<信長の兵法>
<日本兵法は正規軍の会戦に対応していないこと>
戦争というと大軍勢が荒野で対戦する場面を思い浮かべるかもしれませんが、日本戦史においては、そのようなことは通常起こらないようです。そのような事になるのは、指揮官が索敵に失敗したか指揮官の思惑が外れたかでしかないものと考えます。何故なら、要害の地に防御施設を設けて待ち受ける方が断然有利であることを皆が承知しているからです。ですから、野戦が起こるのは、不期遭遇戦を除いたならば隣村同志の小さな紛争でしかないのです。
攻められる方に野戦をする兵力が無いから攻城戦となるわけではないと思います。もしそうならば、同程度の兵力があるなら当然に野戦になるはずなのですが、日本ではそうはならないのです。つまり、戦国時代といえども、日本では誰も野戦をしたいと思っていたわけではないのです。野戦になるのは、恨み辛みで激昂している場合や、期せずして遭遇するか、敗勢の敵に駄目を押すための攻撃や追撃でしかないのです。だから、中国式と言うか大陸式陣形運動に憬れがあったとしても、日本では根付くことはかなかったのです。勿論、日本特有の地形も関係しています。
だから、野戦はたいてい後詰によって引き起こされるという結果になるわけです。後詰がなされなければ、そもそも籠城側は野戦などは志さないでしょうから、焼け糞にならない限り野戦は起こりえないのです。日本では集団による野戦戦術は発展しなませんでした。まずどの家中にも共通な隊伍という思想がありません。隊伍がないのですから、隊伍に適合した汎用戦術・汎用指揮術が生まれなかったのです。全ては人についており、神技にいたる者もでました。そのように、ノウハウは個人に付いていっために、社会が必要としなくなったならば、一切合財霧散して跡形もなくなってしまい、記憶にものこらないわけです。その証拠に、足軽隊ですら各藩・各家中毎に基本単位の大きさがことなるのです。十人から百人まで身代に応じて単位が違うのです。単位が事なれば指揮の仕方も戦術も違うでしょう。つまり、諸手抜きが効かず汎用性に欠けるのです。そして、四百年の泰平は軍人にどの様に行軍し、どのように戦ったさえ忘れさせてしまいました。勿論、実務的な書きつけさえ残ってはいません。全ては、経験工学であったのです。
『信長公記』を通読して感じることは、信長は上洛を企画して以降は、常に敵に優る兵力を催して正攻法を実施しており、迂回や伏兵などの奇兵を用いたことがないということです。信長が奇兵を用いたとしたならば、それは敵に優れる判断力・決断力と独自のシステム(一騎駆けに自発的に追従する将兵)による、敵の予想外の速度で戦場に出現できたことでしかなさそうです。但し、行軍速度が他の戦国大名より速いわけではありません。信長の兵法は「正をもって合い。正をもって勝」であって、孫子の兵法とは異なるようです。
永禄十一年に信長が上洛をすることになり、足利将軍の命令という「大義名分」によって全国の武士に軍事動員をかけることができるようになりますと、信長はおそらく初めて自身の領国内に総動員をかけて、濃尾三勢の国人・地侍を招集して三万ほどの将兵を集めたと思われます。多くは四万から六万とするようですが、それほどの兵力があったとは思えません。
実際には、慶長検地で美濃国五十四万石、尾張国五十七万一千石ですから、濃尾二ヶ国で二万五千ほどは集められたとして、北勢から滝川一益が一千を率い、三河の徳川家康が一千ほどを派遣し、浅井長政が一千ほどを率いて参陣したとすると総勢三万程度になるもの思われます。なぜ、一千かといいますと天文廿三年(1554)一月廿四日に村木砦攻めの時に道三が安藤伊賀守守就を大将として那古屋留守居役に派遣した兵力が千計りだからです。
さて、ここで重要なことは、この信長の大軍勢は初めて織田軍として一体行動をすることになったということです。信長の本拠地である美濃・尾張の軍勢にしても同じです。これまで彼等は、信長の指揮下で軍事行動をしたことがなかったのです。しかし、彼等は根っからの軍人ですから、それほどの困難はなかったでしょう。源平の昔の頼朝軍は寄せ集めでしたが、九州まで遠征しているのでから………。しかし、精緻な連携を要する軍事行動はできなかったでしょうし、団結力も脆弱だったものと思われます。
同様に、濃尾軍を中核とする軍勢は、この上洛戦を契機として南勢への作戦を通じて初めて織田軍としての軍事行動を経験し学んで行ったわけです。ですから、上洛から伊勢戦における軍事行動は信長軍の戦術の原型が見られると思うわけです。そして、それは寄せ集めの軍隊ですから、精緻な協力を要する分進合撃などの戦術は使えませんし、使うべきでもありません。団結力はありませんから劣勢には頗る脆いからです。速戦即決、数と力で位押しで行くべきなのです。そして、信長はそうしました。それは、『信長公記』に「この戦では定めて、今度は、美濃衆を先手へ夫兵に差遣はさるべしと、みの衆存知しところに、一円御構ひなく、御馬廻にて箕作を攻めさせられ、美濃三人衆ノ稲葉伊予・氏家卜全・安藤伊賀、案の外なる御行哉と、奇特の思ひをなす由なり。」とあるからです。従って、知多郡の覇者水野信元が派遣した軍勢も徳川家康が派遣した軍勢も浅井長政が率いてきた軍勢も戦闘には参加していないはずですが、信長軍の戦い方を学んで帰ることになったはずです。
まず、信長は天皇の綸旨、将軍の教書を戴いて、それを大義名分として天下静謐事業に参加協力することを要請して、各所に使者を派遣しています。軍事的には調略ですが、信長領国内ではそれまで積極的な協力(派兵)をしてきていなかったような、国人たちも公的な義務として旧来の常識的な軍役を履行しなければならなくなったわけです。これは、慣例的な定数に満たなくても当座は懲戒されることはなかったでしょうが、その後信長が強大な権力を握るにつれて、定数が定まっておらず黙っていても精神的な脅迫になったものと思われ、自然に「お手伝い競争」を惹き起していったものと考えます。
なぜ大義名分が重要かといいますと、武士の成立と所有権の正統性の問題に端を発します。武士が「占有権」を主張して認められるのは、武家政権である幕府に対する軍役の義務を果たすこ事との交換条件という双務契約に基礎があるからです。その義務を果たさなければ、占有する土地を幕府によって召し上げ(その根源は朝廷の公地公民制にあります註)られても文句は言えないのです。
註 日本においての全ての土地は、「公」のものであったのです。土地が私有されたことはありません。占有されていただけです。ですから、江戸幕府も諸藩も明治維新においてあれ程たやすく大政奉還ができたのです。
ところで、当時上洛する海道を掣肘していたのは佐々木(六角)氏ですが、彼は信長の風下に立つことを潔しとしなかったために、義昭に所司代職を約束されても人質を出して信長の上洛を助ける(兵粮・馬糧と宿舎の準備)ことを拒んで、戦争の準備にとりかかりました。これに対して、信長の採った戦術は兵法通りであり、大軍に奇兵なしとして正攻法で席巻しています。
愛知川まで進出した信長の対岸には、六角氏の前線基地である和田山城があり、その背後には義賢・義治父子が籠る本城の観音寺城、その東側に箕作城があって鼎立しており、海道はこの中を通っていました。六角方は、最前線の和田山城で織田勢を拘束し、観音寺・箕作両城の兵で挟撃するという戦略で支城網を構成しているわけです。織田方の作戦としては、一気に本拠観音寺城を総攻撃する方法と、和田山城や箕作城などの支城を順次攻略して観音寺城を孤立させる策とがあります。
一般的な戦国大名の戦術では、敵の支城網を虱潰しに攻略しておいて、敵の衰弱するのを待ってから敵本拠地を攻略しています。今川義元などはそうしています。勿論、義元が上洛を目指していたならば、そのようなことはしかったでしょうが、多くの戦国大名の隣国への侵攻は領土の獲得が目的ですから、自然に面的な広がりをもった侵攻になります。しかし、信長の当面の目的は上洛です。上洛する実力を天下に知らしめる事ができれば領地は後からついてくるのですから、最も兵力の劣る箕作城を一気に攻略する策に出ました。
次に、最も重要な信長軍の特徴が表れるのは、信長は上杉謙信と同様に、総大将自身が戦況を大物見していることです。そのうえで、六角義賢のというよりも、戦国大名の一般的な築城思想の裏をかいて、最前線の和田山城などは無視してしまい、観音寺城に迫る一方で佐久間右衛門信盛・木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門長秀・浅井新八らの軍勢四、五千を箕作城に送って攻撃を開始しています。
おそらく、六角氏側は本城に主力、最前線の和田山城に精鋭を籠め、観音寺城には最も少ない兵力を籠めていると判断したからでしょう。我彼の兵力差からみたならば、どの城を攻めようと攻略することは可能であったでしょうが、初めに持たされている役割の違いからくる心構えや戦術眼は格段に違うかも知れません。何故なら、国家意識・国民意識などは当時はありませんでしたし、一族一揆も崩壊しており、それに代わる「御家意識」もまだできていない下剋上の世の中だったからです。ですから、一体感に支えられた役割意識によって自発的主体的に行動してくれることを期待するのは、極めて困難だったと思います。そうしますと、最前線で敵を拘束する役割の将兵は、初めから出撃する気はありませんし、拘束された敵の後方を襲う心算の人たちは、籠城する心の準備ができていません。そのうえ、六角氏は最も早く家法ができたほど、国主と国人衆の間は不和だったのです。
そのような判断に基づき、信長は候観音寺城と箕作山へ軍を向かわせ、佐久間右衛門信盛・木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門長秀・浅井新八に箕作山城を、常識はずれの申剋(午後三時)になっていたににもかかわらず攻撃を開始させて夜に入って攻め落しています。桶狭間山に義元を攻めたのも午後になってからでした。
当時は、早朝から攻撃を開始するのが定法であり、午後遅くに開戦するのが非常とされていたのですが、日が落ちての暗闇の中では如何なる不測の事態が起こるやもしれず、敵味方の識別も困難になり、情報の収集・命令の伝達が困難になって統率の効かなくなることを避けるためです。それを、恐れずに敢えてするというのは、当時の城塞の構造的脆弱さに加えて、格別の兵力差・士気の差があったものと考えられます。そう考えますと、桶狭間の戦いにおいて今川義元の本隊の兵力が、少なくとも信長が攻撃した時点では、信長軍二千より格段に多かったとは考えられなくなります。
当時の城塞と城塞網の思想は、基本的に国人衆が一体となって相互に依存しあっていることが前提になっていますが、実態は領国外から領国内に略奪にくる軍勢からの一時避難が目的でして、実際に同等の敵国からの攻撃から自国を防御するために城塞群を設計したのは後北条氏ぐらいしかったかも知れません。
ですから、城塞そのものも後世の織豊時代のように、中央に位置する本丸からの指揮の下に同心円状に配置した郭で防御するというような戦術思想ではなく、各峰々に陣取った各国人ごとに個別に戦闘防御するというものでした。ですから、各拠点も狭小であり兵力も少ない上に峰々に分散しており、相互の援助もままならない構造でした。そのため、外部からの後詰が得られないとあっては、大兵力の前には如何ともし難かったものと考えられます。さらに、信長としては今後のこともあり、如何なる城塞も瞬時に踏み潰すことができるということを宣伝しておきたかったこともあるでしょう。
「奇兵」という考え方からすれば、敵の策に乗ったような振りをして最前線の和田城を攻め、六角氏の主力が観音寺城や箕作城から出撃してくるのを待ち、これを捕捉撃滅する計画を立ててもよさそうなものですが、そのような気配は微塵も見えません。畠山氏の大河内城を攻めたときも同様です。父・信秀のような「趙を救うに魏をもってする」ようなことはしていません。常に目標に直接働きかけています。これをみれば、後の姉川合戦や長篠合戦を敵を誘引する作戦であると考えることは的を得ていないことになります。信長の戦術には、そのような奇を衒う趣向はないようです。
ところで、これまでの信長は、丹羽長秀を一手の大将として使用したことはありますが、このとき始めて支隊を編成して諸将の合議制で箕作山城攻めに派遣しています。佐久間右衛門信盛・木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門長秀・浅井新八の四名がチームとして行動し、話し合って部署を分担しているようです。彼らの率いた将兵は自身の兵力の他に専属の与力も決められていたでしょうが、新規に従軍した尾張衆や美濃衆は付属していなかったものと思われます。
もう一つは、この初めての支隊は目標が定められていましたが、本隊との連携は要求されていませんでした。もとより、信長には箕作山城を囮にして和田山城と観音寺城から六角氏を誘き出して補足殲滅しようなどという三国志ばりの作戦などを持っていたはずがありません。つまり、別動隊として分進合撃などというような高度に複雑な使命を果たせるようなシステムも錬度も未だなかったわけです。尤も、信長は生涯そのような別動隊の使い方はしませんでしたが………。
その結果はといいますと、「其の夜は、信長みづくり(箕作)山に御陣を居えせられ、翌日、佐々木承禎が館、観音寺山へ攻め上らるべき御存分のところに、佐々木父子三人癈北致し、十三日に観音寺山乗つ取り、御上り侯。これに依つて、残党降参致し侯の間、人質を執り固め、元の如く立て置かれ、一国平均侯へば、」ということになっています。
上洛を果たした信長は、大阪方面へと軍を向け池田城を攻めています。『信長公記』は「十月二日に池田の城、筑後居城へ御取りかけ、信長は北の山に御人数を傭へられ、御覧侯。水野金吾(信元)内に隠れなき勇士・梶川平左衛門とてこれ在り。并に御馬廻の内、魚住隼人・山田半左衛門、是れも隠れなき武篇者なり。両人先を争ひ、外構へに乗込み、爰にて、押しつおされつ、暫の闘ひに、梶川平左衛門、骼(腰骨)をつかれて罷り退き、討死なり。魚住隼人も爰にて手を負ひ、罷り退かる。」とあります。
ここで特筆すべきなのは、古くから水野金吾信元から派遣されている梶川平左衛門と共に馬廻が先陣を争って戦闘に加わっていることです。これが何故大事かといいますと、後の姉川合戦でも馬廻が主体となって戦っていますし、その後の朝倉義景を追撃したときも馬廻を率いてのことだからです。信長の馬廻は最盛期には二千騎といわれますから、従者までいれたならば最盛期には恐らく八千ほどの人数になるのかも知れません。
これだけの兵力があるからこそ、信長は領国統一にも隣国の美濃併呑に際しても国人衆の参陣を敢えて恃まなかったのだと思います。おそらく、尾張・美濃も含めて国人衆を動員したのは、将軍に要請されるという大義名分を得て初めて行ったのでしょう。そうであれば、頭を下げて頼む必要がないからです。ですから、この馬廻こそが信長の本当の決戦兵力であったものと思われます。
永禄十二年(1569)正月、上洛を果たして岐阜帰っていた信長の下へ、三好三人衆らが公方様御座所の六条本圀寺に攻めよせたという飛脚が参着します。
ここでは、信長の輜重隊の様子の一端が窺えます。馬借といいますから、城下に店を構える専門の運送業者に輜重を請け負わせていたようです。ですから、触れ太鼓がなると城下の馬借は城中の定めの場所に参上し、通常は誰が何を運ぶかは馬子の間で決められていたものと思われます。信長側は荷物を管理する責任を馬借に負わせるためですし、馬借側は確実な積み荷を保障されることにもなるという双方にメリットのある契約であったものと思います。
そのような中でのエピソードが『信長公記』にあります。「其の節、以外の大雪なり。時日を移さず御入洛あるべきの旨、相触れ、一騎懸けに大雪の中を凌ぎ打ち立ち、早御馬にめし候ひつるが、馬借の者も、御物を馬に負候とて、からかいを仕り候。御馬より下りさせられ、何れも荷物一々引見御覧じて、同じ重さなり、急ぎ候へと仰せ付けられ候。是は奉行の者に依怙贔屓もあるかと、おぼしめしての御事なり。」とあります。
この文章を榊山潤氏は、「過重の荷を馬に追わせることになるといって承知せず、互いに争いを始めた」と訳されるのですが、どうもこれは『名将言行録』にあるものをそのまま拝借したようです。しかし、本文では、「馬借の者も」といい「も」とあるのですから、「信長と同じように」という意味だと小生は考えます。ですから、「承知せず」というのは誤訳でしょう。従って、信長が馬から降りたのは「仕方なく」でもありません。
「馬借たちは、急いで荷を積もうとして、城内に到着順に手当り次第積み始めた結果、常の定めのようにはならなかったので、争い始めた」という意味なのだろうと思います。決して、寒いから嫌だとか、雪道は嫌だとか、荷物が多すぎるとかいって、奉行に駄々を捏ねたり、ストライキを起こしていたわけではないと思います。常の規則・契約通りに積み直すべきだと言い争いを始めたのでしょう。それをみた信長は、積み荷の大小・軽重に不公平があるように見えたのでしょう。そこで、信長が「同じ重さなり」と言ったのは、「荷重が同じであれば、荷馬を途中で損なうこともないだろうから、常の定めのようでなくても良い。とにかく早く出立することが此のたびは大事である」という趣旨であったのだと考えます。
ところで、これは「御物」とありますから信長の荷物の取扱だけです。支城主の場合にはやはり岐阜城下と同じようなシステムがあったものと思えます。そして、信長の小姓や馬廻だけでなく武将たちも、信長の遣り方を知っていますから、大身であれば自分たちも信長と同じシステムを踏襲して、宅配便で必要なものを後続させる方法を学び、業者と契約を結んでいたものと思います。
それ以外の武士たちは皆、自分と従者とが背負って運んだはずです。それで充分に間に合う程度の機動しかしていません。路銀さえ欠かさなければ心配は余りなかったことでしょう。
因みに、『名将言行録・上杉謙信』には、「天文十六年四月、長尾政景は七千の兵を率いて橡尾城を囲む。謙信は櫓(ヤグラ)から敵を見て、敵は今宵引き上げるに違いない、その機に乗じて打って出ようと言う。(中略)自分は昼から敵を見ていたが、敵には軍兵ばかりで小荷駄が無い。これは長滞陣の軍ではない。」とあります。
しかし、上洛までの信長は、国内戦ですし隣国美濃の征服でさえも本拠地の居城を近くへ移動していますから、輜重に苦しんだ形跡はありません。また、上洛にあたっても六角氏が早々と退散してしまいましたから、彼らがゲリラ戦に転じたとしても、信長の補給路を脅かすことはできませんでした。何故なら、最大の消費地京都へは美濃から物資を補給する必要などはないからです。何でも貨幣で買えるわけです。伊勢・美濃・尾張からも信長の兵粮や軍需物資としてではなく、一般商品として大量に流入しているからです。これを止めることはできません。信長が美濃・尾張を策源として確保して、その上で京都を押さえてそこから征服軍を出動させるのである限り、補給に困ることはありません。ですから、信長の時代には補給システムの改善はなされませんでした。
補給が、兵法の重要な部分を占めるようになるのは、秀吉による備中大返しからです。この時の秀吉はついていました。何故なら、信長の来臨を仰ぐために、かつて家康が武田征伐の帰途の信長を東海道で馳走するために催した以上の歓迎準備を整えていたからです。勿論、秀吉のやることですから、信長だけでなくその軍兵(これは明智光秀が先行して率いて来るはずでした)の分も用意してあったことでしょう。ですから、秀吉勢は裸で駆けてもよかったぐらいであったはずなのです。秀吉の偉いところは、その要諦をしっかり学んでいて、すぐさま賤ケ岳への大垣大返しに応用したことにあります。
この辺が、東国(辺境)で覇権を争っていた今川・武田・北条・上杉らと違うところです。彼等は本拠を動かさずに民を疲弊させた伝馬制度をつくっています。
<信長の兵法は迅速にある>
信長の兵法の特徴は「速度」です。
速度が速いと言っても、一般の戦国大名の行軍速度に比べて優速というわけではありません。行軍速度は同じです。違うのは、注進を受けてから出陣を決定し現場に駆け付ける速さです。これは間違いなく段突です。特に、敵の調略に成功したと聞くと即座に出陣しています。兵力の均衡が崩れただけでなく、精神的なダメージが大きいからなのでしょう。
信長のスピードの逸話で最も有名な例が、上に紹介した永禄十二年(1569)正月四日の六条合戦時の際の雪中行軍ですが、勿論永禄三年の桶狭間の戦いもその一つになるのでしょうか?他にも迅速な例には、………
- 永禄十年(1567)八月朔日、「美濃三人衆稲葉伊予守、氏家ト全、安藤伊賀守申し合わせ候て、信長公へ御身方に参ずべく候間、人質を御請取り候へと、申し越し候。然る間、村井民部丞・島田所之助人質を請取りに西美濃へさし遣はされ、未だ人質も参らず候に、俄に御人数出だされ、井口山のつづき瑞龍寺山へ懸け上られ候。(中略)左候ところへ美濃三人衆も来参り、肝を冷やし、御礼申し上げられ候。信長は何事もケ様に物軽に御沙汰をなされ候なり。」
- 永禄十一年(1568)九月七日の上洛戦では、「この戦では定めて、今度は、美濃衆を先手へ夫兵に差遣はさるべしと、みの衆存知しところに、一円御構ひなく、御馬廻にて箕作を攻めさせられ、美濃三人衆稲葉伊予・氏家卜全・安藤伊賀、案の外なる御行哉と、奇特の思ひをなす由なり。」
- 永禄十二年(1569)正月四日、「三好三人衆?に斎藤右兵衛太輔龍興・長井隼人等、南方の諸浪人を相催し、先懸の大将、薬師寺九郎左衛門、公方様六条に御座候を取詰め、(中略)右の趣、信長へ御注進。時日を移さず御入洛あるべきの旨、相触れ、一騎懸けに大雪の中を凌ぎ打ち立ち、早御馬にめし候ひつるが、馬借の者も、御物を馬に負候とて、からかいを仕り候。(中略)以ての外の大雪にて、下々夫以下の者寒死も数人これある事なり。三日路の所二日に京都へ、信長馬上十騎ならでは御伴なく、六条へ懸け入り給ふ。」
- 天正元年八月八日、「江北阿閉淡路守、御身方の色を立て、則ち、夜中、信長御馬を出だされ、其の夜、御敵城つきがせの城、あけのき侯なり。」
早い時期の例には、天文廿一年(1552)八月十五日の深田・松葉城の奪回作戦があります。これは、一騎駆けなどはしていませんが迅速な出陣をしています。深田・松葉城の奪回作戦では、「一、八月十五日に清洲より坂井大膳、坂井甚介、河尻与一、織田三位申し談じ、松葉の城へ懸け入り、織田伊賀守人質を取り、同松葉の並びに、一、深田と云ふ所に織田右衛門尉居城、是れ叉、押し並べて両城同前なり。人質を執り堅め、御敵の色を立てられ侯。(中略)此の由をきかせられ、八月十六日払暁に那古野を御立ちなされ、稲庭地の川端まで御出勢、守山より織田孫三郎殿懸け付けさせられ、松葉口、三本木口、清洲口、三方手分けを仰せ付けられ、いなばぢの川をこし、上総介、孫三郎殿一手になり、海津ロヘ御かかり侯。」とあり、翌日出陣しています。
織田上総介信長、年十九歳のことです。重要な点は守山の叔父・織田孫三郎信光が信長に加勢していることですが、之も翌日の出陣に呼応しているのです。信長や孫三郎信光が事前に此の企みを承知しており準備していたのなら別ですが、そうでなければ一般の武士は一晩あれば翌朝に出陣することは十分に可能だということになります。この戦いでは分かりませんが、後には弟の三郎五郎(信広)も協力して出陣していました。「何時も御敵罷り出で候へば、軽々と信長懸け向はせられ候。左様に候、三郎五郎殿御出陣候へば、清洲町通りを御通りなされ候。必ず城に留主に置かれ候佐脇藤右衛門罷り出で、馳走申し候。」
そうしますと、軍隊のスピードの問題は、
- 主将による出陣の決定時間の問題か
- 同心してもらう国人・地侍を動員するための説得に必要な時間
にあることになります。
それがなければ、極めて早い速度で出陣することは最初から可能なわけです。つまり、必ずしも常備軍が城下に集住または城内に詰めているというような特別な新機軸は必要ないのです。ただし、実際にどれだけの兵力を集められるかは、実際の着到をみるまでは分からないことになりますから、合理的な戦争計画は成り立ちません。つまり、常備軍の装備は合理的で迅速な軍事行動の基礎であるわけです。
因みに、弘治二年(1556)の三郎五郎殿御謀叛の事に「究竟の度々の覚えの侍衆七、八百、甍を並べ御座候の間」とあるのを以て、清洲城下または城内に集住させていたとする意見がありますが、それは早計であると思います。何故なら、それ以前の天文廿二年(1553)の正徳寺の場合に「御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、」とある場合の「甍を並べ」は、どうみても「常に信長の傍に近侍し、または配下に連なり」という意味で牛一は使用しているように思えるからです。従って、前にも述べたことがありますが、信長の城下集住は小牧城から強化されたものと考えた方が良い様に思います。
では、信長以外の戦国武将の場合には、何が即座の出陣の決定を妨げたのか?………問題は、手持ちの兵力だけで単独で出陣するには兵力不足であったから、親族や有力国人衆の協力出兵が必要であったということです。
それを十九歳の信長が解決していたという事実をみますと、信長の若さ故かもしれませんが、それでも二郡ほどの勢力を持つ城主が協同すれば、当時の国人領主の一城程度を攻略するだけの兵力を得ることは、朝飯前であったということになります。これがイノベーションのジレンマのいう革命的技術の初期状態を表しているわけです。………七・八百の馬廻では、尾張一国を半分に割って敵に回したのでは、その統一は覚束ないわけですが、反対派を一人づつ各個撃破していくぶんには充分な兵力であったわけです。此の時代に七・八百もの馬廻を抱えていた戦国大名などは一人もいなかったからです。
ところで、それを大高城に例をとって考えますと、慶長十三年(1608)の検地では石高は1,712石2升9合であり、耕地所有者は325人なのですが、万石二百五十人とすると四十人強、万石三百人として五十人程度の軍役なのです。そして、城攻めには三倍の兵力が必要であるということを考えても百五十人ほどの常備軍があれば、何時でも単独で十分に之を攻略することが可能であることになります。
これをみますと、絶対的な権力を持っていれば、各個別の領主を標的にして片づけていく事は、比較的容易にできそうに思えます。つまり、周囲が、成敗されることは致し方がない理由であると考えるように仕向けて、間違っても自分たちに共通した問題であると捉えて団結して国人一揆を組んだりしないようにすればよいわけです。
ところで、この深田・松葉城の奪回作戦のなかの海津での戦いでは、遭遇戦のように即刻白兵戦になったようにみえ、清洲方は歴々五十騎計り討死して退いていますから、その総兵力を五百人程度と推測しますならば、一千五百人ほどの兵力があれば十分に勝利することは可能なのです。叔父・信光の協力を得ていますから、信長だけならば、僅か七百人程度の兵力でよいわけです。
次に、永禄年より前の尾張国内の、それも平野部に立地した城塞の防御力を考えてみますと、峻険な山もなく広大な河川を堀に見立てることができるような恵まれた立地条件の城は少なかったようですから、兵力さえあれば比較的簡単に攻略できたかのように思えます。
その代り、城下の町や付近の村までを総構のうちに取り込んでいるようで、「松葉口廿町計りに取出惣構へを相拘へ」「深田口の事、三十町計りふみ出し、三本木の町を相拘へられ侯。要害これなき所に侯の間」という態勢をとっていたらしいことが窺えます。
守護の本城である清洲城にしても「三王口にて取合ひ、追ひ入られ、乞食村にて相支ふること叶はず、誓願寺前にて答へ候へども、終に町口大堀の内へ追ひ入らる。」「或る時、上総介殿御人数清洲へ引き入れ、町を焼き拡ひ、生城に仕り候。信長も御馬を寄せられ候へど、城中ハ堅固に候間、御人数打ち納れられ、武衛様も城中に御座候間、透を御覧じ、乗っ取らるべき御巧みの由、申すについて、清須の城外輪より城中を大事と用心、迷惑せられ候。」「(天文廿三年)七月十二日、若武衛様に御伴申す究竟の若侍、悉く川狩りに罷り出でられ、内には、老者の仁体纔に少々相残る。誰々在之と指折り、見申し、坂井大膳・川尻佐馬丞・織田三位談合を究め、今こそ能き折節なりと、焜と四方より押し寄せ、御殿(守護館)を取り巻く。」とあり、それほどの堅城のようには見えません。
清洲城を信長が攻めあぐねたのは、大義名分となる守護斯波義銀が居住していたからであり、そうでなければ力攻めには脆弱であったものと思われます。というのも、信長時代には堀は一重しかなかったらしく、信雄城主時代に大規模な改修を行った結果、堀を三重にしたらしいと云われるからです。
尾張国をみますと、その過程において強力な国人の協力を仰ぐという事態も、そのような国人や国人一揆という対抗勢力も生じていません。織田弾正忠家の最も手強い敵は津島衆であったように思われますが、これに打ち勝って服属させてからは、戦国時代の尾張統一戦争は織田家一族内部での権力闘争の内に納まっているのです。国人衆を動員していたのでは、なかなかこうはいかなかったでしょう。
ということで、父信秀の戦い方を見てみましょう。
<父信秀の戦い方>
織田信秀の軍勢は、「代々、武篇の家なり。備後殿は、取り分け器用の仁にて、諸家中の能き者と御知音なされ、御手に付けられ、」というのですから、守護代の奉行という立場で、守護の名代として国人衆の盟主らしき立場にまで伸し上ったらしいことは分かるのですが、「諸家中の能き者」と御知音ということは、国人らの家臣団の中に手を突っ込んでその中から、武辺の者を直臣またはそれに準じる者として取り立てていたということなのでしょうか………?
その例として考えるべきなのが、小豆坂七本槍の面々です。小瀬甫庵『信長記』は「大将孫三郎殿引き返しけるに(中略)返し合わせたる人々には、織田造酒丞・下方左近(其の時は弥三郎とて十六歳)、岡田助右衛門尉、佐々隼人正、其の弟孫助十七歳、中野又兵衛十七歳、其の時は未だ童名にて、そちとぞ申しける。」と書き、これが小豆坂の七本鑓といわれたものですが、『新修名古屋市史』が注意を促がすように、若者が多いことが特徴なのです。
父・信秀の代表的な合戦である小豆坂の戦いをみると、斥候の存在が感じられません。戦闘に陥ったのは先鋒隊の尖兵なのか、先鋒隊そのものなのかもはっきりしないほどであるのですが、サッカーボールに群がるように、軍勢は前線に急行しています。今川軍は支隊を派遣して側背を突く動きを見せており、信秀軍を撤退させるのに成功していますが、部隊指揮官の経験と勘による本能的・自発的な行動であるようであり、総指揮官の雪斎の指示を伝える史料はありません。
あづき坂合戦の事
諸書を総合してみますと、今川勢は孤立していた岡崎城を救援すべく正田原に陣を構えて上和田砦を落として、矢作川を挟んで安祥城を攻略しようとして、駿府から太源雪斎の率いる軍勢が出立していました。一方の、織田弾正忠はこれを察知し、駿河勢が岡崎救援に向かう前に、正田原に進出して岡崎城の詰城であった山中城に対する心算でであったものと思われます。
雪斎は駿府〜藤枝〜懸河〜引間〜吉田〜山中・藤河〜小豆坂と行軍しており、信秀は清須〜笠寺・成見〜案祥〜上和田〜小豆坂と行軍しているのですから、信秀が駿河勢の動きを知ったのは、遅くとも雪斎が懸河へ到着する前のことになります。もし、信秀が軍勢の動員に一日必要だとして、さらに今川勢が駿府を発つのを見て飛脚が伝えたのだとしたならば、飛脚は駿府〜清洲を一昼夜で駆け抜けたことになります。静岡市役所から清洲市役所までの直線距離は約142kmですから時速6kmで駆け継ぐことができればよいのですから、知り得ないわけではありません。
しかし、この仮定は信秀の間諜または情報源は駿府にはあったとしても、各宿場々々にあったのではないことを示すことになります。同時に、今川方も信秀の動向を掴み得ていないことにもなるわけです。それは、信秀の清洲を出立してからの行軍が、一日で行ける距離にも拘らず、笠寺泊・安祥泊と二日をかけているうえで、互いに目的地に到達する途中の小豆坂で、予期せぬ遭遇をしているからです。
また、この戦国時代に関所などが自由な往来を困難にしていたとしたならば、考えられる通信手段は船便であり、それならば一日で送達できるでしょうから、天候に恵まれてさえいれば何れかの宿場に、織田の息がかかった者(商人など)がいれば良いことにもなります。
小豆坂での合戦は、織田勢は織田三郎五郎信光を先鋒の大将分にして正田原を抑えようと行軍中に坂の途中で、上和田を取ろうとし進出してきた朝比奈藤三郎、庵原安房守が率いる駿河勢と遭遇したといいます。『三河物語』は「山道の事なれば、互に見出さずして押けるが、小豆坂え駿河衆あがりければ、小田之三郎五郎殿は先手にて、小豆坂えあがらんとする処にて、鼻合をして互に洞天しけり。」というのですから、尖兵が遭遇したのか、先鋒隊同志が遭遇したのか疑問がのこります。
その時、織田備後守は未だ安城城におり、注進を聞いて矢作川の渡しへと駆け出し上和田砦へ後詰にでたとされています。
『織田軍記(総見記)』によると、織田方は下鎗(坂道の下から攻め上がった)であって劣勢となり、打ち負けて「盗人来」まで押し戻された。盗人来には弾正之忠が後詰に間に合って到着し、その旗下で下方、岡田、佐々、中野らが取って返して、追撃してきた駿河勢を切り崩したといいます。そして今度は兵力的に今川勢が敗勢になったのですが、岡部五郎兵衛が横槍を入れて此れを食い止めたのだといいます。
これは、織田方の方が根拠地としていた上和田砦から近くにまで押し戻されために援軍を受けやすかったからなのです。従って、本隊が正田原にいた駿河勢の援軍は到着が遅れたのですが、持ち堪えていれば次第に優位になりつつあったわけです。
『信長公記』には「三度四度かかり合いかかり合い、折しきて」とありますのを、川間島合戦屏風図の武田軍の陣営を描いたもので補ってみますと、戦線は一重で数段になっています。持楯も置楯もありません。考えてみますと、諸家の軍役には盾持ちも楯も要求されていません。弓矢は戦場での主要武器ではなくなったようです。おそらく、敵の突進を止められるだけの矢襖をつくることができるほどの、熟練の射手を揃えることができなくなってしまったからだと思われます。和弓単体では、現代のピストルと同様で、人海戦術の前では戦場でのストッピングパワーに欠けているのだと考えられます。そこで登場するのが足軽長槍隊ですが、この時期にはいまだ主流ではないようです。下馬した武士の鑓が主兵器のように思えます。それは、『信長公記』に「下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、三度四度かかり合い々々、折しきて、お各手柄と云ふ事限りなし。」とあるからです。これを白兵戦とみるか集団戦とみるか?………宿題です。
夕暮れには、絶対的に無勢であった織田方が劣勢となり、弾正忠は上和田へ退いたようです。一方の駿河衆も深追いして上和田砦を攻めたりせずに、藤河へ退きあげています。そこで、信秀も案祥まで退き、案祥には舎弟之小田之三郎五郎殿を置いて、信秀は清須へ引き上げたといいます。これをみますと、小豆坂合戦は激戦ではあっても先手だけの戦いで終了したもののように小生には思えます。
大柿の城へ後巻の事
『信長公記』には、「霜月上旬、大柿の城ニ近々と取り寄せ、斉藤山城攻め寄するの由、注進切々なり。」とあり、そして、ここに織田信秀の手紙があります。「此ノ方ノ在陣之儀ニ就テハ、早々ト御折帋ヲ預リシハ、畏ク存ジ候。爰許之儀ニハ差儀之無ク候(ハバ)、御安心ナサル可ク候。先以ッテ其ノ表ニ異儀無キ候由、尤ト存ジ候(ハバ)、弥御油断無ク仰セ付ケラレ可キ儀ガ肝要ニ候。尚、林新五郎が申ス可ク候。/閏十一月十一日/信秀/水野十郎左衛門尉殿/御返報」
つまり、十一月十一日以前に道三による大垣城への攻撃が行われたことが分かります。十一月に入ってから道三による大垣城攻撃があり、それを知った信秀は動員をかけます。すると、水野十郎左衛門尉も動員に応じてくるのですが、十一日にはそれには及ばないという手紙を林新五郎を使者にして送っており、三河方面の守りを固めるようにと言いやっています。そして、実際の出陣は十七日なのですから、およそ出陣まで一週間強かかっていることになります。
一方の道三の方はといえば、「九月廿二日、山城道三、大合戦に打ち勝って申す様に、尾張者は足も腰も立つ間敷候間、大柿を取り詰め、此の時攻め干すべきの由にて、近江の国より加勢を憑み、霜月上旬、大柿の城近々と取り寄せ候ひき。」といいますから、凡そ一か月もかかっていることになるわけです。従って、信秀は道三の四倍も身軽であったことになります。
それでも、信長が即日出立しているのに対して、信秀は一週間もかかっているのですが、その理由は国人衆を恃んでいるからだと考えられます。現に、被官ではない国境の水野十郎左衛門とは手紙の遣り取りを行っていますから、遅くもなるはずです。ましてや、人気のない出兵とあっては、大義名分によって公権力で強制できなければ、説得するのに時間もかかるはずです。
ところが、相手が美濃国の斎藤道三ではなく、兵力も少ない同族犬山の織田信清が相手の場合には、「(天文十八年)正月十七日、上の郡・犬山・楽田より人数を出し、かすが井原をかけ通り、龍泉寺の下、柏井口へ相働き、所々に烟をあげ候。即時に末森より、備後殿ハ御人数かけ付け、取り合い、切り崩し、数十人討ちとり、かすがい原を犬山、楽田衆ハ逃げくづれ候。」という具合に、即応できているのですから、信秀の時代から既に少なからぬ常備軍を持っていたように見えます。つまり、スピードとは主将の決断と同時に、国人の動員に頼らなくて済む常備軍にあるわけです。
そして、それは一国を統一する過程においては、それ程の大兵力でなくても済んだようです。『信長公記』は「ケ様に攻め、一仁に御成り候へども、究竟の度々の覚えの侍衆七、八百、甍を並べ御座候の間、御合戦に及びて、一度も不覚これなし。」と書くからです。
逆に、信長のスピードが鈍った戦いも多くあります。桶狭間の戦いもそうですが、一番早い例は村木砦奪回戦です。砦が十分に堅固に補強されてしまった後からの出陣です。国人の知行地の問題に口を挟むのは難しいということでしょうか?………桶狭間の戦いに先立って大高城に付城を築いたときに、氷上砦や正光寺砦に信長麾下の武将が配置されたかのように考える方もいるようですが、村木砦の事件の経緯を見ますと他人の知行地には勝手なことはできないように思えます。
元亀年間の四面楚歌の時の信長は、ほとんど身動きがとれていません。三方ケ原の戦いがそうです。ですから、信長の持つ常備軍を上回る敵に対しては、スピードで勝負しようなどとは試みていないようです。敵に上回れる瞬間が来るまでじっと我慢し続けることを体得していたようにも見えます。勿論、その間も様々な調略を巡らしてはいたようですが………。
<初期には小兵力であったといわれる信長軍が、なぜ生き残れたか?>
『信長公記』によると、上洛前の信長は七、八百程度の兵力で戦っており、その他の伝承によっても会戦においては最大で二〜三千程度であったらしく思えます。これは、難敵の美濃斎藤氏との戦いにおいても父信秀のように尾張全土に動員をかけることもなく、七年も侵攻を繰り返したのです。勿論、支城や付城には幾許かづつの人数を配置していますから、全体の兵力は五六千を下らないかも知れませんが、信長が直卒した兵力というのはそれ程多くはないようなのです。現代と比較すれば、通常は約八百〜一千人前後の近代にいう「大隊」規模の部隊を信長は率いていたことになり、最大でも五千人未満の「連隊」規模の部隊を指揮して戦っていたことになります。
因みに、現代では、連隊が、一人の人間が把握統制できる最大規模であると云われ、陸上部隊がクーデターを起こすのに十分な条件が揃った構成であるとも言われているようです。
何故、信長は父信秀のように国中に動員をかけなかったのか?また、かける権限を持たなかったのか?
対外的には、尾張「守護の大義」では美濃に侵攻するには不足であることを知っていたからでしょう。だから、政略であれ調略であれ実力で征服する必要があったわけです。信長は守護であるとも守護代であるとも公称したことはなさそうです。また、国内を統一するには実力だけで事が足り、守護・守護代の大義名分を翳す必要などもなかったのでしょう。つまり、信長の出兵に参陣するのは利害関係者だけであった可能性があります。そして、その紛争の解決には守護であることも守護代であることも然して必要なく、強制力だけが必要であった可能性があります。
それならば、尾張の国人・地侍が信長軍に参陣する理由には、一つはその地域にいるため嫌でも巻き込まれるか、一つは功名を求めて信長家に仕官している場合であり、そうでもなければ、無理に参陣しなくても済んだのかもしれません。そして、そのような状況に止まっており尾張国中を巻き込んでの分裂に陥らなかったのは、紛争の原因が個別の領地争いでしかなく、それに対する裁定が武家の慣習法に則って正しい裁定をしていために、反対派を結集させなかったのだと小生は考えます。そして、そう思わせる逸話があります。
これは、史料としては怪しいものですが、『武功夜話』に、こういう話があります。岩倉城主・伊勢守家の織田信安には嫡男信賢、次男信家の二人の息があり、相続争いが起こった。父信安は信家を推すが家中は分裂した。信賢の妻は斎藤義龍の息女であったため、これを後ろ楯にして嫡男信賢は父信安追放する画策をする。信長は、この相続争いを見逃さず、生駒八衛門尉家長(吉乃の兄)を通じて岩倉織田家の奉行、稲田修理亮・前野宗康・福田大膳正に信安引退を迫る。岩倉織田家中では評議の上で信賢が伊勢守の後継者となり、信安は陶(各務原市須衛町)を越え、妻の生家斎藤氏を頼り、美濃白金(関市)の地に次男信家を帯同して隠居することになった。
ところが、伊勢守織田信賢は犬山の織田信清との大久地三千貫の領地争いを持ちだす。それに対する信長の調停は、「上四郡の丹羽、春日部郡は信賢、犬山大河筋より葉栗郡(含黒田城)は犬山織田信清。ただし大久地(大口)は古来より定めの信清の領地なれば従来通り」というものであったが、信賢は頑じ得ず、永禄元年になると、美濃斎藤義龍と謀って犬山・大久地・黒田勢を頼りに信長に反して実力行使を始めるに至ったといいます。
信長は生駒家長を通じて再三調停しようとしたが、信賢は承伏しなかった。信賢からすると、大久地三千貫文は祖父(敏信)が切り開いた土地であり、敏信が竹ケ鼻戦で明応四年(1495)討ち死にした時、後を継いだ父・信安が幼少であったために犬山城の信康(信清の父)が後見役となって大久地三千貫文を支配していたという経緯があるものだから、それを返せというわけです。
現代ではこれは尤もな言い分に聞こえるのですが、鎌倉以来の武家法では非法であることが確立しています。占有権が優先するからです。従って、岩倉家中はこれを諌めたのですが、止まず。織田信長は、岩倉城を永禄元年(1558)五月廿八日、七月十二日、翌年の初春と三回にわたって攻撃を繰り返す中で、みな信長の調略に応じて大和守家は追放されることになっています。こうして、伊勢守家と大和守家の歴史的な紛争も尾張国内の国人衆を巻き込んで分裂させることもなく消滅してしまったわけです。
このように、信長の動員した軍勢も少なかったのですが、敵方の動員できた軍勢も多くはなかったという事実があります。何故なら、紛争を個別的なものに抑え込んでいるえに、法理に照らして間然することがないから、信長の敵は味方を募り難いからです。従って、信長に敵対した側は、少なくとも長期に渡って継続して多数を維持することは出来なかったという特徴があるのです。赤塚合戦で千五百を動員した山口・今川同盟軍が、また稲生の戦いで一千七百を動員した信勝(信行)が尻窄みになって行ったように。
それだけでなく、信長が恵まれていたことは、隣国の斎藤氏から積極的な攻撃を受けなかったことがあります。専ら織田方から攻め込むのみで、偶に尾張の反信長分子が斎藤氏を引きこむことがあっても、積極的な侵攻にはあってはいないもようです。
斎藤家は下剋上の先駆のように言われており、斎藤道三は北条早雲と並んで戦国大名の先駆けのように思われていますが、その実態は戦国大名としての家中の整備は一番遅れていたようで、とても他国へ侵攻できるような状況ではなかったように見えます。それに対した桶狭間合戦以後の信長は、三河の家康と同盟し武田信玄にも誼を通じて背後を安全にしています。
それでも疑問が残ります。信長は七〜八百の手勢でなぜ常に倍する敵に勝てたのかということです。
此処で考えるべきは、長柄鑓や鉄砲の導入などではありません。これらがもたらした影響の程度については、ランチェスターの第二法則を紹介したところで論じてありますから、それを参照していただきたいのですが、技術的な優越では兵数で二倍の敵兵を圧倒することは非常に難しいのです。………そのありさまを映像で理解されたい方は、映画スターリングラードなどをご覧になってはいかがでしょうか?武器も持たない兵士がただただ前進する場面があります。前の兵士が倒れたならば、その武器を拾って戦えというわけです。
とすると、やはり兵数において信長側が優越したに違いないことになるわけです。しかし、『信長公記』をみれば信長が諸葛孔明ばりの奇策・奇兵を用いたこともなければ、戦場内での機動に優れていたわけではないことも明らかです。つまり、信長が優れていたのは指揮統率力・組織力だけであったということなのです。
そうなると考えられることは、軍隊の構成に違いがあったのではないかということです。しかし、信長も戦国時代の申し子であるのですから、その原則から抜け出ていたわけではないでしょう。実際に、彼より後の秀吉や家康の軍隊構成は信長の遺制を超えているかもしれないことを考えれば、左程新奇なことはなかったに違いありません。
そうしますと、考えられるのは、
- 馬廻(旗本)、当初は小姓・近習の構成割合の高さ
- 常備軍の割合の高さ
この二つが大きな役割を果たしたのではないかと思われることです。そして、それが最も大きく効果を発揮したのが意志の統一であり、団結力であったのではないでしょうか。つまり、信長軍のまとまりの良さに反して、尾張国内の敵対者は寄せ集めの烏合の衆の感を免れないのです。
ですから、信長軍は国外の敵(三河、駿河、美濃)に対しては勝った例は少ないのです。東の国境では村木砦の奪回と桶狭間ぐらいしか勝った例は『信長公記』には見えません。西の国境でもほとんどが攻城戦なのです。つまり、信長軍が圧倒的に強かったのは、尾張国内で同族を相手に戦っていた時だけのように思えるわけです。
それに、信長は常備軍や馬廻を用いての「戦術の革新」を行ったりはしていません。つまり、馬廻という突撃兵力を鉄鎚に用いて足軽長鑓隊を金床にするというアレクサンダー大王の採ったような戦術を考案できていないのです。あくまで、従来の戦国武士の戦法を踏襲しており、それを進化させたようなものは一切みられません。それに、他の一般的な戦国大名に比べて沢山いた馬廻を決戦兵力として使用した例もないのです。信長の場合の馬廻には、近衛兵兼高級官僚養成所のような感があります。
(2008・07・10 「天理本…」章から転載) 小生が桶狭間の戦いにおける信長の野戦での戦いを企画したのは、「乾坤一擲の無二の決戦」を企図したからではないと考えています。それまでの信長の戦績をみましても、奇策も迂回も別動隊も用いず、常に正攻法で真正面から攻撃し、勝たないまでも負けていないことを考えるからです。ですから、信長の決心は文字通り「国境で一戦すること」であり「決戦」することなどではありません。………このような信長の軍事行動の背景にどのような軍事思想があったかを考ますと、信長は桶狭間合戦後の美濃征服に七年もかかっています。しかし、これは信長だけのことではありません。義元は岡崎入城から数えて十年かけても西三河を制圧するには至っておりません。それどころか尾張国境では信長に押され気味にさえなってきています。武田信玄も北条氏も隣国を征服するには多年を要していますが、唯一の例外は上杉謙信が小田原城に迫ったときぐらいなものなのです。ですから、どこをどう押しても「決戦」などという思想は出て来ようがないのです。
このような事実を総括しますと、「守護」という大義では領国を統一するのに精一杯であって、隣国を併合するための正統性にはならず、「管領」の大義で初めて広域支配の正当性が得られたのだという事実です。実力だけでは足らないのです。
そこで、国主たちは「公儀」という用語を使いだします。信長は当然この事実を知っていましたから、将軍の求めに応じて上洛もしましたし、義昭を手に入れると一気に京まで征服することが可能になったわけなのです。………これは、軍事技術や兵器の優越性にあったのではないということを意味します。端的に言えば、謙信も信長も大義を得て諸国の兵を麾下に集めることができたのです。
そのような信長の軍事思想(戦略)の基礎になった事実には次のようなものがあります。
- 「ケ様に(身内にも叛かれて)攻め(られて信長公はただ)、一仁に御成り候へども、究竟の度々の覚えの侍衆七、八百、甍を並べ御座候の間、御合戦に及びて、一度も不覚これなし。」
- 「御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄炮五百挺もたせられ、」
- 「信長御小姓衆歴々、其の員を知らざる手負死人、目も当てられぬ有様なり。」
これは、信長軍が次のような特質を持っていたことを示していると考えます。
- 常備軍であったらしく出動が速いこと
- 補充が効く傭兵であったらしく、消耗した兵力の回復が早いこと
- 国人・地侍に憑勢をしていないために機動兵力は二千人程度であったらしいこと
- 信長自身の身代・兵力が他の国人衆に比べて格段に大きいこと
このような特徴を持った軍隊を使っての信長の戦略はただ一つ。「見敵、必攻」です。敗れても信長自身が戦場から逃れることができれば何も問題が生じないことは、後に金ヶ崎で証明していますし、負けても敵に消耗を強いれば兵農分離していないうえに「飢えの時代」の敵は例え一回ばかり信長に勝利したとしても継戦能力を失っていきます。つまり、とにかく敵と「戦うこと」が信長の戦略の全てなのであり、戦う機会を逃してはならないのです。ですから、信長の戦績には奇兵も奇策も伏兵もありません。信長自身が桶狭間の戦いを前にして自らの戦術を語っています。「小軍なりとも大敵を怖るるなかれ。運は天にあり。この語は知らざるや。懸らば引け、退りぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事。案の内なり。分捕りなすべからず。打捨てになすべし。軍に勝ちぬれば、この場へ乗りたる者は、家の面目、末代の高名たるべし。只、励むべし。」………これは、毛沢東のゲリラ戦術などではありませんし、決死隊の突貫戦術でもありません。
このようですから、敵の進出に接しての信長は「於是非国境にて可被遂御一戦候、寄地へ被踏迯候而は有に無甲斐」であり、前夜に至っての信長は「軍の行は努々(ユメユメ)これなく」なのです。
<攻城戦術>
信長の城攻めを大河内城攻めで見てみましょう。
信長は八月廿日に兵を出して廿八日から大河内城を囲むと、十日後の九月八日に夜襲を実施させていますが、それに失敗すると総攻撃などには移らず、以前からの常套手段である近隣在郷を悉く焼払って持久戦に切り変えています。その結果、五十余日の攻囲の後に十月四日には信長の二男お茶筅へ北畠家の名跡を譲らせて大河内城を明け渡し退城させています。この結末について、信長が長期にわたる攻囲戦に痺れをきらしたとか、攻め切れないので騙したと考える見方も多いのですが、それは当たらないと考えます。
信長は、始めには必ず調略を用いていますから、降伏してくれるのは原則として大いに歓迎すべきことなのです。ですから、力攻めに失敗したならば別にそれに拘泥することはしていません。直ぐに、これまでの常套手段である周辺地域の焼打ちを行って、長期戦に切り替えています。これは、何れの場合も同様なようです。信長が長期にわたって包囲網を敷いた例には「二、三ケ月近陣にとりより」攻撃した岩倉城攻めがあります。これなどもその前年に二回ほど合戦に及んでいて、その一つが浮野の戦いといわれるものです。そのような中で、敵陣営の中に調略をかけて手足をもぎ取り、最後に城を囲むわけです。
大高城や品野城への攻略には何年もかかっているかもしれませんが、攻囲してからの年月はそれほど長くはなさそうですし、大高城へは力攻めはしていないようですから、信長が短気であるというのは間違っていそうです。
それ以前の城塞には名塚砦があります。これは弟勘十郎信行派が家督相続を争ったときに、信長の御台所入である篠木(ササキ)三郷を押領された時に、北岸に砦を築かれて川東の地域の守りを固められてしまう前に、川の手前に監視砦を拵えて失地回復の出撃拠点にしようとしたものです。このため、そうはさせじとして林・柴田らが軍勢を催したために稲生で戦いが起きることになるわけです。
この稲生の戦いが重要なのは、尾張国人衆に戦国時代には如何なる国主が必要かを、信長が改めて国人・地侍たちに教えたことにあります。信長は率先垂範して陣頭指揮しているのに対して、弟勘十郎信行は「良きに計らえ」であり代理の柴田や林が出陣しています。尾張国においては尾張守護斯波氏も守護代岩倉伊勢守家も清洲大和守家も皆同じでありました。しかし、それでは尾張一国を統一して政治的安定を望むことなどはできないことを、信長が知らしめたのです。柴田勝家などが帰服し、佐久間一族が信長の味方につくのは、戦国時代は如何に生き抜くべきかを直観したからに違いありません。無能な貴種を担いで一揆を組んでいては、国内の揉め事も解決できないばかりか、近隣の強国に併呑されてしまうであろうという危機感を持っていたに違いないのです。
これは、隣国三河でも美濃でも起こりつつあったのです。三河では松平家中が主家を担いでまとまろうとしていましたし、美濃では斎藤道三の無策を見限った国人衆が龍興を担いでまとまろうとするようになるからです。後背地にフロンティアを持っていた水野信元などは、知多半島に覇を唱えて大名に伸し上らんとしていました。
稲生の戦いの後に拵えた「付城」には、浮野に砦を築いた可能性があると桐野作人氏が、『軍事カリスマの原点』歴史読本8年6月号連載第6回で指摘されています。浮野で戦いが起きたのは其処に信長が付城を築いて、柴田勝家・佐久間・森可成ら五百余を詰めさせていたからだというわけです。
美濃攻めの時には、稲葉山城に付城は作られませんでした。斎藤家との力の差がなかったからです。兵力に差がなければ付城戦術は使えません。折角兵力の効率的な有効利用を図ったのに、それを機能させるための機動的な予備隊(本隊)を確保できないからです。機動予備隊(本隊)がなければ、確固撃破してくれと言っているようなものだからです。その良い例が、桶狭間の戦いの時の丸根・鷲津砦です。それどころか、一歩間違えると、長篠城への付城・鴻巣砦のように使われないとも限りません。ですから、稲葉山攻めには後にも実行される本城の前進(小牧山城)と前線での出撃拠点とし墨俣砦(秀吉の一夜城ではありません)が用いられています。
付城を築いて長期にわたって攻略しなければならなくなったのは、越前攻略・石山攻略・長嶋一揆攻略などで、四面楚歌に陥ってからのことですが、これらは攻撃拠点としての付城であって、それ以前のような攻囲網の拠点としての付城ではありませんから、後の賤ケ岳戦線や小牧戦線の築城群に相当する戦術です。
当時の戦国武将がどの程度の陣城を築いていたか、築く能力があったかは、あまりはっきりしていませんが、非敵性地を行軍する分には味方の城塞や城下、宿場、寺社などを本陣や宿舎に利用したことが考えられますが、戦闘地域では陣城を築造したものと思われます。現在では、長篠合戦での勝頼なども信長の野戦築城に対して、陣城を築いていたと云われています。また、川中島の戦いで八幡原で上杉謙信を伏撃しようとした武田信玄も単純な堀と土塁・柵の方形陣城を築いて待ち受けたとされています。また、関ヶ原合戦での西軍も一晩で関が原に陣城を築いて東軍を待ち受けていますから、これは当然の処置であったように思えます。これらには、櫓をあげ板塀や根小屋を設けたかもしれません。ただし、これらは全軍を収容するようなものではなく、原則として本陣だけのように思えます。
付城を用いての攻撃は、戦国大名にとって常套手段でしたから、信長の新機軸というわけではないでしょう。そうしますと、本城を前進させることが信長の新機軸ということになります。
<本拠地の前進>
本城を前進させることの軍事的意味は、輜重隊を不要にすることです。最前線に短期間で進出できるからです。信長は新設した本城の城下に人と商品を呼び寄せるために、楽市楽座を施行します。これによって補給部門の多くを民間に肩代わりさせることができるわけです。ですから、信長の治世下には駅伝制も浦伝制も制定されていません。あまり必要性がなかったからです。その代り、道路や橋へは投資しています。武田信玄などは棒道といって軍事専用道でして、誰も喜ぶこともなく現在では消滅しており忘れ去られていますが、信長の場合は汎用道路であり、経済の活性化に役立っています。
他の戦国大名は信頼できる親族や重臣に預けてある支城に兵粮や軍需物資を備蓄したのですが、本拠を前進させた信長の場合には、公共事業を起こしただけでなく、領国全体の経済活性化のためにも貢献できており、格段に優れた戦略です。清洲城下町や小牧山城下町も本城移転後に消えてしまったわけではないからです。
この戦術は弾正忠家では代々のものです。何故なら、彼らは守護の被官であり守護代の被官であったのですから、生まれたときからのサラリーマンでして、転勤は習い性であったわけです。ですから、少しも苦になっていないようです。
これと似た家系を持つのが松平家です。彼らの場合はサラリーマンではなく、有徳人であったといいますから金融業者なのでしょうが、その以前は遍歴する職人であったらしいのですから、こちらも本拠を移動させることについては、さして頓着がないようです。
<姉川の戦いの信長戦術>
姉川の戦いの実態は殆ど明らかになっていません。
伝えられる軍記物への疑念は二つあります。(1)江戸幕府を開いた徳川勢が主役になっていること。(2)信長勢の十三段備え十一段までが破られたということ。(3)三代将軍家光の乳母・春日局の父である稲葉一鉄が主役の一人になっていること。
従来の説では、「(磯野)員昌の姉川十一段崩し」と云われ、織田方は十三段構えのうち十一段まで浅井軍に突き崩されたことになっているのですが、これには問題があります。織田方は足軽主体の集団戦法であるのですから、一旦戦線を突破されたならば、崩壊するのは早いはずなのです。ところが、織田軍の戦線は崩壊に至ってはいません。だからと言って、もし織田軍が敵の突撃を戦列を開いて通したとするならば、浅井軍が包囲殲滅されなかったことが不思議なことなのです。
動かせない事実もあります。
- 敗れたはずの浅井朝倉勢は三ヶ月後に石山本願寺の旗揚げに呼応して志賀の陣が始まってしまいます。
- 浅井勢は名のある武将が多く討死しているのに対し、『信長公記』には織田勢の交名はみえません。
- 『信長公記』によると合戦にいたったときの布陣は西に徳川軍、中央に信長馬廻、その東に美濃三人衆でしかないこと。
- 原型が信長時代に成立しているという『朝倉始末記』が記す三田村合戦はあっさりしており、信長に対しては相当気配りをしてはいても織田・徳川勝利とは記していないこと。
以上のことから推測しますと、
- 信長が戦況を誤認して敵に背を向けて横山城の包囲網を敷いたために、信長の本陣には馬廻と美濃三人衆、そして援軍として到着したばかりの徳川勢しかいなかった。
- 敵が姉川を前に布陣したために急遽、信長本隊と徳川隊が迎撃に展開して合戦に及んだ。
- 当初は相当な激戦であったが、横山城包囲軍が次々に駆けつけてきたために、後世に「十一段崩し」と史実と逆転して云われるような信長方兵力の逐次参加状況が出現した。
- 結局は、兵力の劣勢を痛感した浅井・朝倉軍が兵を退いたために、傷み分けになった。
- 織田勢は、浅井・朝倉勢が撤退した後の小谷城下に働いて城下を焼き払った。
織田軍の戦果は名のある武将を多く討取った他に千百余であったという『信長公記』のようであったということになると考えるのが妥当でしょう。
これまで云われてきたような、(1)徳川勢の榊原康政の横入りや(2)稲葉一鉄の横入りによって浅井朝倉勢が崩壊したというのは嘘とまでは言えなくても、それによって大勢が決まったのではなく、(3)横山城の包囲網を説いて次々に戦場に投入された圧倒的な兵力差が勝敗を決したというべきでしょう。従って、(4)従来の十一段崩しというのは、単に十一部隊が戦場に到着した順番、すなわち姉川への距離の近さに過ぎなかったものと考えられます。
ですから、この戦いを(1)敵を誘き出すための囮作戦であったとしたり(2)榊原康政や稲葉一鉄による別動隊の横入を勝因とする史観は、旧参謀本部史観と同様の過ちを犯しています。要するに、戦勝には解答は必ずあるという錯覚(奇襲・迂回・包囲・挺身)を前提にしているからです。戦争は何処まで耐えれば良いかという限界の見えないチキンゲームですから、当然の負けはあっても勝ちには不思議の勝ちしかないのです。
防衛大学教授の河野収氏は「織田軍団勝利への戦略/別冊歴史読本・疾風織田軍団百人の武将』で、姉川合戦の朝倉軍は、一万の大部隊を三つに区分しているだけであるうえ、後世まで名を残して死んだ豪傑が多いのは、いまだ決戦兵力を個人の武勇に依存していたからであり、浅井軍五千はそれより幾分進歩しており、五段に備えることができたといわれ、これらに対する織田軍は一万五千の兵を十三段に分けられるほど進んでいたとされています。
部隊を細分できるということは、足軽部隊が主体となっているために、指揮官がそれだけ存在し、指揮系統が確立され、それだけ柔軟に対応できるという趣旨のようです。しかし、当時の軍隊は寄親寄子制でできていましたから、元から細分されていて分散しやすい傾向があり、統合して運用することの方が大変だったはずです。信長軍にしろこの傾向は免れません。ですから、信長軍が十三段あったということは、それだけ大兵力であったということを証明しているだけでしょう。ということは、織田軍の野戦での強さの秘密は足軽雑兵の多さ=人海戦術にあったと看做さなければなりません。
それに、決選兵種は何処までいっても通常は下馬する騎馬武者の白兵戦によっており、突撃部隊に楔を打ち込まれた足軽主体の軍隊は頗る弱かったように思えます。三方ケ原の徳川・織田連合軍の不甲斐なさに比べて、九州征伐での島津軍の強さは何れも抜刀隊の強さによるものでしょう。そして、日本軍の鉄炮隊も弓隊も突撃する軍兵を制止する能力などはないのです。それは、朝鮮役がよく証明しています。機関銃ができるまでは、城塞によらなければ三段撃ちであろうと、突撃を食い止めることなどはできなかったのです。
そうしますと、浅井軍は信長軍の十三段の構えを突破したのではなく、十三波に渡って次々に戦場に遅れて駆けつけてきた新手の織田軍と手合わせしなければならなかったとのだという解釈が相当であることになります。それに、朝倉軍が三つ以上に分けては書けなかったのは史料不足であるに過ぎないかも知れません。つまり、史料の多く残る順=勝った側がより詳細に記載できたというだけのことだと小生などは考えるわけです。おまけに、当時の戦国大名家はみな寄親寄子制であったのですから、分割できないわけはありません。むしろ、まとめて指揮下に置くことの方が難しかったはずです。
と言うことは、信長軍が勝れていたのは同じような寄親寄子制を基本にしてはいても、足軽の占める割合が多く、その上それを十三部隊に編成できて、常時それを遠隔地に派遣運用できたことにあります。これがやがて軍団制にまで発展するわけです。
また、何よりも中国や欧州のように中央からの統率によって陣形運動ができた軍隊などは戦国時代にはなかったことを考えるべきです。勿論、信長軍も同様です。しかし、初歩的な団体行動ができなかったわけではないことは、天正年間の信長の「御狂い」といわれた軍事訓練や、端史にみえる軍事訓練から窺うことができます。ですが、それが古代ギリシャ・ローマの軍団や近世ヨーロッパの方陣を想像するべきではないと思います。
従って、織田軍の強さは(1)将軍足利義教の奉公衆に匹敵する巨大な馬廻(姉川合戦の初期には馬廻だけで敵の攻撃を支えている)と(2)雑兵による人海戦術であり、そして(3)足軽の補充が効いた事によって敗戦して崩壊四散した軍隊の復興の早さにあるものと思われます。これは、傭兵としての給料が確実に支払われたことによるものと考えられ、兵士は自発的に集合したものと考えられます。その背景には、飢饉と収奪される農村の悲惨な現実があるのでしょうが。
徴兵制であった旧日本陸軍の下士官志願者は、農家の次男坊三男坊の口減らしの手段であった。日本陸軍の下士の待遇は最低最悪であり、世間はまともな人間の職業とは思っていなかったと、山本七平氏は述べておられる。しかし、その最低の待遇と最低の給料に甘んじて、生きるために現役志願したのです。同様に、信長の足軽も給与さえ確実に支払われれば、応募者は事欠かなかったことは、秀吉時代から本格的に始まる「人返し令」が証明しています。
しかし、問題にしなければならないのは、なぜ西欧的な方陣やマスケット銃隊ができなかったかという事実の方です。おそらく最大の問題は「士官と隊伍の制度」ができなかったことにあると、小生は考えます。信長・秀吉の下で能力次第で出世できる道は確かに開かれたのですが、それは徒弟制度によって芸術的な道の追及に逸れてしまい、制度として一般化させて普及させることはできませんでした。
まるで無かったと言えば嘘になるが、江戸時代になっての諸藩の軍事組織をみれば、各藩で基本構成が異なり、寄親寄子制の残滓を引き摺っているために、十人の足軽大将もいれば百人の足軽大将もいることになり、五人を基礎単位にしていないのです。ですから、番頭という呼び名はあっても律令軍制の伍長や什長は復活していないのです。それに、軍隊の行軍であるはずの参勤交代での行軍順序を見ても各家によって違います。
当時の日本人の基礎能力の高さは、舶来の火縄銃を瞬く間に全国に普及させたのですが、遂に規格化させることによる大量生産には行き着くことができなかったのです。それを考えますと、余りにも早く平和が到来したことに原因を求めたくなります。つまり、需要がなくなったために、競争することが必要なくなったのであり、むしろ悪いことになってしまったわけです。そして、急速な平和の到来は銀の枯渇を原因とした世界貿易網から排除されたことにあります。
残念なことに、秀吉による海外進出は陸軍の派遣でした。世界の歴史が必要としたのは、海賊を基礎とした海軍を黄海沿岸に沿って派遣することだったのです。これで、日本は完全に三角貿易と植民地主義という世界史の流れに乗り遅れてしまったのです。その代りに四百年の長きにわたるパックストクガワーナを享受したのではありますが………。
<信長のカリスマ性を考える>
現在、桐野作人氏が歴史読本紙上で信長の持つカリスマ性を主題にして連載されています。まだ第七回まででして桶狭間の戦いの入口に到達した段階ですから、その全体像は知れませんが、ここで小生も信長のカリスマ性と現実に戦われた戦争に及ぼした影響について考えてみようと思います。
桐野氏は、第一回は信長の「御狂い」を採り上げて、信長の生涯を貫く軍事カリスマ性の晩年における奇矯な発露と見るべきかもしれないとして、四十代後半と若い信長は一面で自分でも制御しきれない覇気をもてあまして、気鬱を散じる必要があったのかもしれないとされているようです。
「御狂い」と「覇気」は通じますが、「覇気」と「カリスマ性」とは関係なさそうですし、「カリスマ性」と「御狂い」は縁遠いような気がします。気だけですが………。
また、第七回では天理本で描かれた桶狭間合戦前夜の軍議で決戦を主張する信長の姿が流布している陽明本の「その夜の御話、軍の行は努々これなく、色六世間のご雑談までにて」という姿より真実に近く、古態を保っているとされています。
そう言われて、ふと思ったのですが、「軍の行は努々これなく」というのは、軍議そのものがなかったのではなく、後詰の軍勢をどのように派遣するかという具体的な先鋒などの役割分担や行軍序列などについての指示がなかったことを記しているだけなのではないかと考えてみました。
軍議はあった。信長の決戦の意志は固かった。だが、何時、何処で、どの部隊でもって戦うか、何処に集結させるかというような具体策が指示されなかった。………これが、家老衆が呆れ返って、「運の末には知恵の鏡も曇るとは、この節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ候。」理由なのだろうというわけです。つまり、気勢をあげただけで実態がないわけですから。
しかし、敵を欺くために味方を酔いつぶしたとあっては………。何しろ、出陣には雑兵二百、熱田に二千ばかりの将兵しか集まらないのでは、何をかいわんやです。そして、酔わずに集合してきた連中の方が敵に通じている恐れが強くなってしまいます。
というわけで、この連載第七回では気になった議論がありました。それは、天理本に描かれた姿が「カリスマを確定する前」の信長の真姿ではないかとされている点です。
小生は、カリスマは生得のものであって、突然発現するものであって育成されて成長するような性質のものではないのではないかと思います。カリスマはある日突然、完成された形で発現するのであって、いよいよ強く盛んになったり衰えたりはしても、次第に成長するものではないと思うのです。
例えば、タイガーウッズのカリスマ性などがそのようなもので、ハニカミ王子のように成績が低迷したりはしないようでして、一気に最高のレベルに上り詰めてしまうようです。勿論、その後には不調やスランプはあるのでしょうが………。
逆に、地位が人を作るといわれるように、横綱になってから大横綱になる人もいるのですが。それは、成長というようなものではなさそうです。どちらかといえば、プラトー現象のように見えます。
さて、信長のカリスマ性を示すような『信長公記』の記載にはどのようなものがあるかを首巻から探してみます。
- 「三郎信長公を、例の大うつけよと、執々評判候ひしなり。其の中に筑紫の客僧一人、あれこそ国は持つ人よと、申したる由なり。」………信長という人物の価値は一人の客僧にしかわからなかったということになるのですが、これはカリスマと言えるだろうか?
- 「御伴衆七、八百、甍を並べ、健者ヲ先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄炮五百挺もたせられ、」とあるのは、ここでの御伴衆は信長の熱狂的信奉者であったということなのでしょうか?
- 「道三申す様に、されば無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事、案の内にて候と計り申し候。」………信長という人物の価値は道三にしかわからなかったということになるわけですが、これはカリスマと言えるでしょうか?
- 「上総介殿御下知なさるゝ間、我も々ゝと攻め上り、塀へ取り付き、つき崩しつき崩し、(中略)山城が申す様に、すさまじき男、隣には、はや成人にて候よと、申したる由なり。」………道三の心情が分かる織田玄蕃充殿宛の手紙、「御札拝見申し候。御家中の躰、仰せの如く外聞然るべからざる次第に候。此方においても迷惑せしめ候。寄り退き候はざる間、共々捨て置かれず、仰せ談ぜられるべき事、然るべく候。何篇重ねて使者を以てご存分承るべく候。三郎殿様御若年の義に候、不端(断)のご苦労尤もたるべく候。猶、来音を期され候。恐惶謹厳。(天文廿一年か?)六月廿二日、織田玄蕃允(秀敏)殿御報、道三(花押)」
- 「ケ様に攻め、一仁に御成り候へども、究竟の度々の覚えの侍衆七、八百、甍を並べ御座候の間、御合戦に及びて、一度も不覚これなし。」
- 「相かかりに懸り、合戦のところに、爰にて上総介殿大音声を上げ、御怒りなされ候を、見申し、さすがに御内の者どもに候間、御威光に恐れ、立ちとどまり、終に逃げ崩れ候ひき。」………これは明らかに伝統的権威による支配であろう。
- 「爰にて御対面候て、御詞を懸けられ候。汝等を上総介が討手にのぼりたるとな。若輩の奴原が進退にて信長を濟ふ事、蟷螂が斧とやらん。実ならず。さりながら、爰にて仕るべく候やと。仰せ懸けられ候へば、六人の衆、一様に難儀の仕合せなり。京童二様に褒貶なり。大将の詞には似相はずと申す者もあり、亦、若き人には似相ひたると申す者も候べき。」
- 「信長の武者を知られ候事、道理にて候よとぞ、ふしおがみたる躰にて」………真っ当な武人として信玄に認識されたようである。
- 「此の時、馬上六騎、雑兵弐百計りなり。」………
- 「勿体無きの由、家老の衆、御馬の轡の引き手に取り付き候て、声々に申され候へども、振り切って中島へ御移り候。此時、二千に足らざる御人数の由、申し候。」
- 「各よく貼承り候へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、疲れたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るるなかれ。運は天にあり。この語は知らざるや。懸らば引け、退りぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事。案の内なり分捕りなすべからず。打捨てになすべし。軍に勝ちぬれば、この場へ乗りたる者は、家の面目、末代の高名たるべし。只、励むべし」
- 「右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ」
- 「沓懸の到下の松の本に、二かい、三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒る々。余の事に、熱田大明神の神軍かと申し候なり。」………それまでは、「バサラ」な若者でしかなかったのが、ここで初めて神憑りした信長が現れ、カリスマ性が確立したのか?
- 「信長、槍をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かかれ、ゝゝゝと仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、(中略)旗本は是なり。是へ懸かれと御下知あり」………
- 蛇がへの事 「信長公御運の強き御人にて、あまが池より直ちに御帰りなり。惣別、大将は万事に御心を付けられ、御油断あるまじき御事にて候なり。」
- 火起請御取り候事「其の時、上総介殿御諚には、我々火起請とりすまし候はば、佐介を御成敗なさるべきの間、其の分、心得候へと御意候て、焼きたる横攵を御手の上に請けられ、三足御運び候て、棚に置かれ、是れを見申したるかと、上意候て、佐介を誅戮させられ、すさまじき様体なり。」
- 二宮山御こしあるべきの事「上総介信長奇特なる御巧みこれあり。」
- 「二、八月朔日、美濃三人衆稲葉伊予守氏家ト全、安藤伊賀守申し合わせ候て、信長公へ御身方に参ずべく候間、人質を御請取り候へと、申し越し候。然る間、村井民部丞・島田所之助人質を請取りに西美濃へさし遣はされ、未だ人質も参らず候に、俄に御人数出だされ、井口山のつづき瑞龍寺山へ懸け上られ候。(中略)翌日御普請くばり仰せ付けられ、四方鹿垣結ひまわし、取り籠めをかせられ候。左候ところへ美濃三人衆も来参り、肝を冷やし、御礼申し上げられ候。信長は何事もケ様に物軽に御沙汰をなされ候なり。」
- 「」
- 「」
さて、以上のようなエピソードの中に信長のカリスマ性を見つけることができるでしょうか?
稲生の戦いで「爰にて上総介殿大音声を上げ、御怒りなされ候を、見申し、さすがに御内の者どもに候間、御威光に恐れ、立ちとどまり、終に逃げ崩れ候ひき。」とある記事を、信長のカリスマ性は既にいかんなく発揮されていると考えるのは行き過ぎであり、「さすがに御内の者どもに候間、御威光に恐れ」とあるのですから、実際は弾正忠家の伝統的権威に服したのではないのでしょうか。
青年期の信長は、万人を感化するようなカリスマを持っていたようには見えません。一人の客僧や斎藤道三、武田信玄といった極僅かな人だけが信長の非凡性を見抜いていただけであり、守役であった平手中務を始めとした一般の人にとっては「ヤンチャ」な若者にしか過ぎなかったのではないのでしょうか。
さて、そうしますと、桶狭間前日の清洲における信長軍の動向は、寄親寄子制と直轄常備軍制の二足の草鞋に基盤をおいた信長の初期軍制の危うさが現れているということになるのかも知れません。
寄親寄子制は紛争地域を中心にした利害関係者である国人・地侍らが、自身の損得を計算して自主的に参加しているのであって、向背が保証されていない戦力ですし、律令制の官僚的な軍隊と違って、指揮が有効にできるかどうか定かでない面が多分にあります。そして、直轄常備軍は信長の意のままに指揮できますが、絶対的な兵力は不足していますが、いちいち事前の相談などは必要ありません。規模も小さいものですから、口頭の号令で指揮することが可能でした。
このため、自己の損得勘定で集まってきている国人・地侍(これらは、信秀の時代からの重臣や有力者でもあります)を使うためには、具体的に指示を与えなければならないのですが、信長はそれをしませんでした。ですから、重臣たちは「運の末には知恵の鏡も曇るとは、この節なりと、各嘲弄して」呆れ返ったのです。しかし、信長には解っていました。その後に直ぐにおこった千秋・佐々らの抜けがけに明らかなように、当時の武者たちは闘牛と同じで敵を目にしたならば、命令などは聞かない連中なのだということがです。
ですから、天理本のいうように、信長は前夜まで(小生は前夜以前の出来事であったと考えています)の軍議では、揺るぎない決心を披歴していたのですが、前夜の軍議では陽明本のいうように各自の部署を定めなかったのでしょう。当時の習慣からしても軍陣に酒宴はつきものですから、景気づけに酒宴に及ぶことは不思議には思いませんが、陽明本の雰囲気は酒宴に及んだようには見えません。
註 天理本は、「信長公御鼓にて乱酒に罷成退出被申候也」としていますが、これが「諸将は痛飲したうえで、何も決定しないままに下城された」と訳すのか、「諸将が無礼講に及んだので、信長は何も指示せずに早々に退席された」と訳すのかは小生の読解力では決定できません。後者ならば、陽明本とも矛盾しないように思えます。
そうしますと、信長にカリスマ性が降臨したのは、山際で「熱田大明神の神軍」が味方したかと思わせるような「俄の急雨」を呼んでからのことのように思えます。………これ以降になると、有力国人衆の不服従や信長への侮りの記事はなくなりまして、西美濃三人衆といわれた武将たちにも「肝を冷や」させるような威圧感を身に着けたように思えます。






