<冠水説>
<駿河勢が信長を襲撃できない事情>
鷲津砦がある山上に駿河勢が存在した場合に、東海道を桶狭間に前進する信長勢を攻撃できなかったことには「避けられない理由」があるという主張には、小和田氏の冠水説および陽動説、八切氏の裏切り説、明石氏の偽文書説などがあります。
ここではまず小和田氏の戦場冠水説を取り上げます。
小和田氏は、その著『桶狭間の戦い』で、朝比奈備中守の先鋒隊は、おりから降り続いた雨のせいで道路が冠水し、前之輪を経て中島砦方面には行けなかったとし、「何せ、信長軍が中島砦に入っていく様子は、丸根砦・鷲巣砦からも望見できたからである。(中略)中島砦と丸根砦の間が泥沼となっていたため、攻撃をしかけられなかったのではなかったかと考えた。(中略)折から降り続いた雨で川の水かさが増し、周囲の水田が湖のようになってしまっていたと考えられるのである。(中略)信長は、諜報部隊からその事実の報告を受けていたのであろう。中島砦に進んでも、丸根砦・鷲津砦から攻撃されることはないという確信を得ていたのである」と主張されています。
確かに、当日は暦のうえでは梅雨ですが、当日やその前後に雨が降り続いたと記す史料はありません。また、冠水したという軍記物もないのです。
『名古屋市史第二巻』が、『定光寺年代記』などには弘治三年(1557)夏の大旱から天正十三年(1585)の大地震までは記録がなく不明であるとしています。しかし、永禄三年の七月と八月には京都に大風があったことが伝えられており、当時は頻繁に天災がありましたから、梅雨による冠水がなかったとは言えないのも事実です。しかし、軍事行動を左右するような合戦当日の天候については、『信長公記』や『三河物語』を始めとした史料が一切伝えていません。
ただ、作家の新田次郎氏は、その『梅雨将軍信長』で、一か月ほど続いていて、尾三国境の河川は氾濫していたという梅雨の最中に、平手左京亮が合戦前日に「今日は豪雨で降あるが、明日の午後には晴れる」というのを聞いた織田信長が、それを信じて熱田から降り始めた豪雨の中を桶狭間に進撃して、今川義元を破ったと言われています。しかし、これは飽くまで小説のことです。まず、「尾三国境の河川は氾濫していたという梅雨の最中」であったという想定を否定するのが『信長公記』です。そこではただ、「大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、塩の満ち干を堪が(考)へ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由」とあり、潮の満干を言うだけです。
そもそも、河川が氾濫していればもとより、瀬戸内地方のように山が海に迫っていて河川が短小急勾配でなければ、雨が止んだとしても増水した水位はそう簡単にひくものでもなく、浜手の道などは通行不能なはずですのに、最前線の佐久間大学、織田玄蕃らは潮汐を心配しているのです。冠水により後詰が不能であるなどとは、信長に少しも訴えておりませんし、その注進は干潮であれば星崎から後詰に渡河できることを想定しているようにも受け取れる内容です。
また、史料価値には欠けますが、『武功夜話』などは、「御大将・治部少輔の通過する村長の藤左衛門始め一同は土下座して待ち受けたが、ここ数日来の暑気が厳しく」と記しています。つまり、季節は梅雨であろうとも「空梅雨」であった可能性のほうが大きいのです。このように唐突に、道路や戦場が冠水するような天候を仮説として掲げるのは問題が多すぎます。
また、尾張は大小の河川が集まる一大沖積低地です。なかなか開発が進まなかった地域なのです。ですから、梅雨で雨天が続けば、鳴海付近だけが冠水するなどということは、まず考えられません。天白川ハザードマップを参照してもらえればよく解ると思います。
百歩譲って、中島砦と鷲津砦の間が泥沼化していたとしても、南関山から丘をこえて、平部山を経て手越川の左岸を通り鳴海の中島へ出る小川道は冠水するわけではないでしょうから、朝比奈勢にとって、東海道を行軍する信長を攻撃するのに何等支障はありません。小和田氏は冠水するような事態になったのは、当日の突然の集中豪雨によってであると言われるかもしれないのですが、それでも突然の豪雨は信長勢が山際についてからのことですから、それまで呆然と見逃してきた理由にはなりません。朝比奈勢は、長く伸びた織田軍の行軍最中をこそ衝くべきだったのですから。
それどころか、信長軍は道なき山中を迂回できたり、増水していたはずの黒末川を押し渡り中島砦へ移ったり、丸根・鷲津からの伝令が清洲に到着していたりできるとするのです。朝比奈勢だけが東海道を行軍する信長勢を襲える位置に進出できなかったなどと言うことは納得できません。
<小川(緒川)道>
小和田氏の冠水説が見逃していることに、「鷲津砦のある山」を越える道があります。
当時から主要な地方道として、緒川から鳴海に通じる道としてあったという事実があるのです。この道があれば、鳴海城と「鷲津砦のある山」の間は、平地の冠水には関係なく、鷲津・丸根から東海道と連絡するのです。

因みに、『緑区の歴史』では、桶狭間合戦の前の永正年間頃から、「平部山(諏訪神社のある山)の緒川道の人家が東海道ぞいに引っ越して、今の鳴海町平部の町並みを作った」としていますから、東海道が街道として、既に機能し始めていたらしいことも感じるぐらいなのです。
ただし、大軍が通行するようになるのはまだ後のことです。天正十二年(1584)の小牧長久手合戦のときの徳川軍は、八日に矢作、九日に阿野、十日に鳴海と進んでいることが『家忠日記』からわかるため、この頃には大軍が通行できるような東海道に整備されていたらしいことが分かるといわれています。この整備が行われたのは、天正二年から信長によって行われた尾張国中の道路整備の際に実施されたものと考えられています。
また、『大高町誌』も「大高の小字に小川道というところがある。これは緒川が知多郡で重要な地位を占めていた古い時代に、鳴海から緒川に通ずる道路の経過地点であったようで、字南関山から丘を登って平部山越に鳴海の中島へ出る道である。現在の諏訪山は、昔は平部山と呼ばれ、この街道沿いに集落があったと伝えられる」としています。このようなわけで、小川道のような山越えの道がある限り、冠水説は成り立たないはずです。
桶狭間の戦いを考えるにあたっては、「道」もまた多くの人にその存在を無視されています。
ところで、善照寺砦を攻略して鳴海城を開放する場合を考えてみますと、山際を通る鎌倉街道とその南にある黒末川の間には六田(六条)という条里制の地割があり、古くから水田がひらかれていて良い田とされていた深田があります。これは、南側からは攻撃し難いことを示しています。冠水などしていようものなら尚更です。従って、善照寺砦を攻めるには、東側か北側にあたる丘陵地の朝日出方面から攻める必要があるのです。『信長公記』には、「脇は深田の足入り」とあり中島へ至る道も深田の中を通っていたことが記されています。
このようですから、義元が大高に行く場合でもその帰りでも、鳴海城を救援することなどは予定していなかったことが分かります。それをするなら、小坂で黒末川を渡って東から行くに違いないのです。
<路上奔流説>
もう一つ、冠水説に似たものに、信長が山際に到着してから後に、集中豪雨により道路が川のようになったため、駿河勢が信長を追尾できなかったというものがあります。NHKの『歴史への招待27』がそれです。
そこでは、鷲津砦に朝比奈勢がいることを想定していますから、桶狭間合戦での信長の強襲が成功するためには、彼等に背後を衝かれないことを条件にあげており、「雨を予想し、(中略)信長はまず全軍を義元の本陣に近く、しかも出水の影響を受けない山の際まで進める。そこに待望の雨。(駿河勢は皆、丘々の頂上に陣取っていたため、海の中の島々に分散していたように互いに孤立しており、)信長軍の背後を衝くべく丘を下った今川軍主力は、湿地に足をとられ身動きがとれなくなる。義元は本隊のみで応戦、ついに討ち死にする」という仮説を提示しています。
しかし、この説には局地的な集中豪雨の予測を塩田技術者から仕入れたとする無理があります。移動速度が大きい寒冷前線による、強い雨が短時間に降るという特徴をもつ局地的な集中豪雨の予測は現代でも困難です。竜巻、ダウンバーストなどの発生も予測は困難です。
現代のゲリラ雨などは、晴天の空に突然雷雲が成長することで有名ですが、それを星崎の塩田業者が観天望気で予知したとしても、何時間も前にその規模や発生場所を言い当てることはまずできないと思われます。ましてや、如何に梅雨将軍と信長が呼ばれようと、その雨が駿河勢を足止めできるほどの豪雨であると予知することなどは、不可能であるとする方が妥当だと思います。
もう一つは、夕立の場合が考えられます。これならば十分に予測が可能ですし、入道雲が「金床雲」に発達すると局地的な集中豪雨を引起すこともあります。このような夕立の場合ならば、何も予想するのに製塩業者を持ち出す必要もありません。それでも、信長が塩田業者の観天望気によって予知できたとして、その情報を信長が仕入れることができる可能性のあるのは、御前八時の熱田においてか、又は午前十時頃の丹下砦や善照寺砦に参陣してのことになると思います。
そして、その時の信長は、突如積乱雲が桶狭間山の上空に発生し、大きく育ちつつあったのを遥かにみたことになり、それが信長が山際に到着したときに金床雲となって局地的集中豪雨をもたらしたということになるわけです。その場合でも、実際に豪雨が降出したのは正午過ぎ頃であり、止んだのは午後二時頃なのです。このことは、また次の問題を提起します。
降雨前の四時間の内に、千秋・佐々らと駿河勢の小競り合いがありましたし、その駿河勢が引揚げずに鳴海表にい続けたり、また最近では黒田日出男氏が駿河勢が乱取に精を出していたといいますから、その間に義元本隊が中嶋表に進出して来たりしたならば、この仮説は全ったく成り立たなくなってしまいます。つまり、沓掛から大高にたった11km程度を移動するだけの今川義元が、桶狭間山で昼食をとるほど遅い時間に出発するなどということを前提にして計画をたてること自体が合理的ではないのです。
これを思いますと、例え局地的豪雨を予測できたとしても、攻撃計画に組み入れること自体が合理的ではないことがわかります。敵は、自分の思うようには行動してくれるとは限らないからです。
ところで、一般に雷雲ができるには夕方までかかるので、夕立は午後五時ごろに一番多くなるそうですから比較的予測がつきやすそうです。昼に降っても夕立ちというそうですが、『信長公記』によると雨があがったのが午後二時ごろなのです。そしてそれは、当時の軍事常識からいうと戦闘を開始する時間ではないのです。従って、信長が計画的に夕立ちを利用したとすると、当初は夕方に攻撃を予定していたことになりますし、その場合には義元はとっくに大高城に入場していたでしょうから、まともな作戦計画とはいえないでしょう。
それよりも問題なのは、朝比奈勢に「雨が降る前に信長攻撃を行う」ことを躊躇させることができないことです。なぜ、わざわざ雨が降るまで待つ必要があるのでしょう。『信長公記』によれば雨が降り始めたのは信長勢が山際に終結した後なのです。鷲津にいた朝比奈勢としては、東海道を行軍中で長く伸びた織田軍を衝くべきだったのです。終結して態勢を整えないうちに攻撃するのが兵法の常道でしょう。それなのに、それをしなかったのです。それなのに、それを武者道不覚悟として非難されていないのです。
これは、朝比奈勢が鷲津辺りにはすでに存在しなかったことを窺わせます。
<鳴海〜大高の地勢と冠水について>
往古の大高は、和名抄に云うところの鳴海郷の一部であり愛知郡に属しており、前之輪は鳴海村の枝郷でしたから、鳴海と大高の間は往来がありました。また大高と鳴海の間は沖積低地で室町時代以前から開拓されており、鳴海村の水田であったと考えられるので、冠水などがなくても、そもそも大規模な戦場にはなり得ないのではないかと疑われます。
大高と鳴海の間では、大高方面から鳴海に向かう主要な道には次のようなものがありましたが、これらの道は何れも多少の雨で、通行不能になったとは思えません。
- 鷲津山西麓の前之輪から丸内を経て善明寺から車路橋で手越川を渡り、東海道の下中へ出て中島橋で黒末川を渡る街道があります。これは黒末川が運んだ砂堆にできた道であり善明寺には墓地があるのですが、その余はまわりの水田より高くなっていますから畑であったと考えられています。
- 前之庵から真っ直ぐ北に上汐田を抜けて黒末川で渡し船を利用し作町に通じる道があります。
- 大高から鷲巣山の西麓を廻り、前之輪から青山の麓の山腰を経て諏訪山の麓を巡って、漆山の北で小川道に合する道があります。
- 小川道は、水野信元の緒川城方面から半島を横断する地峡を通って大高へ通じる街道から分かれて、南関山から山腰に平部山を超えて鳴海宿に向かうものです。
ここで、名古屋市消防局が平成5年5月に発行した『天白川洪水ハザードマップ』(国土交通省にリンク先を変更しました)を参照します。すると、黒末川以南で大高との間では2mをこえる浸水域は予想されていません。それだけの標高があるということです。2mをこえる浸水域というのは、丹下辺りから鳴海城下までの東海道と善照寺砦南の六田辺りが冠水するだけなのです。このことは、北から来襲する織田勢に対して困難をもたらすだけであり、駿河勢の軍事行動を拘束するものにはならないことを意味しています。
これを、1m以上の浸水地域に広げてみてみますと、中島から曽根辺りの手越川の両岸、黒末川河口付近は一面冠水する状況になりますから、この場合の信長は旧参謀本部の言うように、相原郷から山中に迂回しなければ桶狭間には行けないことが分かります。しかしそのような状況にあっても諏訪山の北にある母呂後辺りは、冠水しないこともわかります。これらのことは、まさに『信長公記』のいう善照寺砦から中島砦へ至る道は、深田の中を通る一本道の難所であることを証明しています。それに、中島砦の回りが冠水しても、「鷲津砦のある山」の裾は冠水することがなく、充分に軍勢は移動ができたということも判ります。
さらに50cm以上の浸水域に範囲を広げてみた場合には、大高川も氾濫し丸根から鷲津にかけてと、大高城の北から東へかけても冠水してしまうことになります。この場合には、元康による大高城への兵糧入れも困難になり、南の木ノ山からの道しか使えなくなり、丸根・鷲津の山麓も冠水しており、ここを攻めるにも北側の山側からしか攻められなくなるのです。
このような冠水が、織田勢をどのような面で不利にするかということについては、次のようなことなどが考えられます。
- まず、鷲津・丸根砦を防御する織田勢は、周囲の低地が浸水によって逃げ場がなくなってしまいます。
- 駿河勢による大高城への兵糧搬入を阻止することが、丸根以西で大高〜緒川道が道路冠水してしまうために使用でき難くなります。
- 駿河勢が平部山に布陣すると、中島砦の周囲が冠水して通行できないので、清須からの後詰に支障をきたすことになります。黒末川の上流の小坂辺りでしか渡河できなくなるからです。
- それどころか、信長が汐の干満を考えて通ったといわれる「上の道」辺りは最も低地であって、冠水の影響が及ぶ場所であり、信長は善照寺砦にさえ行けなかったことになります。 (2007.7.15)
一方の駿河勢に対しての影響は、以下のようなものです。
- 丸根や鷲津の砦攻略には、それらの背後に続く山からしか攻撃ができなくなります。
- 大高城への兵糧入れも、南の木ノ山からでなければならず、丸根砦の下の緒川〜大高道を通れなくなります。
- 砦攻略後に中島砦表へ出るのには、前之輪を通る道が使えなくなり小川道の一本だけになります。
以上のことから、冠水による不利益は、信長方の方が大きいと考えられるのです。
つまり、突然の豪雨は信長が山際に勢揃いした後に降りだしたのですから、朝比奈勢が鷲津辺りにいたとしたならば、二千程度の兵力しかない信長勢を襲撃しないわけがないのです。そして、それはなされませんでしたし、そのことを非難されることはありませんでした。これは、朝比奈勢が鷲津辺りにはいなかったことを窺わせます。
また、豪雨による冠水であれ奔流であれ、朝比奈勢を足止めするよりも、信長の進撃を困難にする度合の方が大きいということがありますから、朝比奈勢がそのような事態に陥るまで指をくわえて傍観していたと信じるにたる証拠はありません。これも、朝比奈備中守らが後世で非難されていないことからも確かなことです。これらのことから導かれる最も合理的な結論は、合戦当日の早朝から丸根・鷲津砦を攻略した駿河勢の朝比奈備中守らは、信長が善照寺砦に参陣したときは不明ではあっても、少なくとも信長が中島砦から出陣したときには、織田軍の側背を衝ける位置にはいなかったということです。
さてこのように、信長の梅雨将軍たる所以は梅雨の降雨のなかでというのではなく、梅雨という季節でありながら晴天に恵まれた武将であるという意味になるわけです。これは後の長篠合戦もおなじです。






