<村木砦>  天文廿三年(1554)正月廿四日  (2008.5.28〜)

 

『信長公記』の原文は次のようなものですが、「大高の価値」でも申し上げましたように、牛一の首巻はメモの寄せ集めの観を呈していまして、一貫した編集はなされていないというのが、藤本正行氏の研究で明らかになっています。

従って、人名の場合には水野「金吾」や水野「下野守」としたりしていますし、信長についても「上総介」としたり、「殿」をつけたりしています。地名の場合では、「小河」と書いたり「小川」としたりと、その表記にも一貫性を欠いています。しかし、小生はいちいちそれを取り上げて夫々を別人であるとか、別の場所であるとかを論じることは、ここではいたしません。

さる程に駿河衆岡崎に在陣候て、鴫原(重原)の山岡(伝五郎)構へ攻め干し、乗取り、岡崎より(支援して)持ちつづけ、是れを根城にして、小河水野金吾構へ差し向かひ、村木と云ふ所、駿河より丈夫に取手を相構へ、駿河衆楯籠り候。並びに、寺本の城も人質出し、駿河へ加担仕り、御敵に罷りなり、小河(緒川)への通路を取切り候。御後巻として、織田上総介信長御発足たるべきの旨候。」

併し、御敵、清洲より定めて御留守に那古野へ取懸け、町を放火させ候ては如何とおぼしめし、信長の御舅にて斎藤山城道三かたへ番手の人数を一勢乞ひに遣わされ候。道三かたより(天文廿三年)正月十八日、那古屋留守居役として、安藤伊賀守(守就)大将にて、人数千計り、田宮、甲山、安斎、熊沢、物取新五等を相加へ、(尾張で)見及ぶ様体日々注進へと申し付け、同じ事に、正月二十日、尾州へ着き越し候き。

居城那古野近所、志賀、田幡両郷に陣取りをかせられ、廿日に、陣取り御見舞として、信長御出で、安藤伊賀守に一礼仰せられ、翌日御出陣候はんのところ、一長の林新五郎、その弟美作(ミマサカ)守兄弟、不足を申し立て、林(の)与力あらご(荒子)の前田与十郎城へ罷り退き候。御家老の衆、いかが御座候はんと申しへどもも、左候へども、苦しからざるの由、上総介仰せられ候て、御働き。

其の日は、”ものかわ”と云ふ御馬にめし、正月廿一日あつた(熱田)に御泊り、廿二日以外の大風に候。御渡海なるまじきと主水(船頭)、楫取りの者申し上げ候。(源平の)昔の渡辺、福島にて(義経と景時とが)逆櫓を争ふ時の風も是れ程こそ候へめ。是非において御渡海あるべきの間、舟を出し候へと、(熱田から風雨を衝いて)無理に廿里計りの所、只半時(一時間)計りに御着岸。」

その日は野陣を懸けされられ、直ちに小川へ御出で、水野下野守に御参会候て、爰許の様子、能々きかせられ、小川に御泊り。」

そして、いよいよ合戦の様子です。

一、正月廿四日払暁に出でさせられ、駿河衆楯籠り候村木の城へ取り懸げ、攻めさせられ、北は節所手明(薄)なり。東は大手、西は搦手なり。南は大堀ガ霞むばかり、かめ(甕)程(形)にほり上げ、丈夫も構へ候。上総介信長、南の方、攻めにくき所を御請取り候て、御人数付けられ、若武者ども、我劣らず、登り、撞(突)き落とされては、叉(這い)あがり、手負死人其の数を知らず。信長堀端に御座候て、鉄炮にて、狭間三つ御請取りの由仰せられ、鉄砲を取替え取替え放させられ、上総介殿御下知なさるゝ間、我も々ゝと攻め上り、塀へ取り付き、つき崩しつき崩し、西搦手の口は織田孫三郎(信光)殿攻め口、是れ叉、攻めよるなり。外丸一番に六鹿と云ふ者乗り入るなり。東大手の方は水野金吾攻め口なり。」

城中の者働く事、比類なき働なり。然りと雖も透をあらせず攻めさせられ、城内手負死人、次第々々に無人になる様に、降参申し候。尤攻め干さるべき事に候へども、手負死人塚を築き、其の上、既に薄暮に及び候の間、詫言の旨にまかせ、(始末を)水野金吾に仰せ付けらる。」

信長御小姓衆歴々、其の員(数)を知らざる手負死人、目も当てられぬ有様なり。辰の刻(am八時)に取り寄せ、申の下刻(pm五時)まで攻めさせられ、御存分に落去候ひ訖んぬ。御本陣へ御座候て、(討死した小姓衆について)それもゝゝと御諚なされ、感涙を流させられ候なり。翌日には寺本の城へ御手遣はし、麓を放火し、是より那古野に至って御帰陣。」

一、正月廿六日、安藤伊賀守陣所へ信長御出候て、今度の御礼仰せられ、廿七日、美濃衆帰陣。安藤伊賀守、今度の(信長の)御礼の趣、難風(を侵しての)渡海の様体、村木の城を攻められた仕合、慇に道三に一々物語候ところに、山城が申す様に、すさまじき男、隣には、はや成人にて候よと、申したる由なり。」

以上が、村木砦攻めに関しての一級史料でして、他に同時代史料は勿論のこと、芳しい史料はありません。

 

なぜ村木砦を築くことができたか?   (2008.07.21 追加) 

ところで第一の問題は、この村木砦攻略戦の大きな問題は、やはり水野一族の動向でしょう。簡単にいえば、

  1. 刈谷城から衣浦湾を挟んだ対岸で、緒川城と目と鼻の先の村木に今川方が易々と砦を築けた不思議
  2. 知多半島を統一したと看做されているはずの水野信元がそれを阻止どころか、排除するための高々二・三千の兵力を動員できずに、信長の「後巻」を請うたこと

今川方が素早く村木に砦を築けた理由としてまず考えられることは、もともと既存の砦があった可能性が一つ考えられます。これは、「忠政は尾三に威を振るい、村木村と刈谷に城砦を設けて六ケ城を支配した。」と書く『大府町史』や小冊子『村木砦』がその立場です。駿河勢は既存の砦を補強拡張したものとも思われ、新たに山林を切り拓いて砦を新築したようなものではない場合があります。これならば、敵中であっても比較的簡単迅速に砦を増築することができます。

既存の砦を奪取して利用するのであれば、今川方が奇襲攻撃することによって可能であったろうと考えることができるわけですが、この場合の今川方の攻撃は東側の浜辺からの奇襲上陸作戦によったものと思います。

これは、『信長公記』に「東は大手」とあることから、村木砦の大手門が海に面した東側にあったことが分るからです。ということは、駿河勢もその前の砦の主も主要な交通を船に限って出入していたことになるわけでして、これは此処が岬などではなく島であって、元々陸側からの道などは存在しなかったからだと考えることもできます。つまり、船で奇襲上陸したのであり、陸路から攻撃したわけではないというより、陸路からは攻撃できなかったからではないのかとフト思うのです。

ということで、村木砦の場所がであったとしますと、もう一つの理由を考えることができます。

どう考えても水野氏の勢力下にあったと思われる村木に今川方が砦を築くことができたのを不思議に我々が感じるのは、加工した木材を駿府から運んだと言われても、今川方の松平軍が陸地を行軍してきて占領したという先入観を持っているからではないのでしょうか。ところが、実際に陸上である石ケ瀬川で両軍が激突するようになるのはかなり後の永禄元年が最初なのです。

 そこで小生が考えるに、村木砦という小山は満潮時には恐らく陸地から完全に隔離されてたのではないかと考えるのです。つまり、村木砦は、満潮時にはになったと思うのです。今川方は東の海側の砂浜に船を乗りつけることによって島を占領したものと思われますし、強力な守備兵力を配置すれば容易には奪回されなかったのでしょう。

また、なぜ刈谷・緒川水野氏が村木砦の構築を妨害しなかったのか不思議がるようですが、これは村木砦の存在場所が岬だと思っているからです。これが無人島であったならば、十分な兵力によって不意をついて上陸を敢行されたならば、防ぎようがありませんし、奪回することも困難なはずです。………竹島のようなものです。

今川方として本来、村木砦を「水城」に造りたかっただろうことは、木村砦の全周が湿地帯で囲まれているという、『名古屋市史』によりますと奥田敏春氏の研究と終戦後に撮影された米軍の航空写真をもとにされた推定復元図が提案されていることから判断できます。………ここで小生が思うには、これがただの湿地ではなく、元来「潟」ではなかったか?ということです。村木砦の北東には、船着場があり此処が水上交通と交易の拠点であったことを示していると看做したがりますが、その場合には必ずや砦があったものと思うのです。しかし、小生は、村木砦が作られる以前には村木邑には船江などはなかったと考えた方が無難だと思います。村木村の周囲は遠浅であって、船江ができないかったのではないかと思います。

だとしますと、干潮時には空堀の役しか果たせなかったのではないと思うのです。これは、『信長公記』に「若武者ども、我劣らず、登り、撞(突)き落とされては、叉(這い)あがり、(中略)我もゝゝと攻め上り、塀へ取り付き、つき崩しつき崩し、」とあって、「南は大堀霞むばかり、かめ(甕)程(形)にほり上げ」ており、海の近くなのに水を引き入れていないようでのあり、信長の部下たちは攻め掛るのにものともしていないのです。柴木も藁も入れて埋め戻しもせず、橋もかけずに攻撃しているからです。

それに、信長や信元がここを攻略した後にそれを使用していないからですし、殆ど津や江としての町場の形成がその後背地である村木村に見られないからです。それが証拠に、砦跡には大正期の地形図にさえ此処には人家の記載がないのです。村木村は邑ですから人家はありますが、砦の此処には人家はないのです。昔の人であろうが、合戦があった場所だからといって、そこを忌避して家を建てないなどということはないだろうと小生は思います。

『東浦町誌』によりますと、元禄十四年(1701)尾張国絵図に「村木村、熊村、海上十一町卅間、緒川村、刈谷村、海上十五町」とか、「森岡(村木ノコト)では、現在の盛岡駅東方約三百mの位置まで五ケ村川の支流をさかのぼって浜小新田の南にそって水路が開かれており、かっては年貢米もここから船で運び出したことがあり、」とありますから、中世においても対岸三河国の熊村などとの交通は渡船によって活発に行っていたものと思います。しかしだからといって、村木砦の西の字・段上にあった「臨江庵」が船津を管理して利用税を取り扱う役所「海関」も兼ねていたと考えるのは行き過ぎでしょう。

  1. 現・月照山臨江寺(曹洞宗)は永禄六年(1563)に月山言公の開創で臨江庵といったと『東浦町誌』にはあります。ただし、臨江庵が「庵」とありますように、草葺の質素な小屋でしたでしょうから、前身が住職のいない寺として存在していた可能性も考えられます。
  2. 漁村と農村と交通の要所という三つの要素を兼ね備えた恵まれた土地には、当然多くの人が集まってきて、都市的な要素をもった集落が早くから形成され港町として発展するはずです。そして、有力者が城館を構えれば城下町になるはずなのです。それが緒川村でした。中世に緒川城が新たに築かれているのは、当時の緒川城下には海が迫っており、入江があったようですから、こちらに船舶の入港があったために緒川水野氏の富が築かれたものと考えられます。現東浦町役場辺りの字名は「政所」です。………しかし、村木村はその何れでもありませんでした。そのような訳で、「臨江庵」が管理したのは村木村共有の渡船であったと考えるべきではないかと思うわけです

註 鳴海城は東西136m、南北62m。大高城は東西106m南北32m。善照寺砦は東西60m南北36m。丹下砦は東西84m南北78m。鷲津砦は東西40m南北69m。丸根砦は東西36m南北28m。中島砦は東西145m南北91m。安祥城は200m×120m末森城は東西約180m南北約150m。織田信光の守山城は東西58m南北51m。………これらの資料からみると村木砦は大きい部類です。しかし、城塞は規模で城と砦を区別するわけではないでしょう。一般には城というのは領主の居館であると同時に一定地域の行政官庁も兼ねているものを云い、砦というのは純粋に戦術上の臨時的な構築物をいうものと使い分けられているのではないかと思います。また、城塞規模は守備に動員できる兵力に相応しくなければ、防御力が手薄になったり兵粮の欠乏や不衛生を招くことになるはずです。それだけではありません。村木砦は城下町を伴わず、惣構がないのです。

村木村は特殊な村であったと『新編東浦町誌』は云います。

そこには、「乾坤(ケンコン)院の東浦町域での布教が北部の村木・緒川・石浜の三ケ村にいち早く広がっていたことがわかる。(中略)注目されるのは、寺庵の名がこの村木村にとりわけ多く現れることである。(中略)この寺庵には、複数の宗教者が起居していたことは、寺庵名の後に「同宿」「弟子」「典座」と書かれた名前があることから判断できる当時の村木村が、寺庵の多い宗教者が多く立ち寄る独特の性格を持った村であったということ、そしてまた、”極楽寺引”とあるように彼らが乾坤院の布教の拡大に大きな役割を果たしたことを示していると考えられる。」とあります。ここに寺庵が多数存在することを考えると、港としての機能を持たなかったにも関わらず、宗教地区としての布教拠点になっていた可能性があり、軍事的には空白地帯であったものと小生は考えます。

このことから、臨江庵が衣浦湾の航行を監視して関銭を徴収したりした海賊的機能を持っていたとは思えないのです。すなわち、村民たちがある種協和的に、すぐ南にある緒川水野氏に対抗して海賊行為を行っていたとは到底思えないのです。同時に、緒川水野氏も村木村の臨江庵に拠って、村役人に命じて関銭を徴収したりした海賊的行為をさせていたとも思えません。………村木砦の戦いで水野家臣の清水八右衛門家重は信元と海側からの攻撃に参加し、戦後は戦功によって村木邑の代官になったとも言われているようです。緒川水野氏が村木村に代官を置けたのは戦後になって始めてなのかもしれません。

そうであるならば、その盲点を今川方に衝かれたことに加えて、宗教的不可侵性という共通認識があったために、水野信元の対応が遅れ、みすみす村木砦の築造を許したのかも知れないと考えるわけです。そうでもなければ、水野氏が六ヶ月も手を拱いているわけがありませんし、戦後に今川方の築城に加担した村人を処刑しているのは、宗教的中立性を破ったからであると考えれば、信長の宗教者に対する態度というものが、この頃からも明らかに発揮していたということができると思うわけです。

 

駿河勢はなぜ後詰しなかったのか?

第二の問題は、小豆坂合戦・安祥城攻略・刈谷城進駐・桶狭間合戦というこの四回の戦いを除いては、全てが三河松平氏による代理戦争に終始しており、「駿河勢は後詰に出陣していない」ことです。そして、その結果は全て織田方によってその企画を頓挫させられているといことなのです。その中には、吉良大浜衆が志摩まで海賊働きをして九鬼氏と戦った(天文廿二年)という伝承や、蟹江城(天文廿四年八月)まで遠征して攻撃したというものまであります。

もしかすると、今川義元には元々尾張侵攻という目標はなく、全ては三河松平氏の国境での紛争という現地事情に引き摺られて、心ならずも起ってしまった戦いが多いのではないかという疑いを小生などは持つわけです。従来いわれてきたような上洛や尾張征服というような野望や、最近いわれるような伊勢湾経済圏の支配などという大それた目標などはなく、西三河の安定的な支配・経営だけを目的にしていたようにも小生には思えるのです。

駿河勢が後詰したのは、小豆坂大高城だけではないのか?

それに、鵜殿長持の「去年以来拙者存分不相叶事候間、兎ニ角ニ御無事肝要候、」という手紙では頻りに和睦を望んでいる台所事情を窺わせるものがあり、「織備懇望子細候之間、苅谷令赦免候、此上、味方筋之無事無異儀山左申調候様両人可令異見候、」とした刈谷赦免という不思議な外交処置もあるのです。

林佐渡守はなぜ信長に従わなかったのか?

三番目の問題は、信長の一長の林新五郎と弟・美作守が与力であった荒子の前田与十郎の城へ罷り退いたことです。なぜ本領の西春町沖村ではなく那古屋の南の荒子なのでしょうか?………小生は、那古野城に居座ったならば、完全な謀叛と受け取られるから、与力の城館へ居候(蟄居)したという形を採ったのではないかなどと妄想しています。

(工事中)

 

緒川水野氏の制海権?

また、多くの人は水野信元は衣浦湾の制海権を握っていたと考えがちなのですが、海賊の縄張りを制海権というならばそうとも言えます。しかし、それは武装船を規制できるほど強力な組織だった軍事力によってなされていたと考えるのは行き過ぎです。それはあくまで当時の商習慣を破る商戦相手にした場合に有効であるという程度のものであって、瀬戸内海の海賊大名のような強力な組織を衣浦湾に見出すことはできません。なぜ、そのようなことが言えるかといいますと、当時の衣浦湾を制圧できただろう勢力には刈谷の水野氏がおりますし、おそらく自由港であった「大浜湊」があるのですが、水野氏がこれらを制圧する動きを見せた様子はないようです。因みに、信長は大浜まで出兵して焼働きをしたとありますが、水野信元にはそのような軍事行動があったとは伝わりません。

『刈谷市史』は、村木砦攻めの後で重原城が行われたといいます。多くの人は重原から川運で村木砦の建築資材を持ちこんだと考えるので重原城の攻略が先だといいますが、そのような伝承はなさそうでして、建築資材は駿府で加工して運んだということも言われております。

つまり、逆なのです。重原城が落ちなかったので、海側から村木に敵前上陸して橋頭堡を築いたが、その作戦には補給が続かず無理があった。そこで改めて重原を落として、定法通り陸路石ケ瀬から攻め入ろうとしたということになるのだと思うのです。………しかし、そのようになるのは四年後の永禄元年(1557)六月の石ケ瀬川の戦いまで待たねばなりません。その間の義元は蟹江城を攻撃するなど中入りをしたり、西三河の安定に忙殺されるからです。

ここで、注意すべきことは、(1)今川義元は、海兵隊(陸戦隊)による上陸作戦を盛んに試しているが、補給が続かず不首尾に終わっていることと、(2)伊勢湾(含む、衣浦湾)ではそれを阻止しうる組織だった勢力がなかったことです。これは、桶狭間合戦で服部氏や渥美氏などが船で兵粮を元康に献じたことが証明しています。

そして、天文廿四年閏十月十日に太原崇孚は没しているのですが、既に此の頃から義元は雪斎路線との対立が表面化したのではないかと考えます。晩年の雪斎は義元と意見を異にして、葉梨郷(藤枝市)に隠居し長慶寺を再興したともいわれているのですが、その対立の原因は補給を伴わない上陸作戦による中入りという戦略ではなかったのではないでしょうか。

このような訳ですから、虚を衝かれた水野方が劣勢に立ったからといって、即座に水野信元の「日和見」を言うことはできないものと小生は思います。

 

<鉄砲>

付録<信長と鉄炮>の章で、「村木砦の鉄炮について」(2008.07.15追加) として掲載。

 

 

<参考>

  1. 鴫原(重原)構へ…重原城。『刈谷市史』第二巻は、「水野氏の反今川の姿勢が明らかになった時点で重原攻めが行われ、水野方の山岡氏は敗退したのが二十三年正月なのであろう」とし、『三河国二葉松』には「一、重原村古城、山岡田五郎、或河内守、天文廿三年正月、今川勢攻落」とあり、『信長公記』の記事が村木砦攻めの前としている事とは異なる。
  2. 重原城…知立市上重原町字本郷。名鉄重原駅傍の知立農協上重原支店の東隣にある竹林辺り。付近の長篠川沿いに「重原城跡」の碑がある。天文十七年(1548)に織田信秀方の荒川新八郎と松平広忠勢が戦ったことが知られている。「刈谷市史」によると、天文十八年以降は水野家臣・山岡河内守伝五郎(知立神社神官の永見氏の娘を妻とした)が守備したという。
  3. 荒川新八…大永四年(1524)岡崎城を奪った松平清康が次第に尾張国織田家の脅威となり始めると、織田信定或いは子の信秀(当時十八・九歳である)が享禄二年(1529)頃に尾張東部の備えのため岩崎城を築いて家臣・荒川頼乗(愛知郡戸部村)を守将としたが、荒川新八とも称していて『信長公記』に見える荒川新八はその子であるとも言われる。
  4. 金吾…唐名の衛門府を和名で金吾という。水野下野守信元も四郎右衛門といったらしい。信元の父は下野守右衛門大夫忠政だということが分かっていますが、信元が四郎右衛門であったことを証明する文書はありません。但し、『信長公記』で登場する金吾が水野下野守信元であることは、おそらく間違いありません。また、その他の信元の兄弟にも衛門を名乗った人はいません。『東浦町誌』」では、「近世の系図類では、右衛門大夫は忠政であり、二代、三代には右衛門大夫はない。」としている。
  5. 慶安十一年(1648)の「村木砦城攻聞書」は明らかな誤りが多すぎる文書である。
  6. 村木水野氏…郷土史研究家・杉浦順二氏によると、「乾坤院」の末寺で同町大宇森岡(旧、村木村)宇郷一色三、正高山「海印寺」には、約四百年前の墓石に「水野氏之墓」と記されたものがある。これは、水野信元父子が自裁した頃に住み着いた法名を「洞獄大仙上座」と言い、その奥方は「丹山妙楓大姉」と言う夫婦が初代と思われる人物の家系であるという。
  7. 『名古屋市史』が「東西120m・南北200m註 のややいびつな四角い外郭のなかに、約50m四方の内郭を備えた砦であったと考えられる。つまり、本丸に相当した内郭と、大きくて広い「外丸(『信長公記』)」といった二重構造を持ったことが分かる。そして、ここでは、最前線の砦と雖も、いわゆる四角い館型のプランを基本にしていたことに注目したい。」としている。

ホームページ制作、ホームページ作成歯医者転職SEOインプラントオール電化