<陽動作戦・欺瞞説・諜報戦>
桶狭間合戦に先立って戦われた千秋四郎季忠(スエタダ)と佐々下野守政次による駿河勢との戦いが行われた目的やその場所、敵手については諸説があります。
<陽動作戦>
(1)鳴海城攻撃説
千秋と佐々らの駿河勢への突撃は、陽動のための鳴海城攻撃という考え方は、これも小和田氏が『桶狭間の戦い』で述べられています。そこでは、「たとえ、三百という少人数ではあっても、『信長公記』が記すようにそこで50騎もの信長方の武将が討死にしたということは、かなり大掛かりな軍事行動ということになり、今川方では『信長は鳴海城を攻めようとしているのではないか』といった観測がパット広まったものと思われる」とされる説に代表されます。
この説は、駿河勢のなかで唯一所在が特定できるのが鳴海城であるため、そこを攻撃したとするとした点に魅力があります。ほかの駿河勢は今川義元をはじめとして誰一人その居場所を特定できないのです。しかし、信長が敵を欺きたいと思うのであるならば、既に丸根・鷲津に後詰せず陥落するに任せているのですから、臆したと思わせたままにして置いた方が良かったのではないでしょうか。
また、『信長公記』の「(敵方からも)瞳とかかり来て」という書き方をみると、どうみても城方は城門を開いて打って出ているように思えますから、そこからは千秋らが塀に取り付いたり、土塁を攻め登ったりして攻めたのを、鳴海城の守備兵が防いでいるようには思えないのです。さらに、鳴海城と善照寺砦とは250mしか離れておりませんし、千秋ら三百の兵を迎え撃った鳴海城兵は瞬時にそれを一蹴したのですから、それだけの兵力としては二倍から三倍の軍勢でなければならないはずです。因みに、鳴海城の守備兵力を旧陸軍参謀本部の見積でみますと八百人ですから、鳴海城の守将・岡部五郎兵衛元信はその全てをもって出撃したと考えざるを得なくなります。従ってもし、そのような兵力が城から出撃したならば、当然城は空になりますから善照寺砦の織田軍がそれを見逃すはずがありません。彼ら砦の織田勢は、城兵を城へ戻れなくするために打って出るでしょう。城兵の引上げに乗じて城に付け込むのも兵法の常道だからです。
更に解決できない問題があります。すなわち、鳴海城の駿河勢は、どのようにして善照寺砦の監視と中島砦の封鎖をすり抜けて、討取った敵将の首級を義元本陣まで届けたのかということです。義元は千秋・佐々らの首を実検して、謡いまでしているのです。そればかりではありません。小和田氏はそれまでの雨により黒末川の水嵩は増し、中島橋周囲は冠水していると言われているのです。矛盾しているとは思いませんか。
また、鳴海城の守将が思慮深い武将ならば、義元が後詰してきているのですから、義元が善照砦の攻撃を始めないうちに、敵の挑発にのって城を出撃するような馬鹿な真似をするはずがありません。そして、守将の岡部五郎兵衛元信は、桶狭間合戦に関して数々の武功を伝えられている名将なのです。因みに、元信は桶狭間合戦後も鳴海城に立て籠って信長に屈せず、反って義元の首を要求して返還させており、駿府に帰るにあたっては伊賀・甲賀の衆を率いて海側から刈谷城を攻めて城主水野信近を討とり、城を焼いているのです。さらに、今川氏滅亡後は甲斐・武田氏に仕えて高天神城を守って討死しています。そのような功名の武将が、鳴海城での戦いで佐々・千秋ら名のある武将を討ち取っているのです。それにも拘らず、痛快な戦勝をあげたこの前哨戦でついては、何も伝わっていないのですから、それが伝わらないのは鳴海城での戦いなどが無かったことの証拠だと考えるべきではないでしょうか。それでなくても、駿河勢は籠城しているのですから、明らかに兵力で劣るわけでして、その鳴海城兵が城を空にして出撃する訳などないはずなのです。従って、鳴海城周辺で野戦が行われる可能性などは、殆どないと言わざるを得ないのです。
それ以上に、果たして鳴海城攻撃は陽動作戦として適当かという問題もあります。
小和田氏は、「信長は先鋒が小競り合いをしている間に密かに善照寺砦を抜け出し、中島砦に移ろうとしていたと思われる」といわれるのですが、信長が中島砦には敵の目を避けて移れないことは、『信長公記』に明らかなのですから賛成できません。『桶狭間合戦記』は、信長が兵力を整えるまでの間、敵の目に触れるのを避けて軍勢を集合させたのは、朝日出の山間であったとしています。史実の信長は、千秋・佐々らが討死してしまったあとで、善照寺から中島までの開けた傾斜地であって、とても身を隠せるような場所がない所を、のこのこと中島砦に下りて行っているのですから、陽動なのではあるはずがありません。『信長公記』は「信長、御覧じて、中島へ御移り候はんと候つるを、脇は深田の足入り、一騎討ちの道なり。無勢の様体、敵方より定かに見え候。勿体無きの由、家老の衆、御馬の轡の引き手に取り付き候て、声々に申され候へども(後略)」 と書いています。
若し、信長が本気で陽動作戦を目的として鳴海城を攻撃するのであれば、本隊が中島砦から進撃する一方で、別働隊を派遣して旧軍参謀本部が想定したような山中迂回路をとって攻撃させなければなりません。しかし、当時の信長の下には、別働隊の指揮を任せることができるような武将は育っていないのです。因みに、『信長公記』によれば、信長が一手を預けた始めは、永禄七年(1564)八月の丹羽五郎左衛門長秀が最初であり、犬山城を攻囲させたものがそれです。
(2007.8.29)最近、『天理本信長記』というものが紹介されたのですが、そこには「中島之砦より、信長善照寺へ御出でを見申、佐々隼人正・千秋四郎(の)、二首、山際迄被懸向候」と記されていまして、これが正しければ非常識な小和田氏の説は完全に葬り去られることになります。目出度し目出度し。
(2)鳴海城以外で戦う陽動作戦
千秋・佐々らが戦った駿河勢については、鳴海城の他に本陣先備の松井兵部少輔家信に対する攻撃であったという説もあります。明確には述べておられるわけではありませんが、藤本正行氏の『信長の戦国軍事学』では必然的にそう考えざるを得なくなります。ただ、この場合には、織田勢も駿河勢も、互いに戦闘するために移動しなければならない距離が、大き過ぎるきらいがありますから、『信長公記』の伝えるような僅かばかりの時間で決着したかのような表現には、そぐわないように思えます。それだけでなく、本陣の先備が中島砦に近い場所に布陣することも、本陣先備の本来の任務からは考えられないという問題もあるのです。
更に、千秋・佐々らとの前哨戦が、黒末川より南で行われた場合には、中島橋を渡らなければなりませんが、中島橋は梶川平左衛門高秀によって閉鎖されていますから、勝手に押し通って駿河勢と戦うようなことは難しいとも思われます。………但し、山澄英竜の『桶狭間合戦記』には、「信長進んで丹下に至り中島・丹下両砦に籠め置かれたる人数をば旗本へ召し加え善照寺辺りへおもむく」とありますから完全に否定することもできません。
これらのことを千秋・佐々らの心理状態を考えてみますと、信長の旗本・清洲衆に先駆けの功名を奪われそうに思ったとも受け取れますから、それによってあせって抜け駆けしたと言えるかもしれません。同時に、信長には離れた前線にいる部隊を指揮する方法は、伝令しか存在しなかったことと、信長の意を忖度して行動できる将校もいまだ育っていなかったことを窺はせもします。これは、信長軍には別動隊などは運用できないことの傍証になります。もし之が敵を欺く作戦であるならば、その戦術の基本は敵に弱さと戦意のなさを示すことです。もちろん長い時間敵の目を惹きつけて置かなければなりません。ところが、千秋・佐々の両名は、短時間で討死まで遂げてしまっているのです。これでは、敵に織田勢の戦意が高いことだけを示すことになり逆効果です。それは、「この敵は武者を持ちたるか、また持たざるかと云う。各々の仰せに及ばず。あれ程若やぎて見えたる敵の、武者を持たぬことや候はんか。(中略)徒の者は早五人三人づつ山へ上がるを見て、我先にと退く。」と書く『三河物語』が証明しています。この文をみますと、石川六左衛門尉は「信長の目的は鳴海城攻めだろうか」などと問われているわけではないのです。専ら駿河勢の関心は、織田勢の実質戦闘力とその戦意にあり、「織田方が今川本陣を攻撃する戦意があるかどうか」を心配していることが知れます。更に、その文面を仔細に検討すると、駿河勢は「山上から下方にいる織田軍」を見ているために、その兵数を過少に評価しているのだと石川六左衛門尉は言っています。これは、織田勢の多くが既に低地に下りてきており、駿河軍の眼下にいるということですから、直前に行われた戦闘が陽動作戦などではないことが知れるのです。このように、千秋・佐々らの行動は陽動作戦などではないことが明らかです。
また、武田信玄のように、戦列の背後から整然とした指揮などはできない信長には、アレクサンドロス大王のように常に先頭に立って突撃しなければ、勝利を得る方法がなかったこともあります。
いずれにせよ、この前哨戦が陽動などではないことは、信長が丹下砦に寄って兵を集めてから善照寺砦に赴いており、鳴海城の今川方からはその行動が丸見えであったことからかも明らかだと思います。
信長の目的が陽動ならば、実際に鳴海城を攻撃して敵を刺激したうえ、玉砕までして織田軍の戦意旺盛なところを見せることなどは必要なかったはずです。それは、かえって逆効果になってしまいます。陽動戦術の目的は、敵の注意を真の目的から逸らせることが目的ですから、味方に戦死者を出必要などありません。戦わずに浮足立って逃げ出すことにより弱いと思わせて敵の興味を喚起させ、油断をさせることの方が重要です。従って、戦わずに算を乱して逃げるのが最も効果があるのです。何故、敵と接触したらすぐ逃げるのかといいますと、敵と交戦してしまうと拘束されてしまい離脱が難しくなるからです。敵と適切な距離を維持して撤退できないと、自軍陣地の味方に収容されると同時に敵にも躍り込まれて、陣地を蹂躙されてしまうことにもなりかねないからなのです。
信長が千秋・佐々らを玉砕させたにもかかわらず、駿河勢は朝日出に勢揃いした織田軍をみて撤退してしまったと考える人もいるのです。『桶狭間合戦記』の山澄英竜などは、「敵、尾軍の先手には討ち勝ちけれども、信長数千の兵にて検地に軍立して控えければ、早速引き退く、尾張方もまた追はざりけり」と考えています。これでは、陽動作戦としては大失敗です。
もし、この前哨戦が信長の謀略であったならば、それは織田勢が弱いという印象を与えたことと、信長という大将に家臣の統率力がないことを印象づけたということによって、大きな成功を収めたといえるかも知れません。即ち、織田勢の弱さをアピールするために、朝方の丸根・鷲津に引続き敗戦してみせたとこじつけるならば、それはそれなりに効果があったということです。
そのような累積効果については、小室直樹氏が『信長の呪い』で、「(それまでの積み重ねた実績からくる)優位複合体(コンプレックス)が、どうしても無意識の底で、いつも蠢動していたのだろう。何かに触れて、豎子信長に何ができるかという意識・無意識が強烈に動き、かくのごとく行動してしまうのである。この優位複合体が、根本に於いて義元に致命的になった。 (中略)複合体は、無意識の彼方から義元の行動を制御する。(中略)陽動作戦といえば、いましがたの、佐々・千秋・岩室らの鳴海城攻撃の失敗で、十分な効果をあげている。(義元はトコトン油断しきって信長に奇跡を捧げた)」とされています。
しかし、三百騎の千秋・佐々ら勢が討死していることを考えるならば、通常の軍事作戦としては失敗です。織田勢はもともと兵力が敵に劣っているところにきて、16%のもの損害を出すということは、逆に戦意が旺盛であることを示していることになり、逆効果でさえあるからです。また、この前哨戦に参加した前田犬千代らの一旗組は、首を検めに信長の許に出向いています。そして、信長はこれに対して一々時間をかけて、どの様に戦わねばならないかを諭しているのです。このような悠長な進軍であったものが、陽動作戦などであろうはずがありません。
参考、『信長公記』「御諚のところに、前田又左衛門・毛利河内・毛利十郎・木下雅楽助・中川金右衛門・佐久間弥太郎・森小介・安食弥太郎・魚住隼人、右の衆、手々に(敵の)首を取り持ち参られ候。(信長公は彼らにも)右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ」
これらの「陽動作戦説」の弱点は、信長が今川方の視界から消えることができないところにあります。そのため陽動説を唱える人は、これに尾ひれを付け足し、熱田や善照寺砦の裏山に偽旗を林立させて本隊の大軍がいるかのように見せかけて、中島砦からの信長の出撃を支隊かのように欺瞞したというような話をつくることにもなるのです。
ここで一つ付け加えますと、信長はその生涯における戦闘において、一度も陽動作戦などをとったことはなく、常に正攻法しか行っていないことがあります。姉川合戦も石山寺包囲戦も木津川口の海戦も、全て正攻法なのです。なかには、長篠合戦には陽動作戦があったと思う人がいるかもしれませんが、そこでの武田方の付城・鳶ノ巣山砦への攻撃は、もとより陽道作戦などではありません。
巣山砦の場合の信長は、家康に請われて長篠城救出を目的として出動したのですから、長篠城を救出するには付城である鳶ノ巣山砦を排除することが主作戦なのです。だからこそ、信長は東三河の徳川方責任者であった酒井忠次に、東三河衆四千もの兵力を指し向けさせたうえ、それに虎之子の直轄鉄砲隊五百をもつけてやっているのです。信長は意地が悪いから徳川勢を最も消耗の激しい戦線に立てたなどと考えるべきではないのです。そうしたところ、武田軍は前進してこない織田・徳川連合軍を見縊って攻撃を仕掛けたのですが、そのうちに鳶ノ巣山砦が落ちたために退路を断たれることになって動揺をきたして大敗したのです。そのために、設楽が原合戦の方が有名になってしまっただけのことなのです。
『信長公記』によりますと、武田軍の攻撃開始時刻を日の出とし、酒井の砦攻撃を辰刻(am8)としているのですが、旧暦五月廿一日(7月9日)の日の出は午前五時前ですから、酒井の鳶ノ巣山砦攻撃以前に長篠での合戦は始まっていますから、鳶ノ巣山砦の陥落を知って退路を断たれたために自暴自棄になって無鉄砲な攻撃を仕掛けたわけではないようです。
要するに、千秋・佐々らの前哨戦が彼等の勝手な抜駆けであるのは、信長の膝下から小姓の岩室長門守が抜駆けしているのをみても、明らかであると言うべきだと思います。
(3)信長軍の軍紀
ここにもう一つ考えなければならない問題小和田氏から提起されています。それは戦国時代の専門家であるはずの氏が、如何に一般向けの書物とはいえ、「信長の命令なしに勝手に兵を動かすことなど有り得ない」としておられることです。これは、本当でしょうか。
この時期の信長軍が彼の専制の下にあったかの印象を与えるだけでなく、既に近代軍の特質を信長軍が備えていたような印象も受けてしまいます。それで良いのでしょうか。
確かに、後になっての信長が、専制的な君主であり独裁者であり、戦国大名の合議制による戦争指導という制約から自由であったことは事実でしょうが、それにしても、それは国人衆からの独立という意味であり、この当時の信長軍が近代的軍隊規律を持っていたという証拠はありません。それどころか、信長がこのときに行っていたことは、絶対権力を獲得するために、自分の意に従わない大人といわれるような国人衆を、自分の周りから極力遠ざけるために若者ばかりを集めており、彼等と仲間意識で結束しているらしいことです。このことが、初期の信長軍の特徴として窺え、そこには若者組・暴走族などにみられるような一種仲間意識の甘えさえあり、法治主義的な厳格な規律は微塵も感じられないのです。
信長の桶狭間合戦に至るまでの諸戦闘をつぶさにみますと、そこには武田信玄が目指したような、律令軍制による指揮官の命令に従って一糸乱れず行動するようなものなどは一切みられません。信長が、そのような軍制を目指した形跡もありません。その後にも、信長の許では大陸式・現代的な「将校制度」やローマ的な「隊伍」などは、生まれてもいません。それに、将校制度や隊伍制度が整備されていなければ、命令による機動などはできるはずがありませんから、信長軍には規律を重視するような精神的基盤はなかったものと考えるべきであると思います。その証拠に、村木砦に後詰したときの林秀貞などは、家老であるにもかかわらず参陣を拒んでいるのです。『信長公記』には、「翌日御出陣候はんのところ、一長(家老)の林新五郎(佐渡守)、その弟美作(ミマサカ)守兄弟、不足(服)を申し立て、林(佐渡守の)与力あらご(荒子)の前田与十郎城へ罷り退き候。御家老の衆、いかが御座候はんと申しへどもも、左(様)候へども、苦しからざるの由、上総介仰せられ候て、御働き」とあります。
しかし、信長はそれには構わず戦後も罰したりなどはしていません。それどころか、反逆した林秀貞や柴田勝家を許して高位に起用していますし、丹羽氏勝・水野信元などの独立系有力国人が、信長の麾下に参陣したのは上洛時まで待たねばなりません。また、前田宗家の家督譲渡や生駒親正の出仕の時期をみてもわかりますように、こと有力国人衆に対しての初期の信長は、「来る者は拒まず、去る者は追わず」という態度であったようにみえるのです。
- 参考、『村井重頼覚書』によると、永禄十二年、伊勢大河内城攻めから帰降した直後に、利久に実子がなく、病弱のため「武者道少御無沙汰」の状態だったから、前田家の家督を利家に譲るよう、信長の命令が下ったのだといいます。
- 参考、『生駒家譜』には、「永禄九年織田右府、親正の名を聞き、豊太閣を遣わして致招せしむ。親正太閣とともに往きて、右府に謁す。右府大に喜び、領地若干を賜ふ。是より始めて織田氏に属す」とあります。
このようでしたから、信長の絶対権力は、直轄部隊の内に止まっており、戦争毎に協力する国人衆には及ばず、尾張の国人達は自分に関係ある地域の戦争にのみ参加したのだと思われるのです。そして、信長も借りを作らないために、彼らに協力することを強要してはいないのです。例えば、対今川戦までは大活躍をした佐久間一族も、それ以後の対美濃戦などでは名前がみられず、信長が将軍を奉じて上洛するという大義名分を得るまでは、積極的な参戦をしていないようにも思えます。また、朝倉追撃戦の陣中で起きた、信長と重臣・佐久間右衛門の会話にも国人衆の気持が見て取れますし、同様な逸話が明智光秀との間にもあり、本能寺の変の遠因にもあげられているのです。
- 参考、『信長公記』「佐久間右衛門、涙を流し、左様に仰せられ候へども、我々程の内の者は、持たれまじくと、自讃を申され候。信長御腹立ち斜めならず。其の方は、男の器用を自慢にて候か。何をもっての事、片腹痛き申し様哉と、仰せられ、御機嫌悪候」
- 参考、天正十年(1582)三月、甲斐征討の際、法華寺の陣所にあって、諏訪郡を制圧した戦果を祝い光秀が「これまで骨身を惜しまず働いてきたことが報われた」と語ったところ、信長はその方、どこで骨を折ったのかと詰問し、光秀の頭を欄干にこすり付け、さんざん打ちのめしたと伝える。『川角太閤記』『祖父物語』
戦国時代の軍隊が、如何に規律に欠けていたかは自明のことです。上は功名のために抜駆し、下は餓えを凌ぐために略奪し、上下共に欲得尽くであったことは、峰岸純夫氏や藤木久志氏らの研究で明らかにされてきていることです。そして、それが信長の軍隊においても免れたとは思えません。
(4)論功行賞からみた場合(2007.06.11)
『道家祖看』が伝えるところをみますと、佐々政次は「今日こそ天下分け目の合戦ともいうべき戦いです。殿が天下をお治めなさるようになったとき、私の弟内蔵助成政やわが倅(セガレ)をお見捨てなく、よろしくお願いします」といったといいます。そうしますと、もしこれが、陽動作戦であれ何であれ、信長が許可した作戦であるならば、戦後の戦功行賞において簗田・服部・毛利につぐ功名になったはずだと思うのですが。どうでしょうか。
しかし、『武功夜話』は佐々兄弟がいかなる理由で鳴海表で前哨戦を始めたかは語らないものの、内蔵助成政は兄を討たれたうえ、桶狭間合戦には間に合わず、帰途にあった信長には無視されて、清須城での論功行賞では肩身の狭い思いをしたと言っているのです。佐々政次にいたっては、信長に倅のことをお願いしているにも関わらず、その倅には確たる事績が伝わらない有様なのです。従って、これが信長が命令した作戦などであるはずがありません。
さらに、『長州志略』は、後年になってからのことですが、信長は男子を次々と失った千秋家をみて、昔の戦功を思って、季忠の老母に土地を与え息子の軍役を免除したと伝えています。ですが、信長による大宮司領の回復は、『熱田神宮文書・千秋家文書第三十五号文書』によると四百七十貫文にすぎません。………ただそれだけの評価なのです。
『猿投神社文書・某注進状断簡』によると、鎌倉時代末期に三ヶ国に散在し、『寶庫文書』の注進で惣田畠五百六十二町余・年貢千二百九十一貫文であったという熱田神宮の荘園の殆どが押領されたらしいといわれます。ですから、これは季光・季忠の討死によって信秀・信長によって没収されたのではなく、南朝の没落から戦国時代を経ることによって失われていたとみるべきなのでしょう
- 注:『武功夜話』「織田上総介様は、(抜駆けをして惨敗した)佐々党らには目もくれず、治部少輔の首級を鑓先に掲げて清須へ御引き揚げになった。一党の者も致し方なく、夕方には竜泉寺砦へ戻った。一党の者も致し方なく、夕方には竜泉寺砦へ戻った」
- 注:『武功夜話』「一、永禄三年の田楽挟間での遅参は、功名にはやる佐々衆や我らにとっては、悔いてもあまりあった。隼人殿は討死し、郎党は多く討たれたにも関わらず、さしたる戦果も挙げることができなかった。従って、清須城での戦勝の嘉儀にも、外聞も悪く、ひたすら下座で沈痛するしかなかった」
- 注:『長州志略』「永禄三年五月十九日、信長と今川義元との合戦のとき、四郎季忠は先駆けして戦い、鳴海の東の山で討死した。信長はその戦功を思って、季忠の老母に土地を与え、季忠の息子を守り立て、千秋の家を続けさせた」
- 注:佐々隼人正の子には、松千代丸、勝之、成光、信宗などがいわれますが定かではありません。
<梁田特務機関>
桶狭間合戦を情報戦の勝利とする見方は、その裏づけ史料の不足から、既に排除されてもよさそうなものですが、今でも根強いものがあります。
その第一番が、梁田出羽守政綱の諜報活動により、桶狭間山上に義元在陣を知ることができたため、奇襲に成功したと言うものなのですが、現在では、その勲功に対して恩賜とされる沓懸城についても、感状などの文書がただの一通も発給されていないことから、疑問視されているのにです。………これについては、別項を立てる。
<斥候>
斥候の重要性は当時の武将たちにも知られていたにも関わらず、その活動は低調です。その第一の理由は、目的合理的に行動するという近代精神がなかったからであり、目的合理的な組織を持てなかったからです。例えば、今川義元には『備前老人物語』に有名な逸話があります。
義元が斥候に出した者が前線で戦いに加わり、敵の首を一つ下げて帰ってきた。義元は勝手な振るまいだと怒ったが、彼が「苅萱の身に入む色は無けれども、見て捨難き露の下折」と藤原家隆の歌を詠んだところ、義元は我が身の危うい時に家隆の歌を思い出したのはあっぱれと怒りを和らげて赦したといいいます。これでは、泣いて馬謖を切った諸葛孔明や孫子が王の寵妃を軍法に基づいて斬ったという逸話に悖る話で、到底まともな斥候の任務など果たせるわけがありません。ことほど左様に、戦国時代の武士は功名に逸っていて、軍の統率を期し難いものがあったのが実情なのです。これは戦国期を通じて是正されてはおりません。………これが是正されて官僚精神が武士に植え付けられるのは、「御家」という社会の現実とそれを論理づけた忠を孝に優先させた朱子学が武士社会の道徳として定着する江戸期になってからのことです。
このように、近代的な意味での斥候は存在しなかったのです。兵士は、各自の持ち場における任務を遂行するようには教育されてはおらず、客観的規範も目的もなく、戦闘行動も任務の束で成り立っていたわけではなかったからなのです。
しかし、だからといって高級武将たちが努力しなかったわけではありません。
信長には天沢長老物語として、「鷹野(狩)の時は、廿人、鳥見の衆と申す事(を)申し付けられ、(二人を一組とし、)二里、三里(と)御先へ罷り参り候て、あそこの村、爰の在所に、雁あり、鶴ありと、(獲物を見つけると)一人鳥に付き(見張りをし)、一人は注進申す事候」という武田信玄を感心させた逸話があり、信長による斥候のありかたや、任務に専心する人間を教育していたことが知られます。
しかし、これは身分制度による忠節として実行されるか、ほとんど少年期から教育したことにより身についたものに限られたものであり、織田家の家風として道徳化されるまでにはなかなか行かなかったものと思われますし、専門の斥候部隊があったわけでもなさそうです。つまり、その技に長じた武士にさせたわけです。
このようでしたから、上杉謙信が戦国最強と云われた理由を考えますと、『名将言行録』には格好の逸話があります。
「あるとき、上杉方から斥候を出してきたが、この斥候を見て武田方では皆して、今日は良い斥候が出てきたと言いかわした。後に聞けば、これは謙信自らの斥候であった。謙信はいつも、自らわずか二〜三騎で本隊より五里も七里も先まで斥候に出るのが常であったが、この時、敵は謙信自らの斥候に勘付くと、銃で謙信を射撃しようと考え、要地に銃三挺を置いて待ちかまえていた。謙信が撤退するや否や、敵の越中諸将は、謙信に一味する者たちの城に押し寄せ、謙信軍の押さえのために境川に展開していた部隊までが境川を立ち退いて城攻めに向かった。この様子をうかがった謙信は自ら単騎駆けで偵察すると、たしかに境川にも既に兵の姿はない。そこで謙信軍は楽々と川を渡ると、援軍に駆けつけ、散々に城攻めの敵軍を打ち破った」
このように、彼自身が頻繁に大物見を行っていたことが、必勝の理由であったと考えられます。機能的な組織がなく、機能的な官僚がいない以上、自ら事態を把握することが最善の方法だからですし、交通・通信が不備であり、遠距離からの有効な連絡手段がなかったからでもあります。
ところで、桶狭間の合戦では、信長本隊の動きは義元本隊に近づくにつれ駿河勢の斥候によって探知されていたけれども、これらの斥候は簗田出羽守の防諜部隊によって妨害されるか足止めされてしまい、義元の許には届いていなかったという説があります。甚だしいのは、勘気を被った前田犬千代がその役割を果たして一部隊を構成していたというものまであります。信長を持ち上げるためには、全てが事前に計画され組織されていたと考えたくなるようです。
しかし、敵方も斥候を放った以上は、帰って復命を受けるのが仕事なのですから、斥候からの情報が無いことや遅れること自体が情報であり、ましてや斥候が帰ってこないことは重大な情報になるはずです。従って、例え簗田が特殊作戦を行ったことが事実であったとしても、それは双方の斥候同士の遭遇戦としての意味しかありません。また、桶狭間の合戦では、双方が一里程度の距離で相対していたのですから、駿河勢からは信長参陣も前進もはっきり見えていたわけです。ですから、斥候が討たれてようとも、信長の動向が秘匿されたということになどは、ありようがありません。
第一に、敵味方の中間地点の戦場予定地では、斥候がたとえ百姓姿をしていたからといって、斥候や警戒の兵士が見逃してくれるわけがありません。自軍の行動秘匿のために、切り捨てられるのがおちでしょう。近代以降においても、戦闘員が軍服を着ていない方が虐待されるのですから。戦場で非戦闘員が戦闘から逃れられると思うのは、平和ボケにしか過ぎません。非戦闘員は運が良くても掠奪されるのが常識でなければなりません。ましてや、藤本正行氏などは戦場の過半は戦場に先に到着していた今川方が制していたといわれるのです。
<武功夜話> (2007.7.10)
戦国時代当時の諜報能力を、現代のスパイと同等に考えるべきではないことは、桶狭間合戦に関して最も雄弁に語っている『武功夜話』の矛盾を指摘すれば、それが理解できるだろうと思います。
(2008.07.09 挿入) 平成20年6月15日付の「月刊名古屋なんでか情報」の記事に、「武功夜話」を翻刻した松浦武氏によると、その21巻本(全訳活字化された)の1〜6巻までは昭和7年以降に成立したものであり、研究対象とするには余りに危ないとされているといいます。
そこで、『武功夜話』の桶狭間合戦に書かれている情報戦について一つずつ見てみます。
(1)曰く、「蜂須賀彦右衛門と前野将右衛門が、街道筋は兵糧を諸所に野積し、馬の飼料またうず高く、国境は要所々々を厳重に固めていると、信長に言上した」
この話で、先ず気が付くことは、軍需物資を予定行軍路の路傍に集積して軍隊に供給したということです。しかも宿の倉庫にではなく、野積にしてです。しかし、このようなことは、秀吉が大垣から賤ケ岳へ行軍したのがおそらく始めであり、これには少なからぬ官僚制が確立していなければ成し得ないことだと考えます。そして、その時でさえ新たに倉庫が作られたとは断定できないのです。
次に気が付くことは、『武功夜話』の云うように兵糧や秣などを野積して晒しておいたら、桶狭間合戦当時ならば、一日を置かずして盗み盗られてしまうでしょうし、梅雨時であるから雨風を防ぐ手立ても講じなければなりません。これらを防ぐためには沿道の農民を動員して管理させねばならないうえに、農村には公共の倉庫などがあるわけもないのですから、事前に集積保管するようなことはできるはずもありません。ましてや、部隊の行軍にあわせて必要な量を適時供給することを農民に実行させることができたとはとても思えませんから、蜂須賀彦右衛門や前野将右衛門が、街道筋は兵糧を諸所に野積し、馬の飼料がうず高く積まれていたと報告したなどということは有り得ないことになります。すると、間諜が行軍経路にあたる支城で、購入したりした大量の兵粮米が運び込まれるのを目撃したり、その噂を入手したというのでなければならないのですが、大軍の遠征に対する兵粮・軍需品の集積は、その場になって行われるのではなく、かなり以前から計画的に実施されるものですから、行商人や高野聖など旅人から得る情報の方が余程ましであるように思われます。
戦国時代、最も整った軍役規定を持っていたことが知られるのは北条氏ですが、戦場までの軍需品は自弁でしたし、不足分・間に合わない分については、大名が立替えて支給していたようですし、御用商人から購入したらしいことも知られています。このような北条氏と争って、一歩も引けをとっていなかった今川氏の補給態勢も、同じようなものであったに違いないと思うのです。また、桶狭間戦後の今川氏真と徳川家康との東三河での戦いでは、味方の東三河国人衆から兵粮の合力を受けていますが、これも無償でもありませんで、破格割引である一割の利息を払って都合してもらっています。このような実態からみますと、『武功夜話』の話は後世の人がその経験知識を信長時代に移しかえて記載したとしか思えないものがあります。
逆に、もし今川氏にそれだけの兵站を整備出来る力があるならば、事前準備が万全になされているということになりますから、ニ万五千という大軍の本陣が宿営地となる宿や支城の間で大休止する陣地などは、当然前もって設営なされていたことになります。そうしなければ、膨大な軍需品を適時に各部隊に支給できなくなるからです。そうしますと今度は、『武功夜話』にみられる信長の間諜たちは、本陣どころか二日前に先行していた瀬名陣地を始めとして諸将の陣営すら発見できていないことになりますし、積み上げられた飼料から騎馬武者の数も割り出せなかったことにもなります。これでは、蜂須賀彦右衛門や前野将右衛門が、間諜としてどころか戦国武将としても、如何に無能であるかを天下に晒しているに過ぎないことになってしまいます。また、鎌倉街道を探索していながら、今川方がそちらに余り関心を示さなかったにも関わらず、東海道も大高道も探索せず、知多郡との境も探索してもいないのです。これは探偵として、無能の限りとしか言いようもありません。
(2)曰く、「尾張と三河の境にある境川筋の諸村、諸和ボウ示本、祐福寺村の諸村には、以前から蜂須賀党の者たちが昵懇にしていた人々が多く散在していた」
しかし、出向いて行った諸輪・膀示本・裕福寺辺りは、岩崎丹羽氏の勢力範囲でして、その丹羽氏は織田氏には必ずしも服属していたとは言い切れず、今川方に同心していたのかも定かではありません。おそらくは独立して中立であったものと思えます。なぜなら、東大史料編纂所刊行の『史料綜覧』巻十、天文二十年是歳条に、「尾張藤島城将丹羽氏秀、織田信長ノ援ニ依リ、其カ宗家、同国岩崎城将丹羽氏職ヲ攻メテ敗績ス(丹羽家譜、三草本、丹羽軍功録)」とあり、永禄五年(1562)正月になって始めて、信長の臣であった水野信元の仲介で織田・松平の同盟が成り、丹羽家の当主氏職が隠居して諸輪北城に移って松平に服属し、息子氏勝が岩崎城に帰って信長に仕えることとなったといわれるからです。
このように、蜂須賀・前野が出かけていった辺りは、義元により調略がすすめられていたと思われる両国の外縁地域にあたりましたから、前野や蜂須賀が野武士であり運輸業者であるという性格を生かして、周辺情報(噂)を収集しようとしたこと自体はありそうなことです。それが戦国時代の現実的な情報活動だからです。
高札以外には、どこにも情報は公開されてはいませんし、事件の当事者周辺から集めた噂は、それぞれの立場や主観で歪められており矛盾に満ちていたはずです。公式発表も記者会見もありませんから、前野や蜂須賀が国境地帯で集められた情報は、駿河勢が乱取に出張して引き上げた後でなければ、噂の聞き取りの域を出るものでしかなかったはずです。
『武功夜話』によれば、織田方の佐々党らがその動向を牽制しながら今川方の出方に備えていたらしくも見えるのですが、義元が沓掛城に宿営しているのであれば、今川方によって厳重に国境警備がなされていなければならない所でもあります。そのようなところに、織田方である佐々党の軍兵が、平針まで百名の勢力で出張して行き、駿河勢と接触しないのでは、この方面には駿河勢は圧力をかけておらず、関心がなかったとも受け取れます。このように、今川勢の警備が手薄というよりも見当たらないことから、合戦前夜の十八日夜に義元が沓掛城にいないようだという情報が、佐々党から清洲の信長の下に届けられていたならば、佐々らの威力偵察の方が蜂須賀らの密偵活動より有意義であったと言わなければなりません。ですが、そのような情報が佐々党から信長にもたらされたという記事はありません。
それどころか、『武功夜話』のいう蜂須賀小六らが懇意にしていたという祐福寺村には、浄土宗玉松山裕福寺(愛知郡東郷町春木字屋敷)があり、ここの勅使門は大永八年(1528)、後奈良天皇の時につくられたもので、桧皮葺一間一戸朱塗りの扉には十六菊の御紋章があり、奥に配置された本堂の大棟にも御紋章が入っており、後小松、後柏原、後奈良三帝の勅願道場として栄えた東海中本山であったからでしょうが、今川義元は桶狭間で戦死する前日にこの寺に陣をとったという説もあるのです。ところが、蜂須賀らはそのような噂さえも入手できていないことになります。また、『東郷村誌』に記すところによれば、同町春木狐塚にある富士浅間社(伊副神社)は、桶狭間の戦いの際と言いますから、合戦後にでしょうが、今川残党によって奇火に遭ったともいうのです。………ただ、小生は前日十九日に今川義元が祐福寺に陣をとったということは、義元がそこに宿泊したことを意味するものではないと思います。
(3)曰く、「蜂須賀彦右衛門らは裕福寺村長に同道し、百姓になりすまして義元が必ず通る大高まで十五町の街道上で義元一行を待ち受けたところ、義元は午前十時にそこに通りかかった」という記事があります。
蜂須賀彦右衛門らは、桶狭間村、大脇村、阿野村の者ならいざ知らず、駿河勢が駐屯して充満しているはずの中を、沓掛城へ伺候したのではなく、態々そこを通過して、贈答品を大高へ15町(1.64km)の所までも運んだなどということは、するはずも出来るはずもないことだと思います。常識で考えて。大体、裕福寺村は沓掛城より北東にあります。村長らが義元より先に行って待ち受けるには、義元の行先や行軍路を事前に知らなければなりませんが、『武功夜話』ではそれを知っていたことになります。ところが、それほど細部にわたって今川義元の旅程を知りながら、彼等は義元が桶狭間に事前に設営されていただろう本陣も、その二日前から設営されていたと言われる瀬名氏俊の陣地があることも知らなかったらしいのです。
もし、桶狭間で義元を接待した者がいたならば、それは桶狭間村の農民と長福寺の住職しかいないのです。長福寺に所蔵するという、元禄期の『尾州桶狭間合戦之事』の写本には「社寺方、合戦の勝利を祝い酒肴を用意し(義元を)接待した」とされていますが、これは桶狭間村内で接待したと考えるべきです。また山澄本『桶狭間合戦記』も住職は村人とともに酒肴を献上したと考えています。
それに、この一行に小六らが混じることが難しいのは、慶長十三年の備前検地のときでも桶狭間村の耕作地所有者は、廿八名しかいなかったことからもいえます。この検地では、村役人三人が村の土地の約半分を所有しており、屋敷地を持つ者は彼らを除くと二名しかいないのです。この村役人らは打ち揃って長福寺住職とともに、事前に半手(?両手)を切りに沓掛城に事前に出向いて、重臣を通して安堵状を得ていたはずです。それに、そのような地域にいる屈強な男なら、瀬名伊予守によって徴発されて陣地設営などに狩出されており、面が割れていたはずなのです。
これらのことより問題なのは、蜂須賀小六達が義元への贈答品を運んだ先は、必ず義元が通る大高から十五町(1.6365km)の場所だということです。ここを『新編桶狭合戦記』でみると、場所的には桶狭間山を通り越した大高城に近い側になります。そして、必ず通る街道上ということになりますと小川道の登り口にあたる南関山より桶狭間に近い場所に推定する必要があります。と云うことは、今川義元は大高から来るのでなければならないことになります。ところが、そんな所まででかけて待ち受けたのに、蜂須賀らは瀬名陣所も発見していないのです。このように、蜂須賀らの密偵行動についての逸話は、全て後世の知識と現地の地理を知らない者による作り話ではないかということが疑われるのです。
(4)曰く、「梁田が熱田にいた信長に、正午に義元が桶狭間の辺りを通過するのは間違いないと伝えた」
梁田による義元の進軍経路予測なのですが、梁田はどのようにして義元の行軍路を知ったのでしょうか。義元の行列の尖兵と絶えず接触していなければ正確な行軍路を知ることは難しいはずです。特に、駿河軍が大軍であって並行する複数路を採った場合には、義元の居場所を窺うことは困難を極めます。
梁田が義元の進撃路を知るためには、予想される路の分岐点を見通せる場所に斥候を配置しなければならないのですが、それを出来たとしても、次には情報を伝達する手段を講じなければなりません。例えば、義元が沓掛城を出発して第一の分岐点は、間米と阿野との分岐点になります。当時、村落などがなかっただろう間米へ向かった場合には、そこから小坂で黒末川を渡河して、善照寺へ向わないとは限りませんし、東海道へ出て中島砦へ向かうのか、道のない疎松林を桶狭間山に向かうのかもわからないわけです。また、阿野村から東海道を進めば中島砦へ向かうかもしれませんし、阿野村から大脇村へ向かえば大高〜大脇道を行くことになります。これらの全てを見通せるような高所は付近に存在しませんし、梁田や蜂須賀一党がこれら分岐点の全てに密偵を配置できたとも考えられません。第一、この辺りの地形は小さな丘陵と狭間で一帯が入り組んでおり、赤松の疎林であるとは言え禿山ではないのですから、山頂から裾野に通る道を見通すことなどはできなかったと考えなければなりません。
このように、沓掛城からの大高城への経路は複数ありますから、桶狭間を通ることを確信でき、その通過時刻を特定できる場所に諜者を配置できた可能性はないに等しいと思います。唯一それができるのは、義元が大高城側から出発して桶狭間へ行く途中で待ち受ける場合だけなのです。この場合には、鷲津砦のある山の西を通り中島を通る道、東の小川道、南関山から桶狭間へ行く道、緒川へ行く道があるわけですが、これらは全て、まだ敵の勢力下に入っていない丸根砦のある丘陵の山中を移動しながら見通せる可能性があるからです。
以上のような疑問を退けるために、『武功夜話』では「(梁田鬼九郎が信長に注進するには、)沿道には献上品を携えた百姓・僧侶・神主たちが大勢いて、御祝賀を申し述べて今川治部少輔のご機嫌を伺っている。また、治部少輔もこうした者達に言葉をかけているために、軍勢の進む速度も鈍っている状態であると言ったという」と書き、梁田は蜂須賀らから情報を得たことにして、組織的な活動だったことにしています。
しかし、戦国時代の大名は家政機関以上の組織を持っていませんでしたから、他国へ派遣する使者さえも払底しており、口上のできない飛脚に頼らざるを得ない状況だったのです。従って、自身の家令でもない国人にその寄子でもない地侍や野武士を組織・統率させて、中央集権的に運用することなどができるわけがありません。
このようですから、戦国時代の戦争を考えるうえでは、近代的な意味での諜報戦ということを念頭に置くことは、かなり事実に反することになると思います。
<謀略説>
<信長降服説>
桶狭間合戦の織田軍戦勝の原因を欺瞞に求める人もいます。「信長は既に降服していた」と主張するのです。その中で、突然の雨で気が変わって裏切ったという説が八切止男氏、偽文書行使の名人であった信長の欺瞞であるというのが明石散人氏です。これを題材にしたものには、村岡素一郎氏の「史疑徳川家康事蹟」やこれをベースにした同様な趣旨の榛葉英治氏の「異説・徳川家康」の他に、八切氏の「徳川家康」という小説もあります。また、この他に武岡淳彦氏のように諜報部隊の組織的な活躍があったとする人もいます。
確かに、義元は信長に強襲されるほど間近に接近を許し、そのうえ前備以外は迎撃態勢をとっていないのです。義元がこのようであった原因は油断でなのでしょうが、何故このような油断をしたのかは、それでも大きな謎なのです。これを説明する八切止男氏の仮説は奇抜で、信長と義元の間で既に密約があったといわれるものです。根岸直利の「四戦紀聞」を受けた八切氏の説は面白いので、長くなるが紹介します。
「この(桶狭間合戦の)時ついていったのは山口飛騨守、佐脇籐八、らの四人の近習者だけにすぎない。大勝利の筈の桶狭間合戦なのだから、その時の近習達を重用するのが普通だが、信長は棄て殺しにしようとしたため、彼らは家康の許へ身を寄せ匿って貰っている。という事は、三万五千からの大軍を率いて上洛せねばならぬ立場の今川義元がなにも近くの尾張で(手間取っているはずがない。従って)戦うならば、前もって掃討していた筈である。だから実際は信長は既にもう降参していて、尾張領内は無事通過の保証がされていたと見るのが常識である。なのに俄かの大雨で、信長が畏怖していた今川本陣の火縄銃が濡れ、全く唯の棒っきれになっている田楽狭間の光景を見て、信長は心変わりして、ぞろぞろついてきた野次馬や一旗組を指揮して本陣目がけ逆襲したのが真相らしい。これは戦などというものではなく”裏切り行為”である。だから家康は裏切りの生き証人として万一の際に備えて彼らを匿っていた。だからその為、高天神城が攻められた時は信長は援軍を一兵も送っていない。だが三方が原合戦の時は、家康は彼ら生き証人を最前線に出して棄て殺しにしてから、信長に救援を乞うたのである。互いに虚々実々の駆け引きである」というものです。
同様に、明石散人氏も「二人の天魔王」で、「桶狭間合戦は、奇襲でも何でもなく今川義元に対する騙し討ち、要するに裏切りによる勝利だと思っている」と述べられ、奇襲になったのは義元に油断があったからであり、義元を油断させたのは降服文書で騙したからだといわれるのです。どちらの場合もその要点は、和平交渉が既に出来ていたということにあります。
八切氏の場合は、それが文書で記されたとまでは言われないのに対して、明石散人氏が目新しいのは、未発見の「書簡」をもってしたと言われるところにあります。明石氏は、信長の一生は騙まし討ちで満ちているうえ、戸部新左衛門を謀殺するのに偽文書を用いて成功したことに味をしめて後、将軍義昭の御教書も偽書しているほどであるから、降伏文書を送って油断させたに違いないといわれます。
この調子でいくと、信長の意図を知らされずにいた千秋・佐々らが前哨戦を始めたことに対しては、信長は使者を出して抜駆けを戒め、駿河勢も兵を退いているから、信長も義元も、互いに慌てて兵を抑えたのだと云う解釈になって面白いのです。また、信長が善照寺砦や中島砦で部下の諌止をふりきったのは、降服しに行くと言えなかったからだと言うことになりますから、これも面白い話になります。
岩室長門守は翌年討死しているからまあ良いとしても、他の三人が死ぬのは揃って十年以上も後の三方が原合戦においてであることが、物語としては問題です。それに、裏切りは戦国時代においては別に恥ずべきことではありませんでしたし、逆に武略であり頼もしい資質でありましたから、隠す必要性などは全くなかったことも説明を要します。
反面、四人の逐電とは無関係だとは思うのですが、当時大高城にいた家康がなかなか義元討死を信じなかったのも、信長降服が前提にあったからだと言えるかもしれません。そうしますと、小説家にとっては、これは面白い話になりそうです。
ところで、なぜ義元はそれほど簡単に信長の降服を信じることができたのでしょうか。如何に花押がありましょうとも、敵(信長)信用ならないことには変わりがないはずです。おまけに、如何に油断したとはいえ、義元の方も山口左馬之助・戸部新左衛門を謀殺した男だといことを忘れてはなりません。降伏文書を受け取ったからと言って、簡単に騙されて、自身がのこのこと、夏の暑い最中に、山の上へ出向くでしょうか。沓掛城に呼びつければ良いことでしょうに。
そうなるとやはり、義元が偽文書を信じるには仲介者と密使が必要になると思います。信長の降伏を保証するためには、何か目に見える形で譲歩しなければならないことになります。天文十八年(1549)十一月に行われた前回の織田と今川の交渉では、松平竹千代と織田信広とを交換したのですが、その年の八月に今川義元は将軍義藤に、「三川・尾張の境、鉾楯せしむるにより緩怠候、宜しく御執合に預かるべく候」と織田方との仲介を求めているのです。これは、三月六日に岡崎城主松平広忠が西加茂郡広瀬城主佐久間全孝の謀略により岡崎城で家臣岩松八弥に刺殺されたという事件があって、西三河の平定に苦慮していたからです。
しかし、義元は大源雪斎をもちいて九月には吉良で織田と戦って、これによって松平三蔵直勝は尾張の知行地を捨てて今川に帰服することになっていたのです。さらにこの前年の天文十七年三月十九日には信秀が太原雪斎の今川軍に小豆坂にて敗れ(今川義元感状)ていたかもしれませんから、国境の領主・山口左馬之助は、既に義元に通じていたかもしれませんし、安詳城の落城に際しての信広と竹千代の人質交換交渉に仲介び関与したことによって、後の裏切りの道が付いたのかもしれません。とにかく、大源雪斎と平手政秀とによって、後奈良天皇の口添えを取り付けたうえで、織田方と和解したとも言われています。このような前例がありましたから、今回もそれに見合う仲介人と正親町天皇の斡旋註−1 は不可欠だったと思われますが、平手正秀が亡くなった今となっては、それに代わる有力文化人が信長の許にいたとも思えませんから、物語りには誰かその任に堪える人物を捻り出すことが必要です。例えば、美濃は斎藤家の家老でもあった、津島の堀田道空註−2 あたりが適任かもしれません。小説としては美濃の斉藤道三をも巻き込んで面白くできます。
註−1 今谷明氏の「信長と天皇」によると、『朝倉家記』を引いて、織田との和睦を斡旋する勅命を拒むことが困難であり、名分がないことを述べている。
註−2 詳細不明。古くから斎藤道三に仕えて家老らしく、天文廿二年(1553)の道三と織田信長の正徳寺の会見に随行している。永禄十(1567)年の斎藤家滅亡後は信長、秀吉に仕え、慶長廿(1615)年の大坂夏の陣で敗れて自刃したというが定かではない。明智一族にも光秀の叔母でに嫁ぐ女性がいて、その子の孫左衛門尉正種が光秀に仕えたと「宮城系図」に見える。信長公記に見える踊りは、大役を果たした道空へのお礼と言われ、『武功夜話』では嫡子誕生の踊り興行を催したという。
また必ずや、恭順の証を提供する申し出がなければなりません。八切氏と明石氏のどちらも、信長の降伏の意思表示が存在しなければならない理由を「義元は戦国の雄であり砦の二つぐらいを陥れたぐらいで油断するわけがない。信長からの明確な降伏の意思表示がなければならない。それがあったからこそ、本陣を手薄にするほど油断したのだ」とされています。従ってその内容は、最低限でも鳴海城と大高城に対する付城から将兵らを退去させることが必要です。付城の破却をさせた上で信長自身が義元の下に伺候するというものでなければならないはずです。
そして、この場合には、信長は17日以前に降伏の申し入れがあったとみなさねばなりません。何故なら、駿河勢は翌18日の一日中を各地に略奪・放火の働きに出しているからです。織田方への侵攻を一旦中止しているからです。ですが、信長が違約して期限の18日中に付城群から撤兵しなかったから、激怒した義元は催促のために丸根・鷲津砦を攻撃させたと言うことも、話を面白くできるネタにはなります。
信長が、義元側に恭順の意思を示さなければ、おいそれと義元に信用されるとは思えません。そうしますと、信長が丸根・鷲津の砦からも、善照寺・丹下の砦からも撤兵できなかったのは、信長が有力国人佐久間一族を統制できていなかったからであると、義元に言い訳したことにすることが必要になります。そこで、信長が、丸根・鷲津に後詰をしていないことが、せめてもの恭順の証としたと弁明したのであるとすれば、話は面白くできます。これらのことは、本当ならば両砦を攻められて、義元に催促される前に明け渡しておかねばならないものです。ですから、砦の守将からの前夜からの頻繁な注進に対して、信長は渡りに船とばかりに撤退を指示していなければならないのですが、それをしていないのは、小説家としては困った問題になります。
その理由を何か考えねばなりません。その場合には、信長が降服を決心したのを、19日早朝に両砦が攻撃をされた注進を受けた時であるということにすればよいというのも、一つの解決案です。しかし、これは信長の真意に反して、両砦の守備兵が頑強に抵抗したために、義元側に多大の犠牲を強いたことになります。すると、義元としては自尊心をも踏み躙られていますから、信長への譲歩の要求はさらに過酷なものにしなければなりません。こうなると、物語をつづるのはさらに難しくなります。
それは良いとしても、信長はどのような方法で、義元と連絡をつけて言い訳をして許してもらったのでしょうか。まるで二人だけが携帯電話を使ったかのようです。
それに、最も説明が困難なことは、義元が何を好んで炎天下の山の天辺にまで出かけなければならないかということなのです。通説によれば、19日の当日に義元は、午前十時頃から桶狭間で信長を待ち続けたのですから、義元が信長の降服を信じたとすれば、相当なお人よしと言わねばなりませんから、話を作るのはますますもって難しくなります。
先ず、何故、桶狭間山で会見しなければならないかを説明しなければなりません。それも、名も無く道も無い山上なのが問題です。当時の桶狭間には既に長福寺があったと言われていますのに、何故それを使わず、道もなければ名もない山に本陣を設けて待たねばならないのでしょうか。同寺の伝承には、「桶狭間合戦の時住職は村人とともに酒肴を献上し、境内で、義元の茶坊主・林阿弥は義元はじめ武将の首検証をさせられた後許され、のちに主君義元や家の菩堤を弔うため、阿弥陀如来を持参した」と伝えています。このような絶好の場所があるのに、何故、名もない山を指定するのでしょうか。名もない山では、当然道を失い互いに行き着けない恐れがあります。それどころか、鳴海を占領して大高城を解放しているのですから、沓掛城は完全に今川領なのです。それなのに、そこに信長を来させられない方が不思議です。どうすれば、そんな間抜けな提案に、義元を乗せることができるでしょうか、物語をつくるのは段々難しくなっていきます。
明石氏は、「今日桶狭間が何処で戦われたかが分からないのは、信長だけが知っている場所だった。義元側は地理感がないから了承した」といわれます。しかし、義元に地理感がなかったのならば、義元は自分の知っている大高城や沓掛城に伺候させるのが常識だということになりますし、第一、信長風情に、義元本人が直接会ってやる必要性などはないはずです。筆頭家老の朝比奈備中守に対応させれば良い事であるとなると、新たな理由を考えなければならなくなります。
義元や信長が何故部下に知らせなかったのかについて、明石氏は、「義元にしてもこの時点で全軍の士気を弛ませられないので、今川方も信長の降伏を知る者は義元の近習くらいなんです。」と言われています。これは面白い設定であるとは思いますが、信長が降服したことを知らない駿河勢先備えの部隊が、すんなりと信長を通したうえ、残余の完全武装の軍隊が近づくことを許した説明が、今度は新たに必要になります。それでも信長が無事に通行するには、義元の近臣が信長一行を先導することが必要です。その場合にも義元と信長は同盟したわけではないのですから、重武装したままの軍勢を随伴したままで案内するということは有り得ません。『三河物語』では、今川方は信長の出現を見て二〜三千人の兵力と見積もっていますし、今川方に従軍していた石川六郎佐衛門は五千人の兵力と報告しているからです。
<正徳寺会見>
このように論じますと、正徳寺での斎藤山城道三との会見を取り上げて、この時には信長が厳重に武装した軍兵二千人ちかくを率いて会見に臨んだことを持ち出すかも知れません。しかし、この場合には斎藤方も同数の兵を率いて来ているに違いありませんし、そのように事前に協定されているはずだと思われます。それが戦国武将の常識であり、その程度の用心深さをもっていなければ下克上を生き残れるわけがありません。
弘治二年四月の信長と三河国守護・吉良義昭と武衛(斯波義銀)との会見の様子は、『信長公記』に「三川(河)国(守護)吉良(義昭)殿と武衛(斯波義銀)様、(の)御無事(平和裏な)御参会の扱ひ(交渉)、駿河(今川氏真))より吉良(義昭)殿を取り持ち(お世話し)、相調へ候て、(対面へおもむく)武衛様御供に、上総介(信長)殿御出陣。(対面の場は)三州(河)の内、上野原に於いて、互いに人数立て備へ、その間、一町五段(160m)には過ぐべからず(もなかった)。申すに及ばず、一方には武衛様、一方には吉良殿(が)、床机に腰をかけ、御位(について上下)のあらそひと相聞こえ(になることを察知して)、十足(歩)計り宛双方より真中へ運び出され、(格)別の御品(挨拶話合い)もこれなく、又御本座に御直り候なり。さて、それより御人数(双方の軍兵は)御引取り候なり」と、あります。
更に、会見場においては、互いの武士をもって警護しても、互いの軍兵はいざこざを起こせないが危機に対応できるほどの距離をたもって待機させたはずです。鉄砲には火縄に火を点けさせずにおけば、護衛には不向きな武器でありますし、信長の率いた三間間半の長柄足軽などは、平場の合戦には大いに有効ではあるでしょうが、寺の境内や家屋内などの狭い場所での護衛には、これも不向きでだと思います。
しかも、正徳寺での会見とは背景が違います。正徳寺での場合は、既に姻戚関係を作って濃尾両国は同盟を結んでいるうえに、両者とも濃尾国境を安定させ国内統一に専念したいと望んでおり、互いに信頼でき且つ能力のある人物かを見極めるのが目的だからです。だから、信長には、自らの若さを補う十分な力量を示す必要性があり、頼りがいのある同盟者と思わせるため、精一杯の軍容を誇示することが要求されていたのです。要するに道三その人に“閲兵させよ”と要求されたわけなのです。更に、信長にも道三にも互いを欺いて暗殺することの不利益を承知していたことがあります。道三側の体制にある弱点は、道三が有力国人に担がれているにもかかわらず、反対国人勢力と抗争中でであることが明白であり、道三が喪われても直ぐに代わりを擁立できたことを信長は知っていましたし、尾張国も信長を討ち取っても清須織田家・岩倉織田家・犬山織田など織田一族の群雄割拠の状態であり、事態は改善しないことを道三も承知していたのです。互いに国内統一に邁進して、君主に権力を集中することの方が大切な時期であり、互いに騙まし討ちし合うことの損失の方がはるかに大きいことを承知していたのです。
ですから、何よりも、斉藤山城守道三が感銘を受けたのは、要人警護には不向きなこの長柄鑓足軽隊の存在であり、鉄砲足軽などではなかったのです註―3 。そして同時に、信長軍が国人・地侍の一揆ではなく、近習と足軽を中心に据えた直轄常備軍であり、それが二千近くもいることを知ったことにあったと思います。武田信玄であれ上杉謙信であれ、当時の戦国大名には七〜八百註―4 もの大勢の直臣を持つ者などはいなかったはずです。
註―3 信長公記「附子を噛みたる風情にて、叉、やがて参会すべしと申し、罷り立ち候なり、二十町許り御見送り候。其の時、美濃衆の鎗は短く、こなたの鎗は長く、扣き立ち候て参らるるを、道三見申し候て、興をさましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り候」
註―4 『甲陽軍鑑』によれば、旗本近習衆二百五十騎、牢人衆百五十、旗本足軽が八八四人の1,284人である。兼信亡き後の天正三年頃の「上杉家軍役帳」では、御中城様といわれた上杉景勝の軍役が375人である。
ところが、今回は義元への降服のための参伺なのです。信長は背後で斎藤義龍と争っており、降服するのに義元に注文をつけられるような立場にはないのです。下手に注文をつけようものなら逆に疑われるに決まっています。それが、合戦場の野原で降参の儀式を執り行うという演出をするのは、義元側の都合であり信長の要求が通ったからなどではあるはずがありません。それも、自身の経歴に武功に欠ける義元の要望としては、容だけでも華々しい一合戦の後に、麾下の将士に自己の権威を見せ付けたいということに尽きたものと考えられます。ですから、明石氏が「義元側は地理感がないから了承した。信長との会見場所は信長が指定したもので、義元はそれを了承していた」といわれるのは、物語としてもよい設定であるとは言えないように思えます。義元は、部下の全兵士に見せ付けられる場所を選ぶはずですから、小説家は義元の地理感以外のよい理由を考える必要がありそうです。
また、義元は、天文十七年(1548)正月、岡崎城が信秀の手に落ちることを恐れて、碧海郡駒場等の領主野々山政兼に命じて大高城を攻めさせたことがあり、このときには松平広忠の援軍が遅れたために、政兼は敗死した註―5 といいますから、地理不案内とは言えないのですが、さらに、義元は鳴海から大脇付近まで安堵註―6 しており、このことも地理不案内とは言えない傍証になります。
註―5 大高町誌
註―6 相原郷の扇川を挟んだ南にある字若田、「元禄本多新田名寄帳」に見える」の南半分を薮下と言う1557年今川義元が社領を安堵。「鳴海地名辞典」(榊原邦彦著)。義元は、天文十九年(1551)十二月に丹波隼人佐に愛知郡沓懸・高大根・部田・大脇・知多郡横根を安堵している。
義元が率いた人数も問題になります。あっけなく討たれているからです。明石散人氏は、「義元は信長が二、三十騎程度でくるとしか思っていなかったので、本陣には三百人くらいしか備えていなかった。」といわれるのですが、関東で信玄・氏康と覇を競っていた義元が、そんな迂闊な男であるはずがありませんから、本陣の警備の人数が少なかったとするには、もっと別の理由を考える必要があります。義元の側には三百騎(信長公記)程度しかいなかったということは、三カ国の太守が敵国の首領と会うのに、手前勝手な思い込みに従って行動するような間抜けなことをするかと言われると、痛い状況設定になります。
義元は文化人ですから、威容を配下、特に新参の三河人には見せ付けたいでしょうし、尾張人には殊更にそうしなければならない必要もあったでしょう。それには、盛大に儀式ばる必要があります。すると、こっそり執り行ったのでは意味をなさないことになりますから、信長が善照寺砦に三千の兵を率いて参陣したことを逆手にとった物語の構成が必要になります。即ち、大軍である駿河勢から丸見えのなかを、信長が降服に進んでいるのを、皆に見せる演出であったとするのがよさそうに思えるのです。
謀略を種にすれば、早くから今川に通じていた山口左馬之助の鳴海城・沓掛城を手土産にした寝返りも信長の謀略にできますし、それで足りなくて信長が謀略で大高城もくれてやったことにしても面白くできます。義元を尾三国境に出張させるための仕上げには、戸部・山口を謀殺して秘密が漏れるのを防いだのだと言うこともできます。
ところで、義元は信長が降参したいと伝えてきたぐらいで、有頂天になって油断して無警戒・無防備に面接を許すでしょうか。それほど大きな油断というのを一片の降伏文書が惹起できるのでしょうか。疑念を湧かせるには微細な事実で十分でしょうが、信用を得るには並大抵のものでは適わないはずです。油断が起るのは、緊張する必要がないからです。即ち、経験から、事故が発生しないと認識しているからなのです。では、謀略・陰謀・欺瞞といった説では、義元と駿河勢にとって、緊張する必要性がない状態をつくることができたと言えるでしょうか。
駿河勢は信長の降伏を知らないから緊張しているはずです。義元の方も信長のいい加減な返事に何度も裏切られ、前日までに降伏してこなかったのですから緊張しているはずです。特に、信長が配下に降伏したことを知らせることを徹底させていないのですから、そのことでも緊張しているはずなのです。そして、緊張していれば油断は起りません。そのうえ偽文書による時の天皇の和解勧告という欺瞞も、佐々や千秋の攻撃により無に帰してしまったのではないでしょうか。義元が部下に信長の降伏を知らせていないことは、義元自身を緊張させこそすれ、駿河勢を油断させることにはなっていないと思うのです。
他に義元を信用させ、駿河勢に油断をさせるものとしては、敵に優る兵力という事実と朝からの連戦連勝とがあります。また、信長の兵力逐次投入という稚拙な用兵は、駿河勢に織田勢を侮らせる原因になったことは確かであったろうと思います。
このようにみてきますと、駿河勢に多少の油断は起きても、義元が信長を信用するに足る理由などはなかったと言うべきではないでしょうか。やはり、義元と駿河勢の両方を同時に油断させることができない裏切り説では、桶狭間での信長勝利は難しいとしなければならないようです。





