<桶狭間合戦の兵力と兵法を考える>
<旧参謀本部の試算>
旧参謀本部の『桶狭間役』では、百廿六年後の貞亨年間(1684〜88)における諸国の生産高により、当時の義元が支配した領域に尾張の一部を含めて試算しています。駿河17万石、遠江27万石、三河34万石の78万石と尾張の品野・鳴海・大高・沓掛および二の江を22万石以上あるとみてこれを加算し、合計100万石と推量しています。これには、知多半島も含まれているのかも知れません。それに、沖積扇状地の開拓により10%程度が増加していると推定してその増分を控除したうえで、近世大名の一般的軍役としてよく用いられる「一万石あたり二百五十人」を当てはめることによって、今川義元の動員兵力を25,000と見積もっています。
しかし、この旧参謀本部が加算した尾張の一部を義元の兵力算定に加えることには無理があるように思えます。何故なら、尾張の一部なる地域がたとえ駿河方に服属していたとしても軍役を負担していたとは考えられないからです。
例えば、軍役負担といっても最も積極的な加担は、二之江の一向宗徒の服部左京助が黒末河口へ武者舟二十艘を漕ぎ寄せたり、西三河の今村彦兵衛勝長や渥美太郎兵衛友勝が大高へ兵粮を運んだという言い伝えだけしかないからです。
当時の知多半島では、緒川水野氏は尾張の織田氏からは独立した勢力でありましたし、大野佐治氏は水野信元と姻戚関係を結んでいました。しかし、今川方の長尾岩田氏は緒川水野氏を、寺本花井氏註 は織田方の荒尾勢を、沓掛城は佐久間一族を、品野城は尾張北東部の織田方の国人兵力の一部をその領地に拘束していたと仮定しましても、義元の下に派兵していたとは考えられないからです。註 寺本花井氏は村木砦を攻めた帰りがけに攻撃され信州に逃れて滅びたとみられている。
また、大高城も鳴海城も攻囲されて封鎖されていましたから、本来の領民からの徴発もできなかったでしょう。ですから、今川氏の遠征軍の兵力に加算するべきではないと思うのです。更に、今川氏の支配下にあった三河国にしましても、東三河では田原の戸田氏、豊川の牧野氏、奥三河の菅沼氏などが主な勢力でしたが、桶狭間合戦には彼らの名前は出てこないのです。
このように考えますと、今川氏の動員可能な兵力は、尾張の分を控除して算出した17,500人[(100-22)×0.9×250=17,550 ]程度が精一杯なのではないでしょうか。しかし、それだけではありません。義元は、織田方から奪取した城に三河国人を城番として入れています。西尾城には牛久保の牧野成定を、大高城には上ノ郷の鵜殿長照を入れています。このようなことを考えますと、三河衆で尾三国境へ駆出されたのは、西三河の松平勢だけなのかもしれません。その場合には、更に少ない兵数の可能性もあるのです。
そのうえ、『桶狭間役』が見積もる今川方の兵力配備の内容は、岡崎城に1,000、池鯉鮒・今岡に4,000余を置いて刈谷と緒川の水野氏に備え、松平元康が2,500百、朝比奈備中守が2,000余、先鋒の予備隊と位置づけた三浦備後守に3,000余、清洲方面軍として葛山氏元が5,000余、今川義元本軍が5,000余、鳴海城に岡部元信7〜800、沓掛城に浅井正敏が1,500余を見込んでの24,800であり、大高城の鵜殿長照の兵力を合わせて凡そ25,000という布陣なのです。 ………これらの旧参謀本部の記事は『東照軍鑑』を基にして改変されたものと思われますが、 この中で実際に桶狭間での戦闘に参加できる兵力は、松平元康の2,500、朝比奈備中守の2,000余、先鋒の予備・三浦備後守の3,000余、今川義元本軍の5,000余の合わせて12,500名なのです。
旧参謀本部の積算には、存在そのものが疑われる清洲方面軍としての葛山氏元の5,000余がいるのですが、この部隊は他の城砦の守備兵力と同様、桶狭間合戦では戦力にはならないものです。そのうえ、満潮時には孤立して各個撃破される恐れがありますし、史実からみても二之江の服部左京助が上陸して熱田へ侵攻しているのに、それに協同して作戦をしていないという問題があります。また、熱田から善照寺砦に駆けつけようとする信長を横撃することもしていないなど、戦術的に葛山氏元の部隊に如何なる役割を期待したのかさえ明らかにならないのです。
他にも、五千名もの葛山氏元の部隊が笠寺台地へ何時、どのようにして渡ったのか。何故、中島砦・鷲津砦の織田方が目撃して清洲に報告したと『信長公記』に書かれなかったのか。葛山氏元はどのようにして義元の討ち死にを知り、どのようにして引揚げたのかなどと問題は多いのです。これについては『鳴尾村史』に一説がありますので付録で紹介します。
それに、五千もの兵力を分派できるのでしたならば、葛山氏元の部隊に鎌倉街道から丹下砦を攻めさせ、義元自らが善照寺砦を攻めれば、丸根・鷲津などを攻めずとも、鳴海城だけでなく一気に大高城をも解放できたものと思われます。このように、今川義元が何故そのような常識的な戦術をとらなかったのかは全くもって謎であり、葛山氏元についてはその存在が感じられないのです。
また、三河の松平元康が、先鋒隊の主将・今川家筆頭家老の朝比奈備中守より多い2,500もの兵を率いていると想定していることにも疑問を感じます。元康は駿府から手勢千余を率いて尾州へ入ったといい、慶長三年検地の三河290,715石の西三河分を半分として、開発で増加した分を一割とみると約三千三百人程になるのですが、『桶狭間合戦記』の山崎真人は、「元康が三河入国時の領地は十分の一であるというから、三万三千六百石であるが、これよりも多かったともいう」と言いますから、やはり一千人程度の兵力とみるのが相当でしょう。
更に、『桶狭間役』では、今川家に二人いた家老の一人、三浦備後守に筆頭家老の朝比奈備中守よりも千人も多い、3,000もの予備兵力を率いさせていることも問題です。この三浦備後守の部隊は桶狭間合戦の最中はどこにいたのか史料には一切現れないのです。このように、義元勢の兵力が大軍勢であることを疑わせるものが数多くあるのです。
もし、義元の率いる軍勢が旧参謀本部の言うごとく25,000もいたならば、1,000名弱の人数で守る丸根・鷲津砦などは合戦に及ばずとも朝比奈・松平の4,500の兵で抑えておき、自ら三浦の兵も合わせて8,000の兵を率いて450名程度しか籠らない善照寺砦を攻略に向かえば、この三砦は戦わずして開城したものと思われます。それをあえて丸根・鷲津砦の直接的な攻撃に及んだということは、そのような大軍ではなかったことを窺わせるものがあります。
ところで、これらの葛山・三浦の軍勢が存在しなかったならば、8,500人もの兵数が過大に見積もられていたことになりまして、義元の実兵力は15,300人程度にまで減ってしまうのですが、この辺りが現実的な駿河勢の最大動員兵力なのではないでしょうか。
『東照軍鑑』の記す今川軍について「母呂後」の章に書いたことを転載しておきます。
「元康を召し、其の方家来(は)当地の様子(を)委(クワシ)く存(る)可(き)条、明日(の)先懸をして丸根の要害(を)攻(めらる)可。二の手には朝比奈備中守・(中略)奥平道分父子(の)合(せて)二千余(に)申付る。鷲津の取手をは三浦備後守・(中略)鈴木日向守(の)合(せて)三千余を以て押さすべし。清洲へ向ふ人々には葛山播磨守・飯尾豊前守・三浦左馬助・小原伊豆守・天方越前守(の)五千余。鳴海の城主山口九郎二郎(既に誅殺されています)を案内者に指添、戸部・笠寺へ遣わし、鳴海には岡部五郎兵衛を大将として一族与力合七十五騎、伊賀忍の者九十人相加へ籠置可間、二の手押の者共と示合さる可きの旨(を)仰せ渡されければ、(元康は)其意を得候とて、御陣所へ帰せ給ひ、(中略)二千五百余騎(が)丸根へ発向し給へは、清洲へ向手(は)笠寺へ出陣しけり。沓掛の城には浅井小四郎・(中略)大草七郎を残置、義元は瀬名伊予守・朝比奈肥後守父子・高天神の小笠原を先懸として五千余騎(で)桶狭間表へ押出し、(中略)大高城中より鵜殿藤太郎・同藤助・同又三郎・竹谷備後守手合として」と記し、『東照軍鑑』は山口左馬助が鳴海・笠寺・沓掛・大高などを手土産にして今川方に服属した時の布陣を添加することによって、兵力を故意に膨らましているようです。
具体的には以下のようになっています。
- 丸根攻は、松平勢が五百で朝比奈勢が二千です。総勢二千五百から朝比奈勢二千を控除したものですが、旧参謀本部は朝比奈勢を独立させて鷲津攻めにまわしています。この松平勢について、『桶狭間合戦記』の山崎真人は、「(神君此の時)御領地は三河の中十分一なりといへり、凡、三河の国の物高参拾三万六千石なり、此十分一なれは三万三千六百石也、此時の御領地十分一より多かるべしともいへり」と考察しています。これから兵力を推測しますと 3.36×250人=840人ということになりますし、慶長検地は255,160石ですからその一割だとしますと25,500石ですから、630人程度になります。つまり、松平勢の五百人という数字は妥当なものだと考えることができます。多くても一千人程度がせいぜいでしょう。
- 鷲津攻の三浦勢は三千余ですが、旧参謀本部はこれを予備軍にまわしています。
- 清洲攻め五千余の面々をみますと、これは山口左馬助が寝返ったときに配備された人々であることが分りますから、そもそも清洲進撃の計画自体の存在が疑われます。
- 鳴海城の番将・岡部五郎兵衛以下「一族与力合七十五騎と伊賀忍者九十人」というのは、桶狭間戦後に刈谷城を攻略したときの逸話から見積もった兵力だと思えます。一騎につき五人の雑兵を考えますと総勢四百六十五人の守備兵であったということになりますが、旧参謀本部はこれを700〜800と見積もっています。
- 沓掛には浅井小四郎らを残置したとします。旧参謀本部はこれに千五百の兵を与えています。
- 義元本隊は五千余とし、瀬名伊予守らを先懸として桶狭間へ出張したとしています。
- 大高城の鵜殿は丸根砦への攻撃に加勢したとしています。鷲津と丸根を攻撃した兵力を比べてみますと、五百人ほどの差がありますから、大高城兵も五百程度いたものとも考えることもできます。その後、『東照軍鑑』には「大高の鵜殿長照と入替り人馬を休め給へ、鵜殿は内々望なれば清州へ先陣を申付んとぞ仰ける」とあって葛山の清洲攻撃軍に加わったことになっていますが、『東照軍鑑』はこれ以は清洲方面軍の動向を記しません。『武徳編年集成』『武徳大成記』などにも記事はありません。
(2008.07.18 挿入) 猶、『武徳編年集成』には、義元本隊の編成も記述がありまして、前備大将・藤枝伊賀守氏秋、先陣大将・朝比奈主計助秀詮(ノリ)、左備侍大将・甲部甲斐守長定、旗本頭・三浦左馬助義就、旗奉行・療原(イホハラ)美作守元政、軍奉行・吉田武蔵守氏好、槍奉行・伊豆権平元利、後備旗頭・葛山播磨守長嘉とされています。
次に、参謀本部の用いた史料よりもさらに早い時期の慶長三年の検地結果で試算しますと、駿河15万石、遠江255,160石、三河290,715石であり、合計695,875石ですから、約15,700人になります。その内訳は、鳴海表に出陣した兵力として松平元康二千、朝比奈備中守2,000、義元本陣5,000(瀬名陣所に500)の9,000と鳴海・大高に1,000、三河の拠点岡崎城に1,000、沓掛城に浅井正敏1,500、その他に刈谷・緒川の水野氏を抑止するために横根に500、今岡に500、重原に1,000、池鯉鮒に500、安城に500、といったところが考えられます。
水野氏は、最盛期には尾張国東部から西三河に勢力を広げており『結城水野家譜』に二十四万石余りといい、『東浦町誌』には緒川・刈屋両城に拠り大高・常滑・奥田・荒尾・西尾の六城を兼知しおよそ二十四万石を領有したというのですが、史料的な裏付けはないようです。それに、桶狭間合戦時は相当に今川氏に侵蝕されており、実態は村木砦攻めで集めた1,000人弱程度の兵力が最大であったと考えられますので、水野氏の抑えには西三河に3,000も控置しておけば充分であると思われます。
従って、義元の軍勢が通説の如く25,000もおらず、戦場には8千〜9千人程度しか率いていなかったとしたならば、義元自身が十九日の黎明には軍勢を率いて丸根・鷲津砦を攻撃していた可能性が大いにあるわけです。この場合に、義元が大高表に率いた兵力の内容を見積もりますと、松平元康1,000、朝比奈備中守2,000、今川義元本軍が5,000の八千名が妥当なところではないでしょうか。
今川義元本軍を5,000と見積もるのは、本陣前備を松井宗信一党が務めていたと仮定した場合、「今川分限帳」に「遠州二俣城主二万三千石・松井五郎八郎」とあり、万石ニ百五十人とすると約五百七十人の軍役になり、それが本陣の一割であるとみることで想定しました。また、永禄三年十二月二日付けの八郎宗恒への安堵状に、「苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋、以蔵入雖出置之」とあるものも加算して三万疋(三百貫文)を八貫当たり一人の軍役としますと、卅七人プラスすることになり概ね六百人になり、約六千人の規模を見込めます。
因みに、後北条氏の宮城四郎兵衛尉(二百八十四貫四百文)の軍役は、馬上八騎、鑓十七本、歩者四人、鉄炮二挺、弓1張、大小旗持三本、指物持一本の合計卅六人で、小田原北条氏の着到状では鑓衆を雇う場合には一人ニ貫文であったようです。
また、松平勢を少なく見積もるのは、松平の勢力は西三河にあり、単独では緒川・刈谷の水野勢に拮抗する勢力でしかないからです。それに、最近いわれるように、今川義元も上杉謙信らと同じように食うために尾張まで出張して来ているのであるとしたならば、駿河勢の先鋒隊が松平勢より多人数であっても不思議はありません。
「不思議の勝はあっても不思議の負けは無い」ことを考えると兵数が最も重要であり、先鋒の朝比奈備中や三浦備後の合戦当時の所在がポイントになります。それなのに『武家事紀』には、「義元が戦死したとき、朝比奈・三浦・葛山・斎藤・岡部・由比・福島・庵原をはじめ廿一人が、一戦も交えずに敗北してしまった」とあって、駿河勢は兵を分散してしまっていて戦わずに敗れているのです。
ですから、駿河勢は8,000人でも多いぐらいでして、その上でこれらの部隊は既に桶狭間にはいなかったこと考える必要があるのです。
<信長の兵力>
桶狭間合戦時における織田の兵力について、『桶狭間役』では信長の実効支配が及んだ地域を全尾張の40%とみたうえで、近世に行われた南部の埋め立てにより10%程度の推定増産分を控除して、貞享年間の調査結果の48万石を基礎にして17万石で四千人内外と見積っています。それよりも早い時期の慶長三年の検地結果をもって試算してみますと、尾張は571,737石ですから、信長の実効支配地域を40%としてみますと約5,500人になります。
この40%というのは、愛知郡の東部は岩倉丹羽氏の向背が曖昧ですし、東春日井郡の東部では科野城の城番を駆逐できたかどうかも定かではないからです。また、中嶋郡の兵力は美濃の斉藤氏に拘束されていたでしょうし、海西郡や海東郡の海際は一向宗徒と滝川一益が対峙していたはずです。知多郡は水野氏が内部に今川氏に味方する勢力を抱えて刈谷・緒川に籠城している状態でしたから、信長が兵力を徴発できない地域なのです。それに信長が、事前に国人に参陣を促していないことを考えなければなりません。従って、実際に合戦当時に参集できただろう地域だけを考えてみますと、信長が動員可能な最大兵力を尾張国の40%程度しかなかったと考えるのは妥当なところかも知れません。
この動員可能な地域の中から信長が桶狭間で使用できた兵力は、清須城などにも警備兵が残り、那古野城の林や柴田勝家などは参陣していないと考えられますし、『武功夜話』では佐々党・前野党・蜂須賀党などが今川勢の北進を監視・警戒していたことが窺えますから、全てを戦場に動員できたわけではないらしいのです。
信長が熱田に着いたときに後続した人数は200人であったといい、『伊束法師物語』は「旗谷口にては方々より馳せ加えて、壱千余騎とぞ覚へける」と伝えますので、熱田で兵の参集を待った結果、1,000余人が集まったらしいことが分かります。さらに信長は丹下の砦に到着して、丹下砦や中島砦の守備兵を朝日出に集合させた事が知られていますが、その中には当然、丸根・鷲津の敗残兵もいたことと思われます。
ところで、丸根砦の兵力については、『伊束法師物語』に「さて丸根の城には信長(中略)宗徒の軍兵七百余騎籠め置かれたり」と書き、旧参謀本部は兵力を不明としながらも、700とも400ともいわれるとしています。一説には、守将の大学が、徒らに士を殺すことを惜しんで、五人の旗頭、服部玄蕃允、渡辺大蔵、太田左近、早川大膳、菊川隠岐守に退いて後軍に合する様にすすめたけれども、誰一人聴かなかったと伝えていますので、配下に五人の寄子または足軽大将がいたらしく思え、一人が100人を率いたとすれば600人程と考えられます。80人ならば500人弱になります。
一方、鷲津砦については、『酒井本三河記』には400余騎とあり、旧参謀本部もこれを紹介しています。『改正三河後風土記』には520騎程といっていますがその大半が戦死したともいいます。猶、『蓬左文庫桶狭間図』によれば、これら二つの砦の間は尾根道によって結ばれていたらしいことが知られますから、互いに援助することができるのですが、砦の規模は鷲津砦の方が丸根砦の三倍ほどもあり、兵力において丸根の方が多いということは、鷲津砦からの救援があったものと思われます。それに、『武功夜話』では、援軍を出さねば鷲津・丸根砦は僅々1,000に満たないありさまで、今川が攻撃をしかければ半日は持たなかったに違いないとありますから、丸根・鷲津砦を併せて1,000と想定し、敗戦による損耗を30%とみて700人、繋ぎの中島砦は100人、丹下砦は500人、善照寺砦は鳴海城の守備兵と同等以と考えて500人と見做し、先行した千秋・佐々らの手勢200を加えると、2,000人になり総勢3,000人と考えたいと思います。
これについて、『総見記』は「善照寺の東の狭間にて御人数を立て勢揃へ成されけるに、漸三千ばかり有りけるとも、五千の人数とぞ披露ありける」といいます。これらのことから、信長が桶狭間に新たに投入できた兵力は、2,000人程度でしかなく、1,000名を鳴海城のおさえとして善照寺砦に控置すれば、2,000人の兵力で善照寺砦を出撃したと『信長公記』がいうのは正しいことだと思われます。
天理本には、「熱田・山崎近辺より見物に参り候者共、御合戦に負ケラレ可シ、急ギ帰れと申、シ皆罷リ帰リ候えき。弥(イヨイヨ)手薄に成リ候也」とあって、熱田・山崎辺りの町人・農民が合戦見物に信長についてきたとみえます。これは、信長が裕福な町人や農民らの妻子を人質にとって、急ごしらえの旗幟を持たせて、随行することを強要したのかもしれず、後世に言われる「熱田や善照寺砦の偽兵」の出処になっているのかも知れません。
ところが彼等は、大高川河口に遊弋していた服部左京助の兵船を見て、留守の危険を心配して早々に引き揚げてしまうのですが、それで首尾よく上陸してきた服部党を撃退することができたわけです。つまり、山崎や熱田からついて来た人々は「旗幟もどきもの」を掲げてきただけではなく、貧弱とはいえ武装していたことが考えられますが、それと同時に、当時の信長には談合によって町人らを戦場に引き連れる力はあったにしても、戦闘を無理強いできる力はなかったように考えられます。況や国人・地侍を動員する力はなかったことになり、信長の兵力が三千程度であったことの傍証になるのかもしれません。
井上宗和氏が『城/ものと人間の文化史』において、城砦の必要守備兵力は、塁上一間(1.8m)に対して三人、城砦面積は一人当たりに対して一坪半(約5m2)〜三坪(約10m2)位の広さが必要と書かれているので、その基準で見積もってみました。
- 鳴海城の規模は東西136m、南北62m(8,432m2)といいますから、約850〜1,900人となります。従って、旧参謀本部は700〜800人の兵力がいたと推定していることに合致します。
- 善照寺砦は東西60m、南北36mとありますから2,160m2位になり、約220〜430人となります。旧参謀本部の推定では鳴海城には700〜800人の兵力がいたとしていますから、450名程度の兵力と見積もっても丹下砦と協力していますから問題はないかも知れません。
- 丹下砦は、『尾張志』には旧記に東西84m、南北78mとあるとりますから6,552m2位であり、約650〜1,300人と見積もれます。
- 鷲津砦の規模は丸根砦の三倍あり、およそ2,760m2ですので、約280〜550人となります。
- 丸根砦の規模は、東西36m南北28mでおよそ1,008m2ですから、約100〜200人しか籠れません。酒井本三河記が鷲津砦を四百余というのがが妥当であれば百五十人程度となりますが、この場合、各武将は平均三十人程度の手下がいたことになります。
- 中島砦は、『尾張志』には、旧記に長さ145m、幅91m(13,195m2)とあり、藤本正行氏が歴史読本『織田信長合戦』(1993年8月)に掲載した推定復元図によれば、およそ140m×80mの長方形をしていますから、およそ11,200m2の敷地であったことになるのですが、一人当り一坪半(約5m2)〜三坪(約10m2)を当てはめた約1,120〜2,640人のもなりますが、このような人数が守備していたとは思えません。例えば、鳴海城は8,432m2、善照寺砦は2,160m2、丹下砦は6,552m2、鷲津砦は2,760m2、丸根砦は1,008m2ですから、鳴海城を包囲する付城群では、中島砦は最大の広さではを持っていることになります。………これは、問題がありそうです。
『新修名古屋市史第二巻』によりますと、桶狭間合戦当時の砦は信長方も今川方も構造に大きな違いはなく、館型の中心部に周辺の地形を外郭として取込んだ構造をしており、桶狭間合戦時の信長の城には先進的なものはなく、関東の後北条氏・甲斐の武田氏の「境目の城」との比べると構造的に立ち遅れていたされます。
そこで、改めて各砦を見てみますと、例えば丹下砦は、『新修名古屋市史第二巻』によれば、東西約64m、南北約50m(3,200m2)と、東西約46m、南北約50m(2,300m2)という二つの曲輪(5,500m2)を中心にし、そのまわりに一変100mを越える外構え(10,000m2)を廻らしていたといいますし、善照寺砦は一辺50mの堀と土塁をめぐらせた館型の砦であり、米軍の航空写真から外構えを推定すると法面も含んで東西300・南北110m(33,000m2)ありますから、内郭は約8%になります。また、村木砦も『新修名古屋市史第二巻』によれば、東西120m・南北200mの少しいびつな四角い外郭(24,000m2)のなかに、約50m四方の内郭(2,500m2)を備えた砦であったといいますから、10%強の内郭であったことになります。
改めて中島砦を見てみますと、単郭として考えられているのですが、どうみてもこれは外郭も含めた面積であると考えられます。そうしますと、これは中島砦が中州の平坦地であったために、内郭と外郭を明瞭に区別する痕跡を発見できていないからだと考えるのが妥当だと思います。その場合、他の城砦と同様に内郭が一割であったと看做しますと、110〜260人ほどになりますが、中島砦の守将は梶川平左衛門一人しか伝えられていませんから、その手勢だけであったとしますと、やはり百人に満たなかったものと考えた方がよいように思えます。
さて、そうしますと、鳴海・大高を囲む織田方の兵力は、善照寺砦450名(旧参謀本部)、鷲津砦400(酒井本三河記)、丸根砦150、中島砦100の合計で1,100人程度であったことになりますから、信長が熱田で参集を得た二千名と併せて三千人という数字は、やはり妥当のように小生には思えます。
<三河物語の見解>
『三河物語』には、駿河勢が信長兵力を見積もった記事があります。そこでは、「然らば敵の人数は如何ほど在るべきぞ。敵の人数は、内ばをとりて五千もあるべしと云う。その時各々笑って云う、何と五千は有るべきぞと云う。その時、六左衛門尉打ち笑って云う、方々は人数の積もりはご存知なきと見えたり。嵩にある敵を下より見上げてみるときは、小勢をも大勢にみるものなり。(下に)ある敵を嵩より見下ろしてみれば、大勢をも少勢にみるものにて候。方々の積もりには、何として五千より内と仰せられ候や」というのです。
それによりますと、低地から見積もった石川六左衛門尉は五千といい、高地から見下ろして見積もった駿河武将はそんなに多いはずがないと反論しているようです。ここで、歴戦の石川六左衛門尉が「嵩にある敵を下より見上げてみるときは、小勢をも大勢にみるものなり」と弁解しているのは、彼が斥候に出かけて、かなり近くまで善照寺砦に近き、対岸の黒末河畔から丘陵上の善照寺砦や朝日出辺りを「見上げる」ようにして観察したらしいことを教えます。
一方、朝日出を出た信長勢が一本道を中島砦に下りて来るのを上から見下ろしていた駿河武将は、実際に数えることができたのですから、その見積もりは正確なものになったわけです。従って、敵の近傍に寄って敵の全容を知る事ができなかった六佐衛門尉の見積もりが過大なものになったというわけです。………ところで、彼の斥候した距離は余り遠過ぎてはいけません。何故なら、全部を数え終わらないうちに六佐衛門尉が帰陣したのでなければ、兵数が話題になるはずなどないからです。
現に、『三河物語』の駿河武将は「この敵は武者を持ちたるか、また持たざるか」と信長が率いてきた武士の質と戦意を気にかけています。このような問いに対して石川六左衛門尉は、「各々の仰せに及ばず。あれ程若やぎて見えたる敵の、武者を持たぬことや候はんか。敵は武者を一倍持ちたりと申す」と織田勢を評価しています。ここでの駿河衆の懸念は、「敵は大勢出てきたようだが実戦闘員(武士を本業とする者)はどれ程いるのだろうか。大方は有象無象の農民に過ぎないのではないのか」と聞いているのです。これに対して、織田勢の兵容を身近に実見した石川六左衛門尉の答えは、「あれ程、若者が多く見え、武装がきらびやかにみえる敵なのですから、武士が少ないなどと言うことはあるはずがありません。それどころか、敵は我等と違って武士が大勢います」というものでしたから、その質の高さを窺わせます。つまり、織田軍は農民を掻き集めた武装の貧弱な農民兵などではなく、充実した実戦兵力=武士であったというのです。
もし現代の我々が、騎士は歩兵の一割程度であると見做しているものが、当時の武士にとっても軍役として常識であるならば、六佐衛門尉が「武士の数」から逆算して五千以上と見積もったことになります。このことは、信長の軍勢には騎乗身分の武士が五百人ほどもいたのが見て取れたことになり、『信長公記』に「究竟の度々の覚えの侍衆七、八百、甍を並べ御座候の間、御合戦に及びて、一度も不覚これなし」ということにも符合します。そして、その実数が三千であったということは、一般の戦国大名の軍勢に比べて、騎乗身分の者が格段の多かったか、徒歩でも長柄鑓や鉄砲・弓などの武装に優れた実戦力になる足軽が多かったことを表しているのだとも考えられるかも知れません。
というわけで、『三河物語』の記す信長の兵力は5,000に満たないものであったことは確実です。また、信長が2,000人程度ではあっても、その率いる軍勢の6〜700は馬廻などの実戦闘員であり、残りも足軽などのプロであったとも考えられます。
当時の戦国大名の軍勢では、総兵員の一割程度が実戦闘員であるといわれていたことを考えますと、桶狭間に義元本隊が8,000人程度でしかいなかったとすれば、その実戦闘員は多くても1,500人程度であり、そのうち、旗本300騎程度と見做されることになります。そのうえ、駿河勢が戦場から離れて帰還途中の大休止で、その多くが武装を解いていたと考えるならば、戦意も高揚している信長勢に対して駿河勢が敵し得ないのは当然ということにもなります。
ところで『武徳大成記』では、今川方の討死を驍士583、雑兵2,500としていますので、これから逆算してみますと、その総数は武士が全滅したと見做した場合には、少ない場合で6,000人 [583÷0.1=5,830] という兵数と試算できますし、武士を一割として軍隊が崩壊をきたす損耗率を三割と仮定しますならば、多い場合は10,000人 (583+2,500)÷0.3=10,276] と見積もることができますから、実際に義元が桶狭間に率いていた兵力は六千〜一万人の間にあるものと考えられます。
<行軍状況からみた兵力>
義元の行軍行程からみますと、彼が丸根砦や鷲津砦の攻撃を直接指揮している限り、その行動は砦が陥落した時刻の「辰の尅」に制限されることになります。同様に、『三河物語』が証言する「また長評定これ有けり」という記事と、信長の善照寺砦参陣時刻にも拘束されることがわかっています。そこで、これらを行軍速度で考えて兵力の推定ができないかを試みてみます。
一般に、戦国時代の軍勢に占める騎兵の割合は一割程度であるいわれますから、騎兵を一割と仮定した場合の単純モデルを考え、一千名の軍勢が騎兵は一列縦隊、歩兵は二列縦隊で行軍したと仮定した場合、その行軍長径は九百人で510mと百騎で670mの合計約1,180mの隊列になります。ここでは1m当り0.85人 [1,000人÷1,180m] が並んでいると仮定し、時速4kmで行軍したとしますと一時間当り約3,400人 [4,000×0.85人]、毎分約56.7人 [4,000×0.85人÷60分] になります。
- ところで、午前八時に丸根・鷲津の砦が陥落して、評定時間を30分とみますと、漆山で信長の後詰を阻もうとしていた義元が、陣地から撤退を始めて桶狭間山に到着できるのは、2.68kmを時速4kmで行軍した場合には、約40分後の午前9時10分ということになります。これから信長が参陣して義元を桶狭間山上に認める午前十時までの50分の間に、殿軍を除く駿河勢を桶狭間山に収容できたものと考えますと、約2,800人 [50分×56.7人/分=2,835人] と見積もることがでます。この他に殿軍の兵力を、千秋・佐々らの300人を一蹴できる兵力として三倍の兵力を仮定し、1,000人と考えます。それに、先鋒隊の朝比奈・松平・鵜殿勢らの先鋒隊3,000名も加算しますと、義元の総勢は7,000人と見做すことができるわけです。
- また、信長が中嶋砦を出発する時刻の午前11時48分までに、総勢を桶狭間山に収容していたと考えますと。延べ時間158分で行軍できる兵員は約9,000人[158分×56.7人/分≒8,959人] と見積もることができることになります。
この見積もりは、義元の評定が長引いたり、信長の行程の早い時刻を想定しますと駿河勢の兵数は少なくなり、義元の評定を短くし、信長の行程の遅い時刻に合わせますと駿河勢の兵数は多くなります。ですが、どの場合にも一万人を超えることはなさそうです。
さて、ここで問題があります。
義元が示威のために東海道を行軍すれば、織田方も敵の兵力をかなり的確に把握することができるということになるからです。信長が2,000名程度であるにも関わらず、義元勢に向かって行くことができたのは、敵軍が喧伝されているような大軍ではなかった事実を知ったからなのかも知れません。そして、目前に残った殿軍も前哨戦を戦った後に引上げて行ったのですから、目の前には敵兵がいなくなったのです。信長の演説は「まやかし」などではなかったのです。しかし、信長が率いる四倍以上の兵数差があることを知ったはずです。目前を通過して敵軍の実数を把握できたと考えられるのですから。
それなのに、『信長公記』に「今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり」とあるのは何故でしょうか。単に、義元側の宣伝をそのまま取り上げただけなのでしょうか。
まず第一に考えられることは、対戦する敵兵力を算定することは極めて難しいということがあります。特に、大軍を率いた場面を見ていないと、その感覚が掴めないはずです。そして、信長軍は戦国大名との実戦経験も浅く、二千を超える敵と戦った経験はほとんどないのです。小豆坂合戦にしたところで、山中での坂道での遭遇戦であり、敵軍が陣を構えているのを見てはいないのです。また、軍記物を信じたとしても、古参の武士ですら信秀が率いたであろう最高で八千程度の自軍の規模から類推するしかないわけです。
それに、『名将言行録』には、十三歳の武田信玄が山にした蛤の数を諸将に見積もらせて、皆が三倍から五倍もの見積もりをするのをみて、五千ほどの兵を持てば、何をするにも思いのままだと言ったと伝えますし、上杉謙信は自ら「精鋭八千があればいかなる敵もなし」と言っていたということは、そう言う事情もあるからだとも思えます。恐らく、三千あたりまでは見積もれても、五千以上は”大勢”としか言えなかったのではないでしょうか。普通の武士は見たこともないでしょうし、大軍同士が会戦を行うことなどなかったのですし、律令制を離れてからの日本の軍隊は欧州の軍制と違って、規則正しい隊伍などを組んでいませんでしたから、敵軍の兵数の見積もりは極めて困難であったはずです。
取敢えずは、目前の軍勢だけではあるはずがないと牛一は思っていたのだろうとして置きましょう。大田牛一は『信長公記』に四万五千と書くのですから、現在は信用できないものとされていますが、その他を全て信じてこれだけは信じられないというのは戴けません。それなりに証明しなければならないと思います。そこで、善照寺砦の牛一が、実際に見たとしたならば、彼の目の前にはどのような光景が広がっていたのかを考えてみます。
善照寺砦は標高21mだそうですから、単純に考えて、手前の丘陵に遮られた桶狭間山は、21mより上の部分しかみえません。地図をみますと、手前の丘陵も標高は50mほどもありますから、桶狭間山の見える部分はそれより上の部分の少しばかりです。そうしますと、駿河勢の大部分は織田勢からは見えなかったはずです。少なくとも、当日の今川義元が沓掛城から出陣している限り、織田方はその全容を知ることはできなかったはずです。ここでは、諜報とか斥候とかで知りえたという議論はしません。では、桶狭間山の前面の丘陵にも駿河勢が陣取っていたとしたならばどうでしょうか。前面というのは、現在の高根〜幕山とその後の生山〜武侍です。これらの丘陵上に鈴なりになっていたならば、善照寺砦の織田勢は、駿河勢の兵力が触れ込み通りの45,000を信じたかもしれません。
一方、小生が主張している仮説の「義元は大高城からの帰り」であった場合には、その目前を行軍する駿河勢を見たはずですが、本当に四万五千も見たのでしょうか。牛一を始めとした織田勢には、義元は大軍という固定観念がありますから、二道併進したと、織田方が考えたとしますと、さらに八千〜一万六千を上乗せして考えますから、一万七千〜三万三千とみなしたのかもしれません。二道併進の一道は、大高〜緒川道で大脇村や横根村を経て、西三河に帰ることができます。まだあります。桶狭間山には二日前から駿河勢の先遣隊が布陣していたらしく、義元本陣を設営して待っていたと考えられますから、この人数を加算できます。それでも、四万五千には足りませんが、目の前を一万人に近い軍隊が通るのを目にしたならば、その全容を過大に評価したのかもしれません。
因みに、桶狭間村には、十七日から瀬名陣地があったらしいです。『桶狭間の戦い』や『豊明市史』を拾い漁りますと、『伊勢法師物語』には、「去程に17日に本陣は池鯉鮒表へ押し寄せ、桶狭間に陣を居へられたり」とあり、『改正三河後風土記』には、「去程に17日には池鯉鮒に押寄せ桶狭間に着陣あり」とされ、『三河国郡志』には、「17日に池鯉鮒表へ押し寄せ、桶狭間に陣を取り知多郡に働き、處々に火を放つ」とも見えます。さらに、総見記によれば、義元は17日に本陣を池鯉鮒へ押出し鳴海表桶狭間に陣して、それより知多郡一辺に働き在々所々を放火し作毛を薙ぎ捨て、18日沓掛へ発向とあります。
<ランチェスターの法則からみた兵力>
足軽が戦争に出現したということは、軍事的には消耗戦(総力戦)が始まったということです。消耗戦とは戦いが継続して続くということですから、ランチェスターの第二法則が支配することになります。この法則は、武器の性能が同じであれば、必ず兵力数の多い方が勝つ」ということになる英国人ランチェスターが第一次大戦における飛行機の損害状況を調べて得た法則です。
ランチェスターの第二法則とは、確率戦闘の法則ともいいまして軍隊の力は「規模」に比例するのではなく「規模の二乗」に比例するというものです。そこから、必要な兵力差を導き出したうえで経験に照らして、局地戦で√8の解が2.8で約3倍、大規模な戦争で√3の解が約1.7で約二倍という兵力数の比で大きく差が出るとされています。これがいわゆる三倍の法則です。
桶狭間合戦の場合は局地戦ですから、√8の解の2.83倍を当てはめますと、織田勢2,000人に対して駿河勢は5,660人ですから、少なくとも約6,000人程度であったと考えることができます。
<本当のところは?>
本題はここからです。やっぱり、駿河勢が大軍であっては、信長が挑戦するのに説明ができません。程度というものがあります。信長が二千の軍勢で、兵力に勝る敵に挑もうとする理由を探します。文学者や哲学者のような推理はしません。それを始めると何でもありになってしまうからです。やっぱり、兵力しかありません。と、いうことは、義元の兵力が四万五千というのは、「とんでもない」数字であるということしか考えられません。または、信長の二千がウソだということです。
さて、どちらを採るべきでしょうか。
では、信長の兵力が二千などではなく、義元の率いる兵力に匹敵するような一万五千もあったとしたならば、何か問題があるでしょうか。その場合のまず第一の問題は、義元が先備を配置するばかりで、全面的に迎撃する位置に展開した事実がないことがあります。信長が自軍に匹敵するような大軍であるにもかかわらずです。考えられないことです。信長が山際に至るまでは雨は降っていませんから、信長が続々と善照寺砦のある丘から、東海道を行軍しているのが丸見えのはずですから、即座に本陣の兵を迎撃体制に展開するはずです。謡などは即中止です。
具体的には、どのように展開すればよいかといいますと、狭間の中を通る東海道の両側の丘の上に、兵を前進させて配置するのです。敵の信長軍は行軍隊形で前進してこざるを得ませんから、まさに袋の鼠にできるのです。それなのに、義元勢は信長が山際まできても傍観しています。これは、信長軍が本当に二千人ぐらいしかいなかったのが見えていたから、舐めてかかったものと考えるのが適当なのでしょう。やはり、義元が信長が山際まで近づいても動じなかったのは、信長の兵力が格段に少なかったからだと解釈するべきだと思います。すると、義元が慌てず、二千人の信長が挑戦しようと思う駿河勢の兵力とはどの程度に見積もればよいでしょうか。
義元が慌てたりすることなく、二千人の信長が挑戦しようと決心できる駿河勢の兵力についてです。
「質」です。「量」で今川義元が安心し、「質」で織田信長が挑戦できたのです。その結果、「質」と「量」が「等価」になったと考えるのです。「質」=「量」ということです。
信長は、「(前日の)宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、疲れたる武者なり。こなたは新手なり」と言っています。まだあります。『三河物語』です。これは、駿河方の陣営の様子ですから、説得力があります。そこには、「各々の仰せに及ばず。あれ程若やぎて見えたる敵の、武者を持たぬことや候はんか。敵は武者を一倍持ちたりと申す」とあります。「若やぎて見える」とは、文字通り若武者が多く戦意旺盛で武装が「きらびやか」であるということですから、豪華で金が費やされており頑丈な甲冑だということだと思います。
駿河勢の武将が、「武者を持ちたるか」と聞いたことは重要です。これは、「敵(織田勢)の人数の内には、どれ程の乗馬身分の武士がいると思う」と尋ねているのです。出現した信長勢があまりにも「若やぎて」いたために、思わず目を疑ったのです。「若やぎて」とは、将兵の軍装が立派で長柄の武器が充実していることです。これが、なぜ重要かといいますと、当時の軍隊の一般的な構成は、乗馬身分の者は一割程度しかいなかったと見做されているからです。当時の軍勢は国人衆の寄せ集めであるうえ、彼等の兵士も農民を徴集したものでありましたから「実戦力」として役に立つか否かは大きな関心事であったと思います。すなわち、武士ではなく雑人ばかりを飾り立てただけではないかと、駿河勢の武将は思ったというわけです。
因みに、戦国時代の軍隊は「旗持ち」が極めて大勢備えているのです。近代の軍隊が部隊の軍旗一流を捧持して戦っているのとはわけが違う数の旗が戦場に閃いていたのです。彼等も刀を二本差していますが、旗を捨てて戦ったりはしません。旗の数と掲げようで敵を威圧しようとしていたのです。だから、旗を立てる・旗を揚げる・旗色が悪い・旗を巻く・旗をしぼるなどと言い、勢威を示すために多数の旗が用いられるようになっていました。
『落穂集』という江戸初期の逸話や聞書を集めたものによれば、15%程度が武士で、あとは農民・下人であったといいます。小和田哲男氏も『桶狭間の戦い』で、武士は一割ぐらいで九割は農民が陣夫として動員されたものであったとされています。
このことから推測して、「質」=「量」であるためには、極端な場合には信長軍が二千であれば義元軍の二万人と吊り合いがとれるわけです。信長勢の半分が実戦力であったとした場合には、義元勢は一万人ぐらいだと思えます。これは、先だつ十七日に東海道を行軍した場合の試算兵力にも合致します。約九千人です。二道併進したとしますと一万七千人になりますが、こちらの部隊は真直ぐ西三河に帰ったと見做しておきましょう。でないと、複雑になってしまいますから。それに、そうした方が朝比奈らの重臣が、合戦の時にいなかったことになって、都合がよいのです。実戦力が、信長一千人で駿河勢が九百人です。それでも、義元がしっかり陣立てして対陣したならば、義元が大勝したものと思います。やはり数は数(力)だからです。
山城道三と信長御参会の条には、「御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、(鑓の者に)三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄炮五百挺持たせられ」とあります。三郎五郎殿御謀叛の条にも、「ケ様に(身内にも叛かれて)攻め(るのは信長公ただ)、一仁(人)に御成り候へども、(信長公には)究竟の度々の覚えの侍衆(が)七、八百、甍を並べ御座候の間、御合戦に及びて、一度も不覚これなし」とあります。つまり、信長の実戦力は七、八百ほどもいたと思われますから、それをみても義元や駿河勢が動じないでいられ、信長が勝算を期待できた義元の兵力は七千人程度であり一万を超えることはなかったのではないかと思うのです。そして、駿河勢は合戦を終えて帰り心がついており、乱取に出かけたい気持ちが強かったでしょうから、士気は極端に落ちていたものと考えられます。信長は、それを義元陣営の旗色に見たのでしょう。






