<伊勢湾海運と水軍について考える> (2007.8.5)
当時の伊勢湾での海上通運は盛んであったでしょうが、水軍の発生は聞きません。後世、漁業や通商を主とした人々が海賊行為を働いたことをもって、如何にも陸の戦国大名に匹敵するかのような海賊大名が伊勢湾にも存在したかのように考える人がいるかも知れませんが、それは飛躍しすぎた見方だと小生には思えます。
知多半島では大野水軍が有名ですが、彼等が海戦をした話はありません。船を使って生計を立てる海民というよりも商人から利益を吸い上げることが主体の領主であったというに過ぎないようです。何故なら、大野佐治氏にしてもその根拠地は陸上にあり、陸上からの攻撃には頗る脆弱であって、海上に逃れては独立を保てないからです。これは、瀬戸内海が多島海であるのと立地条件が違っておりまして、倭寇が猛威を奮えたのも官憲の手が及ばない海外の諸島に根拠地を持てたというのと違います。つまり、伊勢湾には聖域註 がないのです。
註 聖域とは敵対者が逃げ込んで立て籠もったり、そこを策源地にできるうえ、正規兵が容易に到達できないような場所をいいます。ですから、伊勢湾だけでなく日本ではゲリラ戦はおこっておりません。
伊勢湾ではそのような条件にあうところは伊勢志摩など、非常に少ないのです。木曾川河口などもそれに見合うように思えますが、あれは川の中州ですから、恒久的な根拠地としては大雨洪水に対して脆弱です。それでも、長嶋一向一揆などでは信長も攻めあぐみましたから、一見よさそうに見えますが、実際には長嶋城を根拠地にした海賊大名などは生まれませんでした。
荷之江鯏浦の服部左京助なども瀬戸内海賊を基準に考えれば、海賊のうちには入らないでしょう。単純に、戦争に際して領地の漁民の船を徴発したというだけのように思えます。何故なら、後の一向一揆においても信長に対抗しての海戦などを、ただの一度も起こしていないからです。つまり、彼等がおこなったのは、漁民や親派の商船を借りてのゲリラ「的」活動だけだったのです。
大野水軍・常滑水軍・師崎水軍・亀崎水軍(?)などが戦国史に登場して活躍しだすのは、信長が長嶋一向一揆を海上封鎖するために、広く伊勢湾沿岸から船舶・水夫を徴発したときからです………が、それも海戦に従事したとは聞きませんで、長嶋攻め以外では専ら軍需物資の海上輸送だけのようです。その長嶋攻めでも敵の兵船と交戦したわけではないらしく、専ら艦砲射撃をもって敵の砦楼を取り崩すことに終始したようです。
註 『信長公記』「信長公は、今島に陣を取り、川手からは大船を寄せて攻められた。(中略)このほか尾張の船が百艘も乗り入れて海上を隙間なく埋めた。(中略)この他伊勢の大船数百艘を乗り入れ、海上を隙間もなく埋め、大鳥居・篠橋にかけて大鉄砲で塀・矢倉を撃ち崩して攻めたので、両城の者どもは困惑して、お許しを請うて詫び言を申しあげた」
従って、伊勢湾では船舶が軍事利用されるのは、ほとんど輸送船としてであったように思えますから、兵船は発達しなかったものと思えます。つまり、使用されても海兵隊の揚陸艇のような役割であったと思われます。例えば、桶狭間合戦では服部左京助が「戻りざまに熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅の所より下り立て、町口へ火を懸け候はんと仕り候を」と『信長公記』が書いていますし、他にも長嶋一向一揆は、「小田御崎(コタノミサキ)の川口に舟を寄せて、一揆勢は舟から降り、堤に上がって、そこを確保している」というような具合です。つまり、戦国時代の伊勢湾で海戦が行われたことはないのです。
全て、海兵隊による上陸作戦と艦砲射撃もどきの攻撃に終始しています。そして、その最大の作戦が信長による長嶋一揆撲滅作戦であり、それに次ぐものが関ヶ原合戦に伴う九鬼嘉隆による伊勢湾沿岸への敵地略奪作戦でしかないのです。それ以外は、兵員や兵粮の輸送・機動に使役されたに過ぎません。その最も大規模なものが豊臣秀吉の小田原攻囲戦であり、徳川家康による大阪城攻囲戦でして、九鬼水軍と東軍(師崎の千賀氏など)の間に海戦などは起きませんでした。
それについて、知多半島の戦国時代の城砦の経歴について検証してみましょう。
- 先ずは、知多半島の代表的水軍である大野水軍を見てみます。大野城は宮山城ともいい、城主は尾張源氏の大野氏・一色氏・佐治氏四代と続きました。佐治氏は水野氏と知多半島を二分するほどの勢力であり、伊勢湾海上交通を掌握する大野衆佐治水軍が重要視される豪族です。四代目一成は信長の妹お市の末娘「小督の方」を正室に迎えていましたが、信長の死に際して秀吉に従わず織田・徳川軍に味方して滅亡しています。三万石であったといいます。天正十年(1582)の本能寺の変後、信長次男・信雄が尾張を領したとき、織田長益(信長の末弟、有楽斎)が大野谷(知多市南部と常滑市北部)を領し、大野城(常滑市)から大草に移すべく城を築き始めたのですが、長久手の合戦後に秀吉に仕えて摂津国味舌に移封されたため、この大草城は未完成のまま廃城になったといいます。これを見ますと、信長に重要視されたことは間違いないのですが、それは経済的なものであって水上軍事力ではなさそうです。因みに、後年、寛文十一年(1671)大野村の廻船は、知多郡内144艘のうち66艘を数えています。「寛文覚書(1670頃)」によりますと、大野村では家が755軒・人口3,402人で、酒造・鍛冶・木綿仲買・廻船業などを生業とする町場であったみたいです。西之口村も「寛文覚書」では、190軒・人口840人で、大野村に続く町を形成しておりで、大野村より数は少ないですが木綿買継問屋や鍛冶職人がいたもようです。
- 常滑城の水野監物は信長・信雄に仕えましたが、秀吉に信雄が追放されると、この城も廃城になりました。
- その他の城砦では、河和城は第三代戸田孫八郎守光が天正十七年(1585)若くして小田原の合戦において戦死したため廃城となった。富貴城は、長尾城の岩田氏が衰えると河和の戸田氏の城となって戸田孫右衛門が入ったようです。河和城主の当主を助けるため、城を改修して水野氏に備えたといいますが、戸田氏は今川方であったため、桶狭間の際、織田方の水野氏に攻略され廃城しています。長尾城は岩田氏の居城でした。現在も神社の神官は、岩田氏の末裔だそうです。天文十二年(1543)の水野氏の侵攻に城主岩田安広は、降り仏門に入り果貞と称しています。永禄三年(1560)桶狭間の戦いのときに今川方に与していたこの城は廃城となっています。
このように。知多半島の諸城砦は悉く廃棄されているのですが、だからと云ってその水軍(?)が他の武将の下に再編されたなどという話は聞きません。亀崎城は、水野信元が天文十二年(1543)に新海淳尚を攻めて宮津城を降し、稲生七郎左衛門政勝を亀崎水軍(?)の船奉行とし半田市亀崎町に築かせたものであり、海上警戒の重要拠点であったとされていますが、殆んど事績は明らかでありません。では、その主人であった緒川城の水野信元が水軍を持っていたかというとこれも疑問ですし、刈谷城も水軍を持っていたようにはみえません。このように、知多半島の水軍があったと思われる城砦は、一戦もせずにみな廃城になっていて、その水軍が他の武将に付属させられたわけでもなさそうです。ですから、知多半島には組織化された水軍などはなかったというしかないのです。
次に、伊勢湾西岸の状況を見てみましょう。
伊勢国は南北朝期に南朝方北畠氏が国司に任ぜられ、これに対抗して北朝足利氏は高師秋を、さらに仁木義長、土岐頼康をつぎつぎと守護に補任し、伊勢国では戦いが繰り返され、高氏・仁木氏・土岐氏らは没落して国司北畠氏のみが戦国時代にまで勢力を維持していました。それが戦国時代になると、南伊勢を北畠氏が領し、安濃郡長野を拠点とする長野氏、鈴鹿郡関・亀山に拠った関氏がそれぞれ勢力を振るい「伊勢三家」と称されています。この外に、三重郡千種城主の千種氏、河芸郡神戸城主の神戸氏、朝明郡萱生城主の春日部氏が「六人衆」と呼ばれて存在したうえ、北伊勢には四十八家と称される諸領主が割拠していました。それが次第に淘汰されて、北伊勢は関一党が、中伊勢は工藤長野一族が、そして南伊勢は北畠氏がそれぞれ覇を打ち立てるのですが、互いに戦いを繰り返していましたが、伊勢一国の統一はできませんでした。
つまり、伊勢湾西岸では海賊衆を組織して瀬戸内海の海賊大名といえるような勢力は生まれていなかったのです。そうこうしている内に、戦国時代の中期を過ぎるころ、尾張から出た織田信長がにわかに勢力を拡大し、永禄十年(1565)頃から伊勢統一に乗り出したため、群小海賊衆もその軍門に屈してしまい、瀬戸内海のような海賊を海賊衆として組織している暇がなかったわけなのです。
その結果、伊勢湾西岸はどのような状態であったかと云いますと、知多半島とは異なっていまして、伊勢大湊を始めとして各地に「公界」が誕生していました。宇治と山田では共に年寄衆による自治が行われていました。禁裏御料所であった桑名も「十楽の津」と言われた自由な商売を認めた都市で戦国大名の介入を許しませんでした。松坂も自由な商取引が認められ、科(トガ)人の逃げ込む場でありました。この内、大湊・桑名は天正以前の太平洋沿岸にある問丸でした。それが、戦国時代の一世紀半の間に、尾張の師崎・内海・野間・宮・墨俣・三河大浜(問丸あり)が港湾都市として発展した。これらは農村・農民の生活向上を基礎としたものです。
ここで、志摩海賊の一人で織田水軍の棟梁になった九鬼氏を見てみます。
永享年中(1429〜40)に尾張三河の海賊が、熊野灘の沿岸に略奪に来襲して、村人が家業を棄て山中にこもったとき、九鬼光長は軍船数隻をひきいてこれを撃退したといいます。三河大浜には熊野社があり、応永十六年(1409)の史料に熊野那智社の檀那が大浜にいたことが知られ、材木の産地である熊野から海運で木材が運ばれてきたとが考えられています。応永二十八年(1421)には、大浜一帯を支配する領主・和田氏から大浜称名寺(大浜御道場)に出された寄進状には「材木船公事」「惣材木事」とあり、河川上流の内陸部の木材や海運による遠隔地からの移入材が大浜に集積されていたことが窺えますから、これらの権利権益に関する「関銭」などの紛争があったものと思われます。
天文元年(1532)に一向一揆が国司北畠氏の居城を襲ったとき、九鬼浄隆はこれを潰滅させたり、林式部の討伐にも援軍を出すなどして勢力を伸張させています。しかし、志摩国は、神宮領・伊雑宮領など神領や醍醐寺三宝院領などが多く、その中から地侍が成長して此れを押領しており、室町時代末期から戦国時代にかけて、地勢が険しいこともあり、わずか二郡の土地に海の豪族が多数割拠していました。
『九鬼世系』では、小浜に小浜久太郎、楽島に安楽島越中守、浦に浦豊後守、千賀に千賀志摩、的矢に的矢次郎左衛門、安楽に三浦新助、甲賀に甲賀雅楽介、国府に国府内膳正、波切に九鬼弥五郎浄隆、越賀に越賀隼人(佐治隆俊)、和具に和具豊前、岩倉に田城左馬(九鬼澄隆)、鳥羽に鳥羽主水(橘宗忠)を挙げて、これを志摩十三人衆と呼んでいいますが、それぞれ城を構えていましたから、九鬼氏は彼等と対立することになりました。
『志摩軍記』によりますと、「磯部の地頭に担がれた紀州九鬼の右馬之允嘉隆は、国司北畠氏と結託して志摩二郡を下す御教書をもらい、同盟していた志摩十三地頭たちを攻撃し始め、鳥羽城主となって志摩一円を支配するに至った」と記します。ところが、永禄三年(1560)になりますと、九鬼氏を除いた十二地頭が連署した連判状をもって伊勢の国司北畠具教の助勢を受けることに成功して、嘉隆は田城を攻められて船で安濃津に逃れ、雌伏の時を過ごすことになります。そのうちに、織田信長の重臣であった滝川一益に助けを求めて信長の庇護を受けることになったようです。
このように、伊勢・志摩でも海賊衆は彼等自身で統一できずに、各自割拠したまま広域戦国大名となった信長の下に組み込まれてしまうわけですから、伊勢湾には組織化された海賊も水軍もなかったことが分かると思います。伊勢湾の海賊は瀬戸内とは違うのです。
現に、津島や熱田を支配していたはずの織田弾正忠家も長嶋一向一揆に際して必要に迫られて組織するまでは水軍などは持っていなかったのですから、例え、松平氏や今川義元が三河湾において最大の大浜湊を支配下においたにせよ、それをもって直ちに水軍を保持できたことには繋がらないと小生は考えるのです(2007.11.6) 。
<伊勢湾経済圏について考える> (2997,9.16)
この項は、橋場日月氏の『伊勢湾制圧・今川帝国の野望』橋場日月(歴史群像)を読んで、追加することにしました。氏の論文の基礎になっている伊勢湾の地理的・気象的条件には疑義があるからです。
最も大きな気象条件は風向なのですが、氏は武本行正氏の『伊勢湾地域の海況』という論文から、夏から秋にかけては南東の風が強く吹くとされています。しかし、武本氏の論文はそのように書いているとは思えません。氏の同論文は、氏が自ら要約されていますように、伊勢湾の環境問題をテーマに潮流の状況を研究されたものです。 そこでは、「伊勢湾は東京湾と並んで汚濁の進んだ海域で、その原因としては、湾口が狭く湾中央が盆状にへこんだ閉鎖的な構造のために外洋との海水交換が悪いこと、水平規模が約50kmであるのに比べて平均水深が約20mと極端に浅水深であること、周辺に名古屋などの大都市を抱え汚濁負荷が大きいことが考えられる。そこで、大学独自の数値シミュレータを開発し、計算方法や乱れを表現するモデルなどの研究を進めること、また伊勢湾の流れ場の解析を実施して結果を公表してゆくことには意義が有ると考えた。現在、千葉教授と研究を進めているところである」とされておられます。 つまり、伊勢湾上の風向・風力の研究などではないということです。
そこで、代わりに風向・風力について記載している論文として、根義彦・中村省吾・王亜威の三氏による『伊勢湾周辺の風の変動特性/関三重大学生物資源学部紀要28巻』を参照しますと、「勢湾周辺の風の分布について日変動と季節変動に注目して調べた。風のデータは気象庁のアメダスによる1987−1996年間のものである。北西の季節風が11月から翌年の4月まで卓越する。また、北西の季節風は伊勢湾周辺で特に強く、風下に行くにしたがって強まることが示された。北西の季節風は5月に急に弱まり、夏季には伊勢湾上で発散する南からの海風が卓越する。また、北西の季節風と南からの海風には日変化が存在し、北西の季節風は昼間に相対的に強く夜間に弱いことが示された。一方、伊勢湾の北域と東域に吹き込む夏の海風は昼間にとりわけ強く、伊勢湾の西域に吹き込む海風は吹く時間が長く強さのピークがない」 と、報告されておられます。
つまり、伊勢湾海上の風向風力は、
- 五月〜七月は北西風が微弱になり南風、南東風への転換期で風力は微弱。
- 八月は南東風である。
- 九月は北西風への転換期で風力は微弱である。
- 十月から翌年の四月までは北西の季節風が卓越する。
ということになると思います。
- 因みに、名古屋の夏は暑いのです。それは夏季の表層水温と陸地の日最低気温の差がほとんどないことによって、陸風が吹かないことで熱帯夜を促進するからだといいます。・・・風が吹く条件が乏しいということです。
ですから、伊勢湾での六月には、南東の風が優越しはしますが、季節風といえるような強い風が長い期間吹いているわけではないようなのです。つまり、もし風が航行の主要な要因であるならば?航行の妨げになるような北西の強力な季節風がないことが、この時期が選ばれた理由なのではないのでしょうか。………しかし、兵船は基本的に人力に頼っていたはずです。風待ちという訳には行きませんから。
それよりも重要なのは、太平洋の荒波と「駿河灘」の方です。
当時の太平洋航路の難所は、「一に玄海、二に遠江、三に日向の赤江灘」といわれていたのですが、遠州灘を航行する場合は途中に適当な待避所がないため、鳥羽から伊豆下田へあるいは伊豆下田から鳥羽へ、この長いコースを一気に走らねばならなかったのだそうです。途中で風が変わったら、元の湊へ逆戻りすることも度々あったという難所だといいます。
因みに、有史以来、江戸湾や駿河湾から武士団が兵船で西国に移動した歴史はなさそうです。あの、源平合戦の最中に九州で範頼が困窮していたときでさえ、頼朝は兵糧を海上輸送することも、駿河や総州の兵船を送ることもできなかったのです。だからこそ、熊野湛増の水軍の帰趨が重要だったわけです。今川義元や武田信玄が企画したとも言われますが、太平洋の怖さを知らない武士の机上の計画のままで終わったようです。つまり、遠州灘以東からの艦隊による上洛はあり得ないということです。また、和船には、帆柱が一本しかなく、水密甲板でなかったという二つの弱点があったために、沿岸航海に制限されて大洋航海ができなかったともいいます。
さて、こうした前提から考えますと、今川義元による征西の目的が水軍による伊勢湾海運の支配であったとすることには、無理があることに気が付くはずです。つまり、遠州灘を自由に通過できないのであれば、必ずや三河湾に水軍を組織しなければならないはずなのです。駿河湾に水軍を創設したところで、将校の訓練にしかならないからです。とくに、通商・運輸にたずさわっていない漁民などを水夫に徴発しているならば、それは領民である漁民の生活を根こそぎ破壊してしまうことになるからです。水夫は兵船の動力機関であって、兵士などではないからです。漁に依存した生活から分離した水夫を作らない限り、一日限りの臨時雇いならば問題はないのですが、何時でも何処へでも出動できる常備水軍はできないのです。まあ、金を払えばいいのですが………。
ところが、東三河における今川氏の本拠地の吉田(豊橋)にも水軍はなく、田原を征服しているのに渥美水軍(?)も動員できず、西三河を制しているのに緒川・刈谷の両水野氏の喉元を扼すはずの大浜にも水軍を組織できていないのです。
今川義元による浦伝制註−1 は水軍への第一歩であったかもしれませんが、水軍があったわけではありません。三河湾に自前の水軍(水上勢力)を組織出来ていないのです。つまり、今川義元には伊勢湾に継続して安定的に船を浮かべることはできないのです。………これでは、一向宗徒の服部左京助にも劣るというものです。と云うことは、北畠国永の「年代和歌抄」註−2 にある歌を長谷川弘道氏は過大評価しているのではないかとも考えられることになります。というよりも、北畠国永の方が世間の情勢も実態も知らなさすぎたということになるのではないのでしょうか。
註−1 義元や氏真が発給した文書から、要求されたことは、他国への使者としての働きと海賊退治の際の船の提供であり、兵力や兵粮の輸送に活用した様子が窺える。
註−2 「今川の人数当国(志摩)へうち越、志摩とらむとて舟とも(艫)う(浮)かへけるおり、人の御もと(許)より歌たも(給)ふ、返し二首。伊勢のうみ(海)やよ(寄)る人も波の神風にふ(吹)きかへされて舟そたよふ/いせのうみ(伊勢海)に身をししつめん、するか(駿河)なる富士の高根となけ(嘆)ゝきをそつ(積)む」
これらのことが、何を意味しているかといいますと、伊勢湾海運を武力で制するためには、今川義元も伊勢湾沿岸を伊勢大湊まで征服しながら行軍しなければならないということです。信長がやったように。
<工事中>
ところで、伊勢湾経済を封鎖することによって織田信長の財源である津島・熱田を孤立化させ、経済的に干上がらせることは可能でしょうか?そして、そのようなことが今川義元に可能な戦略であったでしょうか?
結論から言えば、師崎を支配して津島と熱田への物資を完全にストップさせたとしても、経済封鎖は完成しません。物資は陸路からも輸送されるからです。陸上輸送が海上輸送より格段に少ないとはいっても、尾張国の経済封鎖などは現実的には失敗することは目に見えています。伊勢神宮や熱田神宮に入る物資を区別することは困難ですし、それを許せば全ての物資が伊勢と熱田の両神宮宛になることは請け合いです。(熱田社が三ヶ国に持っていた荘園は殆んど押領されていたでしょうから、熱田社にはどれほどの物資が貢納されたかは怪しいものがあります)また、伊勢湾の全ての商人を敵に回すことになるでしょうし、それよりも何によりも義元自身の首を絞めることになります。………どういうことかと云いますと、戦国時代は飢饉の時代であるとも言われるぐらいでして、今川義元が伊勢を必要としたのは京文化を入れるためなどではなく、兵糧米の輸入が主目的だったからです。つまり、師崎をとって伊勢湾口を閉塞するということは、濃尾勢の三国を始めとした米を駿河が購入できなくなるということなのです。
現に、歴史は桑名の十楽の津註 でそれを警告していますし、後世の長嶋一向一揆も本願寺を背景として全国的な支援を受けて木曾三川を制しながら岐阜の信長を経済的に困らせることなどはできなかったのです。
- 桑名の商人は、永正七年(1510)津地方に勢力を持つ長野氏が桑名に侵攻したおり、住民たちは武力抵抗はせず町から逃げだした。その結果、舟は動かず物資は滞り、年貢米が来ない伊勢神宮が困って、長野氏に桑名から撤退するように要求して兵を引き上げさせた実績があります。
- 堺湊を制することは信長を待つまでありませんでした。三好らの前代人には出来なかった事実があるのです。
- 戦国時代とはいえ、人々には神宮などの神威を恐れ頼る気持ちは強かったということもあります。
それを考えれば、水軍もない義元が港もない大高に進出したとしても、熱田湊の商品流通を制することなどはできないことは明白です。それよりも何よりも、伊勢湾を制しようと思うならば、志摩かまたは師崎を制しなければならないはずです。このどちらかを海軍力をもって制すれば、伊勢神宮とも大湊とも桑名とも津島とも熱田神宮とも熱田湊とも交渉ができるはずです。………それなのに、ここに派兵しないというのでは、今川義元に伊勢へ行く気などはさらさら無かったとしか言うほかありません。田原戸田氏を制して渥美半島はすでに手に入れているのですから。河和戸田氏(当時は水野一族に連なっていた)を調略することは可能だったはずです。
註 蟹江町史などは幡豆崎の千賀氏は今川方であったと書きますが、疑問です。
<工事中>
<熱田神宮と知多半島> 工事中
結論からいいますと、戦国期の熱田神宮社領は大いに失われていたらしいことは確かです。千秋氏が信長に安堵された社領は800石に届かなかったのですから、季忠が桶狭間で討ち死にするその直前に所持していた社領も二三千石程度、多くても五千石程度しかなかったのが実態と思います。何しろ、季忠が桶狭間の戦いに率いた兵力は百人程度註 でしかなかったのですから………。
註 佐々党と併せて二百騎(『総見記』)に信長が旗下から少数を派遣(『桶狭間合戦記・山澄』)して三百騎(『信長公記』)で駿河勢と前哨戦を戦っている。
それに、師崎を押さえて東国への航路を牛耳ったのも南北朝時代に限られていたと考えられます。「天白区の歴史」が紹介している『熱田神宮記』の季忠の武徳に対する伝承は、千秋昌能の事績を誤って伝えたものと小生は考えます。なぜなら、天文三年(1534)及び天文八年に幡豆崎惣陣として佐治八郎次郎為安の名がみえ、天文初期に於いては師崎に佐治為安、豊浜に千賀為親、内海(東端)に佐治豊前守、内海の岡部に佐治備中守、大野に佐治為貞という状況でしたし、水野信元の南下によって圧迫された河和城主・戸田孫八郎守光は、生き残りを図って信元の娘妙源を妻にして信元の婿として一族に連なることになりました。一方で、信元は大野佐治氏とも和解して、知多半島の覇権を握ったことにより、幡豆崎の陣代であった千賀重親の実質的な単独支配が実現していたと思われます。それに、千賀孫兵衛重親は大野の佐治為貞の子で、天文年中(1532〜55)に千賀家に養子として入っていますし、水野信元の水軍の将であった亀崎城主・稲生七郎左衛門政勝の子・政清の妻は千賀重親の姪という関係になっていて、熱田社の名前は出てきません。
元々の千秋氏は在京しており、下級の神官にまかせていた尾張・美濃・三河の三国にも及んだ社領も、戦国時代になるとわずかに残るのみであったものと思われます。このため千秋氏が戦国時代に尾張に移ってきたのは、社領を直接支配する必要に迫られたからだと思われ、千秋氏は守護代の奉行の一人として急速に勢力を伸ばしていた織田信秀と結んだのでしょうが、熱田宮の「大宮司」としての神威は尊重されたものの、現実政治的には尾張国人(?)の一人に過ぎなかったものと思われます。
熱田神宮の祝師職田島氏、総検校職馬場氏、別宮八剣神社祠官大喜氏など社家は多く、粟田・長岡姓など庶流百五十余家を数えています。例えば、熱田の田島氏由来の田島之荘(美浜町)は、乙方村・大井村・片名村・山田村・師崎村・篠島村・須佐村・日間賀村を含むらしいのですが、篠島は鎌倉時代には志摩国、室町時代には伊勢国に属していて、尾張国に所属するようになったのは慶長以降であるといいますし、これらの村についても一円支配が出来ていたとも思えません。
半島西海岸・羽豆岬を含め但馬保や内海も一色氏に掌握されていますが、それも文明十年(1476)に細川成之によって伊勢を含めて放棄させられたときに、一色氏はこの(羽豆岬)地域の所領を失っています。
羽豆神社の修造をした棟札は、明応九年甲庚(1500)八月十二日に田原を根拠地とする戸田弾正忠憲光です。
『南知多町誌』は、応永十五年(1408)に一色満範が羽豆神社に紺紙金泥妙法蓮華経一部八巻・同阿弥陀経一巻を奉納しており、妙法蓮華経は同時に熱田社にも収めているのは、南北朝統一以降においても郡守護の一色氏にとっては、熱田大宮司の勢力が無視できない存在であったことを示しているが、熱田社の知行地内部にも混乱が生じ始めており、かつての熱田社の権威は徐々に薄らいでいったという見解です。
ですから、熱田神宮は神威を崇敬され遠慮されて一定の奉献がなされた可能性はなくはないのですが、海上関の権利といったものの分け前に預かった可能性はなかったのではないかと考えます。
家康は、千賀与八郎に半島南部師崎村などに千五百石の旧領を安堵しているのですが、そこには熱田神宮の所領はありません。
熱田神宮の社領は知多半島では中央部より北に集中しています。東海市域の多くが熱田社領に入っていたらしいのですが、三河より知多半島に入った一色氏が半島の各地に進出し、地元では荒尾氏が台頭して、それぞれの活動が活発化した頃になると、それら社領の記録が途絶え始めたといいます。具体的には御幣田郷・大郷郷が文和三年、木田郷が応永廿年、藪郷が宝徳四年で、それぞれ社領としての記録が途絶えていると『東海市史』はいいます。
『古今消息集・四』に天文廿一年十月十二日、織田信長により大森平右衛門尉(知多郡郡代?)へ知多郡と篠島の商人が守山を往来することについて自由を安堵しているのですが、篠島は古くから伊勢神宮領であって、熱田神宮の権益はありません。
『熱田神宮文書・千秋家文書・中巻』二八五熱田大宮司家由緒上寫に、「一、(前略)併當大宮司より四代以前千秋四郎迄ハ尾州知多郡筈ケ崎(今ノ師崎歟)之城主〇て、四、五万石も領地仕候ニ申シ傳候、以上」という年未詳ですが、寛文・延宝頃と思われる尾張藩寺社奉行が紫袍着用の由来に関連して宮位等について尋ねた際の大宮司千秋季明の回答があります。ここでは、千秋四郎の時代迄は四、五万石も領地があったといいますが、先に述べた理由により、「千秋四郎の時代に至る迄は」の誤りではないかと考えます。
鎌倉後期には現地の名主・百姓らの対捍・国衙方の押妨・勘落などにより、社家は知行を全うしえない状況が日常化しつつあり、南北朝期に入ると諸役は全て銭納化し、文和三年の目録では千二百九十一貫文が計上されているとは、『尾張国・日本荘園史5』の上村喜久子氏の研究です。笠間良彦氏の「日本戦陣作法事典」では、室町時代後期頃は一般的には百貫一騎と言う言葉が通用いたといいますから、これでは13騎程度の身代でしかないことになります。
南北朝期には神宮寺座主領が成立し、大宮司領から独立しています。明徳年間になると知多郡阿久比郷をはじめ七か所の座主領が醍醐寺座主宗助の管領下に置かれています。
『実隆公記』は、永正十二年(1505)尾張小河・刈谷・大高城主の水野清忠に対し、熱田社領の回復に努力すべきことを三条西実隆が命じたらしいことが見えるのですが、その後復したとの記事を見えません。
このように、熱田神宮の知多半島南部での勢力には見るべきものがないのです。
<蟹江城の戦いの意義> (2007.10.21)
この戦いの概要は、弘治元年(1555)八月三日に今川義元が蟹江城(織田民部丞?)を松平和泉守親乗らの松平勢を主力として攻撃した事件なのですが、現在のところ陥落させて占領したという証拠はありません。そして、この戦いの問題は中間に知多郡が遮っているにも関わらず実施されたということです。
『蟹江町史』は、「蟹江城侵攻の出航地はどこか不詳である。一番近い所からとすれば、知多郡の寺本辺りであろうか。中心の戦闘部隊三河衆の乗船から見て、三河最大の船手の要害地大浜湊も考えられるし、また当時今川氏は知多郡の千賀氏とも連携していたから師崎湊とも考えられる」、「天文十六・七年に、今川義元が三河大浜湊に羽城を築き、長田平右衛門尉重元(正治)を城代として置いている」としていますが、ここで小生が問題にするのは、「千賀氏を支配下に置いた」という事実があったか?ということです。
別項を設けました。





