<真説・桶狭間の戦い>  (2008.08.06 一部追加)

 

これは、合戦前日の義元が大高城に宿営した場合に、如何に矛盾なく桶狭間合戦を叙述できるかを、行軍速度で構築した時系列モデルが示す歴史です。それ以上ではありませんが、本論のダイジェストでもあります。 ダイアグラムを参照してください)

五月十五日

  1. 『総見記』は、「十五日に三州岡崎の城に陣す、是にて陣々城々の手分け手配を定めらる」としていて、義元が尾三国境へ向うにあたって、水野氏に対する抑えの配置を決めたといいます。ここで重要なことには、先行している諸将を岡崎に呼び寄せて軍議を開いたことです。このことは、通説のいう十七日に再び沓掛城で軍議を開いたとすることに多大の疑念を起こさせます。翌十六日から十七日の間に作戦を変更しなければならない程の情勢の変化がなければならないからです。 既に持場役割を決定して派遣している各武将を、彼らが持場を離れる危険を冒してまで、改めて呼び集めてまで変更しなければならない「戦略の変更」とは何なのかが、現代に至っても曖昧だからです。そのように重大な戦略の変更を行わなければならないようなことが、何か起こったでのでしょうか。
  2. 逆にみますと、義元は「十八日になるまでは、大高城への兵粮搬入も丸根・鷲津砦の排除も考えてはいなかった」と思わなければなりません。つまり、義元は十八日に大高城で鵜殿と話したからこそ、大高城を守備することの困難さを知り、両砦の排除の必要性を感じたということになるのだと小生は思うのです。
  3. 大高城への兵糧搬入や付城の排除などは、当初の作戦計画には入っておらず、急遽付け加えられた作戦であったために、朝比奈らの諸将は桶狭間山での合戦時に義元の側にいることができなかった可能性が高いということになります。

五月十六日

  1. 『三河物語』は、「吉田を立ちて岡崎に着く。諸勢は屋萩(矢作)・鵜頭(宇頭)・今村・牛田・八橋・池鯉鮒に陣取る」としています。
  2. 駿河勢は駿府を発って以来、その先鋒は常に本隊の二日分先行していましたが、ここに至っても、一日分だけ前方を行軍していることになります。これは、整備された道路が少なかった当時では、大軍を行軍させるうえで混乱を避けるためにも極めて合理的な方法です。
  3. この傾向が丸根・鷲津砦を攻撃した後でも変わらなければ、駿河軍の先鋒は独立した軍団の様を呈していたことになりますから、砦攻略の後は既に次の行程へ移っていた可能性を示唆しているとも考えられます。朝比奈勢らが義元の近辺にいなかった理由の一つと考えられます。
  4. このことは、これまで先鋒軍の兵力を三千人と見做してきたことを改めねばならないかもしれませんし、逆に戦国時代の三千人という軍勢を一つの単位(現代の旅団)とすることは、一国が国外に派遣して十分な活動のできる一つの目安であったとも考えられることに注意を要します。

五月十七日

  1. 『信長公記』は、「今川義元は軍兵を率いて沓懸に参陣」として、沓掛城に入城したかのように記してはいるのですが、そこへ宿営したとまでは書いていませんし、また後小松、後柏原、後奈良三帝の勅願道場であり東海中本山として栄えた浄土宗玉松山裕福寺(愛知郡東郷町春木字屋敷)には、桶狭間で戦死する前日に今川義元がこの寺に陣をとったという伝承もあります。ただし、これも宿泊したとはしていません。
  2. 『総見記』は「 (先鋒は)鳴海表桶狭間に陣して、それより知多郡の一辺に働き在々所々を放火し作毛を薙ぎ捨てる」とし、『三河国郡志』には「桶狭間に陣を取り知多郡に働き、處々に火を放つ」として、先行した先鋒は桶狭間に瀬名氏俊が陣所を設け、国境を越えて知多郡に働いたとしています。これらのことからして、もしかするとこの時に『張州雑志』や『尾州知多郡大高古城図』にみえる氷上砦や正光寺砦などが攻略されたか、或いは放棄されたのかも知れません。………(2007.7.12)『天理本・信長公記』には「大高之南、大野・小河衆被置」とあるので追加します。   
  3. また、桶狭間村や長福寺は安堵されたらしく、略奪・接収にあった伝承がなく、長福寺では十九日の休息中の義元を接待したといいます。元禄期の『尾州桶狭間合戦之事』という古文書写本(長福寺本)には、社寺方、合戦の勝利を祝い酒肴を用意し接待したという記録があり、山澄本『桶狭間合戦記』にも同様の記事を載せています。………これらのことは、前日までに安堵の制札を求めて義元の名義人の下に村々の代表者たちが駆け付けたということでしょう。

五月十八日 (合戦前日)

<大高城での軍議>

  1. 『三河物語』や『総見記』は、十八日の夜に大高城で軍議を開いたと考えています。通説の沓掛城の十七日などではありません。
  2. また、根本史料の『信長公記』は大高城に義元がいたようには受け取れる書き方ではあっても、義元が沓掛城にいたとは書いてはいません。そして、「今川義元、五月十八日中島まで攻め来たり、扇川の汐高く(満潮)して、其の日の軍は止とあり」と考察して、朝八時半頃の満潮時に大物見したと考えるのが『桶狭間合戦名残』です。満潮の基準を伊勢湾潮位150cmと看做しますと、午前4時から午前10時頃の間であったとも考えられます。
  3. 但し、鎌倉幕府成立の頃建久二年(1191)、頼綱入道蓮心が草庵を結んだことに始まる浄土宗玉松山裕福寺(愛知郡東郷町春木字屋敷3417)は、嘉慶二年(1388)に完成した。当時、寺領は七百石・境内十七町歩・末寺廿五寺を有して後小松・後柏原・後奈良天皇の勅願道場として栄えて東海中本山として威厳を示しており、今川義元は桶狭間にて戦死の前日にこの寺に陣をとったという伝承があることを考えますと、午前中と考える必要がありそうです。
  4. しかし、同時に『三河物語』が「義元は池鯉鮒より段々に押して大高へ行き、棒山之砦をつくづくと巡見して、諸大名を寄せて、やや久しく評定をして」とすることは、十八日に知立から沓掛の祐福寺に参り、中島砦・鳴海城を東海道から偵察したうえ、鷲津・丸根の砦も大物見して大高城で軍議を開いたことを意味します。
  5. 当日の干潮は八六計算註 で、(18−15)×0.8=2.4 と推定できることから午前2時24分と計算でき、満潮はその凡そ6時間後午前八時半頃と推定できます。沓掛城から中島表までも9km弱の距離ですから、二時間強で行くことができます。実際の時刻を海上保安庁のソフトで推計しますと、五月十八日の満潮は午前七時頃と午後九時頃、十九日の満潮は午前八時頃、干潮は午前二時十五分頃と午後三時頃です

永禄三年五月十八日、ユリウス暦6月11日毎時潮高

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永禄三年五月十九日、ユリウス暦6月12日毎時潮高

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  • 『伊束法師物語』は、「ついては明十八日、丸根の城を責めほすべきと内通ありて大学方へ聞こへ、すなわち、飛脚をもって信長卿へかく申し上げけ」としており、丸根・鷲津砦攻略を、十八日に協議したことが伺えます。
  • 『武功夜話』では「案の定、義元は大高へ向かうの第一報は梁田党の乱波の与曽平なる者が、今川の軍夫に雇われて、敵陣中からの情報である」といい、十八日のこととしています。
  • さらに、『桶狭間合戦名残』は、「神君様(が)兵米(兵粮米を)御運びあそばされ候よし、その節、木之山村を御通り、兵糧を御運びあそばされよし申し伝え候」という地元伝承を伝え、丸根砦によって妨害される道などは使用せずに、横根かまたは大脇から木之山村を通って兵粮を搬入したことを伝えています。この場合には、兵糧入れは丸根砦攻撃に先立って前夜十八日行われたことになります。

<服部左京助の参陣>

  1. 義元がいつ服部左京助と連絡をとったのかは判りませんが、義元が大高城に入るこの十八日に荷之江の服部左京助に対して使いを出した可能性が高いものと思います。『武徳編年集成』註 や『渥美家伝』によって海上から大高城に兵粮を搬入したことが窺えますが、『天理本・信長記』が記す山崎などの住民の動向からみて十八日の夜間を避けて十九日午前中に兵粮の搬入を完了した可能性が高いものと考えられるからです。………なぜなら、夜間航海や夜間荷卸は危険で困難。兵粮の提供に対して、松平元康が服部左京や渥美太郎兵衛友勝・今村彦兵衛勝長に感謝したとされており、元康が大高城番に決まったのは、『三河物語』によると、十九日に付城を攻略し終えた後の軍議においてだからでもあります。服部や渥美らが元康に兵粮を献じることができるのは、その軍議が終わった後になるからです。それ以前ならば、彼等は本領安堵を得るために今川義元に献上したことは当然だと考えられるからです。 
  2. 註 『武徳編年集成・1741』には、「参州碧海郡今村(今本町)は近境たるゆへ御家人・今村彦兵衛勝長及び渥美太郎兵衛友勝兵糧を献ず。又、服部左京は知多郡(海部郡の誤り)河内二の郷に住し、近境勢州長嶋の一向宗に与(クミ)し、宇久井良の砦を築き、今川に志を通じければ、今日一向宗の徒(を)余多引惧し軍船数十艘に取乗り大高の城下黒末川まで漕いれて糧米を神君へ献ずる所なり」 ………但し、渥美太郎兵衛友元なる人物は、『貞享書上』『家譜』にしかみえず、『寛永系図』には友元の記述自体がありません。そのため、後代に創作された事跡であるものと思われます。太郎兵衛友元の子にあたる友勝については、伊勢国から尾張織田家に仕え、桶狭間合戦後に松平家に出仕したとされています。また、渥美太郎兵衛友元が師崎の沖を経て大高まで兵船を回航したことも疑わしいことでありますから、おそらくは本願寺教徒の服部氏の事跡をまねて創作したものと思われます。しかしながら、当時の義元は田原城を押さえて渥美半島を制圧しており、渥美水軍(水軍と呼べるほどのものがあったとは思えません)を支配下においていたでしょうから、彼らに命じて兵糧を回航させた可能性はないとはいえないと思います。現に、服部左京助と連絡をとって十九日には、左京助が大高沖に兵船を遊弋させているのだから、渥美太郎兵衛友元の事跡ではなくても、そのようなことがあった可能性はあると思います。 
  3. 信長が熱田から船で後詰する場合に備えてそれを迎撃するために、今川義元が服部党に海上に参陣することを促したと考えることには疑問があります。それは、十九日の干潮は凡そ午前二時十五分頃の暗夜なのですから、通常は航行を避けるからです。………普通は引潮(十八日は午後九時過ぎから始まる)にのって離岸し、上潮(十九日午前八時時頃が満潮)に乗って浜に乗り上げるのが一番楽な方法です。
  4. しかし、次のように考えることもできます。丸根・鷲津砦の攻略後の軍議で城番が決まった元康に兵粮を献上するするには、十八日の午後九時過ぎの引き潮にのって荷之江浦を出港し三時間程度で大高沖に着いたならば、兵粮船は沖合に停泊して夜明けと上げ潮を待ち、服部左京助らの幹部は一足先に薄明のうちに上陸して出撃準備中の義元に拝謁し安堵を受けます。そのうえで満ち潮に乗って大高河口の船江に着船するのが十九日の午前八時頃になりますから、そこで荷降ろしをすればちょうど付城を攻略し終え軍議から大高城に帰ってきた元康に滞りなく兵粮を引き渡すことができます。
  5. また、服部左京助が十九日の引き潮を待って荷之江浦を出航しようとしますと、大高河口まで約海上五里(20km)を時速7kmで帆走したとしても三時間はかかりますから、到着が午前十一時ころになります。これでも一応は大高城の元康に兵粮を引き渡すことはできますが、肝心の義元に面会することができません。兵粮も駿河勢の誰が食べようと構わないのですが、義元に受け取ってもらわなければ提供する意味がありませんから多少疑問は残りますが、天理本にある山崎から信長についてきた町衆たちが、織田勢の形勢不利とみて町に引き上げたために、服部らの襲撃の撃退に間に合った事を考えれば、こちらの可能性もなくはありません。しかし、午前十一時は下げ五分(此の時の伊勢湾の干満差は176cm)で潮が引いている真っ最中ですから、荷揚げは小舟で浜からでなければ無理であったかもしれません。川が干上がっていて接岸できなかったかもしれないからです。
  6. ところで、服部らの兵船を戦力として使用するには、信長が善照寺砦に参陣した隙に、その後方にある熱田湊を脅かすか、信長勢が中嶋砦を出撃する際にその後方を襲うことだと思います。しかし、実際の義元は鳴海城を救援する考えはなく、正午を過ぎても動こうとせず、善照寺砦も中嶋砦も襲う構えを見せなかったことからみても、服部は義元の当日の予定(大高から西三河へ帰還するという)を聞き知っていたと考えることができると思います。従って、服部党の熱田攻撃は単独行動であり、義元勢との共同作戦などは無かったものと思います。

<前日の信長>

  1. 『信長公記』は、その晩の信長について、「その夜の御話、軍の行(救援の軍勢を派遣することについて)は努々(ユメユメ)これなく、色六(イロイロ)世間のご雑談までにて、既に深更に及ぶの間、(皆々)帰宅候へと、御暇下さる」と言いいます。これは、義元が織田方に対しては、大物見と大高入城以上の積極的軍事行動をとらなかったところから、信長には義元が大高城にいるのか沓掛城にいるのかも判らず、義元の真意を図り兼ねていたことを示しているからだと考えます。最近公表された『天理本信長記』では、信長は軍議を開いて国境での決戦を主張し、酒宴を開いたとあるようですが、その場合には、翌朝の主従六騎・雑兵二百人計というのは解せません。皆、酔い潰れていたのでしょうか?………従って天理本の記事は前日のことではなく、それ以前に行われた軍議の模様であった看做すべきだと考えます。
  2. 緒川城の水野信元に対しては、駿河勢は氷上砦や正光寺砦からその勢力を追い払ってしまっていることは間違いないでしょうが、その情報は清洲には伝わっていなかったかも知れません。それで信長は、丸根・鷲津に後詰することを躊躇したのだと思います。………信長側からみた場合には、丸根・鷲津への攻撃は義元にとって喫緊の戦略拠点であるなどとはとても思えなかったからなのだと思います。これは、両砦が大高城から大高川を挟んだ位置にあるうえ、善照寺砦とはさらに黒末川を挟んでおり、善照寺砦が落ちれば、敵中にとり籠められしまい、防御のしようがなかったからです。
  3. そのため、信長には丸根への攻撃は欺瞞にしか思えず、実際は鎌倉街道から善照寺砦を襲ったり、噂どおりの大軍であるのならば、一気に星崎・笠寺を経て熱田まで中入りしたり、北に転じて岩崎丹羽氏を服属させて、守山をとって品野城と連絡または奪回することを窺ったり、または今川氏にとっては因縁のある那古屋城を攻略するということも考えられたため、迂闊には動けなかったのだと小生は考えます。
  4. また、信長が尾張の大半を支配したとはいえ、その軍の中核になり機動性を有するのは、相変わらず七百人程度の直轄常備軍だけであり、国境に兵を分散して配置できるような状態ではなかったと思われます。ただし、前年の岩倉城攻囲戦では『信長公記』に「岩倉を推し詰め、町を放火し、生か城になされ、四方しゝ垣、二重三重、丈夫に仰せ付けられ、廻り番を堅め」という記事があることから、決戦兵力としての馬廻が誕生していたらしく思えますから、質的には向上していたものと考えられます。このようでしたから、もし下手に出張したならば、敵の出現する場所に居合わせられない恐れの方が大きかったからです。このようでしたから、一部の軍事評論家らが想像するような諜報能力や機動力などは、戦国大名は持っていなかったと考えるべきだと考えます。

 

五月十九日

(4:00)

大高城にいた義元は、物見によって、この日太陰暦十九日(グレゴリオ暦6月22日)の名古屋港における干潮の時刻を六八計算によって「午前3時12分」と推定した時刻を過ぎても、信長が後詰にあらわれないことを確認すると、予定通り先鋒を出陣させることを決定しました。この時刻の午前四時は干潮から一時間を経過していますから、次第に潮が満ち(実際は23cmほど上昇)てきておりますから、これから後の信長による後詰は中嶋砦か小坂からすることに限られてしまっています。物見は特に鷲津の山頂に登るまでもなく、大高城から対岸の星崎は見通せますから、信長の後詰があれば大高城からでも発見できます。

※(海上保安庁HPの推定ソフトで推計したところ、合戦当日(ユリウス歴1560年6月12日の干潮時刻は午前二時十五分頃で116cm。満潮時刻は午前八時直前で216cmになりました。次の干潮は午後三時少し前で40cm。満潮時刻は午後九時半頃219cmです。)

永禄三年五月十九日、ユリウス暦6月12日毎時潮高

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129

170

202

219

218

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(4:08)

  1. 当初より駿河勢の攻撃を予想していた丸根砦の佐久間大学や鷲津砦の飯尾近江守らは、午前4時頃の常用薄明のうちに、遠く大高城を出陣する松平勢を望見すると、すぐさま伝騎を清須に向けて発進させます。
  2. 丸根から清洲への21kmの道程を伝騎では70分程かかりますから午前5時20分に、飛脚の場合には倍の140分後の午前6時30分に、信長は第一報の知らせを受けることになります。
  3. 信長が午前八時に上知我麻神社の前にいられるためには、清洲を午前6時には出発していなければなりませんから、飛脚では有り得ません。しかし、熱田までの間を信長公記がいう「一時」を「ちょっとの間」として20分 (3km÷9km/h≒0.3333) で駆けたとすれば、飛脚による注進であっても、その後の続報で事態を確認しながら各所に陣触を出しても、十分な仕度時間をとることができます。
  4. 大高城の駿河勢は一斉に薄明の中を丸根・鷲津に向けて発足し、本隊を率いる義元も小川道を進んで漆山に陣を敷いて中嶋砦や小坂からの後詰の出現に備えるべく後続します。

(4:12)

  1. 駿河勢の先鋒・松平隊は「薄明」の中を丸根表に到着し、西に向かった朝比奈隊も鷲津砦に到着します。800mを時速4kmで行軍しますと12分で行列の先頭が、それぞれの目指した砦に到着できます。
  2. 義元は前夜の軍議で定めた通り、日の出を期して丸根・鷲津の攻撃を命じる一方で、自身は本隊を率いて引き続き前進し、南関口から小川道を進む道をとって清洲から救援に来るであろう信長を待ち受けます。
  3. 義元が漆山に進出して本陣を置くのは、約37分後の午前4時50分頃になります。2.44kmを時速4kmで行軍すると約37分ほどかかるからです。
  4. 朝比奈勢の兵力を二千、松平勢を一千と仮定しますと、朝比奈勢が戦闘配備を終えるには約30分 [1,180m×2÷5km/h=0.472≒30分] 、松平勢は約15分 [1,180m÷5km/h=0.236≒15分] 必要です。 ………松平勢を少勢に見積もるのは、松平の勢力は西三河にあり東三河には及ばず、単独では緒川・刈谷の水野勢に拮抗する程度の勢力でしかないからです。それに、その水野信元が村木砦奪回に集め得た兵力は、約一千人程度であると思われるからでもあります。また、先鋒隊の大将であり今川家の筆頭家老でもある朝比奈備中守が、新参の松平元康の兵力より少ない兵力でしかないというのは、合点がいかないこともあります。新参者の松平元康が寝返ったときには、鎮圧することも困難になってしまいます。
  • (2007.11.10追加) 因みに、元康が駿府から手勢千余を率いて尾州へ入ったといいます。当時の西三河の力を、慶長三年検地の三河290,715石の半分として、開発で増加した分を一割とみると約三千人強と計算できます。しかし、西三河の国人・地侍らは今川家の軍制に取り込まれており、駿河勢の寄子にされているから、元康の手勢は半分以下になっていたものと考えることもできます。また、山崎真人は『桶狭間合戦記』で言うには、「元康が三河入国時のの領地は十分の一であるというから三万三千六百石であるが、これよりも多かったともいう」とありますから、やはり一千人程度の兵力になります。

(4:30より前)

丸根砦の佐久間大学が、元康の裏を掻いて松平勢が攻撃配備を完了する前に打って出たため、義元らが計画した時刻より早く戦闘が開始されることになりました。因みに、5月19日(太陽暦6月22日)の日の出は4時38分ですが、既に十分な明るさがあります。『総見記』は「未だ夜の明けざるに」としています。


(4:42)

  1. 丸根砦での戦闘に遅れて、朝比奈備中守、井伊信濃守直盛らの兵二千も鷲津砦表に配備を終えて攻撃を開始しました。
  2. 『信長公記』は「予想された通り、夜明け方に」と書き、鷲津砦へも「丸根の城と同刻(家忠日記増補に十九日黎明と記す)」と『武徳編年集成』は言っています。ところで、『酒井本三河記』だけは「(鷲津砦には)朝比奈備中守先手として、十九日の巳の刻(am10)に、六千余騎にて押し寄せたり」と書いています。この場合には、松平隊は丸根砦を攻略し終えてから、鷲津砦に向かったと考えられるのですが、両砦は大高城からみますと、方角は異なりますが等距離にあります。このことを考えますと、朝比奈勢が松平勢の後に続いて丸根砦に行き、元康が丸根砦を落としたのを見届けてから鷲津に回ったと考えることになりますが、これは極めて不自然だと思います。
  3. また、通説のように朝比奈勢が沓掛城から来た場合には、大高城から出陣して丸根砦攻撃に向かう松平勢に進路を遮られることになりますから、鷲津砦に到着するのが遅れたと解釈することになります。そうだとしますと、如何にも間抜けなことです。どうであれ、時刻的に午前十時過ぎに鷲巣山に駿河勢がいることが問題であることに変わりはありませんから、これらの見解を是認することはできません。
  4. 両砦の守備兵力については、『酒井本三河記』が「鷲津の城は四百余騎にて持ちける」とし、『武功夜話』では、援軍を出さねば丸根・鷲津砦で僅々一千に満たないありさまであって、今川軍が攻撃をしかければ半日は持たなかったに違いないといいますから、丸根・鷲津砦とも各々五百人に満たない程度であったと思われます。『伊束法師物語』では、「さて丸根の城には信長(中略)宗徒の軍兵七百余騎籠め置かれたり」と記していますが、鷲津砦も合わせての兵力と見た方が現実的だと思えます。

(4:50)

義元が漆山に進出して山上へ本陣を置いた時刻です。中嶋砦から出撃して来るだろう信長の後詰を迎え撃つためです。

(5:20)

  1. 前線の佐久間大学が発した伝騎が70分で清須城に駆け込み、信長は自身の思惑に反して本当に義元が大高から出陣したのを知ることになりました。信長は直ちに出陣すべく命じています。更に10分ほどすると第二報が、大学らが丸根砦から出撃して松平勢を迎撃し、駿河勢は鷲津砦も攻撃していることを伝えてきました。
  2. 『伊束法師物語』が「方々へ触れありて」といいますから、信長は法螺貝註 を吹いて出陣を知らせる一方で、方々に使者を走らせ熱田旗谷口に着到を命じました。ただ、『伊束法師物語』が信長出陣を「未明」というのは、松平隊の攻撃時刻との関係から妥当とは思えません。  『北条五代記』に相模大山の貝吹は五十町(5,454.5m)聞こえたとあります。
  3. 一報を受けてから出陣までを四十分と仮定します。

(6:00)

  1. 信長は主従六騎で清須城を出陣しました。
  2. 『信長公記』が「熱田まで三里を一時に駆けられた」と書くなかで「一時」のいう時間は、続いて熱田に到着したのは二百人という少なさであり、『孫子』も「善戰人之、如轉圓石於千仞之山者」としていまして「戦は勢い」であると言っていますから、いくら遅くとも二時間程度しかかかっていないと思います。
  3. 「一時」を少しの間と解釈して、時速9kmで駆けたとみれば、1時間20分後の午前7時20分には熱田に到着したことになります。

(7:20)

  1. 信長が熱田の旗屋口に到着しました。
  2. 『伊束法師物語』などは、「先ず熱田表に着かせ給ふなり、旗谷口にては方々より馳せ加えて、壱千余騎とぞ覚へける」としますから、前夜に軍議を催さなくても、事前に集合場所が決めてあり、時刻だけが未定であったとも考えられますし、各国人衆から信長の許に派遣されていた派遣将校(伝令)により的確に連絡が出来たとも考えられます。
  3. 尤、この時期の尾張においては、清洲以東における最大の要地は熱田湊なのですから、これより東で駿河勢を迎え撃つことは、当時の東尾張の国人にとっては、誰の目にも明らかであったかのも知れません。そうだとするならば、事前に軍勢を動員しなかったり、丸根・鷲津砦に守備兵力を増強しておかなかったことは、「大人」といわれる有力国人衆からみると、非常識に覚えたかも知れません。
  4. 加藤図書助順盛が信長を迎えて、神殿で酌をしたところ、信長は「今日の戦に勝とう(加藤」と言ったと『加藤家系譜』に伝わります。
  5. この順盛は宮の南に羽城という城館を構えており、熱田の町人二百人ほどに竹竿をもたせて集結させ、白布や菖蒲幟など旗に見えそうな物を熱田中に隈なく林立させて、信長本陣が熱田にあるように思わせたともいいますが、そのような時間も十分にとることができます。『天理本』には「熱田・山崎近辺より見物に参り候者共、」とあります。
  6. また、一般には熱田に旗を立てたことによって、信長が未だ熱田にいるかのように偽装して、油断させたと受け取られていますが、それは、信長が迂回奇襲したという先入観によるものです。信長に迂回する心算がなかった以上、そのような解釈は誤りなのです。では、「偽旗」にはどのような目的があったかといえば、信長からみた義元の次の目標は、鳴海を救出することでしたし、その後は津島湊と並ぶ信長の主要財源である熱田湊でありましたから、熱田には十分な備があると思わせたかったのだと思います。現に、信長が熱田を出陣した後で、熱田は服部党に襲われており、熱田町衆がこれを撃退している事実があります。(追記:ところが最近公表された『天理本信長記』では、これら熱田や山崎の町衆が軍見物につき従ったとありますから、信長は町オトナに命じて旌旗もどきを持たせて徴発したのかもしれません。しかし、これらの人々は善照寺砦に着くと、信長不利とみ極めてみな引き揚げてしまったとあります。)
  7. 『武功夜話』によれば、佐々政次・成政兄弟とその一党は、前夜の内に平針まで前進していたとありますから、清洲からの陣触を受けて熱田に向かったのかも知れません。
  8. 『惣見記』は、「熱田表には、織田方の先陣佐々隼人・千秋四郎ら人数二百ばかりにて、信長公の御旗を待ち受け」としています。このようでしたならば、信長は平針まで進出してそこで駿河勢と接触することがなかった佐々党からの報告によって、義元が沓掛から北に働く可能性は全く無いと確信したに違いないと思います。すると、丸根・鷲津砦を攻略し終えた今川勢により、中嶋砦を攻略されるかはたまた小坂から黒末川を渡って善照寺・丹下砦を攻撃されることを信長は考えたはずです。そのようなわけで、信長の喫緊の目的は、善照寺砦に駆けつけることになったのです。………藤井尚夫氏は、千秋四郎の領地は知多半島の先端の羽豆崎にあったとされ、氷上砦(熱田神宮の摂社)を守備していたが、義元勢の出現によって砦を放棄して中島砦に撤退したとされますが、之は事実誤認でしょう。

(7:30)

  1. 丸根・鷲津の両砦が共に落去し、駿河勢によって火をかけられた時刻です。
  2. これは、『三河物語』が「その上、またの長評定」という義元による大高城番交代の評定を30分間とし、午前8時30分には義元が漆山を出立するという仮定に従い、遡って想定した時刻です。義元の評定時間をもっと長く想定する場合には、午前7時頃まで早めることが可能です。
  3. 朝比奈・松平・鵜殿らの武将らは、砦の攻略に三時間かかり、鷲津〜漆山の3.04kmを騎馬により30分 [3.04km÷6km/h=0.50667≒30分] で行軍して午前8時に漆山に集合し、義元に戦勝を報告して首実検をしたうえ軍議に出席したことになります。この間、彼らの兵士は後続して小川道を行軍しているものとします。
  4. この場合、先任指揮官である朝比奈備中守の手勢は、松平元康の手勢より先を行軍していなければなりません。何故なら、元康は評定で城番交代の決定を受けて途中から退き返すのですから、松平勢が先頭を行軍していましたならば、小川道が混雑して収拾がつかなくなるからです。朝比奈勢が鷲津砦のある山の西を廻り、前之輪を経由する道を使うこともないわけではないのですが、蓬佐文庫の桶狭間図を見る限り、二手に分かれて善之庵から棒山の北に進出したという形跡はありません。実際には古代からそのような道はあるのですが、蓬左文庫桶狭間図にはわざわざ記載していないからです。
  5. 丸根砦攻撃を受け持った松平隊の場合には、守備隊の佐久間大学らが砦を出撃して戦闘に及んでいますから、不意を衝かれて苦戦したとしても比較的短時間で攻略できたものと思われます。
  6. 『三河物語』は、「即ち押し寄せて責め給いければ、程なく堪らずして、佐久間は切て出けるが、運も尽きずや、討ち漏らされて落ちて行く」と伝えます。『惣見記』も、「鷲津も丸根も、十九日の朝掛けに難なく攻落として、両城ながら焼き払い」としています。ですから、小和田哲夫氏が主張されるような午前十時頃までかかったというのは論外です。
  7. 駿河勢先鋒隊の兵士らは、戦場を順次出立し行軍することによって、100分後 [(3.04km+3,000人×1.18m/人)÷4km/h=1.645≒100分] の午前9時10分には、全員が漆山に到着することになるのですが、彼等はそのまま桶狭間に向って東海道を撤退したものと仮定します。そうしますと、先鋒隊の兵士らが1.71km先の義元本陣先備に収容されるのは80分後 [(1.71km+3,000人×1.18m/人)÷4km/h=1.3125≒80分] となります。
  8. 但し、元康の手勢は城番交代の決定を受けて、途中から退き返したことになりますから、実際は朝比奈隊二千名だけの行軍であったとしますと、20分程早い時刻の午前10時10分には、桶狭間にある義元本陣先備に収容されたことになります。
  9. その後、先鋒の朝比奈勢は桶狭間で昼食をとり、そのまま西三河に向けて撤兵したと考えねばなりません。朝比奈備中らは、義元の謡を相伴したかもしれませんが、それが済むと直ちに三河に向けて発たねばならないのです。そうしませんと、朝比奈備中守は桶狭間山の本陣にいたことになりますから、戦闘の記録が残らなければならないからです。
  10. ですから、黒田日出男氏のいわれる「乱捕り襲撃説」も、朝比奈隊らは桶狭間村を東に離れた場所、例えば、小河辺りで行ったのでなくてはなりません。
  11. 一方、千秋・佐々ら二百名は、信長に先行して熱田を出発しました。善照寺砦の裏にあたる朝日出の狭間に兵を隠して信長を待つためです。『桶狭間合戦記』は、「山の間に控えて信長を待居たり」と考えています。
  12. 彼ら千秋・佐々は約80分後の午前8時50分頃には、朝日出の裏に到着できます。最近紹介された天理本『信長公記』には千秋・佐々らは中島砦で待ち受けたとありますから、丹下砦に信長が到着したのを遥かに眺め見て、中島砦に移ったものと看做します。

(8:00)

  1. 信長は、熱田神宮の南西隅にある上知我麻神社の前浜に出て、丸根・鷲津にあがる煙をみて既に砦が落ちたことを知り、既に汐が満ち(午前八時頃が満潮)ていることを確認します。また、引き続く前線から到着する報告により、駿河勢が漆山から動いていないことも確認していたでしょう。  明治二十四年制式二万分の一地形図では、鳴尾村と中汐田、源兵衛公園・須佐之男神社と大高町二番割の二ヶ所で車両渉できるとされています。 
  2. 『塩尻』が「春敲門を出で、蛇塚を経て井戸田へ行き、山崎より野並へ還り」と書いています。その場合の信長は、一旦東門まで戻り上野道を出陣したことになります。
  3. これらのことは、重要です。何故なら一般に言われるように、信長の情報能力や天候の知識などに疑問を抱かさせるものです。つまり、信長はこの日の伊勢湾の満潮時間を知らなかったことになるからです。………でも実際は、信長は鷲津方面の煙が空にかかるのを見て、兵の着到を待つ間を利用してその確認のために浜まで出てみたのだろうと思います。
  4. 世間では、信長が情報を重要視していて、梅雨時の集中豪雨も塩田業者から観天望気の情報を仕入れており、予測して奇襲を計画したなどと言いますが、そのようなことは後世の与太話であることは、この信長が源太夫殿の宮の前の浜に出た一事を見ても判るというものです。
  5. それに、供の者を鷲津砦の様子を見にやってもよいのに、自身で源太夫殿の宮の前まで行って確かめているのだとしたならば、熱田での信長は暇を持て余していたことになりますから、よほど将兵の集まり具合が悪かったことになります。そうしますと、信長のこの日の行動は、とても計画的な行動であったなどとは思えません。
  6. 一方の義元は、漆山の本陣で大高城番を元康に交代させる評定を始めます。
  7. 同時に、満潮に乗って大高川に入ってきた服部党の船舶は着岸して兵粮を下ろし始めます

(8:30)

  1.  義元は、評定を終えましたが信長も現れないので、東海道を桶狭間山に向けて塗輿で撤退を開始します。織田勢に見せつけるためです。ですから、信長がこの後演説する「あの(今川の)武者、(前日の)宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、疲れたる武者なり。」ということは史実なのです。
  2. 漆山から桶狭本陣間の2.68kmを時速4kmで行軍しますと、約40分かかりますから、午前9時10分には桶狭間山の本陣に到着できることになります。
  3. 一部の人は、輿だと速度が遅くなると思っているようですがそれは間違いです。参勤交代をみても分りますように駕籠であっても行軍速度は変わらないのです。因みに、漆山の本陣から〜高根の有松神社の峠までは1.78kmですから約三十分弱かかります。ですから、義元が高根に着くのは午前九時になります。
  4. そして、義元は駿河勢の全軍が撤退するのを援護するために途中の高根に居続けます。すなわち、義元は兵法の常道に則って、途中の高所を確保して繰り退きをしているわけです。(これは重要なことです。何故なら、桶狭間山からでは母呂後で討ち死にしたであろう佐々・千秋らの戦闘が見通せないからです。義元は、引揚げの途中の高根山でこれを観戦したのです。)
  5. 午前9時10分には、朝比奈隊の全員二千名が漆山に到着するため、彼等は東海道をそのまま桶狭間に向って撤退することになります。その場合、1.71km先の義元本陣先備に朝比奈隊が収容されるのは、60分後の午前10時10分になります。
  6. 鵜殿長照と松平元康は、大高城に取って返して城番の交代と服部氏らからの兵粮の受取を始めます。この後の鵜殿隊が大高城から撤収するに当たっては、緒川道をとって帰省を急いだものとすれば、織田軍との合戦には遭遇していないことになります。

(8:50)

千秋・佐々らは朝日出に到着して駿河勢の様子を窺ていますと、敵は東海道を陸続として撤退し始める場面を目にすることになります。それをみて千秋・佐々らは、信長の到着が遅れていることに俄然焦り始めます。

(9:00)

義元は、漆山から30分かけて桶狭間山の前の峠にあたる高根山に到着し、ここに仮本陣を布いて後続する味方の撤退を援護します。

(9:10)

一方、一刻も早く駆けつけたくて気が急いている信長は、将兵に後続することを命じて熱田宮の東門から上野道を出発します。

当日の名古屋港の満潮は八六計算では午前9時25分ですが、実際は八時頃でしたから潮の引き具合は下げ一割五分といったところでしょう。『信長公記』は、「浜手より御出候へば、程近く候へども、塩満ち差しいり、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸けさせられ」と書いています。

永禄三年五月十九日、ユリウス暦6月12日毎時潮高

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信長が熱田から丹下への6.05kmを時速9kmで駆けたとしますと善照寺には40分ほどかかります。

(9:50)

  1. 信長は、丹下砦に到着するとすぐさま使いを中島砦にも出して、砦の守備兵を朝日出の山間に集まるように命じるとともに、丹下の兵を麾下にまとめて善照寺砦に向かいます。一方、熱田から後続する徒の兵士らは、朝日出の山間の集合場所に向かっている最中です。
  2. 先行して朝日出の山間で待つ千秋らは、信長が丹下砦から馳せ来るのを見て、撤退しつつある義元軍を引き止めるべく、朝日出の山間から繰り出し、六田の中の畦道を中島砦に向って下りて行きます。中島砦の梶川らは信長の呼集を受けて旭出に集合していきますから、中島砦は空になっています 『天理本・信長記』には、千秋・佐々らは中島砦にいたと記されていますから、千秋・佐々ら二百人は信長の指示を守らず朝日出の山間から此処に移動したことになります。
  3. 信長は千秋らの抜駆けを知って、使番を派遣してこれを制止し、指示あるまで開戦しないように指示すると共に、彼等の兵力が少な過ぎたのをみて、旗本から百人程の足軽を分派します。これによって千秋らの先鋒隊は、自ら率いた二百人に加えて三百人になります。千秋らの抜駆けを知った旗本の中からは、岩室長門守も抜け出してその後を追いました。これらのことから、尾張での一般的な国人の率いる兵力は百名程度(現代の二個小隊規模)ではなかったかとも思えます。

(10:00)

  1. 信長は善照寺砦に到着しました。途中で丹下砦に寄ってそこの将兵も掻き集めた上でのことです。
  2. 例えば、この時刻までに義元の率いる軍勢が、殿軍を残して全てが桶狭間山に引揚げを完了していた場合、義元が桶狭間山に到着した午前9時10分から50分で収容できる兵員数は、毎分56.7人と仮定しますと約三千人と計算できます。この場合の義元本隊は、松井隊一千程度が鳴海から桶狭間への道を遮断して有松神社の峠に陣を張っており、1km後方の桶狭間山に義元が旗本三百騎を含む二千の兵を率いて布陣し終えたことになります。もし、善照時から死角になる有松神社の陰にも駿河勢がいたとしますと、900mに765人を見積もれますから、三千六百人になります。これに加えて殿軍に一千人を見込みますと、約四千六百人ということになります。更に、先鋒の朝比奈勢などはまだ漆山から行軍中であり、彼らが桶狭間に収容されるのは午前10時10分ですから、1.97kmある東海道も行軍中ですから、一千七百人 [1,970m×0.85m=1,675人] が行列していることになり、義元軍の総勢は約六千人の勘定になります。
  3. 熱田〜善照寺間の一里25町余の7kmを騎馬は時速7kmで行軍すると、午前10時10分に織田勢の先頭が善照寺砦に到着します。歩兵は時速5kmの強行軍を行うとしたならば、35分後の午前10時35分にその先頭が善照寺砦へ参陣したことになり、熱田の一千人が朝日出に勢揃いするには約100分 (7.35km+1.18km)÷5km/h=1.706≒100分 かかりますから、織田勢に出撃態勢が整うのは午前10時50分ということになります。
  4. 佐々らは、信長からの使番からの命令を無視して中島砦から出撃しようとします。彼らの目的は、信長が義元と決戦するために駿河勢を引止めておくためで、陽動などではありません。

 (10:10)

  1. 駿河勢先鋒隊の朝比奈勢の兵士二千名は、義元本陣に午前10時10分には完全に収容されました。彼等は、午前9時10分に漆山に到着した後、そのまま桶狭間に向って、1.71km先の東海道を撤退したことになります。
  2. 彼らが、桶狭間で一時間の大休止をとり、昼食をとった後は、引き続き西三河に向けて撤収を開始したものとしますと、義元本陣が襲われた午後二時頃という三時間の間に、桶狭間からは約12km先には進んでいることになりますから、今岡や池鯉鮒などの自軍陣地に撤収できています。つまり、桶狭間での集中豪雨が10km四方程度の局地的なものであったとしますと、彼等がそれに遭った可能性は少ないはずです。 因みに、平成十八年八月十四日午後四時に埼玉県で発生した集中豪雨は、TVカメラにその金床雲の様子が撮影されましたが、その様子から降雨地域は狭い範囲に極限されていたことがわかります。
  3.  千秋・佐々らは中嶋砦に到着しました。彼等は午前9時50分に朝日出を出陣し、1.4km先に20分 [(1.4km+0.236km)÷5km/h=0.3272≒19.63分]  ほど後の午前10時10分です。
  4. 千秋・佐々らは中島砦に乗馬を置いて足軽(徒歩)で出撃しました。
  5. 一方、義元の駿河勢は、大方の撤退を完了しており、漆山には殿軍しか残っていませんでした。早朝からの丸根・鷲津砦攻めを終えた朝比奈備中守らは、既に陣払いをして桶狭間の本陣にいました。朝比奈備中守の隊が乱捕りには出かけたとしますと、これから後のことになります。乱捕り場所も桶狭間村などは含まれません。安堵されていたらしく思われるからです。
  6. 一方、総大将の今川義元はまだ殿軍の撤収が終わっていませんから、高根山で戦況を監視しており、千秋・佐々らの出撃を見ています
  7. 千秋・佐々ら三百人が、手越川左岸の小川道を南進して、漆山際の西側に部隊を展開できるのは、12分後 [(610m+300×1.18m)÷5km/h=0.1928≒11.6分] の午前十時22分です。撤退中の殿軍として漆山にいた一千人の駿河勢も、一斉に織田勢の先鋒を迎え撃とうして、漆山の西山麓で戦闘が始まります。

(10:22)

千秋らが、中嶋砦から小川道を進軍して、漆山西麓に展開し、駿河勢の殿軍と激突したのは、中嶋砦を出てから12分後でした。

(10:30)

  1. 千秋四郎、佐々隼人正、岩室長門守をはじめとして三百人ばかりは、低地からの攻撃で槍下であるうえ小勢であったので、駿河勢殿軍に押し捲られて、後退を続けて次第に諏訪山北の山裾にあたる母衣後で討死してしまいました。漆山麓と諏訪神社北の山裾にあたる母呂後までは200m程度、戦闘時間は8分と仮定しました。
  2. 義元は高根山の仮本陣から信長は善照寺砦からこの前哨戦を観戦していました信長が善照寺砦で戦況判断をすると、義元本陣が桶狭間山方面にあり、陸続として駿河勢が撤退しているところであり、大高河口には服部党の兵船が廿艘ばかり遊弋していました。
  3. 漆山の駿河勢は、余勢を駆って中嶋砦を攻略するか協議し始めます。この時点での駿河勢の兵力を試算すると、少なくても六千七百人 [100分×56.7人/分+1,000人=6,670人 ] 多ければ九千人 [6,670人+ (900m+1,970m)×0.85人=9,110人] と推定できます。
  4. 前哨戦を戦った駿河勢は漆山に戻り始めます。漆山に撤退を完了するのは、20分後 [(0.2km+1000×1.18m)÷4km/h=0.345=20.7分] の午前10時50分になります。

(10:50)

  1. 熱田からの兵一千が到着を終えて朝日出に二千が勢揃いしました。
  2. 同時に、山崎から信長についてきた町衆は、駿河勢の兵力を目の当たりにしたばかりでなく、大高河口に廿雙ばかりの船が遊弋しているのをみて、織田勢の劣勢を感じて急遽自分たちの町に引き返すことになります『天理本信長記』。
  3. この他に善照寺砦には丹下・中嶋砦と丸根・鷲津の敗残兵を加えて一千人が備え、信長には総勢三千人が揃ったことになります。朝日出から信長の許に、軍勢が整ったことを伝える使者が派遣され、信長の許へは三分後 [800m÷18km/h=0.04445≒3分] の午前10時53分に到着することになります。

(10:53)

旭出からの使者が、信長の許に到着し、軍勢が勢揃いしたことを報告しました。

(10:57)

  1. 旭出からの使者により軍勢が揃ったことを知った信長は、直ちに出陣するよう使者を朝日出に帰しました。
  2. 『信長公記』の中島への道は、六田(字名)の中を通るため「脇が深田」で一騎ずつの縦隊でしか進むことが出来ず、敵から丸見えであると諫止されたのはこの時になります。
  3. 信長自身は馬廻を連れて善照寺を出ました。600m先の中嶋砦へは4分で行けます。

(11:00)

  1. 信長は中島砦に到着しています。信長の命を受け朝日出の山間から発進した二千人が、1.4km先の中嶋砦に集合できるのは45分後 [(1.4km+2.36km)÷5km/h=0.752≒45分] の午前11時45分になります。織田軍は善照寺砦からの道と朝日出の山間から六田を通る道とに分かれて中島へ向かいました。これらは中島橋の手前で合流します。
  2. 新手の織田勢を見た漆山の駿河勢殿軍は、安全に戦場を離脱すべく、早急に桶狭間山に向かって撤退を開始し始めます。
  3. 一千人の殿軍が松井陣地に収容されるには38分 [(1.18km人+1.97km) ÷5km/h=0.63≒38分] を要しますから、駿河勢の撤収が完了するのは午前11時40分頃になります。また、駿河勢殿軍の最後尾が漆山を離れることができる時刻は、15分後 [1.18km÷5km/h=0.236≒14.2分] の午前11時15分になります。
  4. 同時に、漆山の殿軍の大将は、織田勢が大挙して朝日出の山間からその軍容を見せたことに驚愕して、松平勢から派遣されていた石川六左衛門尉を呼んで物見に遣しました。これは、漆山にいた駿河勢の殿軍は、丸根・鷲津を攻めたときには後詰に現れもせず、駿河方が撤退を終えようとする頃になって姿を見せて戦闘意欲を示したことに戸惑いを覚えたからです。
  5. 六左衛門尉は800m先の中嶋砦の間近まで物見を敢行したとしますと10分 [0.8km×2÷18km/h=0.8889≒5.3分] ほど要しとしますから、午前11時10分に漆山陣地に帰陣できます。

(11:10)

石川六左衛門尉の物見により、織田勢が兵数は少ないものの実戦闘力が侮れないものであることを知った漆山の殿軍は撤退を急ぎます。

(11:15)

  1. 漆山の駿河勢殿軍の最後尾が山を離れました。
  2. この時刻で見積もれる駿河勢の最大兵力は、義元の桶狭間山到着時刻午前9時10分から125分間で収容できる人数と桶狭間山から漆山の東海道上に行軍している兵数の合計になりますから、毎分56.7人として七千百人と2.68kmに行軍する二千三百人の合計九千四百人ということになります。これが、駿河勢として見積もることができる最大の人員であり、一万人を超えることはありません。これを超える兵員を考える場合には、先鋒隊三千が別途緒川道を西三河に帰還していることを考えればよいのですが、それでも総勢で一万二千程度にしかなりません。

(11:30)

  1. 駿河勢の先鋒隊は大休止を終え、朝比奈備中守に率いられて桶狭間から西三河の今岡や池鯉鮒などの自軍陣地に向けて出発します。
  2. 黒田日出男氏の「乱捕り襲撃説」を考慮しますと、彼らはこの後に水野氏の領地に乱捕りに出かけたと看做すことができるわけです。沓掛から北の島田地蔵寺あたりまでは、先日十七日にすでに略奪していますから、さらに遠方まででかけなければ成果は期待できないからです。尤も、十七日に島田辺りに出かけていなければ、合戦当日に島田辺りへ乱捕りに出かけたと考えることも可能です。
  3. 『尾陽雑記』には、「義元の軍崩れるを東に向かって山を越えて追い討ちす、十町余り行って仙人塚とてあり」とみえ、『桶狭間合戦名残』も、「敗軍の節、義元方の士卒(は)この道より間米村を指して逃げ行き、千人塚辺りまで追い討ちいたし候ところと申し伝え候、(中略)信長公もこの間米村にて味方の勢を集め給い、丹下の方へ向かい候、敵に会わざるようにお引きのよし申し伝え候」としていますから、彼等はこちらの方面に撤退したのかもしれません

(11:45)

  1. 織田全軍の二千が中島砦に到着した時刻です。深田の一本道760mを二千人が一列縦隊で移動すると45分強かかるからです。信長は、兵の勢揃いができると直ちに出撃しました。家臣との一悶着は兵士が全て到着する以前に行われていたと仮定します。
  2. 漆山にいた駿河勢も、既に三十分経過していますから全員が桶狭間に到着しています。 織田方から見える範囲は1,780mですから、時速5kmで行軍していたならば22分で松井陣地に収容できるからです。
  3. 同時に、義元は高根山の仮本陣から撤兵して桶狭間山の本陣に移動します。本陣までは900mほどしかありませんから、十五分未満で正午前には本陣に到着できます。高根山には松井宗信の部隊が本陣先備として織田勢に備えて残ります。
  4. 桶狭間山での休憩は当初の計画になかった軍事行動ですから、切岸や土塁などの陣城の設備は事前に準備されたりしてはおりません。例え、瀬名氏俊が17日から陣所を抱えていたとしても本陣としの陣城などは設営していなかったと考えられます。付近に堀切などの痕跡が発見されていないからです。本陣は陣幕と柵・逆茂木だけで拵えただけであったものと考えます。
  5. 信長は、前哨戦での敗残兵を収容しながら前進し、桶狭間山へ向かって東海道を進撃しはじめます。約1.41km先の山際の鎌研辺りに集結するのが一時間後 [(1.41km+2.36km)÷4km/h=0.9425≒56.6分] の午前12時45分頃になります。

(12:00)

  1. 義元は、島田左京、沢田長門守が持参した丸根、鷲津砦の武将の首や、ほどなく届けられた佐々政次、千秋季忠の首を検分してご満悦でした。その頃、桶狭間村や長福寺から戦勝祝いの品々が届けられていました。
  2. 『甫庵信長記、慶長見聞集、大三河志写美濃本、感興漫筆義』などでは、元本陣では酒宴乱舞であったと書きますが、目前に敵を迎えてのことであるから信じるには値しません。但し、『甲陽軍鑑、総見記、三河東海記、老人雑話、桶狭間合戦申伝書、水野家家譜、水野勝成覚書、三河物語、道家祖看、松平開運録』が、筆を揃えて「物具を脱ぎ弁当をつかい謡いをして」などと伝えるのはその通りであったと思われます。
  3. 義元が桶狭間山で謡いを三番謡いました。一番は丸根砦での戦勝、二番は鷲津砦での戦勝、三番は前哨戦の戦勝を祝ったものです。

(12:05)

  1. 信長は鎌研に到着 [1.41km÷4km/h=0.3525≒21分] し後続する兵士も集結し始めます。
  2. 雨が降り始めたと見做すことができる最も早い時刻ですが、その場合の降雨時間は一時間半になります。しかし、義元の謡三番を考えると、雨の降り始めは更に遅い時刻であったと考えた方がよいかもしれません。

(12:45)

  1. 信長軍二千すべてが山際の鎌研に集結し終えました。
  2. 雨が降り始めたと見做す事ができる遅い方の時刻です。この場合の降雨時間は1時間になります。 降雨時間を更にのばした場合には、信長の突撃時刻を最大一時間遅らせることができます。「一時」は二時間の幅があるからです。
  3. 引き続き、信長の率いる先鋒は降り注ぐ風雨に背中を押されるようにして、更に東海道を東進して山間へ入って行きます。鎌研辺りから東は、丘は低くても道路からの高さは50mほどもありますから、山間というに相応しくなります。東海道も有松から東になりますと、駿河勢の布陣した桶狭間の山々からは見通せなくなります。
  4. 更に、駿河勢が西から吹付ける暴風雨を避けて尾根の陰に下りたならば、この風に後押しされた信長勢は、義元勢に察知されずに1km先の大将ケ根まで山陰を進むことができたと考えられます。これが、『老人雑話』に「間道より本陣にかかりける故、七備へ空しくなるとそ」ということであり、『総見記・中古日本治乱記・家忠日記・尾洲桶狭間合戦記・尾陽雑記』などに「後の山を押廻って」ということの意味なのです。
  5. このようにして、信長勢は期せずして東海道上に大将ケ根から鎌研にかけて凡そ2kmに渡って山際に進出・展開したことになるのです。これによって、『桶狭間合戦記』が「旗本の先将松井兵部少輔は本陣へ敵討ち入りたると聞き、大いに驚き、早速軍勢を引率、旗本へ駆来たれば、義元ははや討死になり」と書く様を呈することになり、先備は集中豪雨で一時的に織田軍を見失い、信長に先備を超越されているとは思いもよらない状況が窺われます。彼等は背後にある本陣を襲撃されるまで知らずにいたのです。
  6. 尤も、雨があがって信長勢に脇をすり抜けられたことを発見した松井は、すぐさま伝令を本陣に発したが、間に合わなかったのです。
  7. 『尾陽雑記』が「信長の勢い思いもよらず、海道の上なる山より横合いに衝いてかかる。松井是を見付けて使いを走らせて義元に急を告げる」と書き、『集攬桶迫間記』は「伝仁義元家老松井八郎、上の高山に旗を立、人数を揃え、遠見の所に、信長卿忍び寄ありの躰(を)見出し、義元へ注進しきりの所に、早押し来たり、戦死す」と考察しています。

(13:45)

  1. 一時間降った雨があがり、敵陣の横腹に進出できた信長は大将ケ根の麓から駿河勢の本陣に突入しました。この突入時刻は、更に一時間遅らせることもできます。
  2. 現在の鳴海町字大将ケ根は「地図」をみればわかるように、豊明市の桶狭間古戦場旧跡の北から北西に向って狭い幅でのびて、緑区太子町の西麓を東海道にそってあるのです。従って、大将ヶ根は山上などではなく山麓なのです。このような複雑な地理が後世の人に大将ケ根の山頂から攻め降ったと誤らせる原因になったと思います。
  3. この太子ケ根は桶狭間山の北、義元本陣より980mのところにあります。この距離を移動するには敵が崩れたっているので、登り斜面ではありますが時速4kmの通常行軍速度で見積もると15分かかります。これにより、13時45分に雨があがったと見做しました。
  4.  信長軍の先頭は、生山と武侍の狭間から南の武路に攻め入りました。中陣は生山を這い上がり、県道の狭間から突入したとも考えられます。勿論ここには道などないのですが、南進すれば田楽坪瀬名陣所に、東進すれば義元本陣に至ることができます。また、信長勢の後陣は鳴海〜桶狭間道を攻め上がることができます。義元本陣にとって最も致命的であったことは、雑兵・軍夫が暴風雨からの避難所を求めて右往左往することによって指揮系統が分断され、甲冑・武器を放置して無力化されてしまっていたことです。
  5. 塗り輿は、騎乗したままの信長方が発見したのですから、麓の瀬名陣所にあったか、又は義元本陣の陣幕の外に置いてあったに違いません。義元は輿に乗って山上に登ったことに疑問を唱えるむきもありますが、参勤交代の大名行列では駕籠に乗って峠を越え、行軍中は便意を催しても行列を止めなかったといいますから、義元は台地上の本陣まで輿であがったと考えても良いと思います。
  6. 結果的に、信長軍は先鋒と後備とが二手に分かれて襲撃したことになったと考えられます。『井伊家伝記・奥山孫市郎遺言・塩尻・参州事実録』などが、「信長は軍兵を二手に分け、一手は先掛けに、一手は義本の本陣へ急に攻め懸け」と書いていることは、正しい言い伝えなのではないかと思います。
  7. 敵襲に備えていた義元の先備・松井隊は、一般にいわれるような混乱には陥らなかったものと思います。信長が攻め込んだのは義元先備の松井隊ではなかったからです。従って、鳴海〜桶狭間道を鎌研から攻撃した織田軍後備が最も苦戦したと考えられます。
  8. 織田軍の先頭は北から攻めて武路辺りに出たのか、高根の狭間である現桶狭間郵便局から南へ狭間のなかをいく坂道の現県道から攻め入ったのかは検討の余地があります。『豊明市史』によりますと、『桶狭間合戦名残』には、「一説に有松村東にハイ(這)山と云うあり、是すなわち、敗軍の処と有松村老人咄もうし候、しかし、一名ハエ(生)山とも申し候」とあります。

 

(14:00)

  1. 信長が義元の旗本を発見して、攻撃方向を変更した時刻です。これも降雨時間によって最大一時間遅らせることができます。信長は「高根と生山の狭間」か「生山と武侍の狭間」から進入した信長が、「武路」の辺りから概ね東の方向にあたる桶狭間山の北の松原に、義元本陣を発見したものと思われます。ここで牛一のいう「東」とは、信長が源太夫殿宮の前より鷲津・丸根があった方向を指して東といったと同様、正中線より左右に分けて右手を表示しているものとし、真東と考えるべきではないように思います。
  2. 勿論、義元も旗本も混乱には陥らなかったことは、『信長公記』に明らかなように組織的に義元を守って撤退戦を戦っていることからわかります。『成功記』は、「敵寄せ来るも知らざりければ陣中大いに騒げり、義元幕を打ち廻して御座けるが、軍中の騒動を見て静まれ静まれと下知し給う」とし、『家忠日記』も「義元、帷幕の内に座して退かず、敗軍の士を指揮して戦はしめんと欲す」と書いています。
  3. しかし、如何せん大休止中であったため、多くの武士は小具足姿のままであったと考えられます。これは、戦場に到着する以前や戦場から離れてからは甲冑を着用せず、籠手・臑当・佩楯・喉輪・陣羽織という軽装でいたと考えられるからです。このことは、『松平開運録』が「鎧脱ぎ置き、上帯解き」、『桶狭間合戦申伝書(1725)』が「敵は物具を脱ぎ、兵粮をつかい」と書いています。
  4. 一方、鳴海〜桶狭間道を攻めあがった織田勢は、高根と幕山の間にある峠で、松井兵部少輔家信と戦っており、簡単にはそこを打ち破れなかったものと考えます。『新編桶狭間合戦記』が考えるには、松井が義元救援に取って返したために先備も総崩れとなってしまったのですから、通説とは逆に本陣が崩れたために先備も敗れたのです。
  5. そこで始めて織田勢の後軍も坂路を駆け下りて地蔵池の北に降りることができたわけです。そこから道は池の西端を南下し田楽坪から大池の西を通り桶狭間の辻にいたるのですが、戦闘は追撃戦の様相を呈します。地蔵池から南は深田が広がっていますから混乱に陥って南に行こうとした駿河勢には逃げ場がありません。その大池の東に瀬名氏俊の陣地があります。現在は、それにちなんだ「センノ藪」という呼称が残っているそうです。
  6. 従って、総崩れになってからの駿河勢のうち南に逃れようとした者は、『信長公記』にあるように深田の中に追い込まれて進退窮まって討ちとられました。大池の東にある長福寺が兵火にかかっていないことからみて、大池以南に逃れ得た駿河兵はいなかったものと思われます。
  7. 義元の討死場所は定かではありません。

 

(15:00)

  1. 生山・武侍などの山上陣地にいた兵士は、東海道から沓掛城に逃れようとしたものと思われます。これが『尾陽雑記』や『桶狭間合戦名残』などに伝える仙人(戦人、千人)塚辺りまで追撃したというものでしょう。
  2. 信長が大将ヶ根から討ち入ったならば、生山・武侍などの駿河勢の兵士はみな、桶狭間の方に追いやられそうに思えますがそうはなりません。信長に続く軍勢が多数であれば、広く展開して残敵を掃討するのでしょうが、少ない場合には何処までも突貫して敵陣を突き抜けようとするのが定法だからです。突撃が止まってしまうと態勢を立て直した敵勢に包み込まれて消耗してしまうからなのです。逆に、突き破って進入した部隊は、左右の敵勢に挟み撃ちにされるようにも思われますが、左右に分断されて指揮系統が崩壊した敵は、下級指揮官がその能力を超えた統率力を発揮しない限り一般には一気に士気を阻喪してしまうものなのです。
  3. 因みに、第二次大戦の緒戦における電撃戦において、マジノ線を突破されて前線に置き去りにされたフランス軍が完全装備のまま多数降服したことが有名な事例です。カール・ハインツ・フリーザーは、その『電撃戦という幻』で「伝統主義者たちは有機的に連なった、真直ぐな戦線を堅くなに信仰し、戦線に間隙をつくること、側背をがら空きにすることに本能的な恐怖心を抱いた。仏軍は武器を持ったまま降服した」と書いています。即ち、防御とは例え戦線が手薄になる犠牲を払っても、横に長く兵力を展開して包囲されたり迂回されることを防ぎ、それを維持し続けることであり、攻撃とは兵力を一点に集中し縦に厚い隊形をとって突破することであると言えます。このようであれば、防御戦線を突破分断されることには、多大の恐怖心を抱くものなのです。この恐怖心から開放されるには、古代のファランクスのように縦深を厚くして、あけられた穴を即座に埋めることが必要なのです。従って、信長軍に深く侵入されて前線に取り残されてしまった駿河勢の兵士たちは、沓掛城へ向って北へ逃げようとしたと考えます。
  4. 織田軍は千人塚辺りまで追撃したのですが、信長は沓掛城や西三河の駿河勢との接触を避けて鎌倉街道から丹下を経て帰還したという説もあります。 ………この場合には、信長勢が大勝したことによって、麾下の兵が広範に分散してしまっていましたから、少数であっても統率のとれた新手の敵軍に遭遇したならば、逆に壊滅させられる危険があったからで、信長の判断は賢明であったと考えられます。よく信長が追撃しないことを批判されますが、あたらないと思います。
  5. 『総見記』は、「申刻(午後3〜5時頃)信長は、兵を集め、そこで勝鬨をあげ、清須に向けて帰陣した」と記し、『信長公記』は、「上総介信長公は、お馬の先に今川義元の首をつり下げて道をお急ぎになったので、まだ陽のあるうち(当日の日没は19:10)に清須へ到着」と伝えていますが、桶狭間の戦場から清洲までは23km強ありますから時速6kmの騎馬行軍で約4時間ほどかかることになりますから、午後3時には引揚げを開始しなければならないことになります。このことからも戦闘時間が短いものであったことがわかります。 ……… 因みに、間米と丹下の間は約4km、丹下と清洲の間は18kmですから22kmほどもあり、騎馬でやはり四時間ほどかかります。

このようにして、義元の長い一日は終わりました。

以上のとおり、『信長公記』と『三河物語』ばかりでなく、諸史料の伝える数々の逸話をも忠実に再現しますと、午前3時12分の干潮(午前二時台に訂正しますから午後7時10分の日没まで少しの余裕もない行程であったことが分かります。それと同時に、諸軍記・諸伝もそれなりの真実を伝えているように思えることも分かって頂けたのではないでしょうか。

それに、信長と桶狭間合戦について江戸時代の人々とはまるで異なった見方をするようになってしまったのは、明治陸軍によって迂回奇襲が捏造されてからであり、戦後の高度成長記に歴史が経営学の一端を担わされて、自己啓発の道具とされるようになってからだと思うのは私だけでしょうか。

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