<信長の勝因、義元の敗因>
<その一、撤退は難しいという戦術上の理由>
『真説・桶狭間の戦い』で明らかにしましたように、今川義元が大高城からの引揚げの途中で桶狭間山に大休止したものであるならば、今川義元の桶狭間の戦いでの敗因は、そもそも「撤退は難しい」からなのではないでしょうか。つまり、義元が撤退をさっさと済ませなかったことが敗因であるということです。『三河物語』で石川六左衛門尉はそう云います。
撤退戦の難しさの例を挙げれば、………
- 嚢の鼠になりそうになった信長は軍勢を置き去りにして身一つで金ヶ崎の戦場から脱出したといいます。結果的には、それなりの軍勢を殿軍をおいて、繰り退きさせたようでして、比較的整然とできたようですが、よく信長政権が瓦解しなかったものだと感心してしまいます。信長軍は三万もの軍勢がいたといい、此の時の浅井朝倉勢が姉川合戦のときと同様の兵力であったとしても一万四千程度でしょうから、二倍の兵力があったわけです。それに、信長にモンゴル騎兵並の機動力があったならば、前面の敵を撃破したあと、返す刀で背後の浅井勢を血祭りに上げることは可能なはずです。ヌルハチによるサルホの会戦のように。しかし、信長がそのような戦術を思いもしなかったところを見ますと、そもそも織田軍には一般に考えるような機動力などはなかったと考えるべきでしょう。
- 長島一向一揆との戦いでも、天承元年には撤退中をゲリラ的な襲撃を受けて大敗北を喫しています。
- 信長自身は参陣していませんでしたが、天正五年の手取川の戦いでは、勝家が七尾城の落城を知って撤退命令を出したのは全軍が手取川を渡河してしまった後でした。そのため、そこから撤退するに当たって再度渡河している途中を謙信の攻撃を受けることになったうえ、手取川の増水のために渡河に手間取っていたこともあって大敗になった例があります。この時の織田軍は、地元農民の協力を得られずにいたため、まるで上杉軍の様子を知ることができない状態だったことが分かっていますから。どれだけ恐怖に駆られていたかが思いやられます。ですから、信長から撤退命令が出た時には、どれだけほっとしたことでしょう。このように、戦意が失せてしまった所を攻撃されたならば、一溜まりもなかったことは当然だったものと思います。
- 信長の父信秀も、天文十六年に稲葉山城に齋藤山城守道三を攻めたときには、「既に晩日申刻に及び、御人数引き退かれ、諸手半分ばかり引き取り候所へ」道三に斬りかかられて大敗しています。
桶狭間合戦での今川義元が、織田方を攻撃する態勢でなかったことは、先備を立てただけで右翼にも左翼にも部隊を展開していないことからわかります。藤本正行氏などは『信長の戦争』に「今川軍は(中島・善照寺)両砦に対して戦闘態勢をとったのである。こうして、善照寺砦の信長と桶狭間山の義元とは真正面から対決することになった」などと書かれていますが、これは明らかに誤認です。
『信長公記』には、はっきりと、「御敵、今川義元は四万五千引率し桶狭間山に人馬の休息これあり、五月十九日午刻(正午)、(義元は)戌亥(北西)に向って人数を備へ、鷲津・丸根(を)攻め落としこの上もない満足これに過ぐべからざるの由にて、謡いを三番謡はせられたる由に候」と書いてあるからです。「人馬の休息これあり」なのですから、どうみても攻撃態勢であったとは思えません。この時の今川義元の備えは、攻撃的なものなどではなく、飽くまで大休止の本隊を防御することを目的にしたものだと小生は考えます。
信長の撤退戦の成功例には、元亀元年六月の姉川合戦前に行われた簗田左衛門太郎(広正)・中条将監・佐々内蔵助(成政)ら三人によって行われた「繰り退き」と信長自身が走り回って指揮した堂洞砦攻からの帰還途中のものがあります。
参考:永禄八年(1565)九月の堂洞取出攻のおり、「翌日、廿九日、(信長は)山下の町にて頸実検なされ、御帰陣の時、関口より長井隼人正、並に、井口より龍興(が)懸け出でられ、御敵人数三千よあり。(これに対して)信長(の)御人数は讒(ザン:悪し様に言うと)七、八百これに過ぐべからず。(そのうえ)手負・死人(も)数多(く)これあり。(信長が)退かれ候所はひろ(広)野なり。(信長は)先(ず)、御人数立てられ(陣を構へ)候て、(その間に)手負の者雑人どもを引き退けられ、足軽を出すやうに、何れも馬を乗りまわし、軽々引き取って、退(の)かせられ候。御敵(は)ほい(本意)なき仕合せ(結果であった)と申したるの由に候」
長篠合戦なども、武田勝頼が鳶ノ巣山砦群を排除される前に撤退していたならば、あのような大敗を喫しはしなかったことは明らかなのですが、武田軍が織田・徳川連合軍を攻撃しなければならい羽目に陥ってしまったからには、一撃しておいて敵に後を慕わせないようにする必要があったのです。鳶ノ巣山砦群が無事であったならば、戦闘に陥ることなく敵から離脱できたと思われます。「面目がなくて帰れない」のではないのです。現実的に、引揚げられないのです。
実際、いったん敵と近くに対陣してしまうと、行軍の後尾に食いつかれて攻撃されたり、先回りされて横撃されたりと、整然と撤退できなくなってしまうのです。迎撃しようにも兵を展開することも儘なりません。「繰り退き」ができれば良いのですが、全軍を三隊程度に分割して敵を迎撃しようとしますから、戦闘に従事する味方は圧倒的に少数になります。うまい具合に節所に陣取って戦ったとしましても、激戦になるでしょうから敵の攻撃を支えることは容易ではありません。道の細いところで迎撃している間に迂回されて背後を断たれることにもなりかねません。それよりも、何よりも戦意・士気が違います。浮足立っているからです。
戦国時代の軍隊は規律がありませんから、整然と撤退することなどは、したくてもなかなか出来るものではありません。ですから、一度対陣してしまうと、一撃して敵を怯ませた後でなければ、安全には離脱できなかったのだと思うのです。
つまり、『朝倉宗滴話記』の第七十七条に「敵が優勢なのを聞いて退却する聞逃(キキノガレ)は構わない。しかし見逃(ミノガレ)はいけない。退却するということは難しいもので、うまく退くことはなかなか無い。従って、敵が優勢なのを見たら健気に戦って全滅する覚悟でなければならない。しかし、聞逃は戦術の一法であるから、敏感に臆病に退却するのがよい。だから昔から、耳は臆病にて、目は健気という。」とあるのは、このことを云うのだと思うのです。耳が勇敢であった長篠での武田軍は兵法通りに行わず、目は健気にと兵法通りに戦ったのですが、兵法通りに撃ち負けたわけです。
同様に、今川義元も大高城からの帰りであるのならば、さっさと信長が善照寺砦に参陣する前に撤退を終わらせて置かなければならなかったのです。そして、信長が善照寺砦に参陣した以上は、すぐさま陣を攻撃隊形に展開して、一戦に及ぶべきだったのです。それを、敵が少数とはいえ、通常の大休止の警戒態勢のままで、居続けたことが義元を運の尽きにしたわけです。『三河物語』で大久保彦左衛門は、石川六左衛門尉の口をかりて徹底的に非難しています。
関が原合戦での島津軍の「捨てかまり」とかいう戦法も長篠合戦に似ています。勝頼は織田・徳川連合軍に一撃しておいてから陣を退きたかったのです。関が原合戦での徳川軍は攻撃前進していましたから、長篠のような堅固な陣城も蓮吾川もなかったために、中央突破を許して島津軍を取り逃がすことになっただけの違いがあるだけです。それでも一千名の兵力で生き残って帰還できたのは八十人といいますから全滅なのですが、心理的効果は大きく、武田勝頼は国を失いましたが、島津義弘は国を保ちました。
<ランチェスターの法則で考える桶狭間合戦>
ランチェスターの第一法則は、一騎打ち型の戦いで一回限りの対戦であり武器の性能が同じであれば、損害の割合は数の多い少ないに関わらず同じであり、数の多い方がその差分だけ勝つといいます。ですから、両者の体力、技量や武器の質がものをいいます。
少なくとも、桶狭間合戦までの信長の兵力は七〜八百であったといわれ、敵は一千五百ぐらいまでを相手にしています。桶狭間では十倍以上であったとされています。それに、一般に、尾張兵は弱い。尾張兵三人に三河兵一人といわれます。尾張兵は体力に劣るのは、三河より商業が進んでいたから軟弱だというふうに捉えてしまいますが、本当にそれでよいのでしょうか。信長は、尾張兵の軟弱さをカバーするために、上洛戦からは大軍を催したのでしょうか。………それならばなぜ、美濃征服戦には尾張国中を上げて戦わなかったのでしょうか。
第一法則では、相対的時限的に味方の兵力を集中し、敵を分散させて相対的に優位な状況を作り出せたところを機動力によって奇襲し、各個撃破することを目標にしますが、信長の戦術はそのような「弱者の兵法」に適っていたといえるでしょうか。一般には信長軍には機動力があったといわれますが、本当にそう言えるのでしょうか。奇兵や伏兵を用いたでしょうか。………いずれもありません。
特に信長軍の機動力については、まったくの誤解です。信長軍の行軍速度は他の戦国大名の軍隊と変わるところはありません。信長が早かったのは、判断と決断です。それは、信長自身に限った逃げ脚の速さからみて分りますが、信長軍自体には左程のスピードはありません。他の戦国大名の行軍速度と変わりません。
『信長公記』を見る限り、信長の戦法は常に正攻法の真っ向勝負でした。多くの人は、信長は生涯に唯一度だけ博打をうったが、それ以後は二度と危険な賭けにはでなかったとして、賞賛していますが、果たしてそうだったのでしょうか。………私は違うと思います。信長は桶狭間でも博打をうったとは思いません。信長は生涯に渡って同じ戦法で戦い続けたのだと思います。奇策も用いず、伏兵も用いなかった信長の兵力が、少数であったということの方を疑うべきではないでしょうか。
そこでまず、第一に考えられることは、総兵力に占める実質戦闘力が敵より多いことです。これは、『三河物語』で石川六左衛門尉が証言しています。
第二には、世間でいわれる火縄銃や長柄鑓の装備がありますが、少なくとも桶狭間合戦まではあくまで個人的な武器の一つとしてしか使われていませんでした。橋本一巴は弓矢と決闘していますし、村木砦攻めでは信長自身が、恐らく信長だけが三〜四挺もの鉄炮を所有していたのでしょう、取替え引替え連射しています。組織的には使われてはおりません。ですから、信長軍の武器が優越していたという理由にはなりません。………それに、ランチェスターの第二法則は、「技術的な優位」は甚だ僅少な効果しかもたらさないということ教えています。そこでは、継続的に戦われる場合には、軍隊の力は「規模」に比例するのではなく「規模の二乗」に比例するからです。
ということは、質を高めて数に対抗しようとした場合には、兵数が二倍の敵なら四倍、兵数が三倍の敵なら武器の精度を九倍に高めなければならないということです。肝心な点は、数の増加に質で対抗するには二乗倍の精度や効率を高める必要があるということなのです。つまり、技術的な優越によってもたらされる利益は極僅でしかないというのが現実なのです。革新的な技術でなければ、数には対抗できないということです。そしてこれは、朝鮮戦争やベトナム戦争での人海戦術が証明しています。
閉話休題 <武田信玄の投石隊>
信玄の合理主義が軍事理論と経済合理性を追求した結果、材料費無料の投石隊を採用したのだという説もあるようですが、これも眉唾ものです。石は弾丸に比べて重く嵩張りますから、川原でもなければ手頃な石が何処にでも転がっていて、手軽に手に入るわけではないでしょう。ですから、石を運搬する労力は大変な負担になるはずでして、武田家でも弓隊や鉄砲隊の代わりに、何時も投石隊を使用したわけではないと思います。城塞に立て籠るような専守防衛の場合には礫を集積しておくことも可能ですから実際にも行われましたが、攻撃前進する場合には運搬に支障が生じますので、主力兵器にはなりません。また、同じような議論に、「限られた費用の配分としては、鉄炮よりも騎馬に振り向けられるべきである」というものがありますが、これも一見正しいようであっても、間違いであると言っていいのではないでしょうか。何故なら、武士の乗馬というのは身分であって、道具ではないという歴史的事実があるからです。
ランチェスターの第二法則を桶狭間合戦に適用するならば、鉄炮と長柄鑓を装備した信長軍が、例えば五倍の義元本隊に対抗するには、五の二乗にあたる廿五倍の殺傷効率の武器を持っていなければならないことになります。通常の兵器を装備した義元本隊の殺傷効率が1%ならば、25%もの高率でなければならないのです。ところが、信長軍は時代が新しくなって鉄炮装備が多くなったろうと考えられるにも関わらず、敵に優れて兵員を動員していながら、敵の敢闘を許しているのです。姉川合戦然り、長篠合戦では大勝したとは言うものの、数に勝る信長軍の方が野戦築城に拠っているのです。ですから、敵より一間ほど足軽鑓が長くても、火縄銃が二、三百挺多くても数には対抗できないのです。
工夫が入ります。長柄鑓の場合は規律と訓練、火縄銃の場合は長篠合戦のような野戦築城です。これには、東郷平八郎が日本海海戦の後に「百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門に匹敵する」と語ったというのに対して、後に井上成美が「百発百中の砲一門と百発一中の砲百門が撃ち合ったら、相手には百発一中の砲九十九門が残る」と批判した話があります。ランチェスターの第二法則の宣伝に良く使われる逸話です。
最後に考えられるのは、「質」のうちシステムです。
具体的には二、三男を親衛隊に仕立て上げたことにありますが、それは一家を打ち立てるべく若者たちの士気が高く、消耗を補充するというメリットがあったことが考えられます。そこで、小生は、信長は「実質的には敵に優越する兵力」で常に戦っていたと思うのです。
『三河物語』には、「この敵は武者を持ちたるか、また持たざるかと云う。各々の仰せに及ばず。あれ程若やぎて見えたる敵の、武者を持たぬことや候はんか。敵は武者を一倍持ちたりと申す」という石川六左衛門尉が織田勢を評価した話しがそれです。恐らく、桶狭間の合戦でも、信長の率いた二千名は実質戦闘力であって、旗持などの威嚇が目的の雑兵は殆どいなかったものと思うのです。『天理本信長記』には熱田や山崎の町衆が戦争見物に着いてきたが、信長勢不利とみてみな引き揚げてしまって、手薄になってしまったといいますし、熱田や善照寺砦に偽旗を掲げたという話が喧伝されるのは、それを補うために信長が強制的に徴発したのかも知れません。
これに対して、今川義元の本隊の兵力を、当時の戦国大名の軍勢が総兵員の一割程度が実戦闘員であるといわれていたことから考えると、桶狭間に義元本隊が八千人程度でしかいなかったとすれば、その実戦闘員は多くても一千五百人程度であり、そのうち、『信長公記』により旗本が三百騎程度と見做されることになります。『信長公記』の義元を囲んで退いた三百騎から逆算しますと三千人に先備・脇備・後備を一千人ずつ加算して六千人程度ということになります。
『桶狭間合戦記』に、「松井兵部少輔家信等は(中略)このとき手勢二百騎、雑兵共には、七百余を率して出でたりとなり、旗本の先手、この一将ばかりにては有まじきか、宗信が事は当国、松井家の言伝へ慥かなり、外先陣のことは知れず」とありますから、各備に一千人づつを加算することは相当ではないでしょうか。
それでも、数は力なりでして、百姓ばかりといえども数に勝る方が強いのは、それまでの数々の戦いで今川勢に勝てなかったことからも分ります。ですが、私は、実質戦力的には信長の方が優れていたから、中島砦を出るときに「あの(今川の)武者(は)、(前日の)宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、疲れたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るるなかれ」と訓示できたと思うのです。
話を信長と信玄との戦いに移しますと、史実は三方ケ原では信玄が勝ち、上洛戦では信長が勝っています。信玄は途上で病没しているからです。これを科学しますと、ランチェスターの法則でよく説明できます。一回限りの戦闘である三方ケ原合戦は第一法則で説明できますが、それからの数次にわたる戦闘については、第二法則を適用しなければならないからです。
閉話休題 <兵農分離>
農民兵の比重が高い中世的な軍隊は、農地の単位面積あたりにおいて、兵士を多く徴発できるから、傭兵制よりも有利であるという説があります。これは、貫高制のほうが傭兵制などよりも、兵士を農村から効率的に極限まで徴集できると言っているのです。これだけみると、筋が通っているようにみえます。支配する農地面積が同じならば、北条氏や武田氏の方が、信長よりも兵隊を多く集められるというわけです。信長軍のように、兵農分離が進行しつつあれば、逆に農民を兵士に徴発することが制限されてしまっているためにで不利だというわけです。ですが、これには何か釈然としない胡散臭さを感じます。………実際には農兵分離の進んだ方が、絶対的に多数の兵士を集めたのですから、史実に反します。ですから、そこには誤魔化しがあります。
この説では、兵農分離とは「農民を兵士に徴発しない事などではない」ことを隠しています。豊臣秀吉は、田畑を捨てて足軽・武家奉公に出てくるのを止めようとして、人返し令を発しています。兵農分離は農地を耕すより、戦場で一旗あげることに将来への希望と魅力があったからこそ人が集まったのです。社会全体にそういう雰囲気もあったのです。また、為政者側からは、土地の一職支配を貫徹することが、兵農分離の目的なのです。
逆に、貫高制の軍隊では農村から農民を根こそぎ兵士に徴発してしまい、兵士の供給原である農村を信長より先に疲弊させてしまっています。武田も北条も三ヶ国程度を領国化するだけで国力の限界だったのです。兵農分離はそれを少しだけ遅らせましたが、止めることはできませんでした。封建制は全ての力の源泉は農村から根こそぎに収奪することにあったからです。
理由は簡単です。素人を徴発しての征服戦争の効率では、それによる領土獲得によって得られる農民兵の増加が追いつかなかったのです。兵農分離し始めた傭兵主体の信長軍でさえ、越前征服戦争が石山本願寺の参戦で頓挫すると急激に、農民の離村が表面化しはじめています。信長側では、秀吉がそれに気づいた最初の人だったといいます。信長は最後までその危険には気がつかなかったらしいともいいます。
また、農兵はプロではありませんから、武技にも劣ると思われますし。その一方は、自由人としての「御恩と奉公」ですが、他方は「官僚としての任務と俸給」の体系でしたから、軍事的な生産性は兵農分離のほうが高かったものと思います。
現に、一回一日限りの戦闘であれば、農民を根こそぎ兵士にできれば兵数は信長に勝てるでしょうが、一度消耗戦になれば補給が追いつかなくなるのです。それを証明した端的な史実が『信長公記』にもあります。即ち、信秀が死んで謀反した山口九郎二郎と戦かった赤塚合戦です。このときの九郎二郎は千五百の兵を集め、信長は八百程度でした。戦闘は勝敗がつかなかったようですが、それ以降の駿河勢は鳴海城に押し籠められてしまい、二度と千五百の兵を集めることはできなかったのです。それよりも、もっと象徴的な戦争が、秀吉と家康が戦った小牧長久手の戦いです。家康は、長久手で完勝しましたが、結局は秀吉に屈しなければなりませんでした。一般には、これを秀吉の人たらしや外交の勝利であるといいますが、実際には兵農分離の進んだ「西国の軍制」と寄親寄子制の色濃い「東国の軍制」との優劣を示すことになった戦争でもあるのです。
ところで、質の違いは単純に量の違いに反映されないこと、或いは量の不足を補えないことは、ランチェスターの第二法則が示していることは始めに述べた通りですから、これで全てを説明することはできません。現に、それまでの信長軍は大負けはしていないものの、常勝というわけではありませんでした。その後の信長軍が美濃征服までに七年も費やしていることがそれを示しています。ですから、義元軍が駿府から延々と行軍してきたから労兵であるとか、その兵力は小荷駄隊などを含んでいるから、実際の戦闘力は信長の方が勝っていたという主張は是認できません。
また、今川軍が駿河、遠江、三河の混成軍であるのに対して、織田軍は尾張一国であるから結束力も強く、士気も高かったなどというのは、現代の国家・国民という思想が一般的になってからのことであって、当時にそのような郷土愛みたいなものがあったはずがありません。
信長軍の質といえば、「常備軍」と「小姓・馬廻」があります。この二つが最も大きく効果を発揮したのが意志の統一であり、団結力であったのではないでしょうか。つまり、信長軍のまとまりの良さに反して、尾張国内の敵対者は寄せ集めの烏合の衆の感を免れないのです。ですから、信長軍は国外の敵(三河、駿河、美濃)に対しては勝った例は少ないのです。東の国境では村木砦の奪回と桶狭間ぐらいしか勝った例は『信長公記』には見えません。西の国境でもほとんどが攻城戦なのです。つまり、信長軍が圧倒的に強かったのは、尾張国内で同族を相手に戦っていた時だけのように思えるわけです。
ところが、信長は常備軍や馬廻を用いての「戦術の革新」を行ったりはしていません。つまり、馬廻という突撃兵力を鉄鎚に用いて足軽長鑓隊を金床にするというアレクサンダー大王の採ったような戦術を考案できていないのです。あくまで、従来の戦国武士の戦法を踏襲しており、それを進化させたようなものは一切みられません。それに、他の一般的な戦国大名に比べて沢山いた馬廻を決戦兵力として使用した例もまたないのです。信長の場合の馬廻には、近衛兵兼高級官僚養成所のような感がありますし、戦術上の優位性はその動員速度の圧倒的な速さにあります。
さらに、信長が敵に数で劣る兵力でも負けなかったのは、自身が直接指揮を執っていたからであると小生は確信します。つまり、軍隊の士気が高く活性化していたのであり、将兵も義理で参陣していたわけではないからだということになります。将兵各人の欲望・目的と信長の目的とが合致していたわけです。だから、数々の合戦で名のある侍を討死させているにもかかわらず、中核になる七百程度の兵力を維持し続けることができたものと考えるのです。一般には、新たな家からの加入がなければ、一家に子息・兄弟は有り余るほどいるわけではないのですから、不断に領土を拡張していかなければ消耗には耐えきれないのが普通なのにです。ところが、左程領土の拡張がないのに、大変な消耗を強いられるような戦いを続けながらも、基幹兵力が減らないのは、他所から流入し続けるからに違いないからだと小生は思うのです。
従って、質の違いは戦国時代の終焉に向けてボディブローのようにジワジワと効いていったのであって、桶狭間合戦に特効薬のように速効があったわけではありません。将に、イノベーションのジレンマが表象した始めということだけなのでしょう。
<その三、ヒューマンエラーという観点からみると>
桶狭間合戦をみて感じることは「織田方に決戦の意思が固い」ことと、「義元の目的が曖昧」なことで、その差が際立っていることです。特に、先学の研究成果を見ても、義元は何をしたかったのかがよく判らないことが特徴です。これまでも、義元の征西には様々な目的が語られてきましたが、何れもなぜ義元がなぜ大高へ行かねばならず、なぜ桶狭間などで討死するのか、その必然性を説明できないでいるのです。最近の黒田日出男氏の新説「乱取状態急襲説」でも、それは明確にはされてはおりません。このようなことが起こるのは、認識する我々の側に「義元が合戦当日に沓掛城を出陣して大高城へ向かっていてその途中で桶狭間山で昼食をとった」などという先入観があるために、「事実」が伝えようとしていることを正しく認識できないからだと思うのです。
個人のレベルで起こる、「見ながら見えず、聞きながら聞こえず」という具合に、心あらずとも体が自動的に反応している状態が、集団や組織にも起きます。これは、お互いが「相手が自分の思うように動くものと勝手に思い込んでいる」ことからおこります。つまり、手順が「習慣化」して自動化した熟練レベルの欠点でして、プロに起き易い現象です。
同じウッカリでも不注意でも、注意力散漫というのとは少しレベルが違います。例えて言えば、一旦始めた一連の行動は、途中では止められないのと同じことでして、大型タンカーが方向を変えることが困難なのようなものです。慣性の法則で惰性がありますから、見えていても分かっていても止められないのです。剣道の名人に打たれるときのようなものです。打たれる側は名人の竹刀がゆっくり来るのが見えますし、傍からみると非常に容易に打たれるのです。その最も簡単なものはフェイントですが、合気道などでは実に巧みに相手に気づかれずに敵の態勢が崩れるように誘導しています。相撲の小股掬いなどは、相手の股を持ち上げているのではありません。手は添えているだけです。実際は柔道の隅落とし(三船十段の空気投げ)のような妙技なのです。こうした武道の場合には、技に掛かる側は自分から技に掛かりに行っているのです。ですから、技に力はいりません。体の感覚が錯覚を起こしているのです。その結果、バランスを崩してしまっていることに気づかないため、敵が不意にいなくなったように思えて転倒してしまうわけです。これは非常に高度な体技なのですが、先天的なものがあるようで、出来る人は苦も無くできるみたいですが、いくら練習しても出来ない人はできないみたいです。合気道をみれば分かります。技の次元が違うのです。鍼灸師のなかには科学で証明できない経絡を感知できる能力がある人も稀におられるのだそうです。
甲野善紀氏のいわれる「井桁崩し」もその一つなのでしょうが、体全体が一斉に予備動作無しに動き出すことができるようです。本当の仕方は知りませんが、どうも踏ん張って動き出すのではなく、倒れ込むように動くらしいのです。高岡英夫氏によりますと、合気道は相手に「意欲をますますかき立て」させるように仕向け、相手には「できそうでできない状態」を作り、相手が「もう一歩のところでできないない状態」や「硬直している状態」に導いているのだそうです。
この現象が、桶狭間の合戦での今川義元と織田信長との間でも起こったのだとしたら、今川義元と織田信長との間で意思や認識の「擦違い」が起きていたということになるのでしょう。武道では、敵を倒す技として意識的に相手に施すわけですが、桶狭間合戦での今川義元と織田信長の場合には、互いに技として相手に掛けたのではなく、起こった現象が同型であったというだけです。………では 、桶狭間では義元と信長がどのように擦違っていたかといいますと、桶狭間合戦での今川義元と織田信長の場合は、お互いに勝手に互いの「思うところ」に対しての固定観念を強化して行き、互いの「思い込み」に固執した状態に陥っていたのだと言えます。これは、「敵はこう考えているはずで、こうする以外にはあり得ない」という誤った固定観念を持って終始行動していたということです。つまり、互いの「思いと行為」には、最初から最後まで「擦違い」が起きていたのです。
そもそも、信長方からみれば、義元が沓掛に行ったことは動かせない事実でした。しかし、義元が鳴海にも熱田にも岩崎にも緒川にも出ずにいたことは知っていましたが、大高へ行ったことだけを信長が知らずに、または信じられずにいたことが、全ての擦違いのきっかけになりました。
それで、信長は義元の行き先が読めなくなっていたところへ、一日置いた十九日に丸根や鷲津の付け城などを義元が攻めたりしたものですから、後詰が遅れてしまったのです。戦術として、駿河勢を油断させるためでも、敵を消耗させるためでもありません。信長は、まさか丸根や鷲津を攻めるなどとは、夢にも思っていなかったのです。信長からみれば、軍事的にも政治的にも経済的にも、大高城はそれほど価値のない目的だったのです。ここに先入観による「第一の擦違い」があります。
信長が考える目的や優先順位と義元の実際とった行動とに大きなずれがあったのです。この擦違いは後世にも影響を及ぼしており、現代に至っても義元の征西の目的は明確になっていないぐらいのズレなのです。それ以上に分からないことが、義元が十九日の合戦当日に沓掛城から大高へ行かねばならない目的なのです。義元は大高城に行って何をしょうとしたのでしょうか。未だに誰もが解明できないほど、「合戦当日の軍事行動」としては曖昧な目的でしかなかったのですから、信長も信じなかったことが分かろうというものです。実際は、前日に義元は大高にいたことに信長が気づいたのは、実に善照寺砦で桶狭間山に駿河勢が屯しているのを目にした瞬間だったのです。
信長が義元の行動を全く理解できなかったことは、『信長公記』が「十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候ところ、その夜の御話、軍の行は努々これなく」と書くのをみればわかると思います。これを、信長の優柔不断と見做す人もいるでしょうが、そうでなければ信長が微塵も兵を動かそうとはしていないことからみて、信長は義元が丸根・鷲津を攻めるという情報を欺瞞・陽動とみて、信じていないことになります。そうでなくとも、一支隊の行動であって義元本隊が実施する軍事行動だとは思っていなかったことになります。
中には、未だに「敵を欺くため」とか「作戦を秘匿するため」と主張する人もいるでしょうが、それは「演義」の中だけでの話なのです。実際の行動は、指導者が十させたく思っても一しかできないのが現実なのです。それを、全部秘匿してしまったならば、成果などは期待できないでしょう。現に、信長の軍事行動をみれば、生涯そのような小手先の策を弄したりはしていません。常に、大軍をもって真っ向からの勝負を挑んでいます。迂回も伏兵も行ってはおりません。
未だに歴史学者の中にも、信長は生涯ただ一度だけ賭けに打って出たが、以後は正攻法に徹して二度と賭けをすることはなかったなどと書く人もいるようですが、これは「通俗経営学、ビジネス塾」向けの話に過ぎません。賭けの好きな人は生涯、賭けが好きなのです。これは性格です。後に二度と行わなかったようなことは、先にも行われなかった可能性の方が高いはずです。ですから、桶狭間合戦も博打などではなく、起こるべくして起こり、負けるべくして負けたのだという観点から見直す必要があると思うのです。
佐久間大学見殺しが「策」などではなかったことは、その後にあった、信長が味方の救援に赴けなかった事例をみれば分ります。すなわち、三方ケ原、岩村などの事ですが、これらに共通することは、信長は救援に割ける十分な兵力も機動力も持っていなかったということです。ですから、丸根・鷲津の場合も救援に行かなかったのではなく、行けなかったと考えた方がよいと思うのです。
『信長公記』には、現地司令官の佐久間大学や織田玄蕃は、義元の主目的は丸根・鷲津であると的確に認識して、非常な危機感を持っていたのに対して、信長は歯牙にもかけなかったことが記されています。その後の信長の行動からみますと、信長の方針は駿河勢(義元に拘ったとは思えない)と一戦に及ぶこと以外にはなく、そのことだけに徹底していたことは疑いのないことだと思います。信長の思いをそのように考えれば、義元の行く先が明確であった場合には、信長が兵を出さない訳が無いものと思うのです。「即応」することが信長の身上だからです。それなのに信長が動かないのは、もたらされた情報を信じていなかったからだと言うしかありません。
後世の人も、義元の目的を上洛と一旦想念すると、そこからなかなか抜け出せないできています。奇襲についても同様ですし、長篠の三段撃ちについても同様です。このように、信長も「義元が大軍を率いているのであれば、大高城への兵糧入れや丸根・鷲津攻めには、三千人も分派すれば事足れることなのです」から、義元が沓掛城に在陣している限り、義元自身が大高方面へ動くなどとは考えられなかったものと思われます。ですから、前線から砦攻撃があると通報があっても、信長は疑って対応しなかったのです。
ところがこれについて、『佐久間家譜』が「砦からの撤退は許されなかったので、盛重は現地で戦死した」と記して、信長が大学を非情にも捨て殺しにしたと避難すると、後世には丸根・鷲津を餌にして、義元を油断させようとした信長の謀略であるなどと考える者も出てくるわけですが、遺族の感情と戦術は違います。現に、かつて名塚に砦を築き大学に守らせたときには、大学を死なすなと言って、増水した庄内川を渡って後詰したことが、『甫庵・信長記』に語られているように、信長の戦歴には陽動や伏兵などの戦術はありません。常に事に臨んで、荒天なども押し除けて果断に行動してきた信長です。その彼が動かなかったのは、義元が丸根に出るなどとは信じられなかったからに違いないのです。
逆に、そのような事を駿河方からみるならば、信長は付城への後詰にも出て来なかった臆病者であるくせに、駿河勢が引き上げ始めた後になってのこのこ出てきたり、三百人程度の微弱な兵力で突っ掛って来たりで、その作戦行動は内向きの演技でしかなく、これまた信長の本気度が読めないでいたことになるわけです。『三河物語』はそう書きますし、それを受けた山鹿素行の『武家事記』なども、「石川帰りて敵戦をもちたり、只今寄せ来るべしという。駿河勢疑いて鷲津、丸根落城(タリセバ)身構えをこそ致すべきなり。此方へはよもせじ」と、駿河勢の武将が、信長の戦意について疑わしく思っている情景と、その認識の誤りに気づいて危ぶんでいる三河武士という構図で認識しています。ここに「第二の擦違い」が起きて、思い込みと擦違いの度合いをさらに大きくしているわけです。
信長から見れば大軍を率いたという触れ込みの駿河勢の行動が生温くて不可解であったのに対して、義元側からすると危機に陥っているわけでもない鳴海城の後詰などは、鼻からするつもりがないところにきて、餓え苦しんでいる大高城を救援しようとしているのに、信長は後詰に姿も見せないという状況があるのです。
例えば、義元の真の目的が小河・刈谷の水野氏の攻略であったならば、鳴海城や大高城は堅固に背後を守ってくれることができれば良いわけです。それが、鳴海城はびくともしないのに、大高城の方は兵糧不足で音を上げてしまったわけです。だから、義元としては喫緊に大高城を開放し、目障りな付城を取り除いて、勇将・松平元康(と、『三河物語』はいう)を配置して、本来の目的へと復帰したかったわけなのです。
逆に、信長からしますと、熱田湊が津島湊と並んで信長の二大財源でありましたから、第一の戦略要点であり、誰がみてもそのように思うはずだと信じて疑いません。そして、ここに中入りされることが最も困ることであり、大軍であれば中入りは少しも危険な軍事行動ではないことは自明です。また、義元が北に動いた場合も、岩崎丹羽氏が義元につくことであり、尾張東部が一気に駿河色に染まることになることを意味するわけです。
このように、信長と義元では戦略上の最重要性や優先順位に対する認識が完全に喰い違っていたのです。要は、義元も信長も、互いの思い込みによって、互いの敵は18日の一日を無為に過ごしたように見えたために、双方は敵の目的に拭い去れない疑念を持ってしまったわけです。元々、駿河方としては威勢を張ればよく、決戦するつもりなどはなかったのに対して、誇大宣伝が効き過ぎて、信長に満々たる戦闘意欲を惹き起こさせ、決戦を決意させてしまったのかもしれません。
後の、天下分け目の関ヶ原合戦でも、大垣城に入城した石田三成は、赤坂に布陣した東軍が二十日間も動かなかったことに、疑心暗鬼をおこし不安焦燥の気配を濃くして、関東方の放つ流言におどらされていったように、敵方の事情などは容易に知れないのです。このときの関東方はただ家康の到着を待っていただけなのです。
そのうえ、自軍の優勢な兵力と大高表に信長の後詰が無かったことが、駿河勢を「自信過剰」にし、付城の攻略成功が「奢り」を生み、前哨戦での勝利が敵を「見縊らせる」ことになったわけです。そしてその見縊りが信長の戦意を「過少評価」させるという判断の誤りを犯させ、さらに桶狭間の地形が「油断」を惹き起こしました。駿河勢に油断させた戦場の地形とは、中島から山間に入るまでは、周りが深田や湿地の一本道の東海道であり、駿河勢が高所に陣取っていることです。そのため、軍事常識では劣勢な兵力でそんな敵に向かって来るわけがないわけだからなのです。それを「確信に変えた」のも戦場の地形です。
東海道は狭間の一本道であり、山間に入ると狭間の幅は手越川を真中にして300m程度しかなく、信長は兵を展開できないのです。ですから駿河勢には危険はないのです。さらに、駿河勢の本陣先備は高根の高所に陣取って峠を塞いでおり、その後の生山辺りにも脇備えを布陣させていたでしょうから、信長軍がそのまま東海道を東進しようとすれば、行軍隊形の横腹を痛撃されたり、狭間の中に閉じ込められてしまうことになります。従って、信長がそのような兵法の常識註 にもとるような馬鹿な行動をとるはずもありませんから、駿河勢としては暫くの間は、信長のお手並み拝見だったのです。
註 『呉子・応変第五』に谷戦というものがあります。そこでは、「武侯問いて曰く、左右に高山あり、地甚だ狭迫なるに、卒に敵人に遇い、これを撃つはあえてせず、これを去ることも得ざれば、これをなすこといかん。起、対えて曰く、これ谷戦と謂う。衆しといえども用いず。わが材士を募りて敵とあい当たり、軽足利兵、もって前行となし、車を分けて騎を列ねて、四旁に隠し、あい去ること数里、その兵をあらわすことなかれ。敵必ず堅く陳して、進退あえてせざらん。ここにおいて旌を出だし旆を列ね、行きて山の外に出でてこれに営せよ。敵人必ず懼れん。車騎これを挑んで、休むを得しむることなかれ。これ谷戦の法なり」 『孫子・地形篇』には「隘なる形には、我まずこれに居らば必ずこれを盈(み)たしてもって敵を待つ。もし敵まずこれに居り、盈つればすなわち従うことなかれ、盈たざればすなわちこれに従え」とあります。
因みに、このように書きますと、当時は東海道などはなかったはずだと思われるかもしれませんが、幹線道路として整備されたものは存在しておらず、相変わらず鎌倉往還がメイン街道の地位を保っていました。けれども、東海道は整備されていなくても利用はされていたのです。阿野村の人にとっても鎌倉海道の二村山を越えるよりも、平坦な東海道の方が鳴海に出るには便利ですし、刈谷や小河の人も桶狭間を経て有松・鎌研(当時は村はありません)から鳴海に出る道を利用していたはずだからです。「海道」はなくても地方道は通じていたと思うべきなのです。現に、中島砦はそこにあった小村を取り壊して築城しているのです。なぜ、こんなところに小村があるかといえば、すでに東海道が準幹線として機能しはじめていたからです。
以上のように、両将の情勢判断と敵に対する評価は事実と大きく異なるものでした。
結果的には、義元の方は軽率の謗りを免れないことになってしまったのですが、義元側からすれば敵から充分に離れていて防備も万全を期していたこともあり、未明からの戦闘を終えた後ですから、兵には休息と昼食をとらせる必要があって、部下の武装を解かせてしまい、前備の松井兵部少輔家信以外には戦闘準備をさせてはいなかったと思われるのです。これも結果論でしかないのですが、予断による甘い判断であったということになるのでしょう。
しかし、本陣先備えの松井兵部少輔家信をみてみますと、信長が遥かに少ない兵力で、正面から高所に布陣する敵に対して、まさか本気で攻めかかるなどとは、思いもしなかったのかもしれません。自陣は高所にあり、例え信長が攻め寄せても十分に守りきれるし、そのうちに本隊が駆けつけてくるのは当然ですから、自分が敵を拘束しておけば、逆に敵の側背を生山や武侍にいる味方により攻撃できて、勝機が生まれるわけです。彼の判断に誤りがあったとは思えません。そうしたところに、俄かの暴風雨です。それも大木が吹き倒されるほどのものでした。
因みに、この大木は大将ケ根から見えたのですから、沓掛の峠とは、名古屋有松と豊明栄を分ける現・字境松の東海道上の最高標高点を云ったものと考えます。
これで本陣の兵士は大混乱に陥り、持ち場を離れて風雨を避けるため逃げ惑ったのでしょう。これは駿河勢の幹部たちの大誤算でした。これも結果からすると、もう少し早く雨の降る前に、松井兵部が接近する信長軍について、本陣への警報を発して置けば、歴史に残る大敗には至らなかったものと悔やまれる面がなくはありません。
信長軍はといえば、風に背中を押されて東海道を大将ヶ根まで、何の支障も無く前進できてしまい、期せずして敵の横腹に向け軍勢を展開できたのです。そして、雨が短時間であがると、信長は流石にこの好機を見逃しませんでした。重要な点は、駿河勢が大高城からの帰りであり、戦場から離脱して武装を解いて帰り支度をしていたところを襲われたことにあります。もしこれが沓掛城から大高城への進軍中であったならば、弁当をとった後では、武装をし始めることはあっても、武装解くことはありませんから、歴史に残る大敗にはならなかったものと思うのです。ですからその差は大きいのです。
中には、なぜ雨の降っているうちに攻撃しなかったのかと不審に思われる方がおられるかもしれませんが、大木を吹き倒すほどの風雨だったのですから、例え背後からであれ自由に行動できるはずがありませんし、自身の周囲いの状況さえ把握できないでしょう。ですから、風雨が弱まらない限り不用意に攻撃を発令することは、味方の統率を失わしめて敗北を招くことになるでしょうから、信長の指揮に間違いがあったとは思えません。ましてや、背後から別動隊が突入するのを待っていたということではないでしょう。一体、都合よく雨上がりに間に合うことができるものでしょうか。携帯電話もない時代に………。
また、急な集中暴風雨さえなければ、駿河勢は信長の突撃などは軽く一蹴することができたとも思われます。このとき信長軍が攻撃をはじめた時間は午後二時頃でした。通常の戦闘はそのような遅い時間から始めるものではなかったから、それが意表を突いたという人もいます。しかし、どれも突然の集中暴風雨がなければ、平凡な軍事行動でしかなかったとしか言いようがありません。そこには、特別な油断はありませんでした。突然の暴風雨さえなければ、恐らく、信長は駿河勢の先備を迂回しようとはしなかったでしょうし、しても駿河軍の先備は信長の迂回を阻止したであろうと思われます。そして、その間に本隊も態勢を整えて信長勢を撃退したに違いないものと思います。
ついていない時というのはこういうものです。運命の女神は義元を見捨ててしまったのです。つまり、義元は「地取りの碁」をうっているのに、信長は「王取りの将棋」をさしていたのです。そして、最後の瞬間に運命の女神は、このゲームは「将棋にする」と突然決めてしまったのです。しかしその裏には、飽く迄も一戦したい信長勢と野戦に及ぶつもりなど全くなく、既に一戦を終えて帰郷心一杯の義元勢との戦意の差が根本にあり、それが油断となって現れたのだと思います。これこそ、初期戦国大名の軍隊と後期戦国大名の軍隊との超えられない意識の差だったのです。細かくみれば、どちらも功名心や欲得に基づくものでしかなくて、区別がつかないようなものであろうとも、超えられない異質なものがあったのです。
信長は、戦術的には必ず一戦に及ぶが、縦深を持つ敵に対しては追撃戦による戦果拡大を図らない代わりに、常備軍を使ってサラ金の取り立てのように、休まず弛まず攻め続けて敵の神経にこたえさせ、疲労させる戦法をとっていました。信長のこのような傾向が顕著に知れるのが赤塚合戦からの事態の推移です。赤塚合戦では、戦闘そのものは引き分けに終わっているのですが、何時の間にか笠寺台地を回復し、山口氏と駿河勢を鳴海城に付城を築いて封じ込めてしまっているのです。大きな合戦もせずに、です。
ここにも、桶狭間合戦での勝敗を決めた“意識のすれ違い”があります。それは、暴力行使を道徳として禁じられている一般人と、暴力だけが自己の存在を確立させているヤクザとの、紛争での“行き違い”と似ています。一方は「勝負あったから止めよう」と思っているのに、一方は負けていても「勝つまでやろう」としているのです。そこでは端から戦いの仕方が違っているのですが、「時代はそれを許した」のです。それなのに、信長を見捨てた山口左馬之助は、信長が安城や横山で続けざまに敗戦したのをみて、信長を見誤ったのです。
<その五、イノベーションのジレンマという説明>
もう一つ今川義元の“油断”を説明できる理論があります。それは、「イノベーションのジレンマ」といわれる経営学の理論です。
『天下統一と朝鮮侵略』で池亨氏は、「織田氏の(1)兵農分離も、他の戦国大名の政策と共通するものであり、(2)国替や(3)安土城下町への家臣集住という事実から、兵農分離を体制的に促進したという評価を導き出すことはできないのであるとされている。」と述べておられます。
また、西股総生氏は、「後北条氏や武田氏・今川氏は、官僚制を整備し印判状の大量発給を可能とし、交通・通信システムの整備、商工業の振興や職人の統制、税制や軍制の改革などに力をいれ、領国をより機能的な戦闘国家としていった。特に、印判状による郷村の直接支配や武器の種類と数量を詳細に規定した軍役システムなどでは、信長などより一歩も二歩も先を行っており、中世社会の枠組みを突き抜ける革新的な政策として評価することができる」と述べておられます。『戦国の堅城、戦国築城術の双璧・北条流と武田流』
これをみますと、歴史家が事実に近づけば近づくほど、偉人も天才もただの人になって行くことになります。確かに、事実を知ることは、一面において「木を見て森を見ず」になるでしょうが、しかし、森をなす木々を知らなければ、塵の森を誤認していても判らないことにもなります。
では、なぜ信長とその後継者が天下をとることができて、武田・北条・今川などの一世代前の覇者たちが敗れ去ったのだろうかという命題は、経営学の次のようなパラドックスに言い換えられます。
即ち、「顧客を大切にし、新技術への投資も積極的であり、常に高品質の製品・サービスを提供する経営を行なっている業界トップの優良大企業が、或る日突然、破壊的イノベーションの前に敗れ去るのは何故か」という命題です。そして、この疑問は、ハーバード・ビジネス・スクール教授クレイトン・クリステンセンによって解明されています。
彼によれば、「破壊的イノベーション」を、既存技術より性能が悪く、顧客要求も満たせず、現在の市場では相手にされないが、既存技術とは明らかに違う何かがあり、それまで存在しなかった新市場を切り開くものと定義しています。まるで”うつけ”の信長のようです。
彼の理論の重要な点は、優良企業である“先発戦国大名“の多くはみな新技術である“直臣団と足軽”についていち早くその価値を承知しており、商品化を検討するために顧客である“国人衆“の意見も聞き、もたらす利益についても調査した上で、“新技術”による市場たる“領国統一競争“への参入は、「領主(地主)の領主による領主のための政治という目的に対してメリットが得られず、生産性のない常傭軍人の高価な装備は時期尚早という経営判断を下した」と云い換えられるところにあります。
この「イノベーションのジレンマ」といわれる経営学の理論を例えて言うと、寡占・独占は恐竜と同じで、過剰適応して定向進化した結果ですから、環境が変われば生存できずに、技術革新した小鼠のような哺乳類に敗れたのは当然ということになるわけです。
これを、信長を「小さな新興企業」とみて、まだ外部からの侵攻にさらされず、国内で国人衆が乱立しており、統一が果たされていない当時の尾張の状況を「小さな市場」とみるならば、700人程度の直轄常備軍という「破壊的新技術」は、たとえ小規模で未成熟であっても十分に対応できたことになります。
一方、武田・今川・北条といった先進大名にとっての直庸常備軍は、土地に依存した経営では、それを雇用する財源を見出すことができませんでしたから、十分に効果があるだけの直庸常備軍を整備することはできませんでした。ですから、永禄三年当時の北条氏などは足軽給田によって足軽隊を維持していたようです。
信長は、尾張統一戦を直臣団だけで戦い抜き、隣国の大名や国人衆とは同盟(齋藤道三、水野信元)はしても一揆を結ぶことはありませんでした。これについては、『信長公記』が庶兄・三郎五郎信広との争いに際して「ケ様に攻め、一仁に御成り候へども、究竟の度々の覚えの侍衆七、八百、甍を並べ御座候の間、御合戦に及びて、一度も不覚これなし」と証言しています。そして、信長にとって幸運だったのは、尾張国内が(知多半島を除いて)織田一族によって分割支配されており、尾張国内でそれ以外に積極的に反対する有力国人とも戦うことが殆どなかったことです。
一族との抗争が終わると国内の国人衆との戦いはすぐさま隣国の大国との戦争に変わっており、一向一揆を除いては武田氏や上杉氏のような国人衆との泥沼のような征服戦争をしないで済んでいるのです。その訳は、信長が一般国人衆と土地への利権について争わなかったからだと思われます。………これは、信長が尾張・美濃で検地を実施していない(できなかった)ことからわかります。後になっても信長は尾張で検地を行ってはいないようなのです。
『戦国大名論集』によりますと、「織田政権の権力構造・織田政権の研究」で三鬼清一郎氏は、「この時期(1555〜66)の信長は、寺社に対する本領安堵はみられるが、家臣に対しては及んでいない。つまり、信長は一所懸命の土地である在地武士の所領に対しては、介入することはできなかったのである」とされていますし、奥野高廣氏は、その『初期の織田氏・織田政権の研究』で、信長は占領地では生産高による石高表示で土地を給与し、しかも一円知行の形式をとり、ことに近江国ではこの傾向が著しいのだそうですが、本国では強い抵抗を考えてしこれらの政策の実施は延期されているといわれています。
また、一般国人衆や地侍にとっても、相続問題で頭を痛める余剰・子息を積極的に雇入れてくれる有難い存在ではあっても、北条・武田・今川氏らのように検地を実行して、軍役を強要することもなかったのですから、有難い大名であったわけです。有力国人であり最高の家老でもある林氏が、村木砦攻めへ参陣しなくても信長は構わなかったことが良い例です。
ポイントは、破壊的新技術が「大きな市場(広域領国戦争)に対応できるまで成熟していない」ため、つまり、軍団制がとれるほど高級将校や高級官僚が育っていないということですが、そのため、この技術への投資は先発の戦国大名たちにとっては見合わないことにあります。
組織が小さければ、譜代の身分に縛られず、資金も比較的小額で、実力本位で組織を構成することができます。これが、最初から守護大名のような立場にあったり、有力国人衆に担がれていた場合には、それを粛清することは容易ではありません。それを志した武田信虎や斉藤道三などは、国人一揆に担がれた息子に粛清されてしまっているのです。
それ以上に、経済的にも国人の第一人者以上になれないような義元や信玄の財源である「国主の直轄地」からの収入や「段銭」では、直臣団を維持することはできないことがあります。戦国大名は国人衆にその子弟を出仕させていましたが、それは人質の意味が強いものでもあります。
例えば、武田氏の場合には、当主の側近的な近習衆として小姓・御納戸・同朋・台所頭・茶坊主・右筆・御伽衆ほか、使番・むかで差物衆があるのですが、特別な職能技術を持ったもののほかは、譜代国衆の一族子弟が中心となっています。
勝頼期に入ってからは、使番・むかで差物衆の中には日向玄東齋・西山昌俊・小山田八左衛門をはじめとして重臣層に格上げされていく者が多くみられるといいますから、この時期になって初めて、遅まきながら家格・身分にとらわれない人材登用の必要性を痛感した改革が行われたものと思われます。………その意味では、『甲陽軍鑑』はそのような勝頼の努力に水を差しているということで、時代錯誤があると言わねばなりません。これに対してみますと、信長の場合には、親族譜代に限ることなく能力によって待遇することが各段に進んでいるといえます。
戦国大名と有力国人との財政力の差は、段銭の徴収にあるといわれるのですが、そのためには検地が必要になり、徹底的な農村の収奪へ進みます。そのツケを農村から離れることを余儀なくされた耕作民は、駆り出された先での略奪に転嫁するわけです。ですから、信玄の郷里での人気は、他国民の犠牲のうえにもたらされたものと言えるわけでして、信玄の戦国大名としての体力は限界に達していて、三方ケ原まで進出したところで潰えたわけです。
では、信長はそうではなかったかと言いますと、そんなことはありません。同じなのですが少しばかり程度が違うのです。それは、世界的に興隆しつつあった貿易・流通という分野からと、旧体制の宗教界の利権を奪取することが大きかったため、農民からの収奪に依存するテンポが他の戦国大名に比べて遅かったのです。つまり、それだけ持久力があったわけです。
近年、越後の上杉謙信の財政基盤を見直そうとして、青苧交易の権利を握り日本海ルートの商業交易権を支配して、まるで信長のような重商主義者であったように喧伝するむきもありますが、これは過大評価でしょう。なぜなら、上杉謙信はそこから上がる莫大な利益で、常備軍を整備していないからです。戦費にあてたといっても、たかだか兵粮・武器などの経常経費を賄ったというにすぎないのです。
先行の戦国大名は反銭収入を得るための技術(持続的技術)の追求に邁進し、検地・領国法・貫高制・伝馬制・浦伝制・楽市楽座などを整備します。そして、破壊的新技術である直轄常備軍の整備を怠ることになります。
第一、有力国人衆は盟主一人が強大になることには大反対でもありますから、それを強行はなかなかできないのです。現に、それに気がついた信玄も晩年にはそれに着手しようとするのですが、できないで卒してしまい、後事を勝頼に託すのですが、勝頼は国人衆の理解を得られず、志半ばに信長に滅ぼされてしまっています。おそらく、義元なき後の今川氏真も同じだったのでしょう。決して喧伝されているような愚昧な指導者であったのではなかったものと思います。
先行する戦国大名が東国では、三国鼎立して泥沼の抗争を展開しているその間に、小さな市場に見合った小さな組織が破壊的新技術の普及役を担うこととなります。次第に、この破壊的技術は、主要市場の顧客の需要にマッチした性能を持つ技術にまで成長して、隣国美濃を征服するのですが、それには桶狭間合戦から七年もかかっています。………これは、美濃侍を調略する過程において彼等に理解され受け入れられたのだろうということです。
即ち、一国を超える広域に作戦するために必要な、高級将校と高級官僚、そして足軽と、それを有効に機能させるための標準化が行われるには、それだけの期間を要したということになるわけです。その証拠に、上洛戦や伊勢征服の様子を見ますと、一気に高級将校がチームを組んで仕事をしていることがわかります。それまでは、全て信長が直接指揮しています。
『信長公記』で最初に仕事を任されたことが知れるのは丹羽長秀ですが、記録に現れなくても順を追って教育され、訓練されて経験を積んでいたものと思われます。
信長の与力制度は、殆どその他の戦国大名の寄親寄子制度と変りません。本来、在地・地侍らである寄子は、「大名と主従関係を契約」したうえで、それを寄親に附属させたものです。一般に、寄親は法度に従って寄子を取り締まり、寄子が寄親に背くことは許されず、また全ての訴訟や嘆願は、所領の寄親を通じて行うよう厳しく義務づけられ、公私にわたって寄親の命令は絶対であったといいます。このため、自然に大名の意思に反して寄親と寄子との結び付きが強化されたはずです。そんな中で、信長と戦国大名がほんの少し違うのは、信長の与力制度が監察機能をもっていることです。これは、信長が急激に成長したため、寄親寄子制が本来の建前通りに運用された結果だと思います。そして、これらの遺風が秀吉による「大名の鉢植化」を容易にしたのだと思うのです。
一方、武田家をみると、全体に家格が固定化していく傾向が強く、譜代家老衆が親族衆とともに政権の中枢を構成し、その大多数が分国領主・支城主・奉行などの主要な職制を担当しているといわれています。そのような中で、とりわけ勝頼期になると、職務ごとに三・四名で構成された奉行人は、家格によって固定されないようになっていき、吏僚層から侍大将となった新興国衆なども担当できるようになったことが窺われるのですが、とき既に遅かったことが知れています。
武田家と信長との違いが何処に在るかといえば、奉行の名前が伝わっていないことです。有名な笛吹川の治水・棒道・烽火網などの普請奉行の名は知られていません。この差は大きいものがあります。信長により「天下一」の称号が権威をもつに至ったコンセンサスとの差です。信玄が技術を囲い込んだのに対して、信長の場合には結果的にではあるのですが、技術を一般化することになったといえます。信長の時代に技術者は技術で生計がたつようになったからです。直接的には、信長も新技術や生産・流通を独占しようとしたのですが、急激な領国の拡大は、図らずも市場を拡大させ、技術を広範に拡散させることになったのです。
例えば、永禄十一年(1568)、信長が堺を支配下におき代官領にして、河内鋳物師ら吹屋(鍛冶屋)を集め、今井宗久をして支配せしめ、排他的に鉄砲や火薬製造をさせた事実があります。しかし、結果的には、圧倒的な需要は独占を許さず、広範に技術は伝播したようです。それは、世界史的にも、塩・酒・鉄などの専売は、強大な地下組織を生み出すことからも分かります。つまり、信長の需要=市場は他の戦国大名に比べて圧倒的に大きかったのです。それが、信長が上洛=天下(京都という政治都市を中心とした地域)をとったことの大きなメリットです。
親衛隊も同様なことがいえます。信長のそれは小姓と馬廻からなっているのですが、他の戦国大名との違いは、彼等の地位が高い事とその数が比較的多いことです。そして、信長には国人衆に遠慮せずに彼ら小姓・馬廻を食わせていけるだけの財力を持っていたことがあります。
これに対して、武田家をみてみますと、その組織は極めて属人的であり、大名の近習として小姓や使番・むかで差物衆があるのですが、特別な職能技術を持った者以外は、譜代国衆の一族子弟が中心となっています。これも勝頼期に入ってから、日向玄東齋・西山昌俊・小山田八左衛門をはじめとした者たちが、始めて重臣層に格上げされるようになるに過ぎません。『甲陽軍鑑』によれば、旗本近習衆で二百五十騎、他に牢人衆百五十と旗本足軽が八百八十四人であったといいますから、合計一千三百人になります。これが、信長では初期に六〜七百騎と信玄の倍もおり、盛時の馬廻は二千騎にもなっているのです。そして、武田家の旗本は豪傑ではあっても官僚ではありませんが、信長の馬廻は高級官僚でもあったのです。
そして、信長の抜擢はポストに地位が付いていたため合理的でした。解任されれば元の国人や地侍に逆戻りしたわけですから、アメリカ海軍なみの合理性があります。もっとも、それができたのは信長にスターリンなみの専制・独裁があったからなのですが。
信長の組織に共通して特筆すべきものには、ほかに「諸手抜」があります。長篠合戦では鉄砲をそれで集めています。つまり、目的に応じた自由な分割ということでして、近代的所有権の意識が感じられます、目的合理的に経営資源を自由に投入したということでもありまして、国人衆から高度に自由であったという特徴があります。
このように、戦国大名と信長との違いは、質的にほんの少し違うだけなのですが、量的には大きな違いになっています。戦場での消耗に補充がきくほどになっているからです。つまり、常備軍という破壊的技術が、数カ国支配の戦国大名という主要市場の顧客の需要に適合した性能を持つ技術にまで成長した時には、持続的技術の追求を行っていた大手組織は、既に遅れをとってしまっている状況が出現したわけです。要点は、信長軍の「中核には常備軍」があったということでして、全てが兵農分離の常備軍であったわけなどではありません。
先行の戦国大名が、貫高制に基づく寄親寄子制を磨き上げることで、結果的に遅れをとったのは、意思決定の遅さであり、行動の緩慢さ故でした。その結果、葡萄の房のような封建システムを肥大化させてしまったのです。戦国大名にとっては、領土を拡大させることが領国を統合し続ける条件でしたが、領土を拡大させたことが、有力国人衆の地位も向上させ、それが大名にとって最大の足枷になってしまっていました。西瓜は一玉が大きくなりますが、葡萄は多くの房をつけたのであり、戦国大名はその中の一房に留まったままだったのです。
近大工業においては、素材の質や仕上げの質が目に見えないところで精密に管理されることにより、発揮される製品の効能・効力に真似できない・追いつけない差が生じるという例があります。また、成長段階がプラトー (Plateau・高原、一時的な停滞状態のこと。習得する際に進歩が一時的に止まって、横ばいの状態の停滞期。ダイエットにおいては、人体が体の状態を一定に保とうとする働きによって代謝が落ち、体重が落ちにくくなる一時期、筋トレでは、様々な要因で筋肉が付きにくくなる一時期を指す。) にある場合には、一見して質の差が分り難いという例もあります。ですから、歴史学者の研究が進んで、信長の施政を精緻に調べれあげば調べあげるほど、その至らなさ・後進性が明らかになるはずです。しかし、信長によって秀吉や家康に用意されたものを見れば、飛躍前のプラトーの意義が理解されるはずです。
閉話休題<火縄銃は破壊的革新技術か?>
ところで、破壊的新技術に火縄銃は相当するかといえば、これは否であると言えます。
火縄銃は破壊的イノベーションにはなりませんでした。雑賀・根来衆も彼らを使用した石山寺本願寺も天下をとることができませんでしたし、それ以後の国内統一戦争においても鉄砲が主流を占めることはなかったからです。火縄銃が破壊的イノベーションになりかけたのは、朝鮮役を経験してからでした。これによって鉄砲装備率は飛躍的に高まって大阪陣を迎えるのです。しかし、そこで天下に泰平が訪れたため火縄銃は破壊的イノベーションにはなれなかったのです。
信長自身が撃ち、朝鮮役では加藤清正らの大名自身が撃った火縄銃も、天下泰平が火縄銃を「武士の表芸」から足軽の兵器に格下げにしてしまったのです。即ち、鑓が弓に取って代わったように火縄銃が鑓に取って代わって武士の表芸になる機会はあったのですが、その機会が失われたのです。
その結果、既存のアイデンティティーを否定しない限り破壊的イノベーションには対抗できなくなるという事態が起きなかったのです。武士には過去の経験も栄光も全て捨て去って、一から鉄砲足軽をやり直すことなどできなかったわけです。成功した人間が、今まで自分が身につけた技術を徹底的に磨き続けても代替することができないような武技を新たに身につける必要はなくなったのです。そのため、武士は足軽と一緒にされたくはなかったということなのです。そうなる前に社会は安定してしまったわけです。
<信長の直轄常備軍は低性能で安価か?>
ところで、クリステンセンは、破壊的新技術は通常、既存技術に比べて低性能で安価という特徴を備えていると定義するのですが、信長の直轄常備軍は低性能で安価であったと言えるでしょうか。
傭兵は商売であるから死傷を嫌い忠誠心に欠け戦闘でもお茶を濁したらしいですし、三河兵一人に尾張兵三人にと言われる程、尾張の足軽は弱兵として有名であったといいますから、低性能といえるかもしれません。織田軍足軽の給料は日給などではなく、最低限の食料等を支給され、後は働き方次第でしょうから安価であったともいえるでしょうか。そして、余剰人口があるうちは、領国内の生産力を低下させることもなく、常時戦争を継続する限りは、色々制約の多い農兵に比べて安価であるとも言えそうです。ところが、信長の直轄常備軍は足軽だけで組織されていたのではありません。小姓・馬廻がもう一つの重要な兵力です。こちらは献身的で意欲的であり、功名心が強く扱い難かったが、死をも省みませんでしたから安価であったと言えるかもしれません。彼らの多くは二三男であり知行を持たず、新たに家を興したがっていたからでしょう。
当時の優良大企業であった武田・上杉・北条・毛利などが、競争に負けて衰退したのは、彼らが長期に渡って大軍を維持運用できなかったからです。信長にそれが出来たのは、少数の直轄常備軍を創設でき、尾張統一の間をそれで我慢して、国人衆を憑まず戦い抜いたからです。それによって信長は、国人衆の第一人者などではなく、絶対者になれたのであり、たった七百程度の馬廻でしかなかったのですが、領国内には反抗できる実力を持つ者がないほど隔絶した権力者になれたのです。その意味で初期信長軍の六七百の輩は兵農分離したプロの軍隊であったと言えると思います。
勿論、美濃征服以後の信長軍は、寄親寄子制に片足を突っ込んだ二重体制であり、本当の意味での兵農分離は秀吉に始まるとしなければならないでしょう。しかし、大事なことは、信長が最初の一歩を踏み出したことであり、それは小さな一歩ではあったのですが、近世への深い谷を飛越す重要な一歩であったということだと思います。
附録の事例 「島津の退き口」
- 秀吉に敗戦して領国を縮小され、その傷に癒えぬうちに朝鮮出兵の軍役負担があり、その時点で「日本一の大遅陣」といわれたほど軍事動員も儘ならなかった疲弊した島津氏は、関ヶ原合戦に際しても畿内まで大軍を派遣する余裕はありませんでした。その結果、関ヶ原合戦で西軍の敗勢が濃くなって戦場に取り残された島津義弘は、このとき凡そ千五百とみられた兵力で敵中に切り込み、突破して帰国できたのは八十人であったと云われています。
- これに対しての山本博文氏の研究では、慶長役に出陣した島津軍には、戦国期に島津氏に敵対して知行地を失い没落した侍層が志願兵として大量に加わって事実を指摘され、これは島津譜代家臣たちが、経営できる領地の増えないような海外出兵に大反対しており、兵の動員が思うに任せなかったからだとされています。
- さらに、当主でもなかった義弘が島津家臣団に強制的に動員をかけるだけの力はなかったこともあり、全滅と言っても良いような島津軍勇戦の秘密は、軍役としての徴集兵などではなく、彼を個人的に慕う者が自らの意思で集まった志願兵からなる義弘直属家臣団であったからだと言われます。
- 信長の場合は、このような直属家臣団を核にして大量の足軽と、帰服した国人衆を使用することによって尾張統一に実績を上げたわけです。然るに、遅れてきた島津義弘の場合はその技法が効かなかったのです。効いたのは九州統一戦争の時まででした。秀吉と遭遇するに至って、一歩先を行く秀吉軍に比べて足軽の不足が相対的に際立ってしまい、直卒兵力による打撃兵団を保有するという優位性は薄れてしまったわけです。これこそがイノベーションのジレンマの実例です。破壊的技術革新には後発の優位はないのです。
- では、信長と義弘では何が違ったかといいますと。信長は一族を切り従えて戦国大名になりましたが、島津氏は兄弟仲良く協力し合った為に、専制的な権力を持てずに前代的な権力に止まったままだったことがあります。






