<諸氏百家の桶狭間の戦い>

Googleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9

  1. 谷口克広氏、『信長の天下布武への道』『織田信長合戦全録』 (初出 2007.11.23)
  2. 桐野作人氏、『信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ/歴史読本』  (初出 2008.07.07) 
  3. 藤原京氏、『時代劇のウソ?ホント?』    (初出 2008.07.13) 
  4. 橋場日月氏、『再考・桶狭間合戦/歴史群像』『新説・桶狭間合戦』『伊勢湾制圧・今川帝国の野望/歴史群像』    (初出 2007.12.18)   
  5. 『大高と桶狭間の合戦』『信長四七〇日の闘い』服部徹     (初出 2008.12.14 移動)

 

(1)谷口克広氏の桶狭間    (初出 2007.11.23、)

谷口克広氏の『信長の天下布武への道』や『織田信長合戦全録』の場合は、藤本正行氏の説を敷衍したもので、その桶狭間の戦いというものは概略次のようなものです。

前夜に信長が戦いの話を避けたというのは、この時、もし、家臣の意見を聞いたとすれば、必ず籠城策が支配的になったであろうから、意図的にこれを躱したのである。

  1. 十九日の午前四時ころに、鷲津・丸根両砦より注進があったというから、攻撃開始は午前三時頃になる。
  2. 注進を受けて信長は即座に出陣を決めた。この戦いに勝つには敵の大軍が分散しているところを各個撃破しかないと考えたからである。問題は、付城が実際に攻撃を受けたことを知った時点で出陣を決心している点で、決して義元が沓掛城を出陣したことを知ったからではないところにあります。 
  3. 今川軍の本隊は正午頃、桶狭間山なる小高い丘に本陣を布いた。
  4. 信長が善照寺砦に着いた時には、今川軍の前衛部隊は東海道をすでに中島砦近くまで進んでいた。そして、抜駆けした佐々・千秋らが今川前衛隊にしかけて撃破された。
  5. 信長が中島砦に進出した時、今川前衛隊は中島砦の間近にいたので、中島砦からの出撃を命じて、これを山際まで押し返した。
  6. 今川前衛は数では優勢であったとしても、大部分は非戦闘員であるのに対して、信長軍二千のほとんどは鍛え抜かれた専業武士であった。
  7. 今川方の前衛部隊が押し戻された時、それを見た義元を囲む今川本陣は、桶狭間山を北に下って、高根山を越して谷あい(東海道)に位置していた。前衛の苦戦を知ったならば、本陣がそれを支えるために動くのが自然だからである。………桶狭間山からは鳴海表の平原または田地は望見できませんし、東海道を撤退する姿も見えません。見える場所は平子台地の南斜面ぐらいでしょう。   註 付図を見る限り義元は地蔵池から長坂を通り鎌研に抜ける鳴海〜桶狭間道を行ったらしいので、正確には北西なのだと推察します。
  8. 信長軍が山麓まで敵の前衛軍を追い返したところで急に天候が変わった。
  9. 山麓から遠方に望まれる沓掛峠の楠の巨木が、この時の風雨のため東へ向かって倒れたという。………山麓から見える峠を特定してもらいたいものです。
  10. 午後二時頃、主力の衝突は東海道上においてなされた。東海道上であれば信長軍の突進が「東へに向て」なされたと『信長公記』にあることに合致する。

さて、このような桶狭間の戦いはあり得たでしょうか?………問題は以下のようなところにあります。

  1. 臣下たちの間に籠城説が支配的になって戦意が低下するのを避けたからだという考え方は、天理本が紹介されたことによって成立し難くなりました。 (挿入 2008.07.09)
  2. 十九日の午前四時ころに鷲津・丸根両砦より注進があったというようなことは証明されていませんし、午前三時頃に攻撃を開始するには明かりなしで夜間行軍をしなければなりません。それも沓掛からですが、この事から生じる問題については本論で詳述しましたので省きます。
  3. 信長は、義元ではなく朝比奈勢を各個撃破するつもりだったのでしょうか?それならば何故、前夜の注進を受けた時に出陣して、敵の背後を攻撃しなかったのでしょう。注進を受けて信長は即座に出陣を決めたといわれるのですが、事前に兵力を前線背後に集中させておかず、両砦が落ちてしまったのでは大失敗でしかありません。戦いに勝つには敵の大軍が分散しているところを個別撃破するしかないともいわれますが、事前に兵力を前線背後に集中させておかず、両砦が落ちてしまったのではこれも大失敗でしかありません。
  4. また、鷲津・丸根砦を攻撃している敵軍の兵力だけなら知れているから、後詰することによって、まずそれから叩き潰すというのが、信長の作戦だといわれるのですが、砦攻撃軍が少数だというのは谷口氏の想像にすぎず、信長がなぜそう思い込むことになったかの説明がなされていません。また、敵の主力が後方の沓掛城に控えているのなら、それは罠であり、挟撃される恐れが大きくなると思うのが常識ではないのでしょうか。信長はそれにどう対処するつもりだったといわれるのでしょう?
  5. 信長軍には、当時の戦国軍隊を越えるような行軍速度はありません。システムが優れていただけですから、意思決定から実行されるまでの時間が非常に短かっただけのことです。ですから、サルホのヌルハチのような機動力はありません。信長は敵の各個撃破などは夢想もしていなかったのではないのでしょうか。
  6. 今川軍の本隊が正午頃に桶狭間山に着陣することなどはあり得ないことは本論で検証しました。
  7. 信長が善照寺砦に着いた時には、今川方の前衛部隊は東海道をすでに中島砦近くまで進んでいたと言われるのですが、………これは軍事常識に反します。本陣から離れ過ぎているからです。
  8. 氏は、今川方の「前衛部隊」という造語によって、五〜六千ほどもある支隊ともいうべき兵力を展開したといわれるのですが、そのような史料はなさそうです。
  9. 五〜六千ほどもある駿河勢が信長の二千に何故負けたのでしょうか。専業武士の比率が多かったというのでは説明になりません。信長は、それ以前も以後も今川軍・松平軍・美濃軍などに勝つことはできないでいるからです。………戦術的には信長軍が中島砦から出かけたところで、目前で兵を展開できないうちになぜ駿河勢は攻撃しなかったのかという問題もあります。
  10. 中島砦表での戦闘状況は桶狭間山からは俯瞰することはできませんから、本陣の義元は戦況を見て駆けつけることなどはできません。 (但し、丘陵上の平子辺りならば見えたかもしれませんが、駿河軍が織田軍が攻め上がってくるのを待っていたとも思えません。必ずや優勢な兵力を活かして攻め下ったでしょうから。)  また、味方の苦戦を知ったならば、本陣がそれを支えるために動くのが自然だされますが、戦場での狙撃手は戦闘を殺さず歩けないように撃つのです。敵が戦友を助けるために射界に飛び出してくるのを狙撃するためにです。しかし、これは分隊などの戦闘レベルの話でして、後方で諸部隊を統括する部隊長や参謀はもっと冷静に行動するはずです。4km程も離れた部隊を救援に駆けつけるのならば、支隊を派遣するのが普通ではないのでしょうか?本隊上げて救援の為に、谷底に向かうのは異常でしょう。救援に駆けつける行軍途中を襲われたら全滅する恐れさえあるだろうからです。
  11. 中島砦からの出撃した信長勢は、敵前衛を山の麓まで2km近くも追い返したといわれるのですが、今川方前衛は繰り退きもせずに無事に退けるわけがないのですから、今川前衛部隊は崩壊して四散しているでしょう。つまり、敗れた駿河勢先鋒隊は一列になって東海道を逃げたりはしないだろうということです。また、義元はそのような状況を中間点にあたる高根山辺りで知ることができたはずです。それなのに、なぜ義元は断然有利な高所を占拠せずに、それを捨ててまで東海道上になど下りたのでしょうか? (桶狭間山から北側の東海道に直接おりたとされるようですが、当時はそちら側に下りる道などはありません。何しろ主力は騎馬武者であるうえ、塗輿を伴っていたのです。) 第一、東海道は谷底ですから両軍とも兵を展開するには適しませんが、殊に今川軍は信長軍に倍する大軍ですからその有利さを生かせませんし、敗走してくる味方を受け入れたならば混乱してしまいます。義元は本当にそのようなことをしたでしょうか?今川軍前衛が兵農未分離であろうとも「数は数」ですから、そう簡単には勝てません。敵の尖兵を撃破して士気が高かったはずでだからでもあります。三方が原・姉川・手取川・長嶋一向一揆などを見れば明らかです。信長軍は無敵などではなかったのです。信玄の軍隊も兵農未分離でしょうが、義元軍は彼等と戦って負けてはいないのです。でも、徳川織田連合軍は敗れています。
  12. 遠方に望まれる沓掛峠の楠の巨木が、この時の風雨のため東へ向かって倒れたといわれますが、………山際から見えるという沓掛峠とは、何処を言うのか指摘してほしいものです。
  13. 東海道上であれば信長軍の突進が「東へに向て」なされたと『信長公記』にあることに合致するといわれますが、演繹した結果なのですが、余りにも矛盾が多すぎます。
  14. 朝比奈らの部隊はどこに消えたのでしょうか?服部氏の軍船は何しにきたのでしょうか?

………と、言うように、桶狭間合戦に関しての数々の疑問には何も回答が与えられてはいません。信長は桶狭間で三ヶ国の太守の軍勢をただ一戦に退けたのですが、その後七年間も美濃一国に勝てなかったのです。同じ軍隊を使って。つまり、谷口氏の解釈では何も説明できないのです。

谷口説の骨子は、(1)義元が前衛部隊と合流しようとしたということ、(2)義元が桶狭間山を下りたということ、(3)義元が東海道の山際まで進出したと考えているらしいことの三点からなっています。

そして、これらの三点に共通して欠けている問題は、実現可能性です。つまり、義元本隊五千〜一万だとして、彼等が現在桶狭間山に布陣している場所から順次出発して、4km先の前衛を救援するために兵を展開するにはどれだけの時間が必要かという問題です。因みにこれには、二列縦隊で時速5kmで行軍したとしても一時間半からニ時間かかります。間に合うと思いますか?義元はこのことを十分に理解していたはずです。

まず、前衛部隊の存在やその布陣場所も自明なことではありませんから、それも問題ですが、それ以上に問題なのは(1)の「友軍の苦戦を知ったならば、当然に救援に行くはずだ」と断定することにあります。同じように(2)のせっかく有利な高所に布陣していることを放棄して、低地に下りることは軍事専門家であった武士として正しい判断だろうかという問題もあります。そして、義元が有利な高地をも放棄して(3)鳴海〜桶狭間道を下って東海道に下りた。つまり山麓に至って前衛の背後に布陣したとされることを問題にしなければなりません。前衛を攻める織田軍の側背に廻らなければならないのにです。小豆坂の戦いでは岡部元信がそれを行って勝利しています。この直近の戦例を義元が知らないわけがありません。

また、谷口氏は桶狭間山と中島砦の間は、大平原などではないことを忘れているように思えます。桶狭間の前面の挟間には深田があり、その前は道路から10〜20m高低差のある小高い丘陵が並んでいてそれを越して東海道というへ出る道は一本しかありません。そして、東海道は谷底付近を通る道でして、大軍を展開するには適していないのです。例えるならば、大河に二列縦隊で渡れる程度の橋が一本架かっているような状況と同じでなのです。大河とは桶狭間山の前に広がる深田であり、道からの高低差10〜20mの小高い丘が遮っていることでして、それを越える一本の道が橋に相当するわけです。

さて、このような状況であることを考えたならば、そのような大河を挟んで4kmも先に前衛を進出させたと考えること自体の不適切を思わざるを得ないことに気づくはずです。それでも前衛が勇んで進んでしまったとして、彼等が苦戦に陥った場合に、戦国武将はどのように対応したでしょうか?救援にいくでしょうか?例え、本隊をあげて行きたく思っても、果たして現実的に行けるでしょうか?鳴海〜桶狭間道は二列縦隊しかとれなかったであろうことを考えるべきです。それを考えたならば、救援に行くとしたら支隊を派遣するだけなのではないのでしょうか?全軍を行かせる場合、義元はその本陣の指揮下にある将士に、どの道を使用してどのような順番で、何処へ進出して何処を占拠し布陣するかを命じることができたでしょうか? 

………まず、本陣先備へを深田の中に一本ある道を使って前進させます、同時に本陣右脇備へは陣取っている場所から北側に下りて東海道を進出させます、そして本陣左脇備へは、先備えが出陣し終わったたそれに続かせます。それから、旗本と義元が一本道を使って前進するという段取りをとる必要があります。これは相当時間がかかります。全軍を北側の東海道へ下ろしたと考えることは、紙上の地図の上でだけ可能なことです。

もしそれが出来たとして、山際を鎌研辺りと仮定した場合には、鳴海〜桶狭間道の長坂辺りが戦場になったと考えられるわけですが、これはもう小豆坂における不期遭遇戦の再現になります。そして、その時には小豆坂を迂回した今川方の岡部元信が、織田軍に横槍を入れることによって大勢を挽回しています。そして、今回はおそらく生山や武侍に布陣した駿河勢が東海道へ下りて西進していますから、義元が高根や長坂に布陣していて信長勢をそこへ惹きつければ、生山や武侍の駿河勢が岡部元信と同じ働きをすることができたでしょう。こうなるともう数がものを言うはずです。ですから、惻隠の情によって救援に向かうというような状況設定は不適当だと考えます。

 

(2)桐野作人氏の桶狭間        (初出 2008.07.07) 

さて、歴史読本8月号に桐野作人氏の桶狭間の戦いに対する考え方が示されました。というよりも、新たな可能性も提示されただけのようでして、結論は保留されているようですが、これまでの谷口氏の説とは異なっておられるようでして、藤本−谷口氏の提案には一切触れられておられず、かなり藤井尚夫氏の説に近いものになったようです。また、朝比奈勢や服部勢の行方などには一切触れられていないのはとても残念です。

1.桐野氏は「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで、午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」とされますが、果たしてそのようなことは可能なのかを検証してみます。

まず、沓掛から桶狭間に義元が向うにあたってどの道を通ったかを考えますと、桐野氏はこの問題には一切触れられてはおられませんが、大脇から大高道を通ったことに間違いはないことだと小生は考えます。何故なら、当時の東海道から桶狭間村に入るには、いったん鎌研あたりまでいって、長坂を上り高根と幕山の間の峠を通る鳴海〜桶狭間道を行くしか街道はなく、非常に遠回りになるからですし、東海道には人家もなく義元が人々に示威することができないからです。近世から見られる間米〜館を経て桶狭間へ抜ける道なども当時はなく、軍隊が行軍するには適当であるとは思われないこともあります。

と云うことは、義元が大高城に入城するのが目的である限り、当日が熱暑であることを考え併せると、東海道を行軍していながら、わざわざ桶狭間山に戻ってまで休息するということは考えられない無駄になると考えます。また、疎林とはいえ道のない場所を行軍したものとも考えられません。それに、引き連れた小荷駄を大高城に先行させて入れておくことが安全なはずなのですが、そのような処置もとっていません。これは漆山に着陣した場合でも同様です。………義元が中島砦を攻めたうえで鳴海城を救援しようとしたという伝承もまた殆どないのです。これが第一点の説明されるべき疑問です。

漆山義元本陣説には大きな弱点が二つあります。

一つは、義元勢が桶狭間山から東海道を漆山に上りますと、有松の狭間を抜けてからは善照寺の織田勢にその姿を暴露するわけですから、織田軍は信長だけでなく大勢の将兵が諜報や偵察などによらずに義元の兵力をつぶさに観察して具体的にその数さえも勘定できたことになるわけです。

と云うことは、信長がその手兵を前に演説した内容は完全に嘘であることを部下に見抜かれていたことになります。信長がいかに駿河勢が労兵であると演説しようと騙されるわけがありません。………逆に言いますと、これは、それだけ信長一党が熱狂の極みにあったことになるわけでして、善照寺砦や中島砦で信長の出撃を諌止した極少数のものだけが正気を保っていたことになるわけでもあります。ですから、信長のカリスマ性を示す格好の事例になるわけですが、牛一の信長公記では信長麾下の将兵が熱狂して敵勢に向かっていったというような記事をのせてはいません。将兵が熱狂したのは略奪に出かけるときだけだったのではないのでしょうか?天理本では熱狂して(?)熱田・山崎からついてきた人々は、駿河勢の威容をみて正気に戻って退き上げてしまったと記しているのです。ですから、これが説明されるべき第二の疑問で、信長のカリスマが疑われるところです。

二つ目の弱点は、『信長公記』が「信長は、先ず丹下砦へ行き、善照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。信長の参陣と同時に佐々らは出撃した。その後、午刻に至って昼食をとり謡をした。」という時間経過があるからです。

………これは、歴史読本8月号で桐野作人氏が、「義元の進軍路は沓掛から桶狭間山にいたって休息し、そこから戌亥の方角に更に進んで、午刻までに漆山に本陣を据えたと解釈することは可能だ」といわれることは、全くの誤りであることを指摘することになります。午刻には義元は桶狭間山にいる必要があるからです。なぜなら、『信長公記』は、信長が照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。そしてその信長の参陣を知った佐々らは出撃し討死したとなるからです。その後、義元は漆山に陣を進め、午刻に至って敵前の漆山で昼食をとり謡をしたと読まなければなりません。

これでは、明らかに拙いので、「信長が照寺砦に着陣して戦況を観察したならば、義元は兵馬を桶狭間山に休息させていた。義元も信長参陣を知って急遽漆山に陣を移すべく前進を開始した。同時に、信長の参陣を知った佐々らは出撃し討死したが、それを義元が見たのは高根以西の高地からであったとし、その後義元は引き続き前進して漆山に陣を進め、午刻に至って漆山で昼食をとり謡をした」としなければなりません。

ということで、行程的な問題だけを考えてみます。

義元が午刻に漆山本陣で昼食をとり謡をするには、桶狭間からの約3kmという距離から考えて45分程かかったものと思われますから、午前11時15分には桶狭間山を出立していなければなりません。その場合、義元が佐々・千秋らとの前哨戦を観戦できる高所を探しますと、高根と幕山およびその峠と長坂を行軍中であることなどが考えられます。そして、高根は桶狭間山から約1km先になりますから、15分前の午前11時30分には高根にいなければなりません。

また、信長の方は、桶狭間山の義元に参陣を見られたのが午前十一時十五分なのですから、 熱田〜善照寺間一里25町余の7kmを時速9kmで駆けたとしますと約50分かかりますから、午前10時25分という遅い時刻まで熱田で将兵の着到を待っていたことになります。

佐々らが信長の善照寺参陣を見てから中島砦(天理本)を出撃しているのですから、その場合には、丸根は別にしても鷲津砦の攻略には午前十時以降までかかった可能性があり、松平元康の率いる松平勢が丸根攻略後に鷲津攻めにも転戦し、朝比奈勢は鷲津砦の戦後処理にかかりっきりで、桶狭間合戦には間に合わなかったということもできそうですから、「鷲津砦に朝比奈勢がいる」という難問をクリアーすることができます。

逆に、信長が午前10時頃に善照寺砦に参陣していたとしたならば、義元もその頃には桶狭間山から高根以西を行軍中でなければならないのですから、義元の本来の目的は信長が出現しようがしまいが大高城に行く予定であったと考えられます。すると何のために桶狭間山で人馬を休息させる必要があったのかが再び問題になります。昼食をとるには早すぎる時刻であり、正午には大高城に入城していられるからです。なぜ義元はそうしなかったのでしょうか?………たぶん、桶狭間山で信長参陣を知ったからだという本末転倒な説明を漆山に本陣を布いた理由にされることが考えられますが、桶狭間山に寄り道した理由は依然として謎のままですから、これも説明を要します。

さて、桶狭間山にいた義元が午前10時頃に信長の参陣を知って、急遽本陣を約1km先の高根まで進めたところで前哨戦を見たとしたならば、これには15分かかりますから義元の先備えは約840m先の戌亥にあたる鎌研のあたりで織田勢を迎え撃つことが考えられます。その場合に佐々らは1.4kmを山際(鎌研あたり)まで行ったとしますと25分ほどかかりますから、義元が高根に到着した十分後に両勢は合戦を開始した可能性があります。これは午前10時25分になりますが、戦闘時間は五分程度で勝敗は明らかになり、その後は追撃戦になったものと看做すことにします。この趨勢をみて義元が陣を進めたとしますと、約1km先の漆山に到着できるのは15分後の午前10時45分頃になります。義元は正午に昼食をとっていますから、その後の1時間15分で全軍を漆山に収容して布陣を完了したと看做すことができます。これは後続が行軍中に襲撃されることを許すわけにいかないからです。

この行程から義元の直卒兵力を推定しますと、1時間15分で行軍できる距離の5kmにどれだけの兵士がいたかという問題なるわけですが、騎兵一割を含んだ一時間当りの兵数は4,208人でしたから5,260人と先備えの兵力1,000人を加えて、6,000人強の兵力と算定します。これは微妙な兵力です。信長の率いたのは2,000人といいますから約三倍なのですが、信長の場合には小荷駄などを伴わなかったと考えられるからです。

そして、信長とその兵士の大部分は熱狂的に攻撃に移り、少数の冷静な武将はこれを諌止しようとし、熱田・山崎から浮かれて付いてきた町人らは、熱から冷めて急遽引き返したことになるわけです。果たして、信長軍の中核になった小姓・馬廻などの集団はそのような熱狂的な集団であったと言えるでしょうか?

………これは、結構いえるようにも思えますので、これも信長のカリスマ性の一例にされそうです。しかし、それにしては『信長公記』は「今度は、無理にすがり付き、止め申され候へども」と書いたり、「右の衆、手々に(敵の)首を取り持ち参られ候。 (信長は彼らにも)右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ、」と書き、信長に反対する情景は書きますが、信長を熱狂的に支持する将兵の姿は書かず、進撃の実態も緩々と前進しているように思えて、熱狂性は感じられません。

ところで、朝日出〜漆山は約2kmありますから、信長勢二千人が漆山の山際に展開するには45分ほど要します。ですから、昼食と謡に30分を見積もりますと、風雨の始まりは午後1時15分ということになり、降雨時間は45分と考えることができます。そうしますと、桐野氏の説も行程的にはと限定すれば、有り得る想定であるということができます。

但し、桐野氏自身も認めておられますが、『信長公記』や『三河物語』という史料に矛盾する点が多々あります。

  1. 取敢えず鷲津山の朝比奈勢は考慮しなくてよいことは先に述べましたが、服部党一千艘(二十艘?)が遊弋していた問題があります。彼らはなぜ信長の背後を衝かなかったのでしょうか? ……… これは、天理本に「熱田・山崎近辺より見物に参り候者共、御合戦に可被負、急帰れと申、皆罷帰候えき。」とあることがポイントになります。この文章では、織田軍の劣勢を見て帰ったということだけなのですが、大高河口に遊弋していた服部勢をも見たからだとも思われるからです。この熱田住民らは熱田を襲った服部党を撃退しているのです。そのため、この事からもう一つ分かることは、服部勢が熱田を襲った時刻です。「真説・桶狭間の戦い」章から推定しますと、熱田からの兵一千が到着を終るのは午前10時50分ですから、町民らが取って返したとしますと約1時間30分後には帰れますから、服部勢が熱田を襲ったのは正午半頃であったろうということになります。これは、大高河口〜熱田湊の海上6kmとしますと、約1時間弱の航行ですから午前11時半頃には大高河口を離れたことになります。せっかく参陣していながら義元にも会わずにです。
  2. なぜ兵力に優今川勢は中島砦を出ようとする信長の出鼻を叩かず、山際に展開を完了するまで待っていたのでしょうか?義元は信長参陣を知って漆山に本陣を進めたという想定なのですから、戦う意欲は十分にあったはずなのです。 ……… 当時の漆山と中島砦の間は、水田が広がっていたのではないのでしょうか?その場合には、水田の中の一本道を信長軍は進撃しており、山際に至って駿河勢の西方に展開するまでは、両軍とも互いに攻撃できないことになりますから、説明は可能ですが、今度は逆に義元の意図が疑われます。それとも原野と看做すのでしょうか。
  3. 漆山山麓から見える沓掛の峠とは何処をさすのでしょうか?
  4. 現在にいたっても所在の知れない「おけはざまやま」にさえ名前をつけた牛一が、なぜ漆山については名前をあげなかったのでしょうか?
  5. 『三河物語』に「駿河勢が我先に退いた」とある記述を、桐野氏説では説明できません。これは降雨前のことです。
  6. 根強くある信長迂回説を説明することができません。なぜ、このような説が生まれたのでしょうか?迂回も何も全くでなくなる位置関係になります。
  7. 黒田氏によって唱えられた甲陽軍鑑の記載による「どさくさ紛れ」説も説明できません。紛れようもないストーリーの展開だからです。すると、この三河物語にも矛盾するような情報を信玄はどこから仕入れたのでしょうか?
  8. その他、多くの軍記物の記事を説明できません。

 

(3)藤原京氏の桶狭間   (初出 2008.07.13) 

『時代劇のウソ?ホント?』での氏の仮説はかなりユニークです。

その要点は義元軍は陣城を構築中であって、それが完成する前の隙を速攻した信長に衝かれために敗れたというものです。そのために、信長は第一波の攻撃を千秋・佐々ら三百人に行わせ、第二波には前田犬千代が参加しており、自らは第三波となって義元本陣に殺到したというのです。そして、その背後には柴田勝家らの部隊が控えていたとしています。

このような説を唱える理由について、氏は自ら説明して、現在忘れ去られた戦国時代の常識の一つとして、「城は攻めても落ちないもの」というものがあるとされています。そのため、鳴海城・大高城を攻囲し、駿河勢籠城策をとったために必然的に駿河勢による後詰が行われたことにより生起したされており、信長は桶狭間山に着陣した駿河勢が未だ陣城を構築できないでいたその隙をついたのだとされるわけです。そして、反面教師として長篠合戦での信長・家康連合軍による野戦築城を例に出されます。………義元は、本当に桶狭間山に陣城を築こうとしていたのでしょうか?一体、何の目的で?

陣城構築中であったということには否定的な情報が多々あります。

  1. 氏は、桶狭間山が鳴海城に後詰するには、大軍を広く展開できる理想的な陣城構築場所だとされていますが、桶狭間山からは予定戦場になると考えられる中島砦付近が見通せませんし、そこは小規模な丘陵が複雑に入り組んでおり、とても大軍を駐留させる場所ではありません。これは孫呉の兵法を齧った武将ならば絶対にしなかったであろう陣取りです。そして、今川義元は僧として一生を終えるつもりで京の妙心寺で修行に励んでいたのです。………黒末川の南から攻めたいのならば、二村山辺りを選定するのが常識ではないのでしょうか。沓掛城から鎌倉海道を使って、善照寺砦を落とすのが兵法の常道ではないのでしょうか?それを何故、態々、黒末川が天然の堀をなしている南方から攻めなくてはならないのでしょう。
  2. 最も間近な桶狭間村の村民たちには、陣夫役として築城に駆り出されたという伝承はなさそうです。何故なら、地元住民には戦闘に巻き込まれて死傷したという悲惨な伝承が皆無だからです。死んだのは今川方の将兵ばかりなのです。………地元の郷土史家は、村民たちはセド山の上から恐々として戦いの帰趨を窺っていたしていますし、長福寺の伝承では義元を接待したとしています。
  3. なぜ近場の大高城に行く途中で昼食をとるためだけのために、陣幕と柵・逆茂木程度で済まさずに、しかも前もって用意せずにその場になって慌てて陣城を構築しようとしたのでしょうか?
  4. 桶狭間に構築した陣城は、鳴海城救援のために役立つものなのでしょうか。それに、陣城が構築途中であるならば、その工事を妨害させないために、その前面に敵を迎え撃って戦いが行われたはずです。………小生は、赤塚合戦は信長が天王山に付城を築こうとして、それを阻止しようとした鳴海城の山口九郎次郎との間に起こったとみています。

それでも、藤原氏の説には魅力的なものがありました。それは、「桶狭間の戦いは今川義元が鳴海城の後詰を行ったことによって起きた」という主張です。この説は、『信長公記』の天理本が紹介されるまでは、大高城に兵粮を搬入したことは公記に書いてあるのですが、大高城が包囲されていた事は証明できませんでしたから、すこぶる魅力的な見方の一つで有り得ました。大高城の南に付城が築かれたことを明確には証明できなかったからです。

その場合には、丸根・鷲津砦の戦術的な意味は、藤原氏が言われるように、鳴海城への兵粮や兵力を搬入することを妨害するものであったことになり、織田方が大高城を攻撃することは二義的になりますから、義元がこのニ砦を攻略することは取りも直さず鳴海城の封鎖を解くことを目的にしたものであったことになるわけです。………尤も、それでもまだ中島砦が東海道を封鎖していますから、東海道からの搬入は見込めませんし、沓掛城から鎌倉海道によって善照寺砦を攻略した方が楽なように思えることには変わりはないのですが。

 ところで、本当に、「城は攻めても落ちないもの」なのでしょうか?

これは、基本的には正しいのですが、半分は間違った説明だと思います。戦国時代後半というのは、歴史的に城砦が「落とすべきもの」に変化した時代であり、戦国末期には「落ちない城は無くなった」のです。そして、桶狭間の戦い頃の城は将に「落とすべきもの」になった時代なのです。

城塞というのは古代に「稲城」といわれたものから戦国時代前期までの「城館」まで、一般には本気で戦争するための城塞というものは唐の侵攻に怯えて大宰府に水城を築いた時期を除いては、日本ではあまり作られませんでした。つまり、防御施設というものは簡単なものでも十分に有効であったという事実があったからです。

「落ちない城」の範疇で最も有名なのは楠木正成の千早城・赤坂城ですし、大きなものでは大宰府の水城、平氏の福原防塞、奥州平泉の藤原泰衝が源頼朝の率いる鎌倉軍を迎撃するために築かれた阿津賀志山防塁、元弘時の防塁がある程度のものでしょう。勿論、帝都は中国の城塞都市を真似て作られていますから、一応城塞であります。

これらのことから気づくことは、日本では古代に国際外交の真っただ中にあったとき以外には、城塞に拠って長期にわたって攻防するということは殆ど考えられていなかったということです。そのため、城塞は簡単な設備であっても十分にその役目を果たしてしたということなのです。しかし、これは逆からみますと、日本国内での紛争は殆どが内乱にまでも至らず、ヤクザ同志のシマ争いの喧嘩程度のものでしかなかったからであることが窺えます。つまり、世界的なレベルで見るならば戦国時代より前の日本の城塞の殆どは世界規格に満たないものばかりだったわけです。なぜなら、戦争当事者自体がヤクザみたいなものですから、敵の城塞を徹底的に攻略しようなどという「意図」も兵力差も持たなかったからです。

応仁の乱においても洛中では、首都の都城の内にあっての市街戦で終始したのです。市街戦が行われるということは、市街が焼き尽くされ破壊し尽くされていないことから起こります。近代以前ならば始めから火攻めをおこなったりはしないというこですし、近世以降になりますと事前の制圧砲撃で徹底的に破壊したりしない攻撃になります。ところが、戦国時代も深化してきますと、領国の統一から始まって、領国を拡大して隣国をも支配しようとするように目的が変わってきますと、まず、兵力差が広がってきたうえに、それに裏付けられて敵の城塞を完全に攻略する意志持ち始めます。

するとそれまでの、政治・行政・経営を目的とした城館では目的を果たせなくなり、武士は城館の背後に詰城として山城を築き始め、次第に戦術的な意義を最優先する山城が主流になります。こうなると城塞は落とし難かろうが、落とさねばならないものになってきました。それまでは、多大の犠牲を払ってまで落とす意義を感じなかったのですが、終に多大の犠牲を払っても「落とす必要がある時代」になっていくのです。

城館時代の城は、長期に渡る攻囲などは始めから想定して作られてはおりません。専ら不意の攻撃に備えたものですし、攻撃側も端から徹底的に攻略しようというような意図は持っておりませんでした。そのような大義も利害もなかったからです。ですから、刈り働きをしたり水利施設を破壊したり復讐であったりといったところで終わっていました。そのため、簡素な城館でも攻め落とすことは困難でした。それでも攻め落とそうとするならば、仕寄せをしたでしょうし、攻囲することも考えられるでしょうがそのようなことに至ることは殆どありませんでした。楠木正成の千早城の攻防をみれば、寄せては仕寄の準備を全く欠いていたことがわかります。これでは城は落ちません。

ところが、領国統一から広域支配の時代になりますと、端から籠城を覚悟した造りに城塞はなってきます。それは、攻撃側が敵を徹底的に攻略しようという意志を持つようになったからです。そのため、力攻めで短期に落とすことが無理ならば、攻囲して経済封鎖をすることによって攻略する必要が生じたわけです。そのために発達したのが付城です。城が物資の集積基地であるから、攻囲するわけではありません。戦国時代になると大大名たちは城攻めには、付城を築いて攻囲戦を行うようになるのですが、それ以外の国人衆以下のレベルでの戦争では、そのような例はそれほど多くないのです。攻囲する側も兵員を張りつけなければなりませんし、その兵粮その他の軍需物資を攻囲軍に補給するのが大変だからです。全てを苅田狼藉で現地調達しようとしても無理があります。

領国統一から広域支配の時代になって、端から籠城を覚悟した城塞を攻囲するようになったのは、我彼に圧倒的な兵力差があるのに敵が降参しないからです。そして、降参しないその理由は初めから敵を拘束する役目を持つ城であるか、敵に服従するのが嫌だからです。つまり、近隣の紛争や中央政治の代理戦争として互いに同等の兵力で戦う時代は終わり、継続的に領土拡大のための争いがはじまったのです。

ですから、信長が活躍し始める時代の城塞は、既に「城は攻めても落ちないもの」などではなくなっていたのです。そして、戦国時代が終わる頃には「城は必ず落ちるもの」になってしまっています。天下分け目の合戦の時代に落ちなかった城は数えるほどしかないはずです。

 

(4)別動隊説を検証する     (初出2 007.12.18)   

桶狭間の戦いにおける一方的な大勝利を迂回を考えずに可能にする方法には、「別動隊」を考えることで解決することがあります。

但し、この別動隊説には根本的な問題がいくつかあります。

  1. 当時の信長には支隊(別動隊)を預けられるような官僚的指揮官はいなかっただろうと思われること。
  2. 信長が別動隊を使って挟撃作戦の類を過去に行ったことがないと思われること。…そのような作戦は不確実なものですが、永禄二年四月に福谷(ウキガイ)砦の酒井忠次を攻めたときに、自らが岩崎丹羽氏を牽制しておいて、柴田・荒川をして攻めさせたというものが『東照軍鑑』にあるのですが、これだけだと考えられるからです。成功はしていません。
  3. 別動隊を指揮できそうな武将は全て、付城の守将を務めていて出払っていると考えられること。
  4. 『信長公記』に名前の出てこない大物武将を別動隊とした場合には、当該諸家にその事績が伝わらないこと。
  5. 分進合撃や別動隊との共同作戦を実現することは、無線通信手段のなかった時代では極めて困難なこと。…あのナポレオンでさえ、ワーテルローではグルーシーの部隊を間に合わせることができなかったのです。ナポレオン自身が後日、別動隊を呼び寄せるために常と違って一人しか伝令を出さなかったことを後悔しているぐらいです。しかし、全くできなかったわけでもありません。戦国時代に別動隊との共同作戦を得意としたのは島津氏であり、後世「釣り野伏」と言われる待ち伏せ作戦が有名である。
  6. 桶狭間の戦いの後の信長の作戦に、別動隊を用いた作戦は長篠合戦しかなく、この戦いでは長篠城の救援が主目的ですから、敵の鷲巣砦攻略には大軍を派遣しています。そして、敵に優越する兵力があれば、別動隊どころか複数の攻め口から攻撃することは自由であるというよりも、混雑を避けるためにも必然になるに過ぎない現象であること。信長が敵より劣る兵力で別動隊などは使用した実績がないこと。 (2008.1.27)
  7. 敵に劣る兵力で二正面に敵を受けて戦った稲生合戦ですら、支隊を設けなかったことからみても、当時の信長には別動隊の指揮を任すことができるような野戦指揮官は未だ育っていなかったと考えるべきであること。 (2008.1.27)
  8. 戦後、別動隊の指揮官が論功行賞に与かっていないこと。

別動隊による可能性を指摘したのは、橋場日月氏の『再考・桶狭間合戦/歴史群像』『新説・桶狭間合戦』である。この指摘の新しい視点は、これまでの迂回説と異なり、信長自身が迂回したのではなく、配下の武将それも新設して間もない馬廻りが迂回挺身を指揮している点である。…それなのに、この後馬廻りが支隊を率いて活躍することはない。多くは攻囲戦での周番を担当している。それは馬廻の本来の任務が近衛兵・親衛隊であったからではないかと考える。

これらの著作では、橋場氏が一般にはこれまで見過ごされてきたか又は触れることを避けられたり、合理的な説明がなされないままできた点に注意を促しているものがある。

  1. 大高城への兵粮搬入日が『信長公記』と『三河物語』で食い違うように見えること。
  2. 前田又左衛門・毛利河内・毛利十郎・木下雅楽助・中川金右衛門・佐久間弥太郎・森小介・安食弥太郎・魚住隼人は何処で誰と戦ってきたのか。
  3. 古くから指摘されている問題だが、『蓬左文庫・桶狭間之図』に鎌倉往還と扇川が交差するすぐ東側に書き込まれた「今川魁首此道筋を押」が、史実であるとすれば一連の戦いのどこに位置づければよいのか。
  4. 『信長公記』に紹介されていない重臣連は本当に参陣していなかったのか。
  5. 山際に着いてからの信長勢が、暴風雨が止むまで信長が移動・戦闘を行った記事がないこと。
  6. 鉄炮は本当に使われなかったのか。
  7. 義元が往路に刈谷水野氏を攻撃せず、岡部信元が帰路に刈屋城に信近を襲った理由。
  8. 服部左京助が黒末川河口に参陣した意味。

逆に、氏が触れなかったり説明していない問題もある。

  1. 鷲津丸根を攻めた駿河勢の動向が不明であること。
  2. 今川義元が沓掛城を出立した時刻。
  3. 服部友定が約束の時間に義元が来ないからと言って、勝手に引揚げてしまったうえ、大高城番になった松平元康には異変を知らせなかったこと。そして、元康が義元の到着がなくても心配していないこと。

ホームページ制作、ホームページ作成歯医者SEOインプラントインプラント