<天理本・『信長記』を考える> (2007.07.02⇒9.28推敲)
ここで、考えるのは『信長公記』の首巻についてのみです。学問的な研究ではありませんから、念のため。
これまでの研究で明らかにされてきたことは以下のようなことです。
まず、『信長の戦争』で藤本正行氏は次のように述べられています。
- 牛一は慶長十四年(1609)に決着の付いた宮中のスキャンダル事件の情報を、その年の年末に入手し、遅くとも翌年の正月中には執筆、脱稿しているのである。そして同年の2月2日と8月23日付けで更に二本を作成しているのである。(中略)作成の日付が確認されているのは、右の3本だけだが、実際には更に多く作られたかもしれない。
- ことに読者の過半を占めたとみられる武士たちは、軍記に記録されることに、抑えがたい魅力を感じたはずである。こうした人々購読者出もあり、貴重な情報提供者でもあるから、牛一も彼等の喜ぶようなサービスに努めている。
- 内容的にみても首巻が日記や覚書をかなり雑駁に纏められているという印象を与えるのに対し、十五帖は概ね日付を追って、整然とまとめられている。
- 首巻をみると、個々の書き方は大抵「何月何日に云々」という書き出しになっており、それが何年のことか分かりにくいものが多い。
- 牛一自筆本によれば、牛一には振り仮名を片仮名で書く習慣があったことがわかる。
- 信長公記には自筆本が四点ある。前述の建勲神社所蔵の15冊、池田家文庫所蔵の15冊、尊経閣文庫所蔵の1冊、および織田家所蔵の1巻である。(中略)首巻については、自筆本が見当たらない。
- 牛一は少なくとも建勲神社本と池田家文庫本のなかでは、信長に対して十分な敬意を払ってはいない。(中略)むしろ牛一が敬意を払い、かつ遠慮しているのは、家康に対してである。(中略)以上のように信長公記の伝本の多くは、信長よりも家康に対して敬意を払い、また遠慮している。
- 『信長公記』の奥書によれば、彼は編纂にあたって多くのメモを用いたらしい。
- 同じ建勲神社本の中で、家康に対する敬意の払い方が、記事によってまちまちであるという事実や、干支を付けた記事が一部に混入しているという事実から、彼の編集方式が一種のカードシステムをとっていたことがわかる。すなわち彼は信長公記の編集に当たり、様々な記事をカードのように集め、それを原則として古いものから並べ、一巻ごとにまとめていったのである。
- カードシステムでは、カードの並べ違いや重複も起る。
これに加えて、
『天理本・信長公記』については、歴史読本8月号別冊付録・信長記の大研究で和田裕弘氏が、以下のように書かれています。
- 天理本が同じ首巻を持つ陽明本や我自刊我本と別系統であり、しかも、その原本は両者より相対的に古いのではないかと考えられる。
- 小藤太は本能寺の変で討死し、その子孫も大身にならなかったけれど、一方の小平太が大名まで出世したので、侫ねるというほどではないが、牛一が小平太に花を持たせたという可能性も考えられる。(中略)関係の者から頼まれて書き換えたのかも知れない。
- 天理本には他本では末梢された青木加賀右衛門(重直)が記載されている。(中略)陽明本などは、牛一の子孫が主君となった青木氏の先祖の「不名誉」な記録を故意に削除したものと思われる。(中略)天理本は牛一子孫の推敲を経る以前に成立した伝本だと考えられるのである。
- また、同書に桐野作人氏は次のように書かれています。天理本は牛一の子孫(青木氏に仕えた)の手を経ていないことになり、より古態を保った伝本だといえるのではないだろうか。
- 信長が決戦を決意していたという天理本の記事は、その後の事態の展開と見事に照応しており、リアリティがある。
- この(合戦前夜の軍議)一節が興味深いのは、あまり評判のよくない小瀬甫庵『信長記』との類似性である。
<思いつき> (2007.7.6)
以上の研究成果を踏まえて考えますと、和田裕弘、桐野作人氏らは、詳細な記事がある方が古いものであり、まず先に完全な首巻があったと考えられているように見えるのですが………?違うかな。事実はその逆もありえるように思えます。
つまり、こう考えます。もともと首巻は不完全なメモを寄せ集めただけのものだというのですから、本編から省いた上洛以前について、読者の依頼と事実とは限らない情報の提供に基づいて構成されていたはずです。その場合には、詳細な記事があるほうが新しく加筆されたものであり、古態を保っているとは言えないことになります。
小生が考えるのは、裏付けも取れず自身の記録も不完全な上洛以前については、本編からは当初は省かれたわけですから、当然に前後に脈絡を欠いていたわけで、簡潔で箇条書きの形態をとりものが最も当初の文書なのではないかと想像するわけです。なぜなら、藤本正行氏のいわれるように、首巻の文章は時間経過も整理されておらず、ただメモを並べただけの文章が目立つからです。本HPの「第九章・謡」でもとりあげました今川義元の謡の場面などが良い例でして、時間の経過がよくわかりません。
首巻を伴う自筆本は今のところ発見されていないところからして、牛一が「本格的に記録」をはじめたのは、上洛以後のことではなかったのかとも考えられているようです。勿論、牛一の性格からそれ以前の記録も折に触れ書きためていたであろうことは否定できませんが、年月日の記載など完全を欠くものであったものだと思われます。これについては、谷口克広氏は、天正三年の第八巻以降は日付の誤りが急減していることや、この年から信長の尊称が「上様」になったことからして、牛一が後世に残すことを意識して記録を取り始めたのではないかとされているようです。
しかし、首巻部分の記事になるメモについては、本編と同様な編年式の形態を採るには、十分なメモが準備出来なかった可能性があります。そのため牛一は、首巻を除く上洛後から一貫した体裁をとって書き上げたのでしょうが、その後読者の求めに応じて首巻の概略を書き、それに提供された情報を随時書きくわえて贈呈したと考えるわけです。その場合には、詳細な記事がある方が新しく、その情報は筆写を依頼した側からもたらされた可能性があり、必ずしも裏付けが取れているわけではないものと考えることもできます。だからといって、内容に誤りがあるとはいえません。
例えば、『天理本・信長公記』には、「黒末川の向、鳴海大高間を取切、二ヶ所丈夫に拵、丸根山には、佐久間大学入置、鷲津山には飯尾近江守・同隠岐守・織田玄蕃。(改行)大高之南、大野・小河衆被置」とあるのですが、史籍収攬本などでは、ここは「一つ書き」になっているうえ、「大高之南、大野・小河衆被置」の記事はありません。ですから、牛一がメモを基にしてしかも十分に編集できなかったのが首巻であると考えますと、天理本は古態を示していないことになり、追加の情報を挿入した原稿であった可能性もあります。なぜなら、天理本は文章の態をなしていないように小生には思えるからです。例えば、上の文章において、改行なされる前の文には「入置」が抜け落ちていますし、丸根と鷲津は「ヶ所丈夫に拵………入置」と詳しく語っているのに、大高の南については「被置」とだけあって、砦があったのか大野氏や緒川水野氏と同盟して攻囲を担当させたのかも判然としません。因みに、正光寺砦も氷上砦も張州雑志などに「在」とか「有と云」と伝えるだけで、………
また、合戦当時の信長が対等の立場であったと思われる同盟者の水野氏を指図できたとも思えません。ましてやその帰趨に信用が置けない佐治氏を、信長が大高城包囲網に参加させることができたとも思えないのです。もし、水野・大野の両氏が明確に信長に味方していたという政治情勢の下に、今川義元との抗争に突入したのであったならば、信長の勢力はこれまで伝えられたような手元不如意などというようなものではなく、義元に匹敵しうる相当な勢力を持っていたことになります。………それなのに信長が桶狭間に新たに動員した決戦兵力は二千に過ぎなかったのです。
例えば、佐治信方為興は、信長に臣従して信秀の娘で信長の妹お犬の方を妻に与えられ、信長の字を拝領されて「信方」と改名するなど、一門衆並みの待遇を与えられたのですが、それは桶狭間の戦いの後でした。以前ではありません。これは今川義元の西進に際して信長に味方したからでしょうか、それとも中立を保ったからでしょうか、それともその後の東部戦線での家康らとの関係を通じてのことなのでしょうか。
この辺の関係はもっと複雑です。
大野佐治氏(宗貞)の次男・善次は、天文年間(1532〜1554)に空善の許に娘婿として養子に入るのですが、水野氏による知多統一後には後妻として信元の娘を迎えているといいますから、知多半島は表面上は水野信元の覇権の許で一応の安定をみていたことになります。
ところが、『寛政譜』では弘治二年(1556)今川氏との戦いで戦死すると、信長の命により佐治氏から入った善治が荒尾家を継いたといいいますから、荒尾家の存続を通じて知多半島の支配関係に信長が介入して始めたことになります。この荒尾氏の知行地である名和地区は、水野氏からも佐治氏からも長く放置されてきていた空白地帯でしたが、同時に独立がなりがたかったため、早くから織田氏の被官になっています。
また、織田信時(信行について1555年に滅亡した守山城主)に嫁いでいた娘を平島城の池田信輝(恒興、勝入)と再婚させたといいます。このように、荒尾善治は佐治氏の次男ではあっても生き残るためには、信長に頼る必要があったわけです。一方の信長は、木田城がいつ今川方に転向しかねない佐治氏に渡るのは絶対に防ぎたかったと思われるのです。
………ここで大切なことは一族一揆とか家族一揆という観念は全国的に崩壊していていたということを念頭に置くことです。後世の徳川時代になってからの孝・忠からなる社会通念などはなかったということです。戦国時代の各個人は全員がみな独立して一家を立てて威勢を張ることだけを目的にしていたと考えるべきだと思います。
それに、桶狭間合戦では大高河口に荷之江の服部氏が数十艘を率いて参陣しているのに、当時、伊勢湾東部に覇を唱えていたはずの大野水軍が何の妨害もしていないのです。そんなことがあるでしょうか。これが、大野佐治氏や寺本花井氏(村木砦攻めの時に攻め滅ぼされているという)が少なくとも信長の被官などになってはいなかった証拠だと思うのです。大野佐治氏らの本音は中立であったのだと思うのです。このような事情から考えますと、「天理本のいう大野衆」とは荒尾善治のことを誤認したものと考えるべきなのではないでしょうか。大野佐治氏自体は、あくまでフリーハンドでいたかったと思うからです。
そう考えますと、天理本の記事は戦後に資料を集めることができた者が、書き加えたものだとも思われるわけです。だからといって事実ではないとは言えません。
しかし、合戦当時の牛一には、大高川以南の情報が極めて少なかったと思われます。それを証明すると思われるのが氷上砦や正光寺砦の存在や動向を牛一が取り上げていないことです。牛一が丸根・鷲津の状況を報告しているにもかかわらず、駿河軍の進路を遮る正光寺砦の存在を承知していたとしたならば、その消長について無関心ということはないでしょう。もし、牛一が知っていて書かなかったとしたならば、それは徳川縁故の水野氏が一戦も交えずに戦線を離脱したことを憚ったからだということになるのでしょうが、三方が原合戦のときにも信元は家康の救援に参陣していないようなのです。これも、信長に命じられなかったのか、間に合わなかったのか、戦線から離脱したのかは判然としません。
ところで、氷上砦に入ったであろう大野佐治氏は関係ないはずですから、こちらの記載があって然るべきではないでしょうか。ところが、尾張藩が聞き取りしたと伝えられる『蓬左文庫桶狭間図』には正光寺砦一つだけしか記さないのです。一方、『長州雑誌』には氷上砦・正光寺砦という二つの砦があったことを伝ます。そして、氷上砦の南は村木砦攻略にも参陣している荒尾小太郎空善が木田に本拠を構えて三千貫を領し、藪城の花井惣五郎と対戦したという経緯があります。そのことからしますと、この荒尾氏が氷上砦に入るべきなのですが、荒尾氏にはその余裕があったのでしょうか。この時期の大野佐治氏が信長方についたとしたならば、桶狭間戦後に信長が、三代目・佐治八郎信方(為興)に妹・於犬を嫁したということも、合戦以前に遡ることを考えねばなりません。

『信長公記』諸本については、特に地名が明確に記載されているような場合には問題があります。当時の戦場になるような場所は、無名であった方が多かったでしょうから、固有名詞があるということは、後から名づけられた場合の方が多いだろうと考えられるからです。<以下、考慮中・・・>
桐野作人氏によりますと、『天理本・信長公記』は太田牛一の著作の後に書かれている小瀬甫庵『信長記』との類似性を示す箇所があるとされていまして、甫庵の種本になっている可能性があるという問題を指摘されています。<以下、考慮中・・・>
<天理本の性格について思うこと> 2008.07.07
天理本については、桐野氏の紹介された僅かな文章しか接していないので断定はできないのですが、文章が中途半端で前後が繋がらなかったり、きちっとした終り方をしていないように感じるものがあります。
例えば、天理本の「御敵今河義元人数四万五千にておけばさま山に。五月十九日午刻、戌亥に向て段々に人数を備、鷲津・丸根両城を攻落し、満足不可之とて、謡を三番うたはせられたる由候。」という文は、「おけばさま山に。」と動詞を欠き、まるで表題や目次のような文章の切り方をしていますが、陽明本の方は「御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、」というぐあいに文章として成立しています。
同様の例に、「黒末川の向、鳴海大高間を取切、二ヶ所丈夫に拵、丸根山には、佐久間大学入置、鷲津山には飯尾近江守・同隠岐守・織田玄蕃(入置という文字が欠ける)。(改行している)大高之南、大野・小河衆被置。」というものもあります。ここも、陽明本では「一、黒末入海の向ふに、鳴海、大高の間を取り切り、御取手二ケ所仰せ付けらる。一、丸根山には、佐久間大学(盛重)置かせられ、一、鷲津山には、織田玄蕃(秀敏)・飯尾近江守父子入れ置かせられ候ひき。」となっていて、まともな文章になっています。
用語的にも天理本は問題があるように思えます。
例えば、合戦の陣立てなどでも、天理本は「段々に」などと『三河物語』の用語方を使ったりしているのですが、そのような表現は天理本でも「桶狭間山の場面ぐらいなのではないでしょうか?鉄砲隊の効果的な使用のためには、最もその表現が必要な長篠合戦での設楽ケ原の織田・徳川連合軍の陣立てなどには、そのような表現はなされていないように推測します。………と云うのは、桐野氏が紹介されていないから小生には知りようがないからです。勿論、十三段に備えて十一段まで切り崩されたという姉川の戦いの場面でも「段々」という表現はなさそうです。
また、天理本の善照寺砦で信長の出陣を諌止しようとする場面では、「家臣」という言葉が使われていますが、これなども他には見られない用語なのではないかと感じます。調べてはいませんが………
たったこれだけの例で即断することは問題なのですが、どうも天理本は陽明本以上に細切れのメモの寄せ集めのようであり、時間経過に関係なく並べたような気がします。つまり、文章の順番に時間が経過し、事件が推移したと安易に考えるべきではないと思うのです。
天理本にそれが疑われる例に、「其夜之御咄、軍之行御談合、於是非国境にて可被遂御一戦候、寄地へ被踏迯候而は有ニ無甲斐との御存分也。然処御家老之衆、一味同心に被申候。御敵は四万五千大軍也、其分一にも不足御人数に候。是程能名城御拘之事に候之間、時分を被成御計御合戦尤と申候之処、其御同心無御座。爰にて被仰様伝聞く、安見右近前遍に度々可仕合戦相拘籠城に成、人数次第々々手薄にて無下に相果候事、眼前之由、御諚候えき。扨御盃出候而、宮福太夫兵者之交り、頼有中之酒宴哉と謡を仕、信長公御鼓にて乱酒に罷成退出被申候也」という記事があります。
この文章を読んで、一般人なら不思議に思うことは「既に半日行程のところに到着している敵の大軍を前にして、軍兵を城中に動員するでもなければ、兵粮を集積するするでもなく、ましてや城下の住人に総曲輪の備えを強固にする指示もださずに、今更、決戦であるとか籠城であるとか議論していた」ということです。これでは小田原評定にも劣る有様ですから、何処から見ても論外の逸話であって、もし事実であったとしたならば、遅くとも17日の夜の出来事ではなかったかということです。………つまり、挿入の仕方を誤ったか、メモのままの文章ではないかということです。
信長が決戦だとオダをあげ、家老衆を含む一同もその気になって景気づけに酒宴に及んでしまい、翌日には法螺貝で呼集しながら、雑兵二百人にしか信長の出陣に追従できず、熱田に二千人しか集合できないのでは、とてもそれが前日の出来事であったなどとは小生には思えないのです。………と云うことは、甫庵が天理本を参照したのではなく、天理本の方が甫庵を参照した可能性すら疑えます。ただし、これも史実ではないとは言えないのです。その日付を別にすればですが。
余談になりますが、ここにある「於是非国境にて可被遂御一戦候、寄地へ被踏迯候而は、有ニ無甲斐との御存分也。」を「国境で無二の決戦をする決意で、せっかくやってきた敵を国境の外に討ちもらしてしまっては甲斐がない」と訳されていますが、「於是非国境にて可被遂御一戦候」では、信長は国境で一戦交える意志を明確にしたのであって、乾坤一擲の決戦をしようなどとは一つも言っていないと思います。ここでの「寄地」は国外で間違いはないでしょうが、これは寄親や寄騎と同様の用法ではないかと思うので、「領国化した三河岡崎へ」という意味だと考えます。また、「有ニ無甲斐」はよく分からないのですが、「言に無甲斐」なのではないでしょうか。
ところで、小生がこの信長の決心が「乾坤一擲の無二の決戦」を企図したのではないというのは、それまでの信長の戦績をみると奇策も迂回も別動隊も用いず、常に正攻法で真正面から攻撃し、勝たないまでも負けていないことを考えるからです。ですから、信長の決心は文字通り「国境で一戦すること」であり「決戦すること」などではありません。このような信長の軍事行動の背景にどのような軍事思想があったかを考えてみます。
信長はこの後美濃征服に七年もかかっています。しかし、これは信長だけのことではありません。義元は岡崎入城から数えて十年かけても西三河を制圧するには至っておりません。それどころか尾張国境では信長に押され気味にさえなってきています。武田信玄も北条氏も隣国を征服するには多年を要していますが、唯一の例外は上杉謙信が小田原城に迫ったときぐらいなものなのです。ですから、どこをどう押しても決戦などという思想は出て来ようがないのです。
このような事実を総括しますと、「守護」という大義では領国を統一するのに精一杯であって、隣国を併合するための正統性にはならず、「管領」の大義で初めて広域支配の正当性が得られたのだという事実です。実力だけでは足らないのです。そこで、国主たちは「公儀」という用語を使いだします。信長は当然この事実を知っていましたから、将軍の求めに応じて上洛もしましたし、義昭を手に入れると一気に京まで征服することが可能になったわけなのです。これは、軍事技術や兵器の優越性にあったのではないということを意味します。端的に言えば、謙信も信長も大義を得て諸国の兵を麾下に集めることができたのです。
さて、それを信長が明確に認識していたとしたならば、どのような軍事思想(戦略)を持ったと考えたらよいでしょうか?
基礎になる事実は次のようなものがあります。
- 「ケ様に(身内にも叛かれて)攻め(られて信長公はただ)、一仁に御成り候へども、究竟の度々の覚えの侍衆七、八百、甍を並べ御座候の間、御合戦に及びて、一度も不覚これなし。」
- 「御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄炮五百挺もたせられ、」
- 「信長御小姓衆歴々、其の員を知らざる手負死人、目も当てられぬ有様なり。」
これらの事から小生が考えるのは、信長のカリスマ性などではありません。それは、信長の軍勢が一気に膨れ上がっていないからです。では何かと言えば、それは信長軍が度々の戦闘に勝利しないにもかかわらず、兵員の消耗に耐えており、領土の拡張があっても国人衆に分配していないことです。
- 常備軍であったらしく出動が速いこと
- 補充が効く傭兵であったらしく、兵力の回復が早いこと
- 国人・地侍に憑勢をしていないために機動兵力は二千人程度であったらしいこと
- 信長の身代・兵力が他の国人衆に比べて格段に大きいこと
このような特徴を持った軍隊を使っての信長の戦略はただ一つ。「見敵、必攻」です。敗れても信長自身が戦場から逃れることができれば何も問題が生じないことは、後に金ヶ崎で証明していますし、負けても敵に消耗を強いれば兵農分離していないうえに「飢えの時代」の敵は継戦能力を失っていきます。つまり、とにかく敵と「戦うこと」が信長の戦略の全てなのであり、戦う機会を逃してはならないのです。
ですから、信長の戦績には奇兵も奇策も伏兵もありません。信長自身が桶狭間の戦いを前にして自らの戦術を語っています。「小軍なりとも大敵を怖るるなかれ。運は天にあり。この語は知らざるや。懸らば引け、退りぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事。案の内なり。分捕りなすべからず。打捨てになすべし。軍に勝ちぬれば、この場へ乗りたる者は、家の面目、末代の高名たるべし。只、励むべし。」………これは、毛沢東のゲリラ戦術などではありませんし、決死隊の突貫戦術でもありません。
このようですから、敵の進出に接しての信長は「於是非国境にて可被遂御一戦候、寄地へ被踏迯候而は有に無甲斐」であり、前夜に至っての信長は「軍の行は努々(ユメユメ)これなく」なのです。
<2007.07.29〜追加分>
(1)天理本「大高之南、大野・小河衆被置」
これまで述べてきたのですが、天理本が「大高城の南にも砦があった」事を伝えること、それは自体は合理的なのですが、大野衆(?)が守備していたという事と、”被置”という言葉づかいは、当時の情勢に合わないものがあるように思えます。
これまでは、大野佐治氏と寺本花井氏(村木砦攻めで滅亡)は今川方にも通じており、合戦当時にその情勢が変わったようには考えられていませんでした。しかし、ここでは「大野衆」という記述だけが問題になります。これが、荒尾氏であれば問題は何も生じません。この時期に大野衆が既に今川方を見限って信長についていたとしたならば、今川義元の軍事行動の動機も逆転してしまいます。つまり、信長の勢力伸長によって、義元は尾張に領土を拡張するどころか、信長に西三河への侵出を許してしまうことになり、俄然焦り出したということになるわけです。
その結果、五月八日に今川義元は三河国主に任官したことや、三月廿日と思われる関口氏純(義元奉行人)の伊勢外宮祢宜に宛てた書状などは、尾張の制圧を想定できるという研究者もおられるのですが、史実は逆であって、伊勢衆に見放されたくないという思いであったと考えねばならないことにもなりかねません。つまり、飢饉のオンパレードだった戦国時代の東国では、伊勢志摩を経由して輸入される米は、欠くことができない輸入品目だったと小生は考えるからです。
と云う訳で、信長は派手にではないのですが、着々と西三河との国境を東に押し出し始めていたと見直す必要が出てくるわけです。
北部では、永禄三年正月の攻撃によって、品野城・桑下城・落合城も奪取して、そこに籠められていた今川方の城番を追い払っていた可能性があります。南部では信長が永禄三年五月五日に吉良に出兵して付近を放火し名刹実相寺も兵火で焼失したと『西尾市史』が書きます。その前年の永禄弐年には、四月廿六日に信長は平針(天白区)に出陣して、三河との国境福谷(三好町)に砦を構えて酒井忠次を配していた松平方と戦っています。この時、信長自身は丹羽氏を牽制するため岩崎面を押さえ、柴田・荒川新八郎らに福谷城攻めをさせたが失敗したと『東照軍鑑』はいいます。
つまり、信長も義元も互いに、国境を推し進めることが出来ないでいたことになります。義元は寺部の鈴木重辰に叛かれ、信長は品野城を獲れないでいたのですが、大高城に対しては付城を築けるほど、勢力は伸張していたと評価できることになります。これは、尾張は国を二分して混乱しているうえ背後の美濃・斎藤龍興と争っていて脆弱なはずだと思っていた義元にとっては予想外の展開であったことになります。従って、鳴海・大高の両城に対する付城を築かれて今川方の尾張における前線を後退させられたという不利な状況に陥ったことが、今川義元の出馬に繋がった理由になるわけです。さらに、知多半島では、緒川水野氏をはじめとして全勢力が織田方になっていたことになるのです。
しかし、その一方では、特に大野水軍が桶狭間合戦に際して軍事行動を起こしたことが伝わらず、服部党が数十艘も大高河口に出張ってきているのを妨げていないばかりか、合戦後の彼らを追撃していないという、疑わしい事実ががあります。それだけでなく、松平元康には敗戦後に常滑から成岩を経て脱出したという伝説さえあるのです。………本当に信長は知多半島を勢力下に置いていたと言えるのでしょうか。
それに、西三河に着いてからの今川義元の軍事行動は余りにも遅鈍ではないでしょうか。17日には沓掛城に着いていると見られているのに、目立った行動は何も起こしていないのです。まるで花見遊山のようでさえあります。その挙句、行動を起こしたのは二日後で、早朝から付城を二つ排除しただけなのです。そして、現在に至るも義元が何をしに出張してきて、桶狭間山くんだりで昼食をしていたのか分らない有様なのです。ですが、対する信長にも大軍を動員できていないという現実があります。
以上のことを総合しますと、氷川砦を守ったのは大野衆ではなく、大野佐治氏の次男であって、当時、木田・荒尾氏を継いでいた善治であったのを、牛一は善治の出自から誤って記載したものと見做せるのではないでしょうか。つまり、天理本は陽明本などのベースを基にして、新たな記事を後世の評価と共に書き加えられているように感じます。小生は、首巻に限っては情報の少なく細切れな方が、そもそもの牛一のメモそのものであったと感じるのです。
(2)軍議があった前夜
天理本では、「其夜之御咄ニ、軍之行(についての)御談合ハ、於是非国境にて可被遂(トグ)御一戦候、寄地へ被踏迯(ニゲル)候而(ソウロウテ)は有に無甲斐との御存分也。然処(シカルトコロニ)御家老之衆、一味同心に被申候。御敵は四万五千ノ大軍也、其分一にも不足御人数に候。是程能(ヨキ)名城ヲ御拘(カカエ)之事に候之間、時分を被成御計御合戦尤(モットモ)と申候之処、其御同心無御座。」と書き、天理本は、これまで我々が知らされてきたものと百八十度違う前夜の状況を伝えます。
軍評定があった事は是認できなくはありません。天理本のいう信長の決心は、徹頭徹尾、野戦で撃退しようという意志であったことを明確にしていますが、これは、その後の合戦の展開をみても、本能寺で討たれるまでの軌跡をみても、矛盾することはなく、信長の性格を示していて問題がないからです。
しかし、問題なのは次の、
- 家老衆と合戦前夜という切羽詰まってから軍議を行ったこと
- 家老がみな一味同心で野戦の不可と籠城を主張したということ
これらは、素人がみても信長の決心を際立たせるために、挿入された可能性が高いと考えるだろうと思われるような文章の構成になっています。
北は品野から南は三河大浜まで西三河に侵出していながら、本格的な駿河勢との激突を予想しなかったというのでは話にもなりません。古くは小豆坂で駿河勢の大軍と激突し、安城を攻略され、一時的には刈谷も村木も蟹江も奪われているのです。それに、安城城の後詰をめぐっては守旧派との対立が明確になり、平手政秀を諌死に追い込み、その結果として信長の行き方に賛同する少数の根っから好戦的な者たちだけが残ったはずだと小生は考えます。
もう一つは、(3)家老衆が清須城を難攻不落の名城と思っていたといしていることです。これなどは、当時の武将の常識からかけ離れた判断だと思わざるを得ません。当時の清須城は五条川一本を外堀にしただけの平城でしかなかったのですから、極めて脆弱であって当時の武士がみな山城を詰めの城として持った常識からしても異常です。なぜなら、天文期(1532〜54)は、全国的に大名の居所が本格的な城郭として、基本的には平城から山城に大きく変化した時期であったとされているからです。
因みに、『名城と合戦の日本史』の小和田哲夫氏は、信長が桶狭間へ討って出たのは、清洲城が今川軍の攻撃にもちこたえられるほどの城ではなかったからだといわれまして、それでやむなく奇襲をかけることで奇跡的な勝利を得たとされています。これなどは、城自体が戦略を決める要因となった顕著な例であるとまで言われて、天理本の家老衆とは正反対の評価を清須城に対して下しています。
清須城は、文明十年(1478)にそれまでの下津にあった守護所を五条川河畔に移したもであり、信長が守護代を倒して居城にしたのは弘治元年(1555)ですから、それより七十七年前に作られたものです。実際のところは不明なのですが、『言継卿記』に「城之近所之法華堂」や「本養寺」があると書き、『信長公記』には、「(留守居役の)佐脇(は)城を一切出づるべからず、町人も惣構がよく城戸をさし堅め、信長(が)御帰陣候まで人を入るべからず(後略)」とあり、町人も多数集まってきており、五条川を取り込んだ惣構が構られていたらしいことがわかりますが、詰の城はありませんでした。信雄(ノブカツ)時代には、清須で最も賑わった町屋であった山王社の門前町や、清須城の北に位置する御園神明社の門前町(後に信長が小牧山城を築いた際には、町ごと移転させられて小牧に御園町を形成している)なども惣構の内に取り込んでいますが、信長居城時代はそれらは惣構の外にあり、全体としては守護所の方形館を中心にした後の五分の一ほどの小さい惣構(?)であり、武田信玄の躑躅ケ崎館や今川義元の駿府舘と同一の規模をもった方形館城と同じようなものであったものと考えられます。
註 躑躅ガ崎館は詰めの城として2km北に要害山城をもち、今川舘は賤機山(シズハタヤマ)には詰の城があったと考えられます。
それでも『信長公記』天文廿三年(1554)柴田権六、中市場合戦の事条に「(柴田勢は清洲勢と)三王口にて取合ひ、(清須勢を)追い入れられ乞食村にて相支ふること叶はず、(さらに後退して那古野北方の)誓願寺(北区)前にて答へ(防戦)候へども、終に(清須城惣構の)町口大堀の内へ追い入らる」とあるように、このことからも惣構が機能していたことがわかります。ところで、『信長公記』に、「究竟の度々の覚えの侍衆(が)七、八百、甍を並べ御座候の間」とあるところから、常備軍が清須城下に「常住」していたと考える人もいますが、これは疑問です。一つは、桶狭間合戦に信長が出陣するにあたって追従したのは雑兵二百人計しかいなかったからです。最も信頼できる親衛隊ともいうべき馬廻の面々が城内・城下にいなかったとは考えられないからです。従って、本格的に常備軍を常在させるようになるのは小牧山城からだと小生は思うのです。
ということは、ここでいう家老衆とは通常から清須城に詰めている者たちだけだったと考えられます。………なぜそう思うかといいますと、『信長公記』には、「或る時(永禄六年)、(信長は)御内衆(惣構内の人々の)悉くを召し列ねられ、山中・高山ノ、二之宮山(犬山市二之宮)へ御あがりなされ、此の山にて御要害(を築城することを)仰せ付けられ候はんとノ上意にて、(町衆の)皆々ニ、家宅引き越し候へと御諚候にて、爰の嶺、かしこの谷合を、誰々こしらへ候へと、(いう具合に)御屋敷ヲ下され、其の日ハ御帰り、又、急ぎ御出であって、弥、右の趣御諚候」とあるからです。そして、清洲は七十年ほど前とはいえ、初めから守護所として計画的に町創りがなされたわけですから、武家屋敷も重臣らの屋敷はあっても、新たに七八百もの馬廻や足軽輩の住居区画を理想の位置に配置するには、大がかりな町屋の移動や新たな堀の掘削などが必要であったと考えられるからでもあります。しかし、そのような情報はありません。
それに、清須城は他の戦国大名の方形館城と違って「詰めの城」を近くに持っていないのです。これは、戦国大名の城館の在り方として非常な欠陥です。それに、信長による弘治元年の信行の守山城攻めや、永禄二年の岩倉城攻めを見ても解るように、城下町はすぐに火をかけられて「生城」にされてしまっており、「当時の惣構」は未だその程度の防御力しかなかったことが知られるからでもあります。つまり、惣構を有効に活用できる広さも兵員も持っていなかったと考えられるのです。
また、信長の父織田信秀や太源雪斎による安城城の攻略結果をみても、大兵力の前には当時の平城は規模からして、長期の籠城には耐えられなかったものと思われます。ですから、初期の信長の城攻めが付城を多用しているのは、力攻めをするのに十分な兵力を用意できなかったからだと考えられるのですが、それでも、損害を顧みなければ、村木砦攻めのように後詰のない平城は、攻略することは可能であったものと思われます。
しかし、信長の一国統一期の戦争規模は比較的小さくて、敵味方とも互いに集められる兵力は二千人を超えることはなかったらしいので、力ぜめで攻め落とすことは難しかったでしょうから、河川をとりこんだ清須城などは、信長の家老衆には難攻不落の城に思えたのかもしれません。現に、木曾川河口にあった願證寺や長嶋城などは一向一揆に際して難攻不落でした。しかし、「平城惣構」が難攻不落だと一般に認識されるのは、早くとも上杉謙信や武田信玄による小田原城の攻囲戦の結果をみてからでしょうし、実際は秀吉による小田原城の大包囲戦をみてからのことと思います。
平城が軍事的にも安全な城砦であるためには、十分な広さとそれを守る兵力だけでなく、水堀で周囲を守るためには石垣の技術が必要でした。四方を俯瞰して中央から指揮統制するためには、人工的に高楼をあげる必要がありましたし、長大な縁周を安全にするためには敵に攻撃の足掛りとなるような腰曲輪や犬走は無くさなくてはなりませんが、それには高度な石積みの技術が必要だからです。
そして、信長が登場する頃になると、戦国大名同士が戦う場合の兵力は万にも達することになり、その場合にはそれまでの方形館城を大きくしただけでは、十分な防御力を持たないことから、多くの戦国大名は詰めの山城を付近に用意することになるわけです。ところが、尾張にはそれに適した立地はありませんでしたから、後の長嶋城のように木曽川河口の中州を城砦にすれば万全であったわけですが、それでは自分の領国社会・経済からも孤立することを意味していましたから、信長は生涯そのような居城をつくりませんでした。信長も他の戦国大名と同じように山城を求めて移動します。信長は、この後、清須から小牧山城、美濃稲葉山城、安土山城と居城を移します。これは、守護大名から戦国大名になるための必要な一歩だったのだと思います。
そのような時勢の移り変わりを、信長の重臣たちが理解できていたとは思えません。尾張国では未だ義元・信玄・氏康らが率いたような「万に及ぶ大軍勢」での合戦を経験していないからです。
それに反して信長が、「平城が思ったよりも脆弱」なことを思い知らされたのは、安城城が二度、刈谷城が一度、大軍の前にあっけなく攻略されたの実際に経験して知ったからです。尾張や三河の城砦は方形館を基本にした単純なものであって、関東の後北条氏の城や甲斐の武田氏が築いた境目の城との比較では、構造的に立ち遅れていたと『新修名古屋市史第二巻』はいいます。その上、自らが二千名弱の兵力で攻めた城攻めはみな成功していないことから、兵力と城砦の関係について信長は十分に認識していたものと思います。………としますと、天理本のこの文章は、桃山時代になってからの「惣構をもった平城は難攻不落」という築城思想の常識で挿入された可能性が高いものと考えられます。後の小牧城以降の「広大な惣構をもった山城」による防衛思想ではありません。
つまり、かぎや散人はこの文章は、江戸初期の見識でもって収集した情報に、後世の武士の軍事的価値判断を加えて挿入した逸話だと考えます。それに、籠城が議題に上るくらいであるならば、家老衆らの重臣がその手兵や寄子を動員しないで清須城に詰めていたというのも間抜けなことです。
(3)次に、信長が安見右近の事例をあげて家老衆に反駁しているという問題があります。
天理本「爰(ココ)にて被仰様伝聞く、安見右近前遍に度々可仕合戦相拘籠城に成、人数次第々々手薄にて無下に相果候事、眼前之由、御諚候えき」
この話は、織田家が近江守護佐々木六角氏と親交があったとし、桶狭間合戦に援軍を派遣したとする偽書・『江源武鑑』と通じるものがあるようにも思えるのですが、信長が畿内(天下)の政治動向に対して、この時分から十分な注意を払って情報を収集していたことを示すことになり、それ以前に上洛した事と併せて、信長の天下(畿内)への関心が知られることになり、かつ麾下の武将たちにも十分にその思想が浸透していたことにもなるため、その意味では興味深いものがあります。
それはそれとしまして、安見右近のことを調べてみますと、
当時の安見直政は、有力国人を味方につけて守護代となり、守護の畠山高政と対立して堺へ逃亡させたのが永禄元年のことでした。その結果、三好長慶を敵に回すことになり、その手先である松永弾正と永禄二年に合戦におよぶのですが、根来寺にもいち早く手を回していた直政はこれを和泉南部に迎え討って退けています。しかし、その後の数度の合戦で敗れて、安見直政は居城の飯盛山城に逃げ籠って対抗しようとしたのですが、三好方の強勢に恐れをなして一戦も交えずに大和に逃亡しています。これは永禄二年の七月か八月のことです。
従って、この安見右近の話は、「籠城戦ではじり貧になるからいけない」などという理屈にはなりませんし、「城外の野戦に勝機がある」という話にもならないという、全くもって意味不明な挿話なのです。
もし、このような話を信長がしたとしても、それは合戦前夜のことであったとは思えません。恐らくは、前年から始まった大がかりな義元の動員の施策の数々が漏れ聞こえることに対して、信長が国境の外で迎え討って決着をつけるという方針を開陳した折に話したことがあったのかもしれません。そのような逸話を思い出て、ここに挿入したものではないでしょうか。もしそうであれば、酒宴に及んだこともその延長線上にあることになります。
さて、このような天理本の記事は、「信長が決戦を決意していたということが明確にされている点において、その後の事態の展開と見事に照応しており、リアリティがある」という人もいますが、そうは思えません。それは、法螺貝を吹き鳴らして出陣したにもかかわらず、従ったのは唯五騎の小姓と二百人の雑兵のみでしたし、熱田で待っても集まったのは二千人しかならなかった現実があるからです。この有様の何処がその後の展開に照応しているのでしょうか。信長もその麾下の国人たちも何の準備もしていなかったことを露呈しているからです。
第一に、籠城の予定がないのですから、国人衆が清州城に呼集されていたわけでもないでしょう。いたとしても寄親だけであったでしょう。そして、寄子たちはそれぞれの寄親の居城に参集していたに違いありません。それを放置して夜更けまで酒宴していたことになることが、翌朝に諸将の集まりが悪かった原因だとでもいうのでしょうか。もし、天理本が事実であったならば、寄親たちは酒宴後(前歟?)に夫々の居城に使いを出して、出陣の心構えを伝えていたに違いありません。
そうしますと、陽明本や町田本のいう「軍の行は努々これなく(中略)家老衆申す様、運の末には知恵の鏡も曇るとは、この節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ候」の意味は、具体的な部隊の配置・序列・着到や奉行の選任などは普段と変わったこともなく、特段の手立てを講じることを一切行わなかったというだけのことになります。つまり、陽明本などの言う家老衆の嘲笑も「特段の対策がないことへの不安」だったと考えなくてはなりません。
しかし、信長が決戦の決意したのに、前線(丸根・鷲津)への指示を何もしなかったことも、腑に落ちない事実です。駿河勢の先鋒を拘束しておきたかったならば、丸根の兵を鷲津に集めて持久すべきだったかもしれませんし、丸根の佐久間らは出撃して玉砕などはしてはならないはずなのです。なぜなら、それは信長の意図に反していることは明らかだからです。また、実際の出陣に際して小姓五人・雑兵二百人というのも解せませんし、何処で迎撃するのかを決めていないのも解せないことです。どうみても、「全てが成り行きであった」と受けとれる信長の乗馬の口取りをした下僕の証言が正しいのだとしか思えません。
註 山澄淡路守英竜著『桶狭間合戦記』「私(山澄淡路守英竜)が若い頃、昔、桶狭間の合戦のときに、信長公の馬をひいた下僕だったという男、もはや老人だが、この男が存命していて、鳴海辺りに子孫と住んでいるということを聞いた。(中略)信長公が御馬にて山へ乗り上げ、また山を下りられたなどということのほか、格別のことは聞いておりません」
つまり、小生は天理本のこの文章も、戦後かなりたってから収集した情報から適当な逸話を挿入したものと考えます。
(4)最後の問題は、宮福太夫に舞わせての酒宴ですが、これは事実でしょうか。
天理本では、「扨(サテ)御盃出候而、宮福太夫兵者(ヒョウシャ)之交り、頼リ有ル中之酒宴哉と謡を仕、信長公御鼓(ツヅミ)にて乱酒に罷成退出被申候也」とあります。
先ず、前線の丸根の大学からの注進が「夜に入り(午後八時頃?)」清須に到着しており、それから軍議があったことになり、その上で酒宴になったはずなのですが、一体、何時に酒宴はお開きになったのでしょうか。それが、『史籍集覧本』などのいう「深更(午前十二時?)に及ぶ」のでしょうか。………確かに、時間的には十分に酒宴に及ぶことはできそうです。しかし、最大のネックは、ここでも翌日の出陣で雑兵二百ばかりしか追随できなかったことです。重臣らは酔い潰れていたのでしょうか、それとも二日酔いで法螺貝にも起きられなかったのでしょうか。はたまた、酒宴後に慌てて兵士を連れに知行地へ戻ったのでしょうか?ほとんど、寝る間もなかったことになります。気勢だけをあげて何も実質的な行動をしていなかったというのでは、とても現実的な前日の状況には見えません。従って、このような事があったとしても、合戦前夜のことではなかったものと小生は考えます。
家老衆の「嘲弄して、罷り帰られ候」というのは、これまでの信長に聞かされてきた決意にも関わらず、焼眉の急にいたっても何の具体的な方策もなく、国中に憑む指示もないので不安一杯になるとともに呆れ返ったのだと思えます。………ところが、天理本の場合には、この文言が割愛されているのです。この文言が後に続く限りは、当夜に酒宴があって気勢をあげて皆が退出したとは云えなくなるからなのだと思えます。では、日時は問わずにそのような酒宴それ自体はあったことだとしても、何故このような事実を態々入れなければならなかったのでしょうか。
既存の『信長公記』では信長ただ一人の決心が際立ってしまっています。それに異を唱えたい人々とはどのような人たちなのでしょうか。それは、桶狭間合戦当時、織田家にあった人々でしょうが、重臣とは限りません。江戸期に生き残った家の子孫でしょう。彼等は武門で家を立てているのですから、重大な御家の危機に際して軍事の諮問に預かれず、主君に無視されていたということではプライドが許さなかったのかもしれません。だからと言って、積極的な迎撃戦をすべく意見を述べたとは言えません。八方から反駁されるだろうからです。それに、実際の合戦では誰一人名前が出てこないのです。これは、他家の目に入る書物には出せなかったからでしょう。そこで、せめて軍議に参画しており、主従一致して難局にあたったのだという風にしたかったのではないでしょうか。
………そのように考えたと、小生が思う人々が、天理本の数段後には具体名で出てきます。「御家臣之林(秀貞?)・平手(監物?)・池田(恒興)・長谷川(丹波守)・花井(三河守?)・蜂屋(頼隆)、御(馬の)轡之引手に取付候而声々に雖被申候」が、それらの人々です。
先ず林ですが、これが秀貞であるならば、那古屋城代であったのですから、一大決戦を行うために動員でもしない限り、重要な支城を守っていて、義元が間近の沓掛城にまで出張してきているのですから、清須城に詰めていたとは思えませんし、十九日の当日に前線に出張してきたとも思えませんし、後に折檻状を突きつけられることもなかったでしょから、参陣したのは嫡男の新次郎でしょうか?天正元年(1573)の長嶋一向一揆攻めでは「一の長(オトナ)林新次郎を残し置かれ」としておりまして、殿軍を担って戦死していいるからです。それに、父秀貞は天正八年八月に突然追放されて「南部但馬」と改名して京に居住したらしいのですが間もなく同年十月十五日に死去したと言われており、その子孫は尾張藩士となっています。また、美濃国の稲葉氏とは同族で、林政秀の子・正成が稲葉重通の養子として稲葉氏家督を継いでいるといいますから、復権を願ったのは彼の一族かもしれません………?
次の平手ですが、このとき守役で家老の政秀は亡くなっておりまして、その子息が家老職を信長に任されていたとは思えません。信長はそれほど甘くはありません。平手監物は永禄十二年(1569)八月の伊勢・大河内城攻めの武将としても出てきませんで、翌元亀元年(1570)九月の野田の陣で川口の砦に平手監物・平手甚左衛門汎秀・水野監物・佐々成政らが入ったと記されています。これから見ますと平手氏は信長の重臣とは言えそうもありませんが、傍に居てもおかしくはありません。しかし、態々信長を諌める者として登場したがるとも思えません。
ところで、何故かここには善照寺砦を守っていた佐久間右衛門(信盛)とその弟左京助の名が出てきません。何故でしょうか?彼等は、信長を止めなかったのでしょうか?それに、丹下砦の水野帯刀・山口海老丞・柘植玄蕃・真木与十郎・真木宗十郎・伴十左衛門尉らや、中島砦の梶川平左衛門も出てきません。(2007.8.1)
池田が恒興であるならば、信長の乳兄弟であったとされ早くから馬廻衆として信長に仕えていたようですから、善照寺砦にいてもおかしくはないでしょうが、血気盛な年頃ですから信長を止めにまわったとも思えませんし、そのような形でここに登場したいとは思わなかったでしょう。
長谷川丹波守与次も永禄十二年(1569)の伊勢大河内陣から頻繁に『信長公記』に見られる武将ですから傍にいてもおかしくはありませんが、これも多くの場面で十分に名前が出ていますから、信長を止める役柄でここに登場したいとは思わなかったでしょう。
最後の蜂屋も頼隆であったならば、信長に仕えて黒母衣衆となり、1559年の初上洛にも参加していますから、おかしくは有りませんが、これも他の場面で十分に名前が出ていますから、信長を止める役柄でここに登場したいとは思わなかった一人です。
残るのは花井氏です。
この花井なる人物なのですが、これが誰なのかは皆目わかりません。桐野氏は三河守としていますが、これも誰を指すのかも不明です。 (追:桐野氏より、谷口克弘著『織田信長家臣人名辞典』にある人物を比定されたと教えていただきましたので追記します。 2007.07.31)
- 藪城主・花井惣五郎は天正年中(1573〜91)に家臣に討たれたといいますが、合戦当時は今川方であったものと思われます。
- 徳川義親氏所蔵の古文書に、上総介信長より一雲軒と花井右衛門尉兵衛に指示している「星崎根上(星崎の高地)之内、この度鳴海(今川方)に同心の者共、十分に調べ跡職は悉欠所(過去の権利関係を一切破棄して没収)として、堅く糾明(検地)を遂げる可きものなり、件の如し、天文廿四年(1555)二月五日」という文書があります。『清洲分限帳/名古屋叢書』によると、春日井郡伊勢木村の郷士・花井右衛門尉がその先祖だといい、『尾張志』では星崎に住んだというと、奥田高廣氏の『織田信長文書の研究』にはあります。
- 『緑区の歴史』には鳴海村花井(三皿)から出た花井氏には、家康に仕えて一万五千石を領した山口長次郎重政がいるというのですが、牛久・山口氏の家譜では、防州から尾張・寺部へきたとあり、但馬守を名乗っていて三河守ではないようです。 (因みに、信長に叛して今川義元に鳴海城を献じた山口左馬之助も防州から尾張・寺部へきたといいます。『橋本家譜』
- 知多郡の吉川城主・花井勘八郎は播磨守を名乗ったものと思われますが、元亀二年(1571)の長嶋合戦には佐治信方に従って参陣していますから、彼より先に佐治信方が信長の下に参陣していなければならないのではないのでしょうか?
- 花井三河守なる人物については、『妙心寺光国院文書』に「天文廿四年(1555)十月一日、信長より四個所、都合二百七十八貫文の地を宛がわれた」とあり、『木曾川町史』は「星崎城主。娘は沢井雄重の妻」というようです。『高野山過去帳』には「永禄五年二月廿五日没」とあると、『織田信長家臣人名辞典』に谷口克弘氏が書いています。(2007.7.31)
- 花井田右衛門は、『継芥記』に「元亀元年四月三日に信長の使者として、禁裏に米五十石を献上した」とあると、『織田信長家臣人名辞典』にあります。(2007.7.31)
- 『言継卿記』には、天文二年七月に飛鳥井雅綱の蹴鞠の門弟になったという花井又次郎元信という人物がいます。
寺本辺りに本拠を置いた花井氏の一族は今川方であったとも考えられ、鳴海(三皿)辺りに住んだ花井氏が該当しないとすると、残るは一宮(萩原町)の花井氏なのでしょうが、これは皆目わかりません。
いずれにしろ、当時の武将たちは功名第一でしたから、信長を引き止めたことは手柄にはならなかったものと思われます。そうしますと、実際はどうであれ、態々ここに名前を掲げるということは、江戸期に入って「御家の存続が第一」になってからの価値判断によって見繕って掲げたのではないかとも思えます。天理本を所蔵していた三河譜代の石川家成や筆写者の旧主家・堀尾吉晴に所縁の者でもいるのでしょうか?
(5)「おけはさま山」と「おけバさま山」どちらが古態?
『有松町史』によると、「オケバサマの文字呼称を年代的に見ると、洞迫間・公卿迫間は十六世紀[いわゆる戦国時代]以前に、桶迫間・桶廻間・桶挟はそれ以後、いまの桶狭間は明治十一年(1878)の地方制度改正のときに名づけられたものである」としていまして、元来は「バさま」と呼ばれたものが、漢字を当てるようになったために「はザま」の方が一般的になったように思えます。
つまり、【狭間/迫間/間】の発音としては「はさま」が古態なのですが、現地では当時「バさま」と発音されていたらしいと云うことになるわけです。そして、牛一がそれを書くときには、通常の仕方にならって濁点を省いたものとも考えられます。すると、天理本の方が正しい発音を書いているのですが、書かれたものとしては、必ずしも古態を保っていると言えないという結果にもなり得ます。
(6)「戌亥(イヌイ)に向て段々に人数を備」の意味。天理本では「段々」という語句が追加されています。
これについては、本陣の前に何段にも縦深に布陣したという意味に捉えることもできなくはありませんが、「段」の本来の意味は、高さの違う平面が階段状をなしていることを表すものです。だからといって、段々が山麓から山頂まで何段にも布陣していたとは単純にはいえません。それは、その後の合戦の展開をみると、信長が正面から攻撃しているらしいのに、結果的には迂回したと多くの戰記物がいうからです。 (註 駿河勢の配備状況と信長の攻撃ルートについては本文をご覧ください) 東海道は山間を一本通っているだけなのですから、山麓にまで配備していたり、藤井尚夫氏のイラストのように東海道にまで溢れ返って布陣していたはずはないのです。全ては、駿河勢本隊が万を超える大軍であったろうという思い込みから生じていることです。
それに、牛一らがいた善照寺砦から桶狭間方面の駿河勢を見た場合には、駿河勢の多くは手前の丘の隠れてそんな風には見えるはずがありません。見えるとしたら、段々の本来の意味である階段状になって手前の丘陵上にいる状態でしかないはずです。具体的には、最も奥の桶狭間山頂に義元本陣を示す旌旗が翻っていて、手前の丘陵の高根山頂と幕山頂およびそれらの間の峠に布陣していたものと考えるべきでしょう。
ところで、ここにいう「戌亥に向けた備」は、段々であろうとなかろうと、今川義元が向かっていた行先とは関係ないはずです。それが、中島砦方面に向かっていた場合には、先鋒隊が一番中島砦近くに陣して、次に本隊が陣し、一番後に後備と荷駄隊が布陣したと考えることもできます。しかし、これが義元が大高へ向かっていた場合には、中島砦に一番近い場所に布陣したのが後備と荷駄隊であったので、義元は信長による正面攻撃に弱かったのだと考えるむきもあるようなのですが、これは非常識極まりない考え方です。これに似たものに、駿河勢は大軍でありそれが山間の挟間を長蛇の列をなして行軍していて、そこを横撃されたから脆かったのだと主張する『静岡県史』註 があります。
註 『静岡県史』「(今川義元が大高城を目指して、沓掛城から東海道を横断して桶狭間に進軍していたならば)信長勢とは正面衝突にならず、(駿河軍は信長に横腹を曝していたことになるから)信長勢は義元の本隊を側面から攻撃することができたのである。(中略)勝敗を分けたのは、今川方が山間の道に軍勢の隊列が伸びていたのに対して、信長勢が側面から手薄な(義元)本隊を攻撃したことによると捉えるのが妥当なところであろう」
これらのことは、敵との接触が考えられる状況下での軍隊では起こり得ません。通常の行軍で大軍であるならば、数か所の宿場に分散して宿営したり休息したりするのは当然ですが、敵を間近にしてそのように行軍隊形のまま停止して大休止にはいるなどというな間抜けなことを、如何なる軍隊もするはずがありません。特に、大休止する場所は事前に決められているのでしょうから、先鋒隊が最も敵陣に近いところの高所に陣取るはずです。それが、たとえ目的地に遠くなろうともです。なぜならば、戦国時代の武将の第一の目的は功名であり、先陣を承ることなのですから、敵の間近にいながらその最も遠いところに止まって、功名の機会をみすみす見逃すような迂闊なことをするはずがないのです。ましてや、最も攻撃に弱い荷駄隊を行軍順序だからといって、敵の間近に布陣させて置くわけがありません。「戌亥に向けた備」は、織田方が攻撃してくる場合には、とうぜん戌亥にある中島砦から出陣してくるだろうことを予想して布陣したものであり、決して後背や側面から攻撃を受けるような態勢にあったわけではないはずです。
(7)千秋・佐々らが攻めた「山際」とは?
天理本は「中島之砦より、信長善照寺へ御出でを見申、佐々隼人正・千秋四郎ノ、二首、山際迄被懸向候。今河(川)義元人数瞳と懸り来て、槍下にて佐々隼人正・千秋四郎ヲ初として卅騎計リ討死シ候」と書きます。
ここで明らかにされた「中島砦」と「山際」については、本HPの本文で解決済ですから、興味のある方はそちらをご覧ください。天理本の「卅騎」は、これまで「五十騎」と言われてきたものから減っているわけですが、総勢が三百人だったことからすると、騎乗の武士がその一割であるというほうが、現代の知識には合致しています。
(8)合戦見物?
天理本「熱田・山崎近辺より見物に参り候者共、御合戦に可被負、急帰れと申、皆罷帰候えき。弥(イヨイヨ)手薄に成候也」
合戦見物で知られているのは、大津城や伏見城攻防戦と関ヶ原合戦(?)です。
このことは、秀吉の私戦停止令が効いたというよりは、天下の雰囲気ではすでに戦国時代は終っており、関が原合戦や大阪役などは、単なる政変に過ぎなくなっていたことを窺わせるものです。つまり、惨害を撒き散らした戦国時代を生き抜いてきた人々からみれば、国会内に封じ込められた議員だけの乱闘劇に過ぎなくなる程の平和が到来していたと見るべきかもしれません。
従って、天理本の記すことが本当であるならば、当時の尾張国内での戦争は、
- 戦闘で、町民らが略奪されることが、他の地域に比べて少なかったこと。
- 他の戦国大名に侵されることがなかったために、略奪に合う経験が少なかったこと。
- また天災が比較的少なかったために、略奪に合う経験が少なかったこと。
………などを考える必要があります。
勿論、これとは逆に、信長が裕福な町人や農民らの妻子を人質にとって、急ごしらえの旗幟を持たせて、随行することを強要した可能性もあります。そしてこれが、後に言われるようになる「熱田や善照寺砦の偽兵」の出処なのかもしれません。
もう一つ現実的な想定は、大津城や伏見城攻略戦を見物した人々というのが、戦場になる恐れも戦禍が及ぶ恐れもない京の裕福な町人らであったことを考えれば、この山崎や熱田辺りから来た人々も、これから起こるだろう戦争を左程大仰なものとは考えていなかったことになります。その場合に重要なのは、彼等が早々に引き揚げた理由です。それは、今川軍が大兵であったことよりも、大高川河口に遊弋していた服部左京助の兵船でしょう。彼等は熱田町民にとっては海賊を働く悪者でしたでしょうから、留守の危険を心配したのではないかと考えられます。そして、首尾よく上陸してきた服部党を撃退することができたわけです。と云うことは、山崎や熱田からついて来た人々は「旗幟もどきもの」を掲げてきただけでなく、貧弱とはいえ武装していたことが考えられます。
同時に、当時の信長には談合によって町人らを戦場に引き連れる力はあったにしても、戦闘を無理強いできる力はなかったように考えられますから、況や国人・地侍を動員する力はなかったことになり、信長の兵力が三千程度であったことの傍証になるのかもしれません。
他にも問題があります、それはこの「山崎」辺りを知行していたのは誰かという問題です。候補者は二人いまして、一人は加藤弥三郎であり、一人は佐久間右衛門尉です。
- 山崎城(南区呼続元町二丁目安泰寺境内が城跡とされる)主は、はじめ蔵人浄盤。次に熱田・加藤順盛の二男で信長の小姓として桶狭間につき従った加藤弥三郎。弥三郎は永禄十二年(1569)八月の大河内城攻め後に出奔しているらしいのだが、その後には佐久間信盛が入城しているものと思われる。(弥三郎は三方ケ原合戦で討ち死にしたという)また、熊野三社の由緒書きによると、佐久間信盛が永禄年間に山崎城内に守護神として祀ったという。信盛が近江永原城に移った時、または佐久間信盛は天正八年(1580)に信長の勘気を被り野山へ流された時に、山崎城は廃城になったが、寛永四年(1627)に村の鎮守として現在地に再建されたとある。
- 『桶狭間合戦記・山崎真人』は、「此時、愛知郡山崎は佐久間右衛門尉信盛が領地なれは、定て、山崎の城ハ信盛守るべし、殊に、信盛は織田家の長臣にして人数持ちと聞へたり。此ノ節、彼が弟佐久間左京ハ善照寺の砦の主将に命セられけれハ、信盛か年齢、尤(モットモ)、壮盛なるべし、今川家の来敵大軍にして、主君信長大切の軍、殊更ニ我領地手筋の場なり、この度に於イてハ別して、諸将を抽んでゝ先手を乞ひ望むべき事にして、己か居城に守り居るべき事にあらじ、然るに此合戦の初中後、信盛が行跡、諸伝記にも、古老の語伝にも其名みへず。(中略)終に其ノ名の見へざるはハ不審なり」と書きますが、山崎真人が何を根拠にしたのかは不明です。『寛政重修諸家譜』には信盛は山崎城主とありますが、『寛文覚書』『尾陽雑記』『張州府志』にも「佐久間右衛門居城」とあるかは確認する必要があります。………図書館は秋期休刊日でした。残念。
- 山崎砦(名古屋市南区岩戸町の現白毫寺)は、佐久間信盛によって築かれたと伝わります。






