<弓矢について考える>     (2007.8.27)

 

 先に、信長の長柄鑓は弓矢の代替物ではないかという疑問を提起しましたので、ここでは弓矢の戦闘について考えてみることにします。

清水・鈴木道之助氏の研究(1974)によると、竹の伝来は縄文後期まで遡れるそうですが、『戦争の考古学』の佐原真氏は、「果たして篠竹はどうか」と問題視されています。 この篠竹は女竹の一種でよく河川の堤防に自生していて表皮はつやがなく節間は長い。良い篠竹の生える山というのは、うっそうとした日当たりの悪い藪が多いそうです。竹笛に使われるが独特の味わいがあるので籠に使われています。 ところで、矢柄=箆に使われる矢竹の場合は直径が2cmまでで節が低いのが特徴で、高さ3〜5mで通直な稈であるため弓矢、筆の軸、建築などに使われていますが、これも何時頃伝来したのかも不明です。篠竹でも箆にならないことはありませんが、矢竹に比べて節の高いことは空気抵抗が大きく矢の精度や飛距離を低下させます。

佐原真氏は、弥生中期の高地性集落の成立期でもある石器から鉄器への移行時期には、本来なら次第に石鏃が少なくなるはずなのに、逆に極めて大量に増加していだけでなく、同時に他の石製武器も増加したうえ狩猟具から武器に変質し、突如として銅鏃・鉄鏃の重さに匹敵する、深く突き刺さる形式の矢が出現したといいます。そして、黒曜石製の石鏃の矢の方が、鉄製の矢よりも25%も貫通力にまさっていたといいます。要するに、貴重な鉄鏃に代わる鏃として石鏃が増加したことは、部族国家間の戦争が激化したことを窺わせます。但し、甲冑を着れば状況はまったく変わりますから、この時代に貴重品で高価な甲冑が少なかったにも関わらず、部族大衆が大量に動員された総力戦であったように思えます。これは、部族長ら少数の刀剣・矛を持った白兵戦士と掻楯の陰に多数の弓兵が戦場にいたことを思わせます。

ここで重要なことは、我が国では神代の昔から「戦争の主力は弓矢」であったのではないかということです。

閉話休題

考古学者はみな揃って「矢は軽いほど遠くに飛ぶ」といわれます。たとえば、小林謙一氏の『古代史発掘』、松木武彦氏の『人はなぜ戦うのか』でも、軽ければ射程距離は伸びると書かれていますし、『戦争の考古学』の佐原真氏も「軽い矢の方が遠くへ飛ぶのです。重い矢は深くつきささるのです」と書かれます。ところが、「矢は重いほど遠くに飛ぶ?小さくて重い鏃ほど大きな初速を与えられ、空気抵抗も少なくなるから射距離は伸びる。その証拠に、ピンポン球とゴルフボールを同じ力で投げると遠くに飛ぶのはゴルフボールだ。弾頭の威力は一般に初速の二乗と重量の積に比例する。劣化ウラン弾が用いられるのは、劣化ウランの比重が鉄の2.4倍もあるからである」と主張する人もいます。この主張のどこが間違っているのでしょうか?

答えは、エネルギー保存の法則に反しているということです。考えてみてください。弓を20kgの力で60cm弦を右に引き、そして弓を左に押したとします。そのエネルギーの二分の一で矢は飛んで行くわけですから、全くロスも抵抗もなければ、矢の重さが20gであったならば、300mの飛距離が得られるはずです。註−19 同様に、矢の重さが60g註−20 であったならば、100mの飛距離註−21 になるはずです。矢の重量と飛距離の双方が増大するには、弓の張力が増えなければなりません。・・・・・・ロケットで宇宙へ行くのに積荷が多ければ多いほど遠くへ行けると考える人はいないでしょう。

つまり、このような主張の誤解がどこから始まっているかといえば、それは、「鏃が重くなっても初速が変わらない」というところにあります。確かに、初速が変わらないのであれば威力が増すのは当然です。だからといって、初速が同じならば重量が重い方が威力・射程距離が大きいと短絡すべきではありません。弾丸重量が同じでも初速が変わらないということは、使用火薬量を増加させているからですし、弓の場合にはより剛弓を使用していることになります。

騙されてはいけません。つまり、先の間違いは「同じ強度の弓」を前提にしているにも関わらず、初速が変わらない(減少しない)という在り得ないことを前提にしているからなのです。・・・・・・しかし、このような議論が堂々と協会員・学会員によってネット上で展開されている現実もあるのです。 

註−19  J(ジュール)=矢弾の初速の二乗×矢弾の重量÷2、 昭和十三年に曽我正康氏が18gという軽い矢を使い約385m飛ばした記録がある。  註−20 戦国時代の一般的な矢の重量は50〜70gの範囲であったものと考えられています。 註−21 

因みに、ピンポン球とゴルフボールの場合は、ピンポン球の重量が空気抵抗の影響を受けるほど少なかった。即ち、ピンポン球は軽すぎたということです。重いものと軽いものはどちらが速く落ちるかを明らかにしたのは、ピサの斜塔から鉄球と木球を落としたイタリアのガリレオ=ガリレイです。では、劣化ウラン弾の場合はどうでしょう。これは、それ以前の弾頭と標的の破壊原理が違います。それまでは、硬く尖った弾頭で敵の装甲を切り裂き刺し貫くことを意図していましたが、劣化ウラン弾は「塑性流動」といって、1200m/s以上で着弾したときに標的の装甲と弾体は流体化して相互侵食を起こすのです。その結果、弾体直径の数倍の穴を開けます。文字通り身を削って装甲に穴を開けるのです。そのため、毎秒1200mで着弾しなければ効力を発揮できません。弓はもちろんのこと第二次大戦当時の戦車砲などで撃ったのでは、弾が硬すぎて威力を発揮できないのです。なぜなら、敵の装甲に中ったら弾の方が粉々に砕け散ってしまうからです。もしかすると、水面に当たっても弾体が砕けてしまうかも?・・・。

「矢は軽いほど遠くに飛ぶ」事例には、森俊男氏が『弓矢の威力/戦乱南北朝』で、琵琶湖近くで行われる射流しの大会での成年男子の優勝は250m前後飛ばしており、明治以降の最長飛距離は、18gという軽い矢を使って昭和十三年に曽我正康氏が約385m飛ばした記録があることを紹介しています。一般的な矢の重量は50〜70gの範囲であったものと考えられています。

鏃が軽い矢の射程距離が伸びる理由には、スキーのジャンプ競技と同じ理屈があるのです。ジャンパーが踏み切った瞬間から着地までは、実際にはただひたすら落下し続けているのですが、飛行時間を延ばすためにジャンパーは履いているスキー板の爪先を持ち上げて空気抵抗を利用して空気に乗り続けて滑空する努力をするのです。同様に、弓矢の飛距離を延ばすには、矢の弾道の頂点から落下しはじめてからの矢の姿勢がスキー板と同じ傾きを持つ必要があるわけです。つまり、鏃が真直ぐ標的に向かうよりも、筈(ハズ)側を低くして箆(ヤガラ)全体で空気に乗るわけです。これは、矢の重心を後方(筈側)に移動させることですから、鏃を軽くすることが必要になるわけです。重い矢鏃では遠くへ飛ばすことは不利なのです。もちろん、矢はいつまでもその姿勢をとり続けるわけではありません、やがて鏃が的を向いて突き刺さるわけです。と言うことは、遠矢を射るために山なりに射た放物線の頂点を過ぎて地面に向かう辺りでは、矢は刺さらないということです。これは、幔幕にはそれなりの効果があることを想像させますが、実験しなければ分りません。近くから幕を射て矢が貫通することを証明した人はいますが、遠矢についての効果を検証したデータはありません。

さて、もう一度弓矢での戦いに戻ります。石鏃の大量増加についてです。

佐原真・田辺昭三の両氏は、『日本の考古学3』で「凹基式・平基式石鏃と凸基式石鏃の基本的な差異は、重量と先端角度にある。凹・平基式の石鏃は扁平で3cm未満と短く2gをこえるものはない。これに対して凸基式の石鏃は重量・全長ともに前者をしのぎ、中には5gをこすものさえあり、先端角度は鋭く突き刺さるにふさわしい形態を備えている」とされていまして、弥生中期の高地性集落である紫雲出山から大量出土した石鏃の場合は、形状判定可能な283個のうち平基式・凹基式が87%を占めていたそうです。確かに石鏃が大量に増加しているのですが、威力の少ない鏃の方が圧倒的に多いのです。

『古代の王者と国造・日本史16』の原島礼二氏も、「石製利器は弥生時代後期の短期間に、全国ほとんど全ての地域から姿を消し、鉄器が広く使われるようになった。この生産用具の大変革は、どの特定の地域をとってみても画一的にすすめられており、ある村や農家ではその後も長く石製利器を使い続けたということがないようだと書かれています。二、三世紀頃には「弁辰(朝鮮半島南部)や倭が競ってこれを取得した」と『魏志東夷伝』にも書かれているように、材料を入手して日本国内での鉄器加工が開始されていたと考えられていますが、弥生時代の終わり頃には、九州から東北地方に至るまで鉄器が普及していることを考えますと、すでに日本での鉄の生産そのものが始まっていた可能性もあるのです。

弥生時代に、大陸から鉄の文化が伝わると、道具の世界ではまず縦斧が、おくれて 横斧が石斧から鉄斧へと置き換えられ、弥生時代の終わり頃には石器は全く消え去り、完全な鉄器の時代となったようですが、『各地における石器から鉄器への転換』の下條信行氏は、「石器は突然鉄器にかわったのではなく段階的に変わるのである。石斧は機能と大きさによって、小形片刃石斧(扁平片刃石斧)、大形片刃石斧(扁平片刃石斧、柱状片刃石斧)、伐採石斧に三分類でき、小形片刃石斧から大形片刃石斧へ、そして伐採石斧へと順を踏んで消滅して行く。つまり、小形の石斧が早く無くなり、大形の石斧が後まで残ったのである。言い換えれば、制作が簡単なものが早く無くなり、厄介なものほど後まで残るのである。その理由は、鉄の供給を海外に依存せざるを得なかったが故に、技術的・量的な限界があったために、小形で簡単な石斧から順次鉄器化されたのである。鉄器化されても石斧が残存した場合、石斧に形式的機能的に顕著な後退現象が生じ、その弛緩性には著しいものがある」という見解を述べておられます。

専門家ではありませんし、二人の専門家の時間の長さについては不明ですので、突然と段階的のニュアンスについては、後日を期します。

原島礼二氏は、石製利器から鉄器への一斉転換の理由について、それを需要者側から考えてみると、どのように使うかを決めるのが、一家族や一集落・一氏族という小さな単位ではなく、四世紀には既に「同族連合体」をつくりあげていた「部族」であったからだとされています。部族は運命共同体ですから、得られた生産物は部族全体の所有物とされ、生活に必要なもの以外は部族の共有財産にされていたに違いないというわけです。そのような部族が、鉄器の力を評価し、その入手と加工に確信を持ちえたときに始めて鉄器は石製利器を駆逐したに違いないというのです。そして、その背景には、稲作があり、稲作が部族を単位とするような集団労働を必要としていたために、人々の全て生活を規制し、同時に共有・共用していたことが、土器などの形式の統一性から窺えるといわれます。だから、貴重な鉄製農工具や武器なども、部族が管理し共同使用であり私有財産ではなかったとされ、それが短期間に一斉に転換した理由だとされるわけです。

これは、司馬遼太郎が『この国のかたち』で、「鉄を入手しうる者が豪族(大王)になった。それまで”私”として稲作をしていた者は、豪族から使役される者として、それに隷属するようになった。これがほぼ三世紀あたりであろう。その豪族たちが、ありあまる土木能力を、古墳の築造にむけるようになる。古墳時代(三世紀〜七世紀まで)がはじまるのである」という認識は誤りであるということを意味します。

原島礼二氏によると、四世紀に瀬戸内以西で最初に古墳をつくりだした各地の勢力は、古墳間の距離は数〜10数kmで、意外に近くにあり、兵庫の五色塚の勢力圏は約40kmの距離を越えることはありえないとされます。また、京都府の南には、四世紀に作られた大小の古墳が集中しているが、それぞれのグループの間は10km以下しか離れておらず、大塚山をつくった大勢力といえども、他に大きな古墳をつくらせないようにできた範囲は、その北限が10km以下だとみてよく、南限もあわせて考えても、その勢力圏はせいぜい南北10kmぐらいのものだったといってよいとも言われます。五世紀になって瀬戸内以西で200mに近い巨墳をつくった勢力でさえも、その周辺の勢力に対して大古墳の造営を禁圧できた範囲は、極めて狭かったとみてよいとも言われます。さらに、奈良盆地には三つの地域(広陵町、天理市・桜井市)に巨大な古墳の一群が集中しているが、ここでもその勢力圏は意外に狭く、古墳の大小の差がそのまま、大古墳勢力による支配を示すものではないらしいのです。四世紀前半に巨大な古墳をつくった奈良盆地東南部の勢力を制服することなく、北部でも巨大古墳をつくっており、西部でも他の二勢力を征服することなく巨大古墳をつくっていて、奈良盆地の三大勢力は肩を並べているのです。纏向遺跡の発掘調査結果が示しているように、むしろ南関東から瀬戸内・山陰におよぶ諸勢力註−22 が、その地域の人々を派遣して日本列島をあげて共同事業として造営されたことを意味するようだとされています。 

註−22 搬入土器の出身地割合は、関東系:53,001東海系:493,001近江系:53,001北陸・山陰系:173,001河内系:103,001紀伊系:13,001吉備系:73,001播磨系:33,001西部瀬戸内海系:33,002

このように見てみますと、一方では武器の増大環濠集落高地性集落などの戦争の激化を表す兆候があるのに、その一方では古墳は王権による民衆支配を意味していないらしくもあるのですが、身分の差別は魏志倭人伝註−23 に明確にしるされているという不思議な状態であることになります。当時の日本では誰が誰と戦っていたのでしょうか。

 註−23 「下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す」

古墳時代には、互いに征服したわけでもなければ、征服されたわけでもない関係で集合した豪族たちの率いる集団が、烏合の衆のようでありながら、倭の大軍として共同事業として朝鮮半島で軍事行動をしているのです。何とも不思議な光景です。これは、まるで後世に秀吉の強い意志だけで、諸大名が少なくとも半分は嫌々ながら朝鮮に押し渡ったときと似ているようにも思えますし、昭和の日本人が山本七兵氏のいわれる「空気」によって支那事変から太平洋戦争へと驀進していったのにも似ているように思えます。

そうだとしますと、日本人は既に古墳時代の昔から一億総無責任な「日本教」という「空気システム」によって行動してきたことになります。つまり、日本人は古代から変わらず「日本部族」意識のままであって、部族は運命共同体ですから、得られたものは部族全体の所有物とされ、生活に必要なもの以外は部族の共有財産富の再配分が行われるわけです。そして、そこでは長老など指導者が真っ先に良い部分や多くを優先的にとることを受け入れる慣習なども普通にあります。運命共同体では内と外が峻別され二重規範があります。そして、敬虔という美徳を持っているのですが、それは反面で滅私奉公(無条件の献身)や既存の規範・慣習・前例は、悠久不変のものと感じる人間をつくります。

問題は、一面では武力で征服して差別し隷属を強要しているのですが、また一面では自主的な隷属の甘受に依存しているようでもあり、多くの不平不満を持ち反抗しながらも、徹底的に戦って独立を目指すということが、我国にはなさそうなことです。極めて曖昧な征服と統治なのです。(工事中)

ところで、石鏃については、石斧にみられた形式的機能的な後退現象が生じておらず、逆に兵器化して大量に増加しているということは、弓矢による戦が主流になったのに対して、石斧は「戦斧化」しなかったわけですから、大衆は「白兵戦には」駆り出されなかったと見てもよいのかもしれません。ただし、弓矢や礫による制圧戦には駆り出されています。

日本には突撃騎兵は存在しませんでしたから、決戦兵力は鎧兜に身を固めた貴族歩兵であったと考えられます。白兵器は矛と剣でしょう。鎧冑が堅固であれば戦斧などが発達するはずですが、日本ではあまり使われなかったことからすると、基本的には軽武装が続いたものと思われます。何故なら、騎射が盛んであった時代の大鎧でさえ強弓に裏を掻かれないためには、鎧を二重にももとったというからです。ですから、矛の戈や戟は発達しませんでした。戈は戦車戦で発達した武器ですし、戟は対重騎兵の武器として発達したものだからです。

本家の中国では、隋末の動乱で隋の重騎兵中心の軍隊が、機動力と柔軟性に優れた反乱軍に破られたため、長らく栄えた重騎兵が廃れて軽騎兵が唐の軍隊の中心となるのですが、その結果騎兵の突撃力が低下したことで歩兵が重要性を回復しました。そして、唐軍の戦術は、弓兵や弩兵が展開した後ろに歩兵が白兵戦用の「」を持って密集し、敵正面を強靱な防御力で拘束しました。その上で、歩兵の背後に控える機動力に富んだ軽騎兵を臨機に投入して、敵軍を崩す戦法が大陸に定着し、以後の大陸ではその原則は変わらなかったようです。

ここで、本家中国でも戈や戟が廃れて矛から発展した槍が長柄武器の主流になります。槍は矛に比べて刺突能力に優れてるからです。日本の古代では、大陸伝来の矛・戈・戟も使用されたでしょうが、騎兵も戦車も敵にしませんでしたから戈や戟は早くに衰退したものと思います。

  1. 後漢書では「其の兵、矛・・木弓・竹矢あり。或は骨を以て鏃と為す」と記している。
  2. 魏志では「兵、矛・・木弓を用う、木弓下短くして上長くす。竹箭或は鉄鏃或は骨鏃」とあるが、軍事組織・専門的兵士集団が存在していたようには思えないと言われている。
  3. 晋書になると、女王国の兵器体系は「(矛が消え)刀・・(木弓が消え)弓箭あり、鉄を以て鏃と為す(或は骨鏃という文言が消えた)」と変化する。
  4. 紀の神武東征に見られる兵器は、弓矢・・太刀(頭槌太刀・カブラツチタチ)・石槌(石斧)や矛である。
  5. 倭が朝鮮半島の加羅地方を拠点に朝鮮の政治抗争に足を踏み入れ、高句麗と激しい戦いを交えた。
  6. 雄略朝での朝日郎(アサケノイラツコ)征討では、朝日郎の矢は強力で近づけなかったが、副将であった物部目連が自ら太刀をとり部下の物部大斧手に大楯(置楯か?)を持たせ、二重に鎧を着せて立ち向かったが、朝日郎の矢はそれらをも貫いて一寸も大斧手の肉に刺さった。しかし、目連はその後から躍り出て朝日郎を斬って乱を平定したという。

これをみると、日本では弓矢を主兵器として離れて敵を制圧して敵が閉口して降参するか、撤退するのを待ったのだと考えます。軍事専門家などは、「主兵器である弓矢で敵に致命傷を与えて勝ちを決する戦法を採っていた」とするようですが、日露戦争以降の大砲列や現代アメリカ軍の戦術爆撃を以てしても、陸上では決戦兵力にはならないことは明白なことですから、弓矢をもって決戦兵種とすることには賛成できません。

弓矢が決戦兵種となるのは、健児に頼るようになって騎射弓兵が軍の主流になって、至近距離から敵を射撃するようになってからのことでしょう。・・・ですから、それでも敵が退らない時には手楯と手矛か剣で接近戦を行ことになったものと思います。具体的には、木の置楯を並べて掩護とし、その陰から弓兵が矢軍を挑み、楯を少しずつ前進させて、それでも敵が敗走しなければ貴族とその従兵が突撃兵として突進したものと考えます。ただし、日本では手楯を持っての戦いが実際に行われたかかどうかは疑問です。ギリシャやローマと違って投槍も主要な戦術にはならなかったようだからです。

また、秦の始皇帝の兵馬俑をみると、大陸では古代から引き続いて野戦においても弩が重要な飛び道具として使用され続けていますが、日本では征夷戦において柵の防御兵器としては活躍したようですが、野戦の歩兵の兵器として活躍した話は聞きません。弩は一斉射撃が重視されますが、発射に時間がかかるという欠点があるため、数列交替で射撃するという戦法が行われた可能性があります。大陸では早くから帝政が行われ、官僚制が発達・定着していますから、ある意味では近代的な軍隊の運用が可能であったかも知れません。現に、孫子の古代からそれが求められていて、法家のイデオロギーを全面的に取り入れた秦が統一を果たしているからです。

註 ヤマト朝廷には楯縫部がありますから、手楯が使われたことは間違いないでしょうが、歩兵一般が使用したとは思えません。剣を主兵器とする一部高級将校の武具なのかもしれません。絵巻物にみられる異族が海から来寇する場合には手楯を携えているようです。

四世紀末から五世紀にかけての古墳に埋葬される武器は著しく変化し、副葬品に武器の比重が増加するうち、刀剣数百本などと大量になっており、白兵器の主流が刀剣であったことがわかります。この時代になると、武器は祭器としてではなく、武器としての価値において埋葬されるようになるわけですが、このことは埋葬された剣などのがみな貸与品として、一族を武装させたたらしくも思えます。つまり、小生は、刀剣は未だ一般百姓の自備兵器にはなっていないと考えます。但し、刀子は生活用品ですから別です。これらのことからすると、矛は雑兵の持つ武器だったものと思えます。

面白いのは、全国の豪族の武力が一様に拡充したのでも革新進されたのでもなく、畿内のヤマト政権の軍事力だけが突出して飛躍的に強大になり、最も大陸に近く先進技術を導入できたはずの北部九州など西国に居住した首長の武力とのあいだに隔絶した武力格差が生じていたらしいことです。武器の性能や数量に隔絶した違いは見られませんから、これは恐らくソフトの面での格差だったのではないかと愚考します。なぜなら武器の性能や数量の差というものが勝敗に及ぼす影響が微々たるものであることは、ランチェスターの第二法則で明らかですからです。 詳細は附録二、桶狭間合戦の兵力の第五項、ランチェスターの法則からみた兵力を参照してください。 

では、そのソフトとは何かといいますと、宗教の統一と官僚制です。つまり、人々を組織化する技術です。宗教の統一といっても、それぞれの先祖神に共通するというか、先祖神をまとめる先祖神の設定を提示し、それが諸族に受け入れられたというだけのことなのですが。

大和政権も、当初は奈良盆地辺に本拠をもつ有力豪族の連合政権的な性格が強かったのが、五世紀になってその大王位はが皇室のなかで世襲されるようになってはいたらしいといいます。また、五世紀後半になると原初的な官司が成立してきたといわれています。それでも、ヤマト朝廷の軍隊は、有力氏族が組織する軍事集団を寄せ集めた一種の連合軍であり、これとは別に大王が直率する親衛軍が成立していたとは考えられていません。この雄略朝の頃の戦いは、「中央の政変に全国から兵力が動員されることはなく、その兵力は畿内を中心とした、皇族・豪族配下の家産的なものであったと考えられる」と大林太良氏は『戦』に書きます。

『古代国家と軍隊』の笹山晴生氏は、大和政権が朝鮮などの戦闘に兵士を動員する場合には、吉備臣なり筑紫君なりというその地方の首長層を介してなされるのであり、軍隊の編成や統率は首長層がすべて行なっていたものと考えられるとされています。

  1. 雄略朝以降と推定される古墳後期の出土兵器の中で、短甲はまったく姿を消し挂甲が頻繁に出土します。
  2. 歩兵も身体を動かすに便利なように略式の挂甲を着用したらしい。
  3. ヤマト朝廷軍は半島で騎兵に敗れたのにも関わらず、依然として歩兵を主力にせざるを得なかった
  4. 白村江出の敗戦にも関わらず、大型軍艦を建造せず水軍も維新しなかった
  5. 朝廷では、行幸護衛・進年祝賀観兵式あるいは新羅使節歓迎の儀仗のために、しきりに畿内諸国より騎兵を徴募して臨時に騎兵隊を編成しており、その数は百数十騎から一千騎にもおよんだ。

日本馬の馬格改良・増産は一朝一夕にはいかず、騎兵を育成するのが困難であったことなどにより、相対的に維持費の安い歩兵に国防を依存するしかなかったのだろうと愚考します。

ところで、律令国家の軍制を定めた軍防令は次のような特徴があります。

  1. 隊伍条「弓馬が得意な者を騎兵とし、それ以外を歩兵とすること
  2. 備戎具条「各人に、弓一張、弓弦袋一口、副弦(ソエツル)二条、征箭五十隻、胡箙(ヤナグイ)一具、大刀一口、刀子一枚、砥石一枚
  3. 軍団条「軍団は、一隊ごとに、強壮な人二人を選抜して弩手に充てること
  4. 衛士上下条「衛士は半分に分けて、(中略)下日(非番の日)ごとに、当府(衛士府)で弓馬を教習させ、を用い、槍(ホコ)を弄(ト)り、また(オオユミ)の発射操作を習熟させ、抛(投)石を練習させること
  5. 私家鼓鉦条「個人の家には、鼓鉦(くしょう、こしょう、皮鼓と金鼓)、弩、牟(む、二丈・約5.9mの矛)、【矛肖】(しゃく、馬上で用いる一丈二尺・約3.55mの矛)、(中略)があってはならない

ここには、非常な矛盾があります。一方では兵士全員に弓箭を自備させて弓矢を日本軍団の主力としておきながら、本音では世界(唐)標準の騎兵・矛兵・弩兵を揃えたいという希望があるのです。律令軍制の軍団制というものは、武器公収兵器私自備という矛盾した思考に立っています。

軍団兵は在郷軍人(アメリカの州兵)のようなものですから、消耗には対応できますが兵力としては期待できません。そして、この背景には天皇が歴史的に天皇一族としての兵力を持っていなかったことがあります。大和朝廷というのは畿内豪族の覇権争いを勝ち抜いてきた政治集団などではないように小生には思えます。何かもっと異なった信仰的な感情と分離していないために解り難くなっているように感じます。

天皇をはじめ皇族はそれぞれ個人的な私兵=護衛兵を持っていましたが、天皇が天皇一族に忠誠を誓う直轄軍などというものを持った歴史はないのです。即ち、日本では宗教と軍事はその歴史の始めから分離しているためです。つまり、後の官僚制と同じでして、天皇という位に軍隊が付属しているのであって、天皇という個人的カリスマに軍隊が従うわけではないのです。このことを、明確に示した事件が橘奈良麻呂の変や恵美押勝の乱です。奈良麻呂は皇太后宮にあった内印(天皇御璽)を奪取をして藤原豊成を皇位にたてる計画でしたし、押勝も内印によって上皇弾劾状を出し、駅鈴によって三関を越えようとしています。内印や駅鈴がなければ軍隊は動かせなかったのです。これは、橘奈良麻呂や恵美押勝が律令国家に生まれ育ったからそのような行動様式を示したのではなく、上古からの日本人に備わった行動様式なのだと愚考します。

ですから、律令国家が完成してからも、天皇は自らの権力を守るために公式の律令軍制の中に「私的な令外官の私兵」を組織しようとし続けるのです。歴代の天皇がそれぞれに自分だけのための近衛兵を必要としたのです。そのため、律令軍制の帝都防衛体制は極めて複雑怪奇な歴史を持っています。野田嶺志氏の『防人と衛士』によりますと、帝都および王宮を護る武力が五衛府であるが、そこに配備された兵士は、六〜七世紀に諸地域の政治集団の武力の後身の「兵衛」、中央豪族軍の後身の「門部」、古くから近衛兵的な役割を担ってきた「物部」、それに新設されて諸国軍団から集められた「衛士」なのですが、この他にも武装することを強制された持統・文武期の官人たちや行幸儀衛などに臨時に徴集される「諸国騎兵」・「渡来系集団」などの武力や八世紀前半に現れた「帯剣寮」、「授刀舎人寮」などの新置の軍事組織があり、七世紀後半から八世紀前半の帝都・王宮における武力は実に複雑多岐だといいます。

問題なのは、律令制以前の組織を多分に儀仗兵的な無意味なものとしてしまっても、依然として廃止もせずに存続させていくことです。屋上屋根を掛けていくのです。これは後の幕府制なども同様で、実質は無くなろうとも名前とともに建て前だけは生きつづけるのです。将に日本教なのでしょう。

このような歴史を顧みますと、ヤマト朝廷は「軍隊」を必要悪だと思っているようです。必要の第一は外国から国体を護持するためで、第二は蕃夷を平定して貢をさせるためです。悪の第一は叛乱です。これを最も恐れています。何しろ、天皇には制度的に直率する近衛兵がいないのですから。

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