一万分の一地形図よりスケールアップしたものです。

  1. 清須城〜熱田間は三里余の12km、
  2. 清須〜善照寺間は四里9町余の19km、
  3. 清須〜丸根砦間は五里12町余の21km、
  4. 熱田〜丹下砦間は6.05km、
  5. 熱田〜善照寺間は一里25町余の7km、
  6. 丹下砦〜朝日出間は1.3km、
  7. 熱田〜朝日出間は7.35km、
  8. 鳴海城〜善照寺砦間は0.5km、
  9. 母衣後〜鎌研間は1.27km、
  10. 鎌研〜ヒロ坪間は1.61km、
  11. 善照寺〜中島砦間は0.6km、
  12. 善照寺〜丸根砦間は3.84km、
  13. 鷲津〜桶狭間辻〜桶狭間本陣間は4.34km、
  14. 漆山〜桶狭間本陣間は2.68km、
  15. 丸根砦〜沓掛城間は二里半余の10km、
  16. 丸根砦〜南関山間は0.64km、
  17. 丸根砦〜桶狭間本陣間は3.74km、
  18. 沓掛城〜桶狭間辻〜桶狭間本陣間は7.35km、
  19. 大高城〜沓掛城間は11.29km、
  20. 大高城〜桶狭間本陣間は5.14km、
  21. 大高城〜鷲津砦間は七町余0.8km、
  22. 中島砦〜鎌研間は1.41km、
  23. 中島砦〜漆山間は0.8km、
  24. 鎌研〜大将ケ根間は1.1km、
  25. 鎌研〜有松神社間は0.9km、
  26. 大将ケ根〜桶狭間本陣間は0.98km、
  27. 祇園寺〜桶狭間本陣間は1.74km、
  28. 漆山辺り〜ヒロ坪(田楽狭間)間は2.48km、
  29. 漆山〜中島砦間は0.8km、
  30. 中嶋砦〜有松神社間は2.95km、
  31. 朝日出〜中島砦間は1.4km、
  32. 朝日出〜鎌研(山際)間は2km、
  33. 山腰〜母衣後間は0.3km、
  34. 南関山〜東海道間は2km

  閉話休題 <小荷駄隊(輜重隊)> 2008.07.12 挿入

 

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