長柄鑓について考える

 

<(1)長さの不思議>

 秋山駿氏が『信長発見』という対談で、「わからないから(『信長』に)書かなかったことは沢山ある。(中略)十六、七八歳の時に、槍は短くてはだめだろうと言って長くした。それ以前の槍は普通4.5mぐらい、二間半だった。ところが信長のやった三間あるいは三間間中槍というのは6.3mですから、よほど特殊な使用法をしないと役に立たない」といっておられます。

そして先ずその長さと柔らかさについて疑問をあげておられます。

(1)「ブブカという人の棒高跳び、あの棒より三間半の柄というのは長いわけです。そんな槍をどうやって使うのか。その合戦の方法は、いったいどのようにするのか。私が思うのは、払うに容易だったら、敵に(懐に)入られたら死にますよ。長ければ長いほど打撃力は劣りますから、槍を長くしてどういう合戦をするのか

また、こうも言っておられます。

(2)「槍は叩いてもいいといいますけれども、長ければ長いほど、叩いても打撃力は一つもないはずです。ですから、江戸時代のエピソードは余り採用しないことにしているんです。釣竿みたいなので叩いたって、何もなりゃしないですから

それで、長柄鑓というものについて考えてみることにしました。

棒高跳のブブカの棒は撓りますから、ブブカの体を高く持ち上げることができるわけです。あれが硬かったならば作用する力の方向を変換できません。棒が柔らかければ突き刺す力は弱くなりますが、跳ね飛ばす力は大きくなります。加わる力を大地に受け持たせることができれば、突進してくる騎馬武者さえも弾き飛ばせます。日本の足軽長鑓隊の場合は、これを「平場の大槍」といって横に並んで折敷いて抉りを地面に預けて乗馬襲撃に抗したのだそうです。と、言うことは、我々現代人は16世紀・戦国時代の長柄鑓というものについて誤った固定観念を持って見ているのではないかという疑いがあります。

秋山駿氏なども戦闘に際しては、鑓を振り回して突き伏せるなり叩き潰すなり切り捨てるなりができなければ武器として効果がないと考えているように思えます。でも、よく考えてみると、石合戦という遊びは一つ間違えば死人もでるような危険な遊戯ですが、武田信玄の軍隊には飛礫を専門にする者があったといいますし、城砦の防御においては礫が最も有効な防御兵器に数えられていました。しかし、遊戯であったということは必ずしも死傷させられる確率が高かったわけではないでしょう。特に、騎乗身分の武者は全身を鎧っていますから、驚いたり煩がったりはするでしょうが、それほどの痛痒を感じないはずです。では、なぜ飛礫が有効な武器なのかと考えますと、その使用目的の第一は敵に面を上げさせないこと、第二は敵の突進を止めることではないかと思うのです。そして、第三になって始めて敵を負傷させて引き退かせること、最後の第四になって、できるならば殺傷して戦意を喪失させることがくるのだと思うのです。一撃必殺を求めるのは、道を極めるための意義は別にして、手段を目的化してしまう日本人の悪い癖です。つまり、長柄鑓に殺傷之力がないから武器として相応しくないと考えること自体が問題なのではないでしょうか。煩がられるだけでも十分な効果があるわけです。ただし、突進してくる勢いを止めるだけの力がないといけません。敵に飛び込まれてしまいますから。これは、現代の軍隊でも問題にされまして、アメリカ軍の制式拳銃が長くコルト45であったのは、それ以下の口径ではマンストップパワーに欠けるからだといいます。

そこで、世界の長柄鑓とその操法をみてみます。

先ず、古代の長柄鑓はアレクサンドロス大王のサリッサです。これは長さが4mから5mありまして重さも4kgから5kgもあったようです。後のヘレニズム時代には最長6.5mに達したといいます。そのように一本の真直ぐな木は得にくい為に中心を金属の管で繋いでいました。勿論、柄は硬いものです。マケドニア軍の戦術最小単位のファランクス註ー7は、縦横16列、256人で大隊(シンタグマ)を構成した。長槍隊の前四、五列が前方に向けて槍を水平に腰だめに構え、後列は槍を上方に構えて投擲物を避けた。そして、先行したギリシャのファランクス同様、最前線の者が倒されればすぐに後の兵士が前進してその穴を埋めることになっていました。

註ー7当時のギリシャ歩兵は戦場機動を求めて半世紀も前から軽装になっていましたから、これに比べると編成も緻密であったにも関わらず比較的複雑な運動もできたといいます。その戦術は、騎兵に重点をおいていまして、会戦時には、戦列を大きく三段に分け、中央に歩兵を配し両脇に騎兵を配置していました。前衛は、両脇に各々5百騎の弓騎兵を含む約1千名の弓兵を配置していました。中衛の歩兵の戦列の左翼には、サリッサを持って防御戦闘を行う重装兵(ペゼタイロイ)を戦術支点とし、右翼には重装歩兵の弱点である右側面を防御し、かつ攻撃に際しては戦術機動をさせるための軽装歩兵(ペルタスタイ)を配置しています。これは、エパノミンダスの斜行陣と同じ意味をもっています。そして、両端翼には決戦兵種の重騎兵を配置して、これで敵の両翼の騎兵に対して衝撃力として用いたといいいます。さらに後衛には予備戦力として、または側面の防御として約二千名の歩兵が配置されました。攻勢の役割を持って翼側に配置された機動力のある騎兵と軽装歩兵が、中央のサリッサを抱えた重歩兵を中心として回転するように敵陣を破壊する戦術思想は、エパミノンダスの斜行陣の発想が生かされているわけです。大王自身が率いる騎兵親衛隊(戦友隊:ヘタイロイ)を衝撃力(槌)として用い、金床であるサリッサで拘束された敵を粉砕しようというわけです。

当時、この部隊の前進を止めることのできる軍は存在しませんでしたし、サリッサによる槍衾はペルシャ騎兵の突進を妨げ、歩兵の接近を防ぐことに成功したのです。残念ながら、戦国時代の日本にはこのように完成された軍隊も戦術も生まれませんでした。理由は唯一つ、規律に欠けていたからです。なぜ日本人に規律が欠けたかといいますと、市民が生まれなかったからです。市民がいなければ公共という観念も生まれませんし、貴族にもノブレス・オブリージュという観念は生まれません。信長は天才と言われますが、どうも戦術も制度も是といったものは創造していそうもありません。さて、ここでサリッサの用法と効果を考えましょう。NHKスペシャルが放映した『文明の道・アレクサンドロスの時代』で、マークル博士によりますと、サリッサは脇腹にしっかり抱え込むようにして持ち、動き方は直進のみ。サリッサを振り回したりはしなかったといいます。実際には、両手でしっかり抱え込むように持たなければサリッサを保持できないという実験映像がありました。ですから、長槍を持った重装歩兵は、手許に飛び込まれるという弱点を曝さないためには、敵に接近するまでは地形や浴びせられる弓矢によって密集隊形が崩れないようにして、隊列の間隔が開かないようにゆっくり前進するのが基本的な戦術だそうです。そして、長さと数段に重なった穂先を利用して、敵を手許に飛び込ませないように気をつけて只ひたすら押し捲るのだといいます。サリッサは、突いたり・刺したり・払ったり・叩いたりはしないのです。

脇道に逸れますが、NHKの番組では、「アレクサンドロスの軍隊が先進的だったのは、彼等がプロフェッショナルだったからです。(中略)古代においては、兵隊は招集された農民(市民と呼ぶ)だったのです。従って、戦争は農閑期にしか行われないし、たとえ戦争中でも収穫期になると解散したのです」と語っていました。此の常備軍であったという点は、信長の軍隊と似ている面があります。

このように無敵なサリッサでしたが、アレクサンドロス大王が死ぬと、サリッサはさらに長くなって6.5mにも達します。そのため、当初から内在していた弱点の機動力はさらに低下しました。それに加えて、援護する騎兵や熟練兵の減少もあって共和政ローマが台頭すると、ローマの投槍とグラディウスで武装した柔軟に部隊運動のできるレギオンに対抗できずに姿を消してしまい、その後千六百年間に渡ってサリッサのような歩兵密集隊の用いる長槍は現れませんでした。

次に長柄槍隊がヨーロッパに現れるのは近世です。そこで有名だったスイス槍兵隊をみてみましょう。14〜5世紀のスイスでは、都市部や農村部の自治的共同体が同盟して徴兵的な民兵制度を敷いていました。そのようなスイス人部隊の主要武器として「槍斧鉤」であるハルベルトが15世紀初頭まで使用して密集方陣を単位として、前後左右に距離を維持した梯段を組んで戦っていました。このハルベルトは次第に改良ていき15世紀頃にはフルーク(錨爪)が取り付けられてほぼ最終的なハルベルトの形状が完成しています。特にハルベルトについたアックス・ブレード(斧刃)は、装甲騎兵を相手にする歩兵の戦闘能力を飛躍的に向上させましたので、15〜6世紀にかけてのヨーロッパでの主要武器となっていまして、銃火器が効力を発揮する16世紀の終わりまで使われ続けました。ただし、この槍斧鉤は長柄鑓ではありません。日本の持槍に属する武器です。それが、スイス民兵たちが1422年のアルベドの戦いで敵の大軍に包囲されて大敗した結果、白兵兵器であるハルベルドに代る武器として5mの長さを持つパイク(長柄槍)を導入するのです。その結果、方陣隊形の組み方も外縁に五列のパイク兵を配置し、最前線から四列までは前方に穂先を突きだし、最前列は腰を屈めて鐺(コジリ)を踏んで騎馬突撃に備え、二列目は騎士に向けて穂先を上げて構え、三列目は腰に構えて水平を保ち、四列目はパイクを頭上に両手を挙げて掲げ、中央部にハルベルド兵を集めたものを編成しました。

つまり、古代ギリシャのファランクス(密集重装歩兵)がアレクサンドロスのサリッサを持つようになった様に、防御に徹した兵種を創設したわけです。アレクサンドロスは決戦兵種に軽装歩兵を伴った騎兵(歩兵随伴戦車みたいなもの)を用いましたが、貧乏で騎兵を持てなかったスイス民兵団は、白兵専門のハルベルド兵との二重構造にしたわけです。パイクの柄の長さは、5mほどのものから次第に長くなり、最終的には6mに達ています。パイクは元来は騎兵に対する防御的な武器でしたが、全身を鎧っていたスイスのパイク兵は攻撃武器としても使い、前進するときには胸の高さで水平に構え、穂先をやや下げて進み、圧力を加える戦い方をしたといいますから、これも突いたり刺したり叩いたりしたのではなく、ひたすら押圧したのだと思います。敵が怯んで戦列が乱れれば、後に続く白兵専門の従来からのハルベルド兵が左右から突撃するわけです。各方陣の先には、クロスボウやハンドガンを持った兵士を配置して、接敵するまで敵を狙撃しながら前進します。決して弾幕を張ったわけではありません。接敵直前まで射撃を加えたこの散兵隊は、シュッツエンファーンライン(狙撃線)と呼ばれ、腰には敵の長柄を切り落とすために握りの長いバスタード・ソードを下げていまして、ハルベルド兵の本隊が交戦するまで白兵戦を行ったといいます。この狙撃戦法は銃隊が戦列を組んで連続して射撃しながら前進する戦術が使われようになってからも踏襲されています。

 長篠合戦屏風図で、日本の足軽銃隊もが長柄鑓隊の左右に配置されているのをみても、彼等が弾幕を張るのではなく、狙撃していたことがわかります。また、足軽の御貸し刀が貧弱なのをみますと、これはあくまで護身用であって、敵の鑓と戦うことを期待されていなかったこともわかります。

さて、このスイス人の方陣を発展させたものがスペインの名将ゴンサロ・デ・コルドバ(1443〜1515)が完成させたテルシオです。このテルシオについて説明しその後のヨーロッパ戦術史を紹介する前に結論を示して置きます。古代ギリシャのファランクス(密集方陣)を完成させたアレクサンドロスのサリッサや近世スイス槍兵を完成させたゴンサロ・デ・コルドバのテルシオを引退に追いやった戦術は、共和国ローマのレギオン(Legion)のエッセンス「中隊制(マニプルス)」であり、ネーデルラント総督ナッサウ伯マウリッツやスウェーデン王グスタフアドルフが行ったことのエッセンスも大隊の分割であり、中隊あたりの士官数の大幅増加でした。つまり、部隊の柔軟性を高度化させたのです。これは、チンギス汗のモンゴル軍がヨーロッパの重装騎兵を歯牙にもかけなかったことと同じです。

 

<長柄鑓を考える・・・(2)長柄鑓足軽隊の編成目的>

では、信長の軍隊の長柄鑓隊とその編成に、他の戦国大名と違って優れた面があったかを見てみます。

先ずはこの項の主題である「長柄鑓」です。

ヨーロッパの場合をみてきましたが、それをそのまま日本に当て嵌めることはできません。ヨーロッパの長柄槍(パイク)と違うのは、その長さではなく硬さと目的です。ヨーロッパの長柄槍(パイク)は一切柔軟性や軽さは求めていません。ヨーロッパで柔軟性を求める場合には弓に見られるように骨や腱を使って合成する方法が考えられるのですが、そうしたことはパイクにはみられません。つまり、ヨーロッパの長柄槍(パイク)の目的は専ら防御用でして、特に騎兵による襲撃で味方陣を蹂躙されることを免れることが主眼でしたし、スペインのテルシオの成立(後述)に明らかなように、城砦を野戦に持ち込もうとした戦術思想に拠っています。ですから、著しく機動力に劣っていましたが、それを破ることも困難でした。古代のアレクサンドロスの戦術思想でもサリッサは白兵戦を行う目的はなく、金床の役割を期待しておりまして、イッソスでもガウガメラでもこの戦術で勝利を得ています。

 

<鑓・槍・矛>  (〜2007.9.10)

これに対して、日本の長柄鑓をみてみますと、その構造は芯に木を用いてその周りを割竹で巻いて折れ難くしながら軽量化をはかっています。その戦術思想とは何でしょう。まず基本的に我が国では西洋諸国と違って「槍を投げる」とい技術・戦術は発達しませんでした。(無かったわけではありません。打根という槍と矢の中間にあたる武器もありましたが、あくまで個人的な術技でして集団戦術としてのものではありません。)そもそも日本の鑓は、古代の集団戦の主兵器であった「」が廃れてしまってから、長い期間を経て「鑓」として足軽の大量発生とともに発展しました。ところが、日本の鑓は矛が復活したわけではないと思います。

小生が思うには、日本の鑓は太刀の系譜にあり、長刀から分れたものです。これはその穂の継方をみれば分ります。西洋の「」と違って矛のような袋継註−10ではありません。日本刀の柄と同じ構造です。但し、剣からではありません。古代の剣には鉾と見分けがつかないような柄があるからです。すなわち、柄が袋継のようにな構造をしているものがあるからです。そうでなければ、から生まれたものかもしれません。鏃には茎があるからです。矢で突くという手技が軍記にみえるからです。註−11    

 註−10 九州の菊池槍は袋継ですし、袋継は携帯や保管に便利などで城中の武器庫に蓄えられた例があります。  註−11 「『太平記』巻十五正月二十七日合戦事に、矢を手突きにする場面が一例あるが、こうした矢と鑓の関係が注目される」『弓矢と刀剣』近藤好和著

但し、有職故実の専門家の近藤好和氏は、「ホコ」から長刀へ変化したものと考え註−12 られて居られます。氏は、その理由を明確にはされていませんが、「長刀は、刀身はやはり鎬造の湾刀だが、”たち”とは趣が異なり、長柄の常として刀身本体よりも茎が長く、(中略)柄は断面楕円形の木製または打柄で、蛭巻といって帯状の鉄板を螺旋状に巻いて滑り止めとしたものが多い」とされていることからみますと、長柄であることから長柄武器の原初形態である「矛」であるとされ、茎が刀身本体よりも長いことから「太刀」の系統ではないとされたのではないかと考えられます。 註−12 『武具の中世化と武士の成立/院政の展開と内乱』  

しかし、小生が思うには、矛と太刀は工房が違っていたと考えるのです。何故なら、軍防令では長柄武器は私蔵することを禁じられていたからです。そして太刀の方は自弁で出征することが求められていたのですから、矛の製造技術は官衙にしか残らず、太刀の製造技術が民間で発達したと考えられます。ですから、民間で生まれた長刀は当然太刀の技術と思想で創られたことは明らかだと思うのです。 

因みに、近藤好和氏は、「関保之助氏は(『奈良朝時代刀剣の外装』で)すでに戦前に鉾と鑓とは別物であると主張された。しかも、鉾は平安後期には既に儀仗化している一方で、槍の初見が元弘四年(1334の『南部文書』)であることからすれば、鉾と鑓は時間的にも断絶しており、筆者も別個のものと考える」と『弓矢と刀剣』で述べておられます。それなのに、長刀は矛の系統だとされるのです?

日本ではどういう訳か「手楯」は律令制の崩壊とともに「矛」と一緒に廃れてしまいました。それ以来、片手で使う「矛」も「槍」も現れていません。このため、ギリシャの重装歩兵が楯の上から槍を逆手に持って敵の保護されていない足の甲を狙って突き刺すような技術は発展しませんでしたし、ローマ軍団歩兵のように投槍で敵の戦列を崩すという戦法も生まれませんでしたので、武器を逆手に持つ習慣はありません。元来、「矛」は片手に持って扱うものでして、逆手に握って上から突き刺すように使うことが主流です。ですから騎槍の場合でも逆手に持って使う場面が絵画に多く描かれています。勿論、順手に握って使わなかったわけではありませんが、両手で握って使う武器ではありませんでした。これは、西洋では手楯が使われたからです。

不思議なことですが、日本の伝統武術で武器を逆手に握ることはありません。逆手に握るのは自害するときだけで、座頭一は映画だけの話だと思います。だからと云って、全く逆手に武器をとらなかったかといえば、そうでもありません。合戦図絵巻などには敵を組み敷いて首を掻くときには右手差を逆手に握りますし、長久手合戦図屏風には水野勝成が倒れた敵を刺突した場面では、持鑓を逆手に握っている様が描かれています。つまり、下方にいる敵には逆手の方が攻撃しやすいということでしょう。また、沖縄空手のサイなどは逆手に使うようですが、これらは中国伝来の武術だからだと思われます。但し、古代に手楯を持って闘った時代は矛を逆手に握っていた可能性があります。勝部遺跡第三号墓では、長さ17cm・幅3.5cmの大型石槍が腰骨に突き刺さったままになって発見されており、石槍の先が少し欠損していたのですが、背の右後方から腰にかけて突き刺したト考えられているからです。

さらに、日本では鑓を主武器として使用した足軽の装甲は貧弱でした、戦国末期になりますと「半被」と「革の陣笠」になってしまいますから、まさに機動力を求められた軽装歩兵の部類に属します。日本の重装歩兵はドラグーン(竜騎兵)である乗馬身分の武士でした。彼等は騎乗して行き戦闘時は下馬したのです。ですから、日本では隊伍を整えて布陣した軍隊が騎兵に乗馬襲撃されることは滅多にありませんでした。そのようなことが起こるのは、余程油断していて奇襲された場合か、互いの戦列が崩れてしまい乱戦になった場合、また戦に敗れて敗走して追撃される場合だけだったのです。

ところで、朝鮮役で初めて明国の騎兵隊との戦闘を経験したのですが、それでも日本の長柄鑓は改良されることもなく、鉄砲隊の護衛隊に格下げされるでもなく廃れていき、大阪夏の陣・冬の陣では鉄砲装備率が完全に長柄鑓を上回っていました。これは、日本の長柄鑓が対騎馬としての有効性を持っていなかったからだと小生は考えます。

対騎馬戦法としては、名和弓雄氏が「平場の大鑓」という戦術があり、馬の胸先に槍先をつけて待つ。打柄の撓いと瞬発力で馬を撥ね飛ばして騎士を落馬させる方法があったと説明されています。ところが一方では、笠間良彦氏が監修し中西立太氏が描いた『長槍隊の戦法/武田信玄 その軍団と戦い』のように、「騎兵の集団突撃に対しては、槍先を伏せ、恐怖心を起こさないため顔を伏せ、じっと間合いを計る。味方不利のときは、槍を交差させて、槍衾を作る」などと、常識で考えてもあり得ない技法を述べておられものもありますが、実際のところは不明です。・・・・・・小生は笠間氏の技法が実戦で使用されたということは疑っています。因みに、穂先が斜めになっていたら馬の皮を切り裂くことがあっても突き刺さらないことは、考えなくても分かります。つまり、穂先を交差させたりなどしたら、突進する圧力を受け止められませんから、例え一頭の馬の皮を裂き肉を断つことができたとしても、その馬に味方戦列に倒れ込まれて兵の二三人も押し潰され、そこから戦列が崩れて続く第二波に突破されるのは自明だと考えるからです。

このように、日本では銃剣が発明されませんでしたが、乗馬襲撃がないために槍兵による火縄銃兵の護衛という任務は生まれませんでした。火縄銃足軽も鈍らではあっても一応刀を携行していましたから、必要なかったのでしょう。

関ヶ原では、朝鮮の役の鉄砲の装備率よりもさらに高まって35%ないし40%となり、槍とほとんど同率になった例すらあるといいますが、これは槍を減らし鉄砲にその分を回したものです。だからと言って、突破決戦兵力が軽視されたわけでも、突破力が落ちたわけでもありません。島津軍の棄てカマリ戦法がそれをよく現しています。大阪の役での東軍の鉄砲装備率はついに50%前後になり、鑓の二倍近くにまでになりました。この現象について軍人である金子常規氏などは、「鉄砲が増加すれば、槍兵は減少し突撃力は弱化する」とされていますが、これは完全に長柄鑓を白兵武器として考えることからきた誤りだと思います。何故なら、先ほどから述べているように鑓は近接戦闘力のない鉄砲の代わりの拳銃の役割を担っているからです。撓る長柄は銃剣付きの鉄炮みたいなものなのです。

金子常規氏の『兵器と戦術の日本史』は、「西軍に比し夏の陣五月七日の決戦では幸村の槍歩兵に突撃された家康は卅町(3.27km)も後方の生玉まで後退し、(中略)この欠陥を反省したのであろう。翌年(1616)の元和軍役令では弓・鉄砲一に対し槍(騎馬槍共)1.7程度として(中略)突撃力を増加するよう規定した。鉄砲装備率25%程度である」と書くのですが、これももし本当であるならば、家康軍の鉄砲の不足による野戦での制圧力不足の現状を認識できず、突撃力不足と見誤ったと言わざるを得ません。つまり、家康は朝鮮役を経験しなかったために、鉄炮の戦訓を看過したのです。

朝鮮役を経験しなかった家康は、朝鮮役を経験した豊臣恩顧の西国大名を恐れて鉄砲の装備を規制しただけなのだと考えます。鉄砲装備率の増大が長柄鑓の減少をもたらしたことによる突撃力の不足などではありません。敵攻撃の制圧力の不足なのです。徳川軍は後世に思われているほど強かったわけではありません。家康の軍歴で確かなの長久手の勝利ただ一つしかないのです。家康が天下を盗れたのは、朝鮮役に出征せずに唯一領国を疲弊させなかった大大名だったからでしょう。島原の乱は一向一揆と全く同じでして、戦意が旺盛な百姓・町人が操作の容易な鉄砲を持って、近世織豊式城郭に拠って防御すれば、十分に職業軍人に対抗できることを示しています。これを見ても朝鮮役を経験しなかった家康や徳川家の軍事思想は時代遅れであったことが理解されるはずです。

そして、武士が足軽化することを防ぐことによって天下泰平を将来するという公約が、武士階級の賛同を得て覇権を勝ち取ったのです。足軽階級代表であった秀吉や戦国大名らによって、極限までの搾取で疲弊した農村を維持する目的で行われた兵農分離によって下剋上という人材供給源を断つ政策や、足軽の就職機会を提供するための朝鮮の役での致命的な失敗、三成・行長ら後継者のカリスマ不足による関が原での敗北が重なり、覇権は時代遅れの武田信玄に心酔した竜騎兵重視の徳川家康に移ったのです。家康の勝利の実体は、朝鮮役を経験して先進的であり最強でもあった豊臣恩顧の西国大名の仲間割れが主因なのです。

余談ですが、以上のことは「組織学」に大きな研究課題を残したと思います。即ち、既に役目を終えて不要になったはずの長柄鑓足軽を大量に雇用したまま各藩は天下太平の四百年を生きなければならなかったのです。ここに、日本の官僚組織の原型があります。江戸時代の「輪番制」なども不正を牽制するためでも、能率を競わせる目的でもなく、余剰人員に均等に仕事を割り振るための公共事業の性格を当初から持っていたわけです。ですから、四百年後の幕末に、長柄鑓の集団操法などがきれいさっぱり忘れられてしまっても不思議はないのでしょう。

このように、日本の長柄鑓には、

  1. 投槍はない。
  2. 両手で扱う。
  3. 手楯を持たず軽装甲である。
  4. 鉄砲の普及とともに廃れた。
  5. 大量に動員された。
  6. 軽量で長くて撓り、袋継ではないという特徴があります。

ここから得られる結論は、日本の長柄鑓足軽は軽装歩兵であるということです。重装歩兵によるファランクス(密集陣)というのは、歴史的に「市民の戦術」です。一般庶民の戦術ではありません。市民ということは共和制ということです。古代スパルタでは鎧兜を捨てても楯を捨てることは御法度でした。何故なら、楯は自分を守る防具ではなく、左隣の同士を守るための武具だからです。そして、日本には市民などはいなかったのです。だから持楯がありません。(全くなかったわけではありません。仕寄には不可欠だったからです。) このように考えますと、市民の存在しなかった日本には重装歩兵が存在しなかったことがわかります。日本の歩兵は全て軽装歩兵でして、戦国時代の武士はドラグーン(竜騎兵)です。戦場まで馬で行き下馬して戦闘する兵種です。

では、軽装歩兵という兵種の役割はどのようなものでしょうか。軽装歩兵とは、「装甲を簡略化した兵士」で、投射武器(一般には弓矢ですが、飛礫もありますし、後世には鉄砲がこれにあたります)を持ってアウトレンジ攻撃を行う歩兵のことです。軽装になるのは機動力を重視するためですが、そのため重装歩兵と白兵戦闘に入ったらひとたまりもありませんから、遠距離から射撃を行った後は逃走するのが基本です。軽装歩兵には他にも役割があります。

  1. 味方重装歩兵の弱点である最右翼を守ること。
  2. 偵察。
  3. 放火などの破壊活動。
  4. 騎兵と重装歩兵の間隙を埋めることなどがあります。

これを逆からみれば、

  1. 重装騎兵を相手にしないこと。
  2. 白兵戦をしないことであるともいえます。
  3. そして、軽装歩兵の代表が弓兵ですから、最大の役目は敵を「射竦める」ことにあると言えるでしょう。

と、いうわけで、同じ歩兵が使用した同じように長い「ヤリ」であっても、重装歩兵が使用した西洋と軽装歩兵である「足軽」が使用した日本では目的が違うわけです。つまり、極端にいえば日本での「長柄鑓の役割」とは、技術のいらない「」であり、消耗しない「」であったわけです。ですから、持ち運べる限り長ければ長いほど良いことになります。それは投擲兵器の代替物だからです。

殺傷できれば最善でしょうが、無理に敵兵を殺傷する必要などありません。敵に面を上げさせず煩がられ隊伍を乱し戦列を崩すことができればよいのです。敵を突き殺す必要などは更々ありません。つまり、長柄鑓は連発拳銃(ピストル)と同じ役割を果たしていたわけです。そうなりましたら、直後に控えた下馬した武士の持鑓隊(竜騎兵)が、足軽長柄鑓隊を超越して突撃して白兵戦に及ぶわけです。『名将言行録』補遺には、「利政(道三)、先きの兵士に三間柄の直鑓を持たせ、鑓の石突の際を縄にて結び手がかりにし、鑓前に成て人々之をかたげ上より下しかけて叩き立れば、味方忽ち上鑓になりて敵は自から仰形になる。仰形になりては踏留められぬものなれば、之を以て突崩し勝利を得たり」と明確に足軽鑓の戦術目的が述べられています。

しかし、日本であっても長柄鑓が出現する前までの鑓は「弓矢」の代わりであったとは思えません。そこで、同じ長柄武器である矛・戈・戟・長刀の使用方法と比べてみることにします。まず、最初の矛・戈・戟はみな舶来の兵器ですから、本場の中国での様子をみてみます。

白川静氏の『字訓』によると、「ホコ」と訓するものには矛・鉾・戈・戟(サス)があるのですが、『説文・十四上』に「刺矛(シウバウ)なり。兵車に淑つ。長さ二鈍。等形」とあり、長さ二丈四尺のものは夷矛、枝刀のあるものを戟といい、訓義には「長い柄のほこ、枝刀のあるほこ」とあります。しかし、槍の訓に「ホコ」はありません。

素形は「ほこ」であって、戈は『名義抄』には「ホコカマ」といい、戦車戦の必要により戈がつくられたものと思われます。当時の戦車は二輪四頭立て註 で、そこに甲冑を身にまとった貴族戦士が三人乗車していたのですから、重鈍な馬車であったものと考えます。決して軽快なものではないでしょう。真ん中に馬を操る「御者」が立ち、その左側にはこの戦車の指揮官である「車左」が立ち、戦闘指揮と弓矢による遠方からの射撃戦を担当し、右側には戈を携えた「車右」と呼ばれる戦士が控えて接近戦・白兵戦に備えます。そして、このような戦車には矛を持った徒歩の従卒が数人従って戦闘単位となっていたようです。この戦車が車左の指揮を受けながら御者の操作により戦場を疾駆(?)し、車左自ら弓射により遠くから御者を狙って弓を射かけつつ近づき、白兵戦になると、二台がすれ違って車右どうしが戈で斬り結ぶというわけですが、戦車は互いに止まったりはしません。騎兵も同じことですが、止まったらば負けです。フットワークを使えなくなったならば、いびり殺されることは請け合いですから、決して車を止めてはなりません。

註 河南省安陽市小屯村の殷墟から発見された戦車の遺物は二頭立て三人乗りですが、戦車を「馳車」と書くのは、馬が四頭で引くので単位が駟なのだといいます。

すれ違いざまに柄の長さ2〜3mの戈で敵戎右の首を掻き切るとするのは楊泓の説であり、引っかけて落とすというのは林巳奈夫の説です。殷代の戦車の複元したものをみますと、乗車する輿から1mほども外側に車輪がありますから、敵の戦車の車輪との間隔を1mとしますと、3mの矛ではやっと敵に届くぐらいなのです。ですから、敵を突き落とすことはできませんし、敵の首を狙って掻き切るような芸当も難しかったろうと思います。それと、復元された戦車の輿(人が乗る場所)は、非常に狭く三人が立つと余裕はありませんし、柵は人の膝を超える程度ですから、非常に落車しやすいものであったと思われます。従って、運よく首を掻き切れればよいのですが、直角についた戈では鎧冑を着けた兵士の抵抗力は大きいですから、落車させる方が実際であったでしょうし、従兵としての歩兵を伴っているのですから、彼等にその始末をさせるのが実際的でもあります。ただし、その抵抗力は大きいですから敵だけでなく自身も落者する危険性が高かったものと考えられます。そのため、戈についた刃の機能は、周以降は内側のに滑らかな曲線が用いられることで、敵の体の表面を刃が滑るように働き切り裂く機能を向上させたものになっています。

歩兵は戦車の乗員が死傷したり戦車が転倒したりしたならば、それに群がって攻撃したわけです。これは、まるで日本の騎馬弓兵による一騎討ちのようです。これは、互いの歩兵が積極的に戦闘に参加しないうちはいいですが、武器が全員にいき渡り、歩兵の大量動員ができるようになりますと、方向転換するにはドリフト走行しなければならず、不整地での急激な方向転換では転倒しやすい戦車は必ずしも有利なわけではなくなります。つまり、戦車同士の戦いから、戦車と歩兵との戦いになりますと、戦車の歩兵に対する有利性はその衝撃力だけになってしまう訳です。そして、春秋時代半ば頃から戦国時代にかけて、経済の発達によって徴兵制と全員に青銅武器の支給が可能になりますと、命令によって戦場機動ができる大量の歩兵が戦闘の主力となります。そうしますと、歩兵の武器も敵を戦車から引きずり落とすことができる「戈」や貴族の装甲を撃破ることができる「戟」が効果的です。そのようなことから、春秋時代までは戦車が主流であったのが、戦国時代ころより歩兵戦が主流となり、『孫子』も戦車の膨大なコストに対する警告をすることになります。秦の始皇帝の一号兵馬俑は兵士俑八千体、馬俑六百体、戦車は百両しかありませんが、これらは四頭立て三人乗りです。そして、漢代になると戦車は完全に駆逐されてしまいます。

註 古代中国の戦車はオリエントの戦車と違って、非常に横幅が広く出来ていたようですから、横転はし難かったものと思われます。

ところが、日本には戦車は入ってきませんでしたから、戈は歩兵の集団戦闘には有効性が認められません。

歩兵が重騎兵に対抗するための「戟」が主流になったのだと思われます。中国に大量に流入した遊牧民族の騎兵も中国騎兵に倣って重装備化していき重装騎兵が軍隊の中心となっていました。そのような中で歩兵はあまり重視されず、軽装備であったうえ、狩猟民族であった鮮卑が弓を重視したため、これまで対騎兵戦で威力を発揮した「弩」が、晋以降の時代にはあまり使われなくなっています。歩兵は散開して騎兵の突撃効果を減殺し、機敏な動きによってその鋭鋒を避け、大勢が寄って集って戦うようになりました。

さて、以上は小生の私見に過ぎないのですが、是をもって江戸期の文献をみてみましょう。

江戸の泰平で実戦が忘れられてからの演習の仕様を稲垣史生氏の『戦国武家事典』で引用された『講武事懼編』によってみますと、「槍組が進み寄るとき、打槍の五人が的の前へ出て横に立ち並び、敵味方となり、矢声をかけて勝負を争うのである。(中略)合図を以て槍組が進み、居すくりの太鼓で総勢折敷き、よしと見て招きの者が扇を開く。十人は杭の間で矢声をかけて十人が行き戻りのうちに一人二十度の槍合せとなり終り、(中略)槍は百度に及ぶのである」とあり、最初に「打槍としているのにその戦法は突く」と書かれています。これは、どうみても持槍の使い方です。

また、実際に江戸末期の攘夷の危機に際して催された演習が盛岡藩にありますので紹介します。これは、『遠野南部氏物語・遠野文武のこと』<http://toraneko.cside.com/newpage6-4.htm>からの引用です。全文はHPを参照してください。

 (1)弘化四年(1847)、盛岡藩主・南部利済により盛岡藩軍全軍三千五百人余人を総動員しての大演習が盛岡郊外茨島(青山町)で行われたといいます。陣立は関ヶ原の戦い当時とほとんど変わらなかったそうで、鉄砲隊の一斉射撃で合戦の火蓋を切ると、その硝煙燻る中を長槍隊が槍襖を作って進撃をするというものであったといいます。

これでは、実際に長柄鑓足軽隊がどのように戦ったかはわかりませんが、次の遠野調練には詳細が記されています。

(2)元治元年(1864)、南部利剛公が藩内各地の兵備視察のために遠野に来ることになって行った演習の模様です。鉄砲隊25人・長柄槍隊10人・騎馬槍隊15人、弓隊20人で、騎馬武者は先祖伝来の甲冑に陣羽織、その他は腹巻の上に揃いの陣羽織姿であったといいます。最初は鉄砲隊25挺が一列横隊となり折敷姿勢で一斉射撃を三発まで発射したのですが、二発目発射に至るまで早い者で5〜6分もかかり、三発発射までは実に20分も要したとされ、盛岡藩鉄砲奉行・赤前四郎太夫からかなり厳しい評価がされたといいます。奉行の采配により鉄砲隊が退陣すると入れ替って長柄槍隊10名が槍襖を作って気勢をあげながらドッと押し出し、標的の藁人形に三間の長槍を突き刺したのだといいます。実際は狙ったところを突き刺すことは難しく、これを突き刺してはすばやく抜いてまた突き刺す、これを3度繰り返したとされますが、皆大汗で息も途切れがちだったそうです。その後、弓隊20名の射手が一列に並んで矢継ぎ早に10射を行い、そのほとんどが的に命中して面目をほどこしたといいます。最後は遠野南部家最強でしかも主軍の位置づけである馬上槍隊が先祖伝来の甲冑に身を包み、手綱は腰に結びつけ、両手で九尺の手槍を持って、馬首を揃えて一斉に疾走する姿は迫力があったそうですが、落馬註−14する者が二名あって後で重臣から大目玉をいただいたそうです。

註−14 古く、落馬とは人馬もろとも倒れること。人だけ落ちるのは平落という」『蹄の音』金子有鄰S37年、というのですが、この場合はどちらを意味するのかは不明です。

これが、江戸末期に行われた軍事演習の実際なのです。武士=軍人はすでに軍事を忘れてしまっていたことを知らされます。三間(約6m)もの長槍を敵兵に突き刺す戦術を披露したのです。これは、敵に刺さった鑓が引き抜けなくてあたりまえです。なぜなら敵との距離が遠すぎて足をかけて引き抜くことができないからです。それに、敵が倒れたならば鑓を手放さなければ身動きがとれなくなってしまい、連続した攻撃どころか戦列を維持することさえできないのは自明のことです。

また、危険千万にも、手綱を腰に結びつけたのです。是は論外です。素人が考えても、組打になったり、敵に突き落されたり、払い落されたりしたならば、宙吊りになってしまい極めて危険なことでしょうから、絶対にやってはならないことだと思うのです。『日本の伝統馬術馬上武芸篇』で金子有鄰氏は、「馬上武芸の第一は我から馬を飛び下りることで、これを真っ先に練習すべきである。(中略)戦場にあっては、馬は必ず足を狙われる」と語っておられます。また、「戦場において敵(の)体、特に敵の馬に鑓を突き立てた刹那、敵の馬の疾走の勢いに引っ掛けられて我は柄を握ったまま跳ね飛ばされることがある」ともあります。しかし、この時代にはこうした素人にも分りそうなことさ気がつかなかったのです。なぜなら、江戸時代の武士は個人技としての武術は鍛練していたでしょうが、集団戦の調練を行わなかったからだと思います。

ところが、そうとも言えない事実もあります。幕末まで集団戦の調練をしていた武士の集団もありました。それは、徳川家の八王子千人同心です。『絵でみる時代考証百科』によりますと、幕末まで多摩川河畔で横一列に並び太鼓の合図に合わせて二間半の鑓を揃えて川面を叩く集団戦法の調練を欠かさなかったそうです。これが事実であったことは勝海舟も『氷川清話』に、戦国時代の武田信玄の軍法が合理的であったことに感心したと書いています。二間半という長さが気になりますが、どうみても敵を打ち竦める、これが正しい長柄鑓の集団戦法ではないでしょうか。これを見ますと、どうも、秋山駿氏が云われるように江戸期の武士は「集団での実戦の仕方」を完全に忘れ去ってしまっていたように思えます。

ところで、足軽・雑兵に戦場の心得を説いたものに、天和・貞享(1680)年代の作といわれる『雑兵物語』というものがあります。これには鑓についても書いてありますが、鑓持ちの心得も長柄鑓足軽の心得も区別せずにごちゃまぜに書いてありますから、気をつける必要があります。それでも、「槍は突くもんだとばかり思っちゃならねえ。一同、心を一つにして穂先が揃うように拍子を合わせ、上から敵を叩き伏せなされ。決して突くべとは思いなさるな。一人二人での出会い頭の戦いなら突くのもいいが、槍数のそろった合戦とあれば、拍子をそろえて叩くのがなによりだ。また、(実戦での間合いは思いのほか遠いものだから)敵の指物を叩き落すようにするのがよかんべえと思う。(そうしないと、敵に届かない)」という教訓をたれています。

 ところで、このような長柄鑓の操法についての史料には、秋山駿氏が信用されていない『兵法一家言』があります。そこでは、朝鮮役を経験した大名家では、「天文・弘治の頃より文禄・慶長の初めまで、鉄砲を用いる合戦で双方互角に位詰めになるときの方法は、いずれの家中でもみな同様であって、格別な戦法などはなかった」といいいますが、文禄・慶長を経て鉄砲が普及しますと、甲州流でいう二の手の戦法の鉄砲を一二発も撃ち掛けた後は、早太鼓を打ち鳴らし、足軽も武士も遮二無に敵陣中に飛び込み、己が得物を打ち振ることになった」が、主流になったのだと小生は思うのです。

では、それ以前はどうであったかといいますと、稲垣史生氏の『戦国武家事典』がいいますには、甲州流軍法と断りを入れたうえで、鉄砲・弓の合戦が終わって互いに相手を射竦められないままに、間合いを詰めることができた場合、12〜13間に近づいてからが鑓組の出番になり、隊長が太鼓を一つ打たせて「えい、えい」と声をかけたら、組は一同「おう」と応じて押し出す。声なくして太鼓を三つ打つ合図があればその場で折敷くのだそうです。

<工事中>

次に、鑓足軽の装甲の面から考えてみましょう。

大量の足軽を動員した戦国末期の足軽の兵装はいたって貧弱なものでした。加藤清正の足軽鉄砲隊などは陣笠ばかりで、具足は用いさせなかったと言われています。「関が原合戦屏風」や「島原合戦屏風」では小袖立付袴に主家の紋の入った羽織の鉄砲足軽隊が描かれています。また、黒田家の長柄組・鉄砲組も軽装で黒塗り陣笠だけの武装です。足軽にまで具足をつけさせる経済的負担が大変なことと、行動の敏活をも欠くという理由からで、慶長のころは陣笠に羽織、装着袴式のものが多くなったのだといいます。足軽は兜ではなく陣笠で、練り革製もありましたが大抵は鉄製で正面に主家の紋を描いていたそうです。これを見ましても、足軽の兵装は鑓で突かれることを想定してはいません。それでも鉄製の陣笠を支給したということは、近代の兵士と同様であって主に鉄砲弾による頭部の保護が目的なのでしょうが、鑓足軽までも羽織だけであるということは、武将たちが鑓や弾丸から身を守るためにまとった当世具足とは異なります。当世具足は胴丸が変化したもので、槍の防禦に重点をおいて作られていますが、武士の主要武器が弓矢から長刀などを経て鑓に変わったことによるものです。

鑓の柄は、「打ち柄」といい、「持ち柄」とも「繰り柄」ともいいません。目的は打つことにあるからなのだと思います。中心(ナカゴ)をみましても、刺突が斜めになったり穂先で打撃したりすると、中心尻に柄を割折るモーメントが生起して折れる原因になりますから、この影響を小さくするために、中心は刀剣などより長く作られていると考えられています。(刀や薙刀などは刃が円状であり、さらに引き切る使用法をするために「中心尻」に加わるモーメントは小さいといいます。)

さて、ここで本題に戻ります。

先端にかかる力が弱いからといって兵器として劣ると云えるでしょうか。これは技術がいりますが鞭は武器として有効ではないでしょうか。現代のアサルトライフルなどは、命中率ではなく散布弾数が重要視されています。拳銃の名人であった保安官のワイアット・アープなどは散弾銃を多用しています。これらはみな、実戦からの教訓で一撃必殺よりも、敵を射竦めるジャブ攻撃の有効性を承知していたからです。敵が煩がること、敵に面を上げさせないことが重要なわけです。戦闘は手段ですから一撃必殺は必要ありません。できれば一撃必殺に越したことはありませんが、それには相当な技術と運がいりますから、そんなことを当てにはできません。とにかく敵の突進する勢いを止めることができればよいわけでして、最よいのは敵が攻撃動作に移れないようにすることです。そのためには、頭を引っ込めさせ面を上げさせなければよいわけです。殺傷能力が絶対に必要なわけではないのです。

 

<長柄鑓を考える・・・(3)長柄鑓特攻隊>   工事中    (2007.7.21〜2007.10.18)

秋山氏の疑問は「敵は殺さなければならない」と思っているところから生れているように思われます。だから突き殺すのが一番で、叩く場合には叩き殺せなくてならないと考えることになるのだと思います。しかし、戦争の目的は敵を殺すことではないはずです。第一線での軍勢の衝突を、互いに戦列を組んでの整斉の合戦を想定するならば、戦術目的は敵戦列の何処かに穴を開けるか、全面的に押し込んで後退させることにあるのだと思います。

 また、秋山駿氏は「信長発見」という対談で、こうも述べておられます。「長ければ長いほど打撃力は劣りますから(長柄鑓で叩き合うなんて)そんなことは無い。で、ふと考えた。それはたぶん突撃隊ですよ。だって、あれはちょっと払われたらもう駄目ですからね。(いくら長くても)腕の振るう長さの伸び地縮みしかしないんだから

また、こうも書かれておられます。「私の想像では、あれは不利な槍だと思ったんです。あんなのでやっても、払われたら終わりになる。そのときどういう戦争の方法、戦闘隊形をとったんだろうと思いましたけれども、それはいい方法ではなくて、乱暴な突撃隊だと思ったんです

果たして、このように推測することは的を射ているといえるでしょうか。

前項で打撃の効力については十分に考えたと思いますので、ここでは「払われたら終わり」だということについてだけ書いておきます。すでに御察しのように、長柄鑓足軽は武芸者ではありませんから、一対一の決闘に長柄鑓を用いているのではありません。従って、秋山氏が思い浮かべておられるような戦いなどはしなかったものと思われます。払うとか突くということが無かったとは言いませんが、それは密集隊形を崩してしまうことになりますから、長柄鑓足軽にとってはしてはいけない鑓の使い方であったと思われます。勿論、持鑓を振るう武士は違いますが、彼等の獲物は十尺(310cm)を上限としているようでして、十分に振り回すことできる長さであり重さであったものと思われます。つまり、足軽は敵と穂先を交えたり突いたりはしなかったので、払われることもなかったのです。

では、秋山氏の想定された無鉄砲な突撃隊という想定は正しいと言えるでしょうか。

両軍が互いに喚きながら駆け足で突撃するなどというのは、テレビや映画の世界の話です。現に、川中島で毎年行われている合戦遊戯を見ればよくわかります。互いに吶喊して相手の突き出す槍を払い、すばやく突き出した穂先が相手の胴に命中しますが、その直後に傍らの敵によって自分も突かれて討ち取られてしまうのだそうです。実際は「あっ」という間で、突撃開始から30秒で大半の参加者が「討死」してしまうのだそうです。ですから、そのような戦法を採ったはずがありません。それに、真鑓を持ったら迂闊に一歩を前に踏み出すことなどは、怖くてなかなかできないことだと思うのです。だから、一番槍が大手柄として報償されたのです。全員が無鉄砲に突貫できたならば、一番槍などが顕彰されるはずがありません。

因みに、中里介山が『続日本武術神妙記』に一番槍について次のような話を紹介しています。

即ち、遠藤佐々喜氏の談として、「先頃古本屋漁りの一興中、偶然手に入った昔の武道の秘伝『秘書一番槍之説』という小冊子の中に柄にもなく私の共鳴した最も興味ある一節を、原本を朗読して紹介いたします。(中略)

両陣攻寄スルコト二十間(36m)程マデハ互ニ五三間押立ラレ進退アリ。コノ前後ノ内ハ敵ト槍ヲ合セ或ハ突臥ルト云エトモ、場中ノ働キ(前哨戦の小競合い)ニテ、未ダ一番槍ノ功ニアラズ

矢玉尽キテナキ者ハ大刀ノ槍脇ヲ心懸クベシ。サテ槍ヲ入ル節ヲ見計ウコト肝要ナリ。双方実ナル備エハ一間二間宛位詰メニ相進ムナリ。コノ時、一番ニ進ミ出テモ、続ク味方一人モナケレバ槍ノ功ニアラズ、故ニ出タル者モ是非ナク引退クコトアリ。コレヲ引渡リノ槍卜云イ、味方弱相ナリ、尤モコノ時未ダ槍合セノ期ニアラズ。

既ニ双方相寄ルコト七尺(2m強)間近クナレバ、互ニ一足モ進退スルコトナラズ、敵味方トモニ手負死人眼前ニアルヲ見テモ、出テ首ヲ取ルコトナラズ、手負ヲ引カケ退クモナラズ、両陣ノ戦士互ニ眼ヲ動カスマデニテヒッソリト鎮マリ、暫クタメラウコノ時備エノ強弱見ユルナリ。

(中略)双方トモニ強気勝劣ナク、互ニソノ筋ヲネラウ時ハ、勝負ノ間久シキ故ニ、備エ横槍ヲ入レントマワルヲ見テ、敵ノ備エ中ニテ進ム者へ目ヲ付ケ、マタ槍脇ノ味方ヲ見合セ、足ヲ踏ミ出シ槍ヲ振上ゲ、何某一番槍ト高声ニ名乗リテ槍ヲ入ルベシコレ一番槍ト言ウナリ

コノ人ニ前後ヲ争イテ続イテ槍ヲ入ル者ハ、何某一番槍ト名乗リテ槍ヲ入ルナリ

コレヨリ続イテ味方ノ惣兵一同ニテ突懸ケテ推敗ルナリ。一二ノ槍ハソノ敵ヲ討チトラズモ、マタソノ身敵ニ討夕レテモ鋭勇ノ志アルヲ以テソノ功ヲ空トセザルナリ。如此(コノゴトク)諸士ノ気一致ニシテ、陣路ノ間ヲ開ク味方ニ引続キ敵陣へ進ミ駆クルコト、タトエバ飛雁ノ行列ヲ断タザルガ如クニ非ザレバ益ナキナリ。

若シ一番槍ヲ入ルヤ否ヤ敵ノ備エ崩レ立テ、槍ヲ合スル敵ナケレバ一番槍トハ言ワズ、崩レ際ノ功ト言ウナリ。(中略)凡ソ一番槍ノ功ト言ウハ両陣ノ鋭気互ニ勝劣ナク、相気勢ニアラザレバコノ働キナシ。時所ニ依リテ勢ニ強弱ナシト言ウコトナシ。弱キ方ハ多分場中前後ニ備エ色メキ槍合セニ至ラヌ以前崩ルル故ニ、毎戦槍ノ功アルコトニハアラズ

勿論、これは足軽の鑓合戦のことではありません。持鑓の武士による一騎討ちによる鑓合せに移る前の場面です。また、一番鑓というのは「抜駆けなどではない」ことを云っています。

態々、この文をひいたのは、いくら無鉄砲でもそう簡単には敵を前にして、突撃などはできないということを云いたいからです。

それでも秋山駿氏は、「推定ですけれども、あれ(長槍)は信長が自分で鍛えた若者たちの軍勢だけだろうと思うんです。山口(左馬之助)だとか、一族の人たちは全然そうはしていないと思うんだな」と述べられます。そして、それは、「三間間中の朱鑓五百本、弓、鉄砲五百挺もたせられと、(正徳寺での山城道三との会見のときには既に)信長の新しい軍隊が完成しているのである」とされ、「とにかくそういう槍をもたせたほとんど無名の足軽同然の人たち七、八百の兵で勝っている」と言われます。

ここで問題なのは、三間間半の長柄鑓をふるったのは、足軽ではなく足軽同然ではあるが、武士である国人・地侍の二三男の若者であったと推定しておられることです。・・・しかし、これはあり得ないことです。彼等は貧しかろうと乗馬身分の武士ですから、戦場へは供を連れて騎乗して行っているはずです。ですから、秋山氏の言うこと正しければ、正徳寺での会見での信長の兵容も、「騎馬武者五百騎の脇に持ち鑓が五百人が従った」と考える必要がでてきます。すると、この他に「御伴衆七、八百、甍を並べ」ていますし、「弓、鉄炮五百挺持たせられ」ていますから、その総勢は二千二、三百にもなることになります。果たして、この解釈でよいのでしょうか。これは桶狭間合戦の七年前の兵力なのです。

それに、武士の武具は一式自弁ですから、色を統一することはできても獲物まで押しつけることはできません。鑓が得手な者もいれば、薙刀が得意な者もいます。同じ鑓でも大身を好む者もいれば鉤鑓を得手とする者もいるはずです。これは彼等が命をかけて一騎討ちの勝負をするからです。それに、打撃効果のないヘナヘナで、しかも6mもあって扱いずらい長柄鑓を、信長が強制したでしょうか。

次に疑問なのは、信長の戰記には、無鉄砲な突撃隊が活躍したという記事が一つもないのです。

従って、このアイデアも採用できません。

では、なぜ信長は他家よりも更に半間も長い足軽鑓を装備したのでしょうか。

 

<長柄鑓を考える・・・(4)短い期間で廃れた?>

そんなにいい方法なら、すぐまねができますよ。ゲームじゃない。自分が死んじゃうんだから、必死に考える。だから、すぐやるはずですよ」という秋山駿氏の疑問はもっともです。

不思議なことに、『信長公記』にみえる桶狭間合戦までの時期における、足軽を用いての合戦の記述は三件あるのですが、その中で長柄鑓が効をそうしたというのは、中市場合戦の一件だけなのです。註 桶狭間合戦以降においても長柄鑓が有効であったという記述は一切ありません。つまり、三間間中の朱鑓というのは、国内統一戦争の一時期だけのことかも知れないのです。姉川でも三方ケ原でも長柄鑓足軽隊は活躍していません。

註 永禄四年(1561)五月十三日のもりべ合戦では、足軽とも長柄鑓とも分りませんが、「鑓を打ち合はせ、数刻相戦ひ、鑓下にて長井甲斐守・日比野下野守を初めとして、百七十人余討たせらる」という記述があります。

信長が美濃を切り従えてから以降は、諸国の独自で雑多な兵制がどっと信長の軍制にも入ってきて、武装や武器の統一は容易でないために、三間間中の長柄鑓が効果を発揮できるだけ揃えることができなかったからでしょうか。足軽は直傭ですから軍装は一式主人が支給しなければならないのですが、急激な領国の膨張には関や尾張の鍛冶の生産が追いつかなかったのではないかとも思えます。

信長領国での武器生産についての史料はないようですが、後北条氏には、天正七年(1579)六月、北条氏照が荒井新左衛門以下の入子七名に対して鑓の製造納付を命じた文書に、「先軍棟別依御用捨(容赦)、一年(に)鑓卅丁宛打而上申す可き旨、印判を以て定め置く処、九年(に渡り)未進(に)候。今般、御改め之上、御成敗遂げらる可しと雖も、一廻り御用捨(容赦)、然る者、未進(の)二百七十丁之所、半分者(は)御赦免、残る者(は)百卅五丁、今来年霜月十日を切り、而して打ち立て進納申すべし。毎年の如く横江に相渡す可(後略)」としたものが残っています。これは、荒川鍛冶の工房(八名の職人)で年間卅丁と割り当てられた長柄鑓の製造を怠っていたのですが、そもそも製造能力を超えた注文なのか、金になる個別受注の持槍鍛造を優先したからなのか、鉄砲鍛冶に取られて材料鉄が不足したのかその事情は不明です。

 では、信長はなぜ三間間中の鑓を一時期とはいえ装備したのでしょうか。そして、そのことが斎藤道三を驚き羨ましがらせているのです。この会見で山城道三が驚愕したのは、信長の軍勢に大人衆がおらず、寄子の居ない直轄部隊(小姓・馬廻)の常備軍だけで編成されていて、それが一千七百人もいたからなのです。決して鉄砲隊に驚いたのではないのです。これに対して、道三方は重臣八百人とその従者達という国人連合でした。つまり、兵数は同じであったとしても信長方は直轄常備軍だったから羨ましがったと思われるのです。

それに、齋藤道三は鉄炮には驚いていませんから、鉄砲の数はそれほどのことはなかったものと思われるのですが、「美濃衆の槍は短く、尾張衆の槍は長く立てられていた」と態々書くのですから、その意味するところを察して驚いたのだろうと思います。では、それが何を意味したかといえば、それは最前線で消耗する兵士を迅速に補えるからだと思います。なぜ補えるかと言えば、弓矢よりも操法の簡便な長柄鑓を敵より長くして、武芸の心得のない素人の恐怖心を少しでも軽くしてやることができたからだと考えます。なぜなら、これは他人より射程の長い弓矢を持つことと同じだからです。そして、弓矢の技術は習得するのに長時間を要するのですが、長柄鑓はそれが必要ないのです。この問題については、弓矢の項を立てて最考える必要がありそうです。

ところで、小笠原信夫氏は『日本刀』で、「馬上で鑓を振うことが一般化したのは室町時代もかなり下ってのことのようである」としています。また、『日本古戦法』の参謀本部・広田忠三郎氏は、甲越の戦いのころは槍は普及していなかった。信玄などは麾下の隊だけに長槍を持たせていたのだが、信長がこれを多量に用いて以後、武士は必ず手槍(短槍)を持つようになったという見解のようです。その根拠は、氏の原文を読んでいないので何とも言えませんが、鑓自体の普及が東国への普及が遅れていたとしたならば、再考を要することになります。武田信玄が織田陣営の徳川家康の長柄鑓隊と初めて三方が原で遭遇したことの意義を考えなければなりません。

 「良い方法だったら、すぐに真似られて普及したことになります。」

確かに、長柄鑓は長い方が有利であることが戦国大名に認識されていたことは、秀吉による小田原城攻囲戦に際して、後北条氏が出した「鑓は竹柄にても木柄にても、二間より短は無用に候」という軍法で明らかですから、これは先ず第一に財政と生産体制という経済の問題であることは明白です。第二に徳川家康が「三間柄より短き鎗は御嫌れば、鎗を切折たるを腰ぬけと思召(す)也」と言ったと『大久保彦左衛門覚書』が書いていますから、短い鑓の方が白兵戦に有利だと考えて抵抗する武者が多かったのも事実でしょう。要するに戦争はあくまで決闘の集合体だと考えて、抜駆けに励む輩も多かったということでしょう。この第二の問題の方は明らかに「イノベーションのジレンマ」が起きていたことを現しているように思います。

後世のことになりますが、北条氏が軍役に際して二間に足りないような鑓は認めないと言っていますから、鑓は長いほうがよかったのでしょうが、だからといって三間柄よりも三間間中のほうが有利であったという記事も、太閤記を除いてまともな史料には見当たりませんし、三間半の実物も残ってはいないようです。

では、実効の程はといえば、それは一般に想定するような白兵戦での戦果があったかという意味では、無かったと言うべきだと思います。

まず、あらゆる信長・秀吉の合戦において、鑓の長さで有利であったという記録がありません。現存する合戦図屏風がどれほど真実を伝えるかは不明なのですが、足軽自体が描かれたものは少なく、描かれた多くは旗持であり武将のための道具持でして、関が原合戦以降の合戦図屏風には鉄炮足軽の戦闘の様子が多く描かれています。

鑓足軽による戦闘が描かれるのは『関が原合戦図屏風』からなのですが、行田市郷土博物館の右隻(ウセキ)の三〜五扇には、旗指物も背負わず揃いの法被を着た足軽による短鑓での戦いが見えます。『長谷堂合戦図屏風/齋藤茂美氏蔵』には旗指物を背負わず揃いの法被を着た鉄砲足軽と短鑓の足軽が描かれております。『大阪冬の陣図屏風/東京国立博物館』には、陣笠を被った多くの足軽がみえますが、殆んどが鉄砲足軽です。最も足軽が多く描かれているのが『島原の乱図屏風/秋月郷土館』でして、これには黒田長興率いる大軍の行軍の様子が窺われます。

そのような中で、当時の戦闘方法がよく描かれていると思われるのが、『大阪夏の陣図屏風/大阪城天守閣』です。その第三扇には合戦の推移が描かれており、最上部では陣笠を被った鉄砲足軽が戦場に進み出て散兵線を張り敵を狙撃しています。その下は西軍が毛利勝永、東軍が井伊直孝らによって、互いに弓鉄炮による援護を受けずに、騎馬武者を含む白兵による突撃が行われています。その下の鳥居の前では、翼に配置した鉄炮の援護を受けて奮戦する騎馬武者(本多忠朝)を援護するための白兵戦が行われているようです。その下の中央部では、赤備の真田隊と松平忠直隊が互いに翼に配置した弓・鉄炮の援護を受けて、得物を構えた武者が互いに詰め寄っているところが描かれています。最下段には、逃げる西軍を鉄砲・徒歩・騎馬の将兵が混然となって追撃する東軍が描かれています。

ところが、これらの何れに描かれた鑓をみても三間に達するような長柄鑓を発見することはできません。江戸時代前期制作とみられる『川中島合戦図屏風/岩国美術館』では、長柄足軽の持つ鑓は背丈の三倍の二間半(4.5m)程にみえまして、『絵でみる時代考証百科』では、八王子千人同心が川面を二間半の鑓で叩いていたといいますから、それを裏付けるものであるとも思えますが、何れにしても三間を越えるような絵画史料はなさそうです。

但し、実物としては、上田市立博物館に5.2m(三間)の朱塗りの鑓と4.2m(二間半)の鑓が遺されていますし、西ケ谷恭弘氏の『織田信長事典』には、後北条氏領国で定められた二間半の長柄槍が5mの長さで相次いで見つかり、また大阪冬の陣・夏の陣で用いたと伝えられる5〜6mの長柄槍も、九州各地や徳川美術館などで確認されているといいますから、使われたことは間違いなさそうです。

ところが、朝鮮役では日本刀の鋭利さが特筆されているのに、長柄鑓についての記述がみられません。それに、朝鮮役での敵は騎兵隊でした。しかし、そこでの日本の長柄鑓足軽隊が「平場の大鑓註−15」で迎え討ったという記述も絵画もありません。 

註−15 平場の大鑓というのは、対騎馬用の戦法であって、横一列に並んで折り敷き、槍柄を右膝にのせ、石突きを地面に突き刺し、馬の胸先に槍先をつけて構える。槍先に突っ込んできた馬は胸を刺されるが、寄せ竹製の打柄は折れずに撓って次の瞬間元に戻る。その反発する力で馬は撥ね飛ばされて倒れ、騎乗の敵は落馬する。それを狙って余人が刺殺するというものである。

そうしますと、朝鮮役で明国の騎兵と大砲との戦いになると、日本の長柄鑓は効果を発揮できなかったものと思えます。文禄の役での島津義弘などは、国元の老中・比志嶋国貞に宛てて、「鑓は一切役に立たない。何としても鉄砲を用意することが肝心である」「高麗人に対しては鉄砲に限る」といっています。これは、明軍が鉄砲よりも射程の長い大砲(5〜600歩)を持っていたこともありまして、騎馬隊に突入される前に大砲で制圧されてしまい、長柄鑓の射程距離(?)では対抗できなかったからだと思います。

逆に見れば、鉄砲の実戦での射程は60m未満でしたから、日本で鉄砲装備率の低かった時代には、二三発も撃ったならば直ぐに接近戦に突入することになるため、長柄鑓は弓矢に代る手軽な制圧兵器(ピストルと同じ)で有り得たわけです。つまり、日本における弓矢の代わりに長柄鑓を用いた集団戦術の方が世界戦史では異常な戦術だったのです。

上垣外憲一氏の『文禄・慶長の役』では、日本で一振り一貫文の日本刀が、中国では五貫文で取引されたといい、ルイス・フロイスが東莱(トンネ)城の闘いでは日本軍大刀が勝敗を決したと書いていると紹介しています。山本七平氏が日本刀は斬れないと論じてから(?)鈴木真哉氏の軍忠状の分析を通じて、現在では日本刀の実効性を疑うことが主流を占めているようにも見受けられるのですが、これは一度検証し直してみる必要があるものと思います。

旧参謀本部の『朝鮮の役』によれば、小早川隆景の加徳城では、士卒五千人に対して鉄砲二百挺・弓三百張・刀四百五十腰・鑓二百本で、これで武装できるのは千百五十人ですから武装率は23%になります。また、島津義弘の巨済島城では、士卒二千人に対して鉄砲百挺・弓百張・刀四百腰・鑓百本で、武装できたのは七百人で武装率は35%になっています。このような中で、鑓の数は鉄砲と同数なのです。弓鉄砲と比べると半分以下の装備率になってしまっています。

この事実は、先に述べた仮説、「日本の長柄鑓は弓矢(投射兵器)の代替」であるということを裏付けているように思えます。やはり、長柄鑓は白兵器ではないようです。ですから、鉄砲が普及すると飛道具の代替武器である長柄鑓は減少してしまうわけです。

 それに、日本国内では騎兵が歩兵にとって脅威ではありませんでしたし、全員が鈍らであっても刀を帯びていましたから、銃剣も生まれませんでしたし、鑓隊によって護衛されることも必要としませんでした。

それは、徳川家が朝鮮役に渡海していないため、明・朝両軍との実戦を経験していないことです。関ヶ原合戦でさえ、それを戦ったのは豊臣恩顧の西国大名たちだけだったのです。これが何を意味するかといえば、戦争の仕方が変わったことに、徳川家だけが追いついていなかったということです。朝鮮役を経験した大名家の軍制は、野戦で敵の騎兵や大砲との戦いを経験することによって、鉄砲の装備率が大幅に増加し、長柄鑓がその分減ったのです。

つまり、長柄鑓には投擲兵器の代替品としての役割が薄れてしまい、本来の白兵武器としての役割が割り振られるようになったように思えます。それなのに、徳川家だけは旧来のままの戦法を維持していたものとも思えます。それが、武田・北条遺臣を中心にした千人同心として、幕末まで残った理由なのかもしれません。

そのように考えますと、徳川家の八王子同心というのは一世代前の遺物であったようにも思えます。つまり、徳川家康とその家臣団は殆んど最新の戦闘を経験することなく、騎兵と大砲と戦った経験を持つ豊臣恩顧の西国大名にのみ、実戦を戦わせて天下を握ったために、その兵制は時代遅れであったものと考えるからです。つまり、徳川家の軍事力の実体というのは、後世の我々が思うほど無敵なものではなかった可能性があります。史実として認められる戦績で確実なものは、桶狭間合戦で丸根砦を攻略したことと、小牧長久手の合戦で中入した秀吉軍を壊滅させた戦闘だけのようでして、その生涯は極めて政治的な勝利であったようにも思えます。

どうも、三間柄の長柄鑓というものは、急激に普及したものの、意外に早く廃れたようにも見えます。

と、いうことで、足軽鑓の歴史をみてみますと、応仁の乱が最初のようです。金子常規氏の『兵器と戦術の日本史』によりますと、1467年十月五日の相国寺の合戦で、畠山政長は、二千人の士・卒を狭い正面に圧縮し、長柄を構え錐のようになって全員一斉に突進する戦法をとり、政長自らも下馬し長刀を杖にして先頭に立ち家臣もこれにならい、第一線は楯を正面に構えて寺内で相国寺の入り口を目標に前進、頃合を見て百〜二百帳の楯を捨てて鑓を入れたといい、これをもって長鑓集団歩兵突撃の初見であるとしています。

このとき足軽鑓隊が奏功したのは京都の市街戦であったからだと考えます。その使用法は密集して穂先を揃えて突撃しており、白兵戦を期しているが一騎討ちはできません。つまり、開豁地での陣形を整えての野戦ができたわけではないのです。それをするには厳格な軍規が必要だからです。従って、此の時は密集することで士気が高揚し、狭い地形が密集した部隊の散逸を防いだという効用を表したわけです。

相国寺奪回を機に両軍は対陣状態となり、互いに第一線陣地を強化し始めた。壕を掘り土塁を築き、一条通には深さ一丈幅二丈の空壕が連なったといいますから、せっかくの足軽鑓隊もすぐさま小牧長湫の戦いに先駆ける陣地戦に移行してしまい、今度は専らゲリラ戦として働くことが効を奏した為に、集団戦術としては発展しなかったものと考えられます。

このような足軽鑓隊がいつごろから戦国大名の軍隊の主戦力になったのかは明らかでないのですが、各戦国大名家で足軽を傭兵として常時雇用しておくようになってからのことと思えます。即ち、足軽鑓隊をゲリラ戦ではなく、集団として運用するには、厳しい軍律と訓練が必要だと考えるからです。

<工事中>

 

<長柄鑓を考える・・・(5) 織田家の軍制>   (〜2007.10.18追加)

  1. 秋山駿氏の疑問には次のようなものもあります。 「十七、八歳の信長が急に槍は長いほうがいいと言って、それ以前の織田家での戦法、武器の統一を破った。こんなことをやったら第一次大戦や第二次大戦の時だったら許されない。軍令違反ですよ。だからたぶん信長は一族から総スカンを喰ったはずです
  2. あのころは戦国時代はもう後半のころです。織田家なら織田家の武器の揃え方、戦争の方法が整備されていたはずです。槍の長さ、その他についても、軍令、軍法が整然としているはずです。それを変えるというのは大変なことです。あの頃必要なのは、馬を除けば、弓と槍と刀、この大切な槍の長さを変えるといったら、それだけで軍律、軍令違反で駄目になる。ところがそうではない。何をもって軍令違反が許されたのか
  3. お父さんの信秀は、数々の合戦を経てきたベテランでした。伝統の二間半の槍で、堂々たる戦争をやってきたわけです。その武器を急に変える、よく出来たものです

これらの疑問でおかしな点は、みなさんお分かりのように軍令違反」であるという感じ方と、家族・一族についての認識です。もう一つ言えば、織田信秀が先代からの足軽が二間半の鑓を使っていたというような史料はありませんし、どの程度の足軽を抱えていたかもわかりません。何しろ信秀は「備後(信秀)殿は、取り分け器用の仁にて、諸家中の能き(実力)者と御知音(遇)なされ、御手に付けられ」と言われていたのですから、国人・地侍を集めるのが上手だったのです。

ですが、その備後守信秀にしてからが、憑集めた軍勢に確固たる指揮権を持っていたとは思えません。それは、天文十三年(1544)に美濃国へ乱入し、井口城下で大敗した事から窺えます。『信長公記』には「尾張国中の人数を御みなされ(中略)在々処々放火候て、九月廿二日ニハ、斎藤山城守道三が居城稲葉山の山下ノ村々に推し詰め、焼き払ひ、町口まで取り寄せ、既に晩日申刻に及び、御人数引き退かれ、諸手半分ばかり引き取り候所へ、山城道三焜と南へ向かって切りかかり、相支へ候と雖も、多人数くづれ立つの間、守備の事叶はず、(中略)歴々五千ばかり討死なり。」とあります。つまり、在々処々放火し乱妨分捕りに走ることによって、引揚げに際して統制がとれず「諸手半分ばかり引き取り候所」を道三に襲われて大敗したのだろうと小生は考えるのです。小豆坂合戦の時には、「国中」といっても下四郡であって半ば被官化できていたでしょうから統制できたのでしょうが、今度の「尾張国中」は全くの寄せ集めでしたから、各々勝手に分捕りに走ってしまって、収拾がつかなくなってしまったものと考えるのです。

まず、常識として心得ておかなければならないことは、武士の武具は自弁でありましたし、小荷駄は定賦(軍役)の外であったということです。これは古代からの原則です。これとは逆に、武士でない足軽の武器・武具は支給したわけですから、これらには製造するためにも制式があったことは疑いありません。それに、親に孝・主に忠などという江戸期以降の儒教的な教養でもって戦国時代の家族・一族関係をみることは間違いであることも常識でしょう。そうでなければ、毛利元就の三本の矢の教えや後北条氏の例外的な兄弟の団結が顕彰されるはずがありません。尾張国でいえば織田家はもちろん、水野家も一族が団結した形跡はありませんし、戦国大名はみな骨肉の争いをして生き残った者ばかりなのです。武田信玄や伊達政宗ばかりでなく、織田信長にしても父・信秀を暗殺したかもしれないのです。

ところで、領国の武器・武具については、次第に軍法・掟によって規制が加えられるようになってきましたが、その原則は「禁止事項」と「最低限度」を定めるものばかりです。

戦国時代になると、戦場における規律や、武具を使用する際の心構えなどについては、「軍法掟」 によってかなり細かい点まで文章化されていました。長柄鑓についての軍法で有名なものには、後北条氏の天正十五年(1587)の「一、此道具、弓・鑓・鉄炮(の)三様之内、何成(りと)存分次第。但(し)、鑓は竹柄にても木柄にても、二間より短は無用に候。然者、権門の被官を号し、陣役を致さざる者(は)、或いは商人或いは細工人(の)類、(下は)十五(上は)七十を切り(而)記す可き事。一、腰さし類之ひらゝゝ武者めくように致す可く支度(の)事という掟と、徳川家康の小田原攻めのときの家康の軍法には、「一、持槍は軍役の外たるの間、長柄をさしをき之を持つ可からず。但し長柄の外に之を持た令(シメル)者(は)、主人(の)馬廻に一丁たるへき事」というものがあります。

また、永禄二年(1559)三月廿日付けで今川義元が戦場掟書「軍令七箇条」を定めたものには、七箇条のうち一条たりとも武器や寸法・規格について定めたものはありませんし、その領国法は、戦国大名今川氏が当面する領国経営全般にわたっており、その内容は名田・売買質入・訴訟・検察・商業・家臣関係など多岐に及び、比較的少ない条数で網羅的に取り入れているのが特徴なのですが、その『今川仮名目録』にも軍事に関するものは一切ありません。軍役は御恩と奉公の相対契約だからです。

武田信玄の『甲州法度之次第』も似たようなものですが、第廿条に「天下戦国の上は、諸事をなげうち武具の用意肝要たるべし」と訓戒に止まっています

織田信長に至っては、「なおもって人数の事、分際よりも一廉(ヒトカド)奔走簡(肝)要に候、(中略)人数之事、老若を選ばず出陣に於いては、忠節可為祝着候」と、人数についてだけ要求しており、多ければ多いほどよいとしています。『遠藤氏宛朱印状』

また、『信長公記』には、「竹鑓にて叩き合いを御覧じ、兎角、鑓は短く候ては悪しく候はんと仰せられ候て、三間柄、三間々中柄なにさせられ」とあって、決して三間々中柄一本に統一したわけではないないようです。・・・それとも、三間柄から三間間中柄と試行錯誤しながら進化したのでしょうか?

徳川家でも慶長十年(1605)まで定まった軍役規定がなく、それ以前は時々の戦いに応じて定めています。この後の「慶安軍役令」さえも、北条流軍学者の手による軍学の試案に過ぎないものであり、近世後期まで幕令と認識されていなかったことが、佐々木潤之介氏が『大名と百姓/日本の歴史』で指摘されています。つまり、日本を統一した軍事政権である徳川幕府でさえ軍役規定を持っていなかったのです。

このようですから、そのつど員数を指示していたような状況下で、どうして織田家が武器を統一できるのでしょうか。できるわけがありません。織田家が武器の統一ができるのは、信長自身が武器・武具を支給する足軽隊だけなのです。ということは、父であろうと元服している信長が抱えた家来の武装に口出しできるわけがありません。与えた身代に見合わないほど貧弱なものであったならば別ですが、知行地からの収入のうちで能い武装をすることに文句をいうわけがありません。それも新たに臣従した武将の足軽にまで強制した形跡もありません。つまり、現代の国民国家や帝政国家でない限り、全てを制式で揃えた軍隊などというのはないのです。

 つまり、この疑問は疑問を持つこと自体が不勉強に過ぎるのかな・・・?

 因みに、「軍令」という用語自体が優れて近代的な用語です。軍令とは軍隊における命令・規則・軍の作戦行動に関する業務をさし、軍政の対義語になるものですが、明治時代に使われ始めた言葉です

 

 

<参考>

  1. テルシオ(概要)   ゴンサロ・デ・コルドバ(1443〜1515)によるスペイン軍の軍制改革では、まず円盾と剣を廃止し、スイス槍兵同様にパイクを持たせて密集隊形の方陣を組ませ、周囲と両翼にクロスボウと銃を配置した。正面幅100列縦深12〜15列とし、外縁の2列にマスケット銃兵を配置し、中央にはパイク兵を集めた。四隅の小方陣は横五列縦六列のマスケット銃兵で構成された。また、ゴンサロは士官の数を増加させ、それまで一人の士官が百人から六百人を指揮していたのですが、これを50人から75人にして部隊の統制と柔軟性を高め、部隊は千人前後であった。1503年、この新式のスペイン軍は、チェリニョーラの戦いで重騎兵を主戦力とするフランス軍を破ることに成功した。
  2. テルシオ(中隊)   基本単位は中隊で定数は250名から300名であった。大尉一名、中尉一名、軍曹一名、旗手一名で中隊を指揮し、ほかに従者一名、補給係将校一名、鼓笛手三名、従軍司祭一名、理髪師一名が付随しており、士官を含む中隊本部要員の総数は十一名であった。
  3. テルシオ(意義)   ゴンサロのテルシオが現出したチェリニョーラの戦いは火器と野戦築城が効果を発揮した戦いでしたので、これ以降、火器の割合は徐々に増加していった。つまり、テルシオは野戦築城を人に置き換えたものでもあり、極度に防御に偏した機動力のないものであった。
  4. 持鑓数鑓といわれた長柄鑓の違い。    持鑓では下限八尺(250cm)、九尺(280cm)、十尺(310cm)を上限とする長さに止まっているといわれています。重量は二間柄の短穂で六百匁(2.2kg)以上、種田流の二間柄の素鑓で八百匁(3kg)だといいますから、それ以上では俊敏に振回せないため、実用にはならないのだと思われます。名和弓雄氏の『絵でみる時代考証百科』によりますと、長柄鑓は雑兵が使用した鑓で、二間半から三間半の柄を使用し数槍と言われ、その殆どが打柄(寄せ竹)で短い穂先をつけており、朱塗で下限は二間(12尺:364cm)、二間半(15尺:455cm)、上限は三間間中(21尺:637cm)であるとしています。また、江戸時代の「竹槍」の遺物の長さは概ね4mでして、2mでは短過ぎて使えないとされています。
  5. 長柄鑓の実物     西ケ谷恭弘氏の『織田信長事典』には、後北条氏領国で定められた二間半の長柄槍が5mの長さで相次いで見つかり、また大阪冬の陣・夏の陣で用いたと伝えられる5〜6mの長柄槍も、九州各地や徳川美術館などで確認されているといいますから、使われたことは間違いなさそうですが、三間間中の実物はないようです。
  6. 打柄     稲垣史生氏の『戦国武家事典』によりますと、長柄鑓の打柄は、寄せ竹造であるため軽く折れないのが特徴だそうです。木柄と異なり長い柄が作れて工賃も木柄より安くなるのだといいます。芯には杉や塩地など撓うものを使い、割り竹で包み(捻り巻くものもある)麻布で巻き糸やなめし鹿皮で巻き漆をかけて作るといいます。これに対して持鑓の打柄は、固い材質の樫で肥州天草産が喜ばれ、次いで枇杷が用いられたといいます。

 

 

第二項 騎兵    (2007.8.7)

最近では、日本の騎馬武者は騎乗しての戦闘はしなかったという理解が流行っていますが、これは明らかに誤りです。

一対一の決闘ならば、武芸の心得のない歩兵と騎兵では、絶対的に騎兵が有利です。ただし、武芸の心得がある武者に対しては騎兵は不利です。また、乗馬の突進力を生かせないような混戦状態(よくTVや映画に見られる乗馬が動かずに騎士が得物を振り回している状態)になってしまいますと、明らかに騎馬が不利になります。騎乗の武士は進退の自由が効かないからです。

金子有鄰氏は『日本の伝統馬術馬上武芸篇』で、「騎者と徒者との戦は(人間の足はその意志に従って自由に動くため)必ずしも馬上が有利とはいえない。混戦場では、従卒など目にかけぬゆえ問題にならぬが、(中略)一騎討となると手の効いた歩卒と戦って勝つのは容易ではない。特に向こうが長物を持ち、こちらが太刀なるときには断然こちらが不利であるから遠くより見て敵なることが判明すれば近寄らぬことである。(何故なら、後退に際して味方から遅れて引揚げる武士は深入りして働いた大豪の武士であるからである。)(中略)このとき一番不利であるのは遠くから馬の足を払われることである。これは甚だ防ぎ難く落馬は免れない。(中略)一番困ることは払ってすぐに踏み込むということが馬上ではできないことである。(中略)もし足場が許すならば五、六間の距離から急突、徒歩者をめがけて馬を乗り掛けるより他はない。運を天に任せて彼を乗り潰すのである」と語っています。

ですから、常に騎乗していたのでも、何時も下馬して戦ったのでもないことは、常識で考えればわかることです。

関ヶ原合戦での木脇祐秀は、馬上で長刀を奮って島津義弘の退路を切り開いていますし、多くの合戦図屏風には騎乗して闘う姿が描かれています。一方で、川中島合戦図屏風に描かれているように、武田信玄の陣営では乗馬を後方に下げて、武者は折敷いて構えています。それに、金子有鄰氏が『蹄の音』で、「楠討伐戦で馬は役立たず。関東武士の威勢は地に堕ち、名馬思想も廃れた」と言われるように、合戦が常態化して峻嶮な山城の攻城戦が主になると、必然的に騎兵は役に立たなくなります。もう一つ、大量の歩兵が戦場に動員されるようになったことがあります。騎乗身分の武士が一割程度になってしまったならば、統制されて規律がある長柄武器を持って密集した歩兵には敵いません。『六韜・均兵第五十五』では「一騎當歩卒八人」とその兵力をみています。

しかし、戦国時代前期のように領国統一戦争が戦われていた当初は、戦場に動員された兵員数も僅かでしたから、自然に戦場も広く使えました。すると、必然的に騎兵には有利な状況が生まれます。しかし、動員兵力が増えるにつれて騎兵は増えずに歩兵が級数的に増加しますから、日本の狭隘で険阻な地形は騎兵の機動力を即座に奪ってしまうことになりました。敵前に殺到して矢を射かけて反転して繰り返し波状攻撃を仕掛けるようなことが、費用対効果で割に合わなくなってしまったわけです。

このように書きますと、そんな事はない。蝦夷地征服の昔から源平合戦にいたるまで歩兵は騎兵よりも多かったという反論がでるでしょうが、問題は歩兵と見做された人々の「戦意」です。恐らく、南北朝時代になって歩兵が増加し、騎兵が馬を降りるようになったのは、それまでの歩兵で「伴類」と呼ばれていた集団が、戦意を持って戦闘に参加することになったからだと考えます。それまでは、強固な身分意識から騎乗した武士を見ただけで気力も萎えてしまっていたような下々の者共が、足軽という身分註−16を得て戦場に現れたわけです。 註−16 足軽を社会的意味では使っていません。軍事的意味でだけ使っています。

ですから、源平合戦のように大軍が動員された戦いでも、弓射歩兵を大量に増して楯突戦が主流になるかとも思えたのですが、そうはなりませんでした。射手の増産ができなかったからです。これは、第二次大戦の日本軍が消耗する戦闘機乗りの補充に追いつけなかったと同様に、射手の育成に好手がなかったからです。敵の突進を止めるには剛弓を引けなくてはなりません。鹿撃ち用のコンパウンドボウは80lb(36kg)で有効射程距離60mといいますから、現代の米俵40kg (昔は60kg) を片手で持てなければならないわけです。それに騎射戦ではありませんから、互いに駆け違って射交すというわけにはいきません。一旦弓矢の射程に入ったならば、簡単には離脱はできないのです。すると、どうしても有効射程のぎりぎりで撃ち合い始め、敵を制圧しながら距離を縮めようとします。そのような遠距離射にも技術が要りますが、射手の養成は容易なものではありませんし、そんな訓練に大勢の奉公人を使ってばかりはいられません。

おそらく、そのような理由があって歩兵の武器が弓矢から長柄武器に一気に転換したのだと思います。ですから、歩兵の長柄武器も国法によって私家に貯蔵を禁じられていた「」にはならず、武士が使用していた太刀を転用した「長刀」から始まり、斬るという難しい技術註−17 のいらない「」へ遷移したのだと考えるのです。それは、矛と鑓の穂先の継方をみれば歴然としています。矛は袋継ですが、鑓は刀と同じく「(ナカゴ)」があるのです。因みに西洋の槍も矛と同じく袋継です。日本の鑓は世界の槍からみても特殊なものなのです。 註−17 籏谷嘉辰(ハタヤヨシトキ)氏は、「日本刀は海外のあらゆる刀剣類に比べて、重くないのにリーチが長い。しかも刺突用ではなく、斬撃するようになっています。とても特殊なものです。これは、使用者が巧みに操刀することのできる腕前であって、はじめて実用水準の武器として役に立ったことを意味するのです。叩くと斬るとの間には霄壤(ショウジョウ)の差があります。鉄砲と違って、弓や刀は技量の維持が大手間なのです」と言われています。

これは、『信長公記』の首巻に時々みられるように、戦場のここかしこで決闘が行われたり、討取った首を本陣に披露しに帰ったり、武士が休憩するために引き揚げて来たりしていることから分ります註−18。大体が一々首を取ること自体が統率された進退などしてはいない証拠だと思うのです。つまり、この時期には一旦戦闘が開始されると自然に分散して戦域が広範に広がってしまう傾向があったものと想像します。戦国時代は集団戦といわれますが、実際は大人数が戦場に動員されたということであって、統制のとれた進退ができたとは思えないものがあります。 註−18 (1)天文十一年(1542) あづき坂合戦の事「下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、三度四度(と)かかり合い々々、折しきて(小休止しながら)、お各手柄と云ふ事限りなし。前後きびしき様体是れなり」  (2)天文廿一年(1552) 三ノ山赤塚合戦の事 「(その後乱戦となり、)巳の刻(am10)より午の刻(正午)まで(敵味方入り)みだれあひて、叩きあっては退く、又、負けじ劣らじと、かかっては叩きあひゝゝ(をした。その結果)、鑓下にて敵方(で)討死(したのは)、萩原助十郎・中島又二郎・祖父江久介・横江孫八・水越助十郎(であった)」   (3)弘治二年(1556)四月廿日 山城道三討死の事  「義龍備へ(軍勢)の中より武者一騎、長屋甚右衛門と云ふ者(が、前へ)進み懸かる。又、山城(の)人数の内より柴田角内と云ふ者(が)、唯一騎進み出で、長屋に渡し合ひ、真中にて相戦ひ、勝負を決し、柴田角内(が、長屋の頸を取り)、晴れがましき高名なり(をあげた)」  (4)「爰かしこにて思ひゝゝの働きあり、長井忠左衛門(が)、道三に渡し合ひ、打太刀を推し上げ、むすと懐(いだ)付き、山城を生捕に仕らんと云ふ所へ、あら(新手の)武者の小真木源太(が)走り来なり、山城が鐘(膝)を薙ぎ臥せ、頸をとる」  (5)弘治二年(1556) 信長大良より御帰陣の事  「森三左衛門(可成は)、千石又一に渡し合ひ、馬上にて斬り合ひ、三左衛門(は)鐘(膝)の口(を)きられ(て)、引き退く」  (6)弘治二年丙辰八月廿四日 勘十郎殿、林・柴田御照敵の事  「黒田半平と林美作(守は)数剋切り合ひ、半平(は)左の手を打ち落され、互いに(疲れて)息を継ぎ居り申し候ところへ、上総介信長(が来られ)、美作(守に向って打ち)かかり給ふ」 (6)「さて、(各人)手々に馬を引き寄せ候。打ち乗って、追付き々々、頸を取り来なり、其の日、(は)清洲へ帰陣(なさった)」  (7)永禄二年(1559)七月十二日 浮野合戦の事   「弓を持ち罷り退き候ところへ、橋本一巴、鉄炮の名仁、(が)渡し合ひ」  (8)

 勿論、日本特有の地形にも影響されています。騎馬武者が騎乗して戦闘するには条件があります。(1)互いの馬を馳せ違わせるだけの十分な広さが必要です。馬に乗って戦う有利はその突進力にあるのですから、馬が止まってしまっては絶対に不利です。敵が歩兵の場合でも、敵中を縦横に駆け巡れなければ騎兵の有利は消えてしまいます。

つまり、騎兵に襲撃される恐れの少ない日本の場合は、騎馬襲撃を阻止する役目は二の次でして、敵の戦線を圧迫し撹乱することによって、白兵戦の隙を作る手段として大量の軽装歩兵に長柄鑓を持たせたのです。これは従来の弓矢より効果があったようで、鉄砲が普及して隔絶した効果を発揮するまで装備され続けました。

これは、龍造寺氏と島津氏との沖田畷の戦いを見ればわかります。一般には、沼地の中の一本道を推し通ろうとした龍造寺軍が殲滅されたことに目を取られがちですが、この戦いは「龍造寺軍の多くの鉄砲と長い槍短い刀に対して、多くの弓矢と短い槍と非常に長い刀の島津軍」との戦いでもあったのです。つまり、沖田畷の戦いは、先進的な装備をした軍隊と旧式な装備の軍隊との戦争でもあって、旧式な装備の軍隊の方が、戦術や士気において勝ったために勝ちを得たサルホの戦いのようなものだったのです。

戦争は装備だけでは勝てない見本です。勝ためには、「装備にみあった自分の土俵で自分のルールで」戦わなければならないように敵を仕向けることが肝要だということです。

では、装備にみあった戦術はといいますと、龍造寺軍は飛び道具を多くそろえた軽装歩兵が主体であるのに対して、島津軍は白兵戦を専らとする竜騎兵が中心であったわけですから、龍造寺軍は軽装歩兵の得意とする機動力を活かさなければならなかったわけです。ところで、なぜ鉄砲が大砲に対して有効かといいますと、移動が困難な大砲に比べて圧倒的に機動力が高いうえに、日本軍は徹頭徹尾散兵戦術を採っていましたから、と云うよりそれしか採れなかったのですから、榴弾が少なかった(大碗口から発射する震天雷があった)当時は損害を軽減できたのです。

 

第六項  <軍学>

長柄鑓の項で、「江戸末期には軍事の実際については、一切忘れ去られていた」といいましたが、そもそも軍事知識に対する体系自体が江戸時代に存在したのかどうかが疑われます。つまり、戦国時代の軍事技術というものは経験による「暗黙知」であって、知識の体系として伝承されることがなかったため、江戸初期に歴戦の兵が亡くなるとそれに伴い自然に消滅したのではないかと思うのです。そのように考えますと、現在一般になんとなく信じられている「家康が甲州流軍学を徳川家に導入した」ということは、後世に商売のために創り上げられたキャッチコピーに過ぎないのではないかと疑うわけです。

家康が徳川家の軍制変更をする契機になったとして二つの事が挙げられます。

一つは、家康が生涯唯一喫した敗北を世間に隠すことができないものであったため、家康がそれを越える軍隊を持つことができたことを証明しなければならなかったという、政治的な事情があったこと。そのため、家康は武田家滅亡後に甲州遺臣を抱えて、赤備と八王子千人同心を創設して幕末までこれを保持していたと一般に喧伝されてきたこと。

もう一つは、家康の重臣で岡崎城代であった石川数正が秀吉の下に出奔したために、徳川軍の軍事機密が漏れてしまったために、家康は三河以来の軍制を武田流に改めることになったと尤もらしく噂されることです。

このことから、簡単に洞察できることは、飽くまで家康が天下人になったために、「無謬性」を証明しなければならないという、政治的な必要性に応じて生れた作り話でなないかということです。

当時は、寄親寄子制を採用していまして、これは土地の支配・所有の実態を通じて形成されたものですから、おいそれと変更できるようなものでなかったことは明らかです。現に、家康は駿河今川氏を征服したときも、甲州武田氏を征服したときも、在地の武士たちの本領安堵したうえで、その上に三河譜代を寄親として据えることによって、寄親寄子制を再編したに過ぎないのです。ですから、家康が武田氏を帰属させる前に包括していた今川家の寄親寄子制を、軍制改革によって武田家式に変更したなどということはありませんでした。つまり、隊伍の編成も何も変わらなっかたのです。変える必要などなかったからです。

例えば、合言葉や太鼓・鐘の数などは、出陣の度に毎回変更して決定すること(毎日という意味ではない)ですから、石川数正が敵方に走ろうが何の不利益も生じません。

それに、騎馬や鉄砲の数、馬や鉄砲の質などは財力の問題ですし、ましてや組織については織田家・豊臣家に比べて格段に遅れていました。・・・だから武田家は滅びたのですが、家康が学ぶべきことはありませんでした。

家康が信玄から学ぶべき軍法・兵法があったとしたならば、それは「大将の心術」でしょう。だから、『甲陽軍鑑』には心術しか書かれていないのです。

ですから、実際に家康が信玄から甲州流として珍重して導入したのは、鉱山土木(金山開発)・農業土木(治水技術)・統一度量衡などの先進的な技術だけだったと思われます。その証拠に、武田二十四将と言われた家系はみな信玄の活躍の前半期に亡くなっており、江戸期に大名や旗本として生き残れたのは、真田・三枝・横田だけなのです。山県も小幡も馬場もその一族一党から登用されることはなかったのです。つまり、『甲陽軍鑑』の説く人材登用の「人は石垣人は城」とは、部下の使い捨てであるということになるわけです。信玄は国法を定めましたがシステムとしては残らず、その後を埋める人材を得りことができなかったのですから、そのように言われても仕方がないのではないのでしょうか。これに対して、信長の仕方は国法も定めず文字としは残りませんでしたが、信長配下の武将に受け継がれて、秀吉の下で大成されています。

では、武田二十四将以下の少身の武士はといいますと、七十余名を井伊直政に配属させて赤備と称させたことと、二百四十八名を八王子千人 同心(武田小人組)として甲州街道の守りに当たらせただけなのです。徳川家の軍政・軍令の中枢にはただの一人も召抱えられてはいないのです。

八王子千人 同心にしても、それを創設した意図は、江戸に入府するにあたって、八王子城落城で騒然とする城下の治安を早急に回復するために、家康が武田家遺臣であった大久保長安を八王子代官に採りたてたということが実際です。長安は武田や北条の遺臣を集めて千人同心を組織して治安を回復するのに実績をあげています。決して、武田家の軍制を導入するのが目的であったわけなどではないのです。

 では、現在話題の『甲陽軍鑑』をみてみましょう。これが、江戸期の軍学書なのですが、逸話で満ち溢れているのですが、軍事技術については何も書かれていないに等しいものです。これに対抗して創作されたのが『北越軍記』ですが、これも軍事技術としては学ぶべき実態がありません。いずれも、贔屓目にみても武家としての教養・哲学を教えるに過ぎないものでして、用兵どころか陣地の設営も行軍も連絡も斥候も、軍事技術については何一つ書いていないのです。

それではというので、『孫子』をはじめとした武経七書の研究はといいますと、『孫子』が出版されたのは江戸期になってからですから、戦国時代にこれを全部受講できた武将はほとんどいなかったでしょう。江戸期になってから、藤原惺窩・林羅山・山鹿素行・荻生徂徠らによって研究されましたが、直ぐに行き詰ってしまっています。何故なら、天下は泰平になっていまして経験もなければ具体的な目標もありませんでしたから、現実性のない哲学と訓詁学に陥ってしまったからです。何しろ、当時の武士の敵は百姓一揆と火盗ぐらいしかありませんでしたから、鉄砲や鑓を持ち出すまでもなく、棒と梯子で充分だったのですから。

このようなわけで、『孫子』を我が国の実情にあった実例で咀嚼して註することは、最早不可能であっただけでなく、高度に抽象化されてしまっている文章でしたから、これから実戦を想像することすら不可能になっていました。つまり、こうなるそれ以前に、我が国の戦国時代には軍律で行動する教練などが実行されたことなどはありませんでしたから、戦術が体系化・標準化されることもなかったのだと思えるのです。つまり、我が国の戦争技術は経験による行動学だったと思われますので、それを担った世代が死に絶えるとともに失われたのだと考えるのです。

というわけで、少し時代を遡って朝鮮役の頃を見てみます。

戦国時代の日本人は、朝鮮で初めて明国と対戦して「号令で陣形を保って戦闘する」ことができる集団と対戦したわけです。これは、戦国大名が目指していたもでしたから、憧憬の念をもって見られたものと思いますが、積極的に導入しようとした形跡はありません。互角以上に戦ったという思いがありますから、社会構造の変革をも伴うような官僚制による大衆軍への変換などは望まなかったし、できなかったようです。

ですから、喫緊の問題として認識されたのは、銃砲装備と銃手の充実でして、ついで朝鮮の石による築城技術でした。そこには、中国式軍法は含まれていません。日本軍の戦国末期の寄親寄子制に基ずいた軍団制は、外見上は律令制軍団と似ておりまして、問題となった欠点は寄親同士・寄子同士の「組織横断的な団結・統制技術」がなかったことにありました。これは、大軍を統率して大会戦を行うには多少の不都合がありましたが、豊富な実戦経験で補うことができました。その理由は、通信手段や機動手段が未発達であったために、主将の意志判断よりも前線の個々の武将の判断・決心が重要であったからです。

つまり、官僚的な硬直した陣形運動よりも、寄親寄子制による部隊構成の方が柔軟性に優れているという長所もあったのです。そして、これはナポレオンによって国民兵による散兵戦術が完成されるまでは、竜騎兵と軽装歩兵で構成された、おそらく世界唯一の統制のとれた散兵戦術で戦っていた文明社会の軍隊だったと思うのです。

このような軍隊の欠点は、経験ができなくなると基幹兵が急速に枯渇してしまい、教育して補充することが極めて困難なことです。これは、江戸初期に交流した軍学の数々が実効性に欠けるもであったことをみれば明らかです。その点、マニュアルで行動する官僚制の軍隊は、そのような事はありません。ただし、環境・条件の変化に柔軟に対応できず、将や士官の資質(判断力・決断力)に大きく依存するという欠陥もありますが・・・・・・。これは、現代日本のSATや自衛隊の防諜能力での体たらくが示しています。

さて、いよいよ信長・信玄・謙信時代の用兵を考えたいと思います。

戦国時代の軍制は「寄親寄子制」です。信長も基本的には変わりません。ただ少しだけ、他の戦国大名よりも専制が強いだけです。それが、制度上でどのように現れているかといいますと、信長の場合は、共産党ソ連軍が政治将校によって軍を統制されていたように、近習を使って寡頭制の軍団を統制していたことがあります。また唯一、「諸手抜き」を実行できた大名でもありました。信長も寄親寄子制を採っていますが、他の戦国大名と違うのは、自由に組み替えができると「思われていた」ことです。要するに地縁兵団ではなかったことです。少なくとも、幹部大名は新たな領国に簡単に赴任していったのです。

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第七項 日本刀

現在の主流である「日本刀は斬れない」という主張に対しての素朴な疑問は、では何故そのような無駄で重い武器(?)を二本も身に帯びていたのだろうかというものです。騎馬武者はその重量を馬に負担させられますが、歩兵は自身で運ばなければなりません。そして、九割方の兵士は徒歩だったことは『島原の乱図屏風/秋月郷土館』の右隻に描かれた黒田軍の様子をみればわかります。

同時に、日本刀が斬れなかったということは、幕末の新撰組の斬り合いから旧陸軍の戦歴やクーデターに明らかなのですが、一方で朝鮮役では日本刀の威力が恐れられていて、大量の日本刀が輸出された実績もあるのです。

この二つの相矛盾する事実から考えられることは、江戸四百年の泰平のうちに日本刀での人の斬り方は忘れ去られたということが一つ。もう一つは、科学的だと思われている軍忠状を集計した結果の解釈が間違っているのではないかということが一つ。さらに一つは刀鍛冶の技量が落ちたことが考えられます。

最初の、「忘れられた」ということは、なぜ取り戻せないのかという問題も惹き起します。

どうも、戦場の甲冑剣法と素肌剣法は違うようですし、その素肌剣法と道場剣法も異なるようです。さらに、道場剣法とスポーツ剣道もまた違うような気がします。これを弓矢に置き換えますと、現代の弓道のような悠長な所作でなければ的に中らないのであったならば、とても戦場での役にはたちません。と、すると。戦場での弓術は頗る命中率の悪いものだったのでしょうか。そのように見做しますと、弓矢が鉄炮に戦場から駆逐された理由も解るような気がします。それどころか、速射性を優先したとすれば、その命中率の悪さから長柄鑓にも駆逐されたことにもなります。

天文廿一年(1552)の三ノ山赤塚合戦では、「敵あひ(との隔たりが)五・六けん(間)隔て候時、究竟の射手共、互いに矢をはな(放)つところ」とありますから、9〜11m程度での射撃です。どうも、弓歩兵による楯突戦というのも足軽が誕生するまでの一時的な戦法であったように思えます。つまり、日本の合戦では互いに敵を射竦めることができる程の弓歩兵を集めることができなかったのではないのかと疑うわけです。

ところで、日本刀の方ですが、呪術的な意味を考えなければ中元小者にいたるまで身に帯びています。『武田信玄配陣図屏風/富山県個人蔵』では、工兵ともいうべき鋤・鍬を担ぐ黒鍬者(組)が四人一組で二班が従っているのですが、彼等さえも刀を一本差しています。武家では子供でさえ身に帯びています。

兵器としての日本刀に疑問を投げかけたのは山本七平氏です。他には、鈴木真哉氏や矢切止夫氏がおられます。

その主要な論点は、

  1. 「日本刀は、柄の部分に構造的な弱さがある(茎が短く、目釘一本で支えている)ことから、耐久性において全く劣る」『私の中の日本軍』
  2. 「刀身自体の強度も、いわゆる胴太貫クラスでないと不足で、ふつうの刀ではまともに打ち込んだりすると、曲がってしまいます。ある意味、木刀よりも強度がありません」『私の中の日本軍』
  3. 「刀身の反りは、源平時代の太刀を除くと薙ぐにもまっすぐ打ち下ろして食い込ませるにも不足で、実質直刀と変わるところがありません」『私の中の日本軍』
  4. 「武士は、むしろ指揮刀ないし咄嗟の護身用として帯刀していた様子です。(中略)白兵戦では、”槍一筋”などと云われて、槍・薙刀が主要兵器だったようです」『刀と首取り』鈴木眞哉
  5. 「(朝鮮征伐の際の日本兵の)先頭の足軽はみな裸身で二刀を両手で手にもちあげ、飛来する矢をそれで叩き切って進撃している。(中略)けやきや樫の八分か一寸厚味の板楯しかなかったので、とても重く持って進めず刀は矢払いに用いられていたものらしい」『日本意外史』矢切止夫
  6. 「鎧の脇の下とか背と首筋のあきとか、狙える個所は限定されていて、その間隙を仕止めねばならないが、そこは突く位の間隔しか空いてなく、とても斬って掛れはしない」『日本意外史』矢切止夫
  7. 「刀の場合は鍔元から切先までは六十cmか七十cm(であって鑓・長刀に対して不利)」『日本意外史』矢切止夫

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第九項 兵站

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