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雹亞 2008/06/16(月) 23:32 HP
すみません(;>ェ<)
218.219.109.217

六人衆の話は、いつの時期のことか
竹内元一 2008/05/31(土) 13:18

「かぎや」さんに、お尋ねしたいことがあります。

 「信長公記・首巻」の「今川義元討死の事」の二項前に「六人衆と云う事」というのがあります。これは、いつの時期の話か、お尋ねしたいと思います。

 濱田昭生氏が「桶狭間の戦い」(東洋出版)で、指摘されていることなのですが、六人衆の中で、弓衆として、太田牛一と一緒に名前が上がっている堀田孫七は「織田信長家臣人名辞典」によれば、1550年生まれとなっています。

 この生年が正しいとすると、1560年の桶狭間合戦の年には、堀田孫七は、まだ10歳ですので、合戦に参加していないと考えられます。矢沢という僧が、信玄に、この六人衆の話をした時期は、桶狭間合戦から数年以上後のことである、と考えて間違いないでしょうか。

 それとも、この堀田孫七の生年データには、疑念があるでしょうか。

 よろしく、お願いいたします。

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お見舞い
竹内元一 2008/05/31(土) 19:55

[「かぎや」さん
お怪我をされたとのこと。
お見舞い申しあげます。
早い復帰を期待いたしております。

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RE:六人衆の話は、いつの時期のことか
かぎや散人 2008/05/31(土) 14:51

竹内さんこんにちは

御訪ねの件については、まだ調べたことはありません。申し訳ありませんが、御期待には添いかねます。

小生も、信長の軍事組織がつくられていく過程で、専門職の編成という考え方や、専門家にプライドを持たせるという経営力などが何時うまれて、どのように変遷したかには興味がありますので、いろいろ教えていただければ幸いです。

追伸 : 本日、怪我をしてしまいましたの、当分PCの前に座れないかもしれません。今後、返信が滞るかもしれませんが、勘弁してください。

 

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RE:戦況図について
かぎや散人 2008/05/29(木) 11:54

竹内さんこんにちは

大変興味を惹かれます。その布陣図には、桶狭間の戦いを考えるうえでの多くのヒントがあるように思えるからです。

竹内さんは、郷土史家・梶野渡氏が具体的な義元の布陣図を提案されていて、それについては氏の著作以外に有松商工会議所のHP「有松人−戦人」でみることができますが、既にご覧になられましたでしょうか?

小生は、梶野氏の布陣図には高根・幕山に先備えが布陣したという以外は懐疑的なのですが、現在ではこの提案がもっとも具体的なものです。ただし、その辺りから戦闘を示す痕跡は地名以外には発見されてはおりません。

ところで、布陣図を提案するには、その前提として当時の地形図を確定することが必要です。

無い道は行軍できませんし、川はどこでも越せるわけではありません。山も全てが禿山というわけではないでしょうから、人馬が移動するには困難が伴います。池沼があれば迂回しなければなりません。信長が通れて駿河勢は通れないというような設定はできませんから、当然そこを遮る兵力を配備したはずです。

現在提示されている戦況図の全てに共通して言えることは、東海道の重要性を蔑ろにして、信長がそこを進撃してくだろうことを想定した駿河軍の配備を義元にさせていないことにあります。そして、当時は存在しなかっただろう道路を、義元にも信長にも千秋・佐々・前田らにも踏破させているのです。軍隊の踏破能力を軽視することはできませんが、それでもできる限り通りやすいところを進撃させるのでなければ非現実的です。

ですから、先ずは竹内さんの当時の桶狭間近辺の地形についての考え方について、小生のHPでの理解についての批判で構いませんから、それを教えていただければ幸いです。

現在あるものが無く、無いものがあるのであれば、自ずと両軍の兵力と作戦目的に従って布陣の仕方が決まってくると思われるからです。

よろしくお願いします。

 

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RE:RE:戦況図について
竹内元一 2008/05/31(土) 10:45

「かぎや」さん、こんにちは。

 正直言いますと、前回の書き込みは、知ったかぶりして、書きましたが、案の定、ボロが出ましたね。

 言い訳になってしまいますが、私は「歴史好き」ではありますが、素人で、ちゃんと史料を読んでいるわけではありません。桶狭間合戦に関しては、「信長公記」(現代語訳)は読みましたが、あなたのように数多くの史料を読んでいるわけではありません。

 「沓掛峠」についても、ちゃんと文献を調べたわけではなく、梶野渡氏にお聞きしたところ「旧街道の道が今も残る二村山の峠のことだろう」と教えられ、地元の人が言うのだから間違いなかろうと思っていました。

 ただ、なぜ、太田牛一は、桶狭間の戦場から離れた場所の峠の下の楠木が倒れた話を、戦闘開始の場面に、入れたのか、疑問に思っていました。
 苦し紛れの私の解釈は、毛利新介の記述の後にも、後日談を挿入しているので、倒れた楠木の話も、後日談の挿入ではないか、というものでした。

 前から思っていたのですが、あなたと異説を唱える論客(たとえば、藤本正行氏、藤井尚夫氏など)との論戦を、益々聞いてみたくなりました。
 実現の可能性はないでしょうか。

竹内

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RE:RE:戦況図について
かぎや散人 2008/05/30(金) 07:51

竹内さん お早うございます。

大変詳細な研究を重ねていらしいたらしく、ご意見を尊重したいと思います。

おしゃられるように、大正9年図は使いやすいのはたしかですが、できれば明治24年図を使うべきだと思って、小生は24年版を使っています。理由は、ヴィジュアルな印象は強烈ですから、些細な違いが牢固とした思い込みを植え付けてしまい、変更・訂正がし難いですから、できるだけ昔のものが良いと思うからです。既存の地形図の等高線だけを使用できればベターだと考えています。

小生は、東海道が軍隊の行軍に使用できるほど整備されていたなどとは書いていませんし、軍隊の行軍に使用されるようになったのは、信長が街道整備をした後のことであろうと明確に書いたつもりです。小生の意図が伝わらないようですから、当該文章から誤解を受けないような書き方に変えるようにしたいと思います。また、小生が「東海道は、合戦当時には、かなり整備されていた」というのは、皆さんが思われているよりも利用頻度が高まっていたはずだろうということでして、その裏付けが中島に小村が出現していることであると、書いたはずです。

小生の趣旨は、皆さんが信長軍に対しては、いとも簡単に「道のない山中を山越えたり、谷越えをさせる」のに、もっとしっかりした「道」であったはずの現東海道を無視してはいけないだろうと言いたいのです。

竹内さんは、「沓掛峠は二村山の峠を指すと考えるのが妥当だ」といわれますが、文献上はそのように呼ばれたことは、今日までも一度もないようです。また、「そのあたりにも織田の兵士がいたのか、清洲への帰り道に見た倒れた木の話を載せたのかもしれない。」ということについては、『信長公記』の取扱の問題になり見過ごせません。

小生は、藤本正行氏の先行研究を尊重しますが、彼によると「牛一の記述は常に信長がいた場所からの景観になっている」としています。牛一が、全ての場面にいたわけではないことは当然です。ですが、だからといって、都合の悪いところは無視するということはできませんから、峠の松は信長が居た場所から見えたとして考察するところから、出発すべきだと思います。

ことほど左様に、夫々の見解は違うのですから、一枚の布陣図には多くの注釈が必要ですし、たった一つの不都合の指摘で無意味なものなる恐れも大きいものです。そして、それ以上に問題なのは、絵図は人に与える印象が強すぎて、作者の意図に関係なく一人歩きしてしまうことです。

そういうわけで、小生は布陣図を描くための必須条件について、『信長公記』に矛盾ないかを一つ一つ検証しているつもりなので、竹内さんの布陣図の前提になっている細部の意見をお聞かせねがえれば幸いです。

 

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RE:RE:戦況図について
竹内元一 2008/05/29(木) 21:20

梶野渡氏の布陣図は、承知しています。
彼が講演テキストに使っている「桶狭間合戦始末記」
に載っている当時の街道図も知っています。

梶野渡氏からは、直接説明をお聞きしたこともありますし、
彼の考える信長の進撃ルートを、一緒に現地で案内してもらったこともあります。
私なりに、彼の考え方は、理解しているつもりです。

また、郷土史家・海福三千雄氏(故人)が、「郷土文化」に
(昭和50年代に)載せた「合戦当時の街道図」も承知しています。

国会図書館で、入手できる鳴海地区の地形図で、最も古いものは
明治24年の測図です。私は、次に古い大正9年測図の方が、
丘の標高も詳しく記載しているので、実感がわきやすいので
こちらを使用しています。

現在の地形図と比べると、昭和40年代から始まった宅地開発が
地形を変えていった様子が想像できます。
肝心の「桶狭間山(標高64.9mだった丘)」も、
現在は、山頂だった部分は、10〜15m削られてしまったようです。

近代的な測量技法で計測された最古の地形図(明治24年)から、
1560年当時の道筋を想像するのは、非常に困難で、
厳密な検証は不可能でしょう。

「かぎや」さんの説で、疑問を感じているのは
「東海道は、合戦当時には、かなり整備されていた」
というところです。

有松では、今年2008年、開村400年という観光イベントを
やっているようです。つまり、1608年に、有松村という村落が
できたようで、道の整備は、その何年か前からあったかもしれませんが、
合戦のあった50年も前の1560年当時は、手越川沿いに間道が
あっただけではないか、と想像しています。

ご承知かもしれませんが、当時の東海道は、今は「鎌倉往還」と呼ばれている
二村山から相原・鳴海へ抜ける旧道を指していました。

余談ですが、「信長公記」に記述がある「沓掛峠」とは、この二村山の峠を指す、
と考えるのが妥当だと思います。
そのあたりにも、織田の兵士がいたのか、清洲への帰り道に見た倒れた木の
話を載せたのかもしれません。

これも余談ですが、私は、太田牛一は、この合戦に参加していなかったと
みています。彼が、信長の側近に取り立てられたのは、永禄11年と
考えています。

竹内

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陣配置図つくりました
竹内元一 2008/05/29(木) 00:28

地形図(大正九年測図)に重ねて、陣配置図を何枚か作ってみました。ご参考までにお送りしますので、送り先のアドレスで、私宛にメールしてください。
なお、この項は、用済み次第、削除します。
よろしく、お願いします。

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大高の西三砦で何があったのか?
竹内元一 2008/05/24(土) 09:03

大高城を囲む砦のうち、西側の三砦(正光寺、向山、氷上山)は、合戦当日は、機能していなかったようですが、何があったのでしょうか?
向山砦には、水野信元がいたらしいのですが、緒川城に戻ったようですね。正光寺砦、氷上山砦にいたらしい佐々と千秋は、中島砦前方での前哨戦で討ち死にしていますね。
「大高の価値」の項を読めばわかるのかもしれないのですが、長文で難解なので、ちゃんと読んでません。要点を教えていただけると助かります。
よろしく、お願いします。

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RE:大高南側の砦について
かぎや散人 2008/05/24(土) 15:16

氷上・正光寺・向山の砦は、史実として認められているものではありません。ただし、これら(向山砦を除く)がなければ、大高城は封鎖させれて餓えたりはしなかったろうと思われますから、存在した可能性は大きいと思います。向山砦だけは大高城に近すぎますから、攻め手の付城なのか、大高城の出丸なのか、本当に攻囲戦に使われたものかははっきりしません。また、その砦の守将についても藤井尚久氏が勝手に推測されているだけでして、裏付けはなにもないと思います。どのようなストーリーが最も納得できるかだけの問題です。

小生は、これらの付城に将兵がいたとしたならば、合戦前日までに砦から退去していたものと思っています。

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