<母呂後> (2007.6.30)

 

 これまで、「抜駆け」「謡」「蓬左文庫桶狭間図」「桶狭間合戦場の地理」などの各章で、千秋季忠・佐々隼人の戦いについて考えてきましたが、ここにきて相次いで新しい文献に出会いましたので、それを紹介しながら彼等の戦いについて再考してみたいと思います。

第一番目に紹介するのは『天理本・信長公記』です。ここでは、千秋・佐々らが待機していた場所を「中島之砦」と明記しており、さらに前哨戦での戦死者も「卅騎計り」と廿騎も少なくなっています。

そこには、「中島之砦より、信長善照寺へ御出でを見申、佐々隼人正・千秋四郎(の)、二首、山際迄被懸向候。今河(川)義元人数瞳と懸り来て、槍下にて佐々隼人正・千秋四郎(を)初として卅騎計(り)討死(し)候」とあり、千秋・佐々らが中島砦にいたとあります。

第二番目は『鳴尾村史』で、「一方織田軍の先鋒隊佐々政次・千秋(四郎)季忠の軍勢三百余人は、星崎城東に戦期(機)を待った。午前十一時過ぎ信長軍鳴海に入るを見て、(佐々政次・千秋季忠らは)天白川を渡り瀬山[字母呂後]え突撃し、今川軍と激戦し共に戦死をなす」と書き、母呂後で戦死したといいます。

 註 字母呂後と瀬山との関係は調べることができていません。

このように場所について明確に書いているのは、千秋・佐々らが中島砦にいたと書く『天理本・信長公記』と瀬山[字母呂後]で討死したと書く『鳴尾村史』だけなのですが、『鳴尾村史』の永井勝三氏が此れに拠ったのかは定かでありません。おそらくは氏の独創だと思われます。また、『天理本・信長公記』は一般に紹介されたのは今度が初めてでして、比較研究した文献も知られず、その史料価値は定まっていません。

ところで、この二書を除くその余の多くは、千秋・佐々らの待機場所については、当然ではあるのですが、信長の旗が見える場所であるということで一致しています。『尾参郷土史』だけが「聞いて」と書きますが、これは文学的表現でしょう。また、「鳴海の東」や「山間」と書くものもあります。これらが何に拠ったかは不明ですが、新史料に拠ったわけではなく、先行文献に基ずいて夫々の著者が適当な表現を選んだものと考えられます。

駿河勢の居場所については、多くが「鳴海の東方」と認識しておりまして、「山際」や「山」と書くものがあります。「」という言葉は、『信長公記』も含めて極めて広い範囲を示しているのが一般的でして、総じて「概ね東」の意味でしかなく、右手・左手、上方・地方というようなものであり、厳密な方角を指してはいないものと思われます。また、(1)多くの史料は戦後遠く隔たってからの伝聞でしょうし、(2)当時の地名は、所有権や占有権・使用権を明示する場合にしか付されませんでしたから、仕方がありません。以上のことからみますと、鳴海(善照寺)からみて「東方の山際」に相当する場所は、平子ケ丘、鎌研、諏訪山・漆山の概ね三ヶ所になるものと思われます。

詳細な考察は、「先駆け」の章にゆずりますが、(1)平子ケ丘は前面に田を控えているうえ、本陣から離れ過ぎており、駿河勢が攻撃のために布陣する場所として選んだとは思えません。(2)鎌研は中島砦から遠方に過ぎるうえ、善照寺砦からは死角になりますから除外します。(3)諏訪山と漆山はどちらも適格なのですが、諏訪山の諏訪神社には接収された言い伝えもないのに対して、漆山は蓬左文庫桶狭間図に伝えるものと誤りなく一致していますことは、先に蓬左文庫桶狭間図を検証したときに述べました。このことから、駿河勢が布陣していたのは「小川道の漆山」であり、戦闘はその山際で開始され、後退する千秋・佐々らの討死したのが母呂後であったと考えることは極めて合理的だと思われます。このときの駿河勢は彼ら自身から見た場合には「殿軍」になりますが、織田勢から見た場合には先備になります。これについては、簗田出羽守政綱がそのような意味のこと を信長に進言したといいます。

 小瀬甫庵の『信長記』には、「簗田出羽守進出て仰最可然候。敵は今朝鷲津・丸根を責て其陣を易(カフ)へからす。然れは此分にかからせ給へは、敵の後陣は先陣也。是は後陣へかかり合ふ間、必大将を討事も候はん。唯急かせ給へと申し上けれは、いしくも申つる者かなと高声に宣を各聞て実(マコト)に左もあらんとて、弥(イヨイヨ)軍の機をそ励しける。」とあります。………甫庵の認識では、駿河勢の先鋒(朝比奈勢ら)は、丸根・鷲津から陣替えをできる状況にはないとしているのですが、その理由までは明らかにしていません。果たして、甲陽軍鑑の言う如く乱取に興じていたからでしょうか?それとも、へばってしまっていたからでしょうか?はたまた、先に引き上げていて本陣の急を聞いても引き返してくるのは容易ではないという意味なのでしょうか?

 

<鳴尾村史で読む桶狭間の戦い>

『鳴尾村史』の桶狭間合戦に関する部分を紹介します。

(1)「1549年、笠寺村内にて、徳川家康と織田信広の人質交換。この年今川義元、星崎城を築くため星ノ宮三社を現在地に遷座す。星崎城には今川軍を配備し、桜中村城山口教継・教吉父子にこの城を守らせた。この時大高より渡舟にて黒末川を渡り鳴尾松に上陸し星崎城に通ずる河原道を作る

(2)「五月十九日朝、今川軍の清州前進隊六千は葛山信貞が指揮して、大高より渡河し鳴尾松に上陸し、星崎城に進むのであるが、渡船困難にて進捗しないので、義元は大高城主将の鵜殿長照に協力応援方を命じたのが午前十時であるから、全軍が星崎城に終結し得たのは、午后二時を過ぎたであろう

(3)「一方織田軍の先鋒隊佐々政次・千秋(四郎)季忠(スエタダ)の軍勢三百余人は、星崎城東に戦期(機)を待った。午前十一時過ぎ信長軍鳴海に入るを見て、(佐々政次・千秋季忠らは)天白川を渡り瀬山[字母呂後]え突撃し、今川軍と激戦し共に戦死をなす

(4)「朝来長嶋城主服部左京亮(助)等は黒末川口に上陸、兵粮を大高城に入れた。今朝未明徳川家康は丸根砦を早く陥落させ、鵜殿の後詰に(代わりの城番として)大高城に入り兵粮を受け取った。(今川義元は)正午頃沓掛より田楽窪に到着し晝食(昼食)に入った

(5)「織田軍は早朝清州出発、熱田神宮にて戦勝を祈願し、丹下城に十一時過ぎ到着した。同城は早朝来二回の攻撃を受けたが善く防戦し、今川軍に多大の損害をあたえた。織田軍は善照寺砦で決戦するかに見せかけ、大風雨の中を今川の本営に奇襲し難なく大将義元を討取り、敵軍を壊滅させ午後四時凱旋の途についた。この敗報を受けた各所にある今川軍夫々東方に潰走した。星崎付近にあったあった軍勢も漸く午後五時には天白川を渡り東に退却した。この渡場で先を争って互に死闘した処が伝説の新藤半兵衛の血塚畑の死である

(6)「翌日星崎城主岡部真幸(五郎兵衛元信)は織田方である刈谷城を攻め落し守将水野信政(信近の誤りか?)を討取った。この報信長に達すると激怒し、二十一日兵二千をもって星崎城を攻めたが却って三百の死傷を出し、落すことができぬ。(中略)義元の子氏真はその功に報いたのが名高い岡部感状である。この話が別書には鳴海城と記されてあり何れも決しかねる

さて、上に紹介した『鳴尾村史』では、「午前十一時過ぎに信長軍が鳴海に入るのを見て、天白川を渡った」というのですが、当日の満潮は午前九時半頃(2007.7.6、午前8時台と判明したので訂正します。)ですから、佐々らが天白川を渡ろうとした時刻は、下げ四分(2007.7.6「下げ五分」に訂正します。)程度でして、船がなくてはとても渡河できなかったのではないかと考えられます。そして、天白川河口には服部左京助の船が千艘も遊弋していたとするのですから、これは不可能と言わざるを得ないのです。

ここからは、信用できない記述になります。《現在の天白川河口で中潮のときの水位(これは愛知県が川の防災情報として10分単位から測定成果をHPで公表しています)から想定しますと、現在の河口では、旧暦の五月十九日の水深は少なくとも140cm(未確認)はあるものと思えます。その六割ですと84cmもありますから、150cmの身長を考えますと腰を上回ってしまいますから、とても能率的には渡渉できません(2007.7.6、「下げ五分」で考えてください。)また、黒末川(扇川)の水位計測所のある緑区鳴海町字向田4番の7地先(浅間橋上流約160m、左岸4.34km)での中潮のときの水深を考えますと、これも約1mはありますから、渡渉時には60cmの水深があったものと思われます。これは150cmの身長の人の股までの水深ですからやはり渡渉は困難だと思われるからです。(2007.7.6、下げ五分で考えてください。)≫

(2007.7.13追加)ところで、『鳴尾村史』では、「佐々政次・千秋(四郎)季忠(スエタダ)の軍勢三百余人は、星崎城東で待機していた」というのですから、そこから笠寺の渡河地点まで北上して鳴海城下を経て母呂後に移動したとものと考えた場合には、距離が3.5kmほどもあります。そうしますと、急行軍で40分強ほどかかりますが、正午までには勝敗をつけられそうです。ただし、この間の一時間ほども信長は善照寺砦でやきもきしながら戦況を見守っていたことになりますが、午後二時頃には桶狭間の義元本陣へ突入することはできそうです。また、『鳴尾村史』では信長が善照寺から桶狭間までいかなる経路を辿ったかなどについては考察していませんが、「善照寺砦で決戦するかに見せかけ」といいますから、やはり迂回したと考えているものと思えます。

さて、『鳴尾村史』の大問題は、葛山信貞が指揮したという清州前進隊六千人と大高城城将の鵜殿長照です。

 旧参謀本部の編纂した『桶狭間役』は、たいへん詳しく諸将の布陣をその付図に示しているのですが、その基になったとは『東照軍鑑』であり、それを一部改変したものと思えますが、『鳴尾村史』もまたこれを踏襲しているように見えます。

『東照軍鑑』は、「元康を召し、其の方家来(は)当地の様子(を)委(クワシ)く存(る)可(き)条、明日(の)先懸をして丸根の要害(を)攻(めらる)可。二の手には朝比奈備中守・(中略)奥平道分父子(の)合(せて)二千余(に)申付る。鷲津の取手をは三浦備後守・(中略)鈴木日向守(の)合(せて)三千余を以て押さすべし。清洲へ向ふ人々には葛山播磨守・飯尾豊前守・三浦左馬助・小原伊豆守・天方越前守(の)五千余。鳴海の城主山口九郎二郎(既に誅殺されています)を案内者に指添、戸部・笠寺へ遣わし、鳴海には岡部五郎兵衛を大将として一族与力合七十五騎、伊賀忍の者九十人相加へ籠置可間、二の手押の者共と示合さる可きの旨(を)仰せ渡されければ、(元康は)其意を得候とて、御陣所へ帰せ給ひ、(中略)二千五百余騎(が)丸根へ発向し給へは、清洲へ向手(は)笠寺へ出陣しけり。沓掛の城には浅井小四郎・(中略)大草七郎を残置、義元は瀬名伊予守・朝比奈肥後守父子・高天神の小笠原を先懸として五千余騎(で)桶狭間表へ押出し、(中略)大高城中より鵜殿藤太郎・同藤助・同又三郎・竹谷備後守手合として」と記します。

これを一読して分かることは、山口左馬助が鳴海・笠寺・沓掛・大高などを手土産にして今川方に同心した時の状況を混同することによって、今川勢の兵力を故意に膨らましていることです。

具体的には以下のようになっています。

  1. 丸根攻は、松平勢が五百朝比奈勢が二千です。(総勢二千五百から朝比奈勢二千を控除したものですが、旧参謀本部は朝比奈勢を独立させて鷲津攻めにまわしています)<この松平勢について、『桶狭間合戦記』の山崎真人は、「(神君此の時)御領地は三河の中十分一なりといへり、凡、三河の国の物高参拾三万六千石なり、此十分一なれは三万三千六百石也、此時の御領地十分一より多かるべしともいへり」と考察しています。これから兵力を推測しますと 3.36×250人=840人ということになりますし、慶長検地は255,160石ですからその一割だとしますと25,500石ですから、630人程度になります。つまり、松平勢の五百人という数字は妥当なものだといえるのではないでしょうか。2007.7.14
  2. 鷲津攻は、三浦勢で三千余です。(旧参謀本部はこれを予備軍にまわし、鷲津攻めは朝比奈勢にさせています)
  3. 清洲攻め五千余の面々をみますと、これは山口左馬助が寝返ったときに配備された人々であることが分りますから、そもそも清洲進撃の計画自体の存在が疑われます。
  4. 鳴海城の番将・岡部五郎兵衛以下一族与力合七十五騎と伊賀忍者九十人というのは、桶狭間戦後に刈谷城を攻略したときの逸話から見積もった兵力でしょう。一騎につき五人の雑兵を考えますと総勢540余の守備兵であったということになります。(旧参謀本部はこれを7〜800と見積もっています)
  5. 沓掛には浅井小四郎らを残置したとします。(旧参謀本部はこれに千五百の兵を与えています)
  6. 義元本隊は五千余とし、瀬名伊予守らを先懸として桶狭間へ出張したとしています。
  7. 大高の鵜殿らは丸根砦への攻撃に加勢したとしています。鷲津と丸根を攻撃した兵力を比べてみますと、五百人ほどの差がありますから、大高城兵も五百程度いたものとも考えることもできます。その後、『東照軍鑑』には「大高の鵜殿長照と入替り人馬を休め給へ、鵜殿は内々望なれば清州へ先陣を申付んとぞ仰ける」とあって清洲攻撃軍に加わったことになっています。

『東照軍鑑』はこれ以上は清洲方面軍の動向を記しません。『武徳編年集成』『武徳大成記』などにも記事はありません。

『鳴尾村史』では、十九日の朝に大高より渡河して鳴尾松に上陸する作戦を開始したことになっているのですが、大高を解放しても目論んでいたようには舟が集まらなかったようで、渡河は進捗していなかったとしています。これは当然でして、大高にはもともと水軍などはありませんから、渡し船・漁船程度のものが些少あるだけだったと考えれば納得できます。

但し、これとは反対の証拠もあります。すなわち、『信長公記』には天正二年(1574)七月十五日の河内長嶋攻めに際して、「その他浦々の、蟹江・荒子・熱田・大高・木多・寺本・大野・常滑・野間・内海・桑名・白子・平尾・高松・阿濃津・楠・細頸などの船を集められた」とありますし、百五十年ほど後世のことになりますが、『大高町誌』によりますと、「元禄四年(1692)本町の船舶員数記録には、大高村83艘480石、込高新田17艘85石とある。当時荷物の運搬は専ら海上を船便に頼ったことは明らかで、当町にも船頭とか船問屋を家業とした家がかなりあった」と記しています。

平均しますと一艘当り五石(12〜3俵)積程度の小船であったことになります。一俵あたり一人としましても十二三人しか運べないということですから、仮に元禄時代でしたならば、百艘あるわけですから一度に千二百人運べますので、五往復すればよいわけです。但し、人は良いとしても馬を乗せるのが困難です。馬一頭を350kgとしますと、米俵六俵分ですから、舟一艘は一度に二疋運べるわけですが、六百頭(兵力の一割)いたとしますと、三往復しなければなりません。但し、馬を乗せるには甲板を張らなければ無理だと思われるので、舷から手綱を曳いて泳がせることとしましょう。都合、八往復ですむわけですが、大高〜鳴尾浜の220mをどれでけの時間がかかるのでしょう。

海の状況と舟の条件が良いければ、一人漕ぎで平均船速2.5kt(4.7km/h)が出せるといいますから、約8分で対岸へ渡れます。浜からの乗船ですから、将兵は舟の碇泊するところまで海中を歩くことになるでしょう。それを乗降で各10mとしますと、十二人が舟の両舷側から乗降するには(1.18m×12人+10m)×2÷4km/h=0.01208≒44秒ですから、これを1分とみなして、都合片道10分、往復20分かかると仮定しましょう。そうすれば、百艘が一斉に浜に着けられれば(10分×7×2+10)=150分で済むはずです。

ところが、『鳴尾村史』では葛山は朝から渡河を始めたといいますから、午前五時(当日は満潮に向かって上げ五分になります)から乗船を始めたとして午後二時に完了したとしますと、九時間かかっているわけです。つまり、舟は三・四艘ほどしかなかったことになります。これでは、義元の清洲侵攻計画はまことにもって杜撰な計画であったということになります

「全軍が星崎城に終結し得たのは、午后二時を過ぎたであろう」といいますから、星崎までの700mを最後の一組である48名(12人/艘×4艘)が着到するに要する時間は、(48人×1.18m+700m)÷4km/h=0.18916≒11分ですから、これは無視しましょう。

セオリー通りに鎌倉海道を攻め上がればよかったということです。

そこで、、『鳴尾村史』は、義元は午前十時になって大高城番であった鵜殿長照に協力応援方を命じたというのですが、彼に一体何ができたというのでしょうか?鵜殿長照を通じて服部左京助に依頼して、その兵船で兵士の輸送を行ったということにでもなるのでしょうか。

<この場合を考えますと、午前五時から渡河を始めて午前十時に服部氏が加勢してくれるまでに、対岸に運べた兵数は、5時間×60分÷20=15往復ですから、これに3艘、12人を掛けますと540人になります。そこで、残り5,460人を4時間で運ぶことを考えますと、4h×60分÷20=12往復しかできませんから、5,460人÷12往復÷12人≒40艘が必要になりますから、これから大高船籍の3艘を控除した37艘を石数に変換しますと一艘5石でしたから、総積載量は185石になります。服部左京助は『信長公記』で廿艘できたといいますから、十石船が二十艘であればいいわけです。すると、服部氏の兵力は最大で480人ほどであったということになります。運んできた兵糧を抜きにしての見積もりです。2007.7.14

問題はまだあります(2007.7.14)

朝、星崎に終結した葛山勢は、信長が上野道を行き野並で渡河するのを傍観していたことになりはしないでしょうか。星崎から直線距離で1,100mしかありません。見えないわけはないのです。

では、信長が丹下に着いたという午前十一時頃に星崎辺りに駿河勢がどれほど終結したのかを考えますと、渡河を開始してから六時間ほど経ていますから、星崎の葛山勢は4,000人ほどもいたはずなのです。信長の倍もいるのですから襲撃しないわけがありません。

次に、この葛山勢の星崎からの撤退を考えてみましょう。午後二時から退却を始めて午後五時には、少なくとも対岸に逃れることができたわけです。三時間で六千人を移動させられたのですから、単純に一往復にようする時間二十分で徐してみますと、9往復しかできません。一往復で運べる兵数は516人(3×12+20×24)人ですから、4,700人しか運べなかったことになります。残りの1,300人はどうしたのでしょうか。実際は服部氏の船は熱田へ略奪に出かけてしまいましたから、もっと多くの兵士が積み残されたはずです。しかし、当日の干潮は午後三時台ですから徒渉できたかもしれませんが………。

そんなわけで、馬鹿げた証明ですが、葛山勢については存在しなかったものと考えられます。

『鳴尾村史』がいう、 「丹下砦が早朝来二回の攻撃を受けた」というようなことは、取り上げるまでもないでしょう。葛山勢の分遣隊が攻撃したにせよ、鳴海城兵が出撃したにせよ、組織だった攻撃ではなかったことになります。中島砦も善照寺砦も共に堅く守って動かなかったからでしょうが、他の駿河勢が手を出せなかったようだからです。

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