<平手政秀の諫死> (2007.9.10一部加筆、2008.9.13改訂)
- 信長のウツケ
- 政秀は信長の何を理解できなかったのか
- 山口左馬之助の離反
- 政秀は信長のウツケで諫死したのは何故か
- 諫死するほどのウツケとは
- 信長の武辺道
- 資料
(1)信長のウツケ
桑田忠親氏は『織田信長』で「大うつけの評判が、尾張国内に広まると、それをもっとも苦にやんだのは、老臣平手政秀だった」と書かれ、小和田哲夫氏は『集中講義織田信長』で、「古い因習を嫌った、形式主義をきらった信長の規制の秩序からはみ出した行動をさして、人々は大うつけと評したのである」と書かれていますから、平手政秀を追い込んだのは「世間の評判」だということなのでしょうか。
現代では、子育てに疲れて前途に希望を持てなくなった親は、まず子供を殺してから死のうと思うらしいのですが、戦国時代の感じ方・考え方は現代と違い、専ら自分自身が背負い込むことになるのでしょうか?
ところが、正徳寺の会見のときの信長の装束をみてもわかりますように、政秀の教育は信長の教養を十分に世間に通じるものに仕上げていたようです。また、『信長公記』に明らかなように、兵法についても鍛錬怠りなかったようです。それなのに、信長の行状が「無礼・無作法」だという世間の評判があるからといって、自裁しなければならない程の責任を、政秀はなぜ感じたのでしょうか?………小生には解せないことです。
(2)政秀は信長の何を理解できなかったのか
斯波氏の被官として織田氏が越前より尾張へ出自した際に、その朋輩として同行した一族に平手氏があり、ともに尾張経営にあたったのだといいます。織田氏が台頭するにつれ、次第に平手氏は織田氏の被官化して織田家の家政官僚になったものと思われています。『山科言継卿記』によれば、平手政秀は勝幡城下に居註 を構えて出仕しており、下向の際の接待に活躍しています。また、信秀の名代で上洛、内裏修理料を献上するなど宿老としての役割を果たしてもいます。
註 現在、北区平手町二丁目にある志賀公園は、築城年月日や城主など一切不明となっているのですが、江戸時代には堀があったともいい、「城戸」といわれる辺りが平手政秀の本拠としての館であった西志賀城という考えもあります。
このように、平手政秀は信秀に従って、その土着化を支えた大立者でしたが、信秀が国外に働くときには国人衆を頼んでいましたから、政秀は信秀のもつ他の一面を理解できなかったのかも知れません。その一面とは、若者を集めて組織しだした常備軍による絶対君主制を目指していたということです。これは、他国の戦国大名などとは違って「段銭」によって賄われたものではなく、津島や熱田からの「矢銭」で賄われたでしょうから、尾張国人衆には重大な革新だとは感じられなかったのだと、小生には思われるのです。
その信長の父・信秀は、一方では政秀同様一流の文化人でもあり、「国人衆」をまとめて覇をなしたのです。『信長公記・首巻』には、「備後(信秀)殿は、取り分け器用の仁にて、諸家中の能き(実力)者と御知音(遇)なされ、御手に付けられ」とあるように国人一揆の盟主として台頭していました。ですから、政秀としては信長を信秀を上回る武将に育て上げて尾張を統一したかったに違いありません。
ところが、信秀には同時に政秀には理解できない奇怪な革新性もあったのです。それは、あづき坂合戦で「下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、三度四度(と)かかり合い々々、折しきて(小休止しながら) 、お各手柄と云ふ事限りなし」と記されたように、その麾下に集まってきたのは佐々隼人正・佐々孫介などの若年者なのです。この一文に注目すべきだと『新修名古屋市史』はいいますが、これは信長に引き継がれて若年者=次男以下の余剰人員を小姓などに抱えて教育し、長じて馬廻りとして直卒親衛隊とした先駆だと思われるからです。
このことに代表される信秀のもつ他の一面である「絶対君主制の萌芽」を支えた経済的基盤は、他国の戦国大名などとは違って「段銭」で賄われたものではなく、津島や熱田からの「矢銭・運上金」で賄われていたでしょうから、尾張国人衆には重大な革新だとは感じられなかったのだと、小生には思われるのです。政秀が弾正忠家の台所を預かっていたらしいにも関わらず、その意味の重大さを理解できなかったようなのです。
ところが、当時の尾張・美濃・三河の平野部に本拠を武士は「土地=農地」に基盤を置いただけでなく、有徳人としての性格を多分にもっていたらしく、信秀の中核戦力になった津島党の面々なども、商業・流通・金融業者としての顔も多分に持っていたように思われますし、松平家や斎藤道三などもそうした面が伝えられます。
と、言うことは、賄い方の政秀が運上金の効能を知らないはずがありません。
工事中
ところで、尾張の近隣諸国では、国人一揆を超えて絶対君主制的な体制を目指した国主はみな、国人一揆によって退けられています。甲州では武田信虎が嫡男晴信と国人一揆によって駿河に追われましたし、三河では家康の祖父清康・父弘忠と二代に渡って国人に暗殺されています。また、後のことになるのですが、美濃では山城守道三が嫡男義龍と国人一揆に敗死しています。このように、戦国時代の国主はみな国人一揆によって担がれていた一面が強く、専制的に一職支配を強めようとした主君は、みな排斥されているのです。この様なことからみると、余談になりますが、一族か国人か家族か、はたまた信長によってかは分りませんが、信秀の死にも疑いが持たれなくなはありません。
尾張の場合は、信秀が国人一揆の盟主という立場で、尾張半国の国人衆を糾合して、一時は東に西にと活躍したときもあったのですが、今川義元の西進によって頓挫すると、自身は病に倒れてしまいます。そのような中で、今川義元が発した太源雪斎によって安祥城を攻略されてしまったときに、政秀はその外交能力を発揮して、ときの後奈良天皇を仲介にたてたりして人質交換を果たして講和に持ち込みますが、同時に信長との「政策の対立」が明確になります。
一般には、『尾張武人物語』が平手政秀の事績として、「その弟信長、十六歳の初陣として来り援けたのであったが、形勢不利にして打開の道もなく、血気にはやる信長は、突撃以て兄とともに死せんと主張してやまなかった。政秀は形勢の不利を見、和を以て信広を救わんことを図り、偶々織田家に人質となってゐた松平竹千代と交換せんことを雪斎に申し出で、信長をなだめて安城城を引渡し、信広を引き取った。大勢已に今川氏に有利である際、とにかくこれだけに事を収めたのは、時會々、後奈良天王から雪斎に講和を諭し給つた折とはいへ、政秀の外交折衝、その宜しきを得たからにほかならぬ」と評しているような認識だと思います。
大勢は、已に今川氏に有利であり、信秀というカリスマが神通力を失ってしまった尾張軍は、安祥城救援に軍を催した際にも、強大な駿河軍を前にして弱気になってしまい、ひたすら人質交換による和解を求めたのだと思うのです。このような国人衆の態度に対して、若くて血気盛な信長は大いに不服であったに違いありません。
これは信秀の路線を継承して信長を擁立していこうとする政秀と対立することになりました。政秀にとって心外だったのは、信長が父の路線を外れて国人衆と融和しないことでした。信長の方は一向に国人衆に憑むところなく、甚だ尊大で、嫌なら構わないで捨て置くというものでした。これは、『信長公記』が「(村木砦後詰に際して)翌日御出陣候はんのところ、一長(家老)の林新五郎、その弟美作(ミマサカ)守兄弟、不足(服・満)を申し立て、林(佐渡守の)与力(の)あらご(荒子)の前田与十郎城へ罷り退き候。御家老の衆、いかが御座候はんと申しへどもも、左(様)候へども、苦しからざるの由、上総介仰せられ候て、御働き。」というような有様だったのです。
その結果、信秀が死んだか病床について、信長が尾張の国政を執るようになったとき、信長自身は嫌であっても、当初は国人衆を憑んでの戦をするほかはなかったはずなのです。ところが、どれもこれもうまくいきません。そこで、強力に打ち出した施策は、国人衆を憑まない戦国大名の直轄常備軍による強力な一職支配であったと思うのです。
ですから、平手政秀は絶望してしまうのです。政秀の息子が信長に乗馬を譲らなかったからなどではありません。それは、信長の目指した一職支配に反抗する、国人や当時の武士の矜持の一端を示したエピソードに過ぎないと思うのです。
(2008.1.11挿入) 『信長公記』は、「総領の平手五郎右衛門、能き駿馬を所持候。三郎信長公御所望候ところ、憎ぶりを申し、某は武者を仕り候間、御免候へと申し候て、進上申さず候。信長公御遺恨浅からず、度々おぼしめしあたらせられ、主従不和となるなり。」と書きます。これを、榊山潤氏は「深く御恨みになり」と訳されるのですが、これでは何故そんなに深く恨むのかわかりません。信長が執念深い性格だからといって片づけてよいのでしょうか。それでは何故、牛一は「憎ぶりを申し」と書いたのでしょう。………小生は、これが名だたる武辺者であったならば、可愛気があったのだろうと思います。しかし、去程の武功をあげもしないのに、「武者を仕り候間」などという理由で断ったことに向かっ腹がたったのだと考えます。
信長から離れていったのは平手政秀だけではありません。山口左馬助もそうです。
(3)山口左馬之助の離反
山口左馬助は、東からくる今川義元と信長を計りにかけて信長を捨てたのですが、それを左馬之助に決めさせたような事件が何かあったのでしょうか。信長が「うつけ」という評判であったとか、それを裏付けるような葬儀(?註 )での無作法をみたというのでは足りません。
註 雑文に「万松寺で催されたのは本当に信秀の葬儀か」と「信秀の死」という、ちょっとした試考があります。
信長が尾張の国主として歴史の表面に出てきてからの事件の始めは、多分安祥城救援になるのでしょうが、それは失敗に終わりったことは先に書きました。その後、左馬之助が反旗を翻すまでに起こった事件は、横山麓で岩崎丹羽氏に敗れて、平針まで敗走したという一件しかありません。
この事件はあまり知られておらず、東大史料編纂所刊行の『史料綜覧』巻十、天文二十年是歳条に、『丹羽家譜、三草本、丹羽軍功録』の記事として、「尾張藤島城将丹羽氏秀、織田信長ノ援ニ依リ、其カ宗家、同国岩崎城将丹羽氏職ヲ攻メテ敗績ス」とあるものです。それ以外に裏付けはとれませんが、それが事実であるならばその意味は大きいものがあります。この敗戦で、信長は岩崎丹羽氏に「鉄炮卅挺」によって「伏撃」されて敗れたのです。まず、重要なことは、尾張では天文廿年(1551)に有力国人が鉄炮を既に卅挺も持っていたことです。そして、それよりも重要なことは、信長が「伏撃」されて敗れたことです。信長が戦術的にそのような危機に陥ったのは、生涯三度しかありません。一度は、浅井長政に裏切られて退路を断たれたとき、二度目は杉の坊に狙撃されて難を逃れたとき、最後は明智光秀に本能寺に夜襲されたときです。ところが、もう一件あったのです。横山麓での「伏撃」がそれです。
なぜ、この横山麓での「伏撃」による敗戦が、それほど重要かといいますと、先の安祥城救援の際に始めて顕在化した国人領主たちとの軋轢が、この岩崎丹羽氏討伐でどうにもならないものであることが明らかになったからだと思うのです。考えても見て下さい。天沢という僧が、武田信玄に信長の日常を話しがあります。そこには、信長が鷹狩を軍事訓練として頻繁に行っていたことがあり、そこでの信長は軍人としてすこぶる定法に適って用心深かったことが窺えます。
参考: 「さる程に、天沢と申し候て、天台宗の能化(高僧)あり。一切経を二篇読みたる人にて候。或る時、関東下りの折節、甲斐国にて武田信玄に一礼申し候て罷り通り候へと、奉行人申すに付い、御礼申し候のところ、(中略)鷹野の時は、廿人、鳥見の衆と申す事ヲ申し付けられ、(二人を一組とし)二里、三里ト御先へ罷り参り候て、あそこの村、爰の在所に、雁あり、鶴ありと、(獲物を見つけると)一人鳥に付き(見張りをし)、一人は注進申す事候。(中略)馬乗一人、山口太郎兵衛と申す者ガ、藁をあぶ付きに仕り(結わえ)候て、鳥の志(尻)りをそろりそろりと乗りまわし、次第々々に近寄り候ひし時、信長は御鷹居給ひ、鳥の見付け候はね様に、馬の影にひつ付いて、近寄り候ひし時、走り出で、御鷹を出だされ、(獲物の落ちる方向にはあらかじめ)向待と云ふ事を定め、是れには鍬を持たせ、農人の様にまなび(似せさせ)、そら(空)田を打たせ、御鷹取付き候て、くみ合ひ候を、向待の者ガ鳥をおさへ申し候。信長は達者候間、度々おさへ候と承り及び候。(信玄はこれを聞き、)信長の武者を知られ候事、道理にて候よとぞ、ふしおがみたる躰にて(納得の様子)候間(後略)」
ことほど左様に、信長の軍事行動は用心深いものであったのです。後年有名になった果断な面だけが注目されていますが、軍人としての信長は模範的な前線指揮官であったことを見逃すべきではありません。信長が、よく単騎駆けをしたのは知られていますが、それ以外の行軍で敵に待ち伏せされたのは、横山山麓で伏撃されたことを除いては、元亀元年に六角承禎に雇われた杉谷善住坊に、千草山中で狙撃された事件しかなかったのです。このときは、狙撃されたとはいえ、一揆が蜂起して一面みな敵という状況ですから、油断やなにかではありません。戦術的に索敵や警戒を怠ったりしたから狙撃されたわけではなかったのです。
参考: 「五月十九日(に岐阜へ)御下(帰還)のところ、浅井備ハ、総(鯰)江の城(滋賀県愛東村)へ人数(軍勢)を入れ、(さらに)市原(永源寺町市原野)の郷一揆を催し(蜂起させて)、(信長らの)通路を止めむべき行(阻止)仕候。然れども、信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野ノ蒲生右衛門大輔(賢秀)、布施藤九郎、香津畑(永源寺町甲津畑)の菅六左衛門ガ馳走(尽力)申し(たので)、千草越えに(帰路を変更し)て御下(帰還)なされ候。左候ところ、杉谷善住坊と申す者、佐々木(六角)左京大夫承禎に憑(頼)まれ、千草山中ノ道筋に鉄炮を相構へ(て潜んで信長を待ち受けた)、情け(容赦)なく、十二、三間(約22〜24m)隔て、信長公を差し(狙い)付け、二つ玉(弾)にて(鉄炮を)打(撃)ち申し候。(後略) 」
そのような信長でしたから、この横山麓で「伏撃」されて敗走する憂き目にあったということは、必ずしも信長が主導できた作戦ではなかったということだと思うのです。つまり、それまでの父信秀が採ってきた「国中を憑だ」国人一揆の征討軍であったため、統制がとれず無鉄砲な烏合の衆であったのです。このため、充分な索敵も警戒もせずに、敵弱しとみて侮って押寄せたことが招いた結果だと思うのです。
というわけで、山口左馬之助は安城と横山での合戦の仕方をみて、零細企業主=信長に落魄してしまったわけです。信長では、尾張の国人衆を憑んで、三カ国の太守である超大企業の今川義元には対抗できないと考えたのです。もうお分かりでしょう。クリステンセンがいう、イノベーションのジレンマが起きる伏線なのです。
(4)政秀は信長のウツケで諫死したのは何故か
天文廿二年閏一月十三日、織田信長傅役であった平手政秀が諌死しています。万松寺で信秀の葬儀が執り行われた翌年のことです。「横山麓の戦い」で十八歳の信長が国人衆を統率できずに、岩崎丹羽氏に伏撃されて敗れ、山口九郎二郎との「赤塚合戦」では善戦したとはいえ、国人衆に憑(頼)むところが微塵もなかったのをみて、遠からず自滅するに違いないと思って、国人衆の旗頭には成り得ないと落胆したからだと、私は思います。
そうしますと、政秀の出る幕はありません。政秀の得意なのは外交です。そして外交とは社交なのです。蹴鞠・連歌などがその手段でしたが、信長の当座の政策には無用とされたからです。信長が必要とした外交は政秀流のものではなく、脅したり賺したり利益で誘導したりする泥臭い調略だったのです。しかし、その一方では約束を守る誠実さも必要でしたから、海の物とも山のものとも知れない信長という若者を売り込むには共感をよぶ熱いヴィジョンも提示できなければならなかったのでしょう。そして、それは政秀には最も理解できなかったことなのに違いありません。
『定光寺年代記』や『天文日記』によると、この年は「尾州錯乱」とありますから、織田弾正忠家の勢力は一気に萎んでしまったかにみえますし、この年は洪水・飢饉にも見舞われたらしいですから、政秀は将来を全く悲観したものと思います。
あまり知られていませんが、それ以外にも、『松平記』などによると、永禄元年正月には、竹村長方・磯田貞秋・戸崎治弘・滝山行景をもって品野城を攻めさせていますが敗退していますし、『東照軍鑑』によると、永禄二年には柴田・荒川新八郎らに福谷城攻めをさせて失敗しています。このように、配下の国人衆を派遣しての戦いはみな敗退しているようです。
これらの負け戦は重要です。つまり、初期の信長には支隊を預かって戦い得る武将などは育っていなかったということです。信長自身が戦陣をきって督戦していない戦争ではたいして善い結果を得られていないのです。これは、信長の馬廻と足軽軍のいない、国人衆の軍隊(寄親寄子制)だけでは結束力が弱いということを表しているわけです。
以上のようなことから、平手政秀の諫死は、国人一揆を組むことのできなかった尾張国人衆の抵抗の仕方の一つでしかなかったとも思うのです。信長の行き方に反対する多くの国人衆は、謀叛はしないものの積極的な軍役を負うこともしませんでした。長く武装中立策を採っており、自身の利害に関係する戦争にだけ参陣しているらしいからです。
岩崎丹羽氏がそうです。彼の場合は、永禄五年(1562)正月、信長方であった水野信元(元康の叔父にあたる)の仲介で織田・松平の同盟が成ったため、丹羽家は当主氏職が隠居して諸輪北城(東郷町)に移って松平氏に服属する一方で、息子・氏勝が岩崎城に帰って信長に仕えることになったのですが、それまでは完全に武装中立であるというよりは、親松平であったように思えます。岩崎丹羽氏が経常的に動員されるのは、信長の上洛に際してからのようであり、その後は各地での戦に参陣しており、尾張・東美濃を基盤とする信忠軍団が形成されると、氏勝は信長の旗本として安土に移住していますが、後には佐久間信盛父子・林秀貞・安藤盛就ら織田宿老らと一緒に追放処分となっています。
前田犬千代(利家)の兄で宗家の前田利久も同じです。彼の場合には、『村井重頼覚書』に「永禄十二年の伊勢大河内城攻めから帰降した直後に、武者道少御無沙汰を理由に、家督を利家に譲るよう、信長の命令が下った」といいます。一般には、利久に実子がなく、病弱のためであったからだといいますが、小生は彼が国人領主として、「植木鉢のような官僚軍人になること」を拒み続けたからだと思います。「武者道少御無沙汰」とは、信長が嫌なら来なくても良いよ、と言ったのを真に受けて積極的に奉公しなかったことのツケであったのだと小生は思います。
もう一人、緒川の水野信元も同盟者でありつづけようとして、信長が大義名分を掲げて上洛の号令をかけるまでは、配下の武将を送ってはいるようですが、自身は参陣していないのです。そのため、彼は後年になって武田信玄に内通した疑われて殺されているのです。
彼らは、実質的に被官化しているにも関わらず、最後まで国人領主として同盟者であり続けようとした人たちです。ですから、信長の真意を本当に知っていた戦国大名は、徳川家康だけであったといえます。かれは性格が律儀であったから信長との同盟を裏切らなかったのではありません。「近世的な同盟」の意味をよく知っていたからです。
浅井親子もこれを理解できなかった人たちでした。信長との同盟は対等の同盟などではなかったのです。
(5)諫死するほどのウツケとは
さて、「無礼・無作法」が「うつけ」であったとすると、それが無ければ政治権力を維持できる見込みがなくなり、それが政秀を自裁に追いやるほど重大な政治要件であったことになります。また、後年粛清された林秀貞・佐久間信盛・伊賀伊賀守なども同様です。それは、彼等に出された、信長の折檻状の状々をみればそれがよくわかります。
うつけは「空け、虚け」と書き、中身がうつろなことをいいますが、小和田哲夫氏のいうような「既成秩序を覆して、それを超えている」ものには、佐々木道誉の「バサラ」があります。しかし、それは豪奢で金をかけて贅沢の限りを尽くしているのに対して、信長の様は実用一辺倒であり「文化」の欠片もなく見苦(見悪、醜)しいものです。
道誉のヴェクトルが文化的に上を向いているのに対して、信長のヴェクトルは正反対の文化に欠けて下を向いていたといえます。『総見記』は大うつけを「大失心者」と書いていて、その意味を「其此(の)世間は古風を慕うて、人皆公家の礼儀を忘れず、儀式を好む世なりけるに、此の如く、異相なれば、近国他国押並べて、織田信長は類なき大失心者とぞ申合ける」と云います。
『太平記』にみえる道誉は、謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う逸話を多く記していますが、信長の行状は実のある権威を嘲笑したり、実のある権威に反抗したりはしていません。従って、信長を「大うつけ」と評すのは、公家文化を継承した足利幕府によって与えられる公的権威の意味を知らず、利用できない大馬鹿者・大間抜けであるという意味であるのだと思います。
多くの戦国大名は、国人衆の盟主になるために室町幕府の権威による正統性(位階と官職)を必要としていました。足利義昭が将軍を廃されるまで足利幕府は続いていたからです。だから、道三との会見で信長が、「公的権威による正統性」の政治的意義をよく承知していることを示したときには、信長の周囲は驚愕したと同時に安堵もしたのだと思います。実際、それ以降の信長は「大うつけ」なことはしていませんし、言われてもいません。それでも一度だけ、周囲の者たちに「メガネ違い」であったかと失望のどん底に落とすことがありました。勿論、桶狭間合戦前夜の信長です。今度は「運の末には知恵の鏡も曇るとは、この節なりと」と家老衆に言われてしまいます。が、「ウツケ」だとはもう誰も言いません。知恵のある主君だと思って鮮やかな作戦を期待していたのだと思います。
下克上の本質は、公家文化を継承した足利家の興した幕府に反対して、武家政府を復興しようとしたものであるはずなのに、上っ面の京風文化の習熟度だけを競っていたのでは、(足利幕府)体制内での並び替えにすぎません。まさしく畿内では延々とそのような政争が続けられていました。そのような体制内での権力闘争から抜け出し、下克上という革命をなすには、「正統性」以前に「自身の実力」が必要だと、信長が本能的に感得したに違いないと思うのです。
それが、信長が国人衆に「憑まない姿勢」であり、政秀を自裁に追いやるほど重大で非常識な政策であったのだと、小生は思います。父・信秀や政秀は正統性を追い求めて覇権を打ち立てるのに成功しました。ですが、その路線は先行する東国の戦国大名たちから一歩も二歩も遅れをとった後追いの政策でしかありません。しかし、国人衆の支持がなければ尾張一国の統一どころか、生き残ることさえできないと政秀には思われたのです。だから、政秀は失望しただけでなく、生涯かけて磨き上げて奉公してきた自身の存在価値をも否定されたと感じたのだと小生は思います。
そのような中での政秀の切腹というのは、最大限の自己主張としてのパフォーマンスだったのではないのでしょうか?切腹というのは、当時、腹にあったという霊魂を他人に開示する=自分の真実・誠意を訴えるための最後で最高の手段であったのではないかと思います。
(6)信長の武辺道
ところで、桑田忠親氏は『織田信長』で「平手政秀の諫死に、信長が感動したのは、政秀が教育係としての責任をとるために、譜代の老臣としての最高の道、つまり、死の道を選んだからだ」と書いておられますが、信長の「武辺道」では、責任をとることは自裁が道徳だったのでしょうか。それを考えてみようと思います。
天正八年の佐久間信盛らへの「折檻状」では、武辺道にもとると佐久間等を責めてはいますが、その場合の責任の取り方としては双務契約である「軍役」において励むことであり、その証として手柄を立てるか討死しろとは言っていますが、自裁しろといっていないようです。
「武篇道(に)ふがひなきにおいては、嘱託を以て調略をも仕り、相足らはぬば、我らに聞かせ、相済むのところ、(中略)信長家中にては、進退(そのほうの立場は)格別に候か。(中略)(数)ヶ国の与力、其の上、自分の人数相加へ、働くにおいては、何たる(どのような)一戦を遂げ候とも、さのみ越(落)度を取るべからざるの事(中略)先年、朝倉破軍の刻、見合わせ(戦機を見逃して追撃に遅れ)、曲事と申すところ、迷惑と存ぜず、結(挙)句、身ふいちょうを申し、剰、座敷を立ち破りし事、信長面目を失ふ。その口程もなく永(長)々此の(大坂)面にこれあり(在陣し)、比興の働き、前代未聞の事。(中略)畢竟する所は、父子とも武篇(辺)道たらはず候によって、かくの如き事(となったのである)。(中略)この上はいず方の敵を平らげ、会稽(の恥)を雪ぎ、一度帰参致し、または討死する物かの事。父子頭をこそげ、高野の栖を遂げ、連々以て、赦免然るべきやの事。右、(そのほうらが)数年の内、一廉の働きなき者、未練の仔細、今度、保田において思ひ当り候儀。天下を治めるこの信長に口答えを申したのはそのほうが最初であるのだから、その勇をもって末の二ヶ条を実行してみせよ。それを受けぬ場合は、二度と赦免はされぬものと心得るべし。」
これは、信長が粘質気質で執念深かったというものではないと思います。いい加減に国人領主であるという観念をすて、信長が打ち立てようとしている、一職支配の軍事官僚になるように、長い年月我慢して使ってきたのに、という意味だと思うのです。
これは、明智光秀が謀叛を起こしたのも同じことだと思うのです。新しい時代の新しい「世界精神」を自分のものにできないまま、両世界に共通して有効な技術(政治・外交・軍事・行政など)を持っていたことにより、新世界で新世界の精神に改革できないまま要職に就いた者の悲劇です。………働くことがそのまま生甲斐にならなければ、働き続けることは心身を疲労させるだけだからです。出世を目的にしている限り、栄光の座についたならば、後は楽をして栄華に浸りたいわけです。永久に働き続けるためには、職に生甲斐を見出した職人にならなければなりません。唐天竺まで行くといった秀吉はウソでも信長の前では職人根性の塊であるかのように振舞い通しましたが、そのような人生に喜びを見いだせなかった光秀は精神的に挫折してしまいました。
では、新しい時代の新しい「世界精神」とはどのようなものであったでしょうか?それを探ってみます。
脇田修氏は、その『秀吉の経済感覚』のなかで、蓄財にはしる武将とそれに対して再投資を求める信長の例をあげて、「ある程度の地位になると、自家の保全を考えて、知行をたっぷりもらいながら、家臣を抱えず戦闘にも頑張らない連中もいる。それも人情である。」とされて、『信長公記』に有名な佐久間信盛への折檻状を紹介し、家臣への知行を吝って私財を貯めようとしたものとして、戦国武将としてはユニークであるとしておられます。また、「秀吉のやり方は、与えた知行に応じて、動員数を決めているのであるから、この(佐久間信盛)ような横着な連中に対しては、叱るだけではなく掟に背いたとして処分できるので、なかなか効果があったといえる。」とも述べておられます。
しかし、本当にそうでしょうか?佐久間信盛は本当に横着だったのでしょうか?
だとすると、信長の仕方は知行に応じておらず、一応は昔からの慣習に則った軍役ではあるわけです。が、その実、暗黙の了解である慣習に関わらず、出来る限り精一杯動員してくることを要求しているらしいのです。
- 『遠藤氏宛朱印状』「なおもって人数の事、分際よりも一廉(ヒトカド)奔走簡(肝)要に候、(中略)人数之事、老若を選ばず出陣に於いては、忠節可為祝着候」
- 『惣見記』信長公武田誅伐ノ爲ニ諸方ヘ御手分ノ事「 (前略)兵粮つづき候様にあてがい肝要に候。但シ人数多ク候様に戒メ、力次第ニ粉骨抽可き者也。」
- 『若狭武田氏宛朱印状』の「参陣を遂げられ御馳走簡(肝)要に候」
これは酷である。順調に勝ち進んでいるうちはさぼっていても目立ちはしないが、、何時かは必ず奉公(努力・誠意)不足を言われることになるからである。それが佐久間らへの折檻状になるわけです。
ですから、小生は、まったく逆ではなかったのではなかろうかと考えます。全国民が戦場での功名を唯一の成り上り=下剋上=身分解放の手段として熱狂し、これを歓迎して農村を捨てて足軽・雑兵を目指した熱狂は一種のバブルであり、信長によって惹き起こされた天下統一戦争がもたらした結果なのだと考えるからです。それが証拠に、天正年間の北条氏はその考案した進歩的な軍役制度によって農村から根こそぎ人々を動員したにもかかわらず、秀吉の金で雇った足軽の大軍に敗れ去った現実があります。これはそれ以前に信長に敗れた武田氏も同様です。史実は、進歩的な「知行に応じた動員制度」が、大量に金で雇う傭兵隊に敗れたのです。
戦国時代には多くの武将が功名を求めて知行以上の兵力を動員し、給人を抱えたのも事実ではありますが、これは信長が上洛してからの機運であって、それ以前は必ずしもそのようには言えないものと思われます。だからこそ、軍役に関する法律を整備して兵力を確保しようとしたのであり、兵力においては常に人手不足の状態が信長以前の各地の武家の実態であったはずです。何故なら、信長以前で功名を狙うものは家の次三男以下の子供たちが一家を立てようとしての事であると考えられるからであり、水争い・土地争い・飢饉でもなければ敢えて他領を侵犯して戦を起こそうというものは、それ程一般的であったとは思えないからです。
古代律令国家が機能しなくなってからの日本は、一種の戒厳令下にあったようなものですから、中央政府が機能していても社会の基調は自力救済であったことは間違いがないと思います。そして、軍政を敷く中央政府が秩序が保てなくなって、現地での自力救済がより強く求められるような現実が出現するなかで、人口の自然増に対応できない農業経済(耕作技術・水利技術など)という社会圧力から、室町末期には社会構造の再編成への欲求が沸点に至ろうとしていたわけです。しかし、そのような社会の変革の欲求を持つ者(庶子や下層耕作者)は「持ったざる者」ですから、鎌倉以降に確立されてきた一子相続制という歴史的にも合理的な社会制度に真っ向から矛盾するものでした。分ける土地がないうえに、新たに獲得する術もないのですから。土地を開発する技術と資本が蓄積されるのは戦国時代も最終段階になって豊臣大名たちが嚆矢なのだと小生は感じます。
信長の革命は、そのような矛盾する社会への欲求と相続制度の歴史的合理性という矛盾を解決するために、折から世界的に勃興した海外貿易経済ネットワークに組み込まれた日本の状況に反応して、重商主義的領国運営をすることにより、余剰人口を馬廻と足軽として人的消耗の激しい統一戦争に動員することであったわけです。そのために要した原始資本は津島・熱田などの商業流通経済にかけた税金で賄っています。このシステムは、余剰人口とそれを投入する必要のある戦争がある限り機能するわけですが、史実は純余剰人口を超えて農業生産に必要な人口までを吸収しはじめるという定向進化を遂げた結果、人返し令を発し、身分制度を固定化させただけでなく、朝鮮へ出兵する必要が生じるまで行ってしまっています。
ところで、知行に応じて動員数を決めるということは、桶狭間合戦以前に北条氏などでは既に行われていたことであり、鎌倉以来の慣習として漠然としてではあっても、動員には世間相場というものがあったはずです。そして、そのような慣習を励行させることができるかどうかは、盟主になる者の力量にかかっていたのであり、奉公する側は投資に利ありとみれば、世間相場以上の動員をかけて奉公して恩賞を期待し、あわよくば功名の上出世したいという行動は普遍的であったのではないでしょうか。従って、軍役を法として制定するということは、自発的な行動が現実にそぐわなくなったことの表れであり、現行システムの限界を示すものであると小生には考えられるのです。
北条氏の軍役しかり、秀吉や江戸幕府の軍役しかりです。北条氏の場合は必要兵員確保のためであり、秀吉の場合は多すぎる兵員の合理的動員のためであり、江戸幕府の場合には余剰兵力を削減させるために制定されました。そして、信長の場合には、「現行システムが最高潮に達する直前に生じる特有の問題」として、一般の自主性に任せられなくなってきたという事実があり、いよいよ法律として明文化する必要が生じてきた前段階にあったことを示しているように小生には思えます。
さて、話を佐久間信盛の場合に戻します。
佐久間信盛が家臣への知行を吝って私財を貯めようとしたというのは本当の事でしょうか、本当だとしたならば何故信盛は知行を吝ったのでしょうか。旧水野家臣の知行を減らすことは、一概に信盛の給人を増やさなかったことだとは言えないと思いますし、疑り深い信長が本当に信盛が自身の給人を増やすことに同意したとも思えません。散じたのは水野信元の家臣であり、歴戦の中堅幹部連中です。
まず信長折檻状の条々から分かることは、佐久間信盛ばかりでなく他の誰もが本貫地の尾張において知行地が、それほど増えているわけではないことに気づくはずです。斑模様にであろうと一定地域に知行地を得れば、その地域で勢力を得て信長に対抗できるようになれるのですが、信盛がいかに大身になろうとその自前の直轄兵力は、桶狭間合戦当時から増加することはなかったのです。
佐々成政にしろ前田利家にしろ尾張における本貫は増加していませんし、尾張国内で勢力を伸張させて信長に対抗できる余地はなかったのです。また、増加した知行もそこから上がる年貢を一定額収納する権利だけであって、その土地と人に対しては実質的な支配権が生じていないことも重要です。年貢収入で応分の将士を雇えと言っているわけです。ですから、尾張統一を戦ったときの信長の動員兵力は常に二千以下であり、身内の協力者が一千程度を率いて参加することによって三千の兵力を集めているわけです。従って、岩倉織田氏を倒す時点での信長の動員兵力が敵・岩倉織田氏より少ないと、諸書に伝わることに対する疑問を起こさせるわけです。
第二に分かることは、職を持ったことによって支配地の武士と「強固な人間的なつながり」が構築されていないことです。「先々より人数これあるべしと思ひ候ところその廉もなく、剰、先方の者どもをば多分に追ひ出し」といい、「信長詞をもかけ候者ども、ほどなく追失せ候儀」というように、その支配の実態は「中抜き」であって、中間搾取を排除するものであったわけです。
これは、ある意味でそれまで輻輳していた職の体系を、一刀両断に簡素化して下位にあった自作農を直接支配する契機になったものと小生は推察しているのですが、実証はできません。ただし、信盛やそれを命じた信長の意図に反して、質的には兵力の強化に繋がらずに、結局は水野忠重を呼び返して、旧水野家による支配を行うことになっています。現に、旧信元につながる人材は四散したのですが、だからといって佐久間信盛はその跡職に検地を断行することなどはできていません。
信長自身が証言しているように、信盛の威勢は信長によって付随せしめられた与力によって作り上げられているため、信長が一言発すれば抵抗の余地などなく、高野山に逃げ隠れる他はなかったのです。
では、信長は信盛が自己の手兵となる給人を増やすことを望んでいたでしょうか?それは否だと思います。信長が望んだのは、寄騎をうまく使いこなす高級官僚としての統轄能力であったはずです。
信元なき後の佐久間信盛支配下に置かれた緒川・刈谷はどのように支配されたかということを僅かに語る『家忠日記』に尋ねますと、そこでの忠分一家は緒川と山崎との両所に表れていますが、緒川・刈谷を支配した信元がいなくなっても、緒川水野一家を除けばさほど混乱した様子はありません。当時の知多郡は、国人領主が寄親になってくれなくても、十分に安定した領国経営がなされていたと思われるわけでして、政治・経済的には寄親としての水野氏がいなくても、それ以下の与力らには何ら問題は生じなかったということだと思います。つまり、東海地方は戦乱から免れることができていたわけです。パックス・ノブナガーナというわけです。それだけ在地に根ざした地侍・百姓が育っており、一般兵員の動員には何の支障も生じなかったということだと考えます。
例えば、信元の衣浦水軍の水軍奉行ではなかったかとも思われる亀崎城(半田市)の稲生重政も、浪人すると師崎の千賀氏に客分として招かれています。(ここで、重要なことは天正三年時点での佐久間信盛が伊勢湾に水軍が重要であるとは思っていないことです。前年の第三次長嶋攻めで伊勢湾に大艦隊を編成したにも関わらずです。)信長初期のこれら有力国人衆が粛清されたあとに、その与力・被官クラスの小領主たちが歴史の中心に踊り出てきている事実があります。
逆にいえば、寄親クラスの武将に求められたのは、広域行政能力であり外交力であり軍団の組織・指揮能力になっていたように思えます。要するに、信長初期のこれら有力国人衆が粛清されたあとに、小領主たちが歴史の中心に踊り出てきている事実は、国人を単位とした軍事組織が官僚的軍事組織に再編成されつつあったのではないかと小生は思うのです。
では、信長の指示を受けて行われたと思われる佐久間信盛の施政の何が問題であったかといえば、専業軍人である中間管理職を大幅にリストラした結果、大軍の指揮管理能力が大幅に低下したということになったのではないかと小生は考えます。その結果、中間層を取り除かれて自由になった自作農クラスが増加したということは、農業生産に支障をきたす兼業軍人が増加したということにもなるわけです。佐久間信盛は水野家を解体して直接統治を目指したのであると思います。勿論、信長の意向です。
『信長公記』の折檻状が教えることで重要なのは、信盛が信元家臣団の直接支配を、更に新しい段階に推し進めることに失敗したということです。信長は信盛を一方的に責めていますが、それは政治家としての結果責任を問うているけだと思います。所謂、ガス抜きを目的にしたスケープゴートに信盛はさせられたわけです。目的や目標が信長と同じだから良いと云うわけでも、それに向かって忠実に働いたからよいというのでもないのです。その地位にあり権力を預けられた政治家として、結果を出せなかったことを責めているのだと思うのです。それは、佐々成政が肥後経営の責任を秀吉にとらされたように、その急進的な施策に結果を出せなかったことが原因であるのと同じです。
新しい時代の新しい「世界精神」とは、与えられた目的(任務の束)に対して合理的に行動する近世的な官僚精神でしょう。
施政技術や軍事技術は、精神とは独立したものだからです。小室直樹氏が日本型資本主義を「?(ヌエ)」というのと同じで、精神がなくても超高層ビル群は建つのです。
話を自裁としての切腹に戻します。
ところで、信長の「武辺道」での責任の取り方は自裁を要求していません。『信長公記』は佐久間信盛らへの折檻状で、こう書いています。
「一、この上はいず方の敵を平らげテ会稽(の恥)を雪ぎ一度帰参致し、または討死する物かの事。一、父子頭をこそげテ高野の栖を遂げ、連々以て赦免然るべきやの事」
そうしますと、信長の論理からみますと、切腹はありませんで、あくまで結果を求めていますから、政秀は最後まで「武辺道の者」として自己を全うしようとしたならば、武功をあげて武士としての面目をもって帰参するか、討死するか、武士を止めて出家するしかなかったことになります。しかし、佐久間信盛の結末を見ますと、信長は出家することで良しとはしていませんから、武士である限りは野垂れ死にするしかないようです。
………信長には名誉ある自己完結として姿として残すということを許すという思想はなさそうです。自身の始末も、松永久秀が名物・平蜘蛛と共に一切粉々に消えうせる道を選んだように、是非なしとして本能寺の紅蓮の中で跡形もなく消し去ってしまいました。
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水野信元や徳川松平信康の謀反を疑って誅殺したときはどうだったでしょうか?
どうも、この二例は政治的理由が真実ではあっても、建て前としては刑罰としての切腹であり、斬刑ではなかったかのように思えます。とすると、切腹は身分に伴うものであったのでしょうか?
ところで、またまた話は変わりますが、武士である政秀が諫死しなかったならば、荒木村重のように離反するか、明智光秀のように謀反するかしかありません。村重には外部に支援者がいましたが、政秀は孤立していました。後の林秀貞や柴田勝家が反旗を翻したときも、国中の国人を集合して一揆するということはできませんでした。その結果、尾張国では反対者は各個撃破されていったのです。岩倉織田家も清洲織田家も刈谷・緒川に拠った水野家も旗頭になることはできませんでした。政秀は、謀反して織田弾正忠家を乗っ取っても、被官らを従わせる大儀もありません。後の竹中半兵衛重治がそうであったように。
つまり、政秀は織田弾正忠家の重臣としての将来が失われてしまったわけです。政秀の教養と文化人としての人脈を通じての外交能力は、信長にとっても有用なものでしたが、後に明智光秀が義昭を仲介したような働きをできたかは不明です。
その後の信長の政策をみますと、武辺一辺倒でして、上洛の機会が訪れるまでは長く京都の権威を必要としませんでした。官位も私称して事たれりという態度を長く続けています。信長が京都の権威を必要とするようになるのは、自己の武力が行き詰ってからのことなのです。つまり、信長が必要とした調略技術は幕府の権威や京文化への憧れを媒介とした外交などではなく、丹羽や滝川・木下によって行われたであろう利益誘導型の泥臭い政治工作だったために、政秀は「自己の存在意義」を失ってしまったのではないのでしょうか。
ところで桑田氏は、「戦国時代の侍道や武辺道は、より実際的で、侍なり武者なりの、行動そのもにたいしていうのである。つまり、あるときの戦いで、かけひきがつたなくて敗北すれば、侍道の筋目を違えたとか、武辺道にそむくところがあったなどというのであった。…武士は、戦場にのぞめば、あくまでも、敵に勝たねばならない。敵を倒すか、じぶんが討死するか、二つに一つだった。中途半端な、曖昧な態度は、卑怯未練なふるまいとして、絶対に許されない。戦いに勝つことを唯一の生きがいと感ずる戦国武人の、追い詰められたような緊迫感は悲壮というほかないのである」とも書かれています。
すると、最近言われるようになった千秋・佐々らが氷上砦を守っていて一戦もせずに逃げ出して中島砦にいたが、信長の参陣を知って制裁されることを恐れて、無謀な突撃を敢行したというのは、筋が違うようである。
駿河勢が大軍であろうがなかろうが、とにかく一戦に及ぶことが武辺道であったろう。これは、三方ケ原の家康なども同じだ。武士としての面子があるから。これは、ヤクザと同じで「舐められては」シノギが立ちいかない。もし見殺しにするようでは、武士である国人衆や地侍たちは、信長に付き従わなくなる。是非も無く、後詰に動くのが武辺道だ。戦国武人である家老衆には、他に異見などはない。敵の調略に乗らなかった以上、とにかく一戦したうえで自分を高く売りつける道しか残されていない。
戦国「武辺道」の卑怯を憎む心というのは、近代人が考えるような「一般的正義を守る精神」などではなかっただろう。新渡戸が武士にとって卑劣な行動や曲がった振る舞いほど忌むべきものはないとしたのは、儒教が武士の教養として武士社会に行き渡ってから後世のことである。戦国時代の卑怯という感覚は現在の人々が「キレル」という感覚に近いのではなかろうか。眼を付けられたからといってキレ、追い込まれると逆切れするのと大して違わなかったのではないかと感じる。
自身の方に理があるか否かということには関係なく、自身のアイデンティティー[identity]が危くなることを死守するということに尽きるのだろう。そこに算盤が入ってはいけないのである。「ならぬことはならぬ」のもそういう意味なのでしょう。そこには、為政者としての「貴族の義務」(ノブレス・オブリージュ/noblesse oblige)などという観念などはありません。いうならば、「やくざのやくざたる所以」でしょう。だから、義理を弁ずる事は端から欠けています。
(7)資料
(1)平手政秀(1492〜1553)は、清秀ともいう。五郎左衛門。中務丞。後世の平手一族は野口と改姓し、下三宅近隣にその家系を現在まで引き継いでいる。平手政秀の墓は信長の建てた名古屋の政秀寺にあり、下三宅の平手一族の菩提寺である長福寺境内の墓は政秀寺の複製である。江戸時代には堀があったともいう西志賀城(北区平手町二丁目、志賀公園)は、築城年月日や城主など一切不明となっているが、平手政秀の館跡と伝わる辺りを城戸といって政秀の城と考えられている。
(2)平手政秀は勝幡城下に居を構え、山科言継卿記によれば、下向の際の接待に活躍している。信秀の名代で上洛、内裏修理料を献上するなど宿老としての役割を果たしている。後世の平手一族は野口と改姓し、下三宅近隣にその家系を現在まで引き継いでいる。平手政秀の墓は信長の建てた名古屋の政秀寺にある。下三宅の平手一族の菩提寺である長福寺境内の墓は、政秀寺の複製である。
(3)西志賀城(北区平手町二丁目、志賀公園)は、築城年月日や城主など一切不明となっているが、平手政秀の館跡と伝わる辺りが城戸といったらしく、政秀の城と考えられている。江戸時代には堀があったともいう。
(4)平手氏は、下野国に起こった氏族とされ、十五代に尾張へ来住し、始め荒子村に居住して十六代は小木城と西志賀へも進出し、十八代が平手政秀であるという説がある。
(5)『尾張恂行記』は、「一又云、同村(春日井郡小木村)平手中務大輔屋敷跡ハ、村ノ北小牧境ニアリ、土居残りタリ、小芋屋敷ト見ユ」としますが、この小木村に信長は沢彦宗恩を開山として「政秀寺」を建立したといいます。
(6)信元の死様については諸説ある。『三河物語』は触れていない。『松平記』は切腹したとするが場所を記さない。『寛政譜』の記事が最も雄弁で、信長に追討を命じられた家康の家臣・石川数正と平岩親吉によって三河大樹寺において殺害されたとしている。当時の徳川家康にとっても水野信元は邪魔な存在であったのだろう。『新編東浦町誌』は、「この出来事は三河からの武田氏の脅威が除かれた時点で起こったことから考えて、尾張、三河において信元が持つ権力の排除が目的であったという見方もできる。」と考えているようだ。
(7)近年の見方では、信玄が嫡子・義信を処断したと同じで、家中を二分に割る路線の対立とみて、家康が信長に要求されたというより、家康に対して信康が家中を二分するような人気または支持が集まったことが原因ではないかと小生は思うのだが、信康の正室が信長の娘であるため、同盟を堅持するために信長には了承を求めただけという説であるが、小生もこれに組する。この時代は、家族も家中も団結している方が珍しく、領国の中小領主(家臣)はそれぞれに従属しているため家中の団結が難しい。一見、強い兄弟愛を喧伝される北条氏にしろ島津四兄弟・毛利の両川にしろ、君主の一存で意志決定できない分立体質を表しているだけだとも考えられる。





