<簗田出羽守政綱>

 

小和田哲夫氏の『集中講義織田信長』には、「政綱は沓掛の近く九之坪に住む土豪、即ち地侍であった。そして、その近くを今川義元軍二万五千が進軍していったのである。太閤記が能言と表現し、桶狭間合戦記が忠信武功といったその中身というのは、梁田政綱が、沓掛における今川義元軍の動きを観察し、その情報を信長に届けたことではなかったか」とあります。そして、その論功行賞はそれまでの合戦の常識を大きく変えて、武功より情報が高く評価された始めての出来事であるとされています。果たして、そのような諜報戦は本当にあったのでしょうか。・・・小生は、なかったと思います。確かに、信長が情報や思考といったソフトを重要視しただろうことは、丹羽や滝川、木下、明智のように調略や外交に長けた武将が出世していることからみても、異議はありません。

そこで、ここで問題にしたいのは、梁田政綱が信長にもたらしたという、太閤記が「能言」といい、桶狭間合戦記が「忠信武功」といったその情報の内容です。

これについて、小和田氏は、結果からの推測であるとしながらも、

  1. 桶狭間山に本陣があること、
  2. 義元本隊が五千程しかいないこと、
  3. そして最重要な情報である「義元が輿に乗って出陣した」ということの三点だとされています。

そして、その評価の理由は、「敵が五千ほどなら、二千の精鋭部隊でも戦えるし、義元が馬でなく輿で出陣しているなら、総大将義元の居場所もみつけやすいと判断したのではなかろうか」とされているのです。・・・本当にそんな事かな?

先ず、もたらされた情報の内容に触れる前に、なぜ簗田が情報を入手できたかを検証します。小和田氏によりますと、「簗田の知行地の近所を義元軍が通った」からだといわれます。しかし、これは問題です。九坪という地名は、沓掛城の近辺には存在しないからです。豊明市・刈谷市にもありません。あったら、教えてください。

愛知県には、春日井郡に九之坪というところがあります。旧・西春町で、現在の北名古屋市になります。

『尾張志』では、里村紹巴の『富士見道記』の永禄十年(1567)四月廿二日条にある記事からおして、九之坪の「簗田出羽守息」を広正(別喜右近大夫)とみなしています。そして、この広正が九之坪を本領としていたらしいことは、『当代記』にも記事があります。ですからもし、これらの記事を信じるならば、簗田政綱は沓掛や知立など今川義元の通過しそうなところに、知行地を持っていないことになります。そうでしたならば、当然義元の行軍を見ることもないはずなのです。小和田氏はなぜこれらの記事を採用しなかったのでしょうか。なにか積極的にこれを否定する根拠があったのでしょうか。それとも、信長の先進性を論証したいあまりのことなのでしょうか。

ただ、唯一考えられることもあります。それは梁田氏も蜂須賀氏や前野氏と同様に運輸事業に関わっていた野武士であったのかもしれず、岐阜「井之口」から「黒田」〜「岩倉」〜守山〜「岩崎」を経て「岡崎」に通じる街道の交通を仕切っていた仲間であった可能性があるのではないかということです。

次に、「情報の内容」について考えます。まずは、「兵数に関する情報」です。敵駿河勢が五千ほどなら、信長が二千の精鋭でも戦えるというのは、その他に二万もいるだろう敵前衛を迂回することを前提にしない限り無謀な発想です。なぜなら、本隊と戦っている間に引き返してきた敵前衛二万に挟撃されて全滅する危険が大きいからです。そうならない間に、一瞬の間に自軍に倍する敵を撃滅することを、信長が計画できたとは、とても思えません。とにかく、敵を迂回したり、掻い潜ったりすることを前提とした、作戦計画などは否定されるべきです。信長は、生涯そのような作戦を立案などしていないからです。信長はいつも正兵をもって敵に相対しています。それも、敵に劣る兵数であったのは尾張統一戦争を戦っていたときだけのように思えます。

 次は、「布陣に関する情報」についてです。瀬名氏俊が桶狭間の山麓に陣所を敷いたのは、合戦二日前の17日といいます。しかし、信長の諜報部隊や防諜部隊は、これを探知できていなかったようです。当日、桶狭間山に瀬名氏が幔幕を張ったのは、午前十時より三十分前ぐらいかもしれません。そして、信長自身が午前十時には善照寺砦から、義元を桶狭間山に認めているのです。これは、恐らく、大将の存在を示す旗幟が翻っていたことから推認できたものと思われます。従って、義元の桶狭間山着陣の情報は、それほど重要とも思えないのです。また、義元の布陣の状況についても、信長自身が善照寺砦から確認できたのですし、それにまた、それ以前には中嶋砦や善照寺砦からの伝騎によって遂次確認していた可能性もあるからです。それなのに、なぜ簗田の情報が重要なのでしょうか。

また、輿の情報ですが、後の参勤交代の大名行列でもみられるように、大名は常に駕籠に乗っていたわけではありません。随時、乗馬もしていたように、敵地を移動する義元が何時騎乗するかもわからないのです。従って、さして重要な情報とは言えません。現に、本陣を襲われた義元は乗馬で旗本三百騎に囲まれて逃げようとしました。それに、義元の家格は塗輿の使用を許されていましたから、示威のためにも当然塗輿をもちいたことは、誰でも知っていたはずなのです。広く人に知らしめるために乗ったのですから。

このように、小和田氏の示された情報は、何れも戦術的に重要なものではありません。

では、信長にとって最も重大重要な情報は何かと言えば、それは、義元本隊の「合戦前日の居所」なのです。通説では、前日の義元は沓掛城にいて、当日は沓掛城から出陣していると考えますから、どうしても「昼の休息場所」が最重要情報と考えざるを得ません。また、奇襲することを前提としていますので、どうしても秘密情報が必要だと考えてしまうのです。しかし、史実の信長は、正面から強襲しようとしたことが主流を占めつつあります。これは、信長が最初から最後まで、徹頭徹尾、義元との「戦」を企画していたことを窺わせます。そのような場合の信長にとって、最も重要な情報は義元の居所です。つまり、信長方は、義元の居所を丸根砦が攻撃を受けるまで把握できていなかったのですし、もたらされる情報を信じられなかったのです。・・・これが、最も合理的な解釈です。

今川義元の侵攻方向は沢山あったのです。

  1. (1)大高から黒末川を渡河して、星崎から熱田湊を制圧する選択。
  2. (2)沓掛から丹羽氏を調略して守山を攻撃したり、那古野城を奪回する選択。
  3. (3)善照寺・丹下を襲って、鳴海を救出する選択。
  4. (4)沓掛から一気に熱田湊へ中入りする選択。また、
  5. (5)南下して、刈谷や緒川の水野氏を攻める選択。・・・など、複数の作戦が考えられるのです。

このようでしたから、義元の居所を確定することが最大の情報になります。ところが、19日に丸根・鷲津を攻撃するという情報は、前線から頻繁に届いていたのに、信長はこれを無視したという史実があるのです。だから、信長はこの情報を疑っており、判断しかねていたと考えるべきなのです。

このようですから、簗田が功第一と賞されたのは情報などではないと思います。おそらく、簗田が功第一と賞されたとしたならば、それは『太閤記』のいう「能言」や桶狭間合戦記の「忠信」なのです。善照寺砦で知行持の重臣が信長を諌めたときに、唯一人信長を支持して「攻撃前進」を主張し、中島砦出陣にあたっては仲間の結束を促し、国人衆のなかにあっては真っ先に信長に従ったからなのではないでしょうか。何故なら、信長にとって最も必要だったものは、一致団結して突撃する「決死隊」だったからです。

参考までに、「決死隊」の重要性については、アーサー・フェリルが『戦争の起源』に書いています。

堅固な布陣を敷く戦列の中央にまともに突撃をするなどは、在り得ない戦法だという考え方が、軍事史家(デュ・ピック、リデル・ハート、キーガン)の間に広く浸透しているが、(中略)これは明らかに事実に合いませんし、近代の戦争についてみても当て嵌まりません。半島戦争の際のシウダド・ロドリゴおよびバタホスの攻囲戦(1812年)の最中に、ウェリントンは志願兵からなる決死隊という名の特攻隊を使って、防御側の要塞の手薄な箇所に最初の突撃をかけさせています。(中略)フランスではそれをアンファン・ペルデューと呼んでいます。決死隊には大量の死傷者が出ますが、ひとたび敵戦列を突破すれば、後続の部隊は比較的容易に攻め込むことができます

また、次のようにも書いています。

グラニコス河の戦いでは、「ソクラテスの指揮するアレクサンドロス軍の騎兵大隊が、事実上決死隊の役割を果たしている。この大隊は甚大な損害を蒙ったが、その突撃によってペルシャ軍の戦列の中央に弱点と混乱を惹起させたために、アレクサンドロスの軽装歩兵を伴った騎兵隊が、その後に続いて強襲を加えることによって勝利することができたのである。(中略)軽装歩兵を伴った騎兵隊が実際に敵の戦列の間隙を衝くことによってこれを突破しうることを、アレクサンドロスはイッソスの戦いでもう一度証明することになる。こうした間隙をつくりだすためには、必ずしも陽動作戦や側面攻撃をとる必要はないのである」。

 

<追加> 2007.7.1

簗田出羽守政綱が信長に義元の情報をもたらしたという話は、『甫庵信長記』にすら掲載されていないと谷口克弘氏は歴史読本八月号に書かれていて、山鹿素行の『武家事紀』にあるのが最初だといわれます。

『甫庵・信長記』は梁田政綱が主戦論を主張したとして、「簗田出羽守進ミ出て仰セ最可然候敵は今朝鷲津・丸根を責て其陣を易(カフ)へからす。然れは此分にかからせ給へは、敵の後陣は先陣也。是は後陣へかかり合ふ間、必大将を討ツ事も候はん。唯急かせ給へと申し上けれは、いしくも申つると高声に宣を各聞て実(マコト)に左もあらんとて、弥(イヨイヨ)軍の機をそ励(ハゲマ)しける」と書いていて、「義元合戦之時、簗田出羽守能言を申上げ得大利ヲ給ひしかば、即チ其場にて沓掛村三千貫之地、恩賜有て、義元之首を捕リし毛利新介には御褒美も出羽守よりは、かろかりし也。此合戦は沓掛村之山にて有し故に、右之分なるべし」と評して三千貫の恩賞を与えたという記事があります。

『知多郡桶廻間合戦申伝之記・1775写』は、「は物の具をぬぎ兵粮をつかひ油断の所也、早懸り候へと申候へは信長公馬を馳給へは、簗田出羽先登に進む」と書いています。

また、『集覧桶廻間記』は、「簗田出羽守進出て仰セ最可然候敵は今朝鷲津・丸根を責て其陣を易(オサム)へからす。然れは此分にかからせ給ヱは、(敵の)後陣は先陣也。是は後陣ヱかかり合ふ間、必大将を討ツ事も候はん。唯急かせ給ヱと申し上けれは、いしくも申つる者かなと高声に宣を各聞て実(マコト)に左もあらんとて、弥(イヨイヨ)軍の機をそ励(ハゲマ)しける」と、『甫庵・信長記』を丸写しにしています。

以上のように、多くは信長を積極的に支持している姿がみられるだけなのですが、松浦鎮信撰の『備前老人物語』を引用したという『遺老物語』を旧参謀本部『桶狭間役』が紹介したものでは、「今川義元との合戦のとき、簗田出羽守政綱がある謀計を申し上げたので、信長公が大勝利を得られた。そこで簗田雅綱には、沓掛村三千貫の地を賜った。毛利新助は義元の首を取ったが、出羽守よりは恩賞が軽かった。このことは、信長記に載っているところと少し違うので、ここに記したのである」とあって、ここで初めて迂回奇襲という奇策(謀計)が恩賞の対象にされたとも受け取られかねない書きぶりが出てきます。

追加註(2008.8.5): 『遺老物語』は沓掛村三千貫という恩賞について「信長記に載っているところと少し違う」というのですが、『甫庵信長記』との違いがあるのは、(1)「仰セ最可然」と「ある謀計」の違いであるのは良いとしましても、(2)「其場にて」と「戦後の論功」の違いでもあるかのようです。確かに、信長がなぜ善照寺砦なり中島砦にいた段階で、梁田に沓掛を恩賞にすることができたのかという疑問があります。………これについては、小和田氏が梁田が沓掛に知行持っていたとされることに根拠があるならば、それを安堵したことが考えられます。そして、また、もう一つ気になることは、「此合戦は沓掛村之山にて有し故に、右之分なるべし」と書くことです。素直に考えれば、当時の大将ケ根は沓掛村に所属したのかも知れませんから、大将ケ根で突撃をする直前での「能言」であったのかも知れません。

そして、19世紀の研究書になると、簗田出羽守が勲功第一であったと積極的に評価するものが出てきます。

山崎真人の『桶狭間合戦記』では、こと細かに簗田が支配の忍の者や物見の者からの情報を信長に伝えて、「斯のごとく義元勝利に乗て安堵し、酒宴乱舞の体にては、早速其陣を替べからず、幸ひ義元陣所の北の方、是より東へは敵の備へなしと聞く、ひそかに山間を軍行して、義元の旗本へ不意に懸つて討入り給はゞ、勝利のみならず大将をも討取るべし、当前の敵には御構ひなく人数を残し置かれ、急ぎ旗本へ取り懸り給へといふ、此儀大に信長の本意に叶ひ後略)」と書き、旧軍参謀本部が潜行迂回と取り違えそうな表現の評価があらわれます。しかし、小生が本論で論証しましたように、この「ひそかな山間の軍行」の実態は、雨中の東海道を鎌研から大将ケ根までを進軍したという極めて偶発的な成り行きでしかありませんでした。そして、梁田出羽守が行ったことは信長の攻撃前進という決定を強く支持したことです。

また、その恩賞についても「又惣見記にも信長、毛利新助・服部小平太をはじめ功名の輩に一々恩賞をあてがわれ、何れも面目を施しけるとなり。或古説(太閤記)に、此合戦に梁田出羽守が忠信武功を感しられ、沓掛の城に三千貫の地を添へて賜りしといへり」としておりまして、田宮篤輝の『新編桶峡間合戦記』も山崎真人と全く同じことを述べています。

このような先人の評価を見ていますと、梁田出羽守による情報戦という見方は、旧軍参謀本部の迂回奇襲説に端を発し、戦後高度成長期における経営コンサルタントが作り上げた虚構のように思えます。

経営コンサルタントに言わせると、武士は古来より「首をとる」ことを重視し、その成果をあげた者を一番に評価してきましたたが信長は違った。首をあげた「毛利新助」も評価されはしたが、その「成果」をもたらす契機となった情報発信者である「簗田出羽守」を最大の功労者として評価したと言います。信長は、「有益な情報を最初にもたらした者」、「その情報を生かす動きを最初にとった者」を高く評価することで、組織のスピード感を高めようとしたのだと経営コンサルタントは言います。個人が手に入れた情報が全員に発信される基礎をつくることで、その情報を活かすことのできる可能性を最大限に高めることができるからだというわけです。これとは反対に「最終的な結果を出した者」だけが評価されるような一般戦国武将の組織では、こういった情報共有はなされるはずもなく、個人が抱えて共有されない情報と、他人を出し抜く自分本位な考え方のみが残ることになるからいけないというわけです。

………このような議論は正しいと言えるでしょうか?

よく『信長公記』を読んでください。信長は部下の将兵を前にして決戦に出撃するべく訓示しています。それを多くの人は、信長の戦況誤認だと決めつけています。もし、誤認などでなく部下が恐怖のために竦まないように事実とは違う嘘の演説であったとしたならば、………

どちらの場合も、経営コンサルタントの言うような「情報の共有」などとは程遠いというよりも、「情報の独占・秘匿」の利得の見本のような話になってしまうはずです。

 

では、政綱が沓掛村三千貫をもらわなかったかといえば、そうも言えません。愛知県豊明市の聖應寺には政綱の墓があり、法名は「前羽州太守景巌宗徳大禅定門」と伝わるからです。但し、一説には、その子政次(?)の墓とも云われています。

ただ、この聖應寺は桶狭間合戦の前年永禄二年(1559)に簗田出羽守政綱によって慶昌寺とされたといい、後の永禄十一年(1568)になって平野氏が聖應寺と改称したとも言われますので、矛盾があります。………もしかすると、小和田氏の沓掛付近領地説はこの辺りを補強する材料があるのかも知れません?<以上>

 

<もう一人の簗田>

『武功夜話』では、「信長は間合いこそ肝要なりと指示して情報戦担当者として簗田弥次右衛門・鬼九郎親子を現地へ送り込んでいる事も話した」とか「十八日夜の情報分析では大高へ向かう可能性が高い事まで解った。沓掛より大高までは十五丁の道程。案の定、義元は大高へ向かうの第一報は簗田党の乱波の与曽平なる者が、今川の軍夫に雇われて、敵陣中からの情報である」とか、「信長様は、(当日神宮で後続を待つ間に)熱田辺りで今川勢を迎え撃つ予定で、準備を整えるよう指示をされていた。旗指物も多く立ち並べて正面から向かう構えに、旗下の諸将も疑念をもっていたところ、梁田鬼九郎父子が鳴海表から駆け帰り、正午には狭間の辺りを今川勢が通過するのは、万に一つも間違いない旨を報告してきたという」とか、「これ(十時頃)より前に、梁田弥次右衛門の案内で、信長様は熱田から山中へ分け入り、状況報告を待つ態勢にあったが、その後の様子や如何にと、鬼九郎が馬を馳せてきた。ときあたかも駿河勢は休息の最中。この好機を逃してはなるまいと、蜂須賀彦衛門は信長様への報告を急がせたのであった」などと書き、簗田出羽守政綱と書かずに、簗田弥次右衛門の子息・鬼九郎の働きであるとしています。尾北ホームニュースがHPで紹介している武功夜話の記事では、弥次右衛門は広政であり鬼九郎は政綱であるとしていますが、どの程度検証できるのかは分かりません。

この弥次右衛門なるものは、身分は低かったがなかなかの曲者で、那古野弥五郎という三百もの兵力を持つ若者と語らって信長を清洲城に引き入れようと画策して、信長に取立てられており、伊勢国司を大河内城に攻めたときには一手の武将として名を連ねていたことが、『信長公記』によって知られますから、その方面に達者な人物であったらしくも思え、『武功夜話』説も捨て切れません。この場合には、桶狭間での弥次右衛門は、義本を討ち果たした服部小平太や毛利新介を越える、第一番の勲功とされたわけではありませんから、戦後の桶狭間合戦は情報戦であったなどという風潮に水を差すことになるものと思います。

 尾北ホームニュースが紹介する武功夜話では、弥次右衛門広政と鬼九郎政綱親子は、信秀の代から弾正忠家に随身して岩倉城攻めや浮野の戦いで功があり、九日市場(一宮市)や九之坪辺りを知行して、九之坪に城館を築いたとしています。この、梁田氏の武功については沓掛三千貫についても伝承だけであって、検証されていないことから一概に否定はできないのですが、もし岩倉攻略に功があったとすると、其の後に伝承される功績から考えて、単なる鑓働きであるとは思われず、それなりの調略効果があったものと思えます。

しかもそれは、『信長公記』が記す信長麾下で調略の功のあった第一号の丹羽長秀よりも早いものであり、滝川一益の北伊勢方面での調略の功績を『信長公記』が記さないことと併せて、秀吉の天下取り以前に没落した者の『信長公記』での扱いに共通した牛一の著述方針(調略能力を秀吉に限りがちな傾向)を疑うこともできるのかも知れません。

 

<簗田広正について>

『当代記』によると、加賀一向一揆に敗れて信長に罷免された広正は、活躍の舞台を失って本領尾張国の九坪に引き籠もったといいます。沓掛城には、天正三年(1575)に広正が加賀に移された後には織田信照が入っていたからです。

『信長公記』によると、天正五年(1577)六月廿九日、播磨の砦を輪番に讐固する将の中に「簗田左衝門太郎」の名が見えるだけです。

『尾張志・張州雑志抄』によりますと、広正か出羽守のどちらはわかりませんが、彼らが建立したと伝わる豊明市の尾張聖應寺や松元院の位牌に、広正の没年は天正七年六月六日と記されているといいます。また、聖應寺には政綱の墓といわれるものがあり、法名は「前羽州太守景巌宗徳大禅定門」だといいます。従って、広正には、九坪に菩提寺を建立する時間がなかったのかもしれません。

<資料>

  1. 『信長公記』には、簗田弥次右衛門御忠節の事として、「一、さる程に、武衛様(斯波義統)の臣下に、簗田弥次右衛門とて、一僕の(身分の低い)人あり。面白き巧(企)みにて知行ヲ過分に取り、大名になられ候仔細は、清洲に那古野弥五郎とて、十六、七ノ若年の人数三百計り持ちたる人あり、(略)」と書き、簗田は織田勢を清洲に引き入れ、城下を焼き払って裸城にし、信長も出馬して清洲の城に迫ったが、守備が堅固で武衛様も城中にあったため城攻めは控え、以後乗っ取りの策を練ることに苦慮したとある。その後簗田は信長公に取り立てられたといいます
  2. 『信長公記』の「大河内国司退城の事」では、城北に布陣したなかに斎藤新五・坂井政尚・蜂屋頼隆・簗田弥次右衛門・中条将監・磯野丹波守員昌・中条又兵衛とある。
  3. 守護の格式として白傘袋毛氈鞍覆を許され、守護代には唐傘袋毛氈鞍覆が免許された。また、守護・守護代ともに塗輿の使用が免許され、有力な武士としての権威性を認められていた。文禄四年(1595)の掟書では塗輿の使用が許されるのは、武将では徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、小早川隆景のみである。
  4. (2007.07.07)『富士見道記』「廿二日、今春大夫勧進能芝居より九坪松平院に趣けり。(中略)簗田出羽守息酒爲持給へるに、酔を重て、(中略)。廿四日、くらかけといふ城をも出羽守知れる所(知行する)なれば、十里に少し不足道。こゝろの儘にて、田楽がくぼとて、おだしからぬ山の峠などに、迎數多待せけるをもかへして、三河の堺川を前なる社福寺に入て(後略)」
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