赤塚の戦い  2008.07.06作成

 徳川黎明会所蔵の村絵図を国書刊行会が出版したた『尾張国町村絵図』名古屋市編というものがあります。

これを眺めていますと面白いことがわかります。

まず、桶狭間合戦に先行した戦いの戦場になった「赤塚」ですが、天保十二年(1841)丑五月の愛知郡鳴海村絵図によると、鳴海神社の北側で現在の乙子山(オトコヤマ)という辺りが「赤塚」となっており、その北が「大塚」、そのまた北が「娵(嫁)ケ茶屋」、更にその北が「田知山」(その後、伝次山や田地山とも書いたようですから伝次という人の所有する山だったのかも知れません)となっており、その田知山の東側が「新海池」になっています。また、三ノ山は「三王山」という表示になっています。

つまり、現在の赤塚は天保十二年当時には、現在地にはなかったということです。………これが、その天保十二年の時点で正しいものであったとしますと、一体何時、赤塚は現在地に移動することになったのでしょうか?

現在のところ調べ尽してはおりません。何方かご存知の方は、由来ともども教えてください。

因みに、新海池は江戸時代前期に新海五平治が藩の許可を得て溜池として造ったものですから、合戦当時にはありませんでした。

問題は、桶狭間合戦当時も同様であって、乙子山(オトコヤマ)の北辺りが「赤塚」という地名であったかということと、乙子山の北が赤塚の場合には牛一の書く「距離」と合致しないことや牛一の書く「赤塚郷」がどこにあったかということにあります。………現在の字名を住宅地図で比較してみますと、天保十二年(1841)丑五月の赤塚は、その後大塚が消えて赤塚に代わり、赤塚の南半分ぐらいが三高根とに分かれたもののように思えます。一体どのような歴史があったのでしょうか。

まず距離の問題ですが、この村絵図の場合には三王山と鳴海城のどちらからも乙子山=赤塚は600m程度しかありませんが、『信長公記』には「一、御敵山口九郎二郎廿の年、三の山の十五町東、なるみより北、赤塚の郷へは、なるみより十五、六町あり。九郎二郎人数千五百計りにて、赤塚へかけ出で候。」とありますから1.5〜1.7kmほどの場所のことを話題にしているのでしょう。

ところが、三王山や鳴海城から現・赤塚へ行くにも、やはり直線距離にすると7〜800mしかありません。

そこで小生が愚考しますに、その前の文に「一、織田上総介信長公ハ十九の御歳デアッタガ、人数八百計りにて御発足、中根村を駆け通り、小鳴海へ移られ、三の山へ御あかり候のところ、」とあり、小(古)鳴海から成海神社の北の「赤塚」への距離が約1.5kmほどはあることに注目したいと思います。

これを生かして先の意味を考えますと、「三の山の十五町東」を赤塚からの距離ではなく「小鳴海からの距離」のことであると解釈して「三の山の東で、小鳴海から十五」とし、文中の「より」を「の」と読むのではなく「寄り」と読み、「一、御敵山口九郎二郎廿の年の時に、山王山の東で小鳴海からは十五町あり、鳴海城寄りの北にある赤塚の郷へは、小鳴海より十五、六町の鳴海城寄りにある。九郎二郎は兵力千五百計でそのような赤塚へ出撃した。」となるのではないかと思っています。………つまり、赤塚合戦に至る以前の信長方の最前線基地は小鳴海であったのではないかと考え、全て古鳴海からの距離を牛一は記したのではないかと考える次第です。そして、赤塚合戦は信長が前進拠点を山王山まで推し進めようとしたために起こった戦いであると考えるわけです。

因みに、鳴海神社は天武天皇朱鳥元年に、日本武尊が古事記に「景行天皇40年皇子日本武尊東夷を征す」とあり、それを翼賛した尾張氏祖とを併せ祀ってこの所に創建したとされ、延喜五年制定の律令書「延喜式神名帳」には尾張国愛知郡成海神社と登録され、文治二年の「尾張国内神名帳」には従三位上成海天神と称えられています。そして、戦国時代はじめの応永年中に、足利氏の武将・安原宗範が現在の字「城」の地に築城するため成海神社を乙子山(オトコヤマ)の現在地に奉遷したとされています。………さて、乙子山は成海神社が奉遷されて日本武尊にちなんで「オトコヤマ」になったのでしょうか?それとも、それ「以前からオトコヤマ」と呼ばれていたのでしょうか?

もし、戦国時代もこの天保の村絵図のような地名であったとしますと、信長と九郎次郎は山王山と鳴海城のちょうど真ん中あたりで戦ったことになるわけです。すると、『信長公記』の記事は次のようにも解釈できると思います。

  1. 信長は、鳴海城を攻撃するために、その後彼の常套手段となる付城を拵えるために、その昔砦があって工事のし易い山王山に陣城を築くために出陣した。
  2. それを見た九郎次郎が、工事を妨害すべく出動してきた。
  3. 信長はこれに応じてそうはさせじと、これを迎え撃った。………となるわけです。

つまり、九郎次郎は信長を笠寺の駿河勢と挟撃する目的で出陣したわけなどではないということです。………この場合の信長は、笠寺や中村などにも付城を築かせて、山口左馬助や駿河勢を封じ込めていた可能性もあります。たとえば、『尾張徇行記』によれば南区岩戸町の白毫寺のある場所には山崎砦があったといいますが、これなどは桜中村城の山口左馬助を押さえるために佐久間信盛によって築かれたとも考えられるかもしれません。つまり、山口氏の寝返りによって大幅に西え伸びた義元の勢力も、中国大陸での日本帝国軍のように、点と線だけの支配であったのかも知れないわけです。

さて、ここで「現在の赤塚」を紹介しますと、明治二十四年の1/20000地形図によれば、三王山から鳴海城は十分に俯瞰できます。現在の赤塚は新海池の西側辺りをいうわけですが、三王山から尾根続きで同等高線の陰になっているので、尾根を東側に下りれば山王山からは見通すことはできません。ですから、当時の鳴海城から完全に行軍を秘匿して九郎次郎が赤塚に集結するには、善照寺砦の南側からその東へ回り込み、そこから北上するコースによって可能だったものと思われます。九郎次郎勢が成海神社から続く尾根の西側の道を進撃しない限り三王山の信長からは見えないことになるからです。

簡単にこの辺りの地形をいいますと、「。?」型をした尾根をもつ丘陵でして、?の始点が山王山、天辺が標高33mの最高点、弧の右肩が現在の赤塚でその右(東)が新海池、?の「.」が善照寺砦で、それから左に離れて孤立した「。」が鳴海城です。

ところで、『名古屋市史』によりますと、「三王山で行われた発掘調査では、断崖に面した丘陵高所を南北に区切った堀(幅5m以上、深さ2m超)の一部が検出されている。(中略)天文廿二年の(赤塚の)戦いに際して臨時の陣城が構築され、その後、丹下砦が築かれるまで機能したものと推測される。」としていますが、この陣城が赤塚合戦に間に合ったか否かまでは分かりません。………小生は、信長がここに砦を築き始めたから九郎次郎の攻撃を受けたのだと考えます。

 赤塚合戦の意味ですが、桐野氏は歴史読本において

  1. 信長が山王山に布陣したのは、今川勢を動揺させる効果を狙った大胆な中入りである。
  2. しかし、笠寺台地にいる駿河方と鳴海城・沓掛城の駿河方に挟撃される危険を冒していることでもある。
  3. そのため、信長は笠寺からの駿河方後詰が戦場に到着しないうちに、短時間(二時間)で戦闘を切り上げる心算であった。
  4. つまり、赤塚合戦は信長の初期の目論見が、九郎次郎の出撃によって潰えたものである。
  5. そのために信長が「撤退を容易にするため」に攻勢に出たことによって起こったものである。

とされ、信長の軍事行動の特徴とその天才性を探して、必死に迂回や中入りという特殊作戦を求めて「あえて、敵の喉元に迫るところが信長らしいといえる。」とされています。

しかし、第一に実際の笠寺(笠寺からは鳴海城や三王山を見通せます)や桜中村にいただろう駿河勢は、信長の帰路を閉塞して信長を襲おうとした形跡はないのです。………小生は信長の軍事行動は生涯を通して、単刀直入な正攻法をとっていると感じていますので、この見解には賛成しかねます。前にも書いていますが、信長の戦績には迂回や別動隊による攻撃という三国志ばりの戦法をとった形跡などは、全くないと考えるからです。

第二に、信長の「中入り」は油断していた(?)鳴海城を攻略することが目的だったのでしょうか?それとも単なる示威行動だったのでしょうか?………信長はたった七・八百の兵力でしかなかったのです。その兵力で鳴海城が攻略できると考えていたのでしょうか?それとも示威行動が信長の意に反して合戦に至ったものなのでしょうか?

第三に、信長の軍隊はモンゴル遊牧民の軽騎兵集団などではないのですから、一撃離脱などということは、敵に優れた兵力を持って行うのか敵が油断しているのでなければ実現可能な事であるとはとても思えません。其の場合でも、実際の行動は「焼働き」が主務になるのでしょう。とても城塞を攻略できるとは思えないのです。

第四に、信長が自軍の撤退を容易にするために戦うのであれば、なぜ信長方は「鑓下」という不利な状況で戦ったのでしょうか、九郎次郎が山王山に攻め上がろうとするのを坂落としに攻めて、一旦敵を退けた上で引き上げた方が良かったのではないのでしょうか?

其れや此れやを考えますと、駿河勢が鳴海城の北の丹下山王山やその東にある標高33mの最高峰をもつ丘を制圧していないのは、油断でも手落ちでもなくそれだけの勢力が始めから駿河勢には無かったものと解釈するほうが健全であると考えます。つまり、信長が調略の成功を契機に一気に事を進める傾向があるのに対して、今川義元の駿河勢には山口左馬助の裏切りと調略というビッグチャンスを活かすことができるような態勢(西三河経営)にはなかったということです。これは、常備軍と農兵軍との違いが現れているのかも知れません。

通常は、一城を攻略できれば、そこが支配している地域を面として領有できそうに考えるでしょうが、当時の知行の在り方を考えると、支城と知行地とは必ずしも一致していない可能性もあるはずです。例えば、林秀貞は那古野城代を任されているようですが、その知行地は西春の方にあった模様で、那古野城周辺にはなさそうですし、寄騎らも那古野城周辺とは言えなさそうに思います。『信長公記』によると、秀貞の寄騎は荒子の前田利春や米野城の中川弥兵衛、大秋城の大秋十郎左衛門など海岸に近い方の土豪を宛がわれているようです。

『信長公記』「一両日過ぎてより、御敵の色を立て、林与力のあらこ(荒子)の城(前田与十郎)、熱田と清須の間をとり切り御敵に成る。こめの(米野)の城、大脇の城、清須となご屋の間にあり。是れも、林与力にて候間、一味に御敵仕り候。」

そのため、史料では何時とは特定できませんが、笠寺台地の駿河勢は何時の間にか駆逐されているようですし、後には鳴海城も大高城も付城でもって攻囲されますから、その実態は駿河勢の方が尾張に深く突出した形になっており、そこで兵力を消耗させられていたように感じるのです。しかし、沓掛城には付城がない(築いても駆逐されたかもしれない)ところをみますと、境川以東については今川義元による面の支配ができていたようにも思えます。………このような戦況であったからこそ、義元は自ら乗り出して来て此処の橋頭保を補強しようとしたのではないのでしょうか?

『信長公記』には、「(馬から)折り立ての事にて、馬共は皆敵陣へかけ入るなり。」とありまして、これを「荒川与十郎が馬上でいるときに射られたためか、織田方の馬上の武者は下馬した」と解説されたりしますが、これは誤りでしょう。まず、荒川与十郎は足軽大将でしたでしょうから馬上で指揮していたのだと思われます。当然危険はありますが、馬上は戦場を見渡せる高所でもあるのですから、指揮官はその危険を冒していたわけです。………旗持ちは危険だからといって旗を巻いたりしませんし、騎馬の旗持ちも騎乗したまま戦場を疾駆します。たとえ、日本馬がヨタヨタとしか走れないとしても。

ですから、危険だからと言って指揮官は下馬したりしません。臆病者と誹られるからです。指揮官も下馬するというのは相当な乱戦だということでしょう。従って、牛一のいう「折り立ての事」というのは、各指揮官以外の一般の騎乗身分の武士のことでしょう。彼等は通常は下馬して戦うのが常識であったらしいからです。

『甲陽軍鑑巻6品14』、「武田家の大将や役人は、一備え(千名ほど)の中に、7人か8人が(指揮官として)馬に乗り、残りはみな馬を後に曳かせ、槍をとって攻撃した。(機をみては、乗り込みや追撃に、馬を引寄せて乗った)」とある。

イエズズ会のルイス=フロイスが日本の様子を知らせるためにヨーロッパに送った、『日本覚書』には、「われらにおいては、馬(上)で戦う。日本人は戦わねばならぬときには馬から下りる(第七章卅七)。われらの馬は非常に美しい。日本のはそれよりずっと劣っている(第八章一)」とある。

ここで問題にすべきなのは、この当時の非常にローカルな戦いでは、信玄、義元、氏康、謙信らが関東で大軍を率いて戦っていたのとは違って、乗馬のまま「乗り入れ」たり騎馬同志が戦うことが多かったのではないかと思われることがあります。つまり、足軽(雑兵)が少なければ互いにスポーツ感覚で騎馬のまま太刀打ちができるからです。と言うよりも、従兵が戦闘には積極的に参加せず、脇鑓として補助に廻ることになるからでしょう。

それを疑う理由は、「馬共は皆敵陣へかけ入るなり。」と書くからです。通常は本陣はそんなに近くなく、互いに兵を中間地点に出して戦うのではないのでしょうか。川中島合戦屏風図をみましても、武士は下馬して鑓を執って折敷いており、乗馬は後方に下げられて口取りが管理しているからです。有る意味、互いに陣取りできないほど接近し過ぎてしまって、馬を後方に控えさせることができなかったような不期遭遇戦の様を呈したのではないかとも考えることができると思います。「あまり(敵味方が)手近く候間、頸は互いに取り候はず。」とあるからです。それとも、それだけ血気に逸る若者ばかりであったということなのでしょうか。口取りもが戦闘に参加したということなのでしょうか。確かに敵味方とも主将は二十歳と十九歳なのです。

ここでは、「入り乱れて、火花を散らし相戦ひ、四間、五間をへだて(隔)て折り敷いて数刻の戦に、九郎二郎は、うわやり(上槍)なり。」とあり、「折り敷いて」戦ったという言葉がみえます。この他に「折り敷いて戦った」という記事は、小豆坂の戦いで「下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、三度四度かかり合い々々、折しきて、お各手柄と云ふ事限りなし。前後きびしき様体是れなり。」があるだけのようです。

長柄鑓足軽隊の場合には、「平場の大槍」といって横に列をなし、片膝をたて片膝を折って尻を預け、乗馬襲撃に備え槍で地面を討ち叩いて馬を狂奔させ、いよいよ騎馬武者が乗り込んで来るようならば、鑓の鐺を地面に突き立て柄を膝にあずけて穂先を揃えて抗することを云ったようです。恐怖心を起こさないように面を伏せて待ち受けたとも言います。広田忠三郎の『日本古戦法』では、折り敷いて石突を地に托す槍襖を「嵐」といういうようです。

赤塚の「四間、五間をへだてて折り敷いて」という場合には、敵と渡合う前の待機している状態を表しているようで、川中島合戦での布陣状況を彷彿とさせます。次の、小豆坂の場合も度々(何度も)出撃しては帰陣して再び陣列を整えて、整然と秩序を失わず戦った様子を記したもののように小生には思えます。従って此れを、「膝を折って体勢を低く構えて鑓を突き出した」と説明することは、まるで長柄足軽鑓隊が騎馬での乗り入れに対抗して守勢になって戦っているようでそれまでの牛一の記述と整合しません。牛一は、入り乱れて戦ったり、交名を上げたりしており、持鑓の武士の白兵戦を叙述したようだからです。………つまり、この時代の信長を始めとした尾張の領主たちには足軽長柄鑓隊を効果的に使用できるほどの大人数の足軽を装備できなかったものと考えるべきなのではないでしょうか?

 

<赤塚の戦いと信長軍制>

郷土史家の梶野渡氏はその講演で、「信長が初めて自分で編成した軍隊の実効性を確認した戦いであり、また駿河勢の侵出を食い止めた重要な戦であった。」とされ、「攻撃は不測の事態に備えて自軍の実力を知る程度にとどめ、後の戦いの試金石となった」と言われています。

しかし、「信長の軍制と足軽」で書きましたように、赤塚合戦の頃の信長の軍隊は、それが全て金で雇われた傭兵であったとしても、その基盤となった「あしがる」や「あしがる衆」は、寄親寄子制の下で、足軽を抱える武士に特化した足軽大将のようなもので、例えば後北条氏にみられる大藤式部丞とその寄子のようなものではなかったかと小生は思います。すなわち、後の小姓や馬廻という常備軍を中心にした軍隊構成には未だ到達していない段階です。それが証拠に、この赤塚合戦には林や柴田などの譜代家臣も親族も参陣していません。

註 『日本軍事史』の見解は違います。赤塚合戦は、「足軽の名前が具体的にみえる珍しい記事だが、彼等はみな名字をもつ存在で、地域の有力者の子弟だったと考えられる。知行取りの武士ではないが、決して貧困とは言えない階層出身の若者たちが、自身の力量を支えにしながら足軽の集団に加わり、戦場で活躍していたわけであるが(後略)」としています。

現に、『信長公記』はその後の天文廿三年(1554)一月の村木砦攻めで始めて、「信長御小姓衆、歴々、其の員を知らざる手負死人、目も当てられぬ有様なり」とあって、御小姓衆が先に記載されて信長軍の決戦兵力を構成するようになってきたことがわかりますが、その一方で「歴々」とあって未だに「足軽寄親(足軽大将)」が信長軍の戦力の半分を担っています。しかも、その前の正徳寺の会見では、「御伴衆七、八百、甍を並べ」とあって、これは「足軽寄親(足軽大将)」たちであろうと思われますので、赤塚合戦の時と軍隊構成は変わっていないようです。

信長軍に馬廻が創出されたらしく思われる記事の始めは、永禄二年(1559)の岩倉城包囲戦のときであり、 「岩倉を推し詰め、町を放火し、生か城になされ、四方しゝ垣、二重三重、丈夫に仰せ付けられ、廻り番を堅め」とあるのがそれです。………つまり、遅ければ桶狭間合戦の直前に「馬廻」を中心戦力とした軍隊が形を見せたことになるわけです。

このようなわけで、赤塚合戦は決して「自分で編成した軍隊の実効性を確認した戦い」であるから、最初から一撃離脱を計画しての戦いであったというような実験的な意味や、敵への示威行動などではなかったと思います。それどころか、信長は当時自身が用意できた最高の編成で本気で付城を築くべく侵出したのだと思います。そして、例え常傭化したとしても、寄親寄子制の限界を確認して、直卒・常備軍としての馬廻を基幹とした軍隊構成への転換を模索し始める前段階にいたのだと小生は考えます。

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