<信長の軍制と足軽について考える>  (2007・9.11作成)(2008.3.4〜改訂中)

思索中につき取扱い注意!!

<足軽衆> 

 『信長公記』では、大身の武士の場合は姓名だけが記載されます。また、「あし軽」と「あし軽衆」は区別して使用しているようです。「足軽」は敵方について言う場合で、「あし軽衆」は味方の場合です。

 「衆」について、三省堂「大辞林第二版」には、接尾語として人を表す名詞に付いて複数の人を敬意または親愛の意を添えて言い表し、古くは単数の人にも用いたとあるから、ここでの「衆」というのは「足軽槍兵・弓兵・銃兵隊」などというシステムを表しているとまでは云い切れないように思えます。

ですが、「足軽衆」というのは二つの場合が考えられそうです。

「足軽衆」というのは、(1)通常は下馬した武士か又は(2)足軽大将を指しているようです。下馬した武士ではないかと思うのは、最下層の徒侍ではなさそうに思うからです。証拠はないのですが………。乗馬身分の武士(士分の者)が下馬して戦列に加わる場合ですが、これは、『信長公記』では明らかにはできませんが、川中島合戦図絵の武田信玄陣営には、足軽鑓隊の後ろの列に乗馬を後方に預けた下馬した武士が折敷いている様子が描かれていることから分かります。もう一つは、足軽大将など足軽たちを率いる乗馬身分である場合は、例えば、信秀が吉法師につけた「四長」の小豆坂の戦いで功名をあげたという内藤勝介などは、赤塚の戦では信長の「御さき手あしがる衆」とありますし、荒川与十郎は落馬した記事で足軽大将であることが判明します。鉄砲が主流にならないうちは、最前線の指揮官も戦場を俯瞰する必要からも、白兵戦になっても常時騎乗していたものと思えます。

  1. (九郎二郎は、)先手あし軽、清水又十郎・柘植宗十郎・中村与八郎・萩原助十郎・成田弥六・成田助四郎・柴山甚太郎・中島又二郎・祖父江久介・横江孫八・あら川又蔵、是れらを先として、赤塚へ移り候。註 ここで、名前を記すのに「衆」としないのは、敵方だからではないかと考えます。
  2. 御さき手あしがる衆、荒川与十郎・荒川喜右衛門・蜂屋般若介・長谷川橋介・内藤勝介・青山藤六・戸田宗二郎・賀藤助丞。(中略)あら川貞十郎(与十郎)見上げの下を篦ぶかに射られて、落馬した註 るところを、かかり来て、敵がたへ、すねを取りて引くもあり、のし付のつかの方をひくもあり。また、こなたより、かしらと筒躰共に引き合ふ。註 あしがる衆の荒川与十郎は落馬していますから、乗馬身分の武士であり足軽大将らしく思われます。足軽大将には、十人程度の足軽を指揮する者から、騎馬武者数騎を含め百人以上もの足軽を指揮する者など身分によってさまざまであったので、その余の人たちとの関係は分からりません。
  3. あしがる衆、我孫子右京亮、藤江九蔵、太田又助(牛一)、木村源五、芝崎孫三、山田七郎五郎、此れらとして、(清洲勢と)三王口にて取合ひ、註 この場合は、徒歩の兵士という意味であって、長柄鑓を取って集団戦を戦ったとは思えません。特に、大田牛一などは得手の弓矢をとって闘ったと思えるからです。

このようですから、『信長公記』のこの頃に活躍する「あしがる」や「あしがる衆」は、寄親寄子制の下で、足軽を抱える武士に特化したものと小生は考えます。例えば後北条氏にみられる大藤式部丞とその寄子のようなものを想定しています。

ただし、『日本軍事史』の見解は違います。上記例(1)の赤塚合戦について、「足軽の名前が具体的にみえる珍しい記事だが、彼等はみな名字をもつ存在で、地域の有力者の子弟だったと考えられる。知行取りの武士ではないが、決して貧困とは言えない階層出身の若者たちが、自身の力量を支えにしながら足軽の集団に加わり、戦場で活躍していたわけであるが(後略)」としています。ここでは、具体的に『信長公記』に書かれた足軽たちがどのような組織で戦っていたかは説明していませんが、直接信長が足軽を雇用したように思わせてしまいます。でも、小生はちょっと違うのではという気がします。

これに対しての小生の見解は、少なくと彼等は一般に考える足軽などではなく、陣場借りとか浪人衆とかもあるかもしれませんし、れっきとした武士であって何人かの従卒も引き連れて、騎乗して参戦しているのではないかとも思うのです。桶狭間合戦の前田犬千代などがその例です。決して、名字のない農民出の最下層の侍身分の者たちなどではないように思います。従って、得物も名々勝手であって支給された揃いの長柄鑓などは持たされておらず、我々が通常考える「あしがる」とは少し違うような気がするのです。

例えば、この赤塚合戦条では、「敵あひ五・六けん隔て候時、”究竟の射手”共、互いに矢をはなつところ」としており、この「究竟の射手」というのは足軽弓兵を形容したものではなさそうにも思えるのは、中市場合戦で柴田権六の下に「あしがる衆」として後に信長の弓衆になる太田又助も加わっているからです。但し、弓を射たとは書いていないようです。また、永禄八年(1565)九月の堂洞砦攻めでの太田又助は、「高き家の上にて、只壱人あがり、黙矢もなく射付け候を、信長御覧じ(中略)御知行を重ねて下され候えき。」 というのですが、足軽大将として指揮する立場にあったとしたならば、部下の兵士を指図して射させたのではなく、自身が弓射して信長に褒められていることになりますから、足軽大将ではなかったものと思われます。

そうしたわけで、『信長公記』における永禄八年頃までの「あし軽衆」というのは、我々が一般に想像するような雑兵(侍の最下層の身分)として兵科(機能によって分けた職種、旧陸軍では1940年に、兵科区分を廃した際の機能別の分類を兵種といった。)毎に組織された兵士の集団で、御貸し具足で装備したいわゆる雑兵、という意味ではないように思います。御貸し具足で装備していたとしても、戦国末期の雑兵足軽の軍装(陣笠・半被など)に比べると、各自まちまちの武装ではあっても、相当程度よい装備(阿古陀形・突ぱい形の兜と腹巻か胴丸)をしていたのではないかと考えたくなります。

つまり、信長の初期の軍隊構成は、

  1. 下馬した武士の集団(これが一般には白兵戦力)と足軽大将に率いられた足軽(長柄鑓や弓・鉄砲に特化した雑兵)との兵科としての明確な区別がなく、混然一体化していたのではないかと考えます。
  2. そこに、やがて小姓衆が白兵戦力として加わる時期(村木砦攻め)を経て、
  3. 小姓と足軽衆の中から馬廻という騎乗武士の集団が分化して生まれた結果、
  4. 小姓−馬廻−足軽衆−足軽雑兵という構成が出来たものと考えます。此の中には、大身の一門や譜代の家老衆は含まれていません。おそらく、信長はいちいち相談したり、依頼していたのでは軍事行動がままならないと思ったからだと思うのです。ですから、必要に応じて身内や譜代の家老衆も動員したでしょうが、村木砦攻めに見られるように、無理強いはしていません。嫌なら良いよという態度です。

これは、信長の政治的姿勢(態度)からくる限界を示しています。信長は守護や守護代という「大義(正当性)」を掲げて「憑勢」をしていませんで、実力だけで戦っていますから、必然的に直庸常備軍を主体にし、後はその都度その方面の利害関係者の自主参加を受け入れているわけです。ですから、軍事的に機動性を追求しての編成というわけではなく、常備軍であるために自然に機動性が備わったとみるべきなのでしょう。………これが、憑勢をしていたならば、いくら常備軍をもっていてもなかなか機動性を身に付けることはできなかっただろうと考えます。

小生は、このような体制の価値を室町幕府の将軍専制の源泉は、最盛期には三千ほどにもなったという「奉公衆」にあったことから学んだものだと考えます。

また、桐野作人氏の『軍事カリスマの原点』歴史読本8年6月号連載第6回などでは、浮野合戦での信長の勝因として『甫庵信長記』の記述から推測されて、「信長の旗本衆の中には、信長自身が直轄する鉄炮足軽集団も含まれているかもしれない」とされていますが、もし信長が甫庵の記すように鉄砲を使用したとしても、それは足軽鉄砲隊などではなく、個人の武器を鉄炮に特化した武士=「鉄砲衆」(この衆とは、接尾語で一種の身内への敬語)であったように小生には思えます。何故なら、浮野合戦当時の鉄炮は高価であったため、武士が自身の使用武器として装備しただろうと考えますし、現に牛一は信長の鉄炮師匠でもある橋本一巴の鉄砲と林弥七郎の弓矢との一騎打ちを特記しているからです。

また、信長は村木砦攻めにおいては、「信長堀端に御座候て、鉄炮にて、狭間三つ御請取りの由仰せられ、鉄砲を取替え取替え放させられ、」と自身が数挺の持ち筒を取替引替して射撃しています。これは足軽鉄砲隊による一斉射撃などではありませんし、大良での撤退戦で「其の時、信長鉄炮をうたせられ、是れより近ゝとは参らず、さて、御舟にめされ、御越しなり とある鉄炮使用のエピソードも鉄砲衆や足軽鉄砲隊によるものとは思えません。

 天理本では、「信長殿させられ候はんの由候て、御一人残り候、近々と懸来り候を、上総介殿鉄炮をうたせられ候へば、参らず候、その時御舩にめされられてしりぞく」とあるという。

また、『信長公記』では集団による鉄炮の使用については、永禄十二年(1569)八月に阿坂の城攻めにおいて、「信長御座所御番の事、御馬廻御小姓衆、御弓の衆、鉄砲衆に仰せ付けられ候なり。九月八日稲葉伊予、池田勝三郎、丹羽五郎左衛門、両三人西搦手の口より夜攻めに仕るべきの旨、仰せ出だされ、御請け申す。其の日、夜に入り、三手に分けて攻められ候。人数を出され候へば、雨降り候て、御身方の鉄炮御用に罷り立ず候なり。」というのが最初ではないかと思います。これは、『信長公記』では初めて鉄炮が信長自身ではない「集団」によって動員された記事ではないかと思います。

勿論、信長軍に鉄炮がなかったわけでも使われなかったわけでもありません。ですが、あくまで武士(給人)の持ち道具の一つとして使用されたのであり、それが鉄炮に特化した集団として使用されるのはかなり後になってからのことであるし、それが雑兵としての足軽によって担われるの更に遅れたものと思います。

例えば、この大良での撤退戦の後であると思われる弘治二年(1556)八月廿四日の稲生の合戦での信長は、東から柴田権六に、南からは林美作守に攻められる状況において、それぞれを各個撃破しているのですが、そこでの戦闘は鑓の叩き合い突き合いであり、白兵戦が語られるだけであって、一方の敵を牽制し抑制する目的で鉄砲隊が使用されたりはしていません。火縄銃は優れて防御用の兵器なのにです。躍進しながら攻撃前進するのには、この当時の火縄銃は適していないのです。………ということは、やはり信長が自身の持ち筒でもって(近習や馬廻も同様に鉄炮を用いたかもしれませんが)敵を阻止したものと考えるべきだと思うのです。

『信長公記』の「あし軽」や「あしがる衆」は徒歩で戦う武士のことを言うように思えるのですが、では交名のあがっている者はみな足軽大将かといわれると困ってしまいます。足軽大将は十人程度から騎馬武者数騎を含め百人以上もの足軽を指揮する者など身分によってさまざまであったらしいからです。最前線で戦う実戦部隊の指揮官なので、足軽大将は勇気や気力が必要で、白兵戦では部下を督戦するだけではなく、足軽大将自身も先陣を切って戦いに加わったといいます。しかし、牛一などは配下に部下の足軽を持っていたとも思えません。

そこで、史料の豊富な後北条氏の場合を調べてみますと、

当時最先端を行っていた後北条氏の軍役を、永禄二年の『北条氏所領役帳』(北条家の所領を網羅したものではない)と着到状でみてみると、そこに現れた足軽の兵力は、「諸足軽衆」として名を連ねている廿人(足軽隊を指揮する足軽大将など歟)の他に、「足軽兵」が百十五人がおり、彼等には専用の給田(凡そ足軽兵士一人宛て三貫文)が与えられています。つまり、後北条氏の足軽衆の寄親寄子足軽兵士の両方を従えており、寄子足軽兵士を従えている者もいたわけです。その他にも傭兵としてチームを組んで雇われる足軽兵士もいたらしく、『日本戦陣作法事典』には、後北条氏の着到状には、「六拾貫文/鉄砲衆三拾人一組/一人二貫文宛給。四拾貫文/鑓衆廿人/同断。二貫文/弓衆廿人/一人壱貫文宛之給。」とあることを紹介していますから、後北条氏の足軽隊構成は重層的であるうえ雑多で複雑であったらしく思われます。

  1. 諸足軽衆には、田原城主で中郡郡代の大藤式部丞政信を大将として、加藤四郎左衛門、大杉 、玉井帯刀左衛門、当麻三人衆、大谷彦次郎、近藤隼人佑、清田、伊波 、多米新左衛門、富嶋彦左衛門 、深井、荒川、磯彦七郎・・・
  2. 足軽兵士115人、335貫の内訳は、大藤政信衆67人分191貫、伊波衆35人分105貫、狩野介衆12人分36貫、深井衆1人3貫とあり、凡そ足軽兵士一人宛て三貫文の給付となります。
  3. 足軽衆のうち、狩野介衆(松山衆)は、(1)城主狩野介が寄親で771貫558文、同心・狩野藤蜂90貫600文と同心・狩野左近69貫500文と同心・神尾善四郎80貫文を寄子とし、(2)寄親・太田豊後守が502貫992文で、同心・太田十郎兵衛47貫779文と同心・板倉修理亮78貫380文を寄子としていおり、二人の寄親と五人の寄子(同心)で構成されています。
  4. 足軽衆の寄子(同心)太田十郎兵衛(47貫779文)の場合の軍役は、大小旗持1本(皮笠・具足)、指物持1本(皮笠・具足)、鑓1本(二間々中柄、皮笠・具足)、馬上1騎(甲大立物・面防・手蓋・具足・馬鎧金)、歩者1人(皮笠・具足)というものですが、ここに見える従者たちは足軽として兵科毎に供出するものでしょうか、それとも同心・太田の周りで戦う者たちでしょうか。注)此の軍役が何時のものかはまだ調べていません。

この北条氏の例を『信長公記』に当て嵌めてみますと、

当時の足軽隊は十二人のチームもあれば卅五人のチームもあるだけでなく、中には自身一人が出陣している例もあるのですから、領国内共通の定数の隊伍などはなかったわけでして、そのような諸集団で陣立てした戦列は、決して川中島合戦図絵で描かれた信玄陣営のような、均一な隊伍でもって整々とした戦列などではなかったものと思えます。

以上のことからしますと、『信長公記』での「あし軽」や「あしがる衆」は、足軽大将(寄親)とその寄子(同心)をいうのだろうと思われます。そして、彼等に率いられた足軽兵士らの運用が、「あし軽に取り合い」「足軽かけられ」「足軽懸け引き」「足軽をも出ださず」「足軽に引き付け」「足軽仰せ遣はさる」などであり、軽快に機動することについては「足軽にまかり出」「足軽を出すやうに」ということだと考えます。

それにしても、織田家の軍制に比べると永禄二年の北条氏の軍制は極めて先進的であったことになります。と、言うことは、今川家も同様な軍制であった可能性があるわけです。

ただし、元亀年になると北条氏の軍役も変わっています。一般の軍役に加えて足軽を連れてくることが義務付けられてくるからです。つまり関東の英雄たち(北条・武田・上杉)の軍制は、この辺りを境にして織田氏の軍制に遅れをとり始めたことになるわけです。………と云うことは、その原因もかなりはっきりしてきます。

一つは、彼等の領国である関東という立地では、鉄炮・火薬・鉛の購入に不利であったこと、そしてそれを扱う銃手になる足軽をかき集められなかったことが二大原因だということになります。

織田家のように金で足軽を雇うということは、農村から流出する農民を銃手にしていたと云うことですから、土地(農業)に経済基盤を置く政権にはできないことなのです。勿論、最終的には織豊政権も「人返し令」を出さねばならなくなるのですが、信長自身は本能寺に倒れてもその危険性には気づいていなかったもようです。ただし、長浜にいた頃の秀吉は気づいたらしいと脇田修氏の『秀吉の経済感覚p109』はいいます。

元亀二年の着到状をみますと、永禄二年の時と状況は変わっていまして、後北条氏では隊伍を整えられる足軽隊を編成する目的でもって、農村からも直接足軽を徴発するようになっていたようです。それは、次の例に見えます。

以下は、 『大和市史研究』第九号にある下山治久氏の『後北条氏家臣岡本八郎左衛門の軍役と役割』によるのですが、岡本八郎左衛門の着到状では、従来からの岡本に課せられていただろう軍役七人に加えて、足軽八人(小旗足軽一人、指物足軽一人、鑓足軽六人)を連れて行かなければならなくなっています。この八人分の扶持については小田原の北条氏が直轄領の蔵米などで扶持しています。その扶持の仕方は、例えば「七貫四百文、二人扶持一本鑓、氏名」となっていまして、そのうち、五貫文は歩侍が本の軍役に追加して準備すべき甲立物・具足・手蓋のための手当てであり、弐貫四百文は鑓一本の足軽を連れてくるための俸給であり、合計で七貫四百文のうち一貫ニ百文が蔵米から追加支給されています。つまり一人の寄子(歩侍)に一人の足軽(一本鑓)がいたと考えられると云われています。

ここからは私見ですが、この着到状からもう一つ明らかになることは、本軍役の鑓持ちや旗持ちなどが、「歩侍」という侍身分であって苗字を持っていることです。つまり、中間・小者・下人などの武家奉公人ではないことです。そして、本軍役の「歩者」は苗字をもたないことから武家奉公人の「中間」などであることが想像されます。つまり、本軍役の「歩侍」というのは歴とした「武士」の端くれであり、本軍役の鑓持ちや旗持ちなどは戦闘員であるということでして、笠間良彦氏が『日本戦陣作法事典』で言われるような、「小田原北条氏の場合の50貫の知行の場合には、自身騎馬で出陣し、槍持二人(鑓二本)、鉄砲持一人、小旗持一人(無具足)であり、戦闘員は自分一人で(総勢五人で)ある。」というような事ではないということです。

また、一人の寄子(歩侍)に一人の足軽(一本鑓)がいたということは、「鑓持ち」や「旗持ち」などをしている「歩侍」も小作人などを持つ百姓であったと考えられます。

 ところで、『日本軍事史』では、『信長公記』には様々な対戦の際に、本陣は動かず足軽たちだけが駆け引きしながら戦う場面が多く描かれているとも述べています。

  1. 信長も清洲より人数出され、(庄内)川を越し、先手あし軽に取り合い候。(弘治二年丙辰八月廿四日、稲生合戦)
  2. (岩倉方へ)足軽かけられ候へば、( 永禄元年七月十二日浮野合戦、)
  3. 佐々隼人正、千秋四郎の二首、人数三百計りにて、義元へ向つて足軽にまかり出で候へば、
  4. 則ち州股(墨俣)より懸け付くる足軽ども取り合ひ、朝合戦に、御味方瑞雲庵(信清の)おとうと(弟)うたれ引き退く。
  5. 西かるみ村へ御移り候て、古宮の前に東向きに差し向ひ、御人数備へられ、足軽懸け引き候て
  6. 然而長井隼人(道利)後巻として堂洞取手の下、廿五町山下まで懸け来なり、人数を備へ候へども、足軽をも出ださず
  7. 手負の者雑人どもを引き退けられ、足軽を出すやうに何れも馬を乗りまわし、軽々引き取って退かせられ候。
  8. 柴田修理(勝家)・佐久間右衛門(信盛)懸け向かひ、やす(野洲)にて足軽に引き付け
  9. 敵の足軽近々と引き付け候を、簗田左衛門太郎(広正)は中筋より少し左へ付きてのがれ候。
  10. 城中の足軽ども百騎註 ばかり罷り出で相支へ候。註 騎馬足軽というのもあったらしいが、この場合が相当するかは不明。
  11. 足軽どもに責むべきを仰せつけられ、則ち若武者ども野に臥せ、山に忍び入り、のぼり、さし物具を取り、頸二つ三つ宛て取り参らざる日もこれなし。高名の軽重に随ひ、その御褒美を加えらるるの間、弥嗜み大方ならず。註 この足軽どもは雑兵と思われます。
  12. 身方ヶ原(三方ヶ原)にて足軽ども取合ひ
  13. 信長は駒ヶ谷山に御陣を張らせられ、万方へ足軽仰せ遣はさる。佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・原田直政、谷々入り々ゝまで御放火、其の上麦苗薙ぎ捨つ。(中略)近辺の耕作、信長御自身薙ぎさせられ・・・ 註 信長の命令により、各部隊長の監督下に乱暴狼藉が行われたことがわかる。
  14. 家康御人数の内、弓・鉄砲然るべき仁を召列、坂井左衛門尉を大将として、二千ばかり、ならびに信長の御馬廻鉄砲五百挺 註 信長が直轄鉄砲衆を五百も持っていたことは驚異であろう。
  15. 近々と足軽を懸けられ、御覧じ候。
  16. かくの如くおん敵入れ替え候えども、御人数一首も御出なく、鉄砲ばかり相加へ、足軽にて会釈、ねり倒され、人数を打たせ引きいるるなり
  17. 越前、牢人衆を先陣と為し 註 信長の軍勢にも浪人はいただろうが、それを先陣とするほど大量に発生していることが特筆される。武田信玄などでは、信玄のある意味客分や直庸の親衛隊のようなものと比べると、その違いの大きさに気付くだろう。
  18. 足羽山に御陣屋御普請申し付けられ、御馬廻・御弓衆、歴々を固め、前後結構さ、中々興を催すことに候
  19. 三段御備、御馬廻。かくの如く仰せつけられ、信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、駆け廻り、爰かしこと、御下知なされ、薄手を負はせられ

以上の事例にはお気づきのように、何処にも長柄鑓足軽隊というのは出て来ないのです。勿論、足軽鉄砲隊もです。種々の合戦図絵にも長柄鑓足軽は見えません。それに合戦図絵に現れる鉄炮射手は結構な武装をしています。揃いの兜ではありますが陣笠などではありません。

陣笠が一般的になるのは(検証はしていませんが)足軽が多くなる桃山時代になってからではないのでしょうか?但し、陣笠自体は、後北条氏の足軽衆の同心・太田十郎兵衛の軍役をみますと、その従兵には皮笠を義務付けていますから、足軽兵士にも義務化していたものと思います。

長柄鑓についての記述は、正徳寺の会見で「三間間中柄の朱槍五百」とあることと、天文廿三年の中市場合戦に「二、三間扣き立て候へども、敵の鑓は長く、こなたの鑓は短じかく、突き立てられ、」とあるのみなのです。

足軽鉄砲隊にいたっては上洛の翌年・永禄十二年になっても「信長御座所御番の事、御馬廻御小姓衆、御弓の衆、鉄砲衆に仰せ付けられ候なり。」とあって、馬廻・小姓・弓衆と並んで士分の役割であるようですから。裕福な信長といえども足軽鉄砲隊を作れるほど、鉄砲の数は揃えられなかったのではないのでしょうか。

<軍役と足軽>

素朴な疑問があります。先にも少し述べましたが、

笠間良彦氏の『日本戦陣作法事典』には、「小田原北条氏の場合の50貫(所得からみると江戸時代の二百五十石級に、武装からみると五百石級に相当する)の知行の場合には、自身騎馬で出陣し、槍持二人(鑓二本)、鉄砲持一人、小旗持一人(無具足)であり、戦闘員は自分一人で(総勢五人で)ある。小荷駄がいないので、各人が分担して持った。(中略)この鉄砲は供の者が使用するのでなく、主人用(手筒・持筒ともいう)で、槍二本は一本が予備の品であるから心がけがよい。」という記載があるのですが、この「槍二本が主人用」であるということに疑問を感じるのです。

軍役として兵力が必要な戦国大名が、出仕する武士の予備の武器を要求するでしょうか?五十貫の知行の場合にはまだ理解できるものがあります。持槍二本、手筒一挺は心がけの良い武士だとも言えるでしょうが、戦闘員は武士一人であり、鑓を使うときには鉄砲は撃てず、鉄砲を撃つときに持槍二本を傍に連れて前線に出たのでは、効果的な弾幕を張って、敵を射白ますこともできませんし、主人の鑓が折れるまではもう一本の鑓は働いていないことになります。尤も、脇鑓として主人に加勢はできるでしょうが、原則として主人の鑓を使うことはできないのです。

確かに、『雑兵物語』には、「槍持ちは主人の槍を担ぐのが仕事だからな。自分で使ったりしたら、うろたえ者と笑われるし、腰抜けと呼ばれるし、ろくなことはねえ。(中略)主人が槍を手に突っ込んでいったなら、俺たちも負けじとついて行くんだが、そのときに襷を忘れるな。」「お持ち弓というのは、俺たちが使う数弓とは違うからな。自分で使うのは心得違いだ。あぶねえと思うことがあっても背中にくくりつけておいて、自分は刀で戦うんだな。」「いざ合戦となってもまだ鉄砲を担がされているようなら、朔杖を抜いて具足の間に差して、鉄砲は腰につけて戦うしかねえな。」とあるようですし、合戦絵巻の信長・家康・信玄などの廻りには、多くの持鑓・持筒を捧げた雑兵が供奉するのが描かれており、『信長公記』には「六(佐々)孫介、其の外究竟の者ども討たれ、信長の御前へ逃げかかり、其の時、上総介殿御手前には、織田勝左衛門、織田造酒丞、森三左衛門、御鑓持の御中間衆が四十人計りこれあり。」とはあります。しかし、これが全て信長の使用する鑓の予備や褒美に下賜する鑓であったとは思えません。きっと信長の脇鑓として護衛をする者たちであったと考えるべきなのでしょう。そうであるならば、『信長公記』に見られる「中間」とは、主人に付き従う従者ではあるのですが、侍身分の足軽の様に主人の警固を主任務として付き従っているようにも思えます。

そうしますと、軍役に要求された鑓持とか鉄砲持というのは戦闘員であって、主人の持鑓とか持鉄炮は勝手次第というのではないのでしょうか。因みに、『家忠日記追加』の天正十八年二月には、「持鑓者軍役之外たる間、長柄を差シ置キ持する事堅ク停止ス。但シ、長柄之外ニ持たせる者、主人ノ馬廻に一丁ト為ス可キ事。」とあります。後段の「主人ノ馬廻に一丁ト為」たのは、主人の脇鑓を務めるために取り回しのよい持鑓の装備を認めたものでしょう。足軽長柄鑓はあくまで集団で使用して効果を発揮するものであって、白兵戦では最初の一撃を外してしまったならば、かえって邪魔になるだけであったと考えられるからです。

例えば、『小田原衆所領役帳』、では大間木などに284.4貫文を知行する宮城四郎兵衛尉の場合には、どのように考えればよいのでしょうか。彼の軍役は、自身も含めて馬上八騎、鉄砲二挺、弓一張、鑓十七本、指物一流、歩者四人の合計三十六人の軍役なのです。ここに要求されている武器は、笠間良彦氏の言うような、主人が使用するものでしょうか。一弓、一背旗は当然に主人のものでも良いでしょうし、二鉄砲も連射するためには必要であるから之もよいとしても、十七槍は考えられない数だと思います。このうち主人の使用するものは二本だとしますと、他の馬上七騎の武士の持鑓はどうなるのでしょうか。これらの武器を主人一人が使うのでは大名の戦力は一向に高まらないことになります。

中には、これら従者が主人から引き離されて兵科毎に足軽隊を編成したと考える人もいるようですが、それは実際上困難なことです。まず、集団行動をするのにチームワークがうまくとれませんし、衣食住を大名が直接彼等に支給し面倒をみなければ、これら足軽は戦場で円滑に生活すらできません。また、食糧を支給するのが主人でなくなったならば、御恩奉公の武士社会は成り立ちません。また、毎回違うメンバーでは軍事訓練すらまともにできませんから、ものの役にはたちません。ですから、当時は夫々単身から数十人を引き連れたような小部隊が幾つか集まって「組」を組織し、その「組」を集めて地縁集団としての「衆」を形成していたと考えられるわけで、兵科毎に編成し直されたりはしていなかったと思います。

出典は忘れましたが、加藤太郎佐衛門という武士が、「足軽は、寄せ来る敵をあしらいて、取り付かれずに退くを本とす。逃げば追い、追わば逃げたり、食い止めて、(侍衆の)後を待つこそ足軽の技。」と言っています。これが足軽の本分であるならば、集団戦が主流になったとはいっても、隊伍整斉として進退するものではなく、将に「軽装歩兵」として敵の戦列を撹乱し白兵が突撃する隙を作りだすことを役目としているのですから、隊伍の定数はあまり関係なく、小集団として息のあった進退が出来る規模であれば、何人であろうと構わないように思えます。それが証拠に江戸期になってさえも足軽の単位は各藩まちまちであり、藩内でさえ定数など決まっていなさそうです。

と、しますと足軽の装備が長柄武器になり、集団戦を行うようになったということを古代ギリシャやローマ帝国の重装歩兵のようなものを想像してはならないということだと思います。「長柄鑓について考える」で述べましたように、足軽長鑓隊は「弓兵」の代わりなのだということです。本物の弓兵と違って置楯がいりませんからより軽快です。決戦兵力ではありませんから装甲も軽便ですみます。………足軽が野武士のような本来の働きをしたのは、信長の場合は上洛戦までのことだったと考えます。

上洛戦からは動員規模が格段に増加していますから、滅多にない会戦での足軽の働きも数を恃んで鑓先を揃えて敵を威圧して押しまくり、敵が退かない場合には上からシバキ倒というものだった考えます。勿論、それは鉄炮が大量に野戦に動員されるまでのものでしょうから、朝鮮役から帰還するまで続いたものと思います。しかし、ゲリラ戦的な本来の働きをする足軽が無くなったわけではありません。大量に農村から動員された徴兵には高度な進退を要求しても、職業軍人化しない限り無理なことだと思うからです。そして、それが織田軍=尾張兵が弱いとみられる原因だと考えます。軽装歩兵(北条氏軍役の歩者=足軽)と重装歩兵(北条氏軍役の歩侍)を比較しているのですから、弱いのは当たり前です。

つまり、永禄二年当時の北条氏の場合には、三貫文を給して足軽を常傭しているわけですから、一般の小領主たちの軍役に足軽が含まれているわけではないようでして、この時期の足軽というのは村々から集めた農民(軍夫)に武器を支給して足軽に仕立てていたわけではないということです。その代わり、傭兵としての足軽と鉄砲隊に特化した知行取りがいるわけですから、兵科が発生しそして組織的に運用されるようになってきていることも窺われます。

ところで、元亀二年の足軽の場合には、岡本はその知行地から徴発する足軽農民を、着到までの間の管理をすることを委託されているだけでして、足軽大将の下に引率して出頭させた後は、所定の足軽鑓組に配属されるもののように思えます。つまり、本格的に兵科としての鑓足軽衆が主従関係を超えて組織されるようになったわけです。勿論、鉄砲などは初めから鉄炮隊に特化した寄親・寄子制が永禄二年頃すでにあったようです。その例が、星野郷二百貫文の小曾戸丹後守でして、馬上五騎、旗指二人、鉄炮廿丁を義務付けられています。因みに、『武功夜話』は史料としては疑問がありますが、佐々成政の麾下にも鉄砲隊に特化したものがあったようですし、美濃攻略に際しての信長は調略にあたった藤吉郎へも早くから鉄炮隊を貸出したりしています。

さらに、判明することは、本軍役では歩侍の武装は皮笠と具足だけであったものが、元亀年になると甲立物と手蓋を追加して義務付けるための費用を支給していることです。(追加費用に具足が入る意味は解りませんが、きらびやかに飾らせるためかも知れません)これについては、『三河物語』の記事と合わせて考えるべきだと思います。

永禄十二年に武田信玄が小田原城に侵攻して来るのに備えて動員したときの様子では、田原城主・大藤式部丞が着到人数を調べたところ、五百四人の軍役数に対して百六十七人の不足があり、中でも武士は半数が不足していたといいます。これは足軽兵士の場合は農民や浮浪人などから徴発することができたでしょうから頭数を揃えることが出来ても、打ち続く戦いで戦死して家が断絶してしまう武士の方は補給ができず、半分しか数を揃えられなかったことを示しているとされています。その場合、大名の命令によって他の武将が知行地と寄子を受け継いでいったものと思われますから、領主階級も急速に主家と零落して被官化せざるを得なくなるという二極分化が昂進したものと推測されているようです。

このように、戦国時代でも隣国の戦国大名たちと戦いを始めると、戦争は一気に「消耗戦」に突入したように思われ、関東ではこれが永禄十二年頃には既に表面化し、天正十五年七月晦日の農兵徴集の北条家朱印状になると、動員した百姓を武士に見紛われるように「腰差の類、ひらひら武者めくやうに」取繕うことを命じています。

………としますと、『三河物語』に「駿河衆これを見て、石川六左衛門尉と申す者を喚び出しける。(中略)喚びて言いけるは、この敵は武者を持ちたるか、また持たざるかと云う。各々の仰せに及ばず。あれ程若やぎて見えたる敵の、武者を持たぬことや候はんか。敵は武者を一倍持ちたりと申す。」とあることなどは、関東において既に始まっていた現象を云うのかもしれません。

もうひとつ考えられることは、戦国時代の合戦の実態について我々が見誤っている可能性があることです。現代の戦争と違って、将兵は迷彩服を着ることによって、敵の攻撃目標にならないように配慮するということをほとんど行っていません。逆に目立つようにしています。その傾向は、鉄炮時代に入って装甲は頑丈になっても、キラビヤカさは増すばかりです。先の元亀二年の岡本八郎左衛門の着到状では、歩侍は「小田原於御蔵可請取衆」とされて追加給付をしてまで、それまで具足・皮笠であった軍装を甲立物・具足・手蓋にするように命じられているのです。

そして、ここでの問題は甲立物なのです。敵味方を識別するために必要なわけでもない甲立物が義務づけられるのは何故でしょうか。一般には装飾や自己顕示がいわれますが、義務化される目的はただ「威嚇」のためと考えられます。これは、戦国時代後期の軍勢にはやたらと旗・指物が多いことからも言えると思います。つまり、戦争は孫子のいうように将に「勢い」であり、勢いを示して敵に「位勝ち」することが目的のように思えます。ですから、遠くから勢力を誇示して敵に退き取らせることが、第一に心がけられており、合戦に及ぶのは武将にとって軍事行動の失敗なのだと考られることになります。その旨を明確に述べているのが井田氏あての千葉胤當判物でして、「鉄砲衆・歩弓衆、各一様之小籏ニ而可召連候、歩小籏無之衆ハ、弥無人数ニ見得候由」と言っています。

笠間良彦氏の『日本戦陣作法事典』は、「鉄炮が足軽クラスの者の兵器として多く用いられるようになったのは安土・桃山時代からである。それ以前は(中略)わずかに上級武士が用意していたに過ぎなかったから、(後略)」「雑兵は安土・桃山時代頃から特に組織化されたので、戦闘力の一部にもみなされるようになり、持つ武器の種類によって区分された。弓足軽・鉄砲足軽・鑓足軽などといって、十五人から三十人くらいを一組とした。それらの集団は一戦力と看做されるようになり、常備の場合には武士階級の下に置かれ、任命された武士が頭となって戦闘力を発揮した。」ともいいます。

これは、一般にイメージする足軽というのは安土・桃山以降の状態であるというこです。従って、『信長公記』の上洛戦以前の足軽についての記事は注意する必要があると思います。

このことは、『信長公記』での、「先手あし軽、御さき手あしがる衆、あしがる衆」という表記の彼等足軽が、元亀・天正年以前に使用した武器は、必ずしも「三間間中」の長柄鑓などではないということが考えられます。ただし、個人の武術を必要としない集団戦では、太刀や薙刀などのように振り回す武器は振りですから、鑓を装備したことは疑いがありません。最も、大将の信長個人を警固することは、集団戦闘などではありませんから、警固の中間の武器には長刀が好まれることになります。

現に、『信長公記』には長柄鑓が奏功下という記事は、天文廿二年(1553)四月に山城道三との正徳寺の会見で、「其の時、美濃衆の鎗は短く、こなたの鎗は長く、扣き立ち候て参らるるを、道三見申し候て、興をさましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り候。」 と、天文廿三年(1554)七月十八日の柴田権六が中市場合戦で、「二、三間扣き立て候へども、敵の鑓は長く、こなたの鑓は短じかく、突き立てられ、」という記事しかないのです。

ところで、元亀二年の後北条氏家臣・岡本八郎左衛門の軍役では、本役の他に足軽衆を農村から率いてくるようになっていましたが、そこでは足軽の氏名が名指しされて指定されていますが、彼等は職業軍人などではなく、まさしく農兵でした。さて、これをもって『信長公記』を考えますと、天文廿三年の中市場合戦の記事にみえる柴田権六の軍勢の「あしがる衆」を最後に、足軽衆は出現しなくなります

<信長軍の中核、小姓と馬廻>

信長は盛んに足軽合戦を行いますが、「あしがる衆」は鳴りを潜めてしまいます。………これは想像ですが、信長の軍制は弘治年間頃に大きな変革があったのではないでしょうか?つまり、足軽大将(寄親)―寄子(足軽組頭)―足軽(給田)という専門家した職業軍人集団に依存せず、元亀二年の後北条氏の「一般軍役に上乗せ」して足軽を徴発するのでもなく、もっと広範に金銭で徴募して足軽鑓隊という兵科を立ち上げていたのかも知れません。このようであれば、寄親寄子制から独立した兵士を自由に編成して、これも任意の指揮官に付属せしめて任務を遂行させることが可能になります。………これによって藤吉郎のような従者を持てない身分の者や光秀のような浪人などにも、認識力・判断力・決断力などの指揮能力さえあれば、下士官と兵士を貸与して軍隊を編成することができるようになったわけです。

ただし、問題はあります。このように信長が自由に貸し与えられる兵力というのは、敵の突進を食い止めるだけの戦場抑止機能しか持っておらず、敵に突撃して撃破する決戦兵力しての白兵部隊が含まれていないからです。これは、足軽部隊が長柄足軽隊であって、抜刀隊を含んでいないことを言います。言わば、鉄砲隊や弓隊だけの部隊なのです。当時もその後もそうですが、我国での決戦兵力は被官・寄子を従えた騎乗身分の武士であったからです。ですから、藤吉郎などを見ますと、調略を専らとし自前の被官=決戦兵力を躍起になってを抱えようとするわけです。

つまり、長柄鑓隊だけでは銃剣を持たない火縄銃隊と変わらないわけなのです。そして、これが尾張兵は弱いとされた理由であると、小生は考えます。何しろ、上洛を開始するまでの信長は、美濃一国の攻略に七年もかかっているうえ、領国から広く武士を動員していないことからその事が分ります。東部方面は家康と同盟し、信玄と友好関係を築いているにもかかわらず、知多郡の水野信元を始めとした武士らが美濃攻略戦に参陣したという形跡がないのです。つまり、この七年間には白兵戦を遂行する武士階層が圧倒的に不足していたために、これだけの時間がかかったのであり、尾張兵は弱いという話が出てくる原因になったものと考えます。

ですから、このような足軽隊からなる信長軍には決戦兵力としての「寄騎」制度が必要なわけです。彼等は自前の白兵戦力を持っているからです。信長軍は長柄足軽隊で敵の攻撃を制圧して、寄騎を決戦兵力として投入することで勝利できるわけです。例えると、長柄足軽隊が「弓隊」で敵の攻撃を制圧して、「寄騎」が白兵戦を行うわけです。ですから、信長が尾張国中に動員をかけずに戦っていた美濃征服戦時代は、決戦力・決定力に欠ける軍隊であったのだと考えます。そのため、弘治年からの信長軍は決戦兵力として小姓と馬廻が目立つわけです。それは「寄騎」の絶対数が不足しているからです。

しかし、それでも優れていることがあります。一律賦課の軍役でないことで、領国だけでなく近隣諸国の余剰人員を優先的・効果的に吸収できましたから、農村の疲弊を遅らせることができたことです。現に織豊政権下の農村の行き詰まりは秀吉の「人返し令」まで遅らせることに成功しています。

勿論、元亀・天正の信長包囲網を戦うにあたっては、後北条氏式の「一般軍役への上乗せ」が末端では行われただろうことは、「但、尚以人数之事、分在よりも一廉奔走簡要候、(中略)人数之事、不撰老若於出陣者」、「但、人数多く候様に戒力次第、可抽粉骨候者也、」 と信長が指示していたことがありますし、天正九年六月に制定されたという『明智光秀家中軍法』などは、知行主毎への個別の軍役ではなく、「軍役の人数は百石につき六人とする。百石未満はこれに準ずる。百石から百五十石の内は、甲を被った者一人・馬一疋・指物一本・鑓一本を出す。云々」というように、極めて一般的規定になっていることから、どのような手段を採るかは勝手次第であったように思えます。

<工事中>

「先手あし軽に取り合い」「足軽懸け引き候」「足軽をも出ださず」というような表現には、何となく簡単・手軽・安易・試験>というような感じを受けてしまいます。そのため、主力や全軍が出撃するのではないといった印象を持ってしまいます。ところが、我々が知る足軽は長柄鑓・弓・鉄砲の三兵科に分かれていて、集団戦法をとるような時期のもですが、そのような場合の足軽部隊には軽快な機動は不可能です。隊伍を整えて前進後退方向転換をするのは整列に要する時間が必要ですから、行動が重鈍になるからです。それに、多くの戦国大名家の長柄は二間以上の長柄鑓になりましたから、持ち運びに不便なうえ、集団としては側面攻撃に弱いため、小集団での戦闘や軽戦には不向きであったようにも思えます。それを考えると、「安土・桃山期以降の完成された足軽」と元亀・天正以前の「前代形態を色濃く残した職業軍人としての足軽プロ」とがあるようにも思えます。

この前代の足軽は未だ規律のとれた集団戦法はとれず、群衆として数を武器にしてはいますが、武装の劣位を補うために基本的には、寺社に立て籠もったり「遊撃戦」を行ったようです。そのため、これに対応する正規の武士も徒歩で散兵して戦うようになったものと思われます。ほとんど武装もなく、あっても不揃いな軽武装なのですが、地形や天候にかかわらず乗馬によらずとも身軽に動いて主として打物を得物にして群れをなして遊撃戦を仕掛けた下人などを「足軽」と呼んだものと思われます。

従来の、長い修練と金のかかる騎射戦主体では、市街戦や山岳地での攻城戦や歩兵との対戦では、これまでの重武装した騎馬武者には圧倒的に不利になった事情があったのが、軍の戦術は一時期歩射に移ったのですが、弓兵の養成が難しいためなのだろうか、長柄武器による白兵戦を中心とする軽歩兵戦が主流となったわけです。但し、当初の長柄武器は持鑓や薙刀など程度の長さであったと思われます。

急速に足軽が歴史の表部隊に出現した背景には、既存農村秩序の崩壊・再編から農村からの人口流出と中央政権の衰退による政権争いが地方にも反映した戦乱の増加があるものと思われるのですが、こうした中での足軽のメリットは(1)臨時雇いであるため維持費が不要であり総費用が安くついたこと、(2)足軽は搾取される農民に比べて、最低とはいえ生活が保障されただけでなく、活躍次第で立身出世が可能だったことがあったと思います。

もう一方で、京を中心に起こった土一揆の群集数千が京に乱入して京の幕府兵と戦うようになると、一気に決着がつかないことから、社寺に籠って陣取りをするという方法が一般化しています。これは、大衆が反乱を起こした場合の戦い方ですが、戦争に大衆が参加することによって市街戦と攻城戦が戦争の主流を占めるようになり、そこでは素人でも扱いやすく効果のある長柄鑓が発達したと考えられます。集団であれば、上から叩くだけで敵を怯ませて寄せ付けないことができるからです。

ところが、美濃攻略までの信長の戦い方の特徴は比較的小規模な戦闘に終始しており、反対勢力を結束させて大規模な戦争に発展させるような愚を犯していないことがあります。唯一の大規模な合戦は今川義元が自身出陣してきた時だけなのです。それ以外は、少なければ自身は七百程度で、敵も二千程度の兵力でしかなかったのです。ですから、信長の主力は当初の「足軽衆」の率いる足軽隊から「小姓衆」へ移り、それを発展させた「馬廻」の率いる兵力に移っていて、「雑兵を足軽として組織」することは始まっていても、主力にするまでには育成できていないように思えます。

<雑兵足軽時代以前の信長軍>

『信長公記』をみますと、

(1)天文廿一年(1552)の銭施行では、三郎信長従った幹部は、林、平手、青山、内藤の四オトナと「家老の衆」です。これをみると、「オトナ」と「家老」は違うものであるようです。小生は「オトナ」は後の時代にいう家老職であり、「家老」は侍大将や足軽大将などの信長軍の幹部将校であるように思えます。萱津合戦では叔父の孫三郎信光の応援を受けていますが、「オトナ」も「足軽衆」も見えず、姓名をもって記される武士(中条小一郎・柴田権六)が参陣しています。これが、「家老の衆」である可能性はありますが、はっきりはしません。

それが、(2)天文廿二年(1553)四月十七日の赤塚合戦での信長軍八百計りには、「オトナ」は出陣しておりませんで、始めて「さき手あしがる衆」として荒川与十郎・荒川喜右衛門・蜂屋般若介・長谷川橋介・内藤勝介・青山藤六・戸田宗二郎・賀藤助丞らが挙げられています。斎藤道三との正徳寺における会見でも、「御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、」とし、「オトナ」も「家老」も「足軽衆」もみえず、「御伴衆」になっています。その性格は不明ですが、小姓や中間・小者を中心にして、後の馬廻につながるような直参の武士からなっているのではないかとも思えますが、足軽衆なのかも知れません。

因みに、正徳寺の会見で「甍を並べ」と牛一が書くのをみますと、弘治二年(1556)の三郎五郎殿御謀叛の事に「究竟の度々の覚えの侍衆七、八百、甍を並べ御座候の間」とありますが、それを以て、清洲城下または城内に集住させていたとするのは早計であるように思えます。正徳寺の場合はどうみても「常に信長の傍に近侍し、または配下に連なり」という意味で使用しているように思え、弘治二年の場合も城下集住というものではないように思います。何故なら、その多くは城下に屋敷を構えられるほどの大身ではなかった可能性が高いと思われるからですし、また信長時代の清洲城は堀は一重しかなかったらしく、信雄城主時代に大規模な改修を行い堀は三重となったと考えられていることもあり、惣構のうちは町屋が充満しており手狭であったことも考えられるからです。つまり、小領主である者は通勤していたものと思うのです。やはり、信長の城下集住は小牧城から強化されたものと考えた方が良いのではないでしょうか。

同様に、天文廿三年(1554)の村木ノ砦攻めは、信長軍の性格を象徴的に表しています。まず同盟軍(斎藤道三、水野信元)が参加しています。要請されたのですから当然ですが。それを叔父の孫三郎信光が援助しています。そして「一オトナ」の林とその与力(前田与十郎)は出陣を拒否しています。信長の直轄軍は「小姓衆・歴々」であり「若武者ども」であったことが知れますが、ここに「足軽衆」は出てきません。

それが、(3)弘治二年(1556)の稲生合戦になりますと、初期信長軍が姿を表します。山田治部左衛門、佐六孫介、織田勝左衛門、織田造酒丞、森三左衛門、津田左馬丞、高畠三右衛門、木全六郎三郎、佐久間大学、松浦亀介、かうべ平四郎など一城の主や他国から仕官してきた武士が名前を揃え、「足軽衆」は背景に隠れてしまいます。その代りに特筆されているのが、「御鑓持中間衆」が四十人計りと下人、御小人なのです。そして、この戦いの重要なことは、「信長公の一おとな林佐渡守・其の弟林美作守・柴田権六申し合せ、三人として、勘十郎殿を守り立て候はんとて」というのが世間に知れ渡っていたうえ、「御腹めさせ候はんと」したが躊躇したとあるように、弾正忠家の家督争いは家中の重臣が考えただけであって、林・柴田らも国人衆を巻き込んで多数派工作をした様子や他国を引きこんだ陰謀もなく、家中を割ってはいなかったようであることです。

そのためか、何とも生温いことに「一両日過ぎてより、御敵の色を立て」それから、「林与力のあらこの城、熱田と清須の間をとり切り御敵に成る。」「信長の御台所入の御知行、篠木三郷押領」というのに、「定めて川際に取手を構へ、川東之御知行地相押へべく候の間」というのですから、未だ砦を築いてもいないのです。準備不足の感が否めません。・・・と、しますと。実際のところは、林・柴田らは信長の独裁化傾向に危惧を抱いていたところを、信長にまんまと追い詰められて反旗を翻さざるを得なくなったとも考えられます。ですから、稲生合戦そのものも林・柴田は既存の寄親寄子関係で信長に優る兵力を動員できたものの、国人・地侍の世論を代表している訳でもないのですから、何とも締まらない結果になってしまっています。「御怒りなされ候を、見申し、さすがに御内の者どもに候間、御威光に恐れ、立ちとどまり、終に逃げ崩れ候ひき。」というのですから、動員に応じた国人・地侍も義理であって実際の利害に対立するものはなかったものと思われます。おまけに、勘十郎信勝は、自分が任命した二人の大将のうち出陣させたのは柴田権六勝家だけであり、津々木蔵人も林秀貞も勘十郎自身も出陣していないのです。

このようですから、美濃攻略までの信長軍には我々が想起するような陣笠を被りお仕着せの装備をして背中に旗指物をしたような足軽を主力にしてはいなかったように思えます。少なくとも、重要な戦力にはなっていそうもありません。それよりも中間・下人・御小人などが敢闘していることが目立ちます。

同時期に、足軽だけで駆け引きする記事が多くみえるのをみますと、信長の下では寄親寄子制に立脚した足軽を使うことから離れて、信長が「足軽衆」を通さずに直接雇用した足軽兵士集団を、信長の官僚的な子飼の武将(例えば木下藤吉郎などのような者)に率いさせていくようになっていたのかも知れません。このようであれば、より柔軟な運用ができますから、自前の兵力を待たずとも能力ある者には兵力を貸し与えることができます。そこに、調略が先になってその成果によって兵力を貸与されて先鋒となり功名するシステムができたのではないでしょうか。丹羽長秀を除くと木下藤吉郎、滝川一益、柴田勝家などはどう見ても雇われ大将のようです。

ですが、それよりも何よりも此の時期の信長軍を特徴づけるのは、まず小姓衆であり次に馬廻です。

<方面軍の源流> 

『信長公記』の首巻では、その後の織田家の重臣になる人々がちょっと顔をだすだけで、主要な合戦には登場しないという特徴があります。弘治三年(1557)の津島おどり御張行で顔をみせ、既に家来を持つ身分になっているらしくも見える滝川一益などがその最たるものなのですが、北伊勢の調略を任されていたとも受けとれます。柴田勝家にしても有能な武将であるにもかかわらず、『信長公記』には上洛戦まで顔を出しません。『東照軍鑑』では永禄二年に荒川新八郎らとともに福谷城攻めを担当したとしていますが、桶狭間の戦いには名前も見えないのです。それなのに、上洛戦での柴田権六は織田家の筆頭武将に納まっているわけです。秀吉にしても、上洛戦になって突然に一手の大将として顔を出しますが、想像される彼の与力は川並衆の前野一党と川運に関わったと思われる野武士であろう蜂須賀一党ぐらいのものなのです。

永禄七年(1564)信長が小牧山城に本拠を移転すると直ぐに丹羽五郎左衛門が犬山城の調略で頭角を現しただけでなく、その攻囲戦は、信長の下で初めて丹羽五郎左衛門が任されているのです。その事を『信長公記』は「此の両人御忠節として、丹羽五郎左衛門を以て申し上げ、引き入れ、生か城になし、四方鹿垣をもって二重三重、丈夫に結ひまはし、犬山取り籠め、丹羽郎左衛門警護にて候なり。」と伝えます。すると、東美濃の加治田城の佐藤父子が長秀を窓口に随身を申し込んでくると、永禄八年の猿喰城への先駆けは丹羽五郎左衛門が命じられていますが、これは信長の下での野戦では初めての「一手の大将」になったということです。続いて、堂洞砦を攻めたときには黒母衣衆筆頭の河尻与兵衛が先陣を切り、丹羽五郎左衛門がニ番手で攻め込んでいます。

たった二件の事例であり後の方面軍団制のようなものではありませんが、信長の下では大雑把ではあっても方面担当というような考えがあったように思えます。尤も、丹羽にしても川尻にしても早くから信長に仕えて、重要な役割を担るのですが、そればかりではなく或る方面を重点的に担当していたように思います。

  1. 丹羽長秀は、永禄初年と思われる七月十五日付の尾張寂光院(犬山市)宛の連署状で柴田勝家・佐々主知とともに寺領安堵の奉行を務めている『尾張絢行記』し、永禄六年閏十二月九日には笠覆寺に寺領を安堵している。
  2. 河尻秀隆・も早くから信秀に仕えて、十六歳の天文十一年(1542)、の小豆坂の戦いで戦功を顕わす『甫庵信長記・武家事紀』。桶狭間の戦いに従軍『甫庵信長記』。永禄年中の初め頃、黒母衣衆の筆頭である『高木文書』。永禄十二年の伊勢大河内攻めでは「尺限廻番衆」を勤める。

なぜ、そのような事に自然になったかというと、信長は自らの支配地から守護あるいは守護代あるいはその奉行として公式の動員をしていないように思えるからです。そして、美濃方面で戦うときにはその矢面に立つ地域の国人・地侍が、松平・今川と戦う時にはその矢面にたち利害関係の在る国人・地侍がある意味で自主的に参陣しているようにも思えるのです。と、言うよりも、風聞などによって事前に臨戦態勢になっているために、信長が出陣すれば馳せ参じる習慣になっていたのではないかと考えられるのです。ですから、ある意味で触れ太鼓の聞こえる範囲であり、法螺の音が聞こえる範囲の国人・地侍が動員に積極的に参加したものと思われます。(但し、信長の決戦兵力である馬廻の中核は、津島周辺の地侍らであるようです。)

ですから、戦場から遠い地方の武士は戦に間に合わないから参陣しないということもあるのかも知れません。例えば、前田利家の兄で前田家宗家を継いでいた与十郎利久は、信長の命令で永禄十二年に家督を利家に譲らされたのですが、その理由は「武者道少御無沙汰」だからだと『村井重頼覚書』はいいます。村木砦合戦や稲生合戦に際して林秀貞に従って信長に反したからだというのではないのです。武士としての奉公に積極性・自主性に欠けると言っているのです。

 

 (2)信長の軍制

  1. 「(信秀)殿は、取り分け器用の仁にて、諸家中の能き者と御知音なされ、御手に付けられ註 信秀は寄親よりも寄子を直接、大量に集め出したか?
  2. 天文十一年(1542)、あづき坂合戦の事「下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、三度四度かかり合い々々、折しきて、お各手柄と云ふ事限りなし註 信秀は若人や天文十六年(1547)国人の二三男を集め、取り立てている。
  3. 天文十六年(1547)、美濃国へ乱入し五千討死の事「尾張国中の人数を憑みなされ
  4. 三郎五郎殿御謀叛の事「ケ様に攻め、一仁に御成り候へども、究竟の度々の覚えの侍衆七、八百、甍を並べ御座候の間、御合戦に及びて、一度も不覚これなし
  5. 天文廿二年(1553)四月、山城道三と信長御参会の事 「御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし
  6. 天文廿三年(1554)一月廿四日、村木の取出攻められしの事 「信長御小姓衆、歴々、其の員を知らざる手負死人、目も当てられぬ有様なり註 御小姓衆の初出か?
  7. 永禄二年(1559)、岩倉落城の事 「岩倉を推し詰め、町を放火し、生か城になされ、四方しゝ垣、二重三重、丈夫に仰せ付けられ、廻り番を堅め
  8. 永禄三年(1560)五月、今川義元討死の事 「爰にて御馬廻御小姓歴々衆手負ひ死人員知れず註 御馬廻の初出か?
  9. 永禄五年(1562)六月下旬、於久地惣構へ破りの事「於久地城へ御手遣わし、御小姓衆先懸けにて、惣構を揉み破り
  10. 永禄七年(1564)八月、犬山両おとな御忠節の事 「丈夫に結ひまはし、犬山取り籠め、丹羽郎左衛門警護にて候なり註 国人衆を単位にしない独立支隊指揮官の初出か?これ以前は、御人数という記載でしかない。
  11. 永禄十一年(1568)九月七日、信長入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるるの事「佐久間右衛門(信盛)・木下藤吉郎(秀吉)・丹羽五郎左衛門(長秀)・浅井新八仰せつけられ箕作山の城攻めさせられ註 この後、信長軍は数チームに分けられて活動しており、後の軍団制の萌芽とみられる。
  12. 同上、「一円御構ひなく、御馬廻にて箕作を攻めさせられ
  13. 同上、「并に御馬廻の内魚住隼人・山田半左衛門、是れも隠れなき武篇者なり。両人先を争ひ、外構へに乗込み、爰にて、押しつおされつ、暫の闘ひに、」
  14. 永禄十二年(1569)八月、阿坂の城退散の事では、四チームが編成されている。
  15. 同上、「四方鹿垣二重三重結わせられ、諸口の通路をとめ、尺限の廻番衆、」
  16. 同上、「信長御座所御番の事、御馬廻御小姓衆、御弓の衆、鉄砲衆に仰せ付けられ候なり
  17. 同上、「稲葉伊予(一鉄)、池田勝三郎(恒興)、丹羽五郎左衛門(長秀の)、両三人西搦手の口より夜攻めに仕るべきの旨、仰せ出だされ、御請け申す。(中略)雨降り候て、御身方の鉄炮御用に罷り立ず候なり
  18. 同上、「池田勝三郎(恒興の)攻口にて、御馬廻の、朝日孫八郎・波多野弥三、討死仕り候なり。丹羽五郎左衛門攻め口にて討死の衆、近松豊前、神戸伯耆、神戸市介、山田大兵衛、寺沢弥九郎、溝口富介、斉藤五八、古川久介、河野三吉、金松久左衛門、鈴村主馬、初めとして、究竟の侍廿余人、夜合戦に討死
  19. 元亀元年 六月廿二日、虎御前山退陣の事「御馬を納められ、殿(軍)に諸手の鉄砲五百挺、并に御弓の衆卅計り相加へられ、簗田左衛門太郎(広正)・中条将監・佐々内蔵助(成政)両三人奉行として相添へられ候註 軍制において奉行の初出か?
  20. 同上、「御弓の衆として相支へ、異儀なく罷り退く

 

まず父弾正忠信秀の代では、「家中の能き者を手に付けた」というのですから、寄親である国人衆よりも、その配下にいた寄子=地侍層を直接集め出したのかもしれません。なぜなら、青山与三右衛門や内藤勝介という大身の国人とは思えない本人の才覚・能力だけの武士が、嫡男吉法師の「おとな」として抜擢されているからです。そして、天文十一年(1542)のあづき坂合戦では、親族衆に加えて若者が活躍しているのをみますと、寄子=地侍は当主その人ではなくても、その息子たちが参加しているようですし、山口左馬之助などは鳴海城を与えられています。それが、天文十六年(1547)になりますと、「尾張国中の人数を憑みなされ」て国外へ遠征しているのですから、利害を考えた国人層も集合しているものと考えられます。五千討死は大げさでであったとしても、それが弾正忠信秀が動員できた総数かもしれません。

しかし、弾正忠信秀は親族との競争では優位に立ってはいましたが、未だ勝ったとは言えませんでしたし、ましてや尾張国内の有力国人衆を支配下に置いていたとも言えませんし、信長のように国人衆の力を借りなくてもよいほどの常備軍を編成できていたわけでもなさそうです。その結果、今川義元に安祥城を奪われると、続いてそれまでは少なくとも緩衝になっていた刈谷(屋)城まで今川方の手に落ちると、信秀は病床についたらしく思えます。『信長公記』は「疫癘エキレイ御悩みなされ、様々御祈祷、御療養候と雖も、御平癒な」と書きますが、戦国時代のことですから、国人衆の信用を失墜させた信秀は、信長が毒殺したのかもしれません。武田家や伊達家などと同じというわけです。

 

(3)信長の親衛隊を読むを読む または、信長の組織試論(2007.12.10)

表題の実際は、「松岡正剛の千夜千冊・第四百五十五夜【0455】2002年1月11日谷口克広『信長の親衛隊』1998 中公新書」を読むということになります。

松岡正剛氏のブログに触発されて信長の組織について考えてみました。勿論、谷口克広氏の『信長の親衛隊』は事前に読んでます。・・・読むだけは。

だから、書評ではありません。

谷口克広氏の著作は非常に役に立ちます。信長研究者にとっては、基礎調査を省いてくれる百科事典だからです。索引があるだけでなく、テーマ毎にまとめてくれていますから助かります。

松岡正剛氏は、「日本人の組織感覚のアヴァンギャルドなセンスが信長を通して見える」といわれます。この意味が小生には分りません。小生は信長の組織が前衛的であるとは思いません。これは、活発に活動している立ち上げ中の組織集団全てに一般的にみられるものと感じるからです。

現在においても、最も活発に活動し成果をあげることができるのは、柔軟性を持った集団であるのですが、これを反対から見れば、明確に組織図が書かれ、その役割が決められていて、マニュアルで動く組織、すなわち完成した(或いは、硬直化した)組織ではないということです。つまり、形成途中にある組織はみな柔軟で躍動的であり得るため、信長の組織と同じ特徴を持っているように思えます。それを端的に証明しているのが、著者の谷口克広氏が言われるように「信長の家臣団を特徴づけるのは近習組織だった」ということです。信長の身の回り以外には組織化の手が及ばなかっただけなのです。

信長の組織は形成中であるが故に流動的であり、著者が言うように「いちがいには説明がつけられず、時期によって色々変化している」のです。ですから、信長の組織であろうと、これが完成すると、そこから硬直化が始まるわけです。そして、当時の日本には最高の組織として律令官制(官僚制)というものが既にあったのですが、当時の武家政権には制御・運用できかねるほど高度なものであったため、頼朝の鎌倉幕府以来、武士は分相応の統治に必要な組織を模索しながら少しずつ付け加えながら発展してきたわけです。ですから、武家政権にはその時代に応じて必要最低限のものしかありません。

信長の場合も必要に応じて作り始めたのですから、その時代が要請したものに応えるわけです。そのために、結局は他の戦国大名と似た形になるわけです。松岡氏は、「注目するべきは、幕府システムのいっさいの力を借りず、またそのまねもせず、これだけの準備をしはじめていた」と言われるのですが、信長の組織は明らかに室町幕府の奉公衆(将軍の直轄軍)を馬廻として受容して、発展的に取り入れています。他の戦国大名家も同じです。変わるところはありません。・・・というと言い過ぎになりますが。

それよりも注目すべきは、第一に足軽の充実だと小生は思います。これは、他の戦国大名も拡充しようとしているのですが、信長ほど成功してはいません。信長の成功した理由は、国人衆に媚を売らなかったために、足軽隊を強化する必要があったことが考えられます。ですから、『信長公記』にいう家老衆というのは、我々が想像するような後の江戸幕府でいえば大老・老中というような身分の者ではなく、足軽大将クラスであったように思えるのです。

それと並んで注目すべきは、やはり小姓・馬廻などの近習衆なのですが、その権威・権力が出自・身分に関係なく大きいことです。松岡正剛氏は、「ダイナミックだし、形式にとらわれていない。」と言われます。これは当然です。国人衆の協力を得た一揆体制ではないからです。これが、他の戦国大名とどのように違うかといいますと、多くの戦国大名は二世でして、一世が一気に革命しようとして国人一揆に排斥され、二世がその国人一揆の支援を受けて領国を統一しているのに対して、信長は国人一揆の世話になっていないことです。と云うより、尾張では国人一揆が結ばれることはなく、多くは織田一族の旗下にあり各個に抵抗することさえ殆んどしていないのです。

松岡正剛氏は、「なんとも柔組織的である。ようするにピラミッド性を徹底して排除した」とその特徴を捉えられますが、急激に成長しているのですから至極当然なわけです。別に、信長の天才がそのように組織したわけではないと思います。

また、「信長は抜擢がうまかったのだが、そのように好きに抜擢できるだけの組織の多様性を用意した。」と言われますが、抜擢がうまかったのはその通りだとしても、後は本末転倒で国人衆の協力を得ようとしなければ、父・信秀の守護代奉行としてあっただろう組織も利用できなかったわけです。その結果、必要に応じて「それこそ日本的に」抜擢した人間に仕事をさせると、その担当者はその能力に応じて自分の職域を形成していったからです。信長には意図しようとせざると、目標管理をするしかなかったのです。だから、多様性を用意したわけではないでしょう。

信長は近習の人事を固定化せずに代えているともあります。特定の目的のために抜擢しているからです。また、成果をあげられなければ更迭されてもいます。小生思うに、役職には俸給が付いてはいますが身分が付属していませんから、役を外されると元々の本貫に戻るしかなかったようです。従って、本貫が他人に給付されているときには、帰る場所もなくなってしまいかねません。………そんな例はあるかな。事例を探さなくては。

松岡正剛氏は、「これが最も特徴的なことだろうが、部門のトップにいる者よりも、近習の小さな仕事に当たっている者を近づけた。そういう者に最も重要な情報を洩らし、その情報をもった近習がどのようにその情報を処理したかを見て、信長は事態にあたったのである。」と書かれています。これはどのような事例を指して言っているのでしょうか。よく解りません。………森蘭丸について語られた伝説のことを言っているのでしょうか。近習制は徳川幕府時代には側近政治として復活するようですが、中国歴代王朝の宦官制と同様に、権力者が専制しようとしたならば必然的に採らざるを得ないシステムでしょうし、身分制のあった中世では奏者制が普遍的に行われたのですから、それに小姓という身分卑しき者を公式に介在させた点が目新しいことになるのでしょうか。それも、朝廷では女房衆が介在したのですから、武士社会らしくなっただけのことかもしれません。重役などの国人衆の評議が入らなず、直接権力者に取次がれるところが、ポイントになるのでしょう。

信長には部門のトップにいる者が近侍することなどは、最初から最後までなかったに違いありません。軍団制ができてからを見れば分かるように、重役になった者は皆それぞれの仕事の現場に出張しているのが常態であったからです。恐らく、初期においても重臣を務めるほどの能力のある者は、最前線に出ていたであろうと考えられます。だからと言って「これだけ動的で勝手な組織感覚」を現代の組織が持っていないと考えるのは当たらないと思います。そんなことはありません。そこら中の新興企業に見られますし、プロジェクトチームなどには普遍的にみられる現象だからです。ここには所有権の問題と基本的人権の問題があるように思えます。所有権の問題とは、組織に所有権が及べば其の人事は所有者が生殺与奪の権限を握って然るべきであるというコンセンサスが、当時の社界全体にあったかということです。

一方、基本的人権を認めれば、その組織の中でも最低限の生存権を認めなければなりません。組織での生存権とは、能力に応じた役職とそれによって得られる俸給であろうと考えられます。信長の場合に問題なのは、統治に携わる者である武士(所領を持ち軍役を担う者)には、無制限の武辺道に邁進することを求めていることです。無制限でありますから能力がある限り無期限であり、過労死しない限り止めることは許されないことになります。おそらく光秀などはその年齢からして、精神的に耐えられなくなっていたのだと看做すことができます。と云うことは、信長の組織は構成員が若者のための組織なのです。精神的にも体力的にも無理が利き、困難を厭わず返って自ら買ってでも挑戦しようとする若者の組織なのです。このような組織の例は、起業の成功者や立志伝中の人物、倒産企業の再建者の組織として、現代でも頻繁に現れます。

一旦、功成って安逸を求めたくなると、多くの自己犠牲をはらいながら走り続ければならないということは苦痛でしかありません。従って、国人衆との合議制という当時の戦国大名の一般的なシステム内での立身を望む者には、信長のシステムは耐えきれなかったであろうと思われます。また、平和や社会の安寧を求める人々にも嫌がられる組織です。ところが、それが日の出の勢いで日本中を席捲しようとしているのです。嫌なら出て行けと言われると黙ってしまわざるを得ないのが日本の社会(運命共同体)の性格的特徴です。

成長しつつある組織は、メンバーが自分たちで作り上げていくわけなのですが、一旦完成した組織しでは自らが発展を阻害するという矛盾に陥るのです。これを疎外というわけです。だから、組織が発展し続けるには、永久に完成してはならないことになります。これを追い求めると、破壊・消耗できる多くの小さな単位組織を作って、目的に応じて編成し使い捨てにする必要があります。これとても、生き残った者を拾って養うことは必ず必要になり、それをしなければ其れが全体に仇をなすことは確実なのです。人間の体内に老廃物が蓄積されていき機能不全に陥るのと同じことです。信長の組織は誰でも作れますし、そこらじゅうで生まれています。問題はそれが革命的技術を持っていないために、目立たないし、社会に影響しないだけなのです。だから、カリスマだけでは組織は作れても成果を生むことはできないことになるわけです。

 

 (4)「信長の御狂い」   (2007/12/03 09:57 )

信長の「お狂い」が、”狂気”なのか”夢中な遊び”なのかは興味がわきます。

『信長公記』に「御狂」の記事は三件あるそうで、うち二件は天正七年の四月らしいのですが、この年の『信長公記』をみてみますと、二月から鷹野のオンパレードです。二月九日、廿一日、廿八日、三月二日、三月六日、三月十四日、三月晦日、そして四月八日の「御狂」は鷹野を開始する前に行われています。四月廿六日の御狂いには鷹野はありません。
三件目、天正十年の「御狂」では、鷹野も模擬戦もしておりませんで、小姓衆にも気儘に馬を駆らせることを許しているだけのようです。………何れも四月のことですから、四月病?。小生には、信長に狂気は見えないように思えます。

該当する書き下し文は次のようなものです。

(1)(天正七年)「四月八日、御鷹野へ御出で、古池田、東の野にて御狂これあり。御馬廻・御小姓衆には馬を乗させられ、御弓衆御側におかせられ、二手に分けて、馬乗衆、御責子衆の中へ懸け入り候はんと、馬を懸けられ、信長公、御せこ衆と御一所に御座候て、塞がせられ、御狂ありて、御気を晴らさせられ、其れより直ちに御鷹野なり

(2)(天正七年)「四月廿六日、古池田まへ、信長御出でなされ、御狂あり。以前の如く、御馬廻・小姓衆近衛殿・細川右京大夫殿、是れも御馬をめされ、二手に分れて、御足軽御懸け引き、面白く遊ばし、御気を晴らさせられ候。」

(3)(天正十年)「四月十二日、もとすを、未明に出でさせられ、案じたる事、冬の最中の如くなり。富士の根かた、かみのが原、井手野にて、御小姓衆、何れもみだりに御馬をせめさせられ、御くるひなされ、富士山覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。」

まず、訳しやすい(3)の天正十年四月十二日の文についてみますと、小生は「井手野において、信長公は御小姓衆らの何れにも勝手気儘に馬を駆けることを許されて、信長公は夢中になってお遊びになられ、」と訳します。
この場合には信長も一緒に夢中になって乗馬をかって駆け廻ったのかもしれませんが、狂気があったようには思えません。

次の(2)天正七年四月廿六日の文については、「信長公は夢中になって遊ばれた。以前の四月八日の時と同じように、御馬廻・小姓衆に加えて近衛前久殿と細川右京大夫昭元殿も馬に乗られ、二手に分れて、足軽の懸け引きを面白がってなされて、気を晴らされた。」と訳したいと思います。
ここでの信長は、一方の大将になって駆け廻り、足軽を指揮して機動させるという軍事演習を遊びで行ったのだと思います。………多分、延翼運動をしたり味方の部隊と部隊の間隙へ浸透しようとする敵を妨害する機動を行ったのだろうと思います。

(1)の天正七年四月八日の文については、少し難しいところがあります。
東の野で夢中になって遊ばれたことがあった。信長公は、御馬廻や御小姓衆には騎乗させられ、弓衆は御側に置かせられた。」と、ここまでは問題ないと思います。
問題は以下の文です。
二手に分けて、馬乗衆、御責子衆の中へ懸け入り候はんと、馬を駆けられた。」と言うのですが、信長は何を「二手に分けた」のか。「御責子衆」とはどの様なものか。その責子衆は足軽歩兵なのか。それとも馬廻・小姓などの騎兵のことをいうのか。………これらのことが問題だと思います。
ここでの「責子」というのは、攻める事をしている人を云うのでしょうから、二手に分けた方のどちらか一方の事をいうのだろうと考えたいと思います。また、馬乗衆という単語には「御」がつけられていませんから、信長の指揮下にない敵方という事になるものと考えたいと思います。そう考えますと御責子衆という方が信長が指揮した馬廻・小姓群をいうのではないかと思えます。

では、信長がその騎馬軍の中に居たかというと、そうではなかったかことが次に続く文から分ります。即ち、「信長公は、鷹狩に集めた勢子の衆と一つ所に居られて、騎馬の衆が味方の部隊の間隙に駆け入るのを部隊を指揮して塞がれて妨げた。」と訳せるからです。
ここでは、勢子の衆を足軽隊に見立てて軍事演習をしていることになります。その後に行われた廿六日には、実際の足軽を用いて行っていることは、先に見ました。

従って、「信長公は鷹狩へ御出かけになって、古池田、東の野で夢中になって遊ばれたことがあった。信長公は、御馬廻や御小姓たちは騎乗させられ、弓衆をお側に置かれた。信長公は、騎乗させた御馬廻と御小姓衆を二手に分けた。信長の相手方の騎手たちは、信長が指揮した部隊の中に懸け入ろうと馬を駆った。信長公は、鷹狩に集めた勢子の衆と一緒の所に居られて、敵方になった騎馬の衆が味方部隊の間隙に駆け入るのを、部隊を指揮して塞がれた。一頻り夢中に遊ばれて、気を晴らし終えられると、其れより直ちに鷹狩に移られた。」と訳したいと思います。

信長は何れの場合も気が狂ったように無暗に馬を駆け回していたようには思えませんので、牛一のいう「御狂」とは「夢中の最上級」の表現にすぎないのではないかと思うのです。

それよりも、これらの文章は信長時代の大がかりな鷹狩を利用した軍事演習がどのようなものであったかが理解できる一つになるのではないかと思います。

参考までに、『名将言行録』には、「村上義清を伴って野に出て鷹狩りをした折、義清が、この野原に軍勢が集結して戦闘配置につき、隊伍の整っているさまを見てみたいものだと言ったところ、輝虎はそれを聞くと、簡単なご所望だ、今すぐにもお見せしましょうと言って、法螺貝を一声吹き鳴らすと、すぐさま四五十騎ほどの甲冑武者が二隊、土埃をたてて馳せ来たってその場に陣を布いた。輝虎は義清に向かって、次の貝でまた直ぐに部隊がくるが、まずはこの二隊を見給へと言うと、義清はその陣列正しき様子は、天下にならびないと世辞を云った。」という逸話があります。

 

(5)織田家の寄親寄子制(信長以前) (2007.12.14 16:26) 

織田家の軍制を寄親寄子制がどのように行われたかという観点から、『信長公記』を読んで考えてみます。

『信長公記』の書き出しには、まず「尾張ノ国は八郡なり。上の郡ノ四郡ハ、織田伊勢守ガ諸侍ヲ手に付け進退して、岩倉と云ふ処に居城なり。」とありますが、ここの「諸侍ヲ手に付け」というのは、地侍たちを味方にしたということで、守護代・大和守家の軍制は寄親寄子制の形成にまでは至っていないだろうと考えます。

次に、「清洲の城に武衛様を置き申し、大和守も城中に候て、(武衛様を)守り立て申すなり。大和守内に三奉行これあり。織田因幡守、織田藤左衛門、織田弾正忠、この三人、奉行人なり。」とありまして、このように尾張の国の上下に分割支配することで一応の決着もみますと、中央政界の争いによって生じていた守護代同士の争いも落ち着き、大和守家の当主が軍を指揮することはなくなったようにみえます。
そして、三奉行間の争いにも守護代自身が戦陣に立つことはなかったように見えますから、守護代や守護代にとっては、中央政界の争いこそが軍人としての働き場・生甲斐であり、地方での戦陣は中央の争いを反映することがなければ関心がなく、守護代としての徴税と軍役が果たせれば、それ以上のことはやる気がなかったように思えます。

従って、守護代の承認を得て奉行・信秀が国人・地侍を組織しはじめても、それは表面の形式上、信秀が寄親、国人らが寄子であるように見えるだけで、守護代に組織化の意欲も意志もない以上、寄親寄子制とは言えないものであったと考えます。

ですから、勿論のこと、信秀には守護代から寄子指南として法度に従って寄子を取り締まるように命じられることもなかったでしょうし、寄子が寄親の言うことを聞かないからといって許されないこともなく、訴訟や嘆願を寄親を通じて行うよう厳しく義務づけられたりもせず、越訴を禁じられることもなかったものと考えます。つまり、公・私に渡って寄親の命令は絶対ということはなかっただろうと思うのです。

信秀の場合は、「備後殿は、取り分け器用の仁にて、諸家中の能き者と御知音なされ」とあり、信秀の人望(国人・地侍の利益に沿った施政を行ったこと)により、「御手に付けられ」たのだと考えるからです。

では、弾正忠家の家宰はどうなっていたかといいますと、
嫡男織田吉法師殿に、一おとな、林新五郎(秀貞)。二長(オトナ)、平手中務丞(政秀)。三長、青山与三右衛門。四長、内藤勝介。是れらを相添へ、御台所賄の事ハ平手中務」とありますから、これら四人の重臣は被官化していたものと考えられます。何故ならそれは、弘治二年頃に林・柴田が勘十郎をたてて信長に反して稲生で合戦に及んだ頃の話として、「三代相恩の主君」とありますから、遅くとも信長の祖父である西巌(信定)の時代には被官になっているものと思われるからです。

林佐渡守ハ、(主君を直接手に懸けることに)余りにおもはゆく(恥ずかしく)存知候歟、三代相恩の主君を、おめゝゝ爰にて手に懸け、討ち申すべきこと、天道おそろしく候。とても御迷惑に及ばるべきの間、今は御腹めさせ申し候て、御命を助け、信長を帰し申し候。」

また、平手氏も御台所賄の事を仰せ付けられていますから、越前より入部してからの間に弾正忠家の家宰化しているとみてよいように思えます。弾正忠家の元々の勢力地盤である中嶋郡に所領を持っていた三長の青山与三右衛門やほとんど素性が知れない四長の内藤勝介なども、昔からの被官であったと思います。「熱田の並び古渡と云ふ所に新城を拵へ、備後守御居城なり。御台所賄ハ山田弥右衛門なり。」とある山田弥右衛門なども昔からの被官でしょう。

さて、『信長公記』に現れる武将をみてみますと。小豆坂合戦が信秀時代の軍制を伝えます。

備後殿ノ御舎弟衆ノ与二郎(信康)殿・孫三郎(信光)殿・四郎次郎(信実)殿・造酒丞(信房)殿」という名が上り、信秀軍の主力は要所々々に分封された兄弟たちであることがわかりますが、寄親寄子制ができていたとは思えません。単なる昔からの一族一揆に近いものでしょう。

次に名が挙がるのは信長の四おとな・内藤勝介ですから、これは信秀の被官で旗本・馬廻の魁にあたるような者であったのかも知れません。

那古野弥五郎ハ、清洲衆にて候ガ」とあるのは、守護代大和守に支持されて信秀が那古野城から今川氏豊を追った事実がありますから、清須衆といわれた那古野弥五郎は大和守が信秀につけた寄子であることも考えられます。しかし、織田信秀の岡崎城攻略は尾張守護代の意向であったはずですし、「国中を憑みなされた」とは書かれていないので、守護代の名前で東尾張(愛智・山田郡)の武士を動員しての戦いであったとすれば、信秀の寄子とは言えないと思います。単に参陣しているだけです。………そうでなければ、信秀の被官化しているかもしれません。

そのほか、下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助などが挙げられているのですが、那古野弥五郎が守護代・大和守が信秀につけた寄子であったならば、彼等もみな、信秀の直接の被官などではなく、形式的には大和守に預けられた寄子であったと考えられます。

しかし、小瀬甫庵の『信長記』が「下方左近(其の時は弥三郎とて十六歳)、岡田助右衛門尉、佐々隼人正、其の弟孫助十七歳、中野又兵衛十七歳、其の時は未だ童名にて、そちとぞ申しける。」と書き、これが小豆坂の七本鑓といわれたものなのですが、『新修名古屋市史』が注意を促がすように、若者が多いことが特徴であることを考えますと、彼らは功名して成り上がることを夢見て参陣しているように思えますから、実際的には信秀の被官であったものと考えられます。

では、那古野弥五郎が信秀の寄子でなかった場合はと言いますと、これは信秀の被官であったと考えることができます。彼らの年齢が若いからです。軍役として出征であるならば、彼らの父である当主が名を連ねなければならないと思うからです。従って、そのような中で、信秀は自前の軍隊(馬廻)を作り始めていたのではないかとも考えるのです。

それが天文十三年になりますと、「備後(信秀)殿は国中を憑(頼)みなされ、美濃国へ御働き、又翌月は三川(河)の国へ御出勢。」「或る時、九月三日尾張国中の人数を御憑(頼)みなされ、美濃国へ御乱入、」という具合に、国中を憑んだり、尾張国中の人数を御憑したりして東奔西走するようになります。これは、守護代の承認を得ているとはいえ、信秀の名前で召集しているものと考えると、信秀自身の手によって独自の軍制を作り始めたものと言えるかもしれません。

備後殿御舎弟織田与二郎(信康)・(清洲三家老家の一人である)織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門(吉法師の三長)・千秋紀伊守(熱田大宮司)・毛利十郎(敦元)・おとなの寺沢又八・舎弟毛利藤九郎・岩越喜三郎を初めとして、歴々五千ばかり討死なり。」という人々が戦士していますが、この人たちが信秀の寄子または信秀に仕える寄親といえるか考えてみます。

御憑なされる」のですから、これは寄親寄子制による動員などではないものと考えられます。つまり、この頃までの織田家の軍制は昔ながらの国人・地侍の合力による寄せ集めであったものと思うのです。つまり、寄親寄子制は芽生えてさえいないわけです。

後の、信長による村木砦攻めのときに明らかになるように、信秀のところに集まった尾張武士たちは「与力」と言われるようなチームに近い集合体のように思えます。

翌日御出陣候はんのところ、一長の林新五郎、その弟美作守兄弟、不足を申し立て、林与力ノあらごの前田与十郎城へ罷り退き候。」

この状態は、その後も続きまして、信長の伊勢戦では複数軍団を編成するのですが、その指揮は集団指導制をとっています。そして、このような状態はほとんど信長の最後まで続いており、その姿勢を崩していません。勿論、チームの主将は決められますが、同時に越前の柴田勝家に対する前田利家・不破光治・佐々成政に見られるように、有力与力は目付・軍監を兼ねています。さらに、上杉謙信との対決のおりの羽柴秀吉などは自軍を引き揚げてさえいるのに咎められていないのです。

では、信長の軍制は寄親寄子制ではないかと言えばそうともいえません。

しかし、寄親寄子制を特徴づける、

  1. (1)寄親は、寄子指南として法度に従って寄子を取り締まった。寄子が寄親に背くことは許されず、また全ての訴訟や嘆願は、所領の寄親を通じて行うよう厳しく義務づけられ、越訴は禁じられてた。公・私にわたって寄親の命は絶対であった。
  2. (2)戦国大名は家臣各自に対し、給恩の貫高に応じて負担する軍役の内容を、人数、武器、指物、武装内容についてまで細かく指示した。

………というような、制度が垣間見えてこないのです。

  1. なおもって人数の事、分際よりも一廉(ヒトカド)奔走簡(肝)要に候、(中略)人数之事、老若を選ばず出陣に於いては、忠節可為祝着候」『遠藤氏宛朱印状』。
  2. 『惣見記』信長公武田誅伐ノ爲ニ諸方ヘ御手分ノ事「(前略)兵粮つづき候様にあてがい肝要に候。但シ人数多ク候様に戒メ、力次第ニ粉骨抽可き者也。」
  3. 参陣を遂げられ御馳走簡(肝)要に候」『若狭武田氏宛朱印状』
  4. (6)織田家の寄親寄子制(家督相続から桶狭間まで、その1)   作成日時 : 2007/12/16 16:59

    さて、ここからは信長の時代に入ります。

    始めに寄親寄子制を小生なりに定義しておきます。
    (1)家臣団(親族・譜代も含む)は、有力武将を寄親として寄子(同心)が預け置かれているのでなければならない。これは、寄子(同心)は戦国大名の被官として契約しているのであって、寄親に配属するという形式をとっていなければならない。(寄親は寄子以外にも自己の被官を持っている)
    (2)奏者制がなければならない。寄親は、法度に従って寄子を指南し取締まれなければならない。寄子は寄親に背くことは許されず、全ての訴訟や嘆願は所領の寄親を通じて行うよう厳しく義務づけられ越訴は禁じられなければならな。公・私にわたって寄親の命は絶対でなければならない。
    (3)寄親を上番・城番などを繰り返すことによって転封できるようになっていること。
    (4)貫高制とセットで運用して寄子を兵農分離に導く努力がなければならない。
    (5)一族を被官化して既存の惣領制から脱却していなければならない。

    これは飽くまで後北条氏を範とした理念型ですから、これらの貫徹程度には差があります。

    例えば、今川氏の先進性を持ち上げて過大評価する向きもありますが、永禄三年(1560)の桶狭間合戦で義元が討死してからの今川家は、衰退の一途をたどっています。
    そうしますと、その主たる原因は戦国大名としての諸施策が不徹底であったからだと考えなければならないはずです。
    そのような、急激な衰退は今川氏の先進的な諸政策の中に後進性を内包していたからに違いないのです。
    これは、今川氏に限らず武田家の崩壊にも見られるように、後北条氏とは違って外縁からどんどん調略されて崩れてしまっていることが顕著なことがあります。上杉氏などは戦国末期になってからも、戦国盛期のように内訌によって崩壊の危機に陥っています。

    これを戦国大名を特長づける寄親寄子制でみますと、同じ寄親寄子制であっても、在地領主層の当知行権を否定し得ていなければ、戦国大名の家臣団構成は脆弱なものがあったということだと思えます。
    そして、在地領主層の当知行権を否定出来るためには、信長のように寄親寄子制に頼らない給人被官制による旗本・馬廻が強化されていなければならないのだと考えます。
    少なくとも、徳川家のように譜代家臣を信頼できる味方として組織できなければならことになります。

    ですから、このブログで寄親寄子制という場合には、桶狭間合戦時点の今川氏に照らして次の三点だけを定義の構成要因として考えます。
    (1)有力武将を寄親として、それに寄子(同心)が大名から預け置かれていること。
    (2)奏者制があること。寄親は法度に従って寄子を指南し取締まり、公・私に渡って寄親の命は絶対でなければならないこと。
    (3)寄親を上番・城番などを繰り返すことによって転封できるようになっていること。

    次に、史料に現れる外形が寄親寄子制に見間違う「寄親寄子制もどき」を「擬似寄親寄子制」として、成立起源から考えてみます。

    尾張国では、応仁の乱以来の中央政権の政争を反映して、在地でもその代理戦争を守護代が担って戦っていた。そして、在地の領主たちは自らの知行地支配の正統性を担保するためもあって、両派に組織されてそれに参加させられるという状況が続いていた。尾張国では岩倉伊勢守家と清洲大和守家である。そのうち大和守家で家宰として実務を担ったのが三奉行でした。

    この際、守護や守護代が戦国大名化しようとすると、三奉行を中心に寄親として寄子を組織することが考えられるのですが、守護斯波氏にも守護代大和守家もそのように志向した形跡はなさそうなのです。弾正忠家が津島を支配するための戦争を起こしたときにも、弾正忠家は守護代の承認や支援を得ていたでしょうが、弾正忠家独自の兵力を組織して戦ったようにみえます。

    津島から上がりは守護にも守護代にも上納されたのでしょうから、特に弾正忠家の仕方にクレームがつけられたようには見えません。

    次の大きな出来事は那古野城から今川氏豊を追った事件なのですが、これによって、那古野今川氏の被官であった在地領主の動向に関した記事が『信長公記』には散見します。
    それが那古野弥五郎であり、彼は信秀の小豆坂合戦に参陣して戦死しています。
    その息子と思われるのが、『信長公記』に「清洲に那古野弥五郎とて、十六、七ノ若年の人数三百計り持ちたる人あり。」とある若者です。

    子と思われる那古野弥五郎は人数三百計りを持っていたわけですから、後世の軍役基準でいうと一万石程にもなるのですから相当な大身です。

    条里制水田では上田ならば「段租穀1石5斗」といわれ、精米はその半分の七斗五升ですから、百反(段)当り七十五石、十町当たり七十五石になります。万石ということは1,333町(13,219,894m2≒3,636m四方)に渡る勢力であったことになります。

    これを現在の名古屋市(326,450m2)でみますと、
    北区17,560m2、西区17,900m2、東区7,720m2、中区9,360m2、ですから、凡そ一区ほどに勢力が及んでおり、被官がいたことになります。
    それが、この時点でいまだに清州の守護代の被官であったのですが、それを父の弥五郎が信秀に寄子として預けられていたのを、その戦死後に取り上げられたと見做すことは難しいと感じます。

    何故ならば、寄親寄子制の最低の要件としての「奏者制」があることを考えると、一旦公私に渡る那古野家の支配権を弾正忠家に預けてしまったならば、一合戦でもなければそれを取り上げるのは難しく思えるからです。
    それに、清州の被官であった那古野家も清州と那古野の信長を秤にかけて、どちらの被官になるのが得かを考えたはずだと考えるならば、その帰属を廻っての合戦があったに違いないのです。
    それが伝わっていないということは、那古野氏とその一党は寄親寄子制のような形で組織化されてはいなかったものと考えた方が良いように思えます。

    このように考えますと、尾張国ではいまだに寄親寄子制は行われてはいなかったと見るべきではないでしょうか。

    そこで、尾張国でおこなわれていた制度を「与力制」と呼ぶことにします。与力制には奏者制がありません。単純に軍役を寄親に見える武将の下で務めるというだけの軍編成上の組織にすぎず、寄親に見える武将には与力に対する支配権はなく、時には与力に監視されていることにもなりますし、軍事行動においても寄親に見える武将も先任将校というほどの重みしかなかったものと思います。

    例えば、桶狭間の戦いで丸根砦を守った佐久間大学は、信長の後詰がないことが決まったときには、五人の旗頭、服部玄蕃允、渡辺大蔵、太田左近、早川大膳、菊川隠岐守に対して、退いて後軍に合する様に勧めたのですが、誰一人これを聴かずに城門を開いて討って出て玉砕したということです。これなどは、寄親寄子制による統制の厳格さではなく、チームを組むことによる仲間意識が勝ったものだと小生は考えます。

    織田家の寄親寄子制(その2−2)  2007.12.21

    さて、家督相続から桶狭間の戦いまでの『信長公記』の記事を見るのですが、
    その前に今川仮名目録追加第二・三条で、桶狭間の戦い当時の今川家の寄親寄子制を窺ってみます。 追加第三条についての解釈は今川仮名目録の章を参照してください。

    そうしますと、桶狭間合戦当時には当時最先端を走っていたはずの今川家の軍制でさえ、小生が規定した三項目の

    (1)大名が寄子を預けること
    (2)奏者制
    (3)寄親の転封
       のいずれもが満足できる水準を達成できていなかったことが分かります。

    (1)の大名が寄子を寄親に預けると云うことも完全ではなさそうで、寄親の下に情勢を見たうえで味方したというに過ぎないものも多かったらしく、
    (2)の奏者制にしても理念通りにはいっていなかった様子が窺える条文になっています。
    それに、
    (3)の転封についても一部譜代の武士や親族・縁戚にある者に限られているように思えます。その他は、番手であって交代制を採用しています。尤も、これは外様の寄親は信用がならないということもあるのでしょうが・・・。

    ところで、信長の場合では、
    親族では主に織田孫三郎(信光、信秀の弟)が信長に協力して清洲の守護代家と対抗していますが、親族以外の協力者(有力国人)は佐久間一族が代表格でして、その他はあまりいないように見えます。少なくとも、『信長公記』には特筆されてはいません。

    次に目立つ記事は、
    村木砦攻めの若武者身分の低いものが活躍する記事と、「あし軽」と呼ばれて交名をあげられた人々です。足軽が戦いに顔を出すのはこの頃からです。それだけ、当時の信長軍においては重要な兵種になっているようです。
    「先手あし軽」とあるのは敵方であるかららしく、牛一は信長側は「あし軽衆」と書分けているみたいです。
    また、
    筆頭に書かれた荒川与十郎が騎乗していたところを見ますと、その余も騎乗していたと考えるならば、彼らは足軽大将であったと言えると思います。
    もし、
    その余が騎乗していないとすれば足軽組頭になるのでしょうが、当時の信長の軍制がそれほど細分した組織化は進んでいなかっただろうと考えますと、やはり全員騎乗身分の足軽大将であったものと考えるのが良いように思えます。

    さらに、
    桶狭間の戦いまでの記事をみますと、寄親でありそうな一手を受け持てる武将は、信長の一族以外では、林新五郎・柴田権六・名塚砦守将の佐久間大学・鴫原砦守将の山岡伝五郎・鳴海城代の山口左馬助ぐらいしか記されていません。緒川城主の水野金吾下野守は信長とは同盟者の立場であったように思えますし、岩崎の丹羽源六は敵対勢力に組しています。

    この寄親クラスの武将が、砦の守将を務めているぐらいですから一手を率いて軍事行動ができる能力がある人々です。しかし、これが番手として順番に交替して役目を務める体制ではなさそうです。
    つまり、これらの人以外は支隊(別動隊)として行動できるような能力も信長からの信頼も受けていなかったことになります。

    これは重要なことです。

    桶狭間の戦いに於いても、主だった武将は前線の付城群に張り付いていたのですから、これらの人々以外には支隊(別動隊)の指揮をとれるような武将はいなかったということになるからです。

    また、輪番制がとれなければ、余り長期間の勤務はできないことにもなりますから、信長の城攻めは付城群で攻囲するのが常套手段なのですが、それなのに長期戦は不得意なようで、直ぐに強襲を試みることになってしまうようです。

    次に、信長の組織を見てみますと「(オトナ)」として林新五郎がおり、御先手足軽衆がおり、「与力」に前田与十郎がおり、他に「年寄衆」がいるようです。

    「年寄衆」については、弘治二年丙辰八月廿四日の勘十郎殿、林・柴田御照敵の事という条に、「一、守山の城、孫十郎殿年寄衆として相抱え候。楯籠もる人数、角田新五・高橋与四郎・喜多野下野守・坂井七郎左衛門・坂井喜左衛門・其の子坂井孫平次・岩崎丹羽源六者ども、是れ等として、相抱え候。」とみえます。

    この文章、榊山潤氏の訳では、「守山の城は孫十郎殿年寄衆が守備していた」とされていますが、孫十郎の所在が分からなくなってしまいます。それから考えると、ここの主語は信長であると考えるのが相当のはずです。
    つまり、
    信長は、守山城には孫十郎殿を年寄衆(連枝)として配置していた」となると考えます。
    何故なら信長は、父信秀から家督を相続していて、それに反対がなければ、正当に尾張守護代奉行の地位も相続しているわけですから、その権限でもって孫十郎にはその既得権益を安堵していたはずだからです。

    というわけで、「年寄衆」は「オトナ」とは違っているようです。どうも、「オトナ」は家宰の長であり「年寄衆」は被官化しつつある「親族(連枝)」であるように思えます。

    そうしますと、それに続く「是れ等」について榊山潤氏が暗に年寄衆を指して訳すのも間違いで、「是れ等」は「楯籠もる人々」を指すとするのが相当だと考えます。

    『信長公記』では「長」のほかに桶狭間の戦いまでに、「家老衆」と「家老の衆」、「御馬廻」、「御小姓歴々衆」が出てきます。

    「オトナ」は家宰の長であり「年寄衆」は信長の親族(連枝)であるならば、「家老衆」は被官たちの頭役=侍大将や足軽大将のように思えます。「年寄衆」が重役ならば「家老衆」は部長の感じがします。後世の江戸幕府の老中などとは違うように感じます。

    なぜなら、「一長の林新五郎、その弟美作守兄弟、不足を申し立て、林ノ与力あらごの前田与十郎城へ罷り退き候。御家老の衆、いかが御座候はんと申しへどもも、左候へども、苦しからざるの由、上総介仰せられ候て、御働き。」とあって、オトナと家老は別のものであることが分かるからです。

    ところで、「御小姓歴々衆」と「小姓」との違いは元服して度々戦場に出ているかいないかの違いであるように小生には見えます。
    『湯浅甚助直宗伝記』に、「今川義元與信長合戦之時、甚助十四歳ニテ供奉仕処、少年之輩者出陣可為無用之旨、信長公依仰、尾州笠寺法印江被預置、(中略)依之右笠寺残居候小姓衆、信長公御乗替馬ニ乗、戦場ニ馳。(中略)若年之悴共軍中之姦ニ何トテ軍法ヲ背参候哉ト御立腹ニ付、即時ニ本陣江帰然、(後略)」とあるからです。

    それに、「大将」が出てきます。

    勘十郎(信行)殿より、柴田権六(勝家)・津々木蔵人ヲ大将として、木ケ崎口を取り寄するなり。」とみえます。
    「大将」という言葉はここだけであることを考えますと、大将=「代将」であり城主(勘十郎)の代理として将兵を率いることのように見えます。
    柴田権六はこれ以後活躍しますが、津々木蔵人はこの時期だけのようです。

    稲生の戦いでは、林と柴田が夫々軍を率いて出陣してきますが、津々木蔵人は守山から出ていないようですから、勘十郎(信行)はまるで後の豊臣秀頼のようです。・・・(これは言い過ぎで、守護の斯波も守護代の大和守も、国内での私戦では自身で出陣しないようだからです。)
    しかし、
    津々木蔵人は、「(信長は)御赦免なされ、勘十郎殿、柴田権六、津々木蔵人、墨衣にて、御袋様御同道にて、清洲において、御礼これあり。」とありますから、守山では重臣であったようです。

    この話には、後日談がありまして、『信長公記』には「勘十郎殿御若衆に津々木蔵人とてこれあり。御家中の覚えの侍どもは皆、津々木に付けられ候。(津々木は)勝ちに乗って奢り、老臣の柴田権六を蔑如に持ち扱ひ候。柴田ハ無念に存じ、上総介殿へ(信行殿が)又御謀反おぼしめし立つるの由申し上げられ候。 」と伝えています。

    これを見ますと、勘十郎が衆道の津々木蔵人を不当に贔屓したように思え、勘十郎の愚かさが際立ちまが、同じような話として「一、(話し変わって)是れは守山城中の事、坂井喜左衛門ノ子息孫平次を安房守(秀俊)殿ハ若衆にさせられ、孫平次ハ無双ノ出頭(世)にて候。爰にて(家老の)角田新五ハ、忠節ヲ仕り候へども、程なく角田を蔑如になされ候事、無念に存知、守山城中ノ、塀・柵を損じ候を、懸け直し候と申し候て、普請半に土居の崩れたる所より人数を引き入れ、安房殿に御腹をめさせ候て、岩崎ノ丹羽源六共を引組み(味方につけ)、城を堅固に相抱え(守備し)候。」という事も伝わっています。

    この二つの事例に信長のことも考え合わせますと、単なる衆道で片づけてはいけないように思えます。
    つまり、衆道は一面であり他の重要な一面は、城主が自らの常備軍を持つための手段でもあったと考えられるのです。
    これが、信長では小姓などの近習化であり、やがて馬廻などの常備軍などにも分化・発展するわけです。
    ところが、多くの武将の場合では、抜擢人事が顰蹙をかったり、既得権益を侵される国人・地侍か不満が出たりして、その反抗によって近習制度・馬廻制度にまで発展させられずに摘み取られてしまったと見ることもできるわけです。

    そうしますと、津々木蔵人が大将に抜擢され、稲生の事件後に「御家中の覚えの侍どもは皆、津々木に付けられ候」ことは、さきに述べました信長が採ったような道程を経ず、一足飛びに寄親に抜擢したた性急な政策であったと考えることができると思います。

    ところで、その柴田権六ですが、彼も末盛城では勘十郎の付け家老であったらしく思えるのですが、稲生の戦いには勘十郎の麾下を預かっての参陣であり、権六自身の寄子を率いての出陣ではなかったと考えます。
    何故なら、柴田権六は所領も伝わらずそれほどの身代があったとも思えないからです。

    ところで、この「御家中の覚えの侍どもは皆、津々木に付けられ候」ということは、寄親寄子制でしょうか与力制でしょうか。

    その与力については次回。

     

  5. 信長は、その勢力の拡大につれて他家の軍制をそのまま取り込んで与力として、信長軍団の武将たちの下に組み入れたり、自身で運用したりしているものですから、見掛け上は寄親寄子制のように見えますが、実態は違うようです。

    以上のように、信秀の軍制を考える場合、守護代からみた寄親寄子制を考えると、守護代にはそれを組織する意思もなさそうですから、見掛けがどうであれ寄親寄子制と言えるようなものは無かったというべきだと考えます。では、信秀からみた場合の寄親寄子制はどうかと言いますと、信秀が林秀貞であれ山口左馬助や千秋紀伊守であれ、彼らを寄親とし、既存の旗下(被官および近隣地侍)を寄子として付属せしめ、統率させようとした形跡は見いだせません。従って、これもまた実体がないものと考えられます。

    やはり 天文十三年のことですが、大垣城へ後巻したときには、「憑み勢をさせられ、(中略)美濃国へ御乱入、(中略)道三仰天致し、虎口を甘(クツロ)げ井ノ口居城へ引き入るなり。か様に、程なく備後守は軽々と御発足、御手柄、申すばかりなき次第なり。」という記事があります。

    ここで注目したいのは、やはり「憑み勢」をしていると言うのですが、美濃斎藤道三の攻撃に対して、軽々と御発足=即応できていることです。これは、寄親寄子制で組織化しているのではなく、直接の被官化が進んでいたのではないかと思えるのです。

    そして、天文十八年になりますと、「上の郡・犬山・楽田より人数を出し、(中略)即時に末森より、備後殿ハ御人数かけ付け、取り合い、切り崩し」とあり、この頃には頼み勢をしていないのです。
    これは、西三河での今川勢の攻勢に守勢一方になっており、人望を失っていて頼み勢ができなかったのか、それとも信秀は末森城に即応できる常備軍を持つことができるようになっていたのかと考えさせられるところです。

    次回は、信長時代初期の軍制について考えます。

 

  1. 御さき手あしがる衆の荒川与十郎・荒川喜右衛門・蜂屋般若介・長谷川橋介・内藤勝介・青山藤六・戸田宗二郎・賀藤助丞のうち、荒川与十郎は落馬していますから、足軽大将であり、その余はその同心(寄子)であった可能性が高くなります。
  2. あしがる衆の我孫子右京亮、藤江九蔵、太田又助(牛一)、木村源五、芝崎孫三、山田七郎五郎らの場合も同様で、孫子右京亮が足軽大将であり、その余はその同心(寄子)であった可能性が高くなります。
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