<『藤井戦国史・間違いだらけの桶狭間』を読む> (2007.9.9〜10.2)

 

(1)『藤井戦国史・間違いだらけの桶狭間』を読む

桐野作人氏のブログ膏盲記を拝見していましたら、織田方の千秋四郎・佐々隼人正がなぜ無謀な突撃を敢行して玉砕したのかは、藤井尚夫説と天理本でほぼ明らかにできるのではないかという点で谷口氏と意見が一致したと書かれていました。註 詳細は何も書かれていないので、藤井尚夫氏のHP『藤井戦国史・間違いだらけの桶狭間』を見てみました。 

註  ブログの内容:桶狭間合戦について、信長公記の解釈や史料的な限界についてほとんど意見が一致したが、義元本陣をどこに想定するかについて、谷口氏の個人的見解をうかがって、なるほどと思った。信長公記の記述と矛盾しない。ただ、天理本首巻とはどうか多少気になった。また今川軍前衛部隊の位置がどこだったかについても議論した。それと、織田方の千秋四郎・佐々隼人正の最初の所在地とその後の所在地、なぜ無謀な突撃を敢行して玉砕したのか、藤井尚夫説と天理本でほぼ明らかにできるのではないかという点で意見が一致した。

藤井尚夫氏の説で聴くべきは以下の諸点です。

  1. 大高城の包囲には、これまで無視されてきた砦が必要であるということに注意を向けさせていること、
  2. その攻囲に水野信元も加わっており、その信元が義元の後詰に際して信長を裏切って撤兵したとされること、
  3. 義元本陣は高根にあったとされていること。  

しかし同時に、疑問の多い仮説にも満ち溢れてもいるのですが、藤井尚夫『藤井戦国史・間違いだらけの桶狭間』の要旨は以下のようなものです。 ?は疑問点

  1. いわゆる境目の城をめぐる「後詰決戦パターン」?である。(決戦の語感は意図して敵を撃滅して決着をつけるというイメージがあり、義元の敵主力撃滅の意志または信長の大高城を餌にした罠という意図がありそうに読者を誘導する恐れがある。史実の多くは、後詰をした結果、敵に撤兵させることができずに、止むなく合戦に至ったというのが真実である。史実は三国志演義とは違う。)
  2. 桶狭間合戦は、織田信長の仕掛けた合戦(信長の必勝戦術とはどのようなものかが提示されていない。)であり信長主導の作戦である。 (『歴史群像』掲載「桶狭間の仕掛け人は信長だった」1996年6月 )
  3. 合戦の前夜に“軍議”が行われなかったと通説はいうが、信長は前夜に軍議を催す必要などなかった。その理由は、信長は永録三年一月に品野城攻略に引き続き、勢いに乗って水野信元を誘って鳴海城・大高城の攻略に乗り出している(信元が要請したのならともかく、信長が要請したという史料がない)だから、今川義元としては後詰をしなければならない状況に追い込まれたのだ。つまり、桶狭間での戦いは起きるべくして起きた戦いであり、信長が主導したと言える?誰が見ても戦場が特定できる戦争が予定されていたのだから、信長は前夜に軍議を催す必要などなかった。だから、「軍の行は努々これなく」とは「軍議まったく無かった」と訳すのではなく、「命令はまったく、出されなかった」と訳すべきだ。
  4. 信長の主力はすでに現地(丹下・善照寺・中島)にいた(?それでたった二〜三千か)のであって清州にいたのではなかった。それ故に信長は単身出陣すればよかっただけなのだ。前夜の清洲には主要な重臣らは居なかったのだから、軍議などは開きたくても開けなかったのだ。
  5. 最前線で救援を待つ佐久間大学・織田玄蕃の危機を無視し、何の命令もせず、撤退を許可せず玉砕を強いて、事実上「死刑宣告」をしたのは、五月十八日に水野氏や千秋らの撤退とを知った織田信長が、大高城包囲の戦線崩壊を参加武将全員の共同責任(?証明できない)と捉えたからである。佐々隼人正、千秋四郎も暗黙のうちに悟って?玉砕して果てた。織田信長からすると、水野信元も当然「死刑」対象であるから、その存在意義が薄れる天正三年十二月、執行猶予が解かれて信元は腹を切らされたのだ。
  6. 大高城と鳴海城の間が、水野氏と織田氏の本来の領地境であり、大高城は水野方の城(?断定はできない)であった。大高城包囲は、水野信元を中心に据えて行うべき作業であり、信長だけでは行えないはずである。だから、水野信元は大高城の尾根続きにある向山砦に入って(?証明できない)して大高城攻めに参加していたのだ。大高城の東の「証光寺砦」に佐々隼人正(?証明できない)、南西の「氷上山砦」に千秋四郎?(?証明できない)が入り、丸根砦に佐久間大学、鷲津砦に織田玄蕃が入っていた。水野が裏切ったので佐々隼人正と千秋四郎は、中島砦付近に撤退した。
  7. 水野氏は、領域から考えると千を超える動員力がある(小生に云わせると、たった千しかない。知多半島を制圧したはずなのに)のに、桶狭間の記録に現れてこないのは、今川や松平からの誘いにのって水野信元が織田信長を見限り、今川に寝返り撤兵したからである。後の天下人家康の叔父である水野信元の行動を「みっともない」?とみた太田牛一が自主規制して『信長公記』から削除したため、「信元の出番の無い桶狭間」が通史となった。
  8. 織田・今川両軍は東海道上で戦闘(?なぜ兵を展開できない渓谷での戦闘に至ったのかの説明はなされない)を開始する、これによって『信長公記』が東に向かって攻めたということをクリアーできる。織田軍の攻勢(ここでも、なぜ信長軍が優勢になれたのかの説明はない)を前にして今川義元は本陣から離脱し、瀬名氏の陣地方面に逃げるが、陣の手前で補足され討ち取られる。今川本陣は現在の有松神社のある丘の上であり、牛一はここを桶狭間山と呼んだと考える。

では、藤井尚夫『藤井戦国史・間違いだらけの桶狭間』のどこが間違い?なのでしょうか。

(1)まず、後詰「決戦」という造語はいただけません。「決」を抜くべきでしょう。

なぜなら戦国時代の武将たちには「決戦」、すなわち敵の部隊を補足して殲滅しようという思想も、敵部隊を撃滅しようという思想もなかったと考えるからです。これらの敵部隊それ自体を目的にするということは、優れて近代的な思想であり、それは将兵に目的合理的な精神が芽生えて、軍事行動が任務の束になった近代的な官僚組織としての軍隊ができてからのことだからと小生は考えるからです。その傍証としては戦国時代でさえ会戦が少ないことがあげられます。つまり、現在では一般には農兵が主体であった戦国大名たちは、損害が出ることを非常に嫌ったと思われているからです。

それに、戦国時代の軍隊には無暗やたらに旗が多いことです。直接的な戦力などではなく、敵に威勢を示して退かせるまではいかなくても、戦意を萎えさせるのが目的です。………つまり、戦国時代の戦術で後詰をするということは、敵の包囲や圧力を受けている味方からその束縛を解いてやることが主たる目的なのであって、城砦で敵を拘束しておくことによって補足して、これを撃滅しようという三国志ばりの戦術などは基本的に持っていなかった考えるべきだと小生は思います。

決戦は勝利しても受ける打撃が大きすぎるからでもあります。従って、市民が誕生し国家が生まれることによって、近代的な国民軍が創設されて国民皆兵によって消耗戦に耐えられるようになって初めて生まれる思想です。ですから、早期に敵が包囲を諦めて引揚げずに決戦になってしまうのは、明らかに我彼の何れかの判断の誤りによって生起してしまった「成り行き」でしかないのです。

小生が思うには、後詰して戦に至るのは、脅しが効かなかったからか、逃げ遅れたかのどちらかである失敗した作戦でしかないのです。ですから、藤井尚夫氏が世間に後詰「決戦」という言葉を流行させることは、一般の人に近代以前の戦闘に誤ったイメージを持たせてしまうだけでなく、そのもつ語感から専門の歴史学者にも誤った予断を与えることを懸念するのです。

現に、多くの人が、包囲された味方の後詰を語るときには、決戦を意図していたことを当然と考えたりするため、高松城を後詰した毛利勢が即座に戦闘を開始しなかったことを不満に感じたり、三国志ばりに敵城を包囲することを、敵の主力を補足殲滅する策略であるなどと先走って考えてしまうのです。………現実は違うと思います。敵城を攻め落とす前に敵軍が駆け付けることができたということは、その時点で作戦の失敗だとみるべきなのではないでしょうか。

 

(2)ここでの「主導」という言葉は、単なるきっかけなどではなく、意図して敵を刺激して合戦に及んだという意味にとらえています。桶狭間合戦が、織田信長の仕掛けた信長主導の作戦であるということには傍証があるようです。信長が決戦を決意していた証として、「其夜之御咄(に)、軍之行(についてに)御談合(は)、是非国境にて可被遂トグ御一戦候寄地へ被踏迯ニゲル候而(ソウロウテ)は有に無甲斐との御存分也」と書く天理本があるというからです。

しかし、兵力に劣ると思われていた信長が仕掛けたとしたならば、当然に諸葛孔明ばりに大高城を餌にして義元を罠にかける用意しなければならないはずなのですが、その計画とは具体的にはどのようなものだったのでしょうか。信長が仕掛けた罠なら勝って当然なのです。それに、信長が西三河に手を出したのが原因だというならば、そもそも今川氏が斯波氏が守護であった遠江に侵出したことが原因なのであり、今川氏が仕掛けた戦争だというべきでしょう。また、信秀は今川氏から那古野城を奪ってもいますからこれが遠因なのかも知れません。

それに、大きな兵力差があったと伝えられる今川勢に対するのに、彼等が付城を攻撃していて少なくともその兵力の一部が動きが取れないときに信長が義元本隊を攻撃できなかったのは、どうみても信長の大失策と言うべきなのではないのでしょうか。つまり、『信長公記』が「軍の行は努々これなく」というのは、「直ちに後詰することで意見が一致していたから、軍勢を派遣する命令を出すまでもなく、諸勢ことごく発った」というものでなければならない事になります。………それ以外に信長には一体どのような方策があったといい、実行したというのでしょうか?前線から攻撃時間まで報告を受けていたにも関わらず、信長は家老衆に嘲弄されたように何の手立ても講じておらず、付城を攻める駿河勢の背後を攻撃できなかったのです。

そのような、事態の推移になってしまったのは、信長の立てた計画と現実がどこが違っていた為なのでしょうか?なぜ、信長は朝比奈・松平らの付城攻撃軍を攻撃しなかったのでしょうか。後続している義元本隊に挟撃されることを恐れたからでしょうか………。

通説によれば、十九日の付城攻撃に今川義元が参加していなかったからだということになりますが、駿河勢が大軍であったならば義元が督戦しないことなどは、事前に当然考えられていたはずですし、義元が信長の付城をドミノ崩しのように順番に浸食してくる作戦を持つことも、当然予想されたはずです。それならば、信長は義元本陣を手薄にするために、如何に作戦を立てたのでしょうか。そのような作戦らしきものがあったようには見えません。全てが成り行きであったうえに、僥倖に恵まれただけのようにみえます。………したがって、「信長主導」ということは、「信長が尾三国境でそれまでの守勢から一転して攻勢を取り始めたから、義元がこれを放置できなかった」という至極当然な政治的意味でしかないことになります。

 

(3)「品野城攻略に引き続き勢いに乗って水野信元を誘って鳴海城・大高城の攻略に乗り出した」ということには、事実の全体像を著しく歪めるものがあるよう見えます。

信長が品野城を攻略できたとしても、それは永禄三年一月のことですから、大高城に付城が付けられたのはそれ以降だということになります。ところが、大高城が今川方に渡った時期には諸説あって、最も古いものには伊勢法師物語と前橋酒井家旧蔵聞書がいう弘治三年(1557)兵糧入説があり、それ以外にも合戦時の兵粮入れまでの毎年に説が唱えられています………。これらを、どのように解釈したならばよいでしょうか。唯一の解釈は大高城は何度も取ったり取られたりしたという事実があったということを考えなければなりません。

それに、もし藤井尚夫氏の言われるように、永禄三年に入ってバタバタと物事が進んだのだとしたならば、水野信元の目には信長の威勢の方が三ケ国の太守今川義元に勝ると映ったはずです。それが幾ばくもしないうちに大高城を調略されたことになるのです。それも山口左馬助によってです。そして、その左馬助父子は弘治元年〜永禄二年(1555〜1559)の間に今川義元によって駿河に召し出されて謀殺されてしまっているというのが通説なのです。

大問題は、この大高城が「調略によって」今川方の手に渡っていると看做されている事実です。………信長の威勢が興隆し始めているなかで今川方に寝返った大高城主水野忠氏(忠守)の思惑とはどのようなものだったのでしょうか。納得できる説明は、水野一族は一枚岩でなかったということだけで、真実は闇の中です。

また、弘治元年(1555)二月五日には花井右衛門が信長より星崎・根上の没収調査を命ぜられていますから、これにより孤立することになったらしく、笠寺を失ってからは、鳴海城では岡部元信と城番を交代させられており、弘治三年になると信長は、鳴海東宮大明神・八幡神田を安堵する書状を発行しています。………このように、信長方による鳴海城・大高城の包囲が品野城攻略に成功した後だということには、疑問がいっぱいあるのです。包囲の意味が付城を信長が築いて本腰を入れてからといのであれば、納得なのですが………。

しかし、永禄三年に入ってバタバタと物事が進展したというとは、再検証に値する魅力的な説です。

 (4)信長は、前夜に軍議を催す必要などなかったということについては、信長の尾三国境での攻勢によって義元は後詰せざるを得ない状況に追い詰められていたことは誰の目にも明らかであり、戦場も特定できたから、信長方では事に臨んで採るべき行動は既に定まっていたという認識は、一般的には納得できるものがあります。

しかし、それはサッカーでボールのあるところに選手が群れ集まるようにという意味ででしかありません。逆にいえば、信長が「俺が来いと言ったら来い。あとは何も作戦などはない。出た所勝負だ。俺に任せろ」というようなものでしょう。ですから、「軍の行は努々これなく」と書く趣意は、「軍議まったく無かった」ということなのではなく、「軍勢を動かす命令は、出されなくても既定のことであった」と藤井尚夫氏は訳されるわけですが、これは妥当な解釈かも知れません。但し、後詰でなく何処へ作戦するかということが、君臣の間で合意があったことになるわけですが、その作戦に納得のいくものが提起されていないという問題があります。

また、信長の主力はすでに現地(丹下・善照寺・中島)にいたのであって清州にいたのではなかったと言われるに至っては行き過ぎでしょう。それで、総勢三千程度の兵力しかなかったとあっては話にもなりません。………信長の作戦とは一体どのようなものだったのでしょうか?     

それに、天理本がこれに反する記事を載せています。「其夜之御咄ニ、軍之行ニツイテノ御談合ハ、於是非国境にて可被遂(とぐ)御一戦候、寄地へ被踏迯(にげる)候而(ソウロウテ)は有に無甲斐との御存分也。然処(しかるところに)御家老之衆、一味同心に被申候。御敵は四万五千ノ大軍也、其分一にも不足御人数に候。是程能(よき)名城ヲ御拘(かかえ)之事に候之間、時分を被成御計御合戦尤(もっとも)と申候之処、其御同心無御座

もし、信長の動員できる兵力が三千以上、五千もあったならば鳴海城や大高城を攻め落とすことは左程難しいことではないはずです。村木砦を攻めた熱意があればどちらも一日で攻略できたことでしょう。ところが、信長の尾張統一時代から美濃攻略時代の兵力を案じてみると、いずれも協力した親族の兵力を除けば二千を超えることはなさそうに思えるのです。そうでなければ、大高城の攻略にあれ程の時間がかかるわけがありません。このように主張しますと、何事も陰謀に結びつけたがる性向の人は、信長が義元を釣り出すための餌として意図的に力攻めをしないで生かしておいたのだと主張されることでしょう。

 (5)果たして信長の軍隊、信長の部下たちに、「作戦に対する共同責任=連帯責任」などという観念があったと言えるでしょうか。これは、なんども述べているように優れて近代的な思想なのです。当時の武士に「任務に対する責任」などという観念があったとは思えません。

第一、信長が部下に連帯責任を問うたなどという事例自体がみられません。『信長公記』以下の史料にそのような事例を見出すことはできません。後年のことになりますが、上杉謙信の侵攻を前にして戦線を離脱した秀吉を罰することをしなかったばかりか、柴田を始めとした諸将の連隊責任が問われたわけではないようです。それよりもまず、信長は水野信元の撤退を知ることができたでしょうか?もしその時代に任務に対する責任感というものがあったとしたならば、なぜ、佐々隼人正と千秋四郎は氷上・正光寺砦から撤退せざるを得なかった旨の注進を清須に発しなかったのでしょうか?彼らが、任務を達成するために事態を信長に知らせる使者を放ったという話などはどこにも見出すことはできないのです。つまり、佐々隼人正と千秋四郎にも任務を遂行しようという思想も、自身の役割・軍務の意図を理解した形跡などは微塵もなかったことになるのです。

それどころか、『武功夜話』などは前夜の佐々兄弟について「義元沓掛入城の報に、佐々党は善光寺道に出て平針村に居陣」といいますし、『総見記(織田軍記・1702)』は「熱田表には、織田方の先陣佐々隼人・千秋四郎ら人数二百ばかりにて、信長公の御旗を待ち受けとし、『道家祖看』は「星崎方面に控えていた佐々下野守政次は、三百あまりの小勢で敵の六万余騎を押さえていた。そこへ陣を進めてきた信長を出迎え、(中略)我らは東向きに今川方の旗本へ乱入いたします。殿は脇槍に向かわれ、鉄砲も弓も捨てて、ただただ一途に義元に打ちかかられるがよろしいでしょうと言って、佐々政次は敵陣へ押し向かって行った」と熱田にいたと夫々の見解を伝えますのを、全て無視していることになります。

まだ疑問があります。大高城は水野氏の領地、又は勢力圏であったから、水野信元の上位にいた信長がそこに城砦を築いて配下を配置したと考えておられるようなのですが、当時、他人の領地に砦を築くなどことが本当にできたのでしょうか?軍勢を派遣することなく、命令一本で領民や資材を徴発することができたのでしょうか?その後の水野信元が信長の美濃攻略戦に名前がみえず、足利将軍を奉じた上洛戦にも自身は出陣していないようであり、十年後の元亀元年(1570)に至ってやっと甥の家康ともに姉川の戦い、佐和山城攻めに参陣しているようなのです。そんな信元の領国内(?)に信長が砦を築けたとは、小生には到底思えないのです。

また、藤井尚夫氏は、千秋四郎の領地は知多半島の先端の羽豆崎にあったといわれますが、これも事実誤認ではないでしょうか?………これは、南北朝時代の千秋昌能のことのように小生には思えまして、戦国時代には既に千秋氏の手から離れているように見えます。南朝が衰えると神宮領は土豪に横領されて次第に消滅し、足利一族の一色氏が幡豆岬を支配するようになっており、その代官として佐治氏が幡豆崎城に入っているようだからです。従って、戦国時代になると、かつて三国にも及んでいた熱田神宮社領もわずかに残るのみで、そのようになってしまった社領を、それ以上侵食されないためにも、直接支配する必要に迫られて尾張に移って来たという経緯があるようです。 ですから、藤井氏が熱田神宮大宮司職であった千秋氏が遠慮なく氷上山に砦を築けたといえるかも疑問なのです。氷上姉子神社は確かに熱田神宮の摂社なのですが、その社領が神宮と同一のもの、つまり同じ財布であったとは小生には思えないのです。

ところで、水野信元勢が撤退した後で、佐々隼人正と千秋四郎が退きあげるべき先は、常識的に考えても中島砦辺りなどではなく、駿河方との最前線になる鷲津砦なのではないのでしょうか?もし、両人が二百人の兵力を率いて鷲津砦に入っていたならば、鷲津砦は落去しなかったかもしれず、信長の後詰も間に合って新たな展開があったかもしれないのです。勿論、後詰した信長は新手の義元本隊に挟撃されて全滅されたかもしれませんが………。

 

(6)水野氏が撤退したのは理解できますが、それは一概に信長を裏切ったとは言えません、なにしろ義元は大軍という触れ込みなのですから、本城に戦力を集中して防御に徹するのは当然の戦術です。織田との同盟を反故にしたとは言えません。実際にそうであったように、義元は刈谷(屋)水野氏、緒川水野氏を押さえるために兵力を割いたと多くの人が了解しているからです。従って、敵である今川義元の大軍の過半にいたる軍勢を、刈谷・緒川の両城に引きつけて拘束して、信長に乾坤一擲の攻撃を勝利に導いたことは、信長に感謝されこそすれ恨まれる謂われはなさそうです。少なくとも、堂々と信長に申し開きは出来るでしょう。………後日、誅殺された信元をみますと云い訳は苦手なようですが。  

そもそも、水野信元の行動は江戸初期の武士の常識として「みっともない」ことだったのでしょうか?戦術的には臨機応変ですし、政治的にも玉虫色に身を処して国を保っており、一時は独立した元康を後見して三河にも威勢を張り、室町幕府には外様大名として扱われ、むしろ「かくありたい」と当時の戦国武士たちに思われるような見本だったのではないのでしょうか。

 

(7)藤井尚夫氏は、現在定説になっているようにも思える小島氏の比定した64.9mの山付近から1kmほど北西の高根辺りに義元本陣を想定し、東海道上で戦闘が行われたとしておられます。ここは40〜50mの丘陵で南の幕山との鞍部に桶狭間〜鳴海道が通っており、善照寺砦から見通すことができる場所ですから、『信長公記』の記載に矛盾することはありません。また、天理本がいう「段々に備えた」ということも、善照寺砦の信長側からみると、義元勢は丘の西側斜面に段々になって布陣していることになりますから適合し、極めて魅力的な説だと思います。

しかし、昨今いわれるような東海道を東行して義元を強襲する場合には、優勢な義元の前備を迂回することはできませんから、多くの軍記物の主張あるいは証言に反するという欠点があります。………『塩尻』は太子ケ根から攻撃したとし、『老人雑話』や『武徳編年集成』は間道より攻撃したとしていますし、『井伊家伝記』『奥山孫市郎遺言』『参州事実録』などは先備と本陣の二手に分かれて攻撃したとしているからです。

それ以上に、藤井尚夫氏の仮説(イラスト)の問題点は、東海道は狭間の中を通っており、大軍を展開するに適さないのに、狭間の中に駿河軍が充満させていることにあります。狭間を封鎖することは軍事的に大いに意味があるのですが、その中に大軍を止めることは兵法の常識註 に反します。 せっかく大軍である(包囲する)利点が活かせないからです。

  1. 『孫子・地形篇』 「隘なる形には、われまずこれに居らば、必ずこれを盈(み)たしてもって敵を待つ。もし敵まずこれに居り、盈つればすなわち従うことなかれ、盈たざればすなわちこれに従え」「険なる形には、われまずこれに居らば、必ず高陽に居りてもって敵を待つ。もし敵まずこれに居らば、引きてこれを去りて従うことなかれ」 ・・・ 「必盈之以待敵」とは、隘路や狭間の中に大軍勢を布陣しろと言っているのではありません。そこを敵に先んじて支配下に置けと言っているのです。谷口を閉塞する作戦は兵力の劣る側の採る作戦です。谷口を閉塞して敵が強行突破しようとしたならば、兵力の逐次投入を余儀なくさせることができるからです。できることなら両側の高地から横矢をかけられるようにすることです。
  2. 西部劇では、インディアンがよく谷間で待ち伏せるときには、崖の上にいますから、見てみたらいかがでしょうか。隘路の中では軍勢を展開できないため、谷口から外に向かって突撃しようとすると、出谷口で凹状に布陣した敵に十字砲火を浴びせられて、優勢な兵力でも逐次投入しかできなくなり、兵力を漸減させられることになります。かのテルモピレーで三百人のスパルタ兵がペルシャの大軍を引き受けることができたのは、彼等が谷口から外へ出なかったからなのです。しかし、大軍である場合には違います。先んじてそこを支配下におき、敵にそこを与えないためでしかないのです。
  3.  『呉氏・応変第五』 「諸(コレ)に丘陵林谷、深山大沢に遇うときは疾く行き、亟(スミヤ)かに去り、従容たるを得ることなかれ。もし高山深谷(の内)に、卒然としてあい遇わば、必ずまず鼓を譟してこれに乗じ、弓と弩を進め、かつ射、かつ虜にせよ。審ツマビラかにその治を察し、乱るればすなわちこれを撃ちて疑うことなかれ」・・・大軍をもって谷間に充満して屯することは、兵力の無駄になります。後方の部隊が有効に展開・機動できないからです。呉氏では孫子の筆の言いつくしていないところを補強して解説しています。

また、瀬名伊予守氏俊の陣所伝説地よりも1kmほども離れておりまして、瀬名氏が事前に自陣よりも敵に近い場所に本陣を設けて置いたとは思えません。さらに、東海道が山間を抜けてもその先、曾根から中島までの間が水田の中を通っているとしたならば、これまた大軍を展開して決戦などが出来ない場所であったことになります。従って、義元が大高城に向かっている途中である限りは、まともな布陣とは言えません。また、藤井氏のイラストが描くように、駿河軍が互いを臨見できるような状態で布陣していては、山鹿素行が『武家事記』で「先手後備ともに義元討死を知れるものなく、手に遇うもの少なし」と評し、氏真が朝比奈らの駿河武将を免責することなどはできなくなるはずです。 

と、いう訳で、桐野作人氏や谷口克広氏註  の発表される新説がたのしみです。

註  室蘭民報ニュース:第43回市民文化祭のぼりべつ2007参加の「郷土史の夕べ」が登別市民会館で開かれ、市内美園町在住の戦国史研究家・谷口克広さんが「織田信長の合戦〜桶狭間の戦い・長篠の戦いの真実〜」と題して講演した。「今川軍の前衛部隊が押し戻され苦戦していた。今川軍は構えていた山から下って、正面から攻め込んだ信長軍と戦ったのが真実ではないか。奇襲ではない」と述べた。(2007.11.22追加。詳細は不明)

 

(8)追加:『合戦最大の謎義元本陣はどこか?桶狭間合戦』 藤井尚夫著/新・歴史群像シリーズ(信長と織田軍団) の問題点 (2008.02.29)

此の記事は、推論以前に事実認定について明らかな誤りが多すぎるようです。

具体的に指摘しますと、

  1. 「『信長公記』に出てくる地名”おけはざま”は、一つの谷の名称ではなく、鳴海城の南東にある丘陵地帯の地名であり、「おけはざま山」とはこの丘陵全体を指している。(中略)江戸期、桶狭間村と呼ばれる地域は、東西3km、南北2kmに及んでいる」とされますが、これではまるで漆山から田楽坪までの範囲が桶狭間村であるかのように読者が受取かねない言い方です。しかし、これでは全部間違っていることになってしまいます。なぜなら、この辺りの多くは南部が大高村と北部が鳴海村だからです。………桶狭間村というのは大池辺りの谷筋の狭い地域(有松村辺りも含む)であることを藤井氏が認識していないことは問題です。当時、おけはざま村はありましたが、桶狭間山はありませんでしたし、現在も桶狭間山はありません。また、桶狭間丘陵などというものもありません。『信長公記』で太田牛一がいう意味が「桶狭間村方面(方向)の山または山々」という漠然とした意味であったとしても、精々が善照寺砦から見える範囲としては、南東方向に見える「高根」を中心とした1km圏内に限定すべきでしょう。
  2. 「”槍下”とは槍の下の意味ではなく、”戦時下”などと用いる”下”であり、ここでは戦闘下で戦死したことを伝えている」といわれますが、『信長公記』で太田牛一は態々、元亀・天正時代以降に比べるとという意味であると思いますが、永禄年の当時は「槍上・槍下ということがあった」と伝えているのですから、「戦闘によって」などという単純な意味ではないはずです。敵味方の位置関係の高低であったはずです。特に、集団で使用して叩きつけて使う足軽鑓では高所に位置する方が断然に有利であったと思われるからです。
  3. 本陣候補地の長坂・平部から左京山や漆山の三か所から田楽坪までは、丘陵が複雑に交錯し、撤退ルートをイメージし難い。特に漆山から田楽坪までの距離は、直線で2kmもあり、丘をいくつも上下し、湿地を迂回しつつの撤退では、直線距離の倍以上を移動することになりそうだ」と書かれますが、鎌研からは高根山の峠を越える鳴海〜桶狭間道があったこと。また、その道は当時の主要地方道であることを認識されていません。また、漆山から高根の間は湿地帯などはありませんし、乾燥しきった疎な松林・雑木林でしかなかったものと考えられます。現代ですらそのような植生なのです。
  4. 長篠合戦当時の織田信長の本陣(檀上山)と武田勝頼の本陣(信玄塚)の距離は六百mであり、(中略)桶狭間合戦の義元の本陣位置(を漆山に比定した七百の距離)は、決して前方に出過ぎてはいないのである」と云われますが、これは両軍とも決戦を意図して軍勢を前進させた場合の互いの本陣の位置関係であり、敵前で昼食を取り人馬を休息させる距離ではありません。対陣して昼になったにしても、信長側から休息しているように見られるようでは、軍紀が乱れているとみなされて、攻撃を仕掛けられた可能性があります。それならば、敗れて当然でしょう。休息しても良い距離は少なくとも一里(4km)は離れている必要があるのは、当時の常識であったと思われます。何故なら、戦闘準備をするのが敵前一里といわれるからです。だから、通説では桶狭間山に義元は居たというのです。
  5. 最大の問題は、義元が何処から来て、何処から漆山に上がって本陣を布いたかです。もし、沓掛城から東海道をきたのならば、信長が敵は「勞兵」などと誤認するはずがありませんし、麾下の将兵も信長の扇動に騙せれたりはしません。それは、天理本に「熱田・山崎近辺より見物に参り候者共、御合戦に可被負、急帰れと申、皆罷帰候えき。弥(イヨイヨ)手薄に成候也。」とあることからも分ります。もし、それとは違って沓掛城から大高道〜小川道を通って漆山に昼食を採りに上がったというのならば、義元が目的とした大高城へ行くのと同じくらいの距離なのです。それならば、小荷駄隊だけは切り離して大高へ先行させたでしょう。足手まといになるからです。しかし、それもありません。
  6. 『信長公記』には「山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(ツラ)に打ち付くる。身方は後ろ方に降りかかる。(中略)雨に東へ降り倒る々」とありますが、これが実現するには、信長は漆山の西の山裾で小川道上に軍を展開していなければなりません。ところが、藤井尚夫氏のイラストでは漆山の前面に義元勢の大軍が展開しているのです。どうすれば、小競り合いもなく信長はそのようなことができたのでしょうか?
  7. 『信長公記』には「沓懸の到下(峠)の松の本に、二かい(抱え)、三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒る々。」ともありますが、沓懸の到下とは信長から見てどこを指すのでしょうか?漆山の西方山麓にいたはずの信長勢には、漆山の陰になって沓掛方面は見えないはずです。

 

(2)現在の谷口説の問題点     (初出2007.11.23、)

谷口克広氏の『信長の天下布武への道』や『織田信長合戦全録』の場合は、藤本正行氏の説を敷衍したもので、その桶狭間の戦いというものは概略次のようなものです。 (2007.11.23)

  1. 前夜に信長が戦いの話を避けたというのは、この時、もし、家臣の意見を聞いたとすれば、必ず籠城策が支配的になったであろうから、意図的にこれを躱したのである。
  2. 十九日の午前四時ころに、鷲津・丸根両砦より注進があったというから、攻撃開始は午前三時頃になる。
  3. 注進を受けて信長は即座に出陣を決めた。この戦いに勝つには敵の大軍が分散しているところを各個撃破しかないと考えたからである。問題は、付城が実際に攻撃を受けたことを知った時点で出陣を決心している点で、決して義元が沓掛城を出陣したことを知ったからではないところにあります。 
  4. 今川軍の本隊は正午頃、桶狭間山なる小高い丘に本陣を布いた。
  5. 信長が善照寺砦に着いた時には、今川軍の前衛部隊は東海道をすでに中島砦近くまで進んでいた。そして、抜駆けした佐々・千秋らが今川前衛隊にしかけて撃破された。
  6. 信長が中島砦に進出した時、今川前衛隊は中島砦の間近にいたので、中島砦からの出撃を命じて、これを山際まで押し返した。
  7. 今川前衛は数では優勢であったとしても、大部分は非戦闘員であるのに対して、信長軍二千のほとんどは鍛え抜かれた専業武士であった。
  8. 今川方の前衛部隊が押し戻された時、それを見た義元を囲む今川本陣は、桶狭間山を北註 に下って、高根山を越して谷あい(東海道)に位置していた。前衛の苦戦を知ったならば、本陣がそれを支えるために動くのが自然だからである。………桶狭間山からは鳴海表の平原または田地は望見できませんし、東海道を撤退する姿も見えません。見える場所は平子台地の南斜面ぐらいでしょう。
  9. 信長軍が山麓まで敵の前衛軍を追い返したところで急に天候が変わった。註 付図を見る限り義元は地蔵池から長坂を通り鎌研に抜ける鳴海〜桶狭間道を行ったらしいので、正確には北西なのだと推察します。
  10. 山麓から遠方に望まれる沓掛峠の楠の巨木が、この時の風雨のため東へ向かって倒れたという。………山麓から見える峠を特定してもらいたいものです。
  11. 午後二時頃、主力の衝突は東海道上においてなされた。東海道上であれば信長軍の突進が「東へに向て」なされたと『信長公記』にあることに合致する。

さて、このような桶狭間の戦いはあり得たでしょうか?………問題は以下のようなところにあります。

  1. 臣下たちの間に籠城説が支配的になって戦意が低下するのを避けたからだという考え方は、天理本が紹介されたことによって成立し難くなりました。 2008.07.09
  2. 十九日の午前四時ころに鷲津・丸根両砦より注進があったというようなことは証明されていませんし、午前三時頃に攻撃を開始するには明かりなしで夜間行軍をしなければなりません。それも沓掛からですが、この事から生じる問題については本論で詳述しましたので省きます。
  3. 信長は、義元ではなく朝比奈勢を各個撃破するつもりだったのでしょうか?それならば何故、前夜の注進を受けた時に出陣して、敵の背後を攻撃しなかったのでしょう。注進を受けて信長は即座に出陣を決めたといわれるのですが、事前に兵力を前線背後に集中させておかず、両砦が落ちてしまったのでは大失敗でしかありません。戦いに勝つには敵の大軍が分散しているところを個別撃破するしかないともいわれますが、これも事前に兵力を前線背後に集中させておかず、両砦が落ちてしまったのでは大失敗でしかありません。
  4. また、鷲津・丸根砦を攻撃している敵軍の兵力だけなら知れているから、後詰することによって、まずそれから叩き潰すというのが、信長の作戦だといわれるのですが、砦攻城軍が少数だというのは谷口氏の想像にすぎず、信長がなぜそう思い込むことになったかの説明がなされていません。また、敵の主力が後方の沓掛城に控えているのなら、それは罠であり、挟撃される恐れが大きくなると思うのが常識ではないのでしょうか。信長はそれにどう対処するつもりだったといわれるのでしょう?
  5. 信長軍には、当時の戦国軍隊を越えるような行軍速度はありません。システムが優れていただけですから、意思決定から実行されるまでの時間が非常に短かっただけのことです。ですから、サルホのヌルハチのような機動力はありません。信長は敵の各個撃破などは夢想もしていなかったのではないのでしょうか。
  6. 今川軍の本隊が正午頃に桶狭間山に着陣することなどはあり得ないことは本論で検証しました。
  7. 信長が善照寺砦に着いた時には、今川方の前衛部隊は東海道をすでに中島砦近くまで進んでいたと言われるのですが、………これは軍事常識に反します。本陣から離れ過ぎているからです。
  8. 氏は、今川方の「前衛部隊」という造語によって、五〜六千ほどもある支隊ともいうべき兵力を展開したといわれるのですが、そのような史料はなさそうです。
  9. 五〜六千ほどもある駿河勢が信長の二千に何故負けたのでしょうか。専業武士の比率が多かったというのでは説明になりません。信長は、それ以前も以後も今川軍・松平軍・美濃軍などに勝つことはできないでいるからです。………戦術的には信長軍が中島砦から出かけたところで、目前で兵を展開できないうちになぜ駿河勢は攻撃しなかったのかという問題もあります。
  10. 中島砦表での戦闘状況は桶狭間山からは俯瞰することはできませんから、本陣の義元は戦況を見て駆けつけることなどはできません。 (但し、丘陵上の平子辺りならば見えたかもしれませんが、駿河軍が織田軍が攻め上がってくるのを待っていたとも思えません。必ずや優勢な兵力を活かして攻め下ったでしょうから。)また、味方の苦戦を知ったならば、本陣がそれを支えるために動くのが自然だされますが、戦場での狙撃手は戦闘を殺さず歩けないように撃つのです。敵が戦友を助けるために射界に飛び出してくるのを狙撃するためにです。しかし、これは分隊などの戦闘レベルの話でして、後方で諸部隊を統括する部隊長や参謀はもっと冷静に行動するはずです。4km程も離れた部隊を救援に駆けつけるのならば、支隊を派遣するのが普通ではないのでしょうか?本隊上げて救援の為に、谷底に向かうのは異常でしょう。救援に駆けつける行軍途中を襲われたら全滅する恐れさえあるだろうからです。
  11. 中島砦からの出撃した信長勢は、敵前衛を山の麓まで2km近くも追い返したといわれるのですが、今川方前衛は繰り退きもせずに無事に退けるわけがないのですから、今川前衛部隊は崩壊して四散しているでしょう。つまり、敗れた駿河勢先鋒隊は一列になって東海道を逃げたりはしないだろうということです。また、義元はそのような状況を中間点にあたる高根山辺りで知ることができたはずです。それなのに、なぜ義元は断然有利な高所を占拠せずに、それを捨ててまで東海道上になど下りたのでしょうか?(桶狭間山から北側の東海道に直接おりたとされるようですが、当時はそちら側に下りる道などはありません。何しろ主力は騎馬武者であるうえ、塗輿を伴っていたのです。)第一、東海道は谷底ですから両軍とも兵を展開するには適しませんが、殊に今川軍は信長軍に倍する大軍ですからその有利さを生かせませんし、敗走してくる味方を受け入れたならば混乱してしまいます。義元は本当にそのようなことをしたでしょうか?今川軍前衛が兵農未分離であろうとも「数は数」ですから、そう簡単には勝てません。敵の尖兵を撃破して士気が高かったはずでだからでもあります。三方が原・姉川・手取川・長嶋一向一揆などを見れば明らかです。信長軍は無敵などではなかったのです。信玄の軍隊も兵農未分離でしょうが、義元軍は彼等と戦って負けてはいないのです。でも、徳川織田連合軍は敗れています。
  12. 遠方に望まれる沓掛峠の楠の巨木が、この時の風雨のため東へ向かって倒れたといわれますが、………山際から見えるという沓掛峠とは、何処を言うのか指摘してほしいものです。
  13. 東海道上であれば信長軍の突進が「東へに向て」なされたと『信長公記』にあることに合致するといわれますが、これは「東へに向て」という語から演繹した一仮説なのですが、余りにも矛盾が多すぎます。
  14. 朝比奈らの部隊はどこに消えたのでしょうか?服部氏の軍船は何しにきたのでしょうか?

………と、言うように、桶狭間合戦に関しての数々の疑問には何も回答が与えられてはいません。信長は桶狭間で三ヶ国の太守の軍勢をただ一戦に退けたのですが、その後七年間も美濃一国に勝てなかったのです。同じ軍隊を使って。つまり、谷口氏の解釈では何も説明できないのです。

谷口説の骨子は、(1)義元が前衛部隊と合流しようとしたということ、(2)義元が桶狭間山を下りたということ、(3)義元が東海道の山際まで進出したと考えているらしいことの三点からなっています。

そして、これらの三点に共通して欠けている問題は、実現可能性です。つまり、義元本隊五千〜一万だとして、彼等が現在桶狭間山に布陣している場所から順次出発して、4km先の前衛を救援するために兵を展開するにはどれだけの時間が必要かという問題です。因みにこれには、二列縦隊で時速5kmで行軍したとしても一時間半からニ時間かかります。間に合うと思いますか?義元はこのことを十分に理解していたはずです。

まず、前衛部隊の存在やその布陣場所も自明なことではありませんから、それも問題ですが、それ以上に問題なのは(1)の「友軍の苦戦を知ったならば、当然に救援に行くはずだ」と断定することにあります。同じように(2)のせっかく有利な高所に布陣していることを放棄して、低地に下りることは軍事専門家であった武士として正しい判断だろうかという問題もあります。そして、義元が有利な高地をも放棄して(3)鳴海〜桶狭間道を下って東海道に下りた。つまり山麓に至って前衛の背後に布陣したとされることを問題にしなければなりません。前衛を攻める織田軍の側背に廻らなければならないのにです。小豆坂の戦いでは岡部元信がそれを行って勝利しています。この直近の戦例を義元が知らないわけがありません。

また、谷口氏は桶狭間山と中島砦の間は、大平原などではないことを忘れているように思えます。桶狭間の前面の挟間には深田があり、その前は道路から10〜20m高低差のある小高い丘陵が並んでいてそれを越して東海道というへ出る道は一本しかありません。そして、東海道は谷底付近を通る道でして、大軍を展開するには適していないのです。例えるならば、大河に二列縦隊で渡れる程度の橋が一本架かっているような状況と同じでなのです。大河とは桶狭間山の前に広がる深田であり、道からの高低差10〜20mの小高い丘が遮っていることでして、それを越える一本の道が橋に相当するわけです。

さて、このような状況であることを考えたならば、そのような大河を挟んで4kmも先に前衛を進出させたと考えること自体の不適切を思わざるを得ないことに気づくはずです。それでも前衛が勇んで進んでしまったとして、彼等が苦戦に陥った場合に、戦国武将はどのように対応したでしょうか?救援にいくでしょうか?例え、本隊をあげて行きたく思っても、果たして現実的に行けるでしょうか?鳴海〜桶狭間道は二列縦隊しかとれなかったであろうことを考えるべきです。それを考えたならば、救援に行くとしたら支隊を派遣するだけなのではないのでしょうか?全軍を行かせる場合、義元はその本陣の指揮下にある将士に、どの道を使用してどのような順番で、何処へ進出して何処を占拠し布陣するかを命じることができたでしょうか? ………まず、本陣先備へを深田の中に一本ある道を使って前進させます、同時に本陣右脇備へは陣取っている場所から北側に下りて東海道を進出させます、そして本陣左脇備へは、先備えが出陣し終わったたそれに続かせます。それから、旗本と義元が一本道を使って前進するという段取りをとる必要があります。これは相当時間がかかります。全軍を北側の東海道へ下ろしたと考えることは、紙上の地図の上でだけ可能なことです。

もしそれが出来たとして、山際を鎌研辺りと仮定した場合には、鳴海〜桶狭間道の長坂辺りが戦場になったと考えられるわけですが、これはもう小豆坂における不期遭遇戦の再現になります。そして、その時には小豆坂を迂回した今川方の岡部元信が、織田軍に横槍を入れることによって大勢を挽回しています。そして、今回はおそらく生山や武侍に布陣した駿河勢が東海道へ下りて西進していますから、義元が高根や長坂に布陣していて信長勢をそこへ惹きつければ、生山や武侍の駿河勢が岡部元信と同じ働きをすることができたでしょう。こうなるともう数がものを言うはずです。ですから、惻隠の情によって救援に向かうというような状況設定は不適当だと考えます。

 

(3)桐野説の検証  2008.07.07

さて、歴史読本8月号に桐野作人氏の桶狭間の戦いに対する考え方が示されました。というよりも、新たな可能性も提示されただけのようでして、結論は保留されているようですが、これまでの谷口氏の説とは異なっておられるようでして、藤本−谷口氏の提案には一切触れられておられず、かなり藤井尚夫氏の説に近いものになったようです。また、朝比奈勢や服部勢の行方などには一切触れられていないのはとても残念です。

1.桐野氏は「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで、午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」とされますが、果たしてそのようなことは可能なのかを検証してみます。

まず、沓掛から桶狭間に義元が向うにあたってどの道を通ったかを考えますと、桐野氏はこの問題には一切触れられてはおられませんが、大脇から大高道を通ったことに間違いはないことだと小生は考えます。何故なら、当時の東海道から桶狭間村に入るには、いったん鎌研あたりまでいって、長坂を上り高根と幕山の間の峠を通る鳴海〜桶狭間道を行くしか街道はなく、非常に遠回りになるからですし、東海道には人家もなく義元が人々に示威することができないからです。近世から見られる間米〜館を経て桶狭間へ抜ける道なども当時はなく、軍隊が行軍するには適当であるとは思われないこともあります。

と云うことは、義元が大高城に入城するのが目的である限り、当日が熱暑であることを考え併せると、東海道を行軍していながら、わざわざ桶狭間山に戻ってまで休息するということは考えられない無駄になると考えます。また、疎林とはいえ道のない場所を行軍したものとも考えられません。それに、引き連れた小荷駄を大高城に先行させて入れておくことが安全なはずなのですが、そのような処置もとっていません。これは漆山に着陣した場合でも同様です。………義元が中島砦を攻めたうえで鳴海城を救援しようとしたという伝承もまた殆どないのです。これが第一点の説明されるべき疑問です。

漆山義元本陣説には大きな弱点が二つあります。

一つは、義元勢が桶狭間山から東海道を漆山に上りますと、有松の狭間を抜けてからは善照寺の織田勢にその姿を暴露するわけですから、織田軍は信長だけでなく大勢の将兵が諜報や偵察などによらずに義元の兵力をつぶさに観察して具体的にその数さえも勘定できたことになるわけです。

と云うことは、信長がその手兵を前に演説した内容は完全に嘘であることを部下に見抜かれていたことになります。信長がいかに駿河勢が労兵であると演説しようと騙されるわけがありません。………逆に言いますと、これは、それだけ信長一党が熱狂の極みにあったことになるわけでして、善照寺砦や中島砦で信長の出撃を諌止した極少数のものだけが正気を保っていたことになるわけでもあります。ですから、信長のカリスマ性を示す格好の事例になるわけですが、牛一の信長公記では信長麾下の将兵が熱狂して敵勢に向かっていったというような記事をのせてはいません。将兵が熱狂したのは略奪に出かけるときだけだったのではないのでしょうか?天理本では熱狂して(?)熱田・山崎からついてきた人々は、駿河勢の威容をみて正気に戻って退き上げてしまったと記しているのです。ですから、これが説明されるべき第二の疑問で、信長のカリスマが疑われるところです。

二つ目の弱点は、『信長公記』が「信長は、先ず丹下砦へ行き、善照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。信長の参陣と同時に佐々らは出撃した。その後、午刻に至って昼食をとり謡をした。」という時間経過があるからです。………これは、歴史読本8月号で桐野作人氏が、「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで、午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」といわれることは、全くの誤りであることを指摘することになります。午刻には義元は桶狭間山にいる必要があるからです。なぜなら、『信長公記』は、信長が照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。そしてその信長の参陣を知った佐々らは出撃し討死したとなるからです。その後、義元は漆山に陣を進め、午刻に至って敵前の漆山で昼食をとり謡をしたと読まなければなりません。

これでは、明らかに拙いので、「信長が照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。義元も信長参陣を知って急遽漆山に陣を移すべく前進を開始した。同時に、信長の参陣を知った佐々らは出撃し討死したが、それを義元が見たのは高根以西の高地からであったとし、その後義元は引き続き前進して漆山に陣を進め、午刻に至って漆山で昼食をとり謡をした」としなければなりません。

ということで、行程的な問題だけを考えてみます。

義元が午刻に漆山本陣で昼食をとり謡をするには、桶狭間からの約3kmという距離から考えて45分程かかったものと思われますから、午前11時15分には桶狭間山を出立していなければなりません。その場合、義元が佐々・千秋らとの前哨戦を観戦できる高所を探しますと、高根と幕山およびその峠と長坂を行軍中であることなどが考えられます。そして、高根は桶狭間山から約1km先になりますから、15分前の午前11時30分には高根にいなければなりません。

また、信長の方は、桶狭間山の義元に参陣を見られたのが午前十一時十五分なのですから、 熱田〜善照寺間一里25町余の7kmを時速9kmで駆けたとしますと約50分かかりますから、午前10時25分という遅い時刻まで熱田で将兵の着到を待っていたことになります。

佐々らが信長の善照寺参陣を見てから中島砦(天理本)を出撃しているのですから、その場合には、丸根は別にしても鷲津砦の攻略には午前十時以降までかかった可能性があり、松平元康の率いる松平勢が丸根攻略後に鷲津攻めにも転戦し、朝比奈勢は鷲津砦の戦後処理にかかりっきりで、桶狭間合戦には間に合わなかったということもできそうですから、「鷲津砦に朝比奈勢がいる」という難問をクリアーすることができます。

逆に、信長が午前10時頃に善照寺砦に参陣していたとしたならば、義元もその頃には桶狭間山から高根以西を行軍中でなければならないのですから、義元の本来の目的は信長が出現しようがしまいが大高城に行く予定であったと考えられます。すると何のために桶狭間山で人馬を休息させる必要があったのかが再び問題になります。昼食をとるには早すぎる時刻であり、正午には大高城に入城していられるからです。なぜ義元はそうしなかったのでしょうか?………たぶん、桶狭間山で信長参陣を知ったからだという本末転倒な説明を漆山に本陣を布いた理由にされることが考えられますが、桶狭間山に寄り道した理由は依然として謎のままですから、これも説明を要します。

さて、桶狭間山にいた義元が午前10時頃に信長の参陣を知って、急遽本陣を約1km先の高根まで進めたところで前哨戦を見たとしたならば、これには15分かかりますから義元の先備えは約840m先の戌亥にあたる鎌研のあたりで織田勢を迎え撃つことが考えられます。その場合に佐々らは1.4kmを山際(鎌研あたり)まで行ったとしますと25分ほどかかりますから、義元が高根に到着した十分後に両勢は合戦を開始した可能性があります。これは午前10時25分になりますが、戦闘時間は五分程度で勝敗は明らかになり、その後は追撃戦になったものと看做すことにします。この趨勢をみて義元が陣を進めたとしますと、約1km先の漆山に到着できるのは15分後の午前10時45分頃になります。義元は正午に昼食をとっていますから、その後の1時間15分で全軍を漆山に収容して布陣を完了したと看做すことができます。これは後続が行軍中に襲撃されることを許すわけにいかないからです。

この行程から義元の直卒兵力を推定しますと、1時間15分で行軍できる距離の5kmにどれだけの兵士がいたかという問題なるわけですが、騎兵一割を含んだ一時間当りの兵数は4,208人でしたから5,260人と先備えの兵力1,000人を加えて、6,000人強の兵力と算定します。これは微妙な兵力です。信長の率いたのは2,000人といいますから約三倍なのですが、信長の場合には小荷駄などを伴わなかったと考えられるからです。

そして、信長とその兵士の大部分は熱狂的に攻撃に移り、少数の冷静な武将はこれを諌止しようとし、熱田・山崎から浮かれて付いてきた町人らは、熱から冷めて急遽引き返したことになるわけです。果たして、信長軍の中核になった小姓・馬廻などの集団はそのような熱狂的な集団であったと言えるでしょうか?………これは、結構いえるようにも思えますので、これも信長のカリスマ性の一例にされそうです。しかし、それにしては『信長公記』は「今度は、無理にすがり付き、止め申され候へども」と書いたり、「右の衆、手々に(敵の)首を取り持ち参られ候。(信長は彼らにも)右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ、」と書き、信長に反対する情景は書きますが、信長を熱狂的に支持する将兵の姿は書かず、進撃の実態も緩々と前進しているように思えて、熱狂性は感じられません。

ところで、朝日出〜漆山は約2kmありますから、信長勢二千人が漆山の山際に展開するには45分ほど要します。ですから、昼食と謡に30分を見積もりますと、風雨の始まりは午後1時15分ということになり、降雨時間は45分と考えることができます。そうしますと、桐野氏の説も行程的にはと限定すれば、有り得る想定であるということができます。

但し、桐野氏自身も認めておられますが、『信長公記』や『三河物語』という史料に矛盾する点が多々あります。

  1. 取敢えず鷲津山の朝比奈勢は考慮しなくてよいことは先に述べましたが、服部党一千艘(二十艘?)が遊弋していた問題があります。彼らはなぜ信長の背後を衝かなかったのでしょうか?………これは、天理本に「熱田・山崎近辺より見物に参り候者共、御合戦に可被負、急帰れと申、皆罷帰候えき。」とあることがポイントになります。この文章では、織田軍の劣勢を見て帰ったということだけなのですが、大高河口に遊弋していた服部勢をも見たからだとも思われるからです。この熱田住民らは熱田を襲った服部党を撃退しているのです。そのため、この事からもう一つ分かることは、服部勢が熱田を襲った時刻です。「真説・桶狭間の戦い」章から推定しますと、熱田からの兵一千が到着を終るのは午前10時50分ですから、町民らが取って返したとしますと約1時間30分後には帰れますから、服部勢が熱田を襲ったのは正午半頃であったろうということになります。これは、大高河口〜熱田湊の海上6kmとしますと、約1時間弱の航行ですから午前11時半頃には大高河口を離れたことになります。せっかく参陣していながら義元にも会わずにです。
  2. なぜ兵力に優今川勢は中島砦を出ようとする信長の出鼻を叩かず、山際に展開を完了するまで待っていたのでしょうか?義元は信長参陣を知って漆山に本陣を進めたという想定なのですから、戦う意欲は十分にあったはずなのです。………当時の漆山と中島砦の間は、水田が広がっていたのではないのでしょうか?その場合には、水田の中の一本道を信長軍は進撃しており、山際に至って駿河勢の西方に展開するまでは、両軍とも互いに攻撃できないことになりますから、説明は可能ですが、今度は逆に義元の意図が疑われます。それとも原野と看做すのでしょうか。
  3. 漆山山麓から見える沓掛の峠とは何処をさすのでしょうか?
  4. 現在にいたっても所在の知れない「おけはざまやま」にさえ名前をつけた牛一が、なぜ漆山については名前をあげなかったのでしょうか?
  5. 『三河物語』に「駿河勢が我先に退いた」とする記述を、桐野氏説では説明できません。これは降雨前のことです。
  6. 根強くある信長迂回説を説明することができません。なぜ、このような説が生まれたのでしょうか?迂回も何も全くでなくなる位置関係になります。
  7. 黒田氏によって唱えられた甲陽軍鑑の記載による「どさくさ紛れ」説も説明できません。紛れようもないストーリーの展開だからです。すると、この三河物語にも矛盾するような情報を信玄はどこから仕入れたのでしょうか?
  8. その他、多くの軍記物の記事を説明できません。

 

(4)藤原京(タカシ)説    (2008.07.13)   

『時代劇のウソ?ホント?』での氏の仮説はかなりユニークです。その要点は義元軍は陣城を構築中であって、それが完成する前の隙を速攻した信長に衝かれて敗れたというものです。そのために、信長は第一波の攻撃を千秋・佐々ら三百人に行わせ、第二波には前田犬千代が参加しており、自らは第三波となって義元本陣に殺到したというのです。そして、その背後には柴田勝家らの部隊が控えていたとしています。

このような説を唱える理由について、氏は自ら説明して、現在忘れ去られた戦国時代の常識の一つとして、「城は攻めても落ちないもの」というものがあるとされています。そのため、鳴海城・大高城を攻囲し、駿河勢籠城策をとったために必然的に駿河勢による後詰が行われたことにより生起したされており、信長は桶狭間山に着陣した駿河勢が未だ陣城を構築できないでいたその隙をついたのだとされるわけです。そして、反面教師として長篠合戦での信長・家康連合軍による野戦築城を例に出されます。………義元は、本当に桶狭間山に陣城を築こうとしていたのでしょうか?一体、何の目的で?

陣城構築中であったということには否定的な情報が多々あります。

  1. 最も間近な桶狭間村の村民たちには、陣夫役として築城に駆り出されたという伝承はなさそうです。何故なら、地元住民には戦闘に巻き込まれて死傷したという悲惨な伝承が皆無だからです。死んだのは今川方の将兵ばかりなのです。………地元の郷土史家は、村民たちはセド山の上から恐々と戦いの帰趨を窺っていたしていますし、長福寺の伝承では義元を接待したとしています。
  2. なぜ近場の大高城に行く途中で昼食をとるためだけに、陣幕と柵・逆茂木程度で済まさずに、しかも前もって用意せずにその場になって慌てて陣城を構築しようとしたのでしょうか?
  3. 桶狭間に構築した陣城は、鳴海城救援のために役立つものなのでしょうか?………沓掛城から鎌倉海道を使って、善照寺砦を落とすのが兵法の常道ではないのでしょうか?それを何故、態々、黒末川が天然の堀をなしている南方から攻めなくてはならないのでしょう。
  4. それに、陣城が構築途中であるならば、その工事を妨害させないために、その前面に敵を迎え撃って戦いが行われたはずです。………小生は、赤塚合戦は信長が天王山に付城を築こうとして、それを阻止しようとした鳴海城の山口九郎次郎との間に起こったとみています。

ところで、本当に、「城は攻めても落ちないもの」なのでしょうか?

これは、基本的には正しいのですが、半分は間違った説明だと思います。戦国時代後半というのは、歴史的に城砦が「落とすべきもの」に変化した時代であり、戦国末期には「落ちない城は無くなった」のです。そして、桶狭間の戦い頃の城は将に「落とすべきもの」になった時代なのです。

城塞というのは古代に「稲城」といわれたものから戦国時代前期までの「城館」まで、一般には本気で戦争するための城塞というものは唐の侵攻に怯えて大宰府に水城を築いた時期を除いては、日本ではあまり作られませんでした。つまり、防御施設というものは簡単なものでも十分に有効であったという事実があったからです。

「落ちない城」の範疇で最も有名なのは楠木正成の千早城・赤坂城ですし、大きなものでは大宰府の水城、平氏の福原防塞、奥州平泉の藤原泰衝が源頼朝の率いる鎌倉軍を迎撃するために築かれた阿津賀志山防塁、元弘時の防塁がある程度のものでしょう。勿論、帝都は中国の城塞都市を真似て作られていますから、一応城塞であります。

これらのことから気づくことは、日本では古代に国際外交の真っただ中にあったとき以外には、城塞に拠って長期にわたって攻防するということは殆ど考えられていなかったということです。そのため、城塞は簡単な設備であっても十分にその役目を果たしてしたということなのです。しかし、これは逆からみますと、日本国内での紛争は殆どが内乱にまでも至らず、ヤクザ同志のシマ争いの喧嘩程度のものでしかなかったからであることが窺えます。つまり、世界的なレベルで見るならば戦国時代より前の日本の城塞の殆どは世界規格に満たないものばかりだったわけです。なぜなら、戦争当事者自体がヤクザみたいなものですから、敵の城塞を徹底的に攻略しようなどという「意図」も兵力差も持たなかったからです。

応仁の乱においても洛中では、首都の都城の内にあっての市街戦で終始したのです。市街戦が行われるということは、市街が焼き尽くされ破壊し尽くされていないことから起こります。近代以前ならば始めから火攻めをおこなったりはしないというこですし、近世以降になりますと事前の制圧砲撃で徹底的に破壊したりしない攻撃になります。ところが、戦国時代も深化してきますと、領国の統一から始まって、領国を拡大して隣国をも支配しようとするように目的が変わってきますと、まず、兵力差が広がってきたうえに、それに裏付けられて敵の城塞を完全に攻略する意志持ち始めます。

するとそれまでの、政治・行政・経営を目的とした城館では目的を果たせなくなり、武士は城館の背後に詰城として山城を築き始め、次第に戦術的な意義を最優先する山城が主流になります。こうなると城塞は落とし難かろうが、落とさねばならないものになってきました。それまでは、多大の犠牲を払ってまで落とす意義を感じなかったのですが、終に多大の犠牲を払っても「落とす必要がある時代」になっていくのです。

城館時代の城は、長期に渡る攻囲などは始めから想定して作られてはおりません。専ら不意の攻撃に備えたものですし、攻撃側も端から徹底的に攻略しようというような意図は持っておりませんでした。そのような大義も利害もなかったからです。ですから、刈り働きをしたり水利施設を破壊したり復讐であったりといったところで終わっていました。そのため、簡素な城館でも攻め落とすことは困難でした。それでも攻め落とそうとするならば、仕寄せをしたでしょうし、攻囲することも考えられるでしょうがそのようなことに至ることは殆どありませんでした。楠木正成の千早城の攻防をみれば、寄せては仕寄の準備を全く欠いていたことがわかります。これでは城は落ちません。

ところが、領国統一から広域支配の時代になりますと、端から籠城を覚悟した造りに城塞はなってきます。それは、攻撃側が敵を徹底的に攻略しようという意志を持つようになったからです。そのため、力攻めで短期に落とすことが無理ならば、攻囲して経済封鎖をすることによって攻略する必要が生じたわけです。そのために発達したのが付城です。城が物資の集積基地であるから、攻囲するわけではありません。戦国時代になると大大名たちは城攻めには、付城を築いて攻囲戦を行うようになるのですが、それ以外の国人衆以下のレベルでの戦争では、そのような例はそれほど多くないのです。攻囲する側も兵員を張りつけなければなりませんし、その兵粮その他の軍需物資を補給するのが大変だからです。

領国統一から広域支配の時代になって、端から籠城を覚悟した城塞を攻囲するようになったのは、我彼に圧倒的な兵力差があるのに敵が降参しないからです。そして、降参しないその理由は初めから敵を拘束する役目を持つ城であるか、敵に服従するのが嫌だからです。つまり、近隣の紛争や中央政治の代理戦争として互いに同等の兵力で戦う時代は終わり、継続的に領土拡大のための争いがはじまったのです。

ですから、信長が活躍し始める時代の城塞は、既に「城は攻めても落ちないもの」などではなくなっていたのです。そして、戦国時代が終わる頃には「城は必ず落ちるもの」になってしまっています。天下分け目の合戦の時代に落ちなかった城は数えるほどしかないはずです。

 

(5)別動隊説の問題点    (初出2007.12.18、)   

桶狭間の戦いにおける一方的な大勝利を迂回を考えずに可能にする方法には、「別動隊」を考えることで解決することができます。

但し、この別動隊説には根本的な問題がいくつかあります。

  1. 当時の信長には支隊(別動隊)を預けられるような官僚的指揮官はいなかっただろうと思われること。
  2. 信長が別動隊を使って挟撃作戦の類を行ったことがないと思われること。そのような作戦は不確実なものですが、永禄二年四月に福谷(ウエキガイ)砦の酒井忠次を攻めたときに、自らが岩崎丹羽氏を牽制しておいて、柴田・荒川をして攻めさせたというものが『東照軍鑑』にあるのですが、これだけだと考えられるからです。成功はしていません。
  3. 別動隊を指揮できそうな武将は全て、付城の守将を務めていて出払っていると考えられること。
  4. 『信長公記』に名前の出てこない大物武将を別動隊とした場合には、その事績が諸家の家に伝わらないこと。
  5. 分進合撃や別動隊との共同作戦を実現することは、無線通信のなかった時代では極めて困難なこと。あのナポレオンでさえ、ワーテルローではグルーシーの部隊を間に合わせることができなかったのです。ナポレオン自身が後日、別動隊を呼び寄せるために常と違って一人しか伝令を出さなかったことを後悔しているぐらいです。
  6. 桶狭間の戦いの後の信長の作戦に、別動隊を用いた作戦は長篠合戦しかなく、この戦いでは長篠城の救援が主目的ですから、敵の鷲巣砦攻略には大軍を派遣しています。そして、敵に優越する兵力があれば、別動隊どころか複数の攻め口から攻撃することは自由であるというよりも、混雑を避けるためにも必然になるに過ぎない現象であること。信長が敵より劣る兵力で別動隊などは使用した実績がないこと。 (2008.1.27)
  7. 敵に劣る兵力で二正面に敵を受けて戦った稲生合戦ですら、支隊を設けなかったことからみても、当時の信長には別動隊の指揮を任すことができるような野戦指揮官は未だ育っていなかったと考えるべきであること。 (2008.1.27)
  8. 戦後、別動隊の指揮官が論功行賞に与かっていないこと。
ホームページ制作、ホームページ作成歯医者転職SEOインプラントオール電化