ここは、思いつくままの未完成稿の倉庫です。
(1)万松寺で催されたのは本当に信秀の葬儀か? (2007.12.12)
万松寺での信秀の葬儀において、相当に振舞った弟・信行に対し、不作法な姿で現れて抹香を仏前に投げつけて帰っていった信長の姿が『信長公記』に書かれています。このことから、当主・信秀の葬儀の喪主は、当然に次期後継者が施行して諸国に披露のイベントとしなければならないと考えると、信長が織田弾正忠家の正統な後継者であることに疑問を持たれる人が出てくるわけです。
信長は突然やってきて抹香を仏壇に投げつけるとあっという間に帰って行ったのだと牛一は言いますから、昔から何故、信長は「織田家後継者」のお披露目たる葬儀をぶち毀したのかと疑問に思い、「信秀の葬儀の喪主」は一体誰だったのだろうと疑うわけです。この記事を読む人は、信長が葬儀を主催しないものだから、家臣の平手政秀らが段取りしたか、または信行が代わりに執り行ったようでもあり、もしかすると信行が喪主や又は後継者のように振舞ったのではないかと疑い、家督相続を巡っての御家騒動の存在を疑うわけです。
しかし、小生はこれを断固否定します。なぜなら、このような疑問を持つのは、まず本文を熟読していないことから起こるものだと思うからです。
『信長公記』本文には、「さて、一院(が)建立(されてあったが、それを)万松寺と号す。当寺の東堂(が備後殿に法名を)桃厳と名付けて、銭施行をひかせられ、国中の僧衆集まりて、生便敷御弔いなり。折節・関東上下(往来中の)会下僧達余多これあり、僧衆三百人ばかりこれあり。」とあります。
つまり、信秀の葬儀を行ったときの模様を描いているわけではないのです。葬儀とは別に、「当寺の東堂」である信秀の弟で万松寺開山の大雲大和尚が施主になって、銭施行を行ったときの模様が描かれているのです。飽く迄、施主は大雲大和尚であり、目的は仏法の善行を積むため僧侶や貧しい人々に銭を施すことなのです。ですから、そこに会葬した人々は布施をする人と布施を受ける人の二種類がいるわけです。葬送の儀に列席しているわけではないのです。そして、国中の僧衆や関東往来中の会下僧などが三百人にもなったのは、葬儀のためではなく、施行を受けることを目当てに集まったのです。
これが葬儀でない証拠に正室や土田御前、弟の信康・信光・信実・信次、庶長子の信広をはじめとして信時・信行・信包・秀孝・信治・信興・秀成・長益(有楽斎)・長利・お市の方・お犬の方(細川昭元室)など多数の子女のことも採り上げられていません。特筆されているのは僧侶の数だけなのです。勿論、当時は一族一揆も崩れていて、兄弟・息子たちとも抗争するのが一般的でしたから、信秀の弟たちが出席するとも思えませんが・・・・・。もし、信長が葬儀の施主であるならば、その旗下に列しているように見えるのが嫌だからです。
そう考えると、これが信秀の葬儀であったとして、そこに信行が列席していることは、信長が葬儀の施主であるならば、この時点で信長の麾下にあったことの証拠になることになります。逆に、信行が施主であることは殆どありません。なぜなら、信長の席が相応の場所に設けられていて、信長が四家老を供にして出席しているからです。・・・と言うことで、信長も当然に最高額の布施を行ったものと思われます。
しかし、室町礼法に縛られた儀式になどは列席したくなかったのです。ですが、おそらく衆目の前に姿を現し領主が支援してこの施行が行われるのだということをアピールしておくべきだと説得されて、一応出向くだけのことをしたのだと解釈します。このように解釈しますと、今度は本当の信秀の葬儀は何処で何時行われたかということが問題になります。果たして、武功夜話のいうごとく三年喪を秘したのでしょうか・・・・・・・・。
- 『死者たちの中世』によると、貴族の葬送儀礼では、臨終で死を確認すると魂呼び、死者の安置、供膳、念誦 入棺 沐浴、入棺、野草衣、あまがつ、棺に蓋する。出棺 車を包む、前火の点火、築垣を崩す、竹箒 葬列 葬列、平生の儀 火葬 山作所、切懸、額打論、火葬の順序、火葬のしかた 葬式の後 道を替える・・・。
- 信行は信長討伐の軍を起こしていないし、末森城という対三河の最前線を与えられているだけである。
- 歴代の室町将軍は臨済宗の荘厳な葬法によって盛大に葬られた。臨済宗は、将軍を始めとした武士階級に禅宗式の大掛かりな葬法を定着させた。十三世紀には坐禅中心だった禅宗は、十四世紀にまると葬祭を重視し始め、十五世紀にはすっかり葬式仏教化している。その中でも中世後期になると、曹洞宗が最も葬式仏教化した。
- 万松寺は、天文九年(1540)信秀が三一歳のとき、菩提寺(当時は家毎の菩提寺ではなく個人毎に創建された)として十一面観世音菩薩を本尊として開基、開山には伯父・大雲永瑞大和尚を迎える。大雲大和尚は当時、白坂(現在の瀬戸市赤津)雲興寺の八世で曹洞宗の僧として名が高かったという。
- 日本禅宗による現代の在家葬法は、尊宿葬法と亡僧葬法が起源として武家や庶民の葬法ができあがっている。没後作僧と云い、形式上(死後、出家させ、出家の印である戒名を与えて)僧にみたてて、本来出家者に対して行った儀礼を行う。日本禅宗の教義では浄土などはないので、成仏させることに重点を置いて「仏」として扱う。これが、死後魂が先祖神となって子孫を守護するという日本古来の死生観にマッチして、民衆にも受け入れられた。
- 東堂・・・禅宗寺院でその寺の住持を引退した僧の住む部屋やそこに住む僧。ここでは、信秀の伯父にあたる万松寺開山の大雲大和尚の事。
- 施行(せぎょう)・・・仏法の善行を積むため僧侶や貧しい人々に物を施し与えること。銭施行は、銭を振舞うことだが、現代にも、建て前(上棟式)で餅や包銭を撒く習慣が残る。恐らく、ここでは会葬者からのお布施をもって会下僧に施行したのだろう。
- 生便敷・・・榊山潤氏の訳では「おごそかな」としている。生(ショウ)⇒本物・真実。便⇒都合。敷⇒そういうさまである・そう感じられるという接尾語。⇒これが葬儀ならば、信秀という人があの世に旅立つのを送るに本当に相応しいという意味か?銭施行ならば信秀の生前の有徳人に相応しい大盤振る舞いであったという意味だろう。
訳は次のようになります。(前略、ところで、信秀公は一つの寺院を建立されていましたが、それは万松寺という名でした。この万松寺の住持を引退しておられた備後殿の叔父にあたる万松寺開山の大雲大和尚が、信秀公に法名を桃厳と名付けられ、銭を施されるという仏行をなされますと、国中の僧衆が集まりまして、それは信秀公の生前の有徳人に相応しい大盤振る舞いであったことです。おりから関東へ往来中の寺を持たない僧達が沢山集まりまして、僧衆は三百人ばかりにもなりました。・・・後略)
(2)信秀の死 (2007.9.13)
織田信秀の死には諸説あります。『織田系図』が天文十七年(1548)冬とし、『寛政重修諸家譜』が天文十八年(1549)三月としているのですが、『氷室和子氏所蔵文書』に天文十八年(1549)十一月廿八日付けで、信秀が祖父江五郎右衛門尉へ尾張国内八ヶ所の「代官」を申し付けている文書があり、天文十九年(1550)十一月一日付けの祖父江金法師への文書には、「公方領中(織田氏直轄領の代官跡職)」を安堵しているので、病床にあろうと一応信秀は生存していたものと思われます。
信秀が病床にあったとするのは、『信長公記』が「備後守殿疫癘御悩みなされ、様々御祈祷、御療養候と雖も、御平癒なく」と書くのと、天文十八年(1549)十一月五日付けの織田与十郎寛近書状写『村山文書』に「備後守病中故」とがあります。現に、天文十八年になると信秀の活動が弱まったらしく、岡崎まで進出してきた今川義元は、俄然攻勢に転じることができたようで、十一月には太源雪斎をもって安詳城を攻め落として信長の兄信広(信秀の長男)を虜にするという事態を惹き起します。
このとき、最前線に立ったのは信長と平手政秀であり、信秀は爾後名をあらわさなくなります。そのうえ、信秀の意を受けてか織田一族を含む国人衆の総意を受けてか、平手政秀の外交的な大活躍が始まります。『刈谷市史第二巻』によりますと、一時は刈谷城も今川勢に占領されてしまったようですが、「今度、山口左馬助、別して馳走ある可の由、祝着に候。然りと雖も、織備懇望ノ仔細候之間、苅谷ノ赦免ヲ令す」と妙源寺の今川義元書状にあるように、屈辱的ではあれ外交手段によって解決が図られたものと考えられます。そして、政秀の手腕の冴えと限界を示すものが、天文十九年(1550)冬頃に後奈良天王が女房奉書をもって太原崇孚に下した、「駿河と尾張と和睦の事」という命令です。これには、雪斎もおり折をみてと回答するとして躱しています。・・・恐らくこのような事態が血気盛んな信長と政秀との意志の疎通を欠く遠因になっているのだと考えられます。
そして、信長が父に代わって政治を行い始めたことを示す兆候には、天文十七〜十九年については清洲勢との抗争から平手政秀による平和外交路線が表だってきます。『信長公記』は坂井大膳・坂井甚介・河尻与一らと”屈睦す”と書きます。その後、急速に美濃の斎藤道三との和解が進められ信長の縁組が画策されています。最も有名なものは、天文十八年(1549)十一月の熱田神社へ全五ヶ条の制札で、藤原を称した十六歳の信長のものです。『張州雑誌抄』によりますと、四月十日には織田信長の名をもって、日比野余五郎(大瀬古住人)の跡職座を買い入れた加藤左助へ永代知行を安堵を行っています。また、『密蔵院文書』の十二月廿三日付け文書にみられるように、「織田信秀判形の通りに」とするよう命令しており、信秀の生存が窺われるものもあります。さらに、先に紹介した天文十九年(1550)十二月五日付け・妙源寺の今川義元書状に「今度、山口左馬助、別して馳走ある可の由、祝着に候」とあるように、鳴海城代・山口左馬之助は平手政秀らの指示の下にではあるのでしょうが、内々では既に今川方に通じる意図をもっていたことが窺われるものがありますから、信秀の病状は相当に悪かったものと思えます。
そして、天文十九年(1550)十二月になると、義元は福谷の丹波隼人佐に愛知郡沓懸・高大根・部田・大脇・知多郡横根を安堵しており、さらにその勢力は瀬戸市白坂の雲興寺に禁制を発給するに至っています。そのためか、『定光寺年代記』には尾州錯乱と記しており、織田・水野同盟は境川以西に後退させられ、境目の各村々(沓懸・高大根・部田・大脇・知多郡横根)は義元によって安堵されるに至っており、山口氏らにとって何れの側に立つかは、喫緊の事態であったわけで、左馬之助は義元を選ぶことになるのです。
中には、『武功夜話』が、遺言により大人衆が相談した上で三年喪に服し葬儀を遅らせたとしたり、明石散人氏のように、長子信広が国人衆に織田家を継ぐことを認められなかった故か、斎藤道三との同盟は正徳寺会見の三年後にあたる七年後の弘治元年(1555)三月の信長廿二歳の輿入れに至るに長い期間を要したという人もあります。
信秀の没年の現在最も有力な説が、『万松寺・桃岩寺位牌、張州雑誌』などが伝える天文二十年(1551)三月三日でして、小説や映画もこれにならっているようです。『信長公記』は死後、万松寺で銭施行を三日に執り行うとしていますから、素直に解釈しますと天文二十年に葬儀があったように思えますが、『万松寺過去帳、定光寺年代記』は、この施行をもって織田信秀の死亡と見做しておりまして、天野信景の『塩尻』には元禄十四年に百五十年の遠忌を万松寺で行ったとあり、これを裏付けています。ですが、山口左馬之助が謀叛するのは、信秀が死亡したのを知ってであるよりは、万松寺での銭施行での行儀をみてのことだと考えます。なぜなら、左馬之助は国人領主として大物に成り上がることですから、信長がそのように処遇してくれるなら謀叛するまでもなかったと考えるからです。つまり、左馬之助が水野信元や丹羽氏職ほどの勢力を持っていたならば別だったのでしょうが、左馬之助は笠寺を地盤とした山口一族の中から武功でもって信秀に採り立てられただけですから、後楯がなくなると鳴海城代の地位も危うくなってしまうと考え、現に信長の直轄・常備軍路線とは反りが合わなかったのだとも思われます。
『信長公記』には、なぜか安祥城の喪失を含めて、それからの戦役は赤塚合戦まで書きません。
安祥城の戦いは信長の戦いであり敗れた戦争です。そのあらましについては、『尾張武人物語』に、『信長公記、信長記、野史、常山紀談、名古屋市史人物編』から、平手政秀の事績として書いたものがあります。そこでは、「その弟信長、十六歳の初陣として来り援けたのであったが、形勢不利にして打開の道もなく、血気にはやる信長は、突撃以て兄とともに死せんと主張してやまなかった。政秀は形勢の不利を見、和を以て信広を救わんことを図り、偶々織田家に人質となってゐた松平竹千代と交換せんことを雪斎に申し出で、名信長をなだめて安城城を引渡し、信広を引き取った。大勢已に今川氏に有利である際、とにかくこれだけに事を収めたのは、時會々、後奈良天王から雪斎に講和を諭し給つた折とはいへ、政秀の外交折衝、その宜しきを得たからにほかならぬ」と評しています。・・・ここでの信長は、父信秀の軍隊を率いて赴き敗れています。それは、親族衆と「おとな」と「手に付けた能き者」と「憑みなされた尾張国中の人数」からなる軍隊で、士気に欠けるものがあったようです。
もう一つは、横山麓の戦いです。これは、『丹羽家譜、三草本、丹羽軍功録』にあるようで、東大史料編纂所刊行の『史料綜覧』巻十、天文二十年是歳条が、「尾張藤島城将丹羽氏秀、織田信長ノ援ニ依リ、其カ宗家、同国岩崎城将丹羽氏職ヲ攻メテ敗績ス」と紹介しています。その有様は、尾張東部には丹羽一族が勢力を張っていましたが、その中心に岩崎の氏清がおりました。ところが、この岩崎城から東南に約1kmほどのところにある従兄弟の藤島城主・丹羽右馬充氏秀が天文十年(1541)頃から勢力を拡大し始めていたらしいのですが、天文廿年(1551)になると本家氏清・氏職父子に謀反の企みありとの讒訴が、家督を継いだばかりの信長になされました。これを受けて信長は誅伐の軍を催すのですが、丹羽氏方では隠居・氏清が岩崎城を守備し、氏職と嫡男・氏勝が横山麓のに兵を伏せて迎え討ち、通りかかる信長軍を家老・丹羽茂昌が林の中から鉄砲三十挺で攻撃したといいます。このとき、「人馬騒動し、隊伍大に乱る(中略)力攻死闘して、相い共に奮戦」と『丹羽軍功録』は書きます。家老茂昌・茂信父子と鈴木重澄らは、平針(名古屋市天白区)まで追撃したとされていますから、大惨敗です。
註 氏秀は息子と共に城を捨てて三河国中条秀正の広見城へ逃れた後、捲土重来を図るが逆に殺されて藤島丹羽家は絶えたといいます。
その後、源六郎氏勝は信長に対抗する信次の守山城の年寄衆として出仕しているのですが、弘治元年(1555)六月に織田信次の家臣が信長の弟・秀孝を誤殺するという事件がおこり、織田信行軍が守山城を攻撃した際には、氏勝の一族郎党は守山城の信次に加勢しています。その翌年(1556)に角田新五が新しく守山城に入った織田信時を殺害した時にも氏勝はそれに荷担しているのです。その後の永禄二年(1559)四月に信長は平針(名古屋市天白区)に出陣して、三河との国境福谷(三好町)に砦を構えて酒井忠次を配していた松平方と戦っていますが、この時の信長は、自身が丹羽氏を牽制するため岩崎面を押さえ、柴田・荒川らに福谷城攻めをさせたようでが、福谷城の攻略には失敗しています『東照軍鑑』。・・・このように、岩崎丹羽氏との関係は決して信長に属していたとは言えないものがあります。
そして、桶狭間合戦後になりますが、永禄三年(1560)十月、三河平定を急ぐ元康は挙母城(豊田市)を降して福谷城に立ち寄った祭、岩崎丹羽氏職に福谷ノ原田右衛門太郎ヲ同道シテ使者を送ったことから松平家を主筋として仕えることとなったといいます。氏職の子、氏勝は人質として岡崎に詰めることになり、三河国内の乙尾(豊田市)、一色(三好町)、赤羽根(三好町)の三か村を宛がわれたといいます。一方の、信長も家中をまとめ上げて、永禄四年(1561)四月〜五月に、三河梅ヶ坪・伊保城(豊田市)などを攻撃して降しています。・・・尾張東部の尾三国境地帯はこのようでしたが、永禄五年(1562)正月、信長の同盟者であり松平元康の叔父にあたる水野信元の仲介があったようで、織田・松平の同盟が成ったため、丹羽家では当主氏職が諸輪北城(東郷町)に隠居して松平に服属し、息子氏勝が本城の岩崎城に帰って信長に仕えることとなりました。
ところで、親族衆と「おとな」と「手に付けた能き者」と「憑みなされた尾張国中の人数」からなる初期の信長の軍隊は、負け続けています。それを顧みた信長は、父信秀の「手に付けた能き者」路線を発展させる方針を採り、「尾張国中の人数に憑みなされること」を止めて常備軍によることを覚悟したのだと思えます。そして、この事がおそらく尾張で国人階層に伸し上ることを望んでいた階層の武士を失望させたのだと思います。それが鳴海城の山口左馬之助のであり、戸部城の戸部新左衛門政直、沓掛城の近藤景春、大高城の水野大膳亮忠守らの離反を惹き起しているのであり、そのような状況を生んだ信長の政策が平手政秀をして諌死させた原因であると考えます。また、後の村木砦攻めでは、「一長」で那古野城代林秀貞が参陣を拒否したりもしています。三郎五郎殿御謀叛の頃には、「究竟の度々の覚えの侍衆七、八百」を抱えるようになりますが、これは尾張ばかりでなく美濃などからも随身しているようでして、地侍クラスが主体であると思います。それが、天文廿二年(1553)四月の山城道三との御会見になりますと、 「御伴衆七、八百」となり、覚えの侍衆が御伴衆に代っています。これは単なる文学的な表現の問題ではないと考えます。より信長の厳しい軍律に服する軍隊になったと考えるのです。そして、天文廿三年(1554)一月廿四日の村木取出攻めで現れた信長の軍隊は、 「信長御小姓衆、歴々、其の員を知らざる手負死人」と書かれるように、若年の「小姓」という幹部候補生と、「歴々」と書かれた以前からの「覚えの侍衆」からなる「御伴衆」が、死を顧みない主力に成長しています。
<考え中>
それが、桶狭間合戦の前年にあたる永禄二年(1559)の岩倉城攻略では、「廻り番」ができるようなチームが発生していますが、これは桶狭間合戦で、「御馬廻、御小姓、歴々衆」と記された「馬廻」に発展するものと思えます。ですから、この時期の信長の軍隊は、親族衆と利害を同じくする有力国人衆、同盟を結んでいる有力国人の水野信元から派遣されている武将(梶川平左衛門)、それに恐らく一旗組の浪人や陣場借りとがこれに加わります。・・・ここで言う、陣場借りとは後世のようなものではなく、尾張や美濃国の地侍やその二三男など功名仕官して一家を立てて独立しようとする者達です。
<工事中>
そうしますと、確証は何もありませんが、武田氏は信虎の時代、北条氏は氏康の時代、今川氏は氏親の時代、織田氏は信秀の時代、に本格的な発展が始まり、鑓も長くなっていったのではないでしょうか。なぜか上杉の軍役定書には弓衆が登場しないのですが、これは上杉氏の場合は他の戦国大名より遅れて謙信の時代に完成した足軽鑓を導入したためだと思われます。つまり、長柄鑓があれば弓矢は不要になっていたと考えるわけです。
<その二、黒田日出男氏の「乱取状態急襲説」>
群馬県立歴史博物館長の黒田日出男氏が、「其(新左衛門を三州吉田で誅殺してから)四年にあたって庚申しかも七庚申(閏年で七回)ある歳の五月、信長廿七の御歳、人数七百許(バカリ)、義元公人数二万余を卒して出給ふ。于時(トキニ)駿河勢諸々へ乱妨に散たる隙(ヒマ)をうかゞひ、身方の真似をして駿河勢に入交る。義元は三河国の僧と路次の側の松原にて酒盛しておはします所へ、信長伐てかゝり、終に義元の頸を取給ふ。」という文言を『甲陽軍鑑・品六』のなかに見つけ、乱取状態急襲説と銘打って立正史学に発表されました。今川義元は大高からの帰りがけを桶狭間山で襲われた場合ならば、丸根・鷲津を攻撃した先鋒隊が、義元より一足早く桶狭間山辺りでの休息を終えて、沓掛城の北や水野信元の籠る緒川城辺りへ乱取りに出かけて行っていて、義元本陣が手薄であったことになり、信長のあれほどの完勝も説明しやすくなります。
しかし、黒田館長の解釈が大高周辺の知多郡北部地域や鳴海城の南の農村・田畑を略奪に出かけていたと考えているならば、これは問題です。まず、知多郡北部に出張していた場合には、如何にして彼らが落ち武者狩から脱出できたかが問題になります。松平元康でさえ義元の討死に気づかずにいて、大高城からの帰還に苦労しているからです。次に、鳴海城の南で狼藉を働く場合ですが、彼らが引き揚げるのに入り混じって義元本陣へ接近できた可能性はありません。何故なら、『三河物語』に石川六左衛門尉と駿河方武将が信長勢出現を見てその勢力を見積もっている記事があるからです。
ですから、『甲陽軍鑑』の記事を鳴海城表で乱取りしたと解釈すれば、千秋・佐々らとの前哨戦で乱取してから上げて引き揚げたものと見做さなければなりません。しかし、その場合には、『信長公記』に明らかなように信長勢は駿河勢に混じって義元本陣に突入したのではないことになります。また、桶狭間山の付近に織田方の村は殆どないのですが、全くないわけでもありません。東海道沿いには平部の集落があったらしいですし、中島砦に程近い善明寺や丸内や善之庵にも住民の集落があったはずです。この善明寺が安堵されていたかは不明なのですが、戦火にあったという伝承はないのです。
こうしてみますと、この黒田説は、義元が大高からの帰還途中であったとし、先鋒隊が緒川や島田方面へ乱捕りに出かけたとして始めて『信長公記』との整合性が得られるのだと思います。敵・織田軍の主力が出現した時点で、駿河勢の乱取り隊は本陣に引き揚げたのだと考えることができます。
ところで、黒田氏は織田勢が紛れ込んだと想定しているのですから、駿河勢は黒末川(扇川)の南にあったろう村々や田畑に乱取りに出掛けていたことになります。そうでなければ中島砦まで進んだ信長は駿河勢に紛れ込むことができません。そして、千秋や佐々が小競り合いをしたのも乱取りに出ていた駿河勢だということになります。勿論、彼らを迎撃した部隊は、乱取り隊を掩護して善照寺砦や中島砦の織田勢を警戒していた部隊でしょう。また少なくとも、義元本陣から一町ほど先に陣取っていた先備は、当然信長を迎撃する態勢をとったはずです。それが役目ですから。だとすると、矛盾しています。少なくとも千秋や佐々を討破り、その後も前田犬千代らとも戦っていたらしいことが『三河物語』から窺われるのです。そこでは、「(六左衛門尉が)急ぎ早めて行くところに、(織田勢の)徒の者は早五人三人づつ山へ上がるを見て、(駿河勢は)我先にと退く」とさえ書いています。これらの駿河勢に紛れ込んだとでもいうのでしょうか。
また、解せないのは織田勢から4kmほどしか離れていないところで、信長が主力を率いて善照寺砦に姿をみせた状況下で、通説では沓掛から「出陣してきたばかり」の本陣を手薄にして乱取りに興じさせ続けるものでしょうか。先鋒の大将である朝比奈は、すぐさま部隊をまとめて敵に備え、その後本隊と合流すべく指揮したに違いありません。ところが、朝比奈は桶狭間合戦で戦っておらず、それを咎められてもいないのです。それに、乱取りを終えた駿河勢はその後は何処へ向かう心算だったのでしょうか。義元と一緒に大高城へ向かうのでしょうか。それとも義元と別れて、一足先に西三河に帰還するのでしょうか。
(追加:2007.12.4) 黒田基樹氏の『百姓から見た戦国大名』には、『甲陽軍鑑』の記事として、「乱取りなどにばかり気をよせ、敵の勝利もみしらず。」「乱取りばかりにふけり、人を討つべき心いささかもなく」という武田軍の足軽たちのことを紹介しておられます。従って、朝比奈勢が鷲津・丸根辺りの山陰で乱取に耽っていたならば、桶狭間での合戦があったことに気付かなかった可能性もないとはいえませんが、朝比奈勢や大高城番の鵜殿長照らが無事に帰還していたり、戦後に責められていないことをみると、やはり乱取の場所や駿河勢に紛れ込む事または義元本陣が味方と勘違いするという説には疑問が残ります。 (以上挿入)
何れにせよ、二千名にも上る信長勢が少数の集団に分かれたにせよ中島砦から駿河勢に紛れ込むことができたうえ、『公記』によると山際についた信長勢は他の駿河勢のように本隊に合流せずに、山麓辺りに屯していたわけですが、それでも怪しまれることがなかったか、軽視されたことになります。もしこれが事実であったとすると、駿河勢の迂闊さ、お粗末さは特筆すべきものだということになります。事実は小説より奇なりという言葉どおりであったわけです。
『三河物語』が駿河勢が山の上から信長勢が出現したのを見ており、三々五々と上ってくるのも見ているといい、「(前略)次郎三郎様を置き奉りて、引退く処に、信長は思いのままに駆けつけ給う。駿河衆これ(信長が善照寺砦に参陣したの)を見て、石川六左衛門尉と申す者を喚び出しける。(中略)(六左衛門尉が)急ぎ早めて(原隊に)行くところに、(織田勢の)徒の者は早五人三人づつ山へ上がるを見て、(駿河勢は)我先にと退く」とあります。これは、決して先備えの兵のことではありません。先備えは敵を食い止める役目がありますから。退いた兵は乱取りに出ていた将兵でしょうか。それとも別の部隊なのでしょうか。私は殿軍の将兵であったと考えています。義元は大高城からの帰還途中であるほうが相応しいと思われますから。
第二章の「鷲津砦」で、「さらに、もう一つ考えられることは、朝比奈勢が、大高城から南に進んで氷上砦を攻撃しに出かける場合がある。鷲津砦の攻撃を終えて一息ついた朝比奈勢が、付城として存在したかも知れない氷上砦を攻略し、知多郡の名和辺りまで略奪に出かけることは、考えられなくもない。因みに、この砦は張州雑志、尾州知多郡大高古城図、蓬左文庫桶狭間図によってでしか知ることのできないものである」という仮説を述べたのでするが、同時に「問題は、知多郡に働きに出た朝比奈勢はどのようにして西三河に帰ったかである」とも課題を提起しておきました。彼ら乱取に出かけた駿河勢が、水野氏や織田勢に追撃されたり、落ち武者狩にあった記録がないのです。従って、乱捕りがあったにしても知多郡ではないのでしょう。知多郡ではあっても緒川城付近にまで出かけたとみなければならないと思います。それでなければ、愛知郡の沓掛城の北辺りが考えられます。ここには去就を明らかにしていない岩崎丹羽氏がいるからです。
こうしてみてきますと、この黒田説は、義元が大高からの帰還途中であったとし、先鋒隊が一足先に緒川や沓掛方面へ乱捕りに出かけたとするのでなければ、成り立たないように思えます。
<その四、元亀信長包囲網破綻の理由>
(信長に反抗して敗れて行った人たちに共通することは何か?)
- その多くが、自身は偉大な政治家・外交官ではあったとしても前線で軍隊の指揮を執らず、軍奉行を派遣していることがあります。今川義元は政治家ではありましたが、武将とはいえません。兼信・信玄・康政のように軍勢を率いて戦ったことはないからです。ましてや、その子の氏真にいたっては政治家ではあっても武将ではありません。朝倉義景も同様です。彼等は、父が戦国大名化しようと努力していたにも関わらず、守護大名にまで逆戻りしてしまっているのです。多くの守護などが現地に居住せず京にいて代理人に事務を委ねていたことが、現在の自分たちを生み出したのだということを忘れてしまっていたようにです。
- 戦国時代というのは幕府将軍の権威が空洞化してしまったなかで、自分たち戦国大名は実力で守護不入権を排除して武士の権利を守り拡大してきたということを忘却してしまっています。今川仮名目録追加廿一条の第廿条には、「只今はをしなべて、自分の力量を以て、国の法度を申付、静諦する事なれば、守護の手入間敷事、かつてあるべからず」と書きながら、その実、自らが将軍不入を行っている事実を直視していなかったわけです。つまり、義元の言う「自分の力量」とは、下位の国人・地侍・百姓たちしか視野に入っておらず、同等の戦国大名たちとは独立を保とうとしていただけであり、上位の権威も権力も頭になかったことが窺えるのです。
- 幕府将軍の復興に手を貸して幕府の重職に着くべきなのか、このまま戦国時代を続けて地方に割拠すべきなのか、自身で新幕府を開くべきなのかという問題意識自体を持つことができておらず。多くは、地方割拠の現状維持を望んでいたようにみえます。
と、このようなことが言えると思います。
従って、実際に天下布武を掲げて足利将軍を捧持した信長が現れて上洛した時には、頭の中は真っ白になって思考停止になってしまっていたのでしょう。何故なら、そのような問題意識を持ったことが無かったからです。だから、最後まで実効的な信長包囲網を形成することができなかったのです。
つまり、幕府再興をした場合の新たな政治体制についてのビジョンが何もなかったので、反信長派は「反信長」である以外には「何の合意も得られていない」のですから、彼等の実際の本音は「自分たちの反信長が成功しては困る」のです。その結果、足利将軍の権威が旧に復して、室町幕府が再興したのでは、戦国大名たちは守護大名に逆戻りしてしまいます。彼等はそれを心底嫌っているのですから、戦国時代において広域支配を実現している現状維持を続けるためにだけ共同したのです。だから、信長の天下統一を遅らせることはできても、阻むことはできなかったわけです。
それに、一方の雄である戦国大名本願寺と一般の戦国大名は、本質においては相容れないものでしたから、彼等戦国大名は共通の敵としての信長には当たれても、最後まで協力することなどはできなかったはずなのです。本音では、国人一揆・地侍一揆・百姓一揆による自治を領国内に認めることなどできないからです。それは、守護不入を許すことであって、戦国大名の原理に真っ向から反することだからです。そして、戦国大名たちは、本願寺と共存する方法などは持ち合わせてはいなかったのです。
(朝倉義景の元亀元年十二月十三日の越前撤退の意味は何か?)
軍事的には、積雪で領国との連絡がとれなくなることを嫌ったというのが一般的な説明です。
足利将軍への義理立てでは恩賞が得られず、領土拡張につながらず、参陣した軍兵に対価を払えないため、長陣は経済的に疲弊するだけなのですから。これは、信玄が三河を侵食し尾張を併呑して上洛するのとは訳がちがうのです。信玄には戦国大名の本分としてのメリットはあっても、朝倉義景にはそのような見返りは何もないのです。
つまり、信長が上洛した時や越前に侵攻するにあたっては、「大義」を利用して新しい地域から領土拡張や矢銭獲得が出来たのですが、天下布武の意志のない朝倉義景や浅井氏には「大義」に対して現実的な見返りがないのです。信長が賠償金を払ってくれるわけではないからです。だから、義景からすればそのようなボランティア事業などは、信玄に始めからバトンタッチしたかったわけです。
そのため、戦局が優勢な時に「大義」を利用して信長を叩き潰すことができなかった朝倉氏も浅井氏も、自国の富と民を消耗するだけの防御戦争をするだけに追い込まれたしまったわけです。従って、一旦攻勢が止まったならば、もはやこれを逆転する奇策はないのです。「大義」は勝った側につくからです。 「大義」とは軍を進めるうえで、全国から自由に兵粮や兵員を挑発する権限(公許された暴力)なのです。だから、天下布武には大義が絶対に必要なのです。
また、朝倉義景が信長の「大義」に従わず征討の理由を与えてしまったことについて、一般には「弾正忠家の家柄や身分」を云いしたりするのですが、その実は新幕府の出現によって守護不入を再びみることが嫌なのです。だから、信長の天下布武が戦国大名一揆(共和制)連邦制であることを示したならば、元亀年間のような苦境には陥らなかったであろうと考えることもできます。また、後の徳川幕府が幕藩制で天下泰平に落ち着いたのは、それが連邦制の一形態であったからだと思われます。秀吉の能力と寿命では、これを絶対王政という新幕府に導くことは無理であったのでしょう。
(では、信長の新構想とは何か?)
それは王権神授説に基づく絶対王政がその理想であり、中国的な帝王制ではなかっただろうと思われます。ただし、信長自身にも具体的に祭祀権を持つ天皇と宗教との関係をどうすべきかについては、五里霧中であったでしょう。しかし、それでも少なくとも祭祀と宗教と政治を分離しようとしたことだけは確かではないかと思われます。(日本では祭祀と宗教は混合しているようですが、全くの別物であり、祭祀が上位という認識が根源にあるように思えます。)
祭祀と政治の分離の実例には、摂関政治や、上皇による院政というシステムがありましたし、幕府制度にしても似たようなものです。しかし、対民貿易で明らかになったように、国際的には国王ではないという問題が生じていました。日本では市民もいなければ、社会契約説などは未だにありませんでしたから、後世の立憲君主制(現代日本はその亜種として象徴天皇制)は夢想もできません。
しかし、おりしも、世界的な貿易の時代であって、日本の銀や奴隷と引き換えに物資は豊富に流入しており、朝貢貿易を余儀なくされてなどはいませんでしたから、足利義満のように日本国王になる必要はなかったので、戦国大名たちの頭の中の政治日程には、日本国の平定などは浮かばなかったのです。
(浅井氏が裏切りったのは何故か?)
浅井氏の裏切りは、信長の見込み違いというに尽きます。家康とその三河家臣団の場合は独立心が強く、戦国大名化しようとして今川氏に向かって行ったのですが、浅井氏とその家臣団の矛先は六角氏に向いており、朝倉氏に依存していました。また、浅井氏側の見込み違いでもあります。浅井氏は信長と同盟して六角氏領を奪い取れると勘違いしたのでしょう。ところが、上洛戦に参加しても浅井氏は何も手にいれられませんでした。恩賞すらなかったのです。家康は駿河を切りとり次第であるのが対価であることを理解していましたが、浅井氏には朝倉領切取次第というような考えは端からなかったからです。
(信長側の調略が成功した理由は何にか?)
信長の下でも、他人資本(信長や金融業者からの借り入れ)は返還しなければならないのは当然ですが、抜擢人事の実例がありますから、貸し手は出世払いでも回収を期待できたのです。切り取り次第というやつなのですが、自転車操業でもあります。ですから、秀吉のように出世払いで借りる道も開けていましたし、「大義」の御蔭で「押し借り」もできたに違いありません。また、安堵の口利きが成功すれば、応分の謝礼も転がり込んでくるのは全国共通でしたでしょう。この働きがいのあるという事は、調略するときの売り口上にしたに違いありません。
おそらく、武田信玄や今川信玄と違うところは、下請けとして系列に取り込むのではなく、フランチャイズに加盟させているような違いではないのでしょうか?
(信虎が追放され松平清定・弘忠が殺されて、国人衆合意の新たな国主を担いだのに、前国主よりも過酷な制度になっていく。それなのに信玄や家康に対してクデターが起こることがなかったのは何故か? )
………それが解れば、それが信長が成功した本当の理由だろうと思います。
例えば、それまで守護の支配を受けなかった三河国では、戦国大名今川義元の先進的な施策であるといわれる検地・段銭・伝馬制・検地などは、全て「規制する政策」であり社会・経済を活性化させる要素がなく、三河国の人々には不評であったと考えます。現に、同様なことが武田家でもおこっていて、その上で有力国人衆が急進的な信虎を追放していますし、徳川家では偶然ではありますが義元の不慮の死で、国人衆が自ら望んだ国主に交代しています。
そうしますと、義元の場合の最盛期は、仮名目録に追加を制定してその理念を公に掲げた時であったことに…結果的にではありますが…なってしまいました。
ところが、前代の施策に反対して自分たちが担いだはずの武田信玄や徳川家康らは、前代の信虎や義元にも増して締め付けを強化するという矛盾した結果を現出しています。
おそらく、国人衆がそれでも其の方がよいと思える情勢があったのだろうと思います。それは、彼等より身分的に下で彼らに対抗する勢力が、彼等の周りで成長(下剋上の進展・蔓延・深化)してきており、国主の絶対的強制力がその掲げる名分(公=御国・御家のため)とともに、国人衆(領主層)に必要とされる状況が出現していたことを推定することができるのではないのでしょうか。例えば、今川仮名目録第一条に「彼の名田年貢を相増すよし望む人あらハ、本百姓に望みの如く相増すかのよし尋る上、其の儀無くば、年貢増に付きて取り放つ可き也。」とあるように、新興自作農の小規模開発を抑制して既存の奉公をしている領主層の没落を必死に抑制しようとする姿に現れています。
国人衆は軍役で頻繁に他国への侵略および他国からの侵略からの防衛に駆り出されており、財政的疲弊に加えて、人的損耗が激しく遺族に諸識の維持・確保と農業等の経営を困難にさせるのに対して、軍役を免除されて生業を主体とする階層(商工民)が、台頭してきていて戦国大名の絶対権力と下からの下剋上の圧力に呻吟していたことが理由なのではないのでしょうか。それに加えて、最下層の農業労働者らは、信長が示す雑兵の生活の方が、当時の厳しい気候にも災いされて生活が苦しい耕作者であるよりは、兵士の方が希望をもてた時代になっていたのかも知れません。
つまり、国人衆(領主層)は嫌でも戦国大名の力を借りなければ、下剋上に対抗できなくなっていたと考えるわけです。………だから、先行した戦国大名が没落していったのに、後発の信長の政策が受け入れられたのは、社会状況の方がそれを受け入れさせる状況になっていたからなのであり、信長は「ついていた」と云うことなのだろうと考えるのですが、もう一つ理由があります。それは、同じ施策であっても先行した戦国大名のそれは規制的であって、経済・社会の活動を抑制するように働いたのに対し、信長のそれは経済・社会を解放し自由化して活性化させたように見えることです。その意志・目的がどうであれ。
<信長が家康と同盟した理由> (2008.08.15 追加)
信長が桶狭間合戦後、西三河に侵攻し今川氏の遠駿方面に領土を拡張しようとしなかったのは何故か?伊沢氏は
- 其の後の、美濃攻略に七年も要していることをみても明らかであるように、信長の兵力も実力もそれを実行できるようなものではなかったことがある。………六・七百が中核で二千人規模でしかない。
- 信長には三河・遠江・駿河に侵攻する「大義=正統性」がなかったことが第一であること。………三河守を名乗ることも気付かなかったし、三河守護になろうとする運動もした形跡がない。いわんや遠駿の守護はほど遠く、将軍の要請も取り付ける努力をしていない。
- 第二は信長が国人衆に憑勢をしていないか、または出来る立場にいなかったこと。………美濃攻略戦の六年間を通じても国中に憑勢をした形跡がない。
- 第三は三河では松平家に結集して三河国統一に結束しており、征服が困難であったこと。………これに対して、美濃に対しては、舅であり同盟者でもあった山城道三の仇討という名分があるうえ、美濃では斎藤義龍が早くに死に、幼くしてその跡を継いだ龍興に国主としての器量がなく、国人衆が愛想を尽かし始めたという情勢があった。
- 第四に遠駿は宣伝されているほど魅力がなかったこと。………信長の威勢の背景には父・信秀の時代から商業・交易からの収入が重要な位置を占めており、ことさら重商主義的傾向があったが、その目からみると遠駿領国からの交易輸入品に見るべきものなかった。農業生産力でも駿遠と東三河では尾張一国に劣り、金山を有することが唯一の強みであるが、遠州灘があるため西回りの太平洋海運を欠いていたため、魅力がなかった。
<討死の功名と任務・責任という観念>
丸根・鷲津の諸将は信長の御後詰が間に合わなかったにしても、何故玉砕したかということも疑問です。
- 鷲津と丸根は尾根伝いにつながっていた。
- 丸根だけが出撃した。
- 『三岡記』では、「丸根の城に佐久間大学ガ籠けるを、元康公の先手勢ガ攻め詰める故、大学ハ?(アツカイ)を入れ、城を立ち退きぬ、」とあるが、その後大学の名前は現れない。
- 『佐久間家譜』は、「砦からの撤退は許されなかったので、盛重は現地で戦死した」と記して、信長が大学を非情にも捨て殺しにしたと避難する。
考えられることは、大学が「?(アツカイ)を入れ」たことが、鷲津砦の玉砕を招いたうえ、砦で駿河勢を拘束するという目的を危うく頓挫させ、義元を取り逃がすところだったという理由から、信長の不興をかって、その後用いられなくなったことが一つある。
もうひとつは、端から後詰しなかった場合がある。これは、岩沼城や野田城、月山城の例があるが、兵力が不足していたことがその理由ではあるが、死守することを期待していた節がある。





