<『藤井戦国史・間違いだらけの桶狭間』を読む>    (2007.9.9〜10.2)

 

Googleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9

(1)『藤井戦国史・間違いだらけの桶狭間』を読む

桐野作人氏のブログ膏盲記を拝見していましたら、織田方の千秋四郎・佐々隼人正がなぜ無謀な突撃を敢行して玉砕したのかは、藤井尚夫説と天理本でほぼ明らかにできるのではないかという点で谷口氏と意見が一致したと書かれていました。詳細は何も書かれていないので、藤井尚夫氏のHP『藤井戦国史・間違いだらけの桶狭間』を見てみました。 

註  ブログの内容:桶狭間合戦について、信長公記の解釈や史料的な限界についてほとんど意見が一致したが、義元本陣をどこに想定するかについて、谷口氏の個人的見解をうかがって、なるほどと思った。信長公記の記述と矛盾しない。ただ、天理本首巻とはどうか多少気になった。また今川軍前衛部隊の位置がどこだったかについても議論した。それと、織田方の千秋四郎・佐々隼人正の最初の所在地とその後の所在地、なぜ無謀な突撃を敢行して玉砕したのか、藤井尚夫説と天理本でほぼ明らかにできるのではないかという点で意見が一致した。

藤井尚夫氏の説で聴くべきは以下の諸点です。

  1. 大高城の包囲には、これまで無視されてきた砦が必要であるということに注意を向けさせていること、
  2. その攻囲に水野信元も加わっており、その信元が義元の後詰に際して信長を裏切って撤兵したとされること、
  3. 義元本陣は高根にあったとされていること。 
  4. 既に、駿河勢の勢力は伸び悩んでおり、信長の方が攻勢になってきていること。 

しかし同時に、疑問の多い仮説にも満ち溢れてもいるのですが、そのHPの記事も含めて、明らかな事実誤認が多すぎるのが欠点です。

藤井尚夫『藤井戦国史・間違いだらけの桶狭間』の要旨は以下のようなものです。 ?は疑問点

  1. いわゆる境目の城をめぐる「後詰決戦パターン」?である。 (決戦の語感は意図して敵を撃滅して決着をつけるというイメージがあり、義元の敵主力撃滅の意志または信長の大高城を餌にした罠という意図がありそうに読者を誘導する恐れがある。史実の多くは、後詰をした結果、敵に撤兵させることができずに、止むなく合戦に至ったというのが真実である。史実は三国志演義とは違う。)
  2. 桶狭間合戦は、織田信長の仕掛けた合戦(信長の必勝戦術とはどのようなものかが提示されていない。)であり信長主導の作戦である。 (『歴史群像』掲載「桶狭間の仕掛け人は信長だった」1996年6月 )
  3. 合戦の前夜に“軍議”が行われなかったと通説はいうが、信長は前夜に軍議を催す必要などなかった。その理由は、信長は永録三年一月に品野城攻略に引き続き、勢いに乗って水野信元を誘って鳴海城・大高城の攻略に乗り出している(信元が要請したのならともかく、信長が要請したという史料がない)だから、今川義元としては後詰をしなければならない状況に追い込まれたのだ。つまり、桶狭間での戦いは起きるべくして起きた戦いであり、信長が主導したと言える?誰が見ても戦場が特定できる戦争が予定されていたのだから、信長は前夜に軍議を催す必要などなかった。だから、「軍の行は努々これなく」とは「軍議まったく無かった」と訳すのではなく、「命令はまったく、出されなかった」と訳すべきだ。
  4. 信長の主力はすでに現地(丹下・善照寺・中島)にいた(?それでたった二〜三千か)のであって清州にいたのではなかった。それ故に信長は単身出陣すればよかっただけなのだ。前夜の清洲には主要な重臣らは居なかったのだから、軍議などは開きたくても開けなかったのだ。
  5. 最前線で救援を待つ佐久間大学・織田玄蕃の危機的状況を無視し、何の命令もせず、撤退も許可せずに玉砕を強いて、事実上「死刑宣告」をしたのは、五月十八日に水野氏や千秋らの撤退とを知った織田信長が、大高城包囲の戦線崩壊を参加武将全員の共同責任(?証明できない)と捉えたからである。佐々隼人正、千秋四郎も暗黙のうちに悟って?玉砕して果てた。織田信長からすると、水野信元も当然「死刑」対象であるから、彼の存在意義が薄れる天正三年十二月、執行猶予が解かれて信元は腹を切らされたのだ。
  6. 大高城と鳴海城の間が、水野氏と織田氏の本来の領地境であり、大高城は水野方の城(?断定はできない)であった。大高城包囲は、水野信元を中心に据えて行うべき作業であり、信長だけでは行えないはずである。だから、水野信元は大高城の尾根続きにある向山砦に入って(?証明できない)して大高城攻めに参加していたのだ。大高城の東の「証光寺砦」に佐々隼人正(?証明できない)、南西の「氷上山砦」に千秋四郎(?証明できない)が入り、丸根砦に佐久間大学、鷲津砦に織田玄蕃が入っていた。水野が裏切ったので佐々隼人正と千秋四郎は、中島砦付近に撤退した。
  7. 水野氏は、領域から考えると千を超える動員力がある小生に云わせると、たった千しかない。知多半島を制圧したはずなのに)のに、桶狭間の記録に現れてこないのは、今川や松平からの誘いにのって水野信元が織田信長を見限り、今川に寝返り撤兵したからである。後の天下人家康の叔父である水野信元の行動を「みっともない」?とみた太田牛一が自主規制して『信長公記』から削除したため、「信元の出番の無い桶狭間」が通史となった。
  8. 織田・今川両軍は東海道上で戦闘(?なぜ兵を展開できない渓谷での戦闘に至ったのかの説明はなされない)を開始する、これによって『信長公記』が東に向かって攻めたということをクリアーできる。織田軍の攻勢(ここでも、なぜ信長軍が優勢になれたのかの説明はない)を前にして今川義元は本陣から離脱し、瀬名氏の陣地方面に逃げるが、陣の手前で補足され討ち取られる。今川本陣は現在の有松神社のある丘の上であり、牛一はここを桶狭間山と呼んだと考える。

では、藤井尚夫『藤井戦国史・間違いだらけの桶狭間』のどこが間違い?なのでしょうか。

(1)まず、後詰「決戦」という造語はいただけません。「決」を抜くべきでしょう。

なぜなら戦国時代の武将たちには「決戦」、すなわち敵の部隊を補足して殲滅しようという思想も、敵部隊を撃滅しようという思想もなかったと考えるからです。これらの敵部隊それ自体を目的にするということは、優れて近代的な思想であり、それは将兵に目的合理的な精神が芽生えて、軍事行動が任務の束になった近代的な官僚組織としての軍隊ができてからのことだからと小生は考えるからです。

それに、諸国に市民や国民という観念が生まれて、市民や国民が兵士になっていなければ、軍隊が敗れて消滅しても国王は戦争に負けたことにはならないでしょう。戦闘に敗れること=市民・国民の消滅という事実があって、初めて敵軍を補足殲滅する必要と戦術が意味をもって生まれてきたわけでしょう。

それだけではありません。文学的表現でなければ、決戦を企画するということは、湯水のように将兵や軍需物資を消費する覚悟がなければなりません。それだけなら、当時でも一向一揆などが大量動員できますが、それでは十分ではありません。勝ち負けを一元的に政府が決められなければ意味がないからです。ゲリラ戦などでだらだらと抵抗をつづけられては、決戦をする意味がありません。それに将兵を、これまた際限もなく補充するには国民国家ができるまで待たねばなりません。これらの傍証としては戦国時代でさえ、会戦が少ないことがあげられます。つまり、現在では一般には農兵が主体であった戦国大名たちは、損害が出ることを非常に嫌ったと思われているからです。

それに、戦国時代の軍隊には、戦国時代も末期になるにつれて、無暗やたらに旗が多くなることです。これは、直接的な戦力などではなく、敵に威勢を示して退かせるまではいかなくても、戦意を萎えさせるのが目的だと思われます。………つまり、戦国時代の戦術で後詰をするということは、敵の包囲や圧力を受けている味方からその束縛を解いてやることが主たる目的なのであって、城砦で敵を拘束しておくことで之を補足し、撃滅しようという三国志ばりの戦術などは基本的に持っていなかった考えるべきだと小生は思います。

あの戦闘を求めて止まなかったような上杉謙信ですら、川中島で武田信玄と正面切っての決戦などはしていないのです。ですから、決戦に至ってしまうのは、互いの思惑が外れたことによる結果であったものと小生は考えます。

決戦は勝利しても受ける打撃が大きすぎるからでもあります。従って、市民が誕生し国家が生まれることによって、近代的な国民軍が創設され、国民皆兵によって消耗戦に耐えられるようになって初めて生まれる思想です。ですから、早期に敵が包囲を諦めて引揚げずに決戦になってしまうのは、明らかに我彼の何れかの判断の誤りによって生起してしまった「成り行き」でしかないのです。

思うに、後詰して戦に至るのは、脅しが効かなかったからか、逃げ遅れたかのどちらかである失敗した作戦でしかないのです。ですから、藤井尚夫氏が世間に後詰「決戦」という言葉を流行させることは、一般の人に近代以前の戦闘に誤ったイメージを持たせてしまうだけでなく、そのもつ語感から専門の歴史学者にも誤った予断を与えることを懸念するのです。

現に、多くの人が、包囲された味方の後詰を語るときには、決戦を意図していたことを当然と考えたりするため、高松城を後詰した毛利勢が即座に戦闘を開始しなかったことを不満に感じたり、三国志ばりに敵城を包囲することを、敵の主力を補足殲滅する策略であるなどと先走って考えてしまうのです。………現実は違うと思います。敵城を攻め落とす前に敵軍が駆け付けることができたということは、その時点で作戦の失敗だとみるべきなのではないでしょうか。

 

(2)ここでの「主導」という言葉は、単なるきっかけなどではなく、意図して敵を刺激して合戦に及んだという意味にとらえています。

桶狭間合戦が、織田信長の仕掛けた信長主導の作戦であるということには傍証があるようです。信長が決戦を決意していた証として、「其夜之御咄(に)、軍之行(についてに)御談合(は)是非国境にて可被遂トグ御一戦候、寄地へ被踏迯ニゲル候而(ソウロウテ)は有に無甲斐との御存分也」と書く天理本があるというからです。

しかし、兵力に劣ると思われていた信長が仕掛けたとしたならば、当然に諸葛孔明ばりに大高城を餌にして義元を罠にかける用意しなければならないはずなのですが、その計画とは具体的にはどのようなものだったのでしょうか。信長が仕掛けた罠なら勝って当然なのです。一般に思いつく作戦は義元の移動中で長く薄く延びた無防備な隊列を横撃することです。そして、今でも多くの人が史実はそのような状況であったと考えてもいます。

それに、信長が西三河に手を出したのが原因だというならば、そもそも今川氏が斯波氏が守護であった遠江に侵出したことが原因なのであり、今川氏が仕掛けた戦争だというべきでしょう。また、信秀は今川氏から那古野城を奪ってもいますからこれが遠因なのかも知れません。

それに、大きな兵力差があったと伝えられる今川勢に対するのに、彼等が付城を攻撃していて少なくともその兵力の一部が動きが取れないときに信長が義元本隊を攻撃できなかったのは、どうみても信長の大失策と言うべきなのではないのでしょうか。つまり、『信長公記』が「軍の行は努々これなく」というのは、「直ちに後詰することで意見が一致していたから、軍勢を派遣する命令を出すまでもなく、諸勢ことごく発った」というものでなければならない事になります。………それ以外に信長には一体どのような方策があったといい、実行したというのでしょうか?前線から攻撃時間まで報告を受けていたにも関わらず、信長は家老衆に嘲弄されたように何の手立ても講じておらず、付城を攻める駿河勢の背後を攻撃できなかったのです。

そのような、事態の推移になってしまったのは、信長の立てた計画と現実がどこが違っていた為なのでしょうか?なぜ、信長は朝比奈・松平らの付城攻撃軍を攻撃しなかったのでしょうか。後続している義元本隊に挟撃されることを恐れたからでしょうか………。

通説によれば、十九日の付城攻撃に今川義元が参加していなかったからだということになりますが、駿河勢が大軍であったならば義元が督戦しないことなどは、事前に当然考えられていたはずですし、義元が信長の付城をローラー作戦で順番に浸食してくる作戦を持つことも、当然予想されたはずです。それならば、信長は義元本陣を手薄にするために、如何まる作戦を立てたのでしょうか。そのような作戦らしきものがあったようには見えません。全てが成り行きであったうえに、僥倖に恵まれただけのようにみえます。………したがって、「信長主導」ということは、「信長が尾三国境でそれまでの守勢から一転して攻勢を取り始めたから、義元がこれを放置できなかった」という至極当然な政治的意味でしかないことになります。

 

(3)「品野城攻略に引き続き勢いに乗って水野信元を誘って鳴海城・大高城の攻略に乗り出した」ということには、事実の全体像を著しく歪めるものがあるよう見えます。

信長が品野城を攻略できたとしても、それは永禄三年一月のことですから、大高城に付城が付けられたのはそれ以降だということになります。実際には、桶狭間合戦前に瀬戸市方面の諸城が落城したり開城したという確かな証拠はありません、義元の討死後にこれらの松平勢が撤退し、廃城になったようではありますが………。

ところが、大高城が今川方に渡った時期には諸説あって、最も古いものには伊勢法師物語と前橋酒井家旧蔵聞書がいう弘治三年(1557)兵糧入説があり、それ以外にも合戦時の兵粮入れまでの毎年に説が唱えられています………。これらを、どのように解釈したならばよいでしょうか。唯一の解釈は大高城は何度も取ったり取られたりしたという事実があったということを考えなければなりません。

それに、もし藤井尚夫氏の言われるように、永禄三年に入ってバタバタと物事が進んだのだとしたならば、水野信元の目には信長の威勢の方が三ケ国の太守今川義元に勝ると映ったということができるはずです。それが幾ばくもしないうちに大高城を調略されたことになるのです。それも山口左馬助によってです。そして、その左馬助父子は弘治元年〜永禄二年(1555〜1559)の間に今川義元によって駿河に召し出されて謀殺されてしまっているというのが通説なのです。

大問題は、この大高城が「調略によって」今川方の手に渡っていると看做されている事実があります。………信長の威勢が興隆し始めているなかで今川方に寝返った大高城主水野忠氏(忠守)の思惑とはどのようなものだったのでしょうか。納得できる説明は、水野一族は一枚岩でなかったということだけで、真実は闇の中です。

また、弘治元年(1555)二月五日には花井右衛門が信長より星崎・根上の没収調査を命ぜられていますから、これにより孤立することになったらしく、笠寺を失ってからは、鳴海城では岡部元信と城番を交代させられており、弘治三年になると信長は、鳴海東宮大明神・八幡神田を安堵する書状を発行しています。………このように、信長方による鳴海城・大高城の包囲が品野城攻略に成功した後だということには、疑問がいっぱいあるのです。包囲の意味が付城を信長が築いて本腰を入れてからといのであれば、納得なのですが………。

しかし、永禄三年に入ってバタバタと物事が進展したという説は、再検証に値する魅力的な説ではあります。

(4)信長は、前夜に軍議を催す必などなかったということについては、信長の尾三国境での攻勢によって義元は後詰せざるを得ない状況に追い詰められていたことは誰の目にも明らかであり、戦場も特定できたことから、信長方では事に臨んで採るべき行動は既に定まっていたという認識は、一般論としては納得できるものがあります。

しかし、それはサッカーでボールのあるところに選手が群れ集まるようにという意味ででしかありません。逆にいえば、信長が「俺が来いと言ったら来い。あとは何も作戦などはない。出た所勝負だ。俺に任せろ」というようなものでしょう。ですから、「軍の行は努々これなく」と書く趣意は、「軍議まったく無かった」ということなのではなく、「軍勢を動かす命令は、出されなくても既定のことであった」と藤井尚夫氏は訳されるわけですが、これは妥当な解釈かも知れません。但し、後詰でなく何処へ作戦するかということが、君臣の間で合意があったことになるわけですが、その作戦に納得のいくものが提起されていないという問題があります。

また、信長の主力はすでに現地(丹下・善照寺・中島)にいたのであって清州にいたのではなかったと言われるに至っては行き過ぎでしょう。それで、総勢三千程度の兵力しかなかったとあっては話にもなりません。………信長の作戦とは一体どのようなものだったのでしょうか?     

それに、天理本がこれに反する記事を載せています。「其夜之御咄ニ、軍之行ニツイテノ御談合ハ、於是非国境にて可被遂(トグ)御一戦候、寄地へ被踏迯(ニゲル)候而(ソウロウテ)は有に無甲斐との御存分也。然処(シカルトコロニ)御家老之衆、一味同心に被申候。御敵は四万五千ノ大軍也、其分一にも不足御人数に候。是程能(ヨキ)名城ヲ御拘(カカエ)之事に候之間、時分を被成御計御合戦尤(もっとも)と申候之処、其御同心無御座

もし、信長の動員できる兵力が三千以上、五千もあったならば鳴海城や大高城を攻め落とすことは左程難しいことではなかったはずです。村木砦を攻めた熱意があればどちらも一日で攻略できたことでしょう。ところが、信長の尾張統一時代から美濃攻略時代の兵力を案じてみると、いずれも協力した親族の兵力を除けば二千を超えることはなさそうに思えるのです。そうでなければ、大高城の攻略にあれ程の時間がかかるわけがありません。このように主張しますと、何事も陰謀に結びつけたがる性向の人は、信長が義元を釣り出すための餌として意図的に力攻めをしないで生かしておいたのだと主張されることでしょう。

 (5)果たして信長の軍隊、信長の部下たちに、「作戦に対する共同責任=連帯責任」などという観念があったと言えるでしょうか。

これは、なんども述べているように優れて近代的な思想なのです。当時の武士に「任務に対する責任」などという観念があったとは思えません。

第一、信長が部下に連帯責任を問うたなどという事例自体がみられません。『信長公記』以下の史料にそのような事例を見出すことはできません。後年のことになりますが、上杉謙信の侵攻を前にして戦線を離脱した秀吉を罰することをしなかったばかりか、柴田を始めとした諸将の連隊責任が問われたわけではないようです。

それよりもまず、信長は水野信元の撤退を知ることができたでしょうか?もしその時代に任務に対する責任感というものがあったとしたならば、なぜ、佐々隼人正と千秋四郎は氷上・正光寺砦から撤退せざるを得なかった旨の注進を清須に発しなかったのでしょうか?彼らが、任務を達成するために事態を信長に知らせる使者を放ったという話などはどこにも見出すことはできないのです。つまり、佐々隼人正と千秋四郎にも任務を遂行しようという思想も、自身の役割・軍務の意図を理解した形跡などは微塵もなかったことになるのです。

それどころか、偽書・『武功夜話』などは前夜の佐々兄弟について「義元沓掛入城の報に、佐々党は善光寺道に出て平針村に居陣」といいますし、『総見記(織田軍記・1702)』は「熱田表には、織田方の先陣佐々隼人・千秋四郎ら人数二百ばかりにて、信長公の御旗を待ち受けとし、『道家祖看』は「星崎方面に控えていた佐々下野守政次は、三百あまりの小勢で敵の六万余騎を押さえていた。そこへ陣を進めてきた信長を出迎え、(中略)我らは東向きに今川方の旗本へ乱入いたします。殿は脇槍に向かわれ、鉄砲も弓も捨てて、ただただ一途に義元に打ちかかられるがよろしいでしょうと言って、佐々政次は敵陣へ押し向かって行った」と熱田にいたと夫々の見解を伝えますのを、全て無視して新しい伝説を創作しただけになります。

まだ疑問があります。大高城は信長にとっては、同盟者である水野氏の領地、又は勢力圏であったのですから、水野信元の上位にいた信長がそこに城砦を築いて配下を配置することができたと考えておられるようなのです。

しかし、当時、他人の領地に砦を築くなどことが本当にできたのでしょうか?軍勢を派遣することなく、命令一本で領民や資材を徴発することができたのでしょうか?その後の水野信元が信長の美濃攻略戦に名前がみえず、足利将軍を奉じた上洛戦にも自身は出陣していないようであり、十年後の元亀元年(1570)に至ってやっと甥の家康と共に姉川の戦い、佐和山城攻めに参陣しているようなのです。そんな信元の領国内(?)に信長が砦を築けたとは、小生には到底思えないのです。

また、藤井尚夫氏は、千秋四郎の領地は知多半島の先端の羽豆崎にあったといわれますが、これも事実誤認ではないでしょうか?………これは、南北朝時代の千秋昌能のことのように小生には思えまして、戦国時代には既に千秋氏の手から離れているように見えます。南朝が衰えると神宮領は土豪に横領されて次第に消滅し、足利一族の一色氏が幡豆岬を支配するようになっており、その代官として佐治氏が幡豆崎城に入っているようだからです。従って、戦国時代になると、かつて三国にも及んでいた熱田神宮社領もわずかに残るのみで、そのようになってしまった社領を、それ以上侵食されないためにも、直接支配する必要に迫られて尾張に移って来たという経緯があるようです。 

ですから、藤井氏が熱田神宮大宮司職であった千秋氏が遠慮なく氷上山に砦を築けたといえるかも疑問なのです。氷上姉子神社は確かに熱田神宮の摂社なのですが、その社領が神宮と同一のもの、つまり同じ財布であったとは小生には思えないのです。

ところで、水野信元勢が撤退した後で、佐々隼人正と千秋四郎が退きあげるべき先は、常識的に考えても中島砦辺りなどではなく、駿河方との最前線になる鷲津砦なのではないのでしょうか?もし、両人が二百人の兵力を率いて鷲津砦に入っていたならば、鷲津砦は落去しなかったかもしれず、信長の後詰も間に合って新たな展開があったかもしれないのです。勿論、後詰した信長は新手の義元本隊に挟撃されて全滅されたかもしれませんが………。

 (2008.09.29 挿入) 当時の武士の心性(マンタリテ)を考えても、千秋・佐々らが信長の譴責を恐れて無謀な特攻をしたというのは、当たらないだろうと思います。当時の武士の心性として、アイデンティティを「生より死に求めた」ことを思えば、功名以外には考え難いからです。「譴責を恐れる」などという「ふやけた」「やわい」「ゆるい」「腑抜けた」心持や態度は最も武士には忌み嫌われたはずだと思うのです。

当時の武士が功名・高名を求めての馬前・陣前での討死、そして平時における追腹(殉死)、また旗印・袰などの自己の存在を顕示するための小道具などが必需品であったことは、殺人を業とした武士に必要な基礎となる心性(マンタリテ)としての狂気であろうと考えられます。………これは、鉄砲が戦場の主流になって馬上にあって最も目立ち狙撃されやすい大身の武将にあっても鎧兜・陣羽織・馬印など目立つことを止めません。これは、指揮官が健在であることを示して味方の指揮を鼓舞する目的だけではないはずです。

当時の武士が死ぬのは、心理的に脅迫されて追い詰められたからなどではないはずです。第一番には自己のアイデンティティを確立するためであり、一家を打ち立て維持するためであり、最後に、平時には主君と「一味同心」の運命共同体としての情誼によるものが来るのだと考えます。

 

(6)水野氏が撤退したのは理解できますが、それは一概に信長を裏切ったとは言えません、なにしろ義元は大軍という触れ込みなのですから、本城に戦力を集中して防御に徹するのは当然の戦術です。

織田との同盟を反故にしたとは言えません。実際にそうであったように、義元は刈谷(屋)水野氏、緒川水野氏を押さえるために兵力を割いたと多くの人が了解しているからです。従って、敵である今川義元の大軍の過半におよぶ軍勢を、刈谷・緒川の両城に引きつけて拘束して、信長に乾坤一擲の攻撃を勝利に導いたことは、信長に感謝されこそすれ恨まれる謂われはなさそうです。少なくとも、堂々と信長に申し開きは出来るでしょう。………後日、誅殺された信元をみますと水野信元は云い訳は苦手なようですが。  

そもそも、水野信元の行動は江戸初期の武士の常識として「みっともない」ことだったのでしょうか?戦術的には臨機応変ですし、政治的にも玉虫色に身を処して国を保っており、一時は独立した元康を後見して三河にも威勢を張り、室町幕府には外様大名として扱われ、むしろ「かくありたい」と当時の戦国武士たちに思われるような見本だったのではないのでしょうか。

 

(7)藤井尚夫氏は、現在定説になっているようにも思える小島氏の比定した64.9mの山付近から1kmほど北西の高根辺りに義元本陣を想定し、東海道上で戦闘が行われたとしておられます。ここは40〜50mの丘陵で南の幕山との鞍部に桶狭間〜鳴海道が通っており、善照寺砦から見通すことができる場所ですから、『信長公記』の記載に矛盾することはありません。また、天理本がいう「段々に備えた」ということも、善照寺砦の信長側からみると、義元勢は丘の西側斜面に段々になって布陣していることになりますから適合し、極めて魅力的な説だと思います。

しかし、昨今いわれるような東海道を東行して義元を強襲する場合には、優勢な義元の前備を迂回することはできませんから、多くの軍記物の主張あるいは証言に反するという欠点があります。………『塩尻』は太子ケ根から攻撃したとし、『老人雑話』や『武徳編年集成』は間道より攻撃したとしていますし、『井伊家伝記』『奥山孫市郎遺言』『参州事実録』などは先備と本陣の二手に分かれて攻撃したとしているからです。

それ以上に、藤井尚夫氏の仮説(イラスト)の問題点は、東海道は狭間の中を通っており、大軍を展開するに適さないのに、狭間の中に駿河軍が充満させていることにあります。狭間を封鎖することは軍事的に大いに意味があるのですが、その中に大軍を止めることは兵法の常識に反します。 せっかく大軍である(包囲する)利点が活かせないからです。

  1. 『孫子・地形篇』 「隘なる形には、われまずこれに居らば、必ずこれを盈(み)たしてもって敵を待つ。もし敵まずこれに居り、盈つればすなわち従うことなかれ、盈たざればすなわちこれに従え」「険なる形には、われまずこれに居らば、必ず高陽に居りてもって敵を待つ。もし敵まずこれに居らば、引きてこれを去りて従うことなかれ」 ・・・ 「必盈之以待敵」とは、隘路や狭間の中に大軍勢を布陣しろと言っているのではありません。そこを敵に先んじて支配下に置けと言っているのです。谷口を閉塞する作戦は兵力の劣る側の採る作戦です。谷口を閉塞して敵が強行突破しようとしたならば、兵力の逐次投入を余儀なくさせることができるからです。できることなら両側の高地から横矢をかけられるようにすることです。
  2. 西部劇では、インディアンがよく谷間で待ち伏せるときには、崖の上にいますから、見てみたらいかがでしょうか。隘路の中では軍勢を展開できないため、谷口から外に向かって突撃しようとすると、出谷口で凹状に布陣した敵に十字砲火を浴びせられて、優勢な兵力でも逐次投入しかできなくなり、兵力を漸減させられることになります。かのテルモピレーで三百人のスパルタ兵がペルシャの大軍を引き受けることができたのは、彼等が谷口から外へ出なかったからなのです。しかし、大軍である場合には違います。先んじてそこを支配下におき、敵にそこを与えないためでしかないのです。
  3.  『呉氏・応変第五』 「諸(コレ)に丘陵林谷、深山大沢に遇うときは疾く行き、亟(スミヤ)かに去り、従容たるを得ることなかれ。もし高山深谷(の内)に、卒然としてあい遇わば、必ずまず鼓を譟してこれに乗じ、弓と弩を進め、かつ射、かつ虜にせよ。審ツマビラかにその治を察し、乱るればすなわちこれを撃ちて疑うことなかれ」・・・大軍をもって谷間に充満して屯することは、兵力の無駄になります。後方の部隊が有効に展開・機動できないからです。呉氏では孫子の筆の言いつくしていないところを補強して解説しています。

また、瀬名伊予守氏俊の陣所伝説地よりも1kmほども離れておりまして、瀬名氏が事前に自陣よりも敵に近い場所に本陣を設けて置いたとは思えません。さらに、東海道が山間を抜けてもその先、曾根から中島までの間が水田の中を通っているとしたならば、これまた大軍を展開して決戦などが出来ない場所であったことになります。従って、義元が大高城に向かっている途中である限りは、まともな布陣とは言えません。また、藤井氏のイラストが描くように、駿河軍が互いを臨見できるような状態で布陣していては、山鹿素行が『武家事記』で「先手後備ともに義元討死を知れるものなく、手に遇うもの少なし」と評し、氏真が朝比奈らの駿河武将を免責することなどはできなくなるはずです。 

と、いう訳で、桐野作人氏や谷口克広氏の発表される新説がたのしみです。

註  室蘭民報ニュース:第43回市民文化祭のぼりべつ2007参加の「郷土史の夕べ」が登別市民会館で開かれ、市内美園町在住の戦国史研究家・谷口克広さんが「織田信長の合戦〜桶狭間の戦い・長篠の戦いの真実〜」と題して講演した。「今川軍の前衛部隊が押し戻され苦戦していた。今川軍は構えていた山から下って、正面から攻め込んだ信長軍と戦ったのが真実ではないか。奇襲ではない」と述べた。(2007.11.22追加。詳細は不明)

 

(8)追加:『合戦最大の謎義元本陣はどこか?桶狭間合戦』 藤井尚夫著/新・歴史群像シリーズ(信長と織田軍団) の問題点   (2008.02.29)

此の記事は、推論以前に事実認定について明らかな誤りが多すぎるようです。

具体的に指摘しますと、

  1. p17. 「『信長公記』に出てくる地名”おけはざま”は、一つの谷の名称ではなく、鳴海城の南東にある丘陵地帯の地名であり、「おけはざま山」とはこの丘陵全体を指している。(中略)江戸期、桶狭間村と呼ばれる地域は、東西3km、南北2kmに及んでいる」とされますが、これではまるで漆山から田楽坪までの範囲が桶狭間村であるかのように読者が受取かねない言い方です。しかし、これでは全部間違っていることになってしまいます。なぜなら、この辺りの多くは南部が大高村と北部が鳴海村だからです。………桶狭間村というのは大池辺りの谷筋の狭い地域(有松村辺りも含む)であることを藤井氏が認識していないことは問題です。当時、おけはざま村はありましたが、桶狭間山はありませんでしたし、現在も桶狭間山はありませんでえした。また、桶狭間丘陵などというものもありません。『信長公記』で太田牛一がいう意味が「桶狭間村方面(方向)の山または山々」という漠然とした意味であったとしても、精々が善照寺砦から見える範囲でしょうし、具体的には、南東方向に見える「高根」を中心とした1km圏内に限定すべきでしょう。……… (以下、2008.12.24挿入) 藤本正行氏などは26年前から東海道より北の二村山から続く丘陵をも牛一のいう”おけはざまやま”と看做す見解のようです。
  2. p17. 「”槍下”とは槍の下の意味ではなく、”戦時下”などと用いる”下”であり、ここでは戦闘下で戦死したことを伝えている」といわれますが、『信長公記』で太田牛一は態々、元亀・天正時代以降に比べるとという意味であると思いますが、永禄年の当時は「槍上・槍下ということがあった」と伝えているのですから、「戦闘によって」などという単純な意味ではないはずです。敵味方の位置関係の高低であったはずです。特に、集団で使用して叩きつけて使う足軽鑓では高所に位置する方が断然に有利であったと思われるからです。
  3. p18. 本陣候補地の長坂・平部から左京山や漆山の三か所から田楽坪までは、丘陵が複雑に交錯し、撤退ルートをイメージし難い。特に漆山から田楽坪までの距離は、直線で2kmもあり、丘をいくつも上下し、湿地を迂回しつつの撤退では、直線距離の倍以上を移動することになりそうだ」と書かれますが、鎌研からは高根山の峠を越える鳴海〜桶狭間道があったこと。また、その道は当時の主要地方道であることを認識されていません。また、漆山から高根の間は湿地帯などはありませんし、乾燥しきった疎な松林・雑木林でしかなかったものと考えられます。現代ですらそのような植生なのです。
  4. p18. 『信長公記』の記述(五度も返し合わせたという)は、数kmに渡った(義元の何度も取って返して戦った撤退戦の)激闘の記録なのかもしれない。」とされるが、それならば一時間程度の短時間の戦闘では終了するはずがない。従って、数キロに渡って追撃したと考えることは不適当であろう。何故なら、信長が義元旗本に向かって突撃したのは午後二時頃であり陽のあるうちに清洲へ帰還したのである。
  5. p18. B地点までは想定戦場(p17を見ると佐々等の戦った場所を言うらしい)を望める。…B地点は幕山と呼ばれ標高は50mある。その北端の頂部に有松神社があり、神社の境内から2km離れた想定戦場が見通せる。」と言われるが、著者がB地点は幕山であるとするのは、明らかに”高根”の誤りである。これは著者の使用されたと思われる旧参謀本部の桶狭間合戦付属地図と国土地理院発行の現代地形図を比較してみれば解ることである。Bの文字が印刷された丘陵は、大池や二つ池の北にあり、地蔵池の東北方面にあるから、これは明らかに生山である。そして、Cと書かれた文字の右下の高地が高根であり、更にその下の高地が幕山にあたるものと思う。また、神社の境内から2km離れた想定戦場が見通せるというのも誤解である。確かに見晴らしはよいのだが、2km先の地面は見えないことは縦断をとってみればわかることである。
  6. p18. 幕山で注目したいのは、(北の高根山頂にある)有松神社の境内から二百mほど南西にある尾根状地形である。戦国期城郭によくみられる腰曲輪や、尾根中段の平場があり、本格的陣地構築がなされたと考えられ、戦闘日以前から、陣地構築を行っていたと思われる。」とされるが、これは瀬名氏俊陣所跡と伝承がある檀状をなす大池辺を云うのだろうが、腰曲輪や尾根中段の平場などではなく、自然地形の山裾でしかない。西側に大池と深田を抱えているから堀を掘らなかったかも知れないが、狭間の低地である。だから、ここが本陣先備えであればそれなりに有効であったろうが、それ単独では見通しが悪いため設営場所としては相応しいものではない。
  7. p18. 有松神社の高地はその北側の東海道を押さえる戦術上の要地であり、桶狭間合戦以前から軍事拠点として利用されていた可能性も指摘できる。」と言われるが、それはあり得ないことだろう。何故ならば、東西の軍事力が激突したのは古来「墨俣」であり、当時の基幹街道は鎌倉往還であって二村山を越えていた。現・東海道を軍勢が通るのは地元の領主の将兵に限られたであろうが、当時の有松を中心とした周辺では戦争いになった伝承すらないのである。今川方が大高城と鳴海城を確保していた時期ですら、高根を継城として整備された形跡も伝承もないのである。
  8. p18. (蓬左文庫桶狭間図の義元本陣位置を決定するのに、)A〜Eのそれぞれの候補地をみると、道幅は各種あるが、どの候補地の西側の谷にも南北の道があり、道の存在だけでは決めてにはならない。」とされるが、まず比較に使用した地図は旧軍参謀本部の桶狭間図を使用しているようなのであるが、それには南北に通う道の記載などは一本もない。しかし、実際には南北にはしる道はEの西に走る”小川道”しかなかったのだ。EとDの左京山との間に当時道はない。Bは生山であるから当時はAの西にあたる現名古屋短大脇の道はなかった。Bの生山と高根であるCの間にも南北にはしる”現・県道”は当時はなかったし、Cの高根とDの間にも勿論南北にはしる道などはなかった。ある訳はないのである。何故なら当時の東海道は未だ整備されておらず、有松をはじめとした宿も立場もなかったし、丘陵を挟んだ南側にも桶狭間と大高以外には集落はなかっただろうからである。即ち、南北の道の必要などはなかったのだから、あったわけがないのである。但し、Cの高根とDの間には”鳴海道”という南東に通じる道があった。
  9. p19. 長篠合戦当時の織田信長の本陣(檀上山)と武田勝頼の本陣(信玄塚)の距離は六百mであり、(中略)桶狭間合戦の義元の本陣位置(を漆山に比定した七百の距離)は、決して前方に出過ぎてはいないのである」と云われますが、これは両軍とも決戦を意図して軍勢を前進させた結果生じた互いの本陣の位置関係であり、敵前で昼食を取り人馬を休息させる距離ではありません。対陣して昼になったにしても、信長側から休息しているように見られるようでは、軍紀が乱れているとみなされて、攻撃を仕掛けられた可能性があります。それならば、敗れて当然でしょう。休息しても良い距離は少なくとも一里(4km)は離れている必要があるのは、当時の常識であったと思われます。何故なら、戦闘準備をするのが敵前一里といわれるからです。だから、通説では桶狭間山に義元は居たというのです。
  10. 最大の問題は、義元が何処から来て、何処から漆山に上がって本陣を布いたかです。もし、沓掛城から東海道をきたのならば、信長が敵は「勞兵」などと誤認するはずがありませんし、麾下の将兵も信長の扇動に騙せれたりはしません。それは、天理本に「熱田・山崎近辺より見物に参り候者共、御合戦に可被負、急帰れと申、皆罷帰候えき。弥(イヨイヨ)手薄に成候也。」とあることからも分ります。もし、それとは違って沓掛城から大高道〜小川道を通って漆山に昼食を採りに上がったというのならば、義元が目的とした大高城へ行くのと同じくらいの距離なのです。それならば、小荷駄隊だけは切り離して大高へ先行させたでしょう。足手まといになるからです。しかし、それもありません。大高城番をしていた元康はそれを知らないと言っているからです。
  11. 『信長公記』には「山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(ツラ)に打ち付くる。身方は後ろ方に降りかかる(中略)雨に東へ降り倒る々」とありますが、これが実現するには、信長は漆山の西の山裾で小川道上に軍を展開していなければなりません。ところが、藤井尚夫氏のイラストでは漆山の前面に義元勢の大軍が展開しているのです。どうすれば、小競り合いもなく信長はそのようなことができたのでしょうか?
  12. 『信長公記』には「沓懸の到下(峠)の松の本に、二かい(抱え)、三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒る々。」ともありますが、沓懸の到下とは信長から見てどこを指すのでしょうか?漆山の西方山麓にいたはずの信長勢には、漆山の陰になって沓掛方面は見えないはずです。

 

(2)現在の谷口説の問題点     (初出 2007.11.23 ⇒ 2008.09.30 移動) 

(3)桐野説の検証   (初出 2008.07.07 ⇒ 2008.09.30 移動)  

(4)藤原京(タカシ)説    (2008.07.13 ⇒ 2008.09.30 移動)   

(5)別動隊説の問題点    (初出2007.12.18 ⇒ 2008.08.10)   

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