<今川氏の研究> 

 

<今川仮名目録の第一条>    (2007.11.16初出、ブログより転載)

今川仮名目録の第一条は、名田の没収の禁止に加えて、年貢増を条件とする名田の競望を許すことを定めていると言われています。しかし、出来るかどうか分らないような、年貢増納を真に受けて本来の持ち主から権利を取り上げるなどという、詐欺師に加担することを奨励するような法律などというものは、どう考えてもおかしいとは思いませんか。

まず原文の書き下しを紹介し、用語を解説することから始めます。

「 譜代の名田、地頭ガ無意趣に取り放つ事、停止シ畢ンヌ。
但し、年貢等無沙汰におゐてハ、是非に及ばざる也。

兼ねて又、彼の名田年貢を相増すよし望む人あらハ、本百姓に望みの如く相増すかのよし尋る上、其の儀無くば、年貢増に付きて取り放つ可き也。

但し、地頭が本名主を取り換へんため、新名主をかたらひ、相増す可きのよし虚言を構へハ、地頭にをいてハ、かの所領を没収す可、新名主に至りてハ、罪科を処す可き也。 」

譜代 ・・・何代もその家系が継がれて来ていること。その家系を記した系譜。代々同じ主家に仕えていること。またその臣下の家系。
名田 ・・・田堵は、年貢・公事の納付請負を確約して名田の永代保有権を有する名主へと成長した。名主層の中には武士に対して軍役を果たすことで地侍となり、武士身分の一角に食い込む者も多く出るようになっていった。また、名主が永代保有権を有する名田は百姓名と呼ばれた。十四世紀ごろから、百姓名は私的所有の対象とする観念が強まっていき、名主間で自由売買されるようになる。史料から見る実際の名田は、あくまで領主が支配しており、田堵や名主らは領主への租税納付機関として働いていたに過ぎないことが明らかとなっている。そのため、荘園公領制における支配・収取(徴税)の基礎単位とする見方が広範な支持を得て支配的となっている。
意趣 ・・・わけ、理由。
取り放つ ・・・別れさせる。ひきはなす。とりはずす。
んぬ ・・・動詞おわるの連用形に完了の助動詞「ぬ」の付いた「おわりぬ」の転。多く動詞の連用形に付いて、動作の完了したことを表す。…し終わった。…してしまった。漢文の「畢」「了」「訖」などの訓読に基づく語。
是非に及ばず ・・・仕方ない。やむを得ない。⇒善悪・適否を論ずる必要はない。かならず・きっとそうしなければならない。
兼ねて ・・・予て(副)前もって。以前より。あらかじめ。(名詞的に用いて)ふだん。平生。
兼ねる ・・・二つ以上のはたらき・役割を併せもつ。
また ・・・一つのもとから二つ以上のものが分かれている所。また、そのような形。
兼ねて又 ・・・理由なき没収の禁止と年貢等無沙汰による取放から派生して
 ・・・動詞に付いて、語調を整え、また意味を強める。
 ・・・名詞に付く接頭語。いま現に問題にしているもの、当面のものである意を表す。
本百姓 ・・・譜代の家臣という意味ではない。単純に「現在」百姓識を持っている者という意味であり、家来であるかとか、それが譜代であるか新参であるかとの意味などはない。
語らう ・・・ 行動をともにするように説得する。味方に誘う。
罪科 ・・・法律・道徳などに背いた罪に対する刑罰。


<通常の訳>

一般には次のように訳されています。

百姓たちが重代相伝して保持してきた名田については、地頭は正当な理由なくして没収することは、之を禁止する。
ただし、百姓たちが年貢を納入しなかった場合は、是非を言わせず没収してよい。

ところで、その名田の年貢を「私ならもっと沢山の年貫を納めます」といって名主職(権利)を望む人が表れた場合には、現在その権利を持っている百姓に「競望する者と同じだけの年貢を積み増すことを承諾するか否か」と聞いた上で、それを承諾しない場合には、新たに年貢増を約束した人の方を選んで、現在の百姓識を持つ人から名主職を没収することができる。
ただし、地頭が本百姓(名主)を取りかえるために、新しく名主になりたい人を誘って「年貢を増やす」と嘘をついた場合には、地頭の所領は没収し、新しい名主にも相応の罪科に処す。

<年貢請負の自由競争?>

この条文を、静岡県史は、「地頭と名主との関係は、名田を媒介とした年貢の請負契約であることが原則であり、名主の名田所有権を認めつつも『元からの名主に対して年責増を条件に競望を許す』といった、年貢請負の自由競争の上に地頭に有利な年貢増徴の契約を認めた政策である」として、他の大名領国には例がない特徴を持つとします。

確かに、半数近い条文に今川仮名目録からの参照が指摘されている隣国甲斐武田家の甲州法度にも採用されていないような、特殊な法律であり政策のようにみえなくもありません。
しかし、果たして、戦国時代に他の何処ででも施行されていなかったような政策が、実際に駿河国において「元からの名主」と「新たな名主」の双方から受け入れられて、実行されていたと言えるものでしょうか?・・・・・・そのようにして新たに名主になった者も、後発の年貢増納を申し出る者によってその地位を脅かされることになるわけですから、際限なく「職のインフレ」が始まることになります。それに、年貢増とはそれに付帯する軍役の強化でもあるわけです。

<年貢請負の自由競争は常識的に考えて実行不能なこと>

まず、期限を切らないで(実質的には一農期毎の契約になるはずです)、しかも、未実現の収穫であり将来に期待しなければならない年貢などをあてにして、競売に応募できるような余剰労働力と農具や牛馬などの生産手段を持った地頭や百姓(資本家)が、当時存在したでしょうか?

年貢増納を申し出た者にしても、訴訟に勝っても耕作する権利を獲得できるだけで、そこにいる小作・下人や牛馬、家屋敷・鋤鍬に対する権利関係は移動しませんから、耕作を開始することすらできません。・・・つまり、この契約で実行されることと言えば、新たな名主側が自分の取り分を減らして上納するか、または現名主が隠匿している分の年貢の密告するのでなければ、約束を果たすことはできないわけです。それに、天候が不順であったならば、いっぺんに約束は果たせなくなります。原告側は、決して、生産性を向上できる秘術を持って訴訟に臨んでいるわけではないと、小生は確信しています。

一方、地頭の方でも欲に目をくらませない限り、そのような果実の不確実な契約を結ぶ必要などが本当にあったのでしょうか?・・・この一事をもってしても、普通人の常識ならば、この静岡県史の解釈の適正を疑うはずだと思います。

今日の競争入札と照らしてみても、現在の名主(権利者)が滞りなく納税の義務を履行し、過失なく保有している土地使用の権利を、本人の意志とは無関係に、本人を競争入札に無理やり引き出して競望者と競わせるというのですから、無法この上ないものです。そして、今川家にはそのような理不尽な判決を強制する力があったことになります。・・・これは譜代の重臣を追放した信長ですら持てず、大名を鉢植にした秀吉にして、初めて逆らう者どもを総撫で斬りにする覚悟を持ってして始めて実行でたであろうかというような絶対的な権力です。
ところが、今川家にはそれを強制することができることを裏付けるような軍事力、即ち親衛隊近衛兵などに相当する旗本・馬廻という直轄常備兵力などはなかったのです。・・・これらから見ても、どうにもおかしい。

さらに、戦国時代は災害の時代でしたから、確実に発生するだろうと予見される凶作・不作の時の違約に関する規定がありません。・・・地頭(領主)は年貢増額という甘い餌につられて、本当に本名主を安易に替えることを望んだりしたのでしょうか?
また、そのような入札に応じる新名主は、契約を確実に履行できる、一体どのような生産技術・設備・労働力を持っていたというのでしょうか?

<今川仮名目録の他の条文と矛盾すること>

今川仮名目録では、第十三条で知行地の売貫の禁止と買戻し特約の年期を定めて許可する特例を定め、第十四条では売却された土地に対する検地の禁止を、第十七条では古文書を根拠とする知行権の主張の禁止しています。そして、さらには第二十条では困窮した家臣の救済を強要することを禁止しています。・・・この第二十条などは裏を返せば家臣(地頭)を救済しても維持したいという軍事上の必要性が、戦国大名今川氏にはあったことを表しています。
つまり、これらの条々は、第一条で有利な年貢請負で名主職を奪われるような又陪臣が出ても困るし、例え年貢収入が増えようともちゃんとした軍役を負えないような新しい名主では困るという、戦国大名今川氏の矛盾した本音が並んでいるわけです。

まず、今川氏は、第十三条で知行地の売貫を禁止しています。
特例として認める場合でも年期を定めた買戻し特約をつけさせています。
これは、(1)有力武士が自前の被官を蓄えることで、大名に対抗するような力をつけるようになる事と、もう一つは(2)商人などに名主職を買い占められて武士が零落して自前で武装することも儘ならなくなり、兵力が枯渇することを恐れるからでしょう。
ですから、かならず買い戻すようにして旧来の軍役を担う今川配下の武士を減らさないように留意しています。・・・・・・これらの事は第一条の趣旨と矛盾します。


第十七条では古文書を根拠として知行権を主張することを禁止していますから、これは現状維持を最優先させるという貞永式目以来、脈々と受け継がれてきた、武家の占有権を優先するという保守主義の思想です。静岡県史のような解釈では、今川仮名目録第一条はこの大原則に抵触します。

そして、さらに第二十条では困窮した家臣を救済するという特例を強要することを禁止していますが、これは裏を返せば家臣(地頭)を救済せざるを得ないような軍事上の必要性があったことになります。つまり、(1)自然災害や天候不順による年貢収入の不安定性と(2)連年の戦役による嵩む戦費=軍役によって、大身の武士でさえ借米を返済できずに知行地で購って、被官化していった武士(地頭)が多かったことが背景にあります。・・・つまり、今川氏にはその軍役を担って奉公してくれる地頭のよって立つ基盤を強化する必要があったわけです。

因みに、『日本軍事史』は、「氏真の家臣の井出善三郎は、東西の陣番に明け暮れるなかで借銭借米がかさみ、一門の井出伊賀守に知行をそっくり明け渡してしまった。自分の男子と伊賀守の娘との縁組がその条件になってはいたが、これによって井出善三郎は領主としての立場を失い、伊賀守に扶持される存在になってしまった。」という事例を紹介しています。

ですから、軍事政権である戦国大名は自由経済には大反対であるはずなのです。つまり、第一条に特殊な意味付けすることは、誤りであると思われるわけです。

<では、どのように理解すべきか>

静岡県史は、今川氏領国では年貢増徴を目的に公事検地が盛んに行われたというのですが、その基礎になっている有光有學氏の公事検地論註−1については、『中世の中に生まれた近世/今川氏の研究・戦国大名論集』で山中恭子氏が、「大名が年貢を徴収することができるのは、その直轄領からだけである。直轄領以外の国人領・寺社領等の年貢はそれぞれの領主のもとに収納されるのであって、そうした領地から大名が徴収することができるのは段銭・棟別などのいわゆる国役でしかない。(中略)今川仮名目録第一条に現れたような名田の年貢をめぐる問題は、直轄領は別として一般には領主(地頭)と百姓の間で起こる問題であり、大名の利害に直接かかわる問題ではないから、大名はこの訴訟に関係することはない。(中略)年貢は地頭の下に収納されるので、今川氏の手に入ってくるわけではない。つまり、大名と地頭の間の隠田訴訟などでもない。」とした上で、検地規模が臨時・局地的などではなく、集注・広域に実施されていることを示されて明確に否定されています。

また、これ以外にも批判はありますが、それは同論文や同じ戦国大名論集にある下村效氏の論文『今川仮名目録よりみた寄親寄子制/今川氏の研究』註−2 に委ねるとして、・・・では公事検地が年貢増収を目的としたのでなかったとしたならば、この条文は如何なる意味を持っているか?ということが問題になります。

実は、これを解釈するヒントが同じ戦国大名論集の中にあります。
黒田日出男氏の『中世後期の開発と村落・室町期の在地構造/今川氏の研究』がそれです。

その分析対象は、大井川扇状敷の遠江国藤守郷初倉荘についてだけのものですが、おそらく駿遠両国の多くの大河川下流平野の開発が、旧式技術によってではあっても、上層名主百姓による大規模開発と下層名主百姓である公方散田作人らの小規模開発が「嶋」において先行して行われていたと推測することを可能にさせるものかも知れません。


黒田氏によりますと、中世後期の大河川下流域平野の開発は河原新田と呼ばれ「島」ごとの築堤築造として進行し、しかも島の外縁部に広がる河原まで進行しつつあったとされます。
そして、島開発の主体は、(1)家父長制的労働編成によって一町規模の大畠(大開発)を中心とした上層名主百姓層による粗放経営と(2)二反未満の小開発を市庭を軸とした手工業生産と商品流通の発展に媒介された下層名主百姓・公方散田作人層・下人層の集約性農業生産の二形態があったいわれます。

そして、黒田氏は、大畠(大開発)は、その周辺の小規模開発をもその隷属下に包摂して行ったため、村落内で土地所有権・使用権の問題として大きな矛盾に発展するだろう鋭い矛盾を抱え込んでいたとされます。
中世後期において家父長制的労働編成による大開発・粗放経営と集約性農業生産の小規模開発が併存していたことは、水入・河押・流失といった洪水被害の危機と、それによって顕著化する荘園領主・守護権力に対抗するために、両者は矛盾をさて置き、築堤・用水管理を軸に地域的共同体の結合を急務として強化されていったともされています。
その結果、戦国初期に至ると家父長制的労働編成による大畠(大開発)による粗放経営者は、一方では村落内部の結合の強化とその共同利害に対応しなければならず、他方では小経営との矛盾に対処するために小領主的性格を強めていたと、黒田氏は考えられています。
さらに、黒田氏は、戦国大名今川氏は河成地を給恩地とし開発次第所務すべきであるとし、「 競望之輩(小規模開発者)を停止(排除) 」することをその軍事力によって保証し、寄親寄子制に組み込でいると結論されています。これは、今川仮名目録第一条の静岡県史の解釈と正反対の結論です。

つまり、今川氏の領国では大規模開発者(小領主)は戦国大名今川氏の被官化することで、その力を背景にして、自分より下からの下剋上を抑え込むことによって矛盾の解決を図ったのであると言えると、小生は思います。
であるならば、第一条の条文は今川軍制を支える地頭(領主)の育成を図り、寄親寄子制を確立するために、地頭に有利になるように定められたはずなのです。
ということは、下層農民によって自力で小規模開発された成果さえも、相応の割増年貢させ払えば地頭の支配下にある本名主のものにしてよいという主旨の立法であったはずです。つまり、自力で小規模開発した下層農民が、年貢を納めることによって開発地の名職として認められたいという愁訴に対して、本名主の同意がなければ認めないと言っているわけです。

即ち、「相増」というのは、「開発によって増加させた」という意味であり、「これまでの年貢率より高率で請負う」などと言っているのではないのです。

ですから、今川仮名目録の第一条は、次のように訳すべきだと小生は考えます。

代々受け継いできた名田は、正統性があると推測されるのだから、それを地頭(領主)が理由もなく没収することは既に禁止されていることである。
但し、年貢や公事が未納の場合は善悪・適否を論じず没収してよい。


・・・・この条文の意味は、名職を与奪する最終権限は大名にあることを宣言し、その実力の下で地頭(領主)が在地支配を強化しようということにあります。

それに関連して派生する問題として、新たに開発した農地について年貢を地頭に納めることによって、その開発地に「名田の職」を得て名主になりたいと望む者(小規模開発者)がいる場合には、地頭は、現在の権利者(本百姓)に対して、申し出人と同等の年貢をその開発地を得て払う意志があるか否かを尋ねた上で、現在の権利者にその心算がなければ、その開発地は申し出の年貢に相当する耕地の名主職(権利)として申し出人(小規模開発者)に与えることができる。 

・・・・これは、裏返せば、本(現在の)百姓に、年貢さえちゃんと払えば小規模開発者が開拓した新しい開発地を自分の名田に取り込んでよいよと言っていることになるわけです。既存の土地を競望すると解釈するからおかしなことになるのです。


新たに開発した土地に対する権利の帰属の問題なのです。

法解釈上は、本来国有地である土地を、許可権利者の戦国大名の許可なく小規模開発することは、例え年貢うを納めようとも(軍役を直接負担している小領主らの没落をもたらすことになるから)許さないというこになるわけです。


つまり今川氏は、自身の寄親寄子制を下から崩壊させて、下剋上の源になる小規模開発を許さない。地頭(領主)の下から自立しようとする下層農民を許さないという意味なのです。これは、下層農民が小規模開発をしても、本百姓が相応の年貢を払いさせすれば、その開発された土地の権利は地頭(領主)の支配下にある本百姓のものにできるという法律なのです。

ですから、この法令は永仁の徳政令と同じ精神なのです。今川氏に奉公する領主(鎌倉幕府の御家人に相当)以外には、小規模開発で百姓や商工業者らが独立していくことを許さない。現に奉公している領主層を弱体化させるような新興層は認めないと言っているわけです。

但し、地頭が現在の名主職を持つ者を取り換えようとして、新しく名主に着けようとする者を仲間に誘い、新規開発地の年貢増納という虚言を構えて、現在の名主職を横領・侵害しようとしたことが判明した場合には、地頭からは当該領地を没収し、共謀した者はしかるべき刑罰に處するものである。

・・・・ですから、この条文の意味は、地頭(領主)配下の本百姓=大家族的経営者が没落して、新規開発者である自作農が領主の新恩を受けることによって、地頭の権力が増大することを防ごうとするものでしょう。つまり、地頭が自由に本百姓を挿げ替える権力を手にいれたならば、一気に一円支配が可能になり、戦国大名以上の実力を持つことが可能になることを大名は恐れるからです。


<解釈の誤りが影響する条々>

静岡県史は、「訴訟条目第十二条は仮名目録第一条で規定されている名田年貢の増額請負契約による名主職の獲得という公事検地の訴えを、地頭の所領から上がる収益にまで拡大して訴えてくる訴訟は受理しない原則を定めたものである。(中略)今川氏はこれに対し、地頭の分限はこの対象としないことを原則とし、分限帳に登録された地頭の分限とその収益の差が全体の三分の一に及ぶ場合のみ、訴訟を受理することにしている。」といいます。

この解説を理解できますか?特に後半の検地結果に対する収益の差が三割以内は容認し、それ以上ならば訴訟を受理するということが問題です。

しかし、訴訟条目第十二条は第一条の拡大解釈を受理しないなどと言うものではないことは明白です。

第十二条の条文を書き下しすると、「知行差出の員数之外、私曲之由訴人有て、百姓前検地すへきよし申に付てハ、披露ニ及ブ可からず。但シ、地頭ガ年来所務之内、隠し置き分限、奉公せさるハ私曲也。然リト雖モ、分限ニ随イ、余慶ハあるへき也。知行三ケ一共隠し置ク証跡あるにおいてハ、隠す所之十分一を、訴人に永クとらせ、残所は浅間造営のために、其ノ年之年貢を寄附せしむ。翌年に至てハ、本主に返しつけへき也。向後所務等増するに付而ハ、みやかに分限帳にのせ、相当之奉公すへき也。」となります。

ここでは、「差出検地を基礎にした貫高制によって成り立っている今川家の軍役体制を構成する家臣たち」を陥れるべく、家臣が隠田を所持している事を密告する下層農民があっても取り上げることはしない。下剋上は許さないという意味と解釈すべきです。つまり、この訴訟条目は、今川家は国人衆との信頼関係の上に立っている国人一揆の盟主であることを重々承知している。だから、家来衆もよくゝゝ理解して今川家に奉公してくれるようにと言っているのだと解すべきです。

しかし、公にはしないが密に内々でそれを糺すという事も言っています。
従って、今川氏は国人領主に対しては非常に弱腰でして、差出検地には多少の違いは当然に許されるべきだとして、国人領主層に大幅に妥協しています。
そして、改めて限度を三分の一と定め、非違に対してのペナルティーを課すのですが、その罰金は大名が収得するのではなく、共通の信仰の対象である浅間神社の造営費に充当するとしていることに注意すべきです。しかし、同時に、注進した者についても忠節を評価して、違反分の一割を報奨金として下賜するとしています。ですが、違反者である領主の罪はあくまで軽微な「過ち」として取扱い、爾後の正規の奉公を要求するに止めているのです。

このように、先の静岡県史の説は、第一条の解釈を間違えたために、ドミノ式に間違いを拡大させて、今川氏の全体像について大きく認識を誤らせることになったものと考えます。

<結論>

以上の考察から導かれる戦国大名今川氏の状況は、中央から地方に移ってきた権力=守護大名今川氏が土着して強大化する一方で、下層農民の自立化傾向の下剋上に挟まれながら、守護や荘園領主から独立しようと頑張っていた大家族経営をする地頭(領主)がおり、守護大名・今川氏はこの地頭を寄親・寄子制で組織していたことになるため、地方に芽生えつつあった商工業者・小規模自営農民を抑制的に支配しようとしていたことがわかるはずです。ここに織田信長の政権との基本的な違いがあります。

信長政権も中世的な思考と制度から自由であったわけではないのですが、小規模開発者を一概に抑圧したわけではありませんし、商工業者が集中することを積極的に図っていますから、信長の人材抜擢というのは、小規模開発者や商工業者を軍事・行政に登用するし、直接雇用することであったことになります。今川氏がこれを抑圧支配しようとしたのとは対照的です。

 また、武田家の甲州法度にこの第一条が取り入れられていない理由も明らかです。つまり、甲斐には小規模開発と大規模開発が競合するような事態が起こり得る自然条件である、海に注ぐ小規模開発が可能な大河川の扇状地がなかったからです。 

註−1 有光有學氏に提唱された「公事検地論」というのは、今川氏による検地の実施に際して訴人が登場し訴訟が起こった例が多くみられることを説明して、「在地における紛争処理手段として臨時・局地的に実施されたものであり、在地掌握や給人支配を目的に始められたのではない」というもので、それは今川仮名目録第一条「名田年貢を相増す可きよし、望む人あらば、本百姓に望みの如く相増す可きかのよし尋ねる上、其の儀無くは、年貢増に付いて、取り放つ可き也」という規定に則って、(中略)「年貢増」とひきかえに「名田」保有を保証することによって、名主と百姓相互間の抗争に「検地」を行うことによって、積極的に介入して新たな権力基盤を編成していったのだというもので、太閤検地はもとより後北条氏の「代替り検地」などから数段遅れたものであったというものです。

註−2  『今川仮名目録よりみた寄親寄子制』「有光有学氏は、検地事例六十六例の中、廿二例が訴訟に関連しており、そのうち十七例は検地前に訴訟が提起されていると認定して、公事検地が実施されたとしている。(中略)しかし、史料中の見出される「訴訟」の当時の意味が裁判に特定できるかという問題がある。古代・中世においての訴訟には、上位者に対する単なる訴願・愁訴・嘆願の意もあったからである。」

 

<今川仮名目録追加第三条 >  (ブログ作成日時 : 2007/12/18 08:09)  

今川仮名目録追加第三条の一般的な解釈は、たとえば、NHK第295回天才信長をつくった男 (今川義元真説・桶狭間の戦い)では、義元が定めた『今川仮名目録追加』二十一ヶ条のなかで「寄親・寄子」について規定に拠り紹介した言葉は、「寄親は今川家への奉公を第一にこころがけ、寄子にもそう言葉をかけよ」と意訳していますし、一般にもそのように流布されています。でも、果たして本当にそのようなことが書いてあるのでしょうか?

まず、大前提として今川仮名目録の意味を知るために静岡県史を読んでみますと、「かな目録追加第二条・第三条で対象とされた寄親寄子関係は、地侍が自ら立身出世のため進んで有力家臣の指揮下に入って出陣することにより成立する寄親寄子制の類型に属する私的に結ばれた関係のものである。この寄親寄子関係は、主従関係ではなく、指導者と被指導者の関係というあいまいな関係であり、この関係を法的に規定しようとしたのが、第二条・第三条であった。」としています。

解り難い表現ですが、今川義元の被官でも、寄親の被官でもない日和見の独立した地侍を寄親寄子制の下に取り込もうとして作られた法律であるということです。

ところが、そこに「指導者と被指導者の関係」という表現があるのですが、下剋上が真っ盛りの戦国時代に「指導者と被指導者との関係」などという説明は相応しいのでしょうか。彼らの関係は、極めて便宜的であって、本領安堵を求めて強い方に服属したという状態であったはずだと思うのです。

そうだとしますと、NHKの紹介した意訳から受ける「今川義元が、まるで絶対権力者の信長が、尊大に配下の者に訓戒を述べている」という印象とは、180度違うもののように思えます。追加廿一条を制定した当時の今川義元に、それ程の絶対的力が認められるとしたならば、それは三河国においてだけであったのではないでしょうか。・・・・・・だとすると、追加廿一条は三河国向けの地域限定の法令 歟?

つまり、第三条の実態はNHKの紹介するようなものではなく、

  1. 寄親寄子関係というものが危い双務契約である一方で、
  2. 寄親寄子関係というものが主従関係に転化しやすい面も併せ持っている

そのために、今川義元としては、

  1. 寄親には寄子をしっかり統制して欲しいが、同時に
  2. 寄子が寄親の被官化されても困る

という矛盾を露呈した条文だと思うのです。

そこで、追加第三条の当該個所をみてみますと、「己か奉公を先として、各に言をもかけおかは、故なき述懐なく同心すへき歟。能々分別為ス可キ也。」とあります。

これを直訳しますと、「寄親は自分の今川家に対する奉公を真っ先にして、幕下の各与力ともコミニュケーションをとって置けば、寄親に思い当たる理由のない不満や愚痴など生じようもなく、寄親と寄子は心を合わせることができるだろう。だから、寄親はよくよく分別することが肝心です。」となるのではないでしょうか。

「言をもかけおかは」は、「言葉をも掛け置かば」ですから、寄子にも寄親がお屋形様に奉公第一を考えて努めているのを見習うように言葉をかけよと意訳するのは行き過ぎではないでしょうか。

寄親自身も、自分の言うことをきいてくれる寄子を多く持たなければ、戦で働くことができませんし、今川家内での勢力も拡大できません。ですから、寄親にとって寄子を被官化できればよりベターなわけです。今川義元も信長ばりに寄親に向かって奉公第一という言葉を大上段からは言えないのです。義元に協力して領国が拡大できればそれなりの見返りがあるのだから、寄親はそれを重々理解したうえで寄子に接してくれというしかないのです。・・・寄親が張り切りすぎてしまって、寄子を被官化して義元の対抗勢力に成り上られては困るからです。

(一部校正:2008.1.4)ですから、ここでのコミニュケーションとは、大名である今川氏に寄親が奉公することで、寄親である自分の御屋形様からの覚えも目出度く御恩も確実であるということを寄子共に知らしめることで、寄子の信頼を勝ち得るだろう。だから、それを強調して寄子を統制しなさいと命じているのだと小生は考えます。即ち、寄親は今川家への奉公邁進することによってのみ、強い縁故があることを寄子にアピールすことができるということになり、寄子が自然とその筋を頼ってくるようになり、その結果彼等を統率できるようになるのだから、今川家を大事と心得て一層の奉公をせよという法令であり、教育的指導を奨励した訓戒などではないと思うのですが、如何でしょうか。 

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