<前夜の軍議> (2008.09.15 掲載 工事中)
Googleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9
天理本が紹介されましたので此処で新たに前夜の軍議について考えることにしました。記事は多くの部分で「天理本信長記」と重複するところがあります。
- 天理本
- 信長の決心
- 家老衆の存念
- 藤井尚夫説の検証
(1)天理本
桶狭間戦いの前夜について、現在一般に流布している『信長公記』には、「十八日夜に入り、大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、塩(潮)の満ち干を堪(考)がへ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候ところ、その夜の御話、軍の行は努々(ユメユメ)これなく、色六(イロイロ)世間のご雑談までにて、既に深更に及ぶの間、帰宅候へと、御暇下さる。家老衆申す様、運の末には知恵の鏡も曇るとは、この節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ候。」とあります。
これに対して、天理本『信長公記』は次のようなもので、正反対の状況を伝えます。
- 「其夜之御咄ニ、軍之行御談合ハ、於是非国境にて可被遂(トグ)御一戦候、寄地へ被踏迯(ニゲル)候而(ソウロウテ)は有ニ無甲斐との御存分也。然処(シカルトコロニ)御家老之衆、一味同心に被申候。御敵は四万五千ノ大軍也、其分一にも不足御人数に候。是程能(ヨキ)名城ヲ御拘(カカエ)之事に候之間、時分を被成御計御合戦尤(モットモ)と申候之処、其御同心無御座。」
- 「爰(ココ)にて被仰様伝聞く、安見右近前遍に度々可仕合戦相拘籠城に成、人数次第々々手薄にて無下に相果候事、眼前之由、御諚候えき」
- 「扨(サテ)御盃出候而、宮福太夫兵者(ヒョウシャ)之交り、頼リ有ル中之酒宴哉と謡を仕、信長公御鼓(ツヅミ)にて乱酒に罷成退出被申候也」
この二つの文章を両方が正しいものであるとするならば、おそらく日付が違うものであると見做すことにより、矛盾のない解釈が得られるものと見込めます。
なぜ、両立させることを考えるのかといえば、どちらも牛一本人の執筆にかかるものであるならば、そう考えることが順当でありましょうし、天理本を素直に読めば、普通の人なら不思議に思うことがあるからです。
それは、既に半日行程のところに到着している敵の大軍(織田の主従は四万五千だと思っています)を前にして、もてる軍兵を動員して清洲城に籠めるでもなければ、兵粮を始めとした軍需物資の集積に慌ただしいわけでもなく、清洲の町人を外郭へ避難することを受け入れてるわけでもないことです。
そんな中で、信長が決戦だとオダをあげ、家老衆ら一同もその気になって景気づけに酒宴に及んでしまい、翌日には法螺貝で呼集しても、付き従ったのは小姓五人と雑兵二百人にしか信長の出陣に間に合わなかったと云うのです。
そして、信長は熱田までの道中たびたび輪乗りして、諸勢の集合を待ったにもかかわらず、熱田に集まったのは二千人にしか過ぎなかったのです。これでは、とてもそれが前日の出来事であったなどとは思えません。これでは小田原評定にも劣るような有様です。
従って、もしこの逸話が事実であったとしたならば、遅くとも17日の夜以前の出来事だと、一般の読者は思われるはずです。
この記事が両方とも事実であったならば、次の二つのことが分かります。
- 一つは、信長の動員力は既に前線や各地の砦に張り付いている将兵を除いて、真に機動兵力として決戦に投入できる正味の人数が二千人であり、桶狭間で義元本陣に突入させた兵力について牛一が伝えることが真実であるということです。
- もう一つは、信長が奇襲を秘匿するために家臣にも決心を隠していたとすることは全くの誤りであることが明らかになるため、相変わらず盛んな信長の天才的な情報戦能力に勝因を求める議論が粉砕されることです。
(2)信長の決心
天理本では、信長の決心は国境で迎え撃つことで固まっており、「於是非国境にて可被遂御一戦候、寄地へ被踏迯候而は、有ニ無甲斐との御存分也。」であったと言います。
ただ、この文で問題にすべきは、「寄地へ被踏迯候而は、有ニ無甲斐との御存分也」とあることです。
これを見れば、後世の人々が義元が上洛するつもりであったとか、尾張を併呑する気で出陣したとか、清洲城まで攻撃するつもりであったということなどは、まるでなかったということになります。………なぜなら、義元は国境を掠めただけで引き揚げるのではないかと、侵攻される側の信長の方が心配している有様だからです。つまり、義元が西三河まで出張ってきたのは、「三河経営を確実なものにすること」であったというのが本当のところではないかと云うわけです。
信長は、義元が大軍を動員して三河に入ったことを知っていながら、義元を国境で捕まえなければ、三河に逃げられると思っており、「有ニ無甲斐との御存分也」と云ったというのです。これが、単なる信長の強がりを言ったことであれば、それまでなのですが………。
では、なぜ信長は義元または駿河勢に三河に退き込まれては困るのでしょうか。
信長は、鳴海・大高を餌にしてせっかく総大将の義元を誘き出すことに成功したのだから、この機会を逃すわけにはいかないと云うのでしょうか。しかし、それにしては信長は何の準備をしたようにも見えません。『信長公記』を読む限り、全ては成り行きのようです。最も頼りになる筈の水野信元は義元の背後を遮断する挙にさえ出ていません。桶狭間に義元が敗れて潰走した後になってからもです。あまつさえ、大高城で袋の鼠になった松平元康を岡崎に逃がしてやったかのような伝承さえあるのです。
緒川に封じ込められていたのでしょうが、緒川の水野信元はしたたかでして、義元亡きあとの尾三国境では三国鼎立を狙っていたもののようです。
ところで一方の信長ですが、天理本の記述は、信長が若く血気盛んであったから、向こう見ずであり、そこにカリスマがあったことを伝えたものなのでしょうか?
これについては、合戦当日に付き従ったのが小姓五人と雑兵二百人にしかおらず、熱田に集まったのが二千人にしか過ぎなかった事から見る限りでは、疑問が残ります。…それに、カリスマも敵には通じません。
また、現実に信長が桶狭間で咄嗟にとった戦術は、「(敵が)懸らば引け、(敵が)退りぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事。案の内なり。分捕りなすべからず。打捨てになすべし。」というものです。だからと言って、これは、毛沢東のゲリラ戦術などではありませんし、決死隊の突貫戦術でもありません。アレクサンダーの突貫する騎兵隊のようなものも終ぞ聞きません。
それよりも、何故そんなことができるのでしょうか。と云うよりも、信長は何故できると思ったのでしょうか。そして、なぜ麾下の将兵はそれを了解したのでしょうか。………それは、敵・義元勢が桶狭間で織田軍を待ち受ける態勢でも、ましてや織田軍に襲いかかろうとする態勢でもなかったからです。敵は撤退の途中であったから、信長の「是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり」というような戦術を、軽騎兵でもないのに出来ることを納得したのです。
と、言うことは、この時点では将に、天理本が伝える「事前に、信長が義元または駿河勢に三河に退き込まれては困る」と言っていた、その通りの事態になっていたわけです。これはどう云うことでしょうか。信長は、最初から義元が尾張国の奥深くに進出することがないことを予見していたことになるわけですが、………。
では、なぜ信長はそう予見できたのでしょうか?
考えられることは、西三河が安定していなかった事実があれば、それが予見できるだろうということがあります。
つまり、旧軍参謀本部が推定したように、義元が動員した四万五千もの大軍を各地に残置したことが本当であったということになるからです。その結果、大高城へは兵粮を搬入するだけで済ますはずであった当初の計画が、義元自らが行った大物見(『三河物語』はそう伝えます。)によって急遽丸根・鷲津砦の排除を決定したために、信長勢よりは優勢な兵力であったとしても、極めて小兵力(五千程度か)で作戦を実施じた可能性を考えることが可能になるわけです。これは、『三河物語』がそのように思われる記事を載せています。
- 『三河物語』「吉田を立ちて岡崎に付(着く)。所(諸)勢は屋萩(矢作)・鵜頭(宇頭)・今村・牛田・八橋・池リフ(鯉鮒)に陣之(ヲ)取。…義元は池リフ(鯉鮒)寄(ヨリ)、段々に押て大高え行、棒(某)山之取手をつくつくとジュンケン(巡見)して、諸大名を寄て、良(ヤヤ)久敷(シク)評定をして、さらば責(攻)取(れ)、…」
- 旧陸軍参謀本部の『桶狭間役』が見積もる今川方の兵力配備の内容は、岡崎城に一千、池鯉鮒・今岡に四千余を置いて刈谷の水野氏に備え、松平元康二千五百、朝比奈備中守二千余、先鋒の援兵・三浦備後守三千余、清洲方面軍として葛山氏元五千余、今川義元本軍五千余、鳴海城に岡部元信七百〜八百、沓掛城に浅井正敏一千五百余、で二万四千八百であり、大高城の鵜殿長照の兵力と合わせて凡そ二万五千と見積もっている。
このようなことから信長は、義元自身が尾張に踏み込んで侵攻する計画を持ってはいないものと予想していたのかも知れません。何故なら、義元が侵攻するには事前の調略が何もなされていないというより調略に成功していないからです。そして、これまでも調略による敵方からの寝返りによる手引きがなければ、義元は容易に侵攻を計画しそうもなかったからでもあります。
おそらく、そのような事前工作なしに侵攻したのは、村木砦と蟹江城(これは服部氏の手引きがあったかもしれない)の攻略だけではないのでしょうか。………このことは、十八日の夕方に前線からの注進があっても、『信長公記』が信長が何も手を打たなかったということの原因になるかも知れません。
つまり、信長が、「義元に三河に退き込まれては困る」と云ったのは、義元が出陣してきた目的が尾張侵攻ではなく、西三河経営の梃入れであることを掴んでいたからだということになるわけです。そうであれば、信長は始めから、義元が国境を越えて来ることは殆どないものと踏んでいたことが考えられます。
そうしますと、天理本に「寄地へ被踏迯候而は、有ニ無甲斐との御存分也」とある文を天理本を紹介された桐野作人氏が、「国境で無二の決戦をする決意で、せっかくやってきた敵を国境の外に討ちもらしてしまっては甲斐がない」と訳されていることに疑義が生じます。決戦するには敵にも戦う意志がなくてはならないからです。…それに、「無二の決戦をする決意」であったという文言がどこにも記載がないことがあります。
まず、「寄地」については、尾張国外の三河で間違いはないでしょうが、ここでの「寄」は寄親や寄騎と同様の用法ではないかと思うので、「所属する、頼る」の意味であるとするならば、正確には「領国化した三河岡崎へ」という意味だと考えます。
次に、「被踏迯」ですが、態々討ち漏らして逃げられることを強調しているのが、単なる表現上の問題ではないとしたなら、喰い逃げなどと同じ表現をしたもので、一方的に踏んで逃げることですから、通り魔的に尾張領国に侵入して刈り働きや焼き働きをしたり、境界の地侍・国人衆を襲って引揚げる強盗団のようなことをして去られることをいうのだろうと考えれば、これも信長が今川義元は本格的な尾張侵攻を目的になどしていないと確信していたのだと看做すこともできそうです。
また、「有ニ無甲斐」はよく分からないのですが、「優に」ならば数量を伴わないのですが甚だしく価値がないということであろうかとも思われます。それとも二つある甲斐がないということで、両雄揃った甲斐がないということなのだろうか。また、「言うに」であれば「言に甲斐無し」であって「言う甲斐がない」ということで「言う価値がない」なのではないかと思ったりします。
ところで、義元が上洛する気であったり、尾張に侵攻して清洲城まで攻撃するような計画があった場合に、信長がその大軍に立ち向かおうとしたのである場合には、後年、三方ケ原で徳川家康が武田信玄に突っかかったときと同様であって、籠城してやり過ごすのでは部門の名折れで口惜しく、武士を統率していく上で瑕疵になるという思いであったとのではないかとも思ったりもしますが、四万五千の大軍に、その十分の一の兵力で「決戦」を企画していたとは思えませんから、やはり家康と同様、一矢報いることが主眼であったものと考えるべきでしょうか。
信長も家康も、義元や信玄には謙信と違って長躯敵中に進撃できる能力などは持っていないことを承知していたものと思えます。何故ならば、謙信が長躯できたのは関東に味方になる勢力が溢れていたという背景があったことに比べると、信玄も義元も三河・尾張・美濃にそれだけの工作ができてはいなかったことは明白であったからです。
とすれば、アメーバーが侵食するように長い時間をかけての侵略が始まるはずでした。其の後の信長が美濃に七年もかかったようにです。そして、そのような展開になるだろうことは、信長の場合も家康の場合も共に承知していたのです。ですから、ここでの信長は国境で一戦を交える意志を明確にしたのであって、乾坤一擲の決戦をしようなどとは一つも言っていないと思います。
以上のことから、天理本が前夜のことなどではなく、それ以前に今川義元が西三河へ向かったことや各地に手兵を残置したことが明らかになった時点での軍議であるならば、次のことが言える訳です。
- 義元が国境を侵すことがあっても、それは大規模な侵攻にはならないであろうから、好機を逃すと義元本隊と戦う機会は訪れないかも知れないと信長が思っただろうこと。
- 義元はその大兵力の多くを各地に残置してきているから、もし尾張に侵攻することがあっても、その兵力は喧伝しているような隔絶した差は生じないだろうと信長が見込んだであろうこと。
- 陽明本などで、信長がそ「その夜の御話、軍の行は努々(ユメユメ)これなく」であったのは、義元自身の出陣があろうとは夢にも思っていなかった可能性を窺わせること。
- 実際の桶狭間で義元を補足したときには、将に撤退の途中であり、間一髪で運命の後髪を捉えることができたような状況であったこと。 ………これは、千秋・佐々らの抜駆けが功名のためであろうとも、戦術的には義元の撤兵行動を遅延させる目的に寄与したということができることになります。
- 現に、『三河物語』が伝えるように、義元自身が大物見をしたことによって丸根・鷲津砦が急遽決定された予定外の作戦であるということが、信長の観測の正しさを裏付けており、信長の意表を突くことになったこと。
(3)家老衆の存念
次は、信長の観測と決心に対する家老衆の存念について検証します。
天理本は、「然処(シカルトコロニ)御家老之衆、一味同心に被申候。御敵は四万五千(ノ)大軍也、其分一にも不足御人数に候。是程能(ヨキ)名城(ヲ)御拘之事に候之間、時分を被成御計御合戦尤(モットモ)と申候(後略)」と伝えます。
信長の観測に対して、家老衆の方は駿河軍が大軍を動員してきたということに目が行ってしまい、義元が各地に残置して来ていることの戦術的重要性にまでは気が付かなかったものと思われます。
家老衆は、遅かれ早かれ義元が全軍四万五千を尾張に侵攻させ清洲へ向かってくるものとの先入観に支配されていたように思えます。そこで、彼等はそのような大軍との野戦を避け、清洲城で籠城して迎え討ち、敵の兵粮が尽きて退くのを待つべきだという戦術を進言するわけです。
そこでここでは、この時期の尾張における城塞について「天理本信長記」の章から関係部分を再録して考察をすすめます。
清洲城は応永十二年(1405)に尾張守護職であった斯波義重が、稲沢市にあった守護所下津(オリヅ)城の別郭として築き、織田敏定を守護代としてその勢力を奮った城で、文明十年(1478)に守護所も清洲に移転されてからは、尾張国の中心部に位置していることもあり、京鎌倉往還と伊勢街道が合流し中山道にも連絡する交通の要所として重視されてきた。
信長時代には五城川を堀に見立てて防御されており、堀は一重しかなかったらしく、後年本能寺の変の後に信雄が城主の天正十四年(1586)に信長の後継者争いの中で大規模な改修が行われ、堀は三重とされ東西1.6km、南北2.8kmに及ぶ大城郭に生まれ変わったといいます
つまり、桶狭間合戦当時の清洲城は、守護所として政庁としての機能を優先しており、頗る脆弱であったものと考えられますので、当時の武士からみたならば、大軍によって本気で攻撃を受けたならば耐えられないことは、常識ではなかったかと思えます。
これは、織田勢には古くは安城城が攻略され、刈谷城も攻略された経験があり、大高城も佐久間甚九郎が落としたとも言われ、村木砦・岩倉城などは此れを落とした経験があったことからみると、現在の瀬戸市辺りの品野城などのような山城を除くと、平山城は比較的容易に攻略できることは、既に常識になっていたものと考えることができます。勿論、最大のポイントは後詰の有無ですから、既に美濃の斎藤道三の後楯を失った今となっては、籠城などという策は論外であったはずです。
これらの事からみて、天理本の家老衆の言動は牛一の創作であった可能性が考えれます。つまり、これまでの城館形式の平山城では本格的な攻撃には持ち堪えられないというのは、経験を通じて既に尾張武人の常識になっていたと考えられるからです。 註)城塞についての詳細は「(3)藤原京氏の桶狭間/諸子百家を検証する」で論じました。
(4)藤井尚夫説の検証 (2008.09.27 追加)
藤井尚夫氏がそのHPや雑誌などで、「織田信長はなぜ前日に作戦会議をしないのか。」「誰と軍議をするのか」という疑問に対して、自説を展開されている。
その要旨は、
- 信長の今川勢力駆逐作戦は一月からすでに開始されていた。
- 品野城攻略成功に引き続き、信長は鳴海城・大高城の攻略を計画し包囲した。
- 今川義元の後詰は必至である。
- 改めて前夜に軍議する必要などはない。手筈は既定のことであった。
- 重臣は皆しかるべき前線に配備されていて、清洲城には残っていなかった。
- 「軍の行」は軍議ではなく、既定の命令の変更のことである。
以上のことから、前夜に軍議を開くまでもなく信長の作戦計画は定まっており、部隊の配備も終了しており、後は、義元の所在の確定だけであり、総大将の信長の前線への出動を待つだけであったとするわけです。
これは非常に魅力的な仮説ではありますが、同時に多くの疑義もあります。
- 信長による今川駆逐作戦は、永禄三年に限って言えば、藤井氏の言われるように一月の品野城攻めから始まっているということもできるでしょうが、実際は信長の東部戦線での失地奪回作戦は家督相続いらい国内状況が許しさえすれば絶え間なく続いているとみるべきではないでしょうか。何故なら、東部戦線での品野城攻めはこれが三度目であると看做されていますし、弘治二年には岩崎城を攻めようとして横山で破れたり、他にも永禄二年には福谷城を攻めに失敗したり、大高城への兵粮入れも弘治三年からあったという説もあるようだからです。
- なぜ大高には義元自身が出馬し、品野城には行かないのか。なぜ笠寺は信長に奪回されたままに放置してあるのか。………橋場氏の場合には、伊勢湾を横断するのに大高城が必要であるとされるのですが、笠寺を押さえていれば当時の鳴尾浜は港として有効に機能したらしく思えます。
- 品野城が永禄三年一月に落城したという証拠はなさそうです。ましてや、大高城を包囲する付城群が同年二月から付けられたということも確定できません。また、それによってたった三ヶ月で大高城が餓えに瀕したとも思えません。先にも紹介しましたように、大高城への兵粮入れや兵員の補充は弘治三年から毎年のように行われたかも知れないのです。ですから、一月の品野城攻めの成功の余勢をかって水野信元を誘って、信元もそれに浮かれて大高城攻囲に参加したというのは賛成できません。………信長による鳴海城奪回作戦を見ても、信長は即座に山王山に陣城を築き赤塚で合戦におよんでいることがあります。丹下に付城を推し進めた時期は判っていないのですが、義元は朱印状をもって弘治三年十二月には相原郷の扇川を挟んだ南にある八幡新田の社領を安堵しているぐらいですから、善照寺砦を築くには至っていないでしょうが、一般には永禄二年には築城されたと見られており、『奥平家伝記』は「永禄二年、今川義元尾州大高の城を攻取(リ)鵜殿長助を入置き候處に、織田信長より押へとして丸根村に取手を築、其外所々に要害をかまへ相守候故、」と記すようです。
- 今川義元の後詰は必至であるということは、池鯉鮒・沓掛に進んだ時点では、義元が「手勢」を大高城の後詰に出すという意味では正しいでしょうが、自身が大高へまで行くとまでは見込めないと思います。
以上のような疑問から、信長が既に義元勢を迎え撃つべく、当時使う事ができた全軍をすでに然るべく配置 済みであり、沓掛城から大高城へ向かう義元を攻撃するつもりであったとするならば、これはかなり無謀な作戦であると言わざるを得ないでしょう。
それに、全てが信長の想定通りならば、「今夜中に部隊を集結させておくべきだ」というのが家老衆の思いであり、この期に及んで何故信長が行動を起こさず逡巡しているのだろうという意味で、「家老衆申す様、運の末には知恵の鏡も曇るとは、この節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ候。」ということになるのだろうと思います。
信長が率いた兵力は二千程度しかなかという結果からみると、よほど薄く自軍の兵力を分散配置していたことになりますし、実際の砦攻撃が開始されてから清洲を出陣したのでは、義元を取り逃がす恐れの方が大きかったのではないでしょうか。
だとすれば、これは失敗した作戦であったと云うべきでしょう。
義元が先鋒から遅れること半日近くも後に沓掛城を出発するなどと誰が予想できたでしょうか。結果的には望外の大勝利ではあったのですが、下手をすれば義元はとっくの昔に戦場から離脱していた可能性の方が大きく、信長の「寄地へ被踏迯」と危惧したとおりに、義元を取り逃がしていた公算が高かったことになります。
従って、大将だけが前線に駈けつければよかったという作戦であったなどということは是認できないのではないのでしょうか。また、信長の清洲から熱田への移動時間および熱田での軍勢を集めるに使った時間を考えると、事前に計画したとは思えない無駄な時間が多すぎます。
このように見てくると、藤井氏が主張する理由で軍議がなかったのではないことは明白だと思います。
ただし、藤井氏の結論である「重臣は皆しかるべき前線に配備されていて、清洲城には残っていなかった。軍の行は軍議ではなく、既定の命令の変更のことである。」という部分は棄て難いものがあります。





