第三章  大高の価値  (2008.5.18 十郎左衛門信近について追加中)

1. 案の如く………それなのに何故、信長は後詰に出なかった、または遅れたのか?

『信長公記』には、「案の如く、夜明け方に、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ(敵の)人数取りかけ候由、追々ご注進これあり」とあります。

案の如く」とは、飽くまで佐久間大学らの予想した通りであり、その注進を信じた家老衆の思った通りであったということです。しかし、「信長にとっては予想に反したこと」であったとも考えられます。予想していたならば、当然其れなりの準備をしていただろうからです。それなのに信長は出陣しませんでした。………この件については、敵を欺くためには先ず味方から騙したのだと考える方もおられるようです。でも、本当にそうだったのでしょうか?

他人に「させる」ということは、そんなに簡単なことではありません。懇切丁寧に手取り足取り教えても、なかなか指揮官の思うようには行動してくれないものだからです。山本五十六も「やって見せて、言って聞かせて、やらせて見て、ほめてやらねば、人は動かず。」と言っているぐらいなのですから………。それが現実なのに、味方を騙していたのでは、まず成功の可能性などあり得ません。信長が一騎駆けしているのは、まさに「率先垂範」なのではないでしょうか。

では、なぜ信長が前線からの情報を信じなかったのでしょうか。

その理由は、駿河勢の大高城への兵糧を籠めや付け城の排除などは、大軍である義元にとっては一支隊に相応しい作戦であって、総大将の義元が直接指揮する本隊による作戦だったとは、考えられなかったからに違いありません。ましてや、義元が大高城に入城するなどと云うことも考えられなかったのだと思います。………とにかく、駿河勢が四万五千もの大軍であるという触れ込みを信長が信じたならば、義元の大高行きは欺瞞であろうと考えたか、または威力偵察程度であって総力を挙げて付城を排除しようなどとは義元は考えていないだろうと信長は判断したと小生は思うのです。

今川義元の立場に立って考えた場合、その引き連れてきた少なくとも二万五千もの大兵力を、大高城兵糧入れや要害とも言えないない丸根や鷲津の攻略に投入するでしょうか。………絶対にNOです。それぞれ二三千の兵力があれば十分な作戦でしょう。ということは、同時に織田方の全付城(丸根・鷲津・中島・善照寺・丹下・氷上・正光寺など)を攻略できるということです。それどころか、今川義元が大軍をもって善照寺砦や丹下砦を襲って鳴海城を救援すれば、敵中に孤立する丸根・鷲津などの砦群は戦わずして自落するだろうことは必定です。これは深く敵陣を突く「中入り」です。その場合には大軍をもって行うべきものであることは、後の信長が上洛戦を通じて身を以て示しています。端城などには目もくれず箕作城を攻め落としたところ、六角承禎親子は一戦もせずに本拠の観音寺城を捨ててゲリラ戦註 に転じたのです。それによって付近の六角残党など軒並みに降伏してしまいました。

註 日本でゲリラ戦が戦われたという事実はありません。飽くまで逃げ出して地下に潜ったというだけのことです。

第一に、信長が鳴海城と大高城を比べて考えたと想像してみたならば、どう考えても鎌倉海道・東海道を扼す鳴海城の方が戦略要地であったろうことは、間違いないことだろうと小生には思われます。もしかすると、駿河勢の右翼は既にさらに北側に回り込んでいて、那古屋城を攻めるのではないかと信長は疑ったかもしれません。迂闊に大高城に後詰などしたならば、信長は包囲殲滅される可能性すらあると思ったかもしれません。尾張東部は敵軍を遮るものが何もない地形なのです。

第二に信長が按じただろうと小生が思うことは、義元が八方に手を尽くして尾張の国人衆を威圧して調略している真最中だと考えただろうということです。愛知郡にも知多郡にも乱取り刈働きに出掛けているだけではなく、徳川家康には生母於大に会いに阿久比にまで行ったという伝承すらあるのです。これはもちろん調略が目的です。それに、大高河口には桶狭間合戦当日に河内の坊主服部左京助が来援したという事実もあります。………もし、この一向宗徒服部左京助の勢力が播磨良紀氏が言われるように、一千雙(少なくとも五千人ほどにもなります)もの大兵力を動員できたとしたものならば、信長が出陣した留守の清洲を襲うことが可能なことは当然考えられたはずです。

 

2. 義元の目的

当時の信長にも分からないだけでなく、現代にいたっても猶、大軍を率いていた今川義元がなぜ大高城に兵糧を入れ、付け城を排除することを優先したのかは不可解なことであると思います。それなのに、『武徳大成記(1741)』には、「義元おもえらく、大高は尾州の要衝なり、勇将を撰びて守らしめんと」と言ったとあります。なぜ義元だけが、大高を尾州の要衝と考えたのでしょう。

理由の一つには、城番に入れて置いた鵜殿長助は義元の縁戚に繋がる三河国人だからということが考えられます。西三河を安定的に経営するには、国人衆を手懐ける必要があるからです。

ですが、『三河物語』の大久保彦左衛門が石川六左衛門尉の口を借りて証言するには、「だいたいが、か様なところの長評定は、よきことは出来せざるものにて候に、棒(某)山を攻めんか攻めまじきかとの評定久しく、又、城の替番の詮議久しく候あいだ、ふつふつとよき事あるまじきと申つるに違わず、是え押し寄せ給うと、そのまま取り合えずに攻め落とせ給いて、番手を早く入れ替え給て、引かせ給わで叶わざるところを、余りにオモクレて、手粘く候あいだ、ふつふつとよき事あるまじき。」だというのです。つまりは今川義元の丸根・鷲津攻めは、余儀なくされて実施された「計画外の作戦」だということになると小生は考えるのです。それに、その軍議に長時間がかかっているということは、駿河衆の重臣たちの間でさえ賛成したくない作戦であり、大高城の重要性は今川方のなかでも共通した認識とはなっていなかったのではないかとも疑ったりするのです。

 <閉話休題:義元の上洛費用>  2008.07.11 挿入

藤原京氏の『時代劇のウソ?ホント?』という本には、義元が上洛する意思などがなかったことは、大軍を動かすと莫大な費用がかかるからだと述べられています。その論拠は、一人一日に五合の飯を食うとして、四万五千人が一日に食べる量は、22,500升、四斗俵で562俵半、33,750kg、10kg五千円とするなら、16,875,000円かかる他に、調味料と副食および飼料がいるであろうから、全部で一日三千万円という膨大な経費がかかることになるからだというのです。

一見、如何にも御尤もと言いそうになりますが、信玄も謙信も信長も適地を駆けまわっているのですから、旅費がかかるからという説明は「?」とせざるを得ません。この説明には、きっと隠されている裏に真実があります。

  1. 軍事行動をしていなければ、一人一日の食費は米四合ですむとしますと、実際の追加支出負担額は二割増でしかならないということになります。遠征しようがしまいが、人は食事をするからです。………食糧自弁の原則を忘れていませんか?勿論、絶え間ない遠征は麾下の武将の財政を窮乏に追い込みます。これは事実です。
  2. 人の荷物を担いで旅をする能力は、米だけであるならば四斗までであるといいますから、これは八十日分に相当します。つまり、往復に一ヶ月かけて滞在地で二十日間の戦闘が出来る量を一人が運べるわけです。勿論、武装と武器の重量分だけ少なくなるのは当然です。………北条氏の軍役などをみると近世の道具持ちなどは少ないですから、おそらく食糧などは小荷駄にせずに、できるだけは自分たちが担いで運んだものと思われます。なぜなら、戦場での腰兵糧は命綱だからです。
  3. 律令時代には運脚といって農民は食糧自弁で租・調を京まで運ばされていたのです。勿論、生き倒れが頻発したのですが。………ですから、上洛は経費の問題などではありません。
  4. 鎌倉時代に入って武士の世になってからも、武士は大番役を務めるために経費自弁で出仕していたのです。

これでお分かり頂けたかと思いますが、義元の上洛と旅費とは関係がありません。義元の意志を除いたならば、後は専ら途中経路の外交上の問題だけなのです。つまり、従来から言われている義元上洛不可能説の数々の理由はどれも的を射ているということになります。

では、著者が何故このような間違いというか勘違いをしたかといいますと、おそらく近代国家が形成されてからの常識感覚で、例え税金で賄われているとはいえ、戦費は中央政府が支出していると考えたからだと思われます。でも、昔は完全に利益誘導型の手弁当の参加ですから、戦費の負担に本当に気が付くのは相当時代を経てからのことなのです。………まず、参陣する将士が集まらなくなり、その武装が更新できなくなって貧弱になっていきます。最後に、全ての財の供給源であった農村が全く疲弊してしまって、初めて気が付くわけです。なぜ、当時の為政者が、気が付き難いかったかといいますと、戦国時代は天候不順な飢饉の時代だからです。原因が複合していることもあって、自らの搾取が根本原因であることには思い至らなかったのでしょう。それに、飢饉による飢えから逃れるためにも他国への侵略は必要であり、歓迎されるという一面もありました。そして、徐々にボディブローが効き始めまして、逃散防止令から始まって、やがて人返し令が出されるわけです。

 

3. 大高は要地か

大高城は伊勢湾にも大高川にも近いのですが、直接面しているわけではありませんし、総構えに取り込んでいるわけでもありません。従って船江も津もなく、ましてや水軍などは持っていないのです。桶狭間合戦後には廃城になっており、秀吉・家康の誰もが大高に見向きもせず、藩政時代になると鳴海陣屋の支配下に入っているのです。さらに、尾張二代藩主徳川光友が設けた軍事的要素ありとされて幕府に疑念を感じさせた別邸は、大高などではなく、かつて信長が村木砦攻略のために上陸した「馬走瀬(マハセ)の浦」のある横須賀に設けられたのです。

連歌師里村紹巴の『富士見道記』という紀行文に、彼が大高から船を仕立ててもらったという記事があることから、多くの人は大高河口が当時の主要な港として、伊勢湾岸航路のなかに組み込まれていたと考えるらしいのですが、紹巴は有名な文化人として大高城主の客であったのですから、便宜を図ってもらっただけであって、一般的な旅人が大高に立ち寄る理由はなかっただろうと思います。大高には一般旅人用の宿もなさそうですし、定期航路註 があったとも思えません。中世に伊勢からの東西交通は、桑名から津島へ行き陸路を行くか、楠・長太(ナゴ)から知多半島の中部の大野〜成岩(ナラワ、半田)または師崎を迂回して大浜(碧南)へ行くのが普通であったらしく、榎原雅治氏の『中世の東海道をゆく』では、桑名〜熱田を渡海した例は見当たらないといいます。ましてや大高をやです。

註 中世の定期航路は、利用者が待っていれば何時かは船が出ると云った種類の不定期なものであって、決められた日時に運航するといったものではなかったようです。

『大高町誌』では、「元禄四年(1692)の船舶員数記録には、83艘480石とあり、船頭とか船問屋を稼業とした家がかなりあり、大橋西の通りは江戸時代前期には舟戸町と書いていた」としています。これは平均すると一艘6石にしかならず、極めて小さな漁船の規模であったことになります。これが桶狭間の戦いから130年後の大高なのです。

因みに、慶長十三年(1608)の検地によりますと、当時の田畑宅地合計は、156町7反5畝10歩で、石高は1,712石2升9合であり、田が101町6反余、畑が55町1反余(内、宅地4町9反余)で、耕地所有者は325人となっています。石高が1,712石ということから、一万石あたり250人の軍役であったとすると、大高城主は43人の兵力でしかなかったわけです。

『知多郡史』は、「東海道の設けられた後における阿野〜大脇〜桶狭間〜大高との間を通過した所の舊道は廃頽せしめられた。これは警備上の理由から撤廃せしめられた。尾張藩創業当時の警備配置は周密に計画されてあるにも関わらずこの道路のみ伝わらないのはこの間の消息を示すものである」と言いますから、東海道の脇街道として敵に「間道(抜け道)」に使用されることを防ごうとしたものだという見解を述べるのみなのです。

 

4. 義元にとっての大高城

義元は尾張北部についてはあまり関心を示していないように思います。ほとんど此の方面では守勢一方でして積極的には働いていないようです。義元は品野城には三河武士を城番に籠めており、駿河・遠江の武士を配置していません。永禄三年正月には信長によって品野三城を攻めとられているとの説もあるのですが、義元の対抗処置は伝えられていません。

一方、尾張南部になりますと、弘治元年(1555)六月には義元が水軍をもって伊勢・志摩進出を試みたといわれたり、長谷川弘道氏は永禄三年三月廿日と思われる義元奉行人・関口氏純が伊勢外宮祢宜に宛てた書状から、今川義元は尾張の制圧を目指していたと想定されます。また、『朝野舊聞蓬藁』や『松平記』では、天文廿四年(1555)八月三日には蟹江城を松平勢により攻略したといいます。間に知多半島が遮っているにも関わらずです。この作戦は「領地の拡大」も「乱取りや刈働き」を目的ともしていない不思議な作戦でもあります。これについては、他の箇所で検証します。

大高と緒川の間は地峡になっており、主要な地方道が走っているのですが、緒川に水野氏が蕃居している限り、伊勢湾に出る道には成り得ません。また、水野氏の最盛期にも、この地峡が伊勢湾への通路として繁栄したことはありませんでした。伊勢に詣でる人も熱田に詣でる人も津島に詣でる人も、三河から来る人たちは、緒川から大高に出て、伊勢湾を舟で行こうとは思わなかったのです。当時は、成岩から岩滑を経て常滑へ抜けたり、こちらが主流ですが大野へ出て伊勢湾を渡るのが主要なルートだったのです。

 

5. 刈谷水野氏と村木砦の戦い

水野忠政が尾張東南部(佐久間一族の勢力圏)に侵攻して信秀と対立していたという事も、信秀が知多郡に侵攻または同盟註 したという事も史実として裏付けるものは何もありません。知多郡は尾張統一時代には真空地帯だったのです。勿論、その子信元も尾張東南部に侵攻したりはしていません。笠寺台地辺りには水野一族が進出していますし、大高城にも水野一族がいますが、織田氏やその与党である佐久間一族との争いは起こしていないどころか、友好的であったようですし、岩崎丹羽氏とも友好を保っていたようです。………ただし、大高城主の動向だけは怪しいものがありまして、親松平を貫いたようでもあり弾正忠家とは当初から反目していた可能性もあると小生は思います。

註 織田信秀が大野の佐治上野介為貞および刈谷の水野下野守信元と語らって、水野忠分(十歳)を佐治為貞の娘と婚せて「不土」の城主として、折から三河に勢力を伸ばしてきた(田原戸田氏を滅ぼしている)今川氏に対抗しようとしたという説(木原克之『信長の涙・村木砦懐古/みなみ第73号』)もあるが、史料の裏付けはない。氏は、同時に緒川水野衆を南下させたともいうが、これは知多半島の勢力バランスを破る処置になるから、とても大野佐治氏や局外に置かれた常滑水野氏(氏は、水野監物と阿久比の久松氏とは信秀の被官化していたと見做している。)の合意があったとは思えない。

天文廿四年二月といいますから国境の領主・山口左馬助が今川方に寝返ってから三年後になるのですが、信長は花井右衛門兵衛に「星崎根上(高地)之内、この度鳴海(今川方に与した山口左馬助)に同心の者共、十分に調べ跡職は悉欠所(過去の権利関係を一切破棄して没収)として、堅く糾明(検地)を遂げる可きものなり、件の如し」と命じており、さらに同年十月一日には、星崎城主の花井三河守に信長は四ケ所二百七十八貫文の地を宛がっているという『尾張花井三河守宛判物』が妙心寺光国院に伝わっております。これから見ますと、早ければこの年には笠寺台地から今川勢は駆逐されていたのかもしれないことになります。………ところが、これを否定するような事もあるのです。

まず第一に、同年八月三日には松平勢が蟹江城を攻撃したと『朝野舊聞ホウ藁』『松平記』『譜牒餘録』などが伝えます。これは恐らく大高城からなどではなく鳴尾浜から出航したものと考えられますが、そうしますと今川方は笠寺・星崎辺りで、未だに健在らしいことになります。さらに問題なのは、今川義元が浅井小四郎・飯尾豊前守・三浦左馬助・葛山播磨守に宛てたとされる永禄元年三月三日付けの書状の宛先に「笠寺城中」とあり、今川勢が笠寺に籠っているらしいことを伝えるのです。また、前年正月に信長が村木砦を攻略した時には、笠寺台地の今川方を避けるために海路知多半島に渡っており、その帰路に笠寺を攻撃したという話もあります。勿論、この時は笠寺は落ちていません。………これらの事から小生が想定するのは、今川義元の尾張東部侵攻は、昭和陸軍の支那事変と同様であって点と線の支配でしかなくても、信長・信元方の交通路を脅かすには足る存在であったのだろうと云うことです。

緒川の水野忠政が当初結んだ相手は松平信貞(岡崎松平)であり、忠政は足利義材(ヨシタネ)方として松平清康と対抗していたらしいのですが、その後清康との連携に乗り換えています。これを素直に解釈するなら、中央政界の争いが地方に直接反映されなくなった結果、此の地域の武力が地域の再編成に振り向けられ、その結果、緒川の水野忠政・信元父子による西三河(身内の刈谷水野氏)を支配することを目的にした身内の争いが、歴史の表面に浮上したとみるべきなのではないのでしょうか。

当時は、織田氏も松平氏も身内で争って、国内の統一を目指しています。水野氏だけがそれから逃れられたとは思えません。水野氏だけが戦国乱世の下剋上の時代に一族一揆・家族一揆を維持していたなどということは到底考えられないことです。『刈谷市史』が、「(桶狭間合戦での)信近の死後に信元は本拠を刈谷城に移し、小河との二城兼帯となった。(中略)信元文書では、永禄五年になってはじめて三河平坂(西尾市平坂)での寺領安堵を行っている。惣領小河家が刈谷家を吸収したということであろう」としていて、緒川水野氏による刈谷支配はそう簡単でなかったとみています。

水野一族は一枚岩などではなく、惣領家といわれる緒川水野氏も庶家を支配できていたとは考えられません。何故なら、たかだか三百や四百人しか籠城していなかったであろう村木砦の松平勢を駆逐することができなかったわけですから。………もし、水野信元が知多一郡に覇権を打ち立てていたならば、二千や三千の兵を集められなかったはずがありません。それなのに、水野信元は大高水野氏も常滑水野氏も動員することはなかったのです。

このように考えますと、今川義元が刈谷と緒川の間にある村木に容易に進出できた訳の一つも説明できます。水野氏は他の戦国諸家と同様に各自独立して割拠しており、大高水野氏も刈谷水野氏も昔から親松平(今川方になりたいわけではない)であったため、一族として一枚岩などではなかったということです。

『信長公記』の村木砦攻めについての記事も、首巻の特徴である乱雑なメモの集合のようでして、登場人物の人名や地名み一貫していないために、何かと問題が多いものですので、別章を設けて検証してみたいと思います。

 

6. 大高水野氏と大高城自落

桶狭間合戦の直接的原因になった大高城は、山口左馬之助に「調略」されたと伝わります。戦いをもって攻め落とされたのではないようです。

軍事的には、氷上姉子砦と正光寺砦がなければ大高城を封鎖するには不完全ですから、大高城奪回作戦は本来は水野一族の戦いであるはずなのですが、大高城主の水野大膳亮父子をみますと、桶狭間合戦当時の様子は知れませんし、戦後の行方も判然としません。さらに不思議なことには、村木砦のときと違って、一族の宗家とされる水野信元は、信長に「大高城奪還の支援を請うていない」のです。少なくとも『信長公記』は書きません。

以上の疑惑から考えられますことは、大高水野氏はそれまでは親松平であったわけですから、緒川の水野信元が織田方に鞍替えしたからといって、大高水野氏もそれに同調したわけではなかったのではないかということです。そこに義元が大軍を派遣して安祥を奪回したのですから、山口氏の調略に乗って半手(それ以上か?)を切ったのかもしれません。戦国時代にはよくある話ですから。それどころか、大高城兵粮入れについて書かれた伝承をつぶさに見てみますと、それは水野一族の戦いであるという兆候は大高城主が水野大膳であるという以外には何も見当たらないのです。最初から最後までが、信長と松平氏(今川の代理)との戦いなのです。

当時の水野信元の立場をみますと、通説では大野佐治氏とも和解していて、ほぼ知多半島の統一を果たしたとされており、尾張織田氏と同盟している立派な「独立領主」の一人であったとみられています。桶狭間合戦後の信元の行動をみますと、松平家康と三河国人衆との仲を取り持ったり、家康と信長の清洲同盟を仲介したとも言われたりしていまして、『永禄六年諸役人附』での格付けでは、家康についで「外様在国衆」として西三河の領主とみなされるような位置づけだったようです。

そのような中での大高水野氏の立場はどのようなものだったのでしょうか。信元と対立していたのでしょうか、それとも信元と裏で手を結んで今川方に通じていたのでしょうか。全ては闇の中です。とにかく大高―緒川―刈谷の三水野氏の動向は全くわかりません。

閉話休題  水野一族は何をしていたか (2008.07.18 追加)

尾三国境での水野氏についての疑惑は次のようなものがあります。

  1. 天文十八年天文十八年(11/10〜12/5)に一時今川氏に刈谷城は占領される事態となったと『刈谷市史第二巻』はいうのですが、もしそれが真実であるならば、義元側は何と引換にこれを返還したのか?
  2. 緒川城の間近で刈谷城の向いなどに何故、今川義元は村木砦を築く(天文廿二年六月)ことができたのか?または、緒川城の水野信元も刈谷城主の水野信近も駿河方による築城を六か月もの間なぜ傍観していたのか?刈谷水野氏はなぜ村木砦奪回作戦に参加しなかったのか?
  3. 永禄元年(1558)に石ヶ瀬川畔で、織田方の緒川城主水野信元と今川方の松平元康との代理戦争であったのですが、この時の刈谷城主水野信近も傍観していたようであり、その動向が定かでないのです。
  4. 調略で駿河勢に奪取された大高城について、水野信元は村木砦の時とはことなり、信長に奪回の依頼をしていないのは何故か。
  5. 大高城攻囲戦についても史料には明らかでなく、僅かに正光寺砦を築いて信長に協力しているようではありますが、その守将は定かではありませんし、18日の駿河勢の侵攻に対しての動向も不明です。
  6. 桶狭間合戦当時の水野信元や刈谷城主・水野信近の動向も知れません。
  7. 桶狭間の戦い直後、信元は大高城番であった松平元康のもとに浅井六之助道忠を使者に送って退去を勧めていますが、その真実は降伏勧告ではなかったのでしょうか?
  8. 桶狭間合戦後、引揚げ途中の岡部元信に襲われて、刈谷城主・水野信近だけが手もなく討死しています。
  9. 大高城は廃城になっているのですが、誰に領有されたものか定かではありません。ところが、『信長公記 巻十』の雑賀攻めには大膳が登場するのです。 「天正五年(1587)三月一日、(中略)信長公はここから堀秀政・不破光治・丸毛長照・武藤舜秀・福富秀勝・中条将監・山岡景隆・牧村長兵衛・福田三河・丹羽右近・水野大膳・生駒市左衛門・生駒三吉らを根来口へ遣わし、小雑賀・紀の川方面に続く山手に陣を取らせた。」そして、天正十二年九月〜十四年七月頃の知行内容を表す『織田信雄分限帳』には、「一、千八百貫文 目録別ニ有 水野大膳」ともあります。「忠守」の名はなく忠分の子・分長の名も見当たらないことから、忠守の子吉守(妻は信元の女)の子で忠守の孫にあたる「正長」かとも思われますが、忠守の行方は知れません。
  10. これら全ての戦いにおいて、水野信元にも織田弾正忠家にも常滑水野氏が動員された形跡はありません。

 

7. 水野十郎左衛門尉

ところで、今川義元が水野十郎左衛門尉なる人物に宛た次のような書状があります。

原文は、「夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言。四月十二日、義元(花押)。水野十郎左衛門尉(内閣文庫所蔵「古証文」では水野甚左エ門)殿」というものです。

書下しは『豊明市史』のものです。「夏中ニ進発令シム可ク候条、其ノ以前ニ尾州境ノ取出之儀ニツキテハ、人数差遣ハスコト申シ付ケ候。然ラバ其ノ表之事、弥々馳走祝着たる可ク候、尚ホ朝比奈備中守ガ申ス可ク候。」

これを現代語に小生が直しますと、「夏のうちに(駿河遠江の)軍隊を出発させようと考えている件ですが、その前に尾張との国境の砦を処置する件については、(三河から)兵士を派遣することを命令してあります。そのような訳です(状況であり、手段を講じました)から、そちらの尾三国境の戦線に於いては、きっと(貴殿が)益々奮闘されているだろうことに感謝します。」とします。

夏中に進発」させるとあるのを、陰暦の夏は四月から六月ですから五月と想定しましょう。そして、この国境の砦とは鷲津・丸根砦になると考えます。………そう考えますと、この書状は永禄三年の四月十二日とみなすことができますから、『愛知県史資料編』や『豊明市史』は疑問があるとはしながらも永禄三年のこととしています。

『岡崎市史別巻徳川家康とその周囲・上』は、十郎左衛門を水野信元であると看做して、義元自身が出馬する意味に捉えています。

しかし、義元は「其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候」と言っていますから、これは義元が自身で出馬して行う征西以前に大高城に対しての付城を何とかしましょうと義元が十郎左衛門に対して言っているものと小生には思えます。大高城以外には信長の付城が知られているのは鳴海城だけであり、沓掛城には付城はありませんから。………水野信元は、どうして義元に頼んで大高城に対する付城を取り除きたがるのでしょうか?それも、義元自身が出馬する前にです。

この手紙が永禄三年の四月のことであるとするならば、桶狭間の戦いの前に兵粮入れがなされていなければならないのですが、そのような伝承はありません。

それに十郎左衛門が信元であったならば大高城の攻囲は初めから笊(ザル)状態ですから、大高城の籠城は楽なものであったはずです。信元が両属であったならば密かに大高城兵に兵粮を融通することも、松平勢や河内の坊主服部らによる兵粮搬入などを見逃す事も可能であったろうと思われます。ところが、鵜殿長照は餓えており、何度 も兵粮や兵員の搬入を行っているらしいことが窺われるのです。………信元が二重スパイのような両属であったとしても限度というものがあるでしょう。長照を飢えさせるのはやり過ぎではないでしょうか。

 小和田哲夫氏によりと、史料にみえる兵粮入れは弘治三年・永禄元年・同二年・同三年のそれぞれに史料があるようですから、毎年あったことになります。

ところで、前年・永禄二年の八月の義元書状では、「今度召し出し大高在城之儀申し付け之城、(中略)永禄二年未己年八月廿一日、治部大輔(花押)朝比奈筑前守 殿」とありまして、今川義元は大高城を既に手に入れており、朝比奈筑前守宛にその大高に上番することを命じる手紙を出しています。

すると、水野十郎左衛門尉に宛てた手紙も永禄二年であって、義元が「夏中に進発」させたのは「朝比奈備中守」の部隊であり、その結果「朝比奈筑前守」が在番することになったとも想定できるのではないでしょうか。なぜなら、『武辺咄聞書』は「鷲津城には飯尾近江守・同隠岐守、丸根城には佐久間大学篭置て、大高城と取合。」と書き、義元が大高城を確保しているとしており、大高城兵糧入れを永禄二年四月十日としているからです。

これらのことから、水野十郎左衛門尉を大高城主・水野大膳亮忠守であるとみなせば、義元が十郎左衛門尉に宛てた手紙は永禄二年であったということもできると思います。その場合には、義元書状では、「其の以前に尾州境の取手之(排除の)儀、申し付け、人数差し遣わし候」といっており、四月中に付け城を何とかして大高城の救援を目的に軍勢を派遣することを約束していた事と符合しますし、『武辺咄聞書』がこの手紙の内容を証明することになります。

さて、そうしますと、今川義元が鳴海城よりも大高城を優先して救出しなければならなかった理由も、自ずから明らかになります。それは、大高城が守りに弱かったからだけではありませんでした。山口左馬助や戸田新左衛門を成敗してしまった今となっては、尾張国において唯一の味方であるのが大高城だからです。そして十郎左衛門はれっきとした「領主」であり、知多半島で寄親を任せることができる可能性を持つ人物なわけです。なぜなら、緒川・刈谷の水野氏が最後まで抵抗して亡ぼさなければならなくなっても、水野家の正統性を大高水野氏に継がせれば、知多郡(半島)北部は比較的容易に安定的に領国化できるからです。

そうだとしたならば、なぜ信長はそれに気が付かなかったのでしょうか。気がついていたとしたならば、桶狭間の時になぜ信長は鷲津・丸根の後詰に向かわなかったのでしょうか。

これは、やはり今川義元が大軍を率いているという情報に惑わされて、国境の小さな砦を一つづつ虱潰しにするなどという、凡そ非効率な戦術を採るなどということは、よもやあるまいと考えたというしかありません。信長自身も、上洛戦から北陸戦をみても、主要な支城を蛙とびに攻略しており、絨毯作戦などは採っていません。それは、後からの仕事としています。砦を捨てて逃げ去るか降伏しなければ、徹底的な略奪をするまでだからです。

ところで、『張州雑志』には「開基霊萼院殿前泉州刺史春江全芳居士。弘治二年丙辰年三月廿日卒。春江全芳ハ當郡小川ノ城主水野右衛門大夫忠政ノ弟也ト當寺ノ系圖ニ見ユ。忠政、右衛門大夫小川城主、天文十二年七月十二日卒、号大渓堅雄。忠氏、大膳後和泉守大高城主、弘治二年辰三月廿日卒、号春江全芳。」とあります。これを小生が推測するには、大高城主・水野大膳忠氏は刈谷水野氏を継承せんとしたことがあってを、「」に和泉守をも称したのだと思います。そうしますと、この大膳亮はその子・忠守も和泉守を名乗った可能性があることになります。そして、和泉守は刈谷城主の正統として通称十郎左衛門を名乗ることができたのです。………残念ながら、大膳亮忠氏が通称を十郎左衛門尉と名乗ったという証拠はまだありません。

 

8. 尾三国境を『三河海東記』で読めば・・・

『三河海東記』には、「天文十九年五月吉日を改、(中略)松平蔵人元康公となり、(中略)同年八月十六日註 御父弘忠公御病死。(中略)去程に信長家臣佐久間甚四郎と云者、尾州大高の城に押シ寄セ攻メ取ルに、兵甲斐無き者共にて、逆茂木一重破リ捨テ、城中ニ切リ入リ、究竟の兵共廿五人討取リしかば、士卒は残ラズ駿河にぞ引キ退ける。<元康公御出張之事>已に今川大高城攻られ崩し候故、三州押として元康公岡崎へ再び返城仰付けられけり。」とあります。

この記事からみますと、天文十九年八月十六日以後で弘治四年の元康岡崎帰還以前に、大高城が織田方に攻略されていたという記事なのです。そして、時期のことなどよりももっと問題なのは、その時攻め取られた大高城には駿河兵がいたと云うことです。これは、大高城主は美濃斉藤・三河松平と織田信秀包囲網を築いており、大高城は松平氏との関わりから今川氏の応援を得ていたということになります。

そして、『豊明市史/今川義元判物・手鑑』という史料には、「沓掛・高大根・部田村之事。右、去六月福外在城以来、別令馳走之間、令還付之畢、前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、并近藤右京亮相拘名職、自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件。天文十九、十二月朔日。治部大輔(花押)丹羽隼人佐殿」 としており、義元は福谷の丹波隼人佐に愛知郡沓懸・高大根・部田・大脇・知多郡横根を安堵していますから、天文十九年(1550)時点の駿河勢が大高までも味方につけていてもおかしくはありません。

享禄五年(天文元年、1532)四月一日、丹羽氏は松平家に属したと『名勝志』『東照軍鑑』にある。しかし、天文四年(1535)十二月の『守山崩れ』による松平家の崩壊により、丹羽氏も自立の道を歩み空き城同然の岩崎城を占拠。混乱に乗じて勢力を拡大していったと思われ、独立傾向を強めながらも、守山城の年寄衆として織田家に出仕していた。しかし、弘治元年(1555)六月に、織田信次の家臣が信長の弟・秀孝を誤殺するという事件があった。この際に織田信行の軍勢が信次の守山城を攻撃したが、氏勝の一族郎党は守山城の守兵に加勢している。また翌年(1556)に角田新五が新しく守山城に入った織田信時を殺害した時にも氏勝は角田に荷担している。『新修名古屋市史第二巻』によると、丹羽一族は岩崎・藤枝・藤島・折戸・矢野・本郷・浅田・赤池・傍示本・諸輪北・諸輪中城などの城主と伝えられる、天白川上・中流域におけるその勢力をうかがうことができるとしている。

『刈谷市史』によれば、天文十九年と言えば刈谷城が前年から一時今川氏に占領または駐留される事態となっています。ですから、今川勢が刈谷城を味方につけたときに、併せて大高城も調略または攻略した可能性があると考えることもできると思います。従って、佐久間甚四郎が大高城を攻略したと考えられるのは、天文十九年または廿年十二月五日以前のことになります。何故なら、「今度、山口左馬助、別して馳走ある可の由、祝着に候。然りと雖も、織備懇望ノ仔細候之間、苅谷ノ赦免ヲ令す。(後略)十二月五日」という義元の文書があるからです。そして、刈谷城が攻略されるのは安祥城が攻略された後でしょうから、十一月十日の今川・織田人質交換の後になるものと思われます。

天文十九年の冬頃に後奈良天王は女房奉書をもって太原崇孚に「駿河と尾張と和睦の事」を命じるのですが、雪斎は「おり折をみて」と回答したといいます。そう云うことがあったのに山口左馬之助が義元のために奔走して刈谷城が返還されることになったのは、織田方に奪われた大高城と交換したからだとも考えられるからです。そうでもなければ、何の見返りもなく刈谷城を返還した義元や太源雪斎の意図が分りません。

安祥城の攻略では竹千代と信広の人質交換が成立したのですから、刈谷城を返すにも等価の交換条件が必要でしょう。『刈谷市史』がいうような「赦免の条件は当然のことながら、水野一族とくに信元・信近の織田氏との断交と今川氏への服属であっただろう。」というような生温いことでは、その後の今川勢による重原城攻めから村木砦の奪取など、和平交渉成立の直後から水野信元を対象に攻め続けていること(信元が和平条約を反故にしたと云うこと)をみると、今川方の全面的な譲歩であったことになります。これでは、何とも甘い判断であったことになりますので、そのような評価には疑問があります。

ところで、『三河海東記』には先の記事の後に、<戸部新左衛門難死之事>の条があります。そこには、「去程に永禄元年四月下旬に尾州知多郡大高の城に、信長家人佐久間甚四郎七十騎にて押寄、鬨を上げ矢叫声、山河崩るゝ計也。城には驚き追手に切て出、散々に戦ひけり。敵も切入突伏、半時計ぞ戦ひける。されども城には小勢なり。寄手は大勢、此ノ如ク真先に進む大久保五郎左衛門、渡辺忠左衛門、土居新左衛門、平岩七之助、天野清介、小栗又一、榊原小平太、本田吉衛門、柴田七九郎なんぞ命を捨て突入れける故、城方大半討すて、佐久間甚四郎は清須に引退ける故、此城にて兵粮之用意をし、飽くる春より松平蔵人元康公、足助・梅ケ坪・寺部・西尾・挙母、此城の先規之通り、御支配仰せ付けらる。」と書かれています。

これは、織田方から佐久間甚四郎が大高城に攻め寄せてきて、一頻り大高を強襲して清洲に引揚げたと書いてあり、大高城には松平党が応援に在城していたといっています。この逆、すなわち松平勢が大高城の佐久間甚四郎を追い出したわけではありません。大高城には鼻から松平勢が入っていたというのです。そして、『三河物語』と『関野済安聞書』は永禄元年(1558)に大高城への兵糧入れを行ったと言っているのです。

この様ですと、大高城は天文年間に一度織田方に奪われて、それを奪回してからはずっと松平方にあったことになるわけですが、例え封じ込められてはいなくても、頻繁に田畑の刈り働き・踏み荒らしそして濫妨が行われていて、大高城周辺の知行地からは年貢を徴発できない状態であったと考えれば、度重なる大高兵粮入れも理解できます。………このようであれば、大高城が山口左馬之助に調略されて最後に今川方についたのは、天文廿二年に山口左馬之助が織田家を離反したときに誘われての事だということになるでしょう。それが永禄二年になると丸根を始めとして付城が築かれて、本格的な城攻めが始まることになります。

『奥平家伝記』は、「永禄二年、今川義元尾州大高の城を攻取、鵜殿長助を入置き候處に、織田信長より押へとして丸根村に取手を築、其外所々に要害をかまへ相守候故、味方通路自由に而大高の城兵粮乏しく難儀に及び候由注進に付、同年二月権現様御出陣、城へ兵粮を入候御下知の処に、御州備を出し是を妨げ申候、奥平貞勝、人数を以相戦、自ら敵に当り追崩し申候、此間に城へ兵粮御入れ被遊候、依之義元より貞勝方へ感状被遣候」と書きます。

『三河海東記』で復元した大高城の歴史は、これまで考えられてきたような安穏としたものではなく、激しい争奪の対象にされていたことになります。そして、今川武将の朝比奈筑前守や鵜殿長照などが入城して守備にはいる前には、松平勢が水野大膳の加勢に在番していたことになり、織田方では専ら佐久間甚四郎が攻略を担当をしていたことになります。一方で、水野信元は一切関わってはいないのです。

佐久間甚四郎については一切不詳なのですが。『三河海東記』でその事績を見る限りでは、佐久間左衛門父子とは明らかに区別されていることもあり、『信長公記』の初期に活躍する佐久間大学である可能性があると小生は考えます。佐久間大学は、当時の信長の武将の中でほとんど唯一「一手の将」として任せられる人物であったらしく、弘治二年(1556)八月には名塚に砦を築かせて守らせていますし、大高城攻囲戦では最前線である丸根砦の守将になって五人の与力を率いています。

このように考えた結果の結論は、大高城は最初から最後まで松平方(今川方)であったというわけですから、義元が何が何でも大高城に梃入れしなければならなかったのは、大高の水野大膳が味方であったからということになります。おそらく、那古野の今川氏豊時代からの誼があるからなのかもしれません。

 

9. 斎藤道三の手紙

斎藤道三の極めて興味深い手紙があります。

原文は、「其以後無音非本意存候、仍一昨日及合戦切崩討取候頸註文水十へ進之候、可有御伝語候、其方御様躰雖無案内候懸意令申候、此砌松次三被仰談御家中被固尤候、是非共貴所御馳走簡要候、就者談近年織弾任存分候、貴趣自他可申顕候、岡崎之義御不和不可然候、尚期来信候、恐々謹言。九月廿三日/斎藤左近大夫利政/安心軒/瓦礫軒/玉床下」というものです。

これを小生が書き下しますと、「其レ以後、音(信)無キハ本意ニ非ズト存ジ候。一昨日、合戦ニ及ビ切崩シ討取リ候フ頸註文ヲ水十へ進之候ニ仍リ、御伝語有ル可ク候。其ノ方ノ御様躰ハ無案内ニ候ト雖モ、意ヲ懸ケ申セ令メ候。此ノ砌リ、松次三ニ談ヲ仰セラレ、御家中を固メラルルコト尤ニ候(ハバ)、是非共、貴所ノ御馳走ガ簡要ニ候。就テ者、近年ノ織弾ノ存分ニ任セルヲ談ジ候(ニ)、貴趣ヲ他自リ申シ顕ワス可ク候(ハバ)、岡崎之義ハ御不和ハ然らず可ク候。尚、(返)信ノ来タルヲ期(待)シ候。」となります。

更に現代文に訳しますと、「あれ以来、連絡ができなかったのは私(斎藤利政道三)の本意ではありません。一昨日には(信秀らと)一戦に及び(是を)切り崩し討取った頸註文を水十(水野十郎左衛門)方へ差し上げますので、(安心軒と瓦礫軒の二人によって)かならず、貴殿(水野十郎左衛門)へお伝へするでしょう。そちら(水野十郎左衛門方)の様子(戦況・状況)については、能く承知していないのですが、気にかけております。(信秀が敗北したという)このような状況になったのですから、(岡崎の)松平次郎三郎と話し合いをなされて、水野家の御家中を固められることが道理ですから、是非とも、あなた方水野一族の領国では一族が一致団結して頂いて(信秀の背後を脅かすことに)努めていただくことが肝心なことになります。その様なわけですから、近年の織田弾正忠に思いのままにさせてしまったことについて話をさせて戴きますと、貴殿(水野十郎左衛門)のお考えを、私(斎藤道三)が代弁(代って明らかに)致しますならば、それはきっと、岡崎との関係を(絶対に)不和にしてはならないという事であると思います。ですから何としても、お返事あることをお待ちしています。」となります。

そうしますと、安心軒殿と瓦礫軒とを中継ぎにして水野十郎左衛門に討取った敵武将のリストと共に、道三の同盟の再構築の意思を水野十郎左衛門に届けようとした手紙であることがわかりました。つまり、斎藤道三は安心軒と瓦礫軒を通じて、水野十郎左衛門に水野一族の結束を図ってもらって、かっての斎藤・水野・松平同盟を再構築することを働きかけていることになります。………これが、この手紙の趣旨であって頸名簿は、それを補強するための小道具なわけです。

 

10. 長井久兵衛の手紙

道三が安心軒と瓦礫軒に託して水野十郎左衛門に手紙を送ってから二日後、今度は道三の重臣・長井久兵衛秀元が手紙を送っています。道三が家臣に命じて再度の便りを今度は、水野十郎左衛門本人に宛て直接送っているわけですが、これは二度も同じ内容の手紙を出すこと、つまり催促しなければならないことは、沽券に係わることですから避けたわけです。そして、重複している場合を考えて、更に詳しく事情を説明しています。

原文は、「先度以後可申通覚悟候処、尾州当国執相ニ付而、通路依不合期、無其義候。御理瓦礫軒・安心迄申入候、参着候哉。仍一昨日辰刻、次郎・朝倉太郎左衛門・尾州織田衆上下具足数二万五六千、惣手一同至城下手遣仕候。此雖無人候、罷出及一戦、織田弾正忠手へ切懸、数刻相戦、数百人討捕候、頸注文進候、此外敗北之軍兵、木曽川へ二三千溺候、織弾六七人召具罷退候。近年之躰、御国ニ又、人もなき様ニ相働候条、決戦負候。年来之本懐此節候。随而此砌、松三へ被仰談、御国被相固尤存候。尚礫軒演説候、可得御意候。恐惶謹言。九月廿五日/長井久兵衛秀元/水野十郎左衛門殿」というものです。

小生の高校漢文・古文の知識で書き下しに挑戦しますと、「先度以後、通シ申ス可ク覚悟候処、尾州ト当国ノ執相ニ付キテ、通路ノ依ルニ合ハザル期(ナレバ)、其ノ義無ク候。御理リヲ瓦礫軒ヨリ安心迄申入候ガ、参着候哉。此チラ人無ク候ト雖モ、罷リ出テ一戦ニ及ビ、織田弾正忠ガ手へ切リテ懸リ、数刻(バカリモ)相ヒ戦ヒ、数百人ヲ討捕リ候(ハバ)、頸注文ヲ進ミ候。此ノ外ノ敗北之軍兵ハ、木曽川デ二三千(バカリモ)溺レ候(ハバ)、織弾ハ六七人ヲ召シ具シテ罷リ退キ候。近年之躰、御国ニ又人もなき様ニ相ヒ働キ候条(ナレドモ)、決戦ニ負ケ候(ヘケレバ)、年来之本懐ハ此ノ節ニ(コソ)候(ベシ)。此ノ砌リ、随ヒテ、松三(松平次郎三郎)へ仰セアリテ、談シナサレ、御国ヲ相固メルコト尤ト存ジ候。尚、(瓦)礫軒ガ演説シ候(ニヨリ)、御意を得可ク候。恐惶謹言。」となるかと考えます。

小生の現代語訳は、「あれ以来(万難を排して)連絡しようと思っていたのですが、尾張国と当国美濃とでは互いに確執があって戦が続いていますので、道が使用できない時期が続いており、連絡することができませんでした。このような事情(理由)を瓦礫軒から安心(軒)迄お伝えするようにしていたのですが、(先の書状は)到着しているでしょうか。(到着していないと困りますので改めて申し述べますが、)一昨日の朝方八時頃から、土岐次郎を支援する朝倉太郎左衛門(宗滴)および尾張の織田軍らの将兵が二万五、六千人。その全軍が一緒になって井口城下にはるばる来襲しました。こちらは寡兵ではありましたが、出撃して戦いまして、織田弾正忠の部隊へ切りかかって数時間の戦闘におよびまして、敵勢を数百人を討ち取り捕虜にしましたので、その首級リストをお送りしたのです。また、このほか敵の敗残兵は木曽川へ逃れて、そこで二、三千人が溺れる有様でしたので、織田弾正忠は六、七人を従えるばかりになって敗退して行きました。ここ数年、信秀の勢いは、貴国に対してもまた、傍若無人に侵略していましたが、信秀が決戦に負けたのですから、長年抱いてきた本望を果たすべきは将にこの時です。このような情勢ですから、私しの申し上げた事を松平次郎三郎(弘忠)へお話しなされて、以前の同盟を回復なされることを話し合って下されたうえ、貴国では一族団結して守り固めるのが大切だと考えています。さらに瓦礫軒が安心軒殿に当方の存念を詳しく申し述べますから、きっと貴殿の賛同を得られることと思います。」とします。

緒川では、遅くとも天文十二年七月十二日に水野信元が家督を継いでからは、織田方につくと旗幟を鮮明にしていたのですが、刈谷・大高の水野一党は必ずしも帰属が明らかではなさそうです。刈谷などは松平広忠に離縁された於大がその領地を通過するのに安全であり、緒川の兄・信元は暴虐な人物だということを話す逸話があるほどですから、未だ親松平であったらしく思われます。

瓦礫軒と安心軒との関係についてこの書状では二か所に記事があります。それに、前回の道三の手紙の宛名には、「安心軒/瓦礫軒」という順序で書かれていました。以上のことから考えますと、前回の手紙の序列では安心軒の方が瓦礫軒より上位に書かれていましたのに、今回の文書の中では、「御理瓦礫軒礫・安心迄申入候」と順番が入れ替わって書かれていますから、これは瓦礫礫軒と安心軒の両人にという意味ではなく、瓦礫軒から安心軒に申し入れるという意味になるのだろうと推測します。

さらに、水野十郎左衛門に道三の真意を開陳するのに、安心軒が出てこないのをみますと、瓦礫軒が安心軒に話して聞かせ、それを安心軒が十郎左衛門に伝えるのだろうと思えます。この推測が正しいとしますと、瓦礫軒が美濃、安心軒が尾張に居住している可能性が高くなります。二人もの人を間に立てているからです。つまり、美濃の住人が戦争中の敵国を法体といえども自由には通行できないことから、二人して互いに守護不入の寺内町で密会する必要があったのでしょう。では、なぜ瓦礫軒が美濃で安心軒が尾張かと考えたかといいますと、二日後の書状で「御理瓦礫軒安心迄申入候、参着候哉。」とあるからです。

因みに、【軒】は雅号であり、著述家・画家・書家などが本名以外に付ける風流・風雅な別名なのですが、主として禅宗の寺で使われていたもので修行中の身という意味でしたから、これは実際の僧ではなく、出家した武士ということだと思います。この様なわけで、この書状は挨拶状でも自慢話でもなく、道三の決意を披瀝して同盟を再構築しようと申し込んでいるわけです。つまり、これは閑人の挨拶文などではなく、熾烈な外交交渉のための書状なわけです。

 

11. 織田信秀の手紙

水野十郎左衛門のもとへ手紙を送っているのは斎藤道三だけではありません。織田信秀も送っています。と、言うよりも、十郎左衛門の方から気を使って手紙を出したことへの返事なのですが。

原文は以下の通りです。

此方就在陣之儀、早々預御折帋、畏存候、爰許之儀差儀無之候、可被御安心候、先以其表無異儀候由、尤存候、弥無御油断、可被仰付儀肝要候、尚林新五郎可申候、恐々謹言、閏十一月十一日/信秀/水野十郎左衛門尉殿/御返報

書き下しは、「此ノ方ノ在陣之儀ニ就テハ、早々ト御折帋ヲ預リシハ、畏ク存ジ候。爰許之儀ニハ差儀之無ク候(ハバ)、御安心ナサル可ク候。先以ッテ其ノ表ニ異儀無キ候由、尤ト存ジ候(ハバ)、弥御油断無ク仰セ付ケラレ可キ儀ガ肝要ニ候。尚、林新五郎が申ス可ク候。」とします。

そして、小生の現代語訳はといいますと、「こちらでの軍事動員についての件(出陣の編成をしている)ですが、早々と(加勢の由、)手紙をあずかりましたことは恐縮です。こちら対美濃方面は、大した事ではありませんので(参陣の心配をなされなくても、)ご安心なされて結構です。(兵力は間に合っています。)まずは一応、そちらの対三河方面では異変がないと云うことは、(貴殿が宜しく働いてくれているようですから、)当然のことであると思っています。ですが、いよいよご油断のないように家中に指示していただくことが肝要です。なお、詳しいことは林新五郎が申し上げることになっています。」となります。

面白い事に、信秀と十郎左衛門の場合には取次を必要としていません。これは、美濃斎藤氏との場合のように、間に戦争中の土地を通らなく済むからだと考えられます。そうしますと、安心軒と瓦礫軒とは禅宗の出家という立場で、互いに敵国の禅寺境内の中で密書の遣り取りをしたように思えます。おそらく、法体といえども出家でなければ、戦争中の敵国を通り抜けて、敵の背後にある同盟国へ入国することはできなかったのだと考えます。そう考えますと、やはり、安心軒は水野十郎左衛門の取次であり、瓦礫軒が美濃斎藤方の取次であったように思えます。

十郎左衛門が信秀に送った手紙は、「折帋(紙)」とありますから公式文書としての内容を持っていたものと考えますと、小生が訳しましたように「助勢の軍勢として出陣しましょう」という申し入れであったものと思えます。このときの信秀の出兵は、『信長公記』には十一月上旬、斉藤山城道三が大垣城を囲むという記事がありまして、この十一日付けの書簡の後の十七日に出兵して竹が鼻に放火し、茜部へ働き、道三を井口城に引揚させています。将に、「魏を囲んで趙を救う」の計です。

さて、以上のような事があったことからみますと、やはり道三への返事は、催促を受けても十郎左衛門は出しはしなかったろうと思います。

 

12. 鵜殿長持の手紙

受取人の安心軒はこれまでの書状の往来からみて、水野十郎左衛門の取次になっているらしいことが窺われますから、この書状を受け取ることになった原因となった書状を鵜殿長持に送ったのは、水野十郎左衛門であると云うことになりそうです。

信秀と今川氏との和議が話し合われたのは、安祥城が攻略されて織田信広と松平竹千代が交換されたときがありますが、このときは極めて短期間で和議が調っていますから、この鵜殿長持の手紙はそれ以後のことで、おそらく刈谷城が今川方に奪取されたときの外交交渉のときのことだと考えられます。従って、天文十八年十一月十一日以降のことだとしますと、この書状は天文十九年か廿年のことであるとか考えてよいと思います。さて、そのような和平交渉(それを望んでいるのは、仕掛けた側の今川方だけの事かも知れません)の最中に、信秀は敵方の「飯豊」といわれる人物に書状を送ったようです。

この飯豊なる人物に相当すると思われる人には、遠江曳馬城主で飯尾豊前守乗連とその子・連竜(ツラタツ)といい、先祖は室町幕府の奉公衆であり、今川義忠の代に駿河に下向して、以来代々今川氏家臣として仕えていた武将がいます。

原文は次の通りです。

貴札委細拝見申候、仍信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候、我等預り置候。惣別彼被仰様、古も其例多候。項羽・高祖之戦、支那四百州之人民煩とて、両人之意恨故相戦可果之由、項羽自雖被打向候、高祖敵之調略非可乗との依遠慮、果而得勝事、漢之代七百年を被保候、縦御一札飯豊披見候共、御計策ニ者同意有間敷候哉、但駿遠若武者被聞及候者、朝蔵・庵原為始、可為其望候哉、此段之事候へ者、去年以来拙者存分不相叶事候間、兎ニ角ニ御無事肝要候、武新二前被申様ニより、重而談合可申候。恐惶謹言、三月廿八日、鵜殿長持、安心、参、御報

まずは、小生の書き下しです。

貴札(安心軒からの書状)ヲ委細ニ拝見申シ候。仍リテ、信秀より飯豊へノ御一札、率度、内見仕リ候ハバ、然レバ、御され(戯)事共ナリ。只今、御和儀ノ申シ調ヒ度ク半ニ候ノ事ニ候条、先ズ飯豊へハ遣ハサズ候ヒテ、我等預り置キ候。惣別、彼(信秀)ノ(書状の中で)仰サレ様ハ、古も其ノ例ハ多ク候。項羽・高祖ノ戦ヒハ、支那ノ四百州ノ人民ノ煩とて、両人ノ意恨故、相戦ヒニテ之ヲ果ス可ク由、項羽は自ラ打向ハレ候ト雖モ、高祖ハ敵ノ調略ニ乗ル可キニ非ズとの遠慮ニ依リ、果シテ勝ツ事ヲ得テ、漢之代ノ七百年ヲ保タレ候。縦ヘモシ御一札ヲ飯豊ニ見セラレ候共、御計策ニハ同意有ル間敷ク候哉。但シ、駿遠ノ若武者ガ聞キ及ばれ候ハば、朝蔵・庵原ヲ始メト為シ、其ノ望ヲ為ス可ク候哉。此ノ段之事ニ候ハバ、去年以来、拙者存分ノ相叶ハ不ル事ニ候間、兎ニ角ニ御無事ガ肝要ニ候。武新二ノ前に申され様ニより、重ネテ談合ヲ申ス可ク候。」

これからが、小生の試訳です。

貴(安心軒)殿からの書状を仔細に拝見いたしました。それから判断して、信秀から飯豊へ送られた書状を飯豊に渡す前にそっと見てみましたところ、そうしたならば、人を馬鹿にしたような挑発的な事が書き連ねてありました。現在は、(刈谷城を巡って織田信秀や水野信元)との和議をまとめるのに道半ばにようやく至ったかどうかという状況なのですから、(飯豊がこれを見て怒り出すといけないので、)まず飯豊へは渡さないようにして、私ども(奏者である「長持の元」でということで、義元幕僚の元へは上げないという意味)の方で預かって置きます。万事につけ、信秀がその書状の中でおっしゃられるようなことは、昔もその様な例は多くあります。(珍しいことではありませんから、取り立てて大騒ぎするほどの事はありません。)中国では項羽と高祖の戦いで、中国の四百にのぼる国々の人民が迷惑したのは、両人のいがみ合いが原因なのだからといって、その大元の原因である遺恨を取り除くには戦いで決着をつけねばならないという訳で、項羽の方は攻撃をしかけていったのですが、高祖の方は敵の手に乗って戦争をする可きではないとしたその深慮によって、戦いを避けることで、結局は勝ちを得る事ができ、漢の王朝七百年を保つことができたのです。例えもし、信秀からの此の手紙を飯豊に見せたからと言って、飯豊も信秀の計略に乗せられて(挑発されて)戦争を始めたりはしないでしょうよ。しかしそうはいっても、駿河や遠江の若者輩が、信秀からの便りがあったという事を聞き及ぶことにでもなれば、朝蔵・庵原を始めとした血気の主戦論者の思う壺になり、交渉打ち切り即開戦という事になるでしょう。そうしますと、和平交渉がいまだ道半ばの状況の時なのですから、去年からの私(長持)の想いがかなわなくなってしまいます。ですから、兎にも角にも平穏無事であることが肝心なのです。武新二が前に話しておられた条件によって、これからも和平の話し合いを勧めたく思っています。」

この安心軒からの「札」は信秀から飯豊への一札に添付されたものであったと小生は考えるのですが、ここに何が書かれていたかが問題になります。穿った見方をすれば、信秀から飯豊への一札を密書と見做して、それに気がついた安心軒が鵜殿長持に御注進に及んだというでしょうが、それはありません。長持は委細に読んで添状の意味をとりかねて困惑しているからです。ですから、信秀の書状は秘密裏に運ばれた密書などではないはずです。

【戯れ事】は、ふざけた事だといいますから、飯富を侮蔑する言葉が書き連ねてあったのだと思われます。それが「戦国武士の一分」を甚(イタ)く刺激するものであったということです。それが、公然と(折紙)送り付けられたのですから、飯富は即座に一戦に及ぶ姿勢を表明することになるでしょうし、それは血気に逸る若者輩に支持されて、今川方陣内は一気に主戦論者が大勢が占めてしまうことになるものと思えます。

ところが不思議なことに、今川家の重臣でもある鵜殿長持は「去年以来拙者存分不相叶事」と言っており、そのような戦争に突入する事を望んでおらず、和議の締結に向けて尽力しているのです。ここまでの今川方は刈谷城までも味方につけていて、織田方に対して今川勢は絶対的に優位にあるのにです。何故でしょうか?

ところで、水野十郎左衛門の取次である安心軒も和平を望んでいるようなのです。………ということは、水野十郎左衛門にとっても早急な和平が必要な状況にあって、後に刈谷城を返還しても達成しなければならないほど重要なことであったらしいということになると思います。それを考えますと、この十郎左衛門は刈谷水野氏でも緒川水野氏でもあり得ません。緒川水野氏は刈谷城を奪い返したくはあっても、お願いすれば返還してもらえるなどとは考えたほど甘ちゃんであったとは思えないからですし、刈谷水野氏にしても今川方が明らかに劣勢にならなければ、織田方には帰りたくはなかったでしょうから………。

では、実力で奪い返さず、交換しようとしたならば、刈谷や小河の水野氏および同盟者である織田信秀は、安祥城の戦いで竹千代と信広を交換したような「何か」を持っていたはずです。何もなければ戦って奪い獲るしかありません。

当時、元は今川または松平方のものであって、現在は織田方に奪われてしまっていて是非とも取り返したいというものには、那古野城、次に守山城があります。そして水野大膳が今川方に与していたならば「大高城」が考えられるのです。つまり、この書状からは、今川方に与しているらしい水野十郎左衛門が水野大膳であり大高城主であって、織田方に大高城を占領されていることが窺うことができるわけです。

 

13. 今川義元の手紙

そして、先の鵜殿長持の手紙を裏付けるかも知れない手紙を今川義元が書いています。

今度、山口左馬助、別可馳走之由祝着候、雖然、織備懇望子細候之間、苅谷令赦免候、此上、味方筋之無事無異儀山左申調候様両人可令異見候、謹言、十二月五日、義元(花押)、明眼寺・阿部与左衛門殿

これを豊明市史は次のように書き下しています。

今ノ度、山口左馬助、別シテ馳走ス可キノ之由祝着ニ候。然リト雖モ、織備懇望子細候之間、苅谷ヲ赦免セシメ候。此ノ上ハ、味方筋之無事、異儀ノ無ク、山左ガ申シ調ヘ候様、両人異見セシム可ク候。」

この文書は、一般には「山口左馬助が今川方のために働いてくれた」と過去形に考えて、義元は左馬助のしてくれた事に謝意を表明しているように考えるようです。しかし、「可」という文字には過去形はありません。それは推量であれ確信であれ決意の意味であれ現在形の詞なのです。ですから、義元が喜んだのは左馬助が仲介の労を取ることになったことに、安堵と期待を示したことになるはずです。

また、「雖然」という詞は、逆接の仮定条件を表していますから、それに続く言葉には「別馳走」「祝着」という良い条件とは反対の「悪い条件」が来なければならないはずです。ところが一般には「織備が懇願」してきたという今川方優位の状況があるように訳すようなのですが、それでは意味が通りません。

なぜ織田信秀が義元に懇望しなければならないのでしょうか?信秀は、この戦国の時代に敵に懇願すれば、奪われた城が帰ってくると本気で思っていたとでもいうのでしょうか?………そんな訳はないでしょう。実力で持って奪い返すほかありません。だからこそ、鵜殿長持の書状での信秀は頗る好戦的なわけです。それ以外にはありません。そこで小生は次のように訳します。

この度、山口左馬助が織田方との和睦交渉に対して格別に骨をおってくれることになったという事は、喜ばしいことです。例えそう(当方にとって有利なように一歩前進したよう)であるとは言っても、織田信秀が頑強に譲らない要求(懇望)という差障りが残っていますので、刈谷を許(返還)してやるようにと指示しました。このように決定した以上は、当方に味方した刈谷の人々の身の安全に問題が起きない(責任を問うて危害を加えたりすることのない)ような条件で、山口左馬助が調停を進めるように、両人から左馬助に話をするように両人に申しつけます。」

ここに義元が刈谷を返還する対価となった「信秀の懇望」が大高城との交換である可能性があります。義元はその実力で大高城を奪い返すことは可能なのです。しかし、信秀が大高城主をも人質にしており、刈谷城と交換することを懇願していると解釈するのです。

………それには大高城が織田方に攻略されていなければならないのですが、それをいう史料もなくはないのです。『三河海東記』がそれです。そこでは天文十九年に信長家臣の佐久間甚四郎が大高城を攻め取ったとしているからです。

そうしますと、『信長公記』に「大高の城・沓懸の城、両城も、左馬助調略を以て乗っ取り」とあるのは、義元書状がいう「苅谷令赦免」のことであるとも考えられます。

 

14. 水野十郎左衛門尉への手紙

これから話題にする書状の最大の問題は、その書かれた「年」です。『豊明市史』などでは「永禄三年歟」とされているようですが、これについては、去年十一月廿七日付けの「水野十郎左衛門尉」で永禄二年のことであろうと小生は結論しましたが、ここまでの六通の書状を見た現在でもそれに変わりはありません。

原文、「夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言。
四月十二日
義元(花押)
水野十郎左衛門尉
(内閣文庫所蔵「古証文」では水野甚左エ門殿」

次は、『豊明市史』の書き下しです。

夏中ニ進発令シム可ク候条、其ノ以前ニ尾州境ノ取出之儀ニツキテハ、人数差遣ハスコト申シ付ケ候。然ラバ其ノ表之事、弥々馳走祝着たる可ク候、尚ホ朝比奈備中守ガ申ス可ク候。」

次も小生の現代語訳です。

夏のうちに(駿河遠江の)軍隊を出発させようと考えている件ですが、その前に尾張との国境の砦を処置する件については、(三河から)兵士を派遣することを命令してあります。
「そのような訳(状況であり、手段を講じました)ですから、そちらの尾三国境の戦線に於いては、きっと(貴殿が)益々奮闘されているだろうと推察されますことは喜ばしい事です
。」

『豊明市史』などはこれを永禄三年の事とみますから、義元自身が出馬する意味に捉えることになります。
しかし、太源雪斎や朝比奈備中守に軍を預けて出陣させたとしても、「進発せしむ」というと思いますから、この文だけで永禄三年の文書であるとは言えるとも思えません。
但し、後ろの「人数」と区別した詞「進発」を使っていますから、やはり本国の駿遠の軍隊を派遣することだけは間違いないものと考えます。そうしますと、「人数」の方は岡崎城番が支配している西三河の兵士だと思われます。

ところで、ここでは先ず、義元は十郎左衛門に、「益々奔走して欲しい」と期待を込めて書いたのか、それとも手紙ですから、「貴殿が、これまでも頑張ってきてきくれ、また、益々奔走してくれていることは、とても嬉しいことです。」と感謝の気持ちをこめて書いたのかを問題にしたいと思います。なぜ此のようなことを問題にするかといいますと、義元は本隊を発行させる前に「其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣」と云っており、根本的な問題の解決を図る前に、取敢えず十郎左衛門尉が現実に困っている問題の原因になっている付城に対しては、兵粮の搬入と籠城のための援軍を派遣することを約束しており、この手紙の主題は将に此処にあり、この以前に義元の許に出されたであろう十郎左衛門の手紙も、それを訴えていただろうと思うのです。

十郎左衛門の馳走は、現在までの進行形すなわち籠城して奮闘中なのであり、義元は決して将来の馳走=参陣に対して祝着候と云ったものではないと考えます。「もう少しの間頑張ってください」という意味なのです。そうでなければ、此の義元が手紙を宛てた水野十郎左衛門は、松平氏らに加勢して砦を救援している勢力になり、義元は松平勢に合力して兵粮搬入に加勢せよという手紙を書くものと思われるからです。………決して、信長の目を欺き密かに義元の来援を待っているようには見えません。「馳走」というのですから、過去にも現在も戦場で実際に働いているものと思えます。

さて、この水野十郎左衛門の正体ですが、もしこれが『岡崎市史別巻徳川家康とその周囲・上』のみるように、緒川城の水野信元であるとし、『豊明市史』が疑いながらも永禄三年の四月のことであるとするならば、なぜ僅か一ヶ月しかたたない後の永禄三年五月十八日に義元が大高城に兵粮を入れさせなければならない状態が生じたりしたのでしょうか。また、義元発向の前に大高城への兵粮搬入が実行されていなければならないはずです。そして、それはありませんでしたから、この手紙を永禄三年であるとうすることが間違っているか、十郎左衛門を信元に比定することが間違っているのか、それともその両方ともが間違っているかしかないように思えます。

そうしますと、尾三国境で城の取り合いをしている場所で、駿河勢が出兵し水野氏が関係しているのは、刈谷城・緒川城・大高城の三城しかありません。それに此の書状にいう「境ノ取出」が丸根や鷲津砦のことであれば、それは大高城しか該当するものはありませんから、十郎左衛門は大高城主・水野大膳であると推定することができると思うわけです。

このように、十郎左衛門は大高城主・水野大膳であるならば、天文十三年に斎藤山城道三が十郎左衛門に「松三へ被仰談、御国被相固尤存候」ということは、現在は織田方に鞍替えしたとはいえ、信秀が美濃表で大敗したことでもあり、それまでは親松平であったのですから、その信元を説得して、また昔のように反弾正忠家同盟を再建させて欲しいということを懇願したのであったとした方が筋が通ります。
そのためには、松平弘忠とも話あって、行き掛りは水に流してもらう必要もあるわけです。そして、それを依頼した相手というのは刈谷の水野藤九郎であるよりは、織田領に隣接していた大高の水野大膳であった方がより相応しく思えるのです。

さて、そうしますと、

今川義元が、鳴海城よりも大高城を優先して救出しなければならなかった理由も、自ずから明らかになります。それは、大高城が守りに弱かったからだけではありませんでした。
山口左馬助や戸田新左衛門を成敗してしまった今となっては、尾張国内において唯一の味方であるのが大高城だからです。
そして十郎左衛門はれっきとした「領主」であり、知多半島で寄親を任せることができる可能性を持つ人物なわけです。なぜなら、緒川・刈谷の水野氏が最後まで抵抗して亡ぼさなければならなくなっても、水野家の正統性を大高水野氏に継がせれば、知多郡(半島)は比較的容易に安定的に領国化できるからです。
また、信元や藤九郎が降伏してきた場合でも、十郎左衛門を首席に据えることで、水野家が一揆に奔ることを牽制できます。
この点、荷之江の坊主・服部左京介などとは違います。

そうだとしたならば、なぜ信長はそれに気が付かなかったのでしょうか。
気がついていたとしたならば、なぜ信長は鷲津・丸根の後詰に向かわなかったのでしょうか。

これは、やはり今川義元が大軍を率いているという情報に惑わされて、国境の小さな砦を一つづつ虱潰しにするなどという、凡そ非効率な戦術を採るなどということは、よもやあるまいと考えたというしかありません。
信長自身も、上洛戦から北陸戦をみても、主要な支城を蛙とびに攻略しており、絨毯作戦などは採っていません。それは、後からの仕事としています。砦を捨てて逃げ去るか降伏しなければ、徹底的な略奪をするまでだからです。

 

15. 今川義元の祈願文(削除 2008.02.15)

今川義元が伊勢神宮に祈願した書状があります。

志摩国人等依無道、奪取商旅之財宝、号関路横悩参宮之道者、寔以暴悪之至也。近有仮義元力欲追伐彼悪徒之輩、即差遣人数事、併国土安穏万民和楽之起本也、然者長官神人等、蒙神慮合其力、令治罰賊党、於遂本意者、為義元存知之地、偈仰神威停止諸関、就中所々御神領之事、於皆済之地者不及是非、近年且神納且未済之地者、以其一倍可奉納之、一向無沙汰之地者、以其年貢十分一可奉納之、其外之土貢者、警固之武士可為在国之下行、是折衷上古下世覇者之権道也。弥奉仰寔感加被之願文、仍如件。十一月廿六日、従四位下行治部大輔源朝臣義元(花押)敬白。伊勢太神宮御宝前

 

 

16. 水野藤九郎守忠そして藤四郎信近 

『刈谷市史』は、天文十九年三月六日付けで楞厳寺(リョウゴンジ)に元刈谷の田地を家臣である牛田源五守次が代理で寄進していることから、「刈谷城主水野藤九郎守忠は亡くなっているか、重病などで署判不可能の状態にあったのではないか」という仮説を提案しています。それは、天文十四年三月十五日付けで明眼寺に「小垣江の蔵屋敷寄進状」がありますから、この時期の刈谷城主は水野藤九郎守忠であったことは間違いないだろうとしています。

ところが、天文十八年の十一月十日以降に刈谷城は今川氏に占領(武力ではなく開城していた可能性が高い)されたとすれば、十九年三月六日付けで水野藤九郎守忠の代理として、家臣牛田源五守次に楞厳寺(リョウゴンジ)に寄進しているのですから、これを小生は、藤九郎守忠が戦死したのではなく、今川占領軍によって大高城主・水野大膳忠氏に家督譲渡をさせられた可能性を考えます。

なぜなら『張州雑志』に、「開基霊萼院殿前泉州刺史春江全芳居士。弘治二年丙辰年三月廿日卒。春江全芳ハ當郡小川ノ城主水野右衛門大夫忠政ノ弟也ト當寺ノ系圖ニ見ユ。忠政、右衛門大夫小川城主、天文十二年七月十二日卒、号大渓堅雄。忠氏、大膳後和泉守大高城主、弘治二年辰三月廿日卒、号春江全芳。」とあり、先に「大膳」、後に「和泉守」を称すと伝えているからです。

つまり、和泉守」は刈谷城主の正統性の象徴であるのですから、大高城主・水野大膳忠氏は大高城を息子織部正源忠守に譲るかまたは兼帯して、自らは刈谷城に乗り込んだものと考えることができると思うからです。

ところが、『三河海東記』によると、天文十九年に本拠の大高城を織田方に奪われてしまい、それと交換して奪回しなければならない破目に陥ったのです。そのため、大高城主忠氏は再び刈谷城を奪回したときに刈谷城主としての正統性が自分にあることを示すために、最後まで和泉守を名乗り続けたのだと小生は考えます。

つまり、大高城と刈谷城との交換協定が織田と今川との間でなったときに、

  1. 藤九郎守忠の男・信近がその息子・信近を信元の弟にし、
  2. 信近の子・信正(元茂)を信元の養子とするという刈谷水野家の家督相続がなされた
  3. 大高城主・水野大膳忠氏は、一時的に手に入れた刈谷城主を返還する
  4. しかし、大高城主・水野大膳忠氏は後日を期して、刈谷城主の正統性の象徴である和泉守を名乗るのを止めなかった

と考えるわけです。

なぜ、緒川水野家が江戸期にこんな系図の細工をしたかといいますと、刈谷城主・近守を緒川城主・信元の兄(忠政の嫡子)としただけでは、緒河水野氏を宗家として位置付けるには良いとしても、その孫にあたる信近に対して上位の支配権があるという正統性を持ちえないからです。そのため家譜では、信元は直近の弟であるとした信近をして刈谷の守忠の家督を継承したことにしたのだと思います。

しかし、その実態は刈谷水野家の正統な督継承者・信正(元茂)を養子にしたのであり、江戸期に緒川水野氏が出世していたため、系図上では守忠の実子・信近を態々信元の弟にしたのだと考えたいのです。系図では「父子を兄弟」とすることはないが、家督を継承した場合には「弟を兄の子」とすることはあるといいますから、逆に「兄の子を弟」にしてもいいのかな………と思うのです。

<消えた人物>

ところで、小生は、大高城主水野大膳亮は水野十郎左衛門であると主張しているのですが、桶狭間合戦で大高城が落城した後の水野大膳は何処に消えたのかという問題が残ります。

そこで、桶狭間の戦いを挟んで消えた重要人物に誰がいるかと考えますと、水野十郎左衛門と大高城主・水野大膳と緒川水野信元の弟・水野忠守の三人がいます。このうち、忠守は慶長五年に七十六才で亡くなっているのですが、事績は何も伝わりません。信元の直近の弟であるにもかかわらず、信元が信長に誅殺されたあとの緒川・刈谷水野家を統率した形跡が何もないのです。

『刈谷市史』は、「忠守は、おそらく信元の死後佐久間信盛に付属され、小河城にあって小川衆を統率していたが、信盛没落後は甥で惣領となった忠重に従ったであろう。」と推定されているのですが、忠重は三河一向一揆の折に家康の許に馳せ参じてからそのまま家康に仕えたとされているのですが、その忠重には信長に取り立てられるまでは大部隊を率いたような形跡は見当たらないと『刈谷市史』自らが書いています。………更に、忠守は忠重の兄なのです。忠重が忠守を追い超す理由には何があるのでしょうか。

一方、『東浦町誌資料編』はといいますと、天正三年十二月(1576年1月)に水野信元が死んだ後も、旧水野領(緒川・刈谷)では水野家が引き続き実質支配していたとしており、それは水野忠分が統率していたものとみているようです。しかし、天正六年十二月に忠分が戦死(1579年1月)した後は、誰が緒川・刈谷衆を組織していたのかは不明であるとしています。………この場合は、忠守・忠重という二人の兄を差し置いて忠分が家督を相続したことになるのですが、どうみても忠分自体が佐久間信盛の与力でしかなかったようでもあり、彼の確実な戦績は『寛政重修諸家譜』によると永禄元年(1558)の石ヶ瀬合戦と天正六年十二月八日に戦死した摂津有岡城攻めだけしかないのです。緒川衆を率いて一手を預かったという話、それ自体がありません。

また、忠守が緒川の高藪城にいたという根拠も明確にされているようには思えないのですが、『東浦町誌』に『天保十五年村方并寺院由緒書上』が紹介してあり、それに「緒川古城二。  一、古城跡一ヶ所、右は文明年中水野蔵人貞守築く所、貞信、同下野守清忠、同右衛門太夫忠政、同下野守信元の居城。只今畑と相成り古城とと唱え申候。  一、古城跡一ヶ所、右は足利時代竹内主計頭直道(惣左衛門)築く所、主計頭直玄(惣左衛門)迄五代居城、直玄は水野家に属して別屋敷に居住、直玄ノ子孫ハ今竹内孫右衛門と申して後、当所に居す。以後、水野織部正忠守、同備後守分長等の居城。只今畑と相成り字高家富(藪)と唱え申候」とあるところから、「水野忠守は兄信元が父水野忠政の跡を継いで刈谷城主となった後は、信元に代わって緒川城主となった」とか、「佐久間信盛治下の忠守は、緒川城には入らず家臣竹内惣左衛門の居館に住み、これを高籔城(緒川新城)と称した」という説が生まれてくるのかも知れません。

中には「忠分」を天文廿三年(1554)の村木砦の戦いに現れる「金吾」に比定する人もいるようですが、この戦いで緒川衆一千近くを率いることができる能力のあり功績もあげた人物が、信長の直属の家来でありながら、それ以後の上洛戦はもとより姉川の戦いにも、三方ケ原の戦いにも名前があがらないのですからとても信じることはできません。

 そこで、信元なき後の水野氏はどうなったのかを、佐久間信盛支配下に置かれた緒川・刈谷はどのように支配されたかという面から考えてみたいのでが、これを語るのは僅かに『家忠日記』にだけなのでして、そこでの忠分一家は緒川と山崎との両所に表れています。そして、ただそれだけです。

これをみますと、緒川・刈谷を支配した信元がいなくなって、さぞ混乱しただろうと考えるのは間違いだと思えます。小生は、そう考えるのではなく、当時の知多郡には国人領主が寄親になってくれなくても、十分に安定した領国経営がなされていたとみるべきだと考えます。つまり、寄親としての水野氏がいなくても、それ以下の与力らには何ら問題は生じなかったということで、それだけ在地に根ざした地侍・百姓が育っていおり、兵員の動員に何の支障の生じなかったということだと考えます。

 例えば、信元の衣浦水軍の水軍奉行ではなかったかとも思われる亀崎城(半田市)の稲生重政も、浪人すると師崎の千賀氏に客分として招かれているからです。(ここで、重要なことは天正三年時点での佐久間信盛が伊勢湾に水軍が重要であるとは思っていないことです。前年の第三次長嶋攻めで伊勢湾に大艦隊を編成したにも関わらずです。)

信長初期のこれら有力国人衆が粛清されたあとに、その与力・被官クラスの小領主たちが歴史の中心に踊り出てきている事実があるのです。逆から見れば、寄親クラスの武将に求められたのは、広域行政能力であり外交力であり軍団の組織・指揮能力になっていたように思えます。要するに、信長初期のこれら有力国人衆が粛清されたあとに、その与力・被官クラスの小領主たちが歴史の中心に踊り出てきている事実は、水野信元らの中世的な領国支配も実質的に解体されたものと看做すべきであろうと小生は思います。

水野忠分のように一千人規模の軍を率いる能力のない武将では、緒川衆・刈谷衆という行政単位などは任せられないということにもなり、佐久間信盛は水野家を解体して直接統治を目指したのであると思います。勿論、信長の意向です。つまり、織田信長治世の尾張国においては検地こそ実施できなかったものの、かなりの程度寄親クラスの武将は皆サラリーマン化することが徹底していて、その下の寄子クラスは彼ら寄親の支配も統制も必要しないほど安定した独自の地盤を持ち始めていたということになり、緒川水野家がなくなっても軍事動員には一向に困らないということを意味します。

ところで、『信長公記』は佐久間信盛を折檻した書状で、水野家家臣を全て解雇した旨を責めていますから、早くから信盛の与力であった忠分以外の多くの水野家臣は四散し、その多くが徳川家などに抱えられたものと思われます。また、佐久間信盛が如何に信長に武辺道に悖るといわれようと、長く信長の仕方を見習ってきたわけですから、信元の兄弟たちを追った後に、早くからの与力であったとはいえ忠分に対して、信元の持っていた強大な権力を相続させたは思えません。と云うよりも、信長が家督相続を許さなかっただろうと考えます。

そして次に『信長公記』が教えるのは、信盛が信元家臣団の直接支配に失敗したことです。信長は信盛を一方的に責めていますが、それは政治家としての結果責任を問うているのだと思います。所謂、ガス抜きを目的にしたスケープゴートにさせられたわけです。目的や目標が信長と同じだから良いと云うわけでも、それに向かって忠実に働いたからよいというのでもないのです。その地位にあり権力を預けられた政治家として、結果を出せなかったことを責めているのだと思うのです。それは、佐々成政が肥後経営の責任を秀吉にとらされたように、その急進的な施策に結果を出せなかったことが原因であるのと同じです。

さて、信長の折檻状は色々並べていますが、核心部分は次のようなものです。

  1. 小河かり(刈)屋(の水野信元の)跡職ヲ申し付け候ところ、先々(以前)より(の)人数(家臣が)これあるべしと思ひ候ところ、その廉(カタワラ)もなく剰(アマツサエ)、先方の者ども(水野の旧臣)をば、多分に追ひ出し、然といへども、その跡目を求め置き候へば、各(従)同前の事候に、一人も抱へず候時は、(知行地からの)蔵納(として)取り込み、金銀になし(換えてしまう)候事、言語道断の題目の事。
  2. 山崎註 に申し付け候に(任せたところ)、(そこで)信長(が)詞をもかけ候(目をかけた)者ども、ほどなく追失せ候儀、是れも是前の如く、小河かりやの取り扱い紛れたき事(同様である)。 

註 山崎城を佐久間信盛の本貫とする説もあるようですが、特にそれを示す史料もなく、この『信長公記』のが示すところから察するには、一般に言われるように加藤弥三郎が出奔した後に、信盛に与えられたとみるのが相当ではないでしょうか?従って、『桶狭間合戦記』で山崎真人が、「此時、愛知郡山崎は佐久間右衛門尉信盛が領地なれは、定て、山崎の城ハ信盛守るべし、殊に、信盛は織田家の長臣にして人数持ちと聞へたり。此ノ節、彼が弟佐久間左京ハ善照寺の砦の主将に命セられけれハ、信盛か年齢、尤(モットモ)、壮盛なるべし、今川家の来敵大軍にして、主君信長大切の軍、殊更ニ我領地手筋の場なり、この度に於イてハ別して、諸将を抽んでゝ先手を乞ひ望むべき事にして、己か居城に守り居るべき事にあらじ、然るに此合戦の初中後、信盛が行跡、諸伝記にも、古老の語伝にも其名みへず。(中略)終に其ノ名の見へざるはハ不審なり。」とするのは、事実誤認から生じた矛盾に対する疑問であるということになります。

以上の批難で実際に指摘されていることは、佐久間信盛が吝嗇であることなどではありません。実は、信長の要求した急進的な政策である寄親(緒川刈谷水野家)を排除してその寄子・与力を直接被官化することです。ところが結果は惨憺たるものなってしまい、それまでの中堅幹部をなした武将はみな家康の下などに再就職することになっただけに終わったのです。

こうした状況から小生が考えますと、忠守であろうと忠分であろうと、一人の人物が旧水野衆(緒川・刈谷・大高など)を預けられたとはとても思えません。まして、忠守が緒川にいたとしたならば、その兄をも弟忠分に支配させるなどということは佐久間信盛にとっても、統率上問題があったと思われますから、そのような愚は冒さなかったものと思います。現に、忠分は討死を遂げた有岡の陣においても佐久間信盛の配下として出陣していたのでしょうし、『信長公記』には交名も出てこないのですから、とても信元亡き後の緒川・刈谷衆を預かっていたとは思えません。一手の将の器ではないのです。

そこで、小生の仮説を披露しますと、この消えた三人は同一人物であると考えます。

水野十郎左衛門と大高城主・水野大膳忠守と緒川水野信元の弟・水野織部正源忠守の三人です。そして、おそらく此の織部正源忠守は水野忠政の子供、信元の弟などでは無いであろうと考えます。そうしますと、大部隊を率いた経験もない水野忠重が、兄忠守を差し置いて家康から召し上げられて水野家の家督を継ぐことになった理由が明確になります。それは、忠重が水野信元の弟中で最年長になるからです。

つまり、大高城主であった忠守は、十郎左衛門として信長・信元連合と戦ったのですから、桶狭間合戦後は徳川家康と共に岡崎に逃げ去ったわけです。ですから、家康が信長と和解どころか臣従に近い同盟をしてしまったとなっては、「十郎左衛門」の名も「和泉守」も名乗るわけにもいかずに、家康に飼い殺しにされて消えてしまったわけです。そうであれば、当然のこととして忠守が緒川水野家を継承することはありませんし、家康が信長と同盟してからはお手伝いの戦場に出ることもできません。これが、忠守が慶長五年までも長生きしても活躍が出来なかった理由です。つまり、今川義元の許に信玄と家臣らによって売られた武田信虎と同様な運命を辿ったことになるわけです。

家譜類は、忠守は小河城主で信元と共に信長に仕えたが「ゆへありて」城を立ち去り家康に仕えたといい、一般には、このことを天正年間のことと考えるようなのですが、小生は之を永禄三年の桶狭間合戦での大高城落城に際して立ち退いたことを云うのであると考えます。

これで全ての問題が片付いたわけではありません。まだ問題がいくつか残っています。

  1. 刈谷水野氏は今川勢が村木砦を攻略して補強にかかったとき何故傍観したのか。
  2.  信長・信元連合軍が村木砦を奪回に動いた時にもなぜ傍観していたのか。
  3. 桶狭間合戦の終了後になぜ岡部元信に易々と城主信近が討取られたのか。

これに対する唯一の合理的な解釈は、「刈谷水野氏は、今川・織田の両方から中立であることを求められた」のではないかということです。そして、刈谷水野氏は律儀にも契約を履行したわけです。今川方が信元を攻めようが、織田方が今川方を攻めようが紛争の外に在り続けようとしたわけです。現に、村木砦の攻防戦、蟹江城への中入り、数次に渡る大高城攻防戦などの何れの戦いにも参加していそうもないのです。 

 何故、そのようなことが可能なのでしょうか。

どうも刈谷水野氏は普通の戦国領主のようではなさそうです。まるで、東大寺が支配した兵庫関、石山本願寺や十楽津桑名や伊勢湊・堺湊のような感じを受けます。そういえば大浜湊も度々織田方に攻められているのですが、織田方に向けて攻撃の兵を出したようにも思えません。多くの湊は、複数の有力者が合議制で共同統治をしているのですが、戦国期の大浜は称名寺が支配していたといわれるように、刈谷湊は水野和泉守が支配していても、というよりも、支配していたからこそ刈谷水野氏は戦国領主化できていなかったのではないのでしょうか。

もしかすると、戦国期の刈谷城も城館の域を出ない物であったのかも知れません。『東浦町誌』によりますと、和泉守近守は、連歌師柴屋軒宗長が永正二年(1505)から大永七年(1527)の間に五度もその刈谷館に訪れており、その都度莫大な餞別を宗長に与えるほどの財力を有していたといいますが、戦国真っただ中においてその領国を拡大しようとした形跡は少しも見えません。衣浦湾の湾口を押さえる三河湾最大の湊である大浜湊を支配下に置こうとした形跡すらないのです。

このように考えますと、刈谷水野氏は戦国大名化することに極めて遅れていたか、または完全に「武装商人」化していたかである極めて特異な存在ではなかったかと思われます。つまり、熱田の加藤家のようなものです。それが、専業武士である緒川水野家の歴史の中で語られるものですから、誤った印象を与えて続けてきたのではないのでしょうか。

そうしますと、桶狭間合戦後に岡部元信に簡単に討たれたことも理解しやすくなります。つまり、商人でもある刈谷城主信近は、戦争が終わって、顔見知りである鳴海城にいた岡部元信が無事に駿河へ帰還できるというので、迎えに出たのではないかと考えるのです。そうでもなければ、戦国時代真っ盛りのなかで城主が城外で宴会をしているわけがありませんから、城外で討たれるわけもありません。どのような史料も詭計をもって城門を開けさせたというような伝えはないのです。城を乗っ取ったのは伊賀、甲賀の忍十人に軽卒百人を率いて刈谷城に浜側からだといいますが、城主信近は自ら城を出て城外で討たれているようなのです。

 

17.伊勢神宮への手紙(関口氏純) (削除 2008.02.15)

さて、以上のように考えてきますと、昨今いわれる今川義元の伊勢湾岸経済圏の支配を目的としたという発想は疑問視せざるを得なくなります。

(2008・07.17 挿入)

  1. 註:元亀三年(1572)壬申十月十八日の野間大御堂寺文書にある水野十郎左衛門尉は、(1)水野信元の養子である元茂(信政)であるとされていることと、(2)緒川水野氏の祖とされている水野貞守が九郎次郎十郎左衛門蔵人と名乗ったということから、十郎左衛門尉というのは水野家当主の正統を主張するために持ち出されたものであるとし、従ってその間にいた信元もきっと十郎左衛門を名乗ったに違いないと推測したりするわけです。………刈谷城主の正統な官名が「和泉守」であり、現当主の名乗りである「藤九郎」を超える刈谷水野氏の正統な名乗りが「十郎左衛門」であると仮定したうえで、もし信元が十郎左衛門をも名乗ったとしたならば、それは信元が刈谷を兼帯することになる桶狭間合戦で信近が岡部元信に討たれてから後のことになるとするのが妥当なのではないのでしょうか?
  2. 元茂は養子であり、その実父は信元の弟である藤四郎信近なのですから、信近が刈谷城主になった段階で藤九郎を受け継いだだけでなく、「和泉守と十郎左衛門」をも受け継いだ可能性は大きいものと小生は思います。何故なら、大高の水野大膳が和泉守を名乗り続けていることへ対抗するためだからです。それならば、元茂が十郎左衛門を名乗るのは刈谷城主であった実父の名を継いだということになるものであると小生は考えます。
  3. 『寛政重修諸家譜』には、信元は藤七郎四郎衛門、下野守を名乗るとあって、十郎左衛門はありません。
  4. 水野十郎左衛門なる人物は織田信秀とも書状の遣り取りをしておりまして、その時には「林新五郎可申候」と返書を出しているのです。その林新五郎すなわち織田信長の壱のオトナである佐渡守秀貞として知られる人物が、直接十郎左衛門に面談している事実があるのです。つまり、織田方の幹部武将の間では有名な人物であり、信長も十郎左衛門の正体を知っていることになるわけです。………ですから、十郎左衛門が「信元」である可能性は少ないのです。離間策として今川方がこれを種にしないはずがないからです。
  5. 水野十郎左衛門には、斎藤道三も書状を出しておりまして、それには「岡崎之義御不和不可然」とあります。それを補足した道三の重臣・長井久兵衛の手紙には「決戦負候。年来之本懐此節候。随而此砌、松三へ被仰談、御国被相固尤存候。」ともあります。此の時期の水野信元は織田信秀と同盟しており、信秀が敗れたことを喜んで「年来之本懐此節」というような遺恨はないはずです。ですから、水野一族のうちで信秀との同盟に反対して、三河の松平氏と再提携して水野一族の再結集を図ろうとする勢力は、刈谷や大高の水野氏でなければ居ないはずです。
  6. 義元の手紙には「馳走可為祝着候」と書きます。「」とあるからには、この書状以前に義元の眼に見えた形での働き=貢献があったということになるわけですが、一体、信元は信長に対してどのような攻撃なりサボタージュをしたというのでしょうか?大高城の鵜殿は餓えているというのにです。 

18.大高〜緒川〜刈谷の関係を再考する (2008.05.27〜 追加中)

ここで、立ち止まって今一度整理して考え直してみたいと思います。

小生の立場は、

  1. 刈谷も緒川もその勢力は互いに入り乱れており、今日考えるような明確な国境で仕切られていたわけではない。将に、中世的な重層的「職」があったと考えます。
  2. 緒川の水野忠政が当初結んだ相手は松平信貞(岡崎松平)であり、忠政は足利義材(ヨシタネ)方として松平清康と対抗していましたが、その後清康との提携に乗り換えています。これは、中央政界の争いが地方に直接反映されなくなり、在地武力が地域の再編成に振り向けられた結果、緒川の水野忠政・信元父子による西三河(身内の刈谷水野氏)を支配することを目的にした一族内の下剋上に転化したものと考えます。
  3. 刈谷水野氏は、始めから親松平(今川方)であり、天文十八年(1549)には自ら城を開いて駿河勢を迎え入れたものと看做します。
  4. 天文十八年(1549)の此のとき、大高城主・水野大膳十郎左衛門が和泉守と称して一時的に刈谷城主に納まる事態が出現したものと考えます。
  5. 刈谷水野氏は自落であるのですから、「織備懇望」である安祥城奪回に対して、松平弘忠が期せずして暗殺されたことによる今川方の大義名分が失われた事によって急に生じた弱みを糊塗しようとした義元の強がりに過ぎないと思います。
  6. 織田備後守は安祥城を奪回するために大高城を攻略しました。それによって大高城の返還と刈谷城から駿河勢の退去による中立化する事という交換条件で和議が成立したものと考えることにします。
  7. 始めから味方である刈谷水野氏の如何なる不都合を義元が「苅谷令赦免」したのかという問題は、義元が赦免するのではなく、駿河勢が刈谷城から出るについて、織田方に刈谷城方の赦免を要請して、刈谷城を攻めることがないように求めたものであると考えます。
  8. 「織備懇望」が「苅谷令赦免」で双方の利害が一致して、刈谷を双方の緩衝地帯とすることで織田と今川の和睦がなり、刈谷城は中立を保つことになった。その結果、刈谷城は城主・信近が岡部に討たれるまで織田・緒川水野vs今川・松平の争いには一切顔を出さなくなります。………そのようなことが可能であった理由は、武装はしているものの刈谷水野氏は商人としての性格が強い、熱田の加藤家のようなものだったのではないかと考えるからです。刈谷水野氏には、三河湾随一の湊・大浜を併呑しようとした様子は見えません。
  9. 緒川水野氏と刈谷水野氏は「衣浦湾を経由する西三河の商権」を巡って早くから対立しており、信元は衣浦湾の支配を目指しており、河和戸田氏を味方に取り込むことに成功したのではありますが、知多半島に覇権を打ち立てたとまではとても言えません。………それは、村木砦の戦いに常滑水野氏も大高水野氏も動員できなかったことからも明らかです。
  10. 現在、忠政の嫡男とされている近信が別系統(刈谷水野氏の系譜)の刈谷城主・水野守忠の弟である場合には、信元の弟されている「信近」も近信の男ではないのかと疑うことも可能になると考えます。
  11. 緒川城主・水野信元が刈谷を兼帯するようになるのは、桶狭間の戦いの煽りを受けて刈谷城主・信近が討たれて刈谷水野氏の系譜が途絶えてからのことであると考えます。(現代に伝わる系図類などの註記は、誤解を招きやすいものだと考えます。)
  12. 従って、桶狭間の戦いが終決して、その後に信元が刈谷を兼帯するようになるまでは、刈谷は中立地帯ではあっても、終始変わらず一貫して親・松平であったことになります。刈谷城が松平・今川方に攻められた様子は、桶狭間合戦後に岡部元信に攻められるまでありません。
  13. このような経緯があるため、今川氏にとっての尾三国境南部での争点は以後、大高城の争奪に集約されることになるわけです。鳴海・沓掛は遠駿系の武将が守備していますが、大高城は一時朝比奈が入城下以外は三河武士が城番になっていまして、桶狭間合戦の時は松平元康が城番に任命されています。………鳴海城に対しては大高城と同様に付城を付けられていても、兵粮の搬入も将兵の増派も伝えられていないのです。今川氏にとっての問題児は大高城なのです。

まとめてみると以上のようになるのですが、まだ説明しきれていない問題もあります。

 

19.水野十郎左衛門信近  (2008.05.16〜 追加中)

此のたび水野氏研究会というブログの中に見過ごせない情報を発見しました。それによると戸田純蔵氏著『東浦雑記』には棟札に「水野十郎左衛門信近」と明記した棟札が存在するという記載があるというのです。

そこで早速、戸田純蔵氏の著作を読みましたところ、『東浦雑記p78』(1981)に、「入海神社奉造立御神殿壹宇/旦那衆伍貫文/水野十郎左衛門信近天文十三年甲辰十二月(忠政卆後翌年也)/二貫文仙千代 弘忠初名也/五十疋????/伍十疋源次郎/壹貫文御亀様/同 水野甚十郎妙家/三十疋水野甚十郎/二十疋同母儀/三貫七百文水野長次/五十疋上様御附女房/百文 不明/百文 不明/百文 石浜宗右ェ門/百文 久米彦八/弥宣久米彦八/願人重野源十郎」とありました。

註:上記( )内は著者の注記と思われる。

また『張州雑志・第十七』に、「或記云此社楠ヲ以テ作レリ棟札水野十郎左衛門信近ト有リ是藤九郎也」とあることを同時に紹介していました。………同書p109には、「此神社往古ハ水野下野守信元氏神ノ由申伝天文十三年甲辰十二月造立ノ棟札アリ文字サダカナラズト也」とした樋口好古の『知多(尾張)徇行記』と掲げています。つまり、この時代になると正確なことは伝わらなくなっていたことが窺えます。それなのに、戸田氏はどこからか決定的ともいえるような文書を入手したのに、学界はそれを一顧だにしなかったかという疑問が湧きます。

  1. ほかに、『竹内家緒川古記録雑書文書写』も紹介されておられますが、それには「(前略)一、当村入海大明神社者楠木一巻に而建立有之筈に御尋被遊候言而成程先社者楠木に而御座候処大破に付元禄十一寅年御願申上建替り候へ共先年之柱者只今社之縁下に入置御座候付御答申上候。一、政宗之小刀有之筈弥有之歌哉と御尋被遊候儀成程?(ギ)方に御座候(中略)右之通先年之社棟木に有文此外棟札有之候へ共文字見得兼申候此委細御上に有之由松平太郎右ェ門様被仰聞候/右之外札三枚有之候是も文字見得兼申候造り替之節札と相見得申候/右棟木壹本札四枚久米相模方に有之由入海大明神御殿内へ被入置候様にと申候以上(後略)」とあります。

註:楠木とあるのは『張州雑志』によると楠の棟木ということで、施主・施工者・年月日・工事の由緒などを棟木に直接書いたもの。

戸田純蔵氏の著作、『尾張の國小河(緒川)郷邑の史蹟』(1989)、『説話 弟橘比賣命』(1985)、『緒川郷入海神社』(1967)を見てみましたが、『張州雑志』の「或記云此社楠ヲ以テ作レリ棟札水野十郎左衛門信近ト有リ是藤九郎也」と『尾張徇行記』の「此神社往古ハ水野下野守信元氏神ノ由申伝天文十三年甲辰十二月造立ノ棟札アリ文字サダカナラズト也」を紹介しているのみで、棟札の内容を紹介しているのは1981年の『東浦雑記p78』しかなさそうです。これ以外の著作も当たって見る必要はあるのですが………。

問題は、棟木・棟札の写真が掲載されていないことが一つあります。戸田純蔵氏は一体このような証拠を何処から発見したのでしょうか?

戸田純蔵氏は東浦町誌編纂委員会委員長をしておられましたから、その編纂した『東浦町誌』1968年はおくとしても、『新編東浦町誌』1998年にこの記事が取り上げられているべきなのでしょうが、それがないところを見ますと、史料批判に耐えられるものではなかったのではないのかとも思えます。それについては、素人の小生が口を出せることではありませんので、ここでは十郎左衛門が信近であることに矛盾はないかということだけを検証してみます。

と、言うよりも、無理やり辻褄を合せることができるかを試みます。

水野藤四郎信近は、

  1. 『刈谷市史』によると、刈谷水野氏は緒川水野氏とは別系統としている。
  2. 天文十二年に死んだ忠政の長男信近が刈谷水野家に入り、亡くなったか病中であった守忠の後継者となったとする。
  3. 天文十九年三月六日付けで、楞厳寺(リョウゴンジ)に元刈谷の田地を家臣である牛田源五守次が水野藤九郎守忠を代理して寄進している。から、刈谷赦免の頃はいまだ守忠は生存していたらしい。
  4. 永禄三年(1560年)五月十九日に岡部長教(岡部元信)の攻撃を受けて三十六歳で刈谷城に戦死したという。(1525〜1560)
  5. 数え年として逆算すると、生年は1525年で1600年に76歳で死去した四男忠守と同じ年に生まれたことになる。
  6. 天文十三年(1543)の信近は19歳になる。父・水野右衛門大夫忠政は前年の天文十二年七月十二日に卒している。

水野藤四郎信近が、天文十三年甲辰十二月に刈屋水野氏の名乗りである十郎左衛門を名乗ることができるためには、この時点で既に刈屋に養子に入っていなければならない。これについては、、藤九郎守忠が健在であったために、藤四郎から藤九郎に改められずに、十郎左衛門を名乗ったことになるという解釈もできるだろう。

ところが、天文十三年九月廿三日という日付で、斎藤道三が水野十郎左衛門に手紙を出していまして、これを小生は大高城主・水野大膳と看做しました。………ここで、十郎左衛門が二人という矛盾が生じます。

これを説明するためには、水野忠政の影を大きく捉える必要があります。

つまり、小川城主として、四方の有力国人衆と縁組をしながら勢力を伸張させていた忠政も、晩年になって尾張織田弾正忠家の勢力伸展と安城松平家の内訌による凋落ぶりをみて、中小国人一揆では時勢を乗り切れないと感じて、織田家との同盟に切り替え、安祥松平家と決別して之と対抗するという政策転換を行ったものと看做します。これは、従来は信元の政策と言われてきたものですが、『岡崎領主古記』などは、天文九年(1540)六月六日、織田信秀は水野忠政と同盟したうえで、松平左馬助長家(親忠の子)の安祥城を攻略し信広を入れるという記事を載せています。さらに早い時期の観測では、天文元年(1533)に三河のほとんどを平定した岡崎城主松平清康と水野忠政に離縁された於富の方が再婚したという話があります。そして天文四年には「守山崩れ」が起きて松平家の内訌は激化します。

というわけで、あくまで従来通り親松平家路線をとって西三河経済圏に属し、衣浦・三河湾経済の利を確保しようとする大高水野家と政策転換をしようとした緒川水野家との仲は、湊刈屋の支配権を巡って急速に悪化したと考えるわけです。

但し、尾三国境は変転常なく、天文十年(1541)には、追い詰められた松平広忠(十六歳)は於大の方を結嫁して緒川水野忠政と結び、岡崎城を執拗に攻撃してくる織田信秀を牽制することに成功しています。………忠政は三国鼎立を狙ったのでしょう。三河松平家が尾張織田家に一方的に併呑されるようでは、知多郡の一職支配も途上にあった忠政としては、好ましくない情勢になるからです。

そのような中で、刈谷水野氏は財政的に裕福ではありましても、武力では劣るものがあったようでして、小河水野氏の風下に立たざるを得ませんでした。このことは、当時の刈谷水野氏に目覚ましい合戦の伝承が皆無であること、碧海地域には城塞が極めて少なく、地侍などの活動が伝わらないこと、刈谷水野氏が大浜湊の獲得に乗り出していないことなどが証明しているものと考えます。

ここで、大高・水野氏が緒川の水野忠政に対抗する手段として、刈谷支配の正統を主張するために「十郎左衛門」を名乗り、次いで刈谷城に乗り込んだときに始めて正式に「大和守」を名乗ることになったのではないのでしょうか?天文十二年に忠政が死去して翌十三年の井口で信秀大敗したときの書状では十郎左衛門を名乗っています。

それに対して、忠政も男・信近を刈谷へ養子に送り込み「十郎左衛門」を名乗らせます。刈屋ではまだ守忠が健在でしたから「藤九郎」を名乗ることができないからです。

つまり、「十郎左衛門」という名乗りは、大高城主・水野大膳が、刈谷水野氏の上位に立つ正統性を主張するために引っ張り出した先祖の名乗りではないかということです。

そこで、大高城主・水野大膳が「和泉守」と称して一時的に刈谷城主に納まる事態が出現したものと先に考えましたから、養子に入っていた信近は一時的に緒川に避難していたものと看做す必要があります。その結果、緒川の入海神社奉造立に際して、「那衆伍貫文/水野十郎左衛門信近/天文十三年甲辰十二月」なる棟札が掲げられたのではないでしょうか?

 

<大高の価値>

以上のように考えてきますと、今川義元が大高を「大高は尾州の要衝なり、勇将を撰びて守らしめんと」『武徳大成記(1741)』と考えたのは、大高城主と緒川城主の間に刈屋を巡る争いがあり、その一方で緒川水野氏が知多半島の盟主に成長していた事実があったことが背景にあります。義元としては緒川水野氏の調略がならなければ、大高水野氏を水野一族の正統として認めて、これを後援し知多半島を一気に服属さるという狙いがあったからなのでしょう。

しかし、信長にとっては同盟者である緒川城の水野信元は刈屋城をも支配下に入れて、知多半島に覇権を打ち立てていますから、大高に駿河勢がいることは通路を切り取られたという意味でしかありません。それは、笠寺や星崎、鳴海と同列の重要性でしかなかったのです。

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