新たな郷土の迂回説『焼田橋〜細根道』を考える

 

最近、新たな迂回説があることを知りました。

服部徹氏の『大高と桶狭間の合戦』を読みますと、そこには桶狭間の旧家で郷土史家の梶野渡氏の著作『尾張の歴史・桶狭間合戦の真相に迫る』を紹介されています。そして、「信長本隊二千は囮部隊の前衛隊を引きつけている間に、時間的に干潮時であるので水位は低かった扇川の中を走り、現在の焼田橋附近で陸に上がり神明の山陰に入り、梁田(簗田)出羽守の手の者の誘導により、細根から今の名鉄有松駅附近を抜けて、生山・武路の谷間に前進、(名古屋短大の敷地南西側にあたる釜ヶ谷で)信長の突撃命令を待った」と書かれています。また、有松商工会議所のHP「有松人・戦人」にも、明確には記載していませんが、掲載図がそれを示していますし、調べてみましたら『区制廿周年記念・緑区誌』でも、ほぼ同じような記述をされています。

さらに梶野氏が講演した記録などによりますと、「桶狭間に入り、生山の下の谷に入った頃、夕立は本降りとなり、織田勢は武路釜ケ谷に侵入し、今川勢への攻撃の機を窺った」。つまり、『信長公記』の山際とは生山の北の東海道上であったと想定しているようですし、「折からの夕立で、義元本陣から視界は悪く、人馬の足音や具足の擦れる音も激しい雨音と雷鳴に掻き消され、義元本陣は織田勢がすぐ近くまで迫っていることに気付かなかった」とありますから、信長勢は駿河勢に気付かれずに有松裏の山を越えることが可能であったと考えられているようです。また、「標高約45mの山腹に(ある義元本陣では)4、5mの長さの槍を持っていることは、その人数分、つまり約一千本の避雷針を十階建てビルの屋上に立てておくのと同様で、落雷を避けるために、今川兵は槍を伏せ、具足などの金属類も遠ざけていた」とされていて、比較的低地にいた信長勢は落雷からは安全(?)であったというようなこともいっておられます。信長勢の長柄鑓は日本一長い三間半なのにです。………長柄鑓も伏せて置けば安全ということなのでしょうか?

しかしこれには、疑問が沢山あります。

  1. 扇川の水位は果たして行軍可能なほど少なかったか?
  2. 信長の囮部隊が、義元の前衛隊を引きつけていた間に何ができるのか?
  3. 信長は馬で扇川の中を行軍できたか?
  4. 細根から今の名鉄有松駅附近を抜けることはできたか?
  5. 生山に着いた頃に雨が降り始めたということは可能か?
  6. 駿河勢に発見されずに、武路の谷間に前進して釜ヶ谷で待機していることはできるか?
  7. 落雷の危険は高所の駿河勢だけであったといえるか?

つまり、すべてについて疑問があるということです。

具体的には、

  1. 扇川の水位が下がるのは何時か特定されていないのに、断定されています。
  2. 『信長公記』に矛盾しています。『公記』は、囮部隊(?)が全滅してから善照寺砦を出たと明記しているからです。
  3. 多少は水も流れているだろう黒末川も、その余は雑草が生い茂っていたでしょうから、その中を織田勢が行軍できるかは疑問です。焼田橋から有松裏までの山道を行軍して、高根山の駿河勢に発見されないかも疑問です。
  4. 細根から今の名鉄有松駅附近で山越えをしたならば、高根の松井隊(梶野氏の説)に見つかってしまうと思われますから、豪雨で松井隊が山陰に退かない間は、有松裏の峠を越すことはできないはずです。第一、当時はそこに山越えの道があったはずがありません。東海道はいまだ整備されていませんし、有松にはまだ村が作られておらず、人家も田畑もないのですから。
  5. 雨が降らないと駿河勢に発見されてしまうはずですから、有松裏の峠は越せません。と云うことは、生山には下りられないのですから信長勢が待機したところは、有松裏の山陰でなければなりません。駿河勢に発見されずに釜ヶ谷などには行けないはずです。
  6. 武路の谷間(釜ヶ谷で)で駿河勢に二千人もの軍勢が発見されずに待機していることなどが、果たしてできたでしょうか?………義元本陣の極間近(梶野氏の説)です。
  7. 落雷は低地であるからといって安全なわけではありません。これはTVなどで実験が繰り返し放映されていますから、現代人にとっては低地であることが落雷に対して安全だとは言えないことは常識です。戦国人は低地に居れば安全だと考えたのでしょうか。それならば、今川義元も低地に下りたはずです。

 

<(1)黒末川の水深は徒渉可能か?>

干潮時に水の涸れた干潟の澪筋を歩くことは中世では普通でしたから、黒末川底を行軍することは考えられる選択肢ではあります。ただし、鎌倉海道の黒末川での徒渉点は小坂あたりであったといわれ、そこから下流にはおりてきていません。あとは中島橋を渡るようになっており、川底を東西に旅行したというような紀行文はありません。

扇川の水位が下がる当日の時刻ですが、1560年旧暦5月19日の月齢は、新月に二日前の右弦の月(月齢6の弓張月)です。18日から21日の間は「中潮」ですから、合戦当日は中潮です。旧暦五月十九日の干潮は、「八六計算註 によりますと午前3:12と、その約十二時間十六分後の午後3:28ですから、午前中の満潮は9時25分になります。これを梶野氏の説にあてはめますと、干潮を「下げ五分」とみても正午30分以降でなければ、その恩恵に浴さないでしょう。註  第六章桶狭間山の今川義元 第二項八六計算を参照してください。 さらに、海上保安庁の潮汐推算ソフト註 によって名古屋港の毎時潮高を推計してみましたところ、永禄三年五月十九日、干支年は庚申、ユリウス日2291011、ユリウス暦1560年6月12日の毎時潮高は次の通りでして、午前中の満潮は八時台、午後の干潮は三時台ですから、「下げ五分」とみることに大きな狂いはありませんが、梶野氏のいわれるような干潮時の黒末川底を行軍したというにはかなりの無理がありそうにも思えます。

次の表は合戦当日の伊勢湾の水位です。

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170

202

219

218

200

そこで、現在の扇川・鳴海の中潮のときの水位をみてみます。………現在の扇川は河川改修がなされていて、当時とは比較できないのですが、中潮の日の六条ポンプ場・焼田橋辺りでは大人の股ほどの水位があるといいます。これが干潮なのか満潮のときなのかは分りませんから、あくまで参考です。また、扇川は鳴海で水位計測をしているのですが、氾濫判断水位である堤防の低い側の天端から4.00m下が基準水位[TPm(東京湾中等潮位)]0.00mですから、実際の川底はそれより低くなります。2007年8月26日13時の水位は−41cmですから、鳴海の向田四番七地先では少なくとも基準水位より41cmぐらい下が川底(河床)になります。実際はもっと低そうです。

参考に、できるだけ昔の扇川(黒末川)の様子を探ってみますと、榊原邦彦氏の『緑区の歴史』には、「子供達の水泳の練習の場は、裏田圃の爆弾池と、天白川と、(天白川と)扇川の(合流点にある)汐見橋の辺とであった。(中略)大潮の時には、扇川の上流の中嶋橋付近や、支流手越川の元名古屋下中郵便局裏辺まで潮がさすが(後略」とあります。また、 『緑区誌』には、昭和29年に自衛隊が焼田橋の架橋工事をするのを見学している平子小学校の児童の写真があります。そこでの水深は浅そうですが川幅いっぱいに川が流れていますから水量は多そうです。昭和32年の焼田橋から下流をみた写真も水量は多く、堤防内の敷地は草が生い茂っています。逆に、最近の扇川では、鳴海小学校や相原小学校の児童の協力も得たボランティア活動で毎年扇川の清掃を行っているらしいのですが、清掃を行うのは小潮の時らしく、小学生の足首あたりまでしかなさそうですから、水深は15cmほどぐらいしかなさそうです。清掃の実施日時がわかりませんので、満潮か干潮か大潮か小潮かはわかりません。

これも参考ですが、2007年6月21日(旧暦5月7日)の正午ですから中潮の満潮から二分下げにあたるのですが、焼田橋から川の流れをみたときの水量は少なくて、流幅も3mほどでした。水深も30cmに満たなさそうですが、その余は草が生い茂っています。因みに、この時の扇川鳴海水位計測計 (向田4番の7地先・浅間橋上流約160m、左岸。) の水位は10cm(TPm)ですから、計測地での水深は50cmほどはあったと思われます。そして、鳴海水位計測計から中島砦までは約250m、砦から焼田橋までは650mほどもありますから、比例配分で推測しますと、中島砦ではおよそ45cmの水深があったものと思います。従って、150cmの身長の人でしたらば膝上の水深はあったろうと思われますので、踏破は不可能とは言えなくはなさそうですが、困難なことだと思われます。

以上が黒末川「河床の行軍を考える」便(ヨスガ)です。

(2007.7.5追加) 天白川河口と扇川の中島砦あたりでは、潮の満ち引きに時間差がありそうなものですが、実際の記録をみますと、同じ時間帯であったり二時間後の時間帯であったりしていまして、そう簡単ではないようです。河川の構造(堰の有無)や支流からの流入なども詳細に調査しなければ、何ともいえないようです。また、現在の中島橋から焼田橋の間にはごみ除けの堰があるため、天白川河口の干満は直接的に反映していないようです。従って、中島砦の手越川合流点での水深で推測するのがよさそうです。2007年7月5日(中潮)正午頃の鳴海水位観測所の水位測定データは(TPm)−3cmでして、水深は約34cm以上と推定されます、そのときの中島砦合流点での扇川の水深は5cm程度ですから、焼田橋までの河床を行軍することだけは十分に可能なことがわかりました。ただし、合戦当時と現在が同じであるとは断定できませんから、念のため。

さて、2008年4月に発行された中公新書の榎原雅治著 『中世の東海道をゆく』では、鳴海潟の徒渉について潮位が105cm程度であれば、弘安三年(1280)当時は人馬ともに徒渉でき、『東関紀行』の仁治三年(1242)の例から潮位130cmが鳴海潟を徒渉できる限界ではなかったかと考証されていますので、ここで紹介します。これをそのまま援用することには無理があるのですが、それでも当たらずとも遠からずということで参考にすれば、当日午前十一時半あたりから後ならば、川の深さという点では十分に扇川河床を歩くことはできたように思えます。

 

<(2)河床の行軍は現実的か>

当時の鎌倉往還の黒末川の徒渉地点は、中島橋や焼田橋よりもさらに上流の小坂辺りであったと伝えられていることは先に述べました。しかし、汐の干満に関わらず河床を行軍に使用できることになるのならば、もっと下流まで黒末川の徒渉地点は下りてきてもよさそうなものだと思うのですが、そうもいかなかったところをみますと、川岸は結構な高さがあって、容易に川底に登り降りできなかったのかもしれません。つまり、扇川の川底を走ったと考える場合の最初の問題は、軍馬を中島砦または右岸から河床に降ろすことにあります。

中島砦は砦ですから、簡単に敵に岸に取り掛かられては困ります。簡単に馬を降ろせるということは、敵にも簡単に騎乗したまま城内に乗り込めるといことにもなりかねませんから、砦から河床に軍馬を降ろすということは、最初から施設を設備していない限り非常に困難なはずです。従って、実際、なかなか改良が進まない貧弱な馬に乗っていた最後の明治の軍人たちは、このようなアイデアは端にもかけなかったのかもしれません。『緑区誌』にある中島砦辺りの昭和初期の写真をみますと、岸は人の背丈以上はあるみたいですから、砦から容易には馬を河原に降ろすことができたとは思えません。江戸期の『名所図会』で描かれた中島橋も結構な高さがありそうです。

中島砦から馬を降ろすことに比べたならば、焼田橋付近で岸にあがることは比較的簡単かもしれません。当時は堤防が築かれてはいなかったと思うからです。もし、築かれていたとしても、それは片岸だけです。つまり、一方の田畑を犠牲にして片方の田畑を助けて被害を軽減させるわけです。そして、その場合に犠牲にしたのは左岸だったと思います。右岸には六田という古代条里制時代からの良田があるのに対して、左岸は曽根田といって石ころの多い田という意味の字名があるからです。『緑区誌』にある昭和29、32年に焼田橋付近を撮った写真でも左岸が低くなっているという解説がつけてありますから、確かだと思います。但し、現在の堤防は違います。なぜか知りませんが右岸の方が低くなっています。

しかし、焼田橋附近で信長勢二千が上がったといいますが、上がるのも大変です。なぜ大変かといいますと、川岸の高さが河床から130cm以上なければ、高根山の駿河勢先備に見つかってしまうからです。それは、当時の日本馬の体高(肩で測り、頭の高さではない)を130cmと低めに仮定したからです。それでも、馬が頭を普通に上げていたならば岸から飛び出してしまいます。ですから、匍匐前進ができない軍馬が見つからないためには、扇川の深さは少なくとも130cmは欲しいのです。勿論、信長も騎乗しては行けません。馬を引いてしかも馬には頭を下げさせなければなりません。………これは梶野氏の説が有効であるためには、絶対に必要な条件です。しかし、黒末川は大河ではありませんから、河川敷は広くありません。これは岸が自然と切り立っているということでして、馬を曳いて河岸法面を斜めに上がって行くわけにはいきませんから、馬を河床から上げるのは容易ではないと思います現に、『緑区誌』に現在残っている数少ない護岸工事以前の写真を見る限りでは、皆岸は切り立っています。

というわけで、黒末川の河床を馬の頭を下げさせて速やかに考軍するというアイデアは、例え水量が少なく水深が浅くても、実行は困難なことがわかると思います。また、できたとしても相当な時間を要するものと思われます。つまり、奇襲を狙っている信長には、時間の計算ができないということです。それでも信長が実行したとするならば、信長は計算できないことを基礎にして、都合の良い僥倖を期待した計画をたてるほど、経験も理性もなかったということになります。それに、黒末川(扇川)を行軍中に鳴海城兵に襲われたら、きっと全滅していたでしょう。

 

<(3)焼田橋から細根までの道を考える>

郷土史家・梶野渡氏の説の独創的なところは、河床の行軍を始めとして、旧参謀本部の迂回説よりも大幅に挺身経路を短縮するアイデアを提起したことです。

しかし、何よりも問題なのは、それほど奇想天外な接近法であって、良い話題であるはずなのに太田牛一は『信長公記』に紹介しておりません。それどころか、如何なる軍記物もそれらしいことを臭わせておりません。奇想天外な戦術ですから、参加した将兵が自慢しないわけがありませんから、記録に残らないはずがないと思うのですが、それなのに、それがないのです。………そのような批判は置いておいて、実際に実行可能かどうかを他の面からも検証してみます。

梶野氏の説では、「焼田橋附近で陸に上がり、神明の山陰に入り、簗田出羽守の配下の手引きによって細根から、雨の降る前に有松駅附近に出た」と想定されておられます。そして、これには一時間ほどで行けたとされています。当時、軍隊が行軍できるような道があったとも思えないのですが。天保十二年(1841)丑五月の『鳴海村絵図』では、焼田橋附近から東に細根までは通う道が、確かにあります。旧参謀本部の『桶狭間戦図』でもとりあげています。しかし、そこから先に道はありません。従って、そこから有松裏までは沢を登らなければなりません。それをしたくない場合には、高根山にいただろう駿河勢先備の監視兵にみつからないような標高に沿って道のない山中を移動しなければなりません。

同年の『相原村絵図』では、焼田橋〜半ノ木田方〜半ノ木〜掛下〜蛸畑・汐見坂〜明願・明願上池・明願下池・天神矢山〜鳴海村畑方〜細根山となっていまして、ほとんどが畑です。また、天保十二年の『相原村絵図』には、細根山には小山園跡千代倉家という住宅があるのですが、これは後世に作られた別荘ですから、旧参謀本部の『桶狭間戦図』では取り上げておりません。しかし、畑に通う作道は存在したものと見做しています。つまり、桶狭間駅裏の山陰の近くまでは行けそうなのです。

問題は、有松裏には「ヲバコ(姥子)山池」が東西二つあり、旧参謀本部の『桶狭間戦図』でも有松裏や太子ケ根裏に「谷頭の溜池」が存在したものと見做していることにあります。谷頭に溜池があるということは、その谷地に水田が開かれていたことを意味するからでして、そこまでの「作道」があったことになるからです。そして、桜井芳昭氏の『尾張の街道と村』によれば、「近世の尾張藩内の道路では、三尺(約90cm)が野道、作道、近隣の村を結ぶ小道」だったといいますから、競馬のスターティングゲートが90cm程度であることを考えれば、軍馬も作道を通れなくはありません。ただし、旧陸軍では駄馬の通過できる最低の道幅として1.5mを必要としていましたし、一列縦隊で前後の間隔も自然に広くなりますから、二千名の行軍は非常に長いものになり、とても通常の行軍速度で行けたとは考え難くなります。

次に、高根山に駿河勢先備が布陣していた場合に、山陰を行軍する信長勢を発見できるかを検証します。

これは、旧参謀本部が推定した桶狭間戦図(二万分の一)を使って検証するものですから、事実とは限らないことをお断りします。何故なら、この旧参謀本部の『桶狭間戦図』には、当時なかったとは言えない「原初東海道(鳴海道)」も「鳴海〜桶挟間道」も平部山を越える「小川道」も、故意に省かれていたりしていまして、その意味では、歴史学者の検証に耐えるものではないからです。

まず、標高約50mの高根山から焼田橋(標高0mと仮定)は直線距離にして1,650mあるのですが、ここから信長勢が這いあがるときに発見される可能性を検証します。そこから40mのところで標高が5mになりますから、その場合、この丘に隠れて高根山から見通せるかどうかを検証してみますと、50m×40m÷1,650m=1.21となり、5mの岡に隠れているということになります。人の身長が150cmだったとしても十分に隠れられることになります。

次に、第二地点として作道が標高10mの丘陵上を通る地点をみてみます。そこは、高根山から直線距離にして1,500mになります。そこから180mのところで標高が5m高くなり15mになります。その場合、この丘に隠れて高根山から見通せるかどうかを検証してみると、(50m−10m)×180m÷1,500m=4.8と計算できます。つまり、これも道より5m高い岡に隠れているということができます。しかし、体高130cmの馬を曳いて通ることを考えると、高根から見つかってしまうことになります。馬は匍匐前進はできないのですから。それでも、それより90m先では標高が20mあるためこれに遮られてみえないことがわかります。 (50m-10m)×270m/1,500m=7.2m ですから、これも十分に隠れられることになります。

さらに第三地点として、作道が標高15mの丘陵上を通る地点をみてみます。そこは高根山から直線距離にして1,380mにあたります。そして、そこから160mのところで標高が5m高くなり20mになります。その場合、この丘に隠れて高根山から見通せるかどうかを検証してみますと、(50m−15m)×160m÷1,380m≒4.1m となります。つまり、これも道より5m高い岡に隠れているということにはなるのですが、やはり体高130cmの馬は見えてしまいます。ですが、それより80m先では標高が25mあるため、これに遮られてみえないことがわかります。 (50m-15m)*240m/1,380m≒6.1m したがって、これも十分に隠れられることになります。

以上のように、焼田橋から細根までの作道を行軍する分には、駿河勢に発見される恐れはなさそうです

 

<(4)有松裏の山陰に辿り着くことの実行可能性>

さていよいよ、有松裏の峠に隠れて潜むことの問題です。

その為には標高25mの等高線上を前進する必要があります。そうしなければ、細根まで行って谷筋を這い上らなければなりませんから、これはかなり困難です。但し、天保十二年の鳴海村絵図では、有松裏の北にあたるヲバコ(姥子)山の西にはオバコ山池があり、天神山の北にも明願上池があり蛸畑に水を供給していますので、そこへ行く作道があったはずなのです。合戦当時のことは分りませんが、旧参謀本部『桶狭間戦図』にもそれらしき池が標示されているのです。勿論、谷筋を登る道などは描かれてはいませんが………。

ところで、信長勢が標高25mの高度を保って移動して潜んでいれば、駿河勢に見つからないことを確認してみます。

高根山から標高30mの稜線が直線距離にして970mのところにあります。そこから30m先が5m低い場所になるのです。果たしてそこは、稜線に隠れて高根山から見通せないだろうかを検証してみますと、(50m−25m)×60m÷930m=1.6 となりますから、これも道より5m高い稜線にかろうじて隠れていることができるということになります。そこから先では、乗馬したままでは駄目ですし、長柄武器も立てては運べません。しかし、そこまでならば、道のない山の斜面を等高線にそって進むのですから結構難しいでしょうが、疎林ですから不可能だとは言い切れません

 

<(5)有松裏の信長勢>

有松裏の峠を越して、現東海道上に下りるには、雨が降って駿河勢が高根・生山・武路山などから退避してくれるのを待たねばならないという問題があります。そうでなければ、高根にいた駿河勢に見つかってしまうからです。これは梶野氏が想定した義元軍の布陣ですから絶対に必要な条件です。それに、信長が山際に勢揃いしてから強風雨が吹きだしたという『信長公記』に矛盾することにもなります。従って、強風雨が吹きだしたのは信長が「山際」に勢揃いしてからなのですから、風雨や雷鳴で馬蹄や甲冑の物音が掻き消されるには、その後に移動しなければなりません。つまり、梶野説の山際は現在の「有松駅辺り」だということですが、そこでは今川方に発見されてしまうでしょうから、有松駅の裏山の山陰に潜んでいる必要があります。風雨が激しくなる前には生山の北の現東海道上や、釜ヶ谷などへは行けないはずです。雨中を移動しなければ、生山裏や武路・「釜ヶ谷」がに潜むことはできないからです。

以上のことを梶野説にあてはめて時間の面から検討しますと、「釜ヶ谷」からの突入が午後二時頃になるのですから、信長が有松駅の北の峠の陰辺りに到着するのも雨の降りだす以前にすんでいるはずです。さて、有松駅裏の峠の陰から大将ケ根までは約1,500mほどですが、東海道へ下りるまでは道などはありません。そこを騎馬武者を含む二千名が時速4kmで雨中の移動を敢行したと仮定します。まず、馬のことを考えない場合、(2,000m+1,500m)÷4,000m/h=0.875ですから約五十分強かかったものと見做せます。つまり、雨の降っていた時間は最も短くても50分必要であるということです。これが、騎馬武者600騎が一列で、雑兵は1,400人が二列の軍勢であった場合を考えてみます。騎馬武者が600騎というのは、『信長公記』が「ケ様に攻め、一仁に御成り候へども、究竟の度々の覚えの侍衆七、八百、甍を並べ御座候の間、御合戦に及びて、一度も不覚これなし」というからです。

       600騎×5.4m+雑兵1,400人×0.57m=3,240+798=4,038m  

       (1,500m+4,038m)÷4,000m/h=1.3845≒83分   ※計算根拠については「行軍について」を参照してください。

というわけで、少なくとも一時間二十分強の時間は雨が降ることが必要になります。ですから、この場合には12時40になる前までに桶狭間裏の山陰に到着していなければなりません。この設定では、騎馬武者が多すぎると考える場合には、騎馬武者を一割と考えてみますと55分雨が降ったことになりますから、その場合には午後1時5分には桶狭間裏の山陰に到着していなければなりません。

         200騎×5.4m+雑兵が1,800人×0.57m=1,080+1,026=2,106m、(1,500m+2,106m)÷4,000m/h=0.9015≒55分

さて、この場合には中島砦から有松裏までの1,980mを時速4km行軍したとしますと60分かかります。

         200騎×5.4m+雑兵が1,800人×0.57m=1,080+1,026=2,106m、(1,980m+2,106m)÷4,000m/h=1.0215≒60分

つまり、雨があがった午後二時の遅くとも115分前の12時5分には。中島砦を出陣しなければならないのです。その為には、1,400mほど背後の旭出から将兵を中島砦に移して置かなければなりません。つまり、旭出の山間にいた織田勢が出陣する時刻が11時10分ということです。

         (1,400m+2,106m)÷4,000m/h=0.8765≒55分弱

その上で、信長は、二千人の部下と約二百頭の乗馬を順番に黒末川の河床に降ろさなくてはなりません。そこは城砦ですから、川側から昇降しやすくする設備などあろうはずがありません。ましてや、体高を130cmと仮定してもそれだけの高さから馬を降ろすわけですから、鵯越えなみの難事でしたでしょう。さらに、千秋・佐々らは11時10分より前には討死していなくてはならないということです。これは、義元本陣に彼等の頸を持参して之を実検し、謡を三番謡ったわけですから、さらにそれ以前に前哨戦が戦われたことを意味します。

そこで、この前哨戦が義元先備と闘ったものと仮定して、戦場を本陣から1.7kmほどのところにある鎌研辺りと仮定した場合には、討取った首を持って帰陣するにようする時間は、約25分ほどかかることになります。また、佐々らは、義元が桶狭間山に到着したのを見てから出陣したのですから、善照寺砦が見える東海道の最も駿河勢に近い場所は鎌研から1kmの場所と仮定しますと、鎌研に到着するのに15分ほどかかります。従って、義元はどんなに遅くとも午前10時30分には桶狭間山についていなければなりません。これには、戦闘・首実検・謡・昼食の時間が含まれていませんから、それらを30分と仮定しますと、義元が桶狭間山に到着するのは、遅くても午前十時頃ということになります。つまり、梶野氏のいわれるような、「義元の桶狭間到着は正午少し前」などということは有り得ないのです。そして、梶野氏が前提とされている、合戦当日の義元の目的は「夕方までに大高城に入城すればよかった」と云う、その基になった義元の戦略自体が崩壊することになるわけです。そのうえ、今川義元は午前十時頃から討死する午後二時頃までの四時間もの長時間を、炎天下の野外で何をしていたのかという問題が再び生じるのです。

 

<(6)武路の谷間(釜ヶ谷で)で駿河勢に発見されずに待機できるか>

 大正9年の測量図で武路・釜ヶ谷の辺りをみますと、そこは標高30m台の谷間になっています。釜ヶ谷というのは、現在桜花学園大学保育学部の西南にある長池と愛知用水の間の辺りをいうみたいです。註 釜ヶ谷の西は武路山、東は武侍山の間になります。そこから現桶狭間古戦場公園(田楽坪)まではおよそ300〜400mしかありません。そして、梶野氏によりますとその田楽坪から東へ100〜150mいった標高45mの台地(64.9m山の西の中腹)に義元本陣があったとされていますから、釜ヶ谷の信長から15mほど高く、400mほどしか離れていない場所に潜伏していたことになるのです。それも二千人もの兵士が馬を二百頭ほども連れてです。

註 (2007.7.5)昭和41年3月に名古屋市教育委員会が作成した『桶狭間古戦場調査報告』では、64.7m山と現朝鮮中高級学校の間の広坪(田楽挟間)側の出口あたりを「釜ヶ谷」と表示しています。この場合は、さらに駿河勢に発見されずに潜むことは困難になります。 

とても可能だとは思えません。

さらに、「有松人・戦人」によりますと、右備えとして500人が釜ヶ谷方面に布陣していたといいますから、この将兵は生山か武路山の上にいたものと考えられます。この本陣右備の将兵に信長勢はなぜ発見されなかったのでしょうか。なぜ彼等は強烈な西からの風雨を避けるために、東側の谷間である釜ヶ谷に下りなかったのでしょうか。梶野氏の『信長は何故勝利したのか』によりますと本隊右翼300とされているようです。また、そもそも義元の右備が武路山に500人しか配置していないということは腑に落ちません。なぜ武侍に兵を配置していなかったのでしょう。此処こそ義元本陣にとって右翼にあたり、東海道が通っているからです。それに、五千人しかいない本隊の半分にあたる二千五百もの人数を前衛(高根、幕山、巻山)に配置するなどということは、軍事常識としては考えられません。このうち高根と幕山は鳴海〜桶狭間道の両側に位置しますから、配置する兵力の問題だけですが、巻山に至っては織田勢が攻撃できるような道などない場所なのです。

また、「有松人・戦人」では義元の左備はセト山(長福寺の南、桶狭間集落の北)に500人を配置したとしており、梶野氏は『季刊・緑区ルネッサンスフォーラム』の2006年9月(第7号)の『桶狭間由来記』で、「村人らは、怖い、されど見たいとセド山の高みに潜んで木の間からこわごわ戦況を盗み見ていました」と書かれていますから、これは明らかに矛盾しています。セト山には駿河勢が布陣しているのに、そこに村人が隠れることはできるはずなどありません。

従って、現実的な設定は、『信長公記』のいう山際を鎌研辺りとし、折からの暴風雨に背中を押されるようにして現東海道を東進して、太子ケ根の麓(現・国道一号線)辺りに到って、雨の止むのを待つことです。← これ、小生の説です。

<(7)致命的な欠陥>  2008.5.30

ところで、この説には決定的な欠陥があります。

それは、千秋・佐々らが駿河勢に陽動作戦として、幕山に布陣した駿河勢に攻撃を仕掛けたという説とセットになっていることです。この説にはどのような問題があるかは、「抜駆け」の章に「幕山の西という説」という節を追加して批判したのですが、ここでも採録しておきます。

氏は、漆山辺りから東海道の南の山中を千秋・佐々ら別動隊に挺身させて幕山の駿河勢を攻撃させ、信長本軍のために陽動を行ったとするのですが、この説の難点は根本史料であるはずの『信長公記』の記事に矛盾することです。

第一の矛盾は、幕山の西面山腹で戦われたであろう佐々・千秋らの戦いは、桶狭間山の義元からは見えないということです。勿論、山上で戦われたと強弁することは可能ですが、高々三百程度の織田勢に山上まで攻め上られ、山上に張った陣幕を押し破られ引き倒されて幕内に踏み込まれたとあっては、大苦戦ということになります。そうでもなければ、桶狭間山の義元からは見えるはずがありません。勿論、善照寺砦から観戦していた信長からも、山上で戦いが行われたのでなければ見えなかったでしょう。

 そして、第二の矛盾は、中島砦で信長の参陣を知った千秋や佐々らが、それから出陣して漆山から山中に分け入り、幕山まで踏破して戦端を開くまでに要する時間はとてつもなく長い時間が必要だということです。そうしますと、信長はその戦いに味方が敗れたのを見てから出陣しているのですから、およそ陽動作戦などには程遠いものになっているうえ、おそらく午後二時に信長が義元本陣に突入するのは難しいのではないかと思われることです。

先に、千秋・佐々らは11時10分より前には討死していなくてはならないだろうと試算しました。そこで、中島砦を「あしがる」に出陣したといいますから、徒歩であったであろう佐々ら三百人は漆山あたりからの山中の踏破も含めたおよそ2.5kmほどもあろうかという距離を行軍しなければならないわけです。それを、一時間かかるとみるならば午前十時には義元と信長は互いに相手を戦場に認識しなければならないわけです。そして、一時間近くも互いに睨み合っていたというわけです。

そうしますと、義元の謡も相当早い時刻に行われたことになります。なにせ、午前11時10分より前には本陣の目の前で味方が勝利しているのですから………。ただし、これは昼食時の楽しみにとっておいてもいいことですから、拘りませんが。

そのうえで、義元は中島砦から信長勢が消えたことを知らずに、雨が降り出すまで一時間近くも炎天下にいたことになるわけです。備えの強化なども何ら行いもせずに。………それどころか、酒宴を開いてです。

 (2008・07.18 追加) 湯川智勝氏の『管見桶狭間合戦・今川義元の最後について』には、享保十年(1725)『桶狭間合戦申伝写』によると「扇川を登りて会下山北谷辺りに御着陣、先手は会下山へ駈上け義元公陣を見下し」とあるとしていますから、梶野氏はこの辺りから着想されたのかもしれません。

 

附録2、工藤健策著 『信長は本当に天才だったのか』 2007.10.9

先日、表題の本を立ち読みしました。帯には「常識を覆す画期的な信長論」と謳っていましたから、それにつられたわけです。

ざっと目を通したのですが、目新しい発見はありません。

そこには、桶狭間の戦いについての新説がありました。信長は東海道をつかわず、蓬左文庫桶狭間図にある明神森から道のない山中を上ったり下りたりしながら、一時間程度で桶狭間に向かったといわれるのです。その実行可能性については何の検証もなされていません。

これはもう批判するにも値しません。

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