<矛盾のない筋書の条件>

追加:黒田日出男氏「乱取状態急襲説」批判(2007.2.19)

(1) 朝比奈勢が鷲津砦辺りから撤兵していること。または、戦後に責任を問われない理由を明確にすることが、まず第一の筋書きの条件になると思います。そして、これまで見てきたように、朝比奈勢が鷲津砦辺りにいた場合に矛盾が生じることは歴然としています。

ですが、彼ら駿河勢が午後四時頃に桶狭間山での戦闘が終了するまでそこに止まっていたことを裏付ける史料は見当たりません。しかし同時に、そこから撤兵したという明白な証拠もまたないのです。

しかし、『武家事紀』で江戸初期の軍学者・山鹿素行は、「義元が戦死したとき、朝比奈・三浦・葛山・斎藤・岡部・由比・福島・庵原をはじめ二十一人が、一戦も交えずに敗北してしまった。そこで、彼等も面目ないと思っているし、氏真もまた残念に思い、お互いに主従の間が不和となった」と書き、これら義元の征西に随行した歴戦の諸将が、信長と桶狭間で戦っていないと認識しているのです。この文章からはこれら諸将が遠征に参加して「歴々が補佐していながら」と言う意味あいを強く感じます。桶狭間近辺にいなかったのが不覚であり、残念なことだと言っているように思え、決して傍観していたり、逃げ出したり、臆病であったり、卑怯・未練で信長と戦わなかったと非難しているようには思えません。

さらに、『武家事紀』では、岡部五郎兵衛元信の名前までもが上げることからも、その意を強くします。何故なら、彼は鳴海城の守将であって合戦当時は善照寺砦の織田軍に牽制されていて動きが取れなかったからです。その岡部元信に、もし怠慢があるとしたら、信長が善照寺砦の兵までも桶狭間に引連れて行ったと仮定した際に、その背後を衝かなかったという場合だけの事だからです。しかし、元信にそのような機会がなかったことは、二之江の服部氏が信長の背後を衝かずに、熱田湊を襲っていることからもわかります。(2007.12.5挿入、服部氏は信長の後方を撹乱するために熱田を襲ったのではありません。単なる帰りがけの駄賃でしょう。熱田町民は善照寺まで出かけて行って急ぎ戻った記事が、『天理本信長記』にあるようです。)………これは、善照寺砦に充分な兵力が控置されており、中島橋を渡ることも、鳴海城下の浜にも上陸することができなかったからに違いないことを示しています。

このように『武家事紀』では、これらの主だった武将は、義元を救援できるような近辺には居なかったと認識していたことになります。そして、江戸初期の人々もこの認識にさしたる意義はなかったようです。ですから、朝比奈らの付城を攻撃した連中は、闘わずに逃げたのではなく、闘えなかったのです。それが、態々戦いを目的に出かけて行った武士としては、肝心の合戦に居合わせられなかったのだから、残念であるというわけです。

このようなことが起こり得る一つに、沓掛から出陣した義元隊が行軍隊形の長く伸びたまま、横腹を織田勢に曝したままで、街道の近傍の山上にそれぞれ陣取って大休止をしていた場合が考えられます。ただし、それでも先鋒隊の朝比奈備中守が桶狭間に駆け付けられなかった理由を説明することはできません。

 

乱取状態急襲説

最近、黒田日出男氏が『甲陽軍鑑・品第六』の中に「人数七百許(バカリ)、義元公人数二万余を卒して出給ふ。于時(トキニ)駿河勢諸々へ乱妨に散たる隙(ヒマ)をうかゞひ、身方の真似をして駿河勢に入交る」という意味の記述と、松平元康が今川軍が略奪し、油断していた」(新人物往来社)と証言したのを見つけ、「乱取状態急襲説」と名付けたうえで、『信長公記』がそれを隠蔽したのは、信長のを慮って略奪に付け込んだ勝因を『みっともない』として避けたのだと主張しておられます。

注−1:この『甲陽軍鑑・品第六』の丸写しと思われる記事が、『古今軍鑑』と『古老軍物語』にもあります。「義元のくんせい(軍勢)かちいくさ(勝軍)に心をゆるし、方々にゆ(行)きてん、らんはう(乱暴)するほと(程)に、よしもと(義元)のはたもと(旗本)には、人数わつ(僅)かなり、信長このひま(隙)をうかゝ(窺)ひて、みつ(自)からつはもの(兵)をあつ(集)め、はた(旗)をま(巻)き、かさしるし(傘標)を、かなくり(捨)て、するかせい(駿河勢)にまき(紛)れ入たり、よしもと(義元)は、松かけ(陰)に酒もりしておはしけるを、信長、には(俄)かにとき(鬨)をつくり、きつ(切)てかゝり、つゐ(終)に義元のくひ(頸)をとりたり

注−2 『甲陽軍鑑・品第六』から「乱取状態急襲説」を唱えたのは、黒田氏が初めてではありません。豊明市史によりますと、豊明市旧間米村で発見された写本・『桶狭間合戦名残』は、「或は乱取に散り、(中略)只八百の人数にて今川の乱取に紛れ三川(三河)の方へ回り味方のことく入交り、(中略)辰の刻(午前九時)の終りに勝利を得、義元の首を取、早々鳴海江懸り、今川衆に紛、東海道を帰陣なり」と考察しています

この説にたいする批判は別にして、これは諸将が桶狭間の本陣付近に居合わせなかった証拠にはなります。但し、『甲陽軍鑑』の「織田軍が味方のように入り交じり」という記述は、駿河勢のなかで生き残った者の言い訳として、否定しなければなりませんし、『信長公記』や『三河物語』の記述に矛盾します。そこでは、どちらも明らかに敵である信長勢を認めているからです。従って、『みっともない』のは信長ではなく今川方になります。これでは、今川軍の恥の上塗りでしかありませんから、著者の意図があるように思えます。

これを今川方に好意的に解釈するなら、今川勢は遠方に乱取りに出掛けていて、本陣付近にはいなかったとしなければなりません。そして、今川本陣の将兵が信長勢が接近したのを味方が帰陣したものと錯覚したとするには、信長勢が乱取に出かけた味方が出かけた方角から出現したのでなければならないのですが、その場合の駿河勢が乱取に出かけた先は中島砦から諏訪社を結ぶ南北の線より西でなければなりません。………このことは、桶狭間やその西にあり今川本陣先備があったと目される高根からの監視下にあったということです。状況は丸見えなのですから、二千もの信長勢が紛れ込めるわけがありません。

ですから、『甲陽軍鑑』の「味方のように入り交じり」という意味は、信長の率いる一隊が駿河勢しかいないはずの東側から出現したように、義元本陣の将兵には思えたという程度の意味であるか、または北側から攻撃されて敗走する味方右翼の兵に紛れるほど信長軍に肉薄されて攻撃を受けたという意味でしかないように小生は思います。

一つ、黒田説に有利な史料がないわけではありません。それは『三河物語』です。そこには、「(六左衛門尉が)急ぎ早めて行くところに、(織田勢の)徒の者は早五人三人づつ山へ上がるを見て、(駿河勢は)我先にと退く義元は其れをば知り給わずして、弁当をつかわせ給いて、ゆるゆるとして御給ひし所に、車軸の雨が降り懸る処に、」という記載があるからです。………それにしても、これを義元本人が知らないことはあり得ますが、敵を警戒しているはずの本陣先備が知らなかったとか、敵を識別できなかったというのでは、最早お手上げです。しかし、これはそういう場面を描いたとは思えません。やはり、引揚げ中の殿軍の様子を描写したものと考えるべきだと思います。

註 信玄、勝頼の時代の武装は未だ胴丸、腹巻の時代でして、背中に立てる「小旗」はまだありませんでしたから、袖に結ぶ「袖印」か、兜の祓立や後勝鐶の結ぶ「兜印」程度で敵味方を識別していました。従って、見分け難かったかもしれませんが、当時の戦陣での常識として、出陣毎に合印・合言葉を定めており、夜襲のときだけに合言葉を決めたのではないのです。咄嗟に二千もの合印を用意するのは難しいでしょう。それに、軍法として他家(他部隊)に紛れることは厳しく禁じられていました。

註 TVでみる桶狭間合戦での雑兵が背中に黄色の小旗を指しているのは間違いというわけです。あれは、視聴者に敵味方を分かってもらうための演出です。

註 相詞・合印は毎晩変えたわけではない。『常山紀談拾遺』に、「功の士の曰く、古法に相詞を夜々に替ると云こと大なる偽なりと心得べし、末々までのことゆへ、中々毎夜かへがたし、大阪陣のとき、城内相詞は山、関東方は旄(ボウ)と唱へたるに、一陣すむまで右の相詞一ツ宛にて済たる事なり。」とあるように、合戦が長期化するようになると、「一陣」毎の期間が長くなる。

また、後世のものになりますが、井伊直政が石原主膳・孕石備前・広瀬左馬助の三人に命じて甲州・信濃・越後などでの経験をいかして定めたという『井伊家御軍法』には、「かり田・小屋おとし者(ハ)、下知次第に、騎馬一人づゝ、足軽鉄炮二拾挺・弓拾挺宛(ヅツ)苅取(に)遣(す)可く候。稲・薪等其所に而割符之事。但(し)間遠に候はゞ、これにしたがひ人数(軍勢を)下知(派遣する命令)有(る)可(き)事」としており、名々が勝手に乱取していたわけではなく、組織的に行うべきだとしています。

そして、これも関ヶ原合戦のときのことですが、大垣の石田三成から増田長盛宛の書状には、「爰元(ココモト)、苅田候へば兵粮は何程も之有る事に候へども、敵を大事に懸けられ(オソレテ)、苅田にさへ人を出さず候」としていますが、城下をこれ見よがしに踏み荒らされては口惜しいでしょうから、城方が一矢報いるために討って出ないとも限りません。そうしますと、刈働きをする駿河勢も当然それに対する用意をしていたに違いありません。つまり、信長が紛れ込むなどということは万に一つも起こらないことなのではないでしょうか。

第一、敵を欺くことは武将としての器量でこそあれ、卑下することではなかったはずですから、未だ尚武の気風が色濃く残っていた江戸初期では、書くことが躊躇われたとも思えません。また、諸将も義元の武将としての能力を買被り過ぎてしまい、一人で行動させたことに対する悔やみが生じたのかとも思えます。確かに義元は偉大な政治家であり、戦略家としても赫々たる実績を残してきてはいましたが、軍人として戦闘部隊を指揮する能力を示したことは一度もなかったと思うからです。それを、そのような戦況を判断し、戦機を捉える能力が必要な状況に、義元一人を放置してしまったことに対する慙愧の念が、今川家の重臣たちにはあったものと小生は思うからです。

ところで、黒田氏が根拠にした『甲陽軍鑑』での文章の書き方は、「信長二十七の御歳、人数七百計にて、義元公の人数二万計にて出給ふを、見きりをよくして、駿河勢の諸方へ乱取にちりたる間に、身方のように入まじり」となっているようです。ここの「間」という語の意味を黒田氏は空間的に受け取って「あちこちに散らばっている味方軍勢の間隙に」として受け取ったわけですが、「既に撤兵して遠方へ離れてしまって、本隊が手薄になっている合間に」として時間と捉えることもできるわけですが、どちらが適切な解釈でしょうか。

『甲陽軍鑑』は「駿河勢の諸方へ乱取にちりたる間に」と書きますから、駿河勢は鷲津を攻めた朝比奈勢と義元本隊を一つのものと見做しているようですが、果たして此れは砦攻略後に沓掛城から出陣した義元と合流したうえで、戦闘に参加しなかった本隊将兵も一緒になって乱取の恩恵に浴したのでしょうか?それとも、砦攻撃軍は何れかへ乱取に出かけ、砦攻略成功を聞いた本隊も又桶狭間山から乱取に出かけたというのでしょうか?………何れの場合も、本隊の将兵は戦闘に参加していないばかりか、義元が大高城に行くという目的も達成していないうちに乱取に興じたことになるわけですが、今川軍というのは本当にそれほど軍紀の緩んだ軍隊であったのでしょうか?

ところで、最近発表される説の多くは「義元本隊の兵力が劣弱であった」ということを、それとなく主張しているように見えます。

その言い方は、

  1. 義元本隊の兵力を五千人程度と看做すこと
  2. 義元本隊には実戦兵力は少なく、荷駄隊が多かったとすること
  3. 義元軍は兵農未分離であり、その実戦兵力は多くてもニ割程度であって、一千名程度の武者しかいなかったとすること
  4. 義元軍は農兵が多く質が悪かったとすること

というようなもので、まるで朝比奈先鋒隊がいなければ、義元と本体では単独で戦闘に入れないかのようです。

しかし、これらは何れも的外れです。何故なら、その劣弱なはずの今川軍に信長はこれまで勝ったためしが殆どないからです。

鷲津辺りの戦場に駿河勢がい続けたと思わせる状況証拠を探しますと、『武徳編年集成』が、「大高の城へも漸く薄暮に義元戦死の由聞ゆるところ駿州勢のたまたま当城に在る者皆遁れ去り鷲津、沓掛の守兵も皆逃亡する由告あり」と記していることがあります。しかしこれは、「たまたま」と形容しているように、朝比奈勢が一部を割いて大高城には軍監として残置し、鷲津砦には大高城の出城の守備兵として若干名を配置しただけなのかも知れません。これに、最近の黒田説を勘案しますと、先鋒隊を離れた雑兵らが乱捕りして居残っていたとも考えられます。そうしますと、黒田氏が根拠の一つに持ち出された松平元康が「今川軍が略奪し、油断していた」と証言していた意味も自ずからニュアンスが違ってきます。何しろ、元康は桶狭間の戦場にはいなかったのですから、その語った意味も「略奪に行くために、今川軍の主力は早期に撤収を完了して、改めて乱取に出かけていってしまっていた」ということになるのではないでしょうか。決して、桶狭間村と中島村の間で略奪をしていたわけではないと思います。

また、黒田氏は『信長公記』に、信長本隊の進撃ルートなどが省略されているのは、乱取の隙をつくという、あまりかっこよくない戦い方による勝利を具体的に記述するのを意図的に避けたのが理由だされていますが、これはあまりに馬鹿げた見方だと思います。なぜなら、『信長公記』はルートを省いたのではなく、道は東海道の一本道しかなかったのですから、詳述する必要などがなかったはずです。ただし、この道は有松(当時はなかった)の鎌研・祇園寺(当時はなかった)辺りで桶狭間へ行く道(長坂)と阿野村へ続く道(東海道)とに分かれていましたから、ここに、「迂回の秘密」も「奇襲のサプライズ」も全てがあるわけです。

また、『桶狭間合戦記』では、「敵、尾軍の先手(千秋・佐々ら)には討ち勝ちけれ共、信長数千の兵にて険地(善照寺砦から朝日出)に軍立して控へければ、早速引き退く、尾張方もまた追はざりけり」というふうに考えています。この場合の駿河勢が、朝比奈勢であるならば、中島表から今川勢は全て撤退してしまって鷲津砦辺りの駿河勢はいなくなりますから、『信長公記』の証言には矛盾することはありません。

ところが『桶狭間合戦記』の考えるようでしたならば、新たな問題が生じてしまいます。鷲津の駿河勢は、大高城ではなく義元が兵を休める桶狭間に向かったことを意味することになります。つまり、朝比奈勢は夜明け前に沓掛城を出陣して鷲津で戦い、そこから桶狭間へ行って義元本隊と合流して、そこから大高城に行くという行程をとることになるのです。これは考え難い行動です。広義の戦場の内をぐるぐる廻っているのです。朝比奈勢が鷲津砦へ退き、義元の参陣を待つことも考えられますが、敵が出現した時点で、態々自軍の兵力を分散させる愚を犯すとも思えません。こうなると、やはり義元は大高へ向かっているのではなく、大高から引揚げているのではないかという疑わざるを得なくなります。

もし、義元が大高城に入城する予定であり、朝比奈勢が前哨戦を戦って鷲津辺りの山にいたのでしたならば、朝比奈勢は大高城に入城する義元本隊を掩護するために、義元が安全な場所まで移動する間はそこに止まるはずだと思います。まさか、一度桶狭間まで行ったうえで、また再び義元と一緒に大高へ戻るなどということはしないでしょう。織田勢の数千が目の前に出張してきているのですから、義元本隊だけを桶狭間山に残してさっさと鷲津砦に引揚げてしまったり、勝手に略奪に遠方に出かけて行ったりするようなこともなかったと思います。

そうしますと、『桶狭間合戦記』の考える場面での駿河勢が、朝比奈勢である場合の合理的な解釈は、「義元は、先鋒の朝比奈勢を先にして大高から引揚げる途中であった」とするか、「充分な兵力を持つ義元が殿軍となって桶狭間山に残り、朝比奈勢は漸次西三河に引揚げている途中であった」ということになると思います。

そして、この説は魅力的です。

何故なら、朝比奈などの主だった武将が、義元の側にいなかった正当な理由を提供するからです。勿論、『桶狭間合戦記』の駿河勢が義元本隊から出張した部隊であった場合には、朝比奈勢は引き続き鷲津辺りにいることになりますから、問題は解決しません。

次に、義元の兵力の面から考えてみます。

義元の兵力が後世に伝えられるように、桶狭間に四万とか二万五千というような大兵力を動員していたとしたならば、先鋒と本隊が互いに独立した行動をとっていても、さして危険な事態には陥らなかったと考えることが相当だと思います。しかし、もし義元の直卒兵力が一万人未満と、信長軍の総兵力の倍程度でしかなかったらば、桶狭間と鷲津辺りの二箇所に兵を分散したまま、互に助け合わずにだらだらと過ごすのは不都合な事です。これは『三河物語』で石川六左衛門尉が指摘しています。もとより、六左衛門尉は駿河勢の兵力については何も語っていないのですが………。

ここでも、史実は一つの方向を指しています。

大軍であったならば桶狭間山の義元はたとえ敗れても討ち取られるようなことにはならなかったでしょうし、もし喧伝されるような大兵力でなかったならば、先鋒隊の朝比奈勢と義元の本隊とは一緒に行動していたに違いありません。そして、一緒に行動していた朝比奈備中守が戦場におらず、非難されてもいないのですから、駿河勢は戦場から撤兵の途中だったと考えるべきなのです。最近の黒田氏による「乱取状態」であっても、その乱取りは鷲津や中島砦表での乱捕りは終了して駿河勢は凱旋しており、更なる乱取りを行うために戦場から離脱中であったと考えるべきだと思います。

 

<状況証拠から合戦の推移を考える>

ところで、いずれの場合であれ、丸根・鷲津砦攻略後には、何処にいて何をしていようと、一段落したならば当日の宿営を何処で行うかを考えなければなりません。というよりも、既に決定していたはずだと思うのです。なぜなら、通常ならば午後二時や三時頃には予定宿営地に着いて夕食と宿営準備を行うところだと思うからです。そのように考えますと、最も合理的な結論は、やはり「信長が桶狭間に突入した時刻には、朝比奈勢は鷲津の戦場から西三河に撤兵を完了していた」ということになると思います。そしてそれは、既に岡崎城や前日の大高城での軍議で決定されていた公算が高いものと思います。

このように、様々な場合を考えても、桶狭間戦後の朝比奈・三浦らは批判されはしましたが、駿府に帰ってからも謀反を起こしもしなければ罰せられてもいないという史実があることに変わりはありません。この史実が動かせないものである限り、朝比奈らの行動は義元の本陣も合意の行動であり、武辺道に非難されるべき過ちが何等無かったことは明らかだと思います。そして、朝比奈らの武辺道に過失が無い限り、義元は戦場から撤兵中であったと考えるべきだと思うのです。

さて、ここまで考えてきましたが、状況証拠は朝比奈隊が信長から視認できるところにいなかったことを支持するようですが、明確な証拠は何もありません。そこに行ったという事実はあるのですが、そこに居続けたという証拠はないのです。しかし同時に、居なかったという確実な証拠もまたないのです。

このように、鷲津辺りに駿河勢がいなかったという状況証拠では、先ず『信長公記』が伝える、善照寺砦から戦況を観察した信長が、『三河物語』のいう「棒(某)山」に敵の脅威を認めていないことが第一です。

次の証拠は、信長が善照寺砦から中島砦に移り、更にそこから出撃しているのに、鷲津辺りの駿河勢は何等妨害を試みていないのみならず、信長が東海道を東進し始めても圧倒的に少数であると思われる信長の背後を衝いていない事実があります。少なく見積もっても丸根・鷲津を攻略した駿河勢の先鋒隊は三千人程度の兵力が見込まれるのにです。

第三の証拠は、時刻が判然としないのですが、大高河口に遊弋していた二之江の服部左京助が、信長の背後を衝こうとして上陸していないことも挙げられます。鷲津に朝比奈勢が布陣していたならば、共同して軍事行動を起こすはずだと思います。

第四の証拠は『三河物語』が、「次郎三郎様を置き奉りて、引退く処に、信長は思いのままに駆けつけ給う」と言い、石川六左衛門尉が、「だいたいが、か様なところの長評定は、よきことは出来せざるものにて候に、棒山を攻めんか攻めまじきかとの評定久しく、又、城の替番の詮議久しく候あいだ、ふつふつと(決して)よき事あるまじき。是え押し寄せ給うと、そのまま取り合えずに攻め落とせ給いて、番手を早く入れ替え給て、引かせ給わで叶わざるところを、余りにオモクレて(ぐずぐずして)、手粘く候あいだ、ふつふつとよき事あるまじき」として、撤退が遅れたことを批判していることがあります。

以下の証拠は、史料としては問題がありますが、後世の人の認識として傾聴すべきものです。

例えば、『武徳編年集成』は「駿州勢のたまたま当城に在る者皆遁れ去り、鷲津、沓掛の守兵も皆逃亡する由告あり」と書き、義元討死後に鷲津・丸根砦にたまたまいた将兵がいたことを記してはいますが、先鋒大将の朝比奈備中守については記載がありません。また、そこでの元康は筆頭家老の朝比奈備中守に使いを出して義元討死の真偽を確かめたり、その指示を仰ごうとなどは一切してはいませんから、松平勢は朝比奈隊が既に撤兵していて、問い合わせも指示を仰ぐこともできないだろう事を、当然のこととして承知していたと考えられます。

元康には、後日駿河勢が岡崎城を退去するまで帰城せず、駿河勢が放棄したから入城するのだと言ったという逸話もありますから、今川家筆頭家老の朝比奈備中が鷲津辺りにいたものならば、必ずや善後策を協議するはずだと思うのです。 (以下、2008.1.10挿入) この問題については、江戸中期の文献である大道寺友山の『落穂集』が、大高城に入った松平元康が「義元を御待請の為、本丸をば御明け」してと書いたり、『岩淵夜話別集』が「二丸に御座ける」と書いたりしていますが、これは、明らかに岡崎城の奪還のときの逸話と混同したものだと考えます。何故なら、もしそうであるならば、元康は義元が到着しないのをなぜ訝らなかったのかという疑問が生じるからです。

『桶狭間合戦記』も「早速引き退く、尾張方もまた追はざりけり」として、中島表から今川勢は撤退して鷲津砦のある山裏の駿河勢はいなくなったと考えていますが、これは鷲津砦に退いたのではないでしょう。さらに、朝比奈や三浦などの先鋒の将士とされる者には、桶狭間合戦で戦死したという記録がなく、少なくとも義元討死後の落ち武者狩にあってもいないことから、大高表から桶狭間山域にかけての地域には滞陣していなかったと考えるべきだと思います。

このように、状況証拠からは、駿河勢が鷲津や鷲津砦のある山にいなかったということを証明できるほど強力なものはないのですが、いたことを示す確実な証拠もないのはまた確かことなのです。

そこで、これだけでの状況証拠から事実を推定すしますと、以下のようなストーリーが構成できると思います。

『桶狭間合戦記』に「御先手の輩、鳴海へ出張し善照寺等の砦を攻めんと相議する所、清須勢、後詰として数千軍、出陣し先手進み来るに依りて、即ち相戦い打ち勝ちて、敵の先将を初め数千騎討ち取り余兵猶、要害の地に対陣すといへ共、是また、追い付き、打ち散らすべしと佐々・千秋・岩室以下の首を実検に備ふ」とあり、この著者が、丸根・鷲津を攻略した朝比奈勢が、敗残兵を追撃して中島砦に対面する山側に進出したうえで、織田勢が逃げ込んだ善照寺砦の攻略を協議したと考えたことを採用します。

さらに、『桶狭間合戦記』は「信長進んで丹下に至り中島・丹下両砦に籠め置かれたる人数をば旗本へ召し加え善照寺辺りへおもむく」といい、中島砦の将兵は丹下砦から信長が発した命令により、砦を放棄して善照寺砦に集合しており、鳴海城へ至る道は開かれていたと考えています。そうしますと、千秋・佐々らは味方に制止されることなく黒末川を中島橋で渡り、朝比奈勢と前哨戦を戦うことができることになりますから、これも採用します。

『信長公記』によれば、信長は千秋・佐々らが討たれたのをみて、即座に出陣しようとして重臣らに止められています。一方の駿河勢も、「敵、尾軍の先手には討ち勝ちけれども、信長数千の兵にて検地に軍立して控えければ、早速引き退く、尾張方もまた追はざりけり」と『桶狭間合戦記』が書くように、信長参陣を認めて兵力をまとめて引き上げ始めていますから、その引揚げ先を桶狭間と考えて之を採用します。

ここまでは、『桶狭間合戦記』の著者の考えは矛盾無く推移しています。

そこで、改めて善照寺砦から信長が戦況を観察すると、桶狭間山に義元が休息に入っていることが分かったと『信長公記』はいいいます。

但し、この場合の義元は大高城からの帰還途中でないと矛盾が生じます

また、前哨戦に参加した前田犬千代らは、駿河勢の後を慕って小競合いを続けていたらしいことも、『三河物語』の記述から窺えます。三々五々に織田方の兵が山に登ってきたと書くからです。

そのようにして、中島表にいた駿河勢の引上げが完了し、黒末川河口に遊弋していた服部党の兵船も引揚たので、信長には西の鷲津方面から背後を衝かれる脅威は無くなり、信長の当面の敵は義元軍の殿軍だけになります。そこで、信長は駿河勢の監視下に中島砦に移動したものと考えます。

 このようであれば、とりあえず「信長が善照寺から戦況判断した状況」が正しかったことに、無理なく説明がついて問題は生じません。

但し、桶狭間山に先行した先鋒の朝比奈勢には桶狭間山に長居させず、少なくとも昼食を終えたら直ぐに西三河に引き上げを開始させなければなりません。そうしなければ、朝比奈や三浦も合戦に居合わせることになり、帰国してから非難されることを免れなくなるからです。

 

(2)さて、このようなストーリーを一日の時間の流れの中に、矛盾無く配置することができるかを考えてみます。

 <時間経過を考える>

これまでに採り上げた通説とは異なる問題点をまとめておきます。

  1. 十八日の義元は大高城に宿営していなければなりません。
  2. 朝比奈勢が鷲津砦に止まって居てはいけません。
  3. 義元勢が東愛知郡から知多郡にかけて広く働いたために、信長には駿河勢の意図が読めないでいなければなりません。
  4. 前哨戦は母呂後で戦われなければなりません。

まず「朝比奈勢が鷲津に止まって居てはいけない」という課題ですが、これに対しては、旧軍参謀本部の「桶狭間役」は、砦を攻撃した駿河軍が鷲津砦のある山裏に進出していたかのような附図を掲載しています。これは次のような意味では妥当な考え方だと思います。

  1. 朝比奈隊は、織田軍の後詰の動向が気になりますから、敗残兵を追って鷲津砦のある山裏に軍を進めるのは当然の処置と云えます。
  2. 朝比奈隊が沓掛城に引揚げるのでしたならば、東海道を選択することは、織田勢に対する示威の意味でも意義がありますから、これも合理的です。
  3. 地元註 には千秋が母衣後で討死にしたというものがあるのですが、それにも整合性があります。 註  『鳴尾村史』
  4. 砦攻略後に余勢をかって中島砦を攻めることも選択肢になりえますから、当然の処置といえます。『桶狭間合戦記』の山崎真人は、「御先手の輩、鳴海へ出張し善照寺等の砦を攻めんと相議する所、清須勢、後詰として数千軍、出陣し先手進み来るに依りて、即ち相戦い打ち勝ちて、敵の先将を初め数千騎討ち取り余兵猶、要害の地に対陣すといへ共、是また、追い付き、打ち散らすべしと佐々・千秋・岩室以下の首を実検に備ふ」と考えています。

このようにみますと、鷲津砦のある山裏に朝比奈備中守の軍勢が進出すること自体は、戦術上の不都合は何もありません。むしろ当然の処置でさえあります。しかし、ここに駿河勢が存在し続けることには、大きな問題があることは当初より述べていることです。その問題とは、第一に朝比奈備中守の軍勢は、「鷲津砦のある山=棒山」から監視していながら、中島砦から出陣して東海道を東進する信長の背後を襲いもせず、その上あろうことか味方の本陣を襲われるという間抜けなことが起きることです。

第二の問題は、先鋒の松平元康には砦陥落後に義元から大高城番交代の命令が下っていることです。そのため、鵜殿長照が窮状を訴え元康が丸根攻略の戦勝報告を行い、義元が首実検の後で諸将と協議して指示する時間や、前線と本陣との間で使者をやりとりをしたはずなのですが、それには時間的な余裕がないということです。

第三の問題は、『信長公記』によると桶狭間山の義元は前哨戦をじかに観察しているらしいことです。但し、これは縦断をとって本当に観戦できる場所を確認して選定する必要があります。

そこで、この三つの問題を、通説に反して義元が十九日に大高城から出陣したと仮定した場合に、矛盾のない筋書が書けるかを検証してみます。

即ち、「先鋒が二砦を攻略した後に、義元が戦場の本陣で首実検と評定をしたうえで大高城番交代の決定をします。朝比奈備中を含む駿河勢は、元康と交代した鵜殿隊を連れて鷲津砦のある山裏に進出して、中島砦攻撃を検討しているところを千秋・佐々の攻撃を受けたので、これを撃退し中島表から撤退して、桶狭間山で休憩した」というのがその筋書きになります。

この仮説に各々の具体的な時刻を当て嵌めて検証します。

 

(3)<矛盾のない筋書きの時間割>

まず、この時間経過を規制する条件を考えてみますと、動かせない時刻というものがあります。とは言っても、昔のことですから、時刻には二時間ほどの幅があります。これも季節によってもことなりますから尋常ではありません。

先ずは、

  1. 信長が上知我麻神社から砦から上がる煙を望見した辰の刻(午前七〜九時頃)、
  2. 義元が桶狭間山にいた午の刻(正午を挟んで、午前十一時〜午後一時頃)、
  3. 信長が義元の旗本に向かって攻めかかった未の刻(午後一〜三時頃)、

これらの『信長公記』に記された三つの時刻です。

但し、ここでは、それぞれ真ん中の時刻をとりあえず使うことにしておきます。辰の刻は午前八時、午の刻は正午、未の刻は午後二時です。不都合が生じた場合には、その時に検証し直します。

  1. 仮定一、清須〜熱田は三里余ですから、歩兵の通常行軍速度(時速4km)では約三時間、騎兵の通常行軍(時速6km)では二時間と仮定します。
  2. 仮定二、清須〜丸根砦は五里十二町余で、飛脚の通常速度(時速9km)では2時間20分、伝騎の通常速度(時速18km)では1時間10分と仮定します。
  3. 仮定三、熱田〜善照寺砦は一里廿五町余(約7km)で、歩兵の通常行軍(時速4km)では約1時間40分、騎兵の通常行軍(時速6km)では1時間10分と仮定します。
  4. 仮定四、一千名の軍勢の行軍長径は、約1.18kmの隊列になり、この隊列が戦闘隊形をとるには約廿分弱かかる仮定します。

 

<丸根砦攻撃から信長の熱田参陣まで>

これら四つの仮定から桶狭間合戦のストーリーを逆に辿って叙述するのですが、『信長公記』には清須〜熱田の三里余を一時で駆けたとありますから、信長は清須を午前六時には出陣しているのでなければなりません。一時が「ちょっとの間」ではあっても、小和田氏が「桶狭間の戦い」で言われるような四時間などと云うことは考え難いことは先に述べました。

さらに、騎馬による伝令が、清須〜丸根砦の五里十二町余(21km)を時速18kmで走るとしますと1時間10分かかりますから、日の出前の午前4時30分頃に丸根砦が敵襲を受けたであろうことも先に述べました。

しかし、『伊束法師物語』や『惣見記』では、十七日の注進には飛脚を使っていますから、十九日にも飛脚を使っていたならば、倍の時間が必要になります。ですから、清洲〜熱田は「ちょっとの間」でなければならなくなりますし、丸根砦攻撃時刻についても再考を要する必要が生じます。

因みに、1560年6月22日(旧暦5月19日)の月齢は新月に二日前の右弦の月であり、当日の日の出は午前4時38分です。従って、八六計算によると5月19日の干潮は午前3時12分とその約十二時間廿五分後の午後3時37分になります。

このことから、織田勢は五月十九日の午前3時頃に黒末川を渡河して大高表に出なければ、後詰は有効にできないことになりますので、駿河勢は織田方の後詰がない事を見極めたうえ、薄明に兵の配置を終えて、午前4時30分頃に日の出を待たずに攻撃を開始する計画をたてたと考えます。

駿河軍の砦攻撃時間をもっと遅くもできますが、『総見記』は「未だ夜の明けざるに」といい、『信長公記』は「夜明け方に」といいますから、余り遅らすことはでません。精々、10分程度遅らせても午前4時38分の日の出時刻が限度であったとものと考えます。

今川軍の布陣については、本陣を大高城に置く場合と、前線に前進させて義元が督戦する場合が考えられますが、旧参謀本部が想定するような三浦備後守の予備軍がなかったならば、『蓬左文庫桶狭間図』にあるように、義元自らが漆山に本陣を構えて、中島砦からの織田軍の後詰を阻止しただろうことが考えられます。

また800m程度しか離れていない大高城に本陣を置くことについては、何ら問題はないのですが、義元が次に何処へ行き、何をしようとしていたかによって問題が生じてきます。戦術的に今川義元が中嶋からの敵後詰を阻止し、敵主力が出現した場合に備えたり、敵に示威を示したいのでしたならば、義元が大高城にいたのでは役目を果たせませんが、首実検をして城番交代の長評定をするには、大高城は絶好の場所であるとも言えます。

もう一つ、義元は刈谷・緒川の水野勢に多くの押さえを割いて「中入」している状況にあるのですから、この危険な状況を打開する必要も残っています。そう考えますと、義元は漆山に進出して信長の救援を阻止し、その後直ちに西三河に退いて兵力を集結して刈谷や緒川を攻略することを考えたのではないかとも思えます。小生は、こちらの方が此のたびの義元の本来の目的であったように思えます。刈谷は過去にも一度、太原崇孚雪斎が攻略に成功していることでもあります。

そこで、義元は十八日の午前八時半から午前中にかけて、『桶狭間合戦名残』が考えたように、鳴海潟の満潮時に中嶋表の大物見と『三河物語』がいう丸根・鷲津砦の大物見を行って大高城に入城したと想定できますから、『惣見記』のいうように十八日晩に大高城中で軍議を開き、翌十九日未明に付城を取り除くことを決定したと看做します。

 

(4)<丸根砦からの飛脚>

『信長公記』をみますと、前線からの使者は伝騎であるとも飛脚であるとも書いていません。ただ「注進」とあるだけでなのです。『惣見記』には、「討ち死にせんと思い定め、早々飛脚を以って此の由清須へ申し上げる」と書くのですが、これは事前の情勢分析の結果を十七日に報告したものです。十九日に攻撃を受けたことを知らせるものではありませんから、切羽詰っての使者でもありません。

 閉話休題 <飛脚>

  • 佐久間大学は名塚砦のときに急遽駆けつけて救援した信長を知っていましたから、その信長に後詰をする様子が見えないので、諦めて討死を決心したのでしょうか。そうしますと、佐久間大学らが十八日に発した注進は、「使僧」を飛脚として使った可能性もあります。
  • 小和田氏は、「飛脚が僧侶であったという徴証はないが、当時(永禄年)一般の情況から考えると、飛脚はたいていの場合、僧侶であった可能性が高い。飛脚は使僧(使者たる僧)と同じ意味で考えてよいのではないだろうか」と『駿河の今川氏』に書かれています。
  • 飛脚の制度は鎌倉時代はじまる。文治元年(1185)源頼朝は駅法を改め、同四年には京都・鎌倉間の飛脚(早馬)の行程を七日と定めた。さらに建久五年(1194)には、所々に新駅を作り、大宿・小宿の言葉を使用するようになった。弘長元年(1261)今までの飛脚を早馬と称し、飛脚は徒歩に限るようになった。『豊明市史資料編三』

ところで、十九日の丸根からの使者が飛脚であった場合には、日の出の午前4時40分に攻撃を受けてから、飛脚が清須〜丸根砦間の五里十二町余を時速9kmで2時間20分 [21km÷9km/h=2.3333≒140分] かかって清洲に到着したとしますと、信長が最初に報告を受けるのは午前7時頃になる計算になります。この場合には、信長は午前八時頃までの一時間で、熱田宮は源太夫殿宮の前に行けるでしょうか。鎧武者を乗せて三里を一時間ということは、秀吉の賤ケ岳大返でみたように、乗馬を死なせれば不可能ではないかもしれませんが、その場合には信長には清洲城で出陣の支度をする時間がないことになります。従いまして、丸根からの使者は騎馬であったと考えるのが相当ではないでしょうか。

しかし、当日の「日の出時刻」は午前4時38分であったということから、攻撃時刻を午前4時半に設定したのですが、実際にはその約30分前からは「市民(常用)薄明」であり、「灯火なしで屋外の活動ができる」目安とされていますから、午前4時過ぎには敵を認識できたであろうこともまた事実なのです。もし、この時刻に鷲津砦から大高城を遠望して、大高城から駿河勢が出陣してくるのを発見して、警告の使者を清洲に発てたと仮定したならば、信長の出陣時刻は20分早めることができます。そうしますと、飛脚による伝令でも信長が廿分で仕度が出来れば、午前8時頃に熱田へ信長が着くことは不可能ではなくなります

(追加:2008.1.10) これまで、飛脚の場合と早馬の場合の両方を考えてきたのですが、戦国時代に早馬というものがどの程度使用されたのかは疑問が残ります。伝馬制度を作った先進的な北条・今川・武田などはある程度活用されたのでしょうが、それ以外の地方では戦場から乗り継ぎ無しで行ける距離が限度であったかも知れません。因みに、鎌倉時代の弘長元年(1261)からは、制度としてのそれまでの飛脚を早馬と称し、飛脚は徒歩に限るようになっていますが、小生にはそのような区別が戦国時代も生きていたか、牛一が区別して用いたかは確認できていません。

 

(5)<丸根・鷲津砦落去後の今川方>

義元が戦場にいれば、十九日の午前8時頃には丸根・鷲津が陥落した後、義元は首実検を終えて戦後の仕置きをし、兵を東に向ければよいことになります。そうであれば、もう朝比奈勢や存在不明の後備などの所在に悩む必要はありません。元康を大高城に残置し、全部隊は鷲津から北へ東海道に出たうえで東へ向かったことになります。このようであれば、この後に行われる千秋・佐々らとの前哨戦も先鋒隊などの独立した支隊が独自に戦ったのではなく、義元の率いる駿河勢そのものが行ったものであるということになります。

しかし、義元が漆山の本陣にいた場合には、朝比奈・鵜殿・松平らが漆山の本陣に伺候しなければならなくなり、これには約45分 [3.04km÷4km/h=0.76≒45.6分] を必要とします。漆山〜桶狭間本陣の2.68kmは40分で行けますから、首実検を含めた戦後の仕置きに35分を見込めば砦落去の午前八時から120分がかかることになりますが、午前10時には桶狭間山上の本陣にいることができます。ですから、一応は問題は生じません

 

(6)<義元の評定時間と信長の熱田滞在>

少なくても、朝比奈備中守の二千人と松平元康の一千人・鵜殿長照の五百らが砦の攻略を終えて、漆山に参集しなければならないという問題があります。これには、主だった大将らだけが先行したとして、約3kmの道程を騎馬で行けば三十分 [3.04km÷6km/h=0.5067≒30分] かかりますから、評定時間なしでも午前9時10分前には桶狭間山上に義元がいることはできません。従って、信長の善照寺砦への到着時刻もこれより遅くなければならいことになります。

午前8時頃に丸根・鷲津を陥落したのを信長が見た熱田から、善照寺砦までは一里廿五町余(約7km)ありますから、揉みに揉んだ騎兵の行軍を時速9kmと仮定しますと、50分弱かかることになります。従いまして、午前8時50分に到着できることになり、丹下で指図した時間を見込んでも、信長が午前9時前に善照寺砦に参陣することは可能なのです。

これらの推測から、義元の評定時間を零とした場合にのみ、午前9時に桶狭間山に到着した義元を、信長は発見することができることになります。これは、信長が義元を発見することができる最も早い時刻になります。従って、義元が漆山に本陣を布いていた場合には、「評定時間の長さ」の分だけ両砦陥落時刻は早くなります。その限度は一時間ですから、午前7時が陥落だったことになります。

これでとりあえず、今まで多くの矛盾の原因になった義元と元康との使者のやりとりや、”やや久しい評定”の時間や、当事者の元康や鵜殿と筆頭家老の朝比奈備中が出席せずに評定がなされたのかというような疑問などは、使者の往復時間が要らなくなった分だけ縮められたことになります。しかし、問題は全て解消されたわけではありません。

問題は、信長の熱田にいた時間と義元の評定時間が連動していることにあります。

そして、このことは義元が漆山にいたと想定する限りは、義元の兵力を決定してしまうことになります。何故なら、義元を先頭にして東海道を行軍して桶狭間山に移動したのであれば、善照寺砦にいた織田方は、その兵力を実際に数えることができるからです。つまり、信長が善照寺砦からみた時に、東海道上と漆山本陣にいる兵数を数えればよいのです。

例えば、義元の兵力が最も少ないのは、次のような場合が考えられます。………信長が善照寺砦に参陣した時刻の午前九時十分と同時に、義元も桶狭間山に到着した場合があります。この時に東海道上に行軍している駿河軍の人数と、漆山に殿軍として残っている兵数が、駿河勢の総兵力と考えることができるからです。この時、桶狭間山から漆山までの2.68kmある東海道上にいただろう駿河勢の兵数は、1km当り850人として約二千三百人です。殿軍の兵数は前哨戦において織田軍三百を一蹴したのですから、最低でも三倍の兵力があったものとして一千人と仮定し、朝比奈・松平・鵜殿勢らの先鋒隊三千名も加算しますと総勢は五千三百人と計算できます。

註 もっと少ない場合もあり得ます。義元が桶狭間山の前面にある高根に陣取って繰り退きを自ら援護していた場合です。

逆に、義元の兵力が最も多く見積もらねばならない場合というのは、二つの場合が考えられます。一つは、信長の参陣が許される限り遅い場合であり、いま一つは義元勢がその本陣先備の内に全軍を収容した時刻をできるだけ遅らせた場合です。例えば、信長が中嶋砦を出陣する時刻などに仮定することです。「時刻を考える」でみたように、豪雨の時間を無視した場合に中島砦を出陣していなければならない時刻は12時31分ですから、降雨時間を一時間と考えた場合には、午前11時30分までの2時間20分のあいだに桶狭間地域に収容できる兵数のことを考えて毎分56.7人としますと、約七千九百人 [140分×56.7人/分=7,938人] と計算できます。

これらのことから言えることは、砦陥落時刻が早まれば、義元の桶狭間山への到着時刻も早まることになりますし、信長が熱田にいる時間が長くなれば、善照寺砦への参陣が遅れることになります。それらのことでも積算上の駿河勢の兵力は増加します。また、信長の桶狭間への出陣時間が遅れても、積算上の駿河勢の兵力は増加します。但し、一刻も早く戦場へ着こうとしている信長の気持ちからみると、最も可能性の高い状況は砦陥落時刻が早い場合だと思われますから、それらは想定し難いと思います。

信長については、戦術的にも鳴海へ一里手前の熱田に兵を集合させ、そこで武装して臨戦態勢をとって行軍することは、当時の常識に照らして矛盾がありません。逆に、兵も集まらないままで、鳴海表に向うのは、飛んで火に入る夏の虫になってしまいかねませんから、そのようなことは考え難いと思います。何故なら、八時には鷲津・丸根が落ちたと信長自身が確認しているうえに、信長は伝令によって義元が漆山にいることを承知しているはずだと思うからです。従って、例え信長が熱田神宮に参拝しなくとも、ある程度の兵力が揃い、彼らに武装させてからでなければ、鳴海表へは向えないと考えるべきだと思います。

因みに、『長篠・設楽原合戦の真実』で名和弓雄氏は、「当時の軍隊の行軍は、斥候と輸送監視隊だけは、任務上、武装(具足着用、武器携行)して行軍するが、将兵は旅支度の軽装で行軍する。戦場の近く、一里ほど手前で大休止をとり、ここで具足を着、武器を携帯する。ここで必要ありと見れば、鉄砲隊は火縄に点火した鉄砲を左肩に担いで行軍する。具足を着、武器を担いで行軍し、二日も三日も進めば、将士は疲れ果てて、戦場に着けば病気になるか、倒れるのであ」と書いておられます。

 

(7)<午後二時から遡る>

 ここで一度、『信長公記』に記された時間経過を整理するために、これを分かり易く経過順に並べて矛盾がないかをみてみます。それに当っては、先に述べた三つの確定的な時刻のうちから「信長が義元本陣に突入した時刻の午後二時」から遡ることにしたいと思います。

14:00を、信長が義元の旗本を発見して襲い掛かった時刻と仮定します。

これには、その前後に夫々一時間の幅があります。

信長勢が義元本隊に突入し、義元本陣に迫るに要する時間を、「大将ケ根から桶狭間山の義元本陣」への980mを移動する時間と仮定します。その場合、信長は手勢を二手に分けているといいますから、半分の一千名が大将ケ根から突入したものと仮定します。何故、大将ヶ根かといいますと、『塩尻』が「太子の根に陣したまひ、これより桶迫間へ衝き入り」とし、『集攬桶迫間記』が「太子ケ根の山へ掛かり給(中略)敵勢の後の山に至りて推しまはすべし」と云い、『知多郡大脇村山絵図(1745)』が「此山(会下山・大将ケ根)の荘麓より背上り」とあるなど、先人の多くの見解が、大将ケ根から打ち入ることに一致していることから、これを採用して仮定したものです。

閉話休題 沓懸の到下の松>

『信長公記』にいう「沓懸の到下(峠)の松の本に、二かい(抱え)、三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒る々」というのは、現在の字境松の旧東海道の最高標高27.11mを「沓懸の」と考えます。ここなら大将ケ根(現東海道と旧東海道の交わる辺り)にいた信長は楠木が吹き倒れるのを見通せるからです。 (2007.07.02)

「二手に分けて」というのは、『井伊家伝記』が「信長は軍兵を二手に分け、一手は先掛けに、一手は義本の本陣へ急に攻め懸け」といいい、『奥山孫市郎遺言』は「一手は御先衆へ押し来、一手は本陣のしかも油断したる所へ押し来り鉄砲を打ち掛けしかば」とし、『塩尻』が「太子ケ根より二手に分ち、一手は駿兵先手に当たらせ、自らも南へまわり来て田楽窪の本陣を急に攻め」とし、『参州事実録』が「善照寺の城にて二手に分け、一手は敵の先手に馳せ、一手は義元の本陣へ攻入」などと書くからですが、東海道を行軍すれば自然に隊列の後半分ほどは、鎌研から長坂を上って駿河勢の前備えを攻撃することになります。

 また、『信長公記』の記述から、義元勢は崩れたっており、前進にはさしたる支障がなかったものと考えられますから、通常の歩兵による行軍速度の時速4kmで計算 (980m÷4000m/h=0.245≒15分) して、大将ケ根の信長が義元本陣に到達するのには十五分を要したものと見做します。

 すると、

13:45が、雨があがり信長が大将ケ根から義元陣営に突入を発起した時刻になります。

ところで、何故多くの史料が大将ケ根の頂上を信長本陣として想定するかといいますと、皆がみな、相原から小坂辺りを迂回して奇襲したと勘違いしているからだと思いますが、疎林とはいえ道のない山中を行軍したはずがありません。道がなければ凹凸が激しく何処も似た景色の丘陵地では目的地に辿りつくことは難しいことだと思うからです。そして、味方が行けるようなところには、敵も哨兵を出して警戒しているはずだからです。

『老人雑話』は「間道より本陣にかかりける故、七備へ空しくなるとそ」と云い、その他、『井伊家伝記』『奥山孫市郎遺言』『塩尻』『参州事実録』などは、信長が手勢を二手に分け、一手は敵の先手に、一手は義元の本陣へ攻入たとし、『武徳編年集成』は「信長勢の廻り来る物音(耳絲)も聞こえず」とし、『続明良洪範』が「信長は、今川方の隙をみて本陣の後ろの山から馬で突進し、今川家の旗本を縦横に乗り破り、突き崩した」と伝えるのは、東海道の鎌研辺りから鳴海〜桶狭間道という、当時の鳴海道という主要街道を真正面から攻撃しただけなのではなかったという認識があるからです。つまり、「間道」というのは狭間道であり、いまだ整備されていなかった東海道をいうのです。

集中豪雨のあった時間を60分間と一応仮定しておきます。そして、信長軍の一手が山際から大将ケ根に移動するのは、この雨中に行われたものと仮定します。すると、鎌研から大将ケ根への1.1kmを二手に分かれた先頭の一千人が移動するのに必要な時間は、35分 [(1. 1km+1.18km)÷4km/h≒0.57(34.2分)] 弱ですから、信長はこの60分の豪雨中に、その風雨に背中を押されて、今川勢に気づかれずに移動したと見做すことができます。これは、風雨に逆らって進むのではありませんから、十分に実行可能な仮定であると考えます。

12:45が、先の仮定により集中豪雨の始まった時刻になります。

つまり、寒冷前線を伴う低気圧の移動速度が高速であったという仮定なのですが、これより短い時間を想定することは、現実離れしていると考えますが、最近の気象によるゲリラ豪雨をみますと絶対ないとは言えなさそうでもあります。

『信長公記』では、「山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨」とあり、集中豪雨が始まる前に信長軍が山際に勢揃いしています。そのためには、二千人が騎兵は一列、歩兵は二列縦隊で山際まで前進するに要する時間を、朝日出から鎌研への2kmを移動する時間と仮定します。そうすると六十五分 [(2km+2.36km)÷4km/h≒1.09(65.4分)] と計算できます。

 従って、遅くとも午前十一時四十分には兵士達も朝日出を出発する必要がありますから、それには熱田を百十五分 [(7km+2.36km)÷5km/h≒1.872(112.3分) ] 前の午前九時四十五分には出発していなければならないことになります。

ところで、困った問題があります。余り早い時刻に信長が善照寺砦に参着しますと、漆山辺りにいる義元と鉢合わせしてしまうことになるからです。そうなりますと、義元も信長も互いに敵を見逃す訳にはいかくなります。従って、信長が善照寺砦に参陣したときに、義元が桶狭間山にいるための条件を求める必要があります。

そこで、丸根・鷲津砦が午前八時に陥落して、義元は即座に東海道を使って桶狭間山に向った場合の最速時刻を考えますと、鷲津砦〜桶狭間山上間は約4.5kmありますから、移動時間には約七十分 [4.5km÷4km/h=1.125(67.5分)] かかります。つまり、これでは午前九時十分以前に、義元が桶狭間山にいることはできないことになるわけです。 このことは、信長が熱田にいた時間は、義元が評定に費やした時間より長くなければならないということを意味します。これが逆転するには、砦陥落時間を早める必要があるのですが、それは強ち無謀な想定とも言えません。信長が見たのは砦に放火された煙であって、砦の落去そのものではないからです。

ところで、『三河物語』が「その上にて、また長評定これ有けり」という評定時間を三十分と仮定しますと、義元が漆山を後にしたのは午前八時三十分であり、桶狭間山に到着したのは午前九時四十分になりますから、信長が見たときの義元は、将に桶狭間山に着いたばかりであったことになります。 これは、信長の眼前の東海道上を陸続と駿河軍が撤退中であったことを意味します。そして、桶狭間山と漆山の間の3kmに行軍している人数は、千人が950mと仮定しましたから3,158人になります。これを善照寺砦の織田勢は実見したわけです。

以上のように考えますと、谷口氏が「千秋・佐々らと駿河勢の小競合いは、正午をかなり回っていなければならない」とする『信長正午参陣説』は、時間的に全く不可能であることになります。そして、小和田氏が唱えられる信長の『午前十時参陣説』には、信長が善照寺に到着した時刻の一つとして極めて可能性があることになります。

しかし、実際の信長の参陣時刻は午前九時十分頃以後であるとしかまだ言えません。丸根・鷲津砦が午前8時に陥落して、義元は即座に東海道を使って桶狭間山に向った場合の最速時刻を考えますと、鷲津砦〜桶狭間山上間は約4.5kmありますから、移動時間には約70分が必要になり、午前9時10分以前に、義元が桶狭間山にいることはできないからです。

ここまでのところで明らかになったことは、『信長公記』が書く事実のうち、「信長参陣〜正午〜前哨戦〜謡という順番は成立しない」ということです。これは、たとえ降雨時間をゼロにしても、信長が正午以前に中島砦を出発しなければならないことには、変わりはないからなのです。『信長公記』が書く事実は、「信長参陣→前哨戦→正午→謡」という順番であったということになります。さて、以上のことを念頭において、今度は朝からの工程を組み立てて、うまい具合に突撃した時刻から遡った場合と矛盾なく説明できるかを考えてみたいと思います。

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