<信長と鉄炮について考える>
村木砦の鉄炮について 2008.07.15追加
桐野氏が歴史読本で、『信長公記』に「信長堀端に御座候て、鉄炮にて、狭間三つ御請取りの由仰せられ、鉄砲を取替え取替え放させられ」とあるのを、「取りかへ取りかへとあるように、交互の連続射撃を行っているのは注目される。もしかすると、信長も自ら射撃していたかも知れない。」と説明されておられるのですが、これは明らかに誤読ではないでしょうか。そうでないとしたならば、読者を鉄炮足軽隊が交互に射撃したという誤解に導く文章のように思えます。
信長は「御請取りの由」を仰せられたたのですから、攻撃を分担したのは明らかに信長自身であり、信長の直属の鉄炮隊などではないでしょう。「もしかすると…」ではなく、もしかしなくても信長自身が射撃したとするのが自然です。何故なら、砦の南側の攻め口は信長隊が受け持っており、制圧目標を取り決めた相手は信長の部下しかいないからです。また、鉄炮は高価であったでしょうから、信長や大身の武士でなければ所持できなかったでしょうし、所持する者は何挺も持っていたものと思うからです。そして、この「取替え取替え」という射撃は間を開けることなく連続した射撃を行うための射撃方法が自然発生していることを教えます。………この射撃法は、石山合戦で雑賀衆が射撃の名手に狙撃を依頼し、専門の弾込役と組みにすることによって多用したようですが、一般的な戦術としては発展・普及しなかったようなのは、武士の功名に繋がらないからであると言われています。そればかりではありません。重要なことは、この射撃方法では、突撃兵器としては使用できなかったからです。
- 『嶽南史』の著者鈴木覚馬翁は、今川領国の駿河・遠江の将士が鉄砲に接したのは天文24年(1555)の尾張村木砦の戦いであったと断言している。…『鉄砲と日本人』p64鈴木眞哉
- 「今川氏関係の古文書には鉄砲放手や鉄砲隊などの文言は認められないが、(三河物語によれば)天文十八年(1549)十月頃、三河国安祥城攻めに、鉄砲が使用されているので、鷲津砦や丸根砦の攻城戦に鉄砲の保有数は不明だが使用された可能性は高いと考えられる。」『桶狭間の合戦論争/織田信長合戦論争・歴史読本』関口宏行
- 『信長公記』桶狭間の戦い「弓・鎗・鉄炮・幟・指物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。」
- 鈴木眞哉の『戦国鉄砲・傭兵隊p179』には、佐武は五挺の鉄砲を使用して一人に弾込をさせながら取替え引換えしながら矢倉を守ったとある。………雑賀衆の場合には、二人で一組になり五挺の鉄砲を持って一人は弾込に専念するということで戦果を上げたらしい。
- 『三河松平一族』平野明夫著「(永正五年八月廿二日の)井田野合戦における鉄砲の使用法をみると、その轟音を利用したと解釈できる。『三河物語』の記述は、鉄砲を放ちかけ、天地を響かせたとある。鉄砲で直接人馬を殺傷するのではなく、鉄砲の音によって相手を攻撃していることが読み取れる。」
ところで、信長は天文廿二年(1553)四月と思われる山城道三との正徳寺の会見において、「三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄炮五百挺もたせられ、」と『信長公記』にあることから、鉄砲の数は別にしても足軽鉄砲隊もあったものと看做す向きもあると思いますが、それ以後に行われた攻城戦も含めた数々の合戦でも鉄炮が活躍される場面は村木砦の戦いを除いては、永禄十二年(1569)八月の阿坂城攻めに関して「信長御座所御番の事、御馬廻御小姓衆、御弓の衆、鉄砲衆に仰せ付けられ候なり。」と書かれるまでは紹介されるていないようです。そして、その戦いでは「雨降り候て、御身方の鉄炮御用に罷り立ず候なり。」とあるように鉄炮が攻城戦に使用されていますが、「衆」とあるようにこの時期でも鉄砲は「持鉄炮」であって、足軽鉄砲隊のようには見えません。
永禄八年(1565)九月の堂洞砦攻めの記事では、「太田又助、只壱人あがり、黙(無駄)矢もなく射付け候を、信長御覧じ、きさじに見事を仕り候と、三度まで御使に預かり、御感ありて、御知行を重ねて下され候えき。」とあって、未だ狙撃には弓射手が活躍していて、鉄炮による狙撃はあったとしても記事になってはおりません。
ただし、永禄二年の岩倉城の攻囲戦では、「町を放火し、生か(裸)城になされ、四方ニしゝ(鹿)垣ヲ、二重三重ニ、丈夫に仰せ付けられ、廻り番を堅め、二、三ケ月近陣にとりより、火矢・鉄炮を射入り、様々攻めさせられ、」と城攻めに鉄炮を用いていますが、足軽鉄砲隊であったかは不明です。
それ以前となりますと、永禄元年(1558)七月十二日の浮野の戦いに、「橋本一巴、鉄炮の名仁、渡し合ひ、(中略)もとより一巴も二つ玉をこみ入れたるつゝ(筒)をさしあてて、はなし(放)候へば、(弥七郎は)倒れ臥しけり。」 という 鉄炮の記事がありますが、ここでは明らかに特殊兵器としての持鉄炮として使用されているようです。
閉話休題 「二つ玉」
桐野氏は歴史読本第六回で、「実包に玉二つを入れたものか」とされているが、この時期「実包」などはできておらず、早盒(ハヤゴウ、一回分の弾と装薬を紙に包んだもの)すらもなかったであろうからこれは誤りであろう。実態は、近接戦を想定して砲身の中に弾を二つ籠めて散弾仕様にしてあったのだろう。狙撃の場合は一つ弾にするだろうからである。なお、鎖で二つの玉をつなげた物もある。
この浮野の戦いに、信長が野戦で鉄砲を用いたと書くのが小瀬甫庵だそうです。その信長記の原文にはあたっていませんが、桐野氏は、「信長の命で弓・鉄炮を斜めに廻して透間なく撃たせたところ、岩倉方が横鑓に突き立てられまいとして、陣替えをしようとした。(中略)迂回しての弓・鉄砲による横撃というのは、信長の戦術としてはありえそうである。(中略)信長自身が直轄する鉄砲足軽集団も含まれているかも知れない。」と書かれます。しかし、ちょっと考えてみると疑問もあります。
- 信長方において弓・鉄砲足軽隊を第一線の前線に布陣しての開戦であったならば、斜めに回す以前に鉄炮に劣ったであろう岩倉方を効果的に制圧できたと思われるのですが………?
- 「斜めに回す」という表現ですが、これは有名な川中島合戦屏風絵図に見られるような、長柄足軽鑓隊の左右に展開した弓・鉄炮混成部隊のことではないのだろうか?それならば、鑓隊が激突したり白兵戦に及べば味方を射撃する危険を避けるために後方に待機するはずだと思うのだが。
- 数にまさる岩倉方からみれば、護衛兵の付かない弓・鉄炮隊は即座に蹴散らせるはずですから、陣替えする必要などはないはずだと思うのですが………?
信長=天才・迂回・鉄砲と短絡しがちなのは、どうも付いて行けません。
ところで、それより以前の弘治二年(1556)に、道三救援のために出陣した大良から撤退するときの記事に、「爰にて大河隔つる事に候間、雑人・牛馬ヲ、悉く(後方へ)退けさせられ、殿(軍)は信長させらるべき由にて、惣(全ての)人数(に川を)こ(越)させられ、上総介殿ノめし候御舟一艘ヲ残し置き、各々(河を)打ち越え候ところ、(敵の騎)馬武者ガ少々川ばたまで懸け来なり候。其の時、信長ハ鉄炮をうたせられ、是れより(敵もそれ以上は)近ゝとは参らず、さて、御舟にめされ、御越しなり、」とありますが、ここでも信長が直轄の鉄炮隊に援護射撃をさせたわけではなく、信長自身が数挺の持鉄炮で果断なく射撃することで追い縋ろうとする敵を撃退したと考えるべきだと思います。なぜなら、「上総介殿ノめし候御舟一艘ヲ残し置」いたのですから、鉄砲隊などは残っていなかったものと思われるからです。
以上のことから推測しますと、鉄砲の有効性は専ら城塞によって防御にあったということが強調されているのですが、信長は専ら攻城兵器として敵の矢狭間を制圧することに活用しようとしていることに気が付くはずです。………小生思うに、此れは鉄炮が貴重品であって広く行き渡っていなかったことから、相対的に鉄炮の数に優れた信長(配下の武将も持鉄炮を装備し始めたものと考える)が、大なる射程を活かした使用法として採り入れたのではないでしょうか。ですから、伊勢戦においても「鉄砲衆」なのであって、鉄砲足軽隊なのではないのだと思うのです。
閉話休題 信長のカリスマ性?
桐野氏は「この(村木砦の)戦いで、信長は危険な堀端に立って指揮していた。その雄々しい姿………だからこそ、旗本衆は信長の陣頭での采配に奮い立ったのである。まさに信長の軍事カリスマ性が遺憾なく発揮された場面だった」とされるのですが、堀端は敵の弓矢の射程外だったでしょうから危険などはなかったはずだと小生は思います。何故なら、信長が攻めた南側というのは「南は大堀ガ霞むばかり、かめ(甕)程にほり上げ、丈夫も構へ候。」だったというからです。そして、鉄砲の射程は弓矢よりも大きく、射撃するにも身を隠し易いからです。
- 石岡久夫『日本兵法全集・7 諸流兵法(下)』によると、弓は六〜七間以遠になると甲冑を射通せないと云います。
- 当時の戦国大名は、6匁筒(口径15.8mm)あるいは10匁筒(口径18.7mm)を多用したらしい。
- 銃は、有効射程はせいぜい100m前後で、命中精度になると人馬を標的として50mが限度であり、厚さ60mmの洋材を貫通するという。
- 30mの距離で鉄2枚胴具足を射貫いたという。実用射程は約二十間(30〜40m)であったらしい。
別に、左程危険でないとすれば、小姓たちを熱狂させて危険に飛び込ませたことを除けば、信長のカリスマ性を見出すには………?
また、大良の撤退戦についても桐野氏は、「家来たちを退却させたうえで、大胆にもただ一人で残り、押し寄せる義龍方に鉄炮を放って撃退する信長―まさに雄々しき軍事カリスマそのものである。」と評されるのですが、本文をよく読むと、「各々(河を)打ち越え候ところ、(敵の騎)馬武者ガ少々川ばたまで懸け来なり候。其の時、信長ハ鉄炮をうたせられ、是れより近ゝとは参らず、」とありますから、信長が持鉄炮で連続射撃をすることによって敵を脅かしたのであり、追い縋る敵を支えての撤退戦などではなかったことは明らかですし、天理本のほうが多少仰々しく、「又御人数懸来り候、然りといえども、惣人数打ち越し、信長殿(シズハライ)させられ候はんの由候て、御一人御残り候、近々と懸来り候を、上総介殿鉄炮をうたせられ候へば、参らず候、その時御舩にめされて退く」とありますが、「上総介殿鉄炮をうたせられ」ヲ鉄砲隊でもって迎撃したと捉えるのでなければ、押し寄せる敵を撃退とはとても言えそうになく、信長にカリスマ性を見出すための強権付会なのではないでしょうか?





