【学術論文のために】
(1)桶狭間の戦いの研究史 (2008.08.10〜)
桶狭間の戦いの研究には、明治期に創成国軍の将校育成それも先進国・大国に劣る日本が勝利するための必須戦術として、「迂回による奇襲」の可能性を常に念頭に置くべきことを普及しようとして、旧陸軍参謀本部によって編まれた日本戦史の見解が世間のみならず歴史学会にも無批判に受け入れられてきた歴史がある。
それが、1982年に『歴史読本』誌上で藤本正行氏によって「異説・桶狭間合戦」として、学術的に取り扱うべき一方法が提言され、それによると多くの疑問を含みながらも世間に喧伝された迂回奇襲説は成立しえず、正面攻撃でなければならないことになったが、これに対しても学会は無視し続けてきた。
ところが、最近はこれも無批判にではあるが藤本氏の「正面攻撃説」が多くの論者の主流を占めるようになってきた現実がある。
しかし、そのために「正面攻撃説」は初めから大きな矛盾を抱えることになったまま一人歩きしているようでもある。
- 二千程度の信長軍が先備えをたてて布陣している四万五千(牛一の記載)もの大軍の本陣にどのような方法で迫り、駿河勢はその接近をなぜ看過して大将の首をとられたのかという兵力と戦術上の問題。
- 今川義元が前哨戦を観戦できる山上にいたらしいうえ、その山の辺りが深田で進退困難な節所であるというのに、なぜ信長勢は易々と義元本陣に迫れたのかという地形上の問題。
という二点は未だに納得のいく説明がえられてはいない。
閉話休題 <藤本論文の桶狭間山>
藤本氏自身は「桶狭間山」という単語を特に特定の山を表す固有名詞としては使用せず、丘陵一帯のつもりであると後にいわれているが、論文中では「桶狭間方面の丘陵一体」と「固有の桶狭間山」とを明確に区別して議論していないために、全体的に高所へ向かって攻め上がったという問題と、信長が東方に発見した義元との関係が曖昧註 になってしまい、氏自身が主張される「牛一の地理に関する記載は正確である」という前提と矛盾する結果になっている。
註 例えば、「義元は・・桶狭間山で休息している。・・この付近の実際の地形は低い丘陵であり、谷も決して深いものではなかったのである。・・桶狭間山とあるから、義元がいたのは谷間の低地とは限らない。・・桶狭間山と中島砦の間は直線的に結ばれているから、義元がこの危険な地形を無視したとは考えられない。」とあるのだが、藤本氏の意図は単純に狭間のなかの低地であっては危険だから一帯の高地の何処かに陣しであろうと云いたかったのかも知れない。しかし、読者は直線的に肉薄され得る地形であるならば、必ずや敵との間に障害となる丘陵を置いたに違いないと受け取り、更に『公記』が深田のある節所であると云うのですから、当然にその深田をも障害にしただろうと考えて、現在定説ともいえる64.9mの山辺りを桶狭間山として受け取るのは自然ななりゆきである。また、桶狭間の深田のある地域は限られているから、西方から進撃した信長がその深田に阻まれずに義元本陣(塗輿を放置した)に突入したということは、信長は義元本陣の直近ではその西方から攻撃したのではないことになる。地形的には北方または東方から攻撃するしかない。このことは、信長は中島砦から見たならば全体的には東方に進撃して義元を討ち取ったということは正しいのだが、『公記』が態々「東へ向かって懸かり給ふ」と書くのには意味があり、信長が塗輿を発見しただろう位置からそう離れていない地点から見て東方に義元を発見して、方向転換して攻撃を再開したと読者が捉えることは仕方がないだろう。牛一の地理描写が正確であるならば、そのように読者が理解するのは当然なのではないだろうか。
さらに、『信長公記』を一級史料として認めたとしてもそこにある事実は余りにも少なく註 、そこから藤本氏が導き出した過程も結論も、未だに追試・再検証されていないことも問題である。そのため、氏自身が一級史料として認めるべきだとした『信長公記』に記載された内容を恣意的に切り捨てた事実も、現在に至るまで看過されてきている。
註 少ないのは確かだが、牛一が書けなかったまたは書かなかったのは、書く必要がないほど、自明なことであったかも知れない。例えば、道は鳴海−桶狭間道以外には東海道一本しかなければ、これは説明を要しないし、もともと地名がなく説明できない場合が考えられる。
藤本氏が恣意的に切り捨てた事実とは、信長が中島砦から今川本陣に向かって将に出撃せんとしたときに麾下の将兵を鼓舞するために向かって行った演説である。
信長は、「各よく貼承り候へ。あの(今川の)武者(は)、(前日の)宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、疲れたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るるなかれ。(勝敗の)運は天にあり。この語は知らざるや。(敵が攻撃を)懸らば引け、(敵が)退りぞかば引き付くべし。是非に(何としても)於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事。案の内なり(たやすいことである)。分捕りなすべからず。打捨てになすべし。軍に勝ちぬれば、この場へ乗(参加)りたる者は、家の面目、末代の高名たるべし。只、励むべし」と訓示したというのだが、藤本氏は義元との無二の一戦を切に望んでいた信長の思い込みによる誤認だと決めつけ、それに続いた多くの研究者も「信長の戦況誤認」だとして片付けてしまい、追試すらしていないのである。
註 藤本氏のこのような結論の前提は、「信長は初めから温存していた自軍主力で、戦い疲れた労兵を叩こうとしていた」という信長の決心にあるというものだが、藤本氏がそのように判断した理由は、(1)合戦前夜に前線から注進を受けたにもかかわらず出陣しなかったという事実と、(2)翌朝、敵が実際に付城を攻撃したという注進があって初めて出陣した事実、(3)途中で付城が陥落したのを確認しているにも関わらず前線に向かっている事実、(4)善照寺砦で自ら敵城を確認したうえで中島砦へ進出した事実の四点だけである。しかし、藤本氏は何故、熱田で砦が既に陥落したことを知った時点で、敵が戦場から撤去して補足できないかも知れないと信長が焦っていたとは考えないのだろうか。また何故、敵が四万五千もいたならば、ニ砦合わせても一千人程度の攻略に必要なのは、義元率いる駿河勢全軍の一割程度の五千人程度が労兵になるだけで、残りの九割は休養十分な新手であると、藤本氏は考えなかったのであろうか?それに対して、温存させた信長軍は新手とはいえ清洲辺りから急行軍させられて戦場についたばかりの兵士たちなのである。そこに論理的な矛盾はないだろうか。………この疑問に対する有効な回答は、義元の西三河経営ならびに尾三国境対策が捗々しくなく、これらの新手兵力を義元はその対策に分散して駐屯させてしまっていたということぐらいしかないのではなかろうか。つまり、牛一が『公記』に書く四万五千を引率しというのは、桶狭間に率いてきたのではなく、今回の征西に動員した総兵力をいったというだけのことになると解釈するしかない。
『信長公記』を一級史料として扱う以上、最も重大な信長自身の判断を無碍に誤認だとして切り捨てる前に、それが正しいものとして真摯に受け取る姿勢が必要なのではないのだろうか。第一、信長の判断が間違いであったというような根拠は、『公記』の何処にもみられない。藤本氏がしたのは、徹頭徹尾藤本氏自身の思い込みによる信長の心理描写でしかない。義元はピクニックに来ているわけではないのだから、朝八時頃沓掛を出発して二時間程度の桶狭間山で昼食をとるわけがないのは常識からみて分りそうなものである。が、それに対する説明がない。昨夜に腹拵えをした後、鷲津・丸根を攻略し終えたからからこそ帰りの桶狭間山で弁当をつかっているのだという信長の状況判断の方が常識的にみても正しいとは思わないのだろうか。
藤本氏の立論には、初めからミッドウエー海戦との比較が念頭にあったように思われ、全てがその方向から『公記』を解釈しているように見える。そして、最も問題なのは戦況を誤認した信長の方が負けずに、二つの場面に対応することを始めから想定して準備しており、また二正面作戦を実行できるだけの大兵力を擁していたと思われる義元の方が負けたという事実を等閉視していることである。勿論、ミッドウエーでは策敵の失敗から戦況を誤認した日本機動部隊の方が敗れている。………桶狭間の戦いの場合には、例え思い込みであろうと唯一戦を望んでいた者の方が勝ったのだから、そこから引き出される戦訓は、「精神力」の一つしか出てきようがない。
閉話休題 <敵軍を捕捉撃滅しようというような軍事思想は、戦国時代にはまだない>
この時代に、敵の主力を補足撃破しようとした武将などいるはずがありません。そのような発想はすこぶる近代的な思想だからです。あの上杉謙信ですら、妻女山に信玄を迎えたのに正面切っての決戦などは挑まず、霧を使って戦ったのです。謙信でさえその軍制では旗持ちを多数装備しているのですから、とても決戦して敵を撃破することを目的としていたなどとは思えません。敵を威圧し戦わずして敵を心理的に屈服させて退けるための装置であったものと小生は思います。そうでもなければ、戦場にあれほど多数の旗数はいりません。
藤本正行氏は『信長の戦争』で、「こうした(戦国大名同士の)大規模な正面衝突は、戦国大名にとってはきわめて異例の出来事であり、信長の長い戦歴の中にも類例が見当たらない。(中略)戦国大名同士の正面衝突は少ない。(中略)強力な相手と正面衝突すれば、勝敗に関わらず自軍に大損害が出る恐れがあるからである。(中略)一つの敵を倒すために、一度の戦いで損害を顧みず兵を用いることなど許されなかったのである」と言われています。
次に、戦国時代の指揮能力の問題ですが、山崎合戦をみても、秀吉も光秀も自軍全体を直接指揮できたりはしていませんし、できもしなかったのです。総大将のできることは、せいぜい予備隊や旗本を投入することぐらいなのだと思うのです。その最も良い例が関ヶ原合戦です。各大名(現代の連隊規模)に対しては騎馬伝令を送って指示することしかできなかったのです。確かに、日本では驚くほど大会戦が少ないのです。大軍を展開できるような大平原が日本にはありませんから、大軍を機動して雌雄を決することなどできなかったからです。
それに、武士は武器・武具自弁で勝手な装備をしていますし、大将の言うことを聞きはしませんから、陣形運動などはできるはずがありません。武田信玄は一生懸命にそれを目指したといわれていますが、常備軍ではありませんから、訓練が行き届くわけがありません。僅かに足軽長鑓隊にそのような集団行動の萌芽がみられたらしいことがあります。それは、幕末の勝海舟が八王子千人同心の団体行動による戦闘訓練をみて感心しているからです。
ですから、戦国時代の清算ともいうべき関が原合戦ですら、各大名は思い思いに戦ったのだと思うのです。戦国時代最後の生き残りの徳川家康でさえ、万を超える部隊の指揮などは、ナポレオンやフリードリッヒのようにはできなかったはずです。西軍を見ればそう思えます。総大将が旗を振って合図したり、伝令を飛ばして諸部隊を動かしたわけではないと思うのです。各大名が各自の思惑で戦機を捉えて進退するのです。日本の戦場ではそうするのが最も良い方法なのです。日本の戦場の通常では、各部隊が山頂に陣取っているのですから、伝令の派遣で部隊を動かそうとしていたならば、戦機を逃してしまいます。各部隊がみな洞ヶ峠の筒井順慶だと思えばよいわけです。洞ヶ峠の史実は世間の理解とは異なるようではありますが………。
おそらく、信長の判断を正しかったと認められないのは我々の持っている先入観なのであろうが、それを払拭して科学的にアプローチする方法が模索されているわけでもない。昨今、僅かに埋もれた古城を復元しようとする試みがなされてはいるが、その結果城塞の効果をこれまでの反動から過大評価させ、過度に城砦に依拠した軍事行動であったかのような史観を形成させがちであり、塁や堀が真実どの時代のものか、はたまた塁・堀様の自然地形に過ぎないのかさえ科学的に決定されているわけではない。そこではあらゆる谷が堀に見え、あらゆる丘が塁に見えてくる。
『信長公記』を一級史料と認めたとしてもその情報は余りにも少ない。それを補強すべき日記・書状類のものは皆無であり、僅かに今川方の様子を知らせるものに『三河物語』があるのだが、それとの整合性を得ることも難しい。
また、独自の史観と脚色があるとされる小瀬甫庵の「信長記」から始まる江戸期に制作された多くの伝承または創作による軍記物や家伝がどの程度の真実を語っているのかも明確にはできていない。
藤本氏の「『信長公記』にみる戦国軍事学」は、優れた方法論を提起したにも関わらず自身がそれを無視した先入観にみちた研究になっている。ただし、その結論は桶狭間合戦はローカルな境界争いであるとしたり、迂回や陽動などはあり得ないことを論証するなど、見るべきものが多いのも事実である。ただ、その中で提示されたそれ以外の結論が問題になるのは小さな発端が歴史を大きく変えたらしいからである。
ここに、藤本氏が『信長公記』によらずに、独自の推論によって既定の事実としたことで問題のあるものを列挙しておく。
- 「この時点で義元にとっての急務は、鳴海・大高城への補給と、織田方の封鎖の排除であった。」………『公記』は義元の鳴海城救援計画については一言も触れていませんし、『三河物語』にさえも見えない。それどころか、大高城への兵粮入れなどは弘治三年(1557)からあったという説まであるのだが、鳴海城に対しては一切そのような伝承はない。従って、鳴海城への補給が急務であるという推定は是認できない。つまり、義元の既定の計画には鳴海城救援は、ついで出ない限り入っていないはずなのである。
- 「その過程において、有利な条件で、信長の主力を捕捉できれば、決戦も辞さなかったであろう。」………新手であるはずの義元本隊は、信長の参陣を認めても迎撃すべく布陣をしておらず、先備えを立てただけで昼食をとっていたらしいことが『公記』からも窺えるだけでなく、義元は大軍であるにも関わらず、中島砦を囲むように鶴翼の陣を布こうとしなかった事実がある。さらに『公記』では信長の後詰を受けまいとして、伊勢湾の満潮を期して砦攻撃を計画した「助けなき様に、十九日朝、塩の満ち干を堪がへ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、」という信長の後詰を避けようとした事実があるうえ、『三河物語』では義元勢が信長との決戦を予定していなかったことが窺われる「次郎三郎様を置き奉りて、引退く処に、信長は思いのままに駆けつけ給う。(中略)是え押し寄せ給うと、そのまま取り合えずに攻め落とせ給いて、番手を早く入れ替え給て、引かせ給わで叶わざるところを、余りにオモクレて、手粘く候あいだ、ふつふつとよき事あるまじき。」という記述まである。さらに尾張藩が調査した結果の蓬左文庫桶狭間図によると、今川義元は漆山とみられる山上で、中島砦から後詰に来るであろう信長を阻止すべく布陣したことを示すであろうものがあるので、義元が決戦を辞さなかったというようなことは無かったはずである。
- 「いよいよ五月十九日の合戦当日である。義元は沓掛城を出て西に進み、」………十九日の合戦当日に義元が沓掛城から出陣したとは『公記』のどこにも明記されてはいませんし、『三河物語』の記述では義元は前夜大高城に宿泊していたことが窺われるし、『総見記』も前日の義元は大高城で軍議を催したとしている。
- 善照寺砦からは(中略)鷲津・丸根砦のある丘陵の北側が見える(鷲津・丸根砦自体は見えない)………藤本氏は鷲津砦については考証しておられないようで、現鷲津砦公園を砦跡と誤認しているようであるらしいのですが、善照寺砦からは鷲津砦も望見できると思わなくてはならない。藤本氏は鷲津を攻略した駿河勢の動向については一切触れておられない。
- 「今川軍は善照寺・中島両砦に対して戦闘態勢をとったのである。」………『公記』は「御敵、今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に人馬の休息これあり、(此の間の時間経過は不明)五月十九日、午刻(正午)、(義元は)戌亥(北西)に向って人数を備へ、鷲津・丸根ヲ攻め落とし、この上もない満足これに過ぐべからざるの由にて、謡いを三番謡はせられたる由に候。」と書き、人馬を休息させたうえ義元は午刻に謡をしているのである。このような「人数を備へ」が戦闘態勢をとったといえるだろうか。この先備えは明らかに本陣先備えであって、休息する本陣を護衛するためのもである。常識的にもそれ以外ではあり得ない。また、戦闘態勢をとるのであれば、鷲津方面の駿河勢も動員して前進させるのではないのだろうか。そうすれば、中島砦の織田勢が出撃しようとすれば兵力を二分しなければならなくなる。
- 「すでに戦場の過半を今川軍に占領されている信長…」………これは、藤本氏が自らが掲載した付図で中島砦に近い現・平子台地辺りにまで「前軍」なるものを進出させていることから推定した状況であって、現実は「(義元は)戌亥(北西)に向って人数を備へ」たという記載があるに過ぎないから、これも藤本氏の拡大解釈であるとせざるを得ない。なぜなら、過半を占領された戦場の山際まで信長勢は難なく前進できたからである。駿河勢はその隊列が長く伸びていたであろう行軍途中を襲っていないのである。
- 「研究者は何よりも、戦闘が今川領内で行われた(のだから戦場の地理・気象・情報を駿河勢は熟知していた)という事実を、銘記すべきであろう。」………これも読者に誤解を与えかねない云い様である。鳴海から笠寺・桜中村までが今川方に帰属した一時は確かに今川領といえるかも知れないのだが、赤塚合戦以降は今川方は点と線の支配でしかなかったかのようにも見え、付城を付けられた桶狭間合戦当時はとても今川領とはいえず、地元の情報すらも得られなかった可能性の方が大きいのである。勿論、大軍を率いての義元来寇の風聞が立ってからは情勢が一変した可能性も大きいし、駿河勢が兵要地誌に疎かったということは論外ではあるが。
- 「織田軍は中島砦を出て東へ進み、東向きに戦ったわけで、堂々たる正面攻撃ということになる。」………中島砦から田楽坪や史跡桶狭間古戦場は東南にあたるのだが、牛一の東はどのような範囲を云うのだろうか。『公記』が書くのは「今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。(この間の時間経過は不明)旗本は是なり。是へ懸かれと御下知あり、未の刻、東へ向かって懸かり給ふ。」ということであり、信長が今川本陣へ切り込んだ後に義元を東方に発見したのであって中島砦から東ということではない。それは、藤本氏自らが『公記』の方角は常に信長を中心にして記載されているということを蔑ろにした飛躍がある。中島砦からは確かに概ね東ではあるが、『公記』が書く事実は未刻の義元の西に信長がいたという事実だけであって、中島砦を中心にした方角の記載であるわけではない。推測できるのは、義元の塗輿の置いてあった本陣外に信長がいて、その東に義元がいたのではないかということだけである。だから、中島砦から東の場所で義元を討ちとったから、信長が東側から義元本陣を攻めたということにはならない。『公記』から分かることは(1)義元は中島砦からみて東方、正確には東南の方角にいた。(2)中島砦から山際迄は、義元軍の監視下に信長は東向きに進軍しただろう。(3)信長が義元本陣に突入してから後に義元を発見したのは、放置された塗輿より東方であったということだけである。つまり、山際到着からは豪雨になりそれが晴れるまでの信長勢の行動は不明なのである。ただ、中島砦からみて概ね東であることは間違いがないだけのことである。しかし、だからと言って信長が直線的に義元本陣の前備えに討ち入ったということは早計である。何故なら、『公記』には「黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓・鎗・鉄炮・幟・指物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。」とあって、塗輿がある場所なのであるから、本陣そのものに切り込んだとも受け取れる書き方をしているからである。
- 「『三河物語』の記述は織田軍が高い所へ向かって攻撃をかけたことや、最初の戦闘が義元の旗本でなかったことなど『信長公記』の記事によく一致する。」………これは藤本氏の誤認であろう。なぜなら『三河物語』では豪雨の記載がないのだから、この山に上がってきた織田勢は山際に勢揃いした信長勢ではなく、千秋・佐々隊の前哨戦の生き残りが先駆けしているのだろうと考えるべきだからである。『公記』には「只、励むべしと御諚のところに、前田又左衛門(中略)右の衆、手々に首を取り持ち参られ候。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、」という記載がありその傍証となる。それ以前に、『三河物語』のいう石川六左衛門尉らがいる山が桶狭間山や義元本陣先備えの布陣していた山であるという証拠はない。従って、『三河物語』によって信長が高所へ向かって攻撃をかけたと推定するのは危険である。ところで、石川六左衛門尉の居場所であるが、(1)信長が北から南に向って攻めた形跡がないから棒山の頂ではなく、それゆえ先鋒の朝比奈隊ではない。(2)『桶狭間合戦記』には「旗本の先将松井兵部少輔は本陣へ敵討ち入りたると聞き、大いに驚き、早速軍勢を引率、旗本へ駆来たれば、義元ははや討死になり」と考察し、先備は信長と接触を継続していなかったことが知られるから、石川六左衛門尉は先備の松井兵部少輔隊に従軍していたわけでもない。(3)「早々(私を原隊に)帰らせ給」と言っているのだから義元本陣でもない。(4)残るは、漆山の殿軍だけである。
- 「(大意)信長が中島砦で戦況を誤認したのは、信長が始めから丸根・鷲津攻撃で疲労困憊の今川勢を襲撃することを計画していたことによる、思いこみ故である。」………『公記』によると信長が熱田の浜から望見した午前八時頃には既に砦は落去していたらしくある。それから六時間も後の駿河勢を信長が労兵と認識していたと言えるだろうか。信長が駿河勢を労兵と云ったのは、まさに彼等の疲労している姿を目の当たりにしたからなのではないのだろうか。『公記』には服部勢が大高河口に遊弋していたという新手の兵力についての記載があるが、彼等に背後を襲われる心配をなぜ信長がしなかったのかについての検討が藤本氏にはない。現実に鷲津砦には朝比奈勢などが残っていたのかについても検証がなされていない。藤本氏は自ら鷲津山の北側に駿河勢が進出していたならば、善照寺砦からは望見できると言われるのだから、それについて駿河勢を認めないということは、朝比奈勢は何処に消えたのだろうか。
- 「(大意)桶狭間山(丘陵一帯)の駿河勢を労兵と判断したのは完全な信長の誤解である。何故なら『信長公記』には今度(の戦いに)家康は朱武者にて先懸けをさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、ご辛労なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なりと明記しているからである」………松平隊が鷲津に居なかったのは明白だが、それ以外の砦を攻めた駿河勢の行方については一切記載がない。朝比奈勢らも大高城に居たとまでは考えるべきではないし、多くの軍記物もそのようには記していない。従って、藤本氏の推論は軽率である。最も合理的な考え方は、大高城に松平隊を残して義元らの駿河勢が引き揚げる途中に桶狭間丘陵で休息していたと看做すことである。
- 「信長は中島砦付近まで進出してきた敵の新手を見て、これが鷲津・丸根で戦ったばかりの労兵であり、自分はそれを補足したと錯覚したとしても不思議はない。」………『公記』は敵勢から丸見えであって自軍の兵力が少ないのが分かるからという理由で信長の出陣を諫めているが、敵が新手であるからという理由で諫めた記事はない。従って、信長が錯覚したということこそ不思議である。平子の丘陵上に陣取った敵は東海道からそこへ上がったはずであり、鷲津山の北側を廻ったり、小川道から東海道を経て平子へ上がったのではないことは、善照寺や中島砦にいた者ならば誰でも承知していたはずである。織田勢の目の前を行軍しなければ鷲津・丸根から平子へ上がることはできないのである。なぜそれを錯覚したりできるのだろうか。ましてや鷲津方面から来た駿河勢が漆山辺りに陣取らず、平子辺りに陣取るなどというのは狂気の沙汰であろう。何故なら、黒末川の鎌倉往還の徒渉地点は上流の小坂あたりであったのだから、織田勢の別動隊に背後を突いてくれと言っているようなものだからである。
この藤本説を受けて1989年に小和田哲夫氏が『桶狭間の戦い』で「正面奇襲説」なるものを唱えて、中島砦から山際までは今川方と信長勢の前衛(前田・毛利・木下・中川・佐久間・森・安食・魚住ら)が小競り合いをしながら進んでおり、狭間地帯に入ってからは今川義元の布陣する桶狭間山の麓まで風雨に紛れて近寄ったために奇襲となったとされた。
この時の小和田氏の著作には、戦場冠水説、陽動説や梁田特務機関を想定して今川方に接近を許した不備を説明するなど荒唐無稽な点が多く、『公記』の記事の全てを合理的に説明できているとは言えないのだが、合戦の推移を時間経過に従って叙述するという方法、および「降雨の後、狭間地帯に入ってからは今川義元の布陣する桶狭間山の麓まで風雨に紛れて近寄ることができたために奇襲となった」という部分に最も可能性の高い内容を含んでいることは疑いがない。
藤本正行氏の説を進展させたものに谷口氏の「東海道上会戦説」がある。これは『公記』に、(1)義元を東向きに攻撃したという記載があることを満足させることと、(2)義元の大軍が縦深に備えているのを討ち破るために、迂回以外の手段を考えた結果生まれた説である。そのため、義元に東海道上に下りさせるために駿河勢前軍をたった二千の信長勢に追い捲くられ本隊に雪崩込んで総崩れを現出するという奇跡を前提にしなければならない無理が生じている。そのうえ、敗れた前軍を救援しに駆け付けるのは大将にとって当然の決定であるという無謀な前提まで重ねなければならなくなっている。しかし、大将個人はどう思おうとその他大勢の徴発された軍兵らは、浮足立ってしまうのが普通なのではないのだろうか。
この藤本氏の正面攻撃説の穴であった『公記』のいう「山際」から本陣までの距離を零にしてしまおうというのが、義元本陣自体を動かしてしまう「漆山本陣説」であり、義元本陣を中島砦の真南の近距離に設定している。その結果、返って『公記』との整合性を失ってしまっているうえ、義元の大軍を2000ばかりの信長軍が打ち破った理由を説明することをますます難しくしてしまっている。
藤本氏が切り開いた「正面攻撃説」は、この先この筋から研究を進めたものは少なく、在野の研究者を含めてその多くは「陽動隊とのセットになった迂回奇襲」に傾く傾向にあり、最近では別動隊説まで出現している。
このように、藤本氏が『信長公記』を一級史料と認めて、これによって桶狭間に戦いに迫るという手法には、従来の史料読解の方法では研究者の推論に頼る部分が余りにも多いために、限界があることが直ちに明らかになってしまった。
そこで、『公記』を偏重するのではなく二級以下の史料をも検討すべきであるとして提示された新説が、『甲陽軍鑑』の記事を取り上げた2006年の黒田日出男氏の「乱取状態急襲説」である。しかし、これも『軍鑑』の史料価値としての問題をさておいても、又聞きの風聞にどれだけの真実があるのか、それでどれだけ『公記』の穴を埋められるのかはすこぶるつきの疑問が生じただけであり、ほとんど無視されているように思える。
その前の2001年に紹介されたのが『公記』の「天理本」である。これは既存の流布本とは異なる記事が多く、小瀬甫庵の著作と共通するところが多いため、甫庵の著作の見直しが提案されている。その結果、甫庵の著作にも何らかの根拠がありそうだということになると、それに影響を受けているその他の軍記物などにも、独自の加筆があるにしてもそれなりの根拠の存在を認める必要も出てくることになることは避けられないだろうと思われるから、これからはますます混乱に拍車がかかることになるのだろう。
このように、藤本氏の方法論とそこから導かれた結論を止揚するものはいまだに現れていないのが現状である。
では、藤本氏の方法論は既に限界なのだろうか。それとも取り組み方が間違っているのだろうかと考えると、一概に限界だと云うのは早い様にも思え、取り組み方の方に間違いがある可能性も考えられる。
何が間違っているかといえば、『公記』を一級史料としながらその記事を恣意的に取捨選択していることが第一にあげられるだろう。
その最たるものが(1)信長の戦況判断であり、(2)義元の沓掛城出陣である。それに、『公記』には(3)時刻までも記載してあるうえ、(4)牛一の地理描写は正確であるとまでしているのにそれを誰も検証したものはいないのである。誰も、信長の戦況判断が正しかった場合も義元が沓掛から出陣していなかった場合も、時刻が『公記』の記載事項に課する制限も検証していない。そのため、これまでの諸説には、付城攻撃隊のうち松平隊以外の駿河兵の所在を始めとした、多くのしかも明らかな矛盾を内包したまま放置されたままなのである。
このような状態なのだから、科学的に桶狭間の戦いを研究するには、徹頭徹尾『信長公記』に依拠して、戦いを描ききることができるかどうかを検証してみることが一番であるはずである。
『信長公記』は明確に時刻を記載しているから、工夫によっては通説の検証に使える可能性もあるのではないかということですあり、仮説(モデル)とその検証を重ねることが必要である。その具体的な手段が行軍速度である。
(2)『信長の戦国軍事学(信長の戦争)』藤本正行の方法論の問題 (2007.12.12 追加分を移行)
現在いわれている藤本正行の方法論の問題は以下のようなことだと考えます。
- 迂回の定義がなされていないとの批判が多くある。
- 迂回を証明する史料が存在するか、存在する史料は信用に値するかが問われている。
- 藤本氏の方法論は、『信長公記』を根本史料にして『三河物語』など比較的信頼できるとされる史料を補助に利用し、その余を切り捨てるとしたのだが、藤本氏自身は自らの方法論に忠実ではない。
- 本当に、諸史料を切り捨ててよいものかという問題もある。
では、これらをどの様に克服するか。
迂回を定義するのではなく、正攻法=強襲の方こそを定義すべきです。何故ならば、小生が証明したように、狭間筋(東海道)を通っても結果的に迂回になる現象が、突然の雨によって起こり得るからです。また、狭間筋(東海道)を通らないで義元本陣の側背に回り込むルートばかりを迂回とすると、小生の方法は迂回でなくなるからです。………小生の方法は、確かに義元本陣先備(前衛でも前軍などでもない)を迂回しているからです。
尤、迂回の定義についての議論は馬鹿げています。武田信玄が最後まで芝居を踏んでいた者が勝ちだというようなものです。迂回が問題にされるのは、それが必然的に奇襲になるからであって、そうでなければ圧倒的な兵力差と信長の完勝を説明できないからだけなのです。ですから、今川義元の兵力が喧伝されているようなものではない少数であったことを証明できれば、迂回などは問題にもされなくなります。
『信長公記』にだけ依拠した仮説でストーリーをどこまで組み立てられるかを試行してみればよいことです。仮説とその検証を繰り返す弁証法的な行き方こそが科学だからです。
後世の軍記物は、ほとんどが信ずるに足りないものが多いのでしょうが、幾分かの真実もあるかもしれませんし、先人の考察には耳を傾けるべきでしょう。
ところで、小生の方法論はというと、『信長公記』と『三河物語』を骨格として、行軍速度という手段を使って矛盾のない筋書きを書き、それを諸資料で肉付けし表皮を被せる作業によって、弁証法的に仮説を検証しながら、何処まで行くことができるかという推理の楽しみに尽きるものだということができます。




