桶狭間合戦前史(十年前を中心に)
桶狭間合戦の十年前というのは、ちょうど織田弾正忠家の西三河侵攻が頓挫し衰退が始まった時期にあたる。
その中での大きな問題は、(1)信秀の「入道」の名乗り、(2)信長への家督相続、(3)信秀の病気そして死である。
歴史読本08年2月号p281の桐野作人氏が紹介するによると、稲本紀昭著『神宮文庫蔵私日記について』に、天文十七年前後までに「弾正忠入道」なる人物が伊勢神宮に寄進しているらしい。………残念ながら、未だに拝見できないでいるが、一応その可能性も考慮に入れて考えることにする。
小生思うに、「入道」の場合は、法皇による院政に典型的に見られるように、「規制の秩序に縛られずに独裁・専制を布く」という意思表示であるとの仮説をたてることにする。…その場合には、信秀が天文17年前後に「入道」を称したというのが本当なら、十八年以降は信長に一般行政を委譲して、信秀自身は軍事一本に専心しようというのではないかと推測できるので、そのような史実があったかを検証することから始める。
- 後三条天皇が院政を企図したならば、それは本質的には天皇家の中での家督相続の問題だが、表面的には摂関政治からの政治権力の奪還であるように映る。戦国大名家の場合の「入道」は、国人衆や勃興しつつあった「譜代衆」からの独立を求めたものであった可能性が考えられる。
- なぜ入道かといえば、在家出家してでも寺院のトップになることは、それまで自身が寄進してきた荘園などの寺院の財政基盤を再度、自身の物として取り返すことにもなるからであり、一面で自身の常備軍としての親衛隊や家政官僚としての近臣を養う財源になったのではないかと考える。
信秀の病気については、その子供が多いこととの整合性も考える。具体的には1552年生まれだという小田井殿(六女・信直室・栄輪院)をもうけたことが問題になるだろう。
次の年表は定説によるものではない。疑義あり諸説ある事件については小生の独断によって並べており、今後の考察によっても随時変更する可能性もある。
- 天文十八年(1549)
- 一月十七日、織田信清(犬山城主)・筑後守寛貞(楽田城主)、春日井原を経由し竜泉寺周辺を放火するも信秀に撃退さる『信長公記』。
- 二月十一日、岡城(岡崎市)の戦いで松平広忠、岡城(故松平信孝)を降参させる。 松平・今川勢は大岡城を落とし、安城の城に迫るが織田勢がよく防ぎ、本多忠高ら討死『三河物語松平記』。
- 二月廿五日、帰蝶入輿す『美濃国諸旧記』。
- 三月六日、岡崎城主松平広忠が西加茂郡広瀬城主佐久間全孝の謀略により岡崎城で家臣岩松八弥に刺殺される。弘忠を殺害した佐久間某を討った天野孫七郎は大浜で藤井隼人の分から五十貫を賜る「家忠日記増補」「創業記考異」「岡崎領主古記」。
- 三月十九日、今川勢、矢作川西岸の山崎城(安城市山崎町、天文十六年に織田信秀に組した三木城主・松平信孝が築城)を攻略し、安祥城(安城町赤塚)で織田三郎五郎信広と戦う。大久保新八郎忠俊・阿部大蔵定吉・本多平八郎忠高・大久保忠勝・忠世奮戦。本多平八郎忠高は前島伝次郎定行に射られ討死。榊原藤兵衛・山下弥蔵綱義・平井与三右衛門勝吉討死。今川軍岡崎へ引き上げる。
- ??三月廿八日、信秀が飯豊に密書を送る。「只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候、我等預り置候、(中略)去年以来拙者存分不相叶事候間、兎ニ角ニ御無事肝要候。」『鵜殿長持より安心への書状写・年不詳』………天文廿年三月三日に織田信秀逝と『万松寺・桃岩寺位牌、張州雑誌』がいうから、信秀よりの書状であることから廿年である可能性は少ない。また、天文十八年とする場合は、信秀が駿河方を挑発する理由は、弘忠が亡くなったことによるが、駿河勢は攻勢に出ているから疑問が残る。ただし、その後の八月三日に義元は十三代将軍足利義藤(義輝)に織田方との和平仲介を求めて時間稼ぎをしているから、可能性がないわけではない。
- 八月三日、義元は十三代将軍足利義藤(義輝)に「田舎?(ソウ)劇に就き、当年御礼遅怠イタスコト迷惑ニ候。御次を以て御執リ成シ本望に存じ候。(中略)三川・尾張の境、鉾楯ヲ緩怠せしめ候に依り、宜しく御執合に預かりタク候」と織田方との仲介を求める。
- 九月十八日、荒川山在陣より、安城・桜井方面に出陣した幡鎌平四郎義苑、途中織田軍と遭遇し戦功。畔畔田伴十郎証人。『岡崎市史』
- 九月廿日、雪斎は吉良で織田と戦い、松平三蔵直勝は尾張の知行地を捨てて今川に帰服することになった。吉良義安攻め、大村弥三郎綱次、端城に於て、随分の者討取る『静岡県史研究8』。今川義元、東条吉良義安を降し、薮田郷(藤枝市下薮田)に蟄居させ、西条吉良義昭に、東条・西条イを支配イさせる。『古城』
- 十月十五日、今川義元、三河幡豆郡荒河山戦いにおいて、遠州佐野郡地頭職幡鎌平四郎義苑に感状。『静岡県史資料編』
- 十月廿三日、「去月廿三日上野端城之釼先、敵堅固ニ相踏候之刻、…」『豊明市史「今川義元感状写」』
- ??十一月五日付け、「備後守病中故」『織田与十郎寛近書状写/村山文書』………信秀が病気であれば安祥城の救援に信長が主体で行い、済し崩し的に信長へ家督相続の流れができたことにはなるが、その後の史料をみると全く政務が執れなかったのではないことになる。現時点では天文十九年と決め難いものがある。
- 十一月六日、雪斎による安詳城攻『三河記』。
- 十一月九日、安詳城を落として雪斎、信長の兄信広(信秀の長男)を虜にする。
- (11/10〜12/5)に刈谷城は一時今川氏に占領される事態となる『刈谷市史第二巻』。…桶狭間合戦で討ち死にした松井宗信の戦歴を賞して子八郎宗恒に所領安堵と新地宛行をした永禄三年十二月二日付の今川氏真の文書の第四条に「一、苅屋入城の砌、尾州衆出張し通路を覆ふと雖も取切のところ、直に馳せ入り、其の以後度々一戦に及び、同心・親類被官随分の者、数多く討死粉骨の事」とある。
- 十一月廿八日、備後守信秀、祖父江五郎右衛門尉へ尾張国内八ヶ所の「代官」を申し付ける『氷室和子氏所蔵文書』。
- 十一月、十六歳の織田(藤原)信長が尾張国熱田神社へ全五ヶ条の制札を下す。『尾張国遺存織田信長史料写真集・口絵』
- 天文十九年(1550)
- ?三月廿八日、信秀が飯豊に密書を送る。「只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候、我等預り置候、(中略)去年以来拙者存分不相叶事候間、兎ニ角ニ御無事肝要候。」『鵜殿長持より安心への書状写・年不詳』………天文廿年三月三日に織田信秀逝と『万松寺・桃岩寺位牌、張州雑誌』がいうから、信秀よりの書状であることから廿年である可能性は少ない。また、天文十八年とする場合は、信秀が駿河方を挑発する理由は、弘忠が亡くなったことによるが、駿河勢は攻勢に出ているから疑問が残る。ただし、その後の八月三日に義元は十三代将軍足利義藤(義輝)に織田方との和平仲介を求めて時間稼ぎをしているから、可能性がないわけではない。
- 四月十日、織田信長、日比野余五郎(大瀬古住人)の跡職座を買い入れた加藤左助へ永代知行を安堵『張州雑誌抄』。
- 八月十六日、『三河海東記』「信長家臣佐久間甚四郎と云者、尾州大高の城に押シ寄セ攻メ取ルに、兵甲斐無き者共にて、逆茂木一重破リ捨テ、城中ニ切リ入リ、究竟の兵共廿五人討取リしかば、士卒は残ラズ駿河にぞ引キ退ける。」
- 八月、『定光寺年代記』「尾州錯乱、八月義元八万騎にて智多郡へ出陣、同雪月(12月)期皈(帰)陣(キジン)」………前後の記事を見れば、『新説・桶狭間合戦』のいうような信長一派によるクーデターなどではなく、駿河勢の圧力の前に国境の領主たちが大幅に今川方に奔ったことを意味するのではないのか。クーデターがあったとすれば、十ニ月六日以降であることも明らかである。
- 十一月一日、織田信秀、祖父江金法師の「公方領中(織田氏直轄領の代官跡職)」を安堵『氷室和子氏所蔵文書』。
- ??十一月五日付け、「備後守病中故」『織田与十郎寛近書状写/村山文書』………天文十八年とも考えられる。信長による信秀押し込めの可能性もなくないが、「織備懇望」という義元の書簡が十二月五日にあることから、考え難い。
- 十二月朔日、福谷の丹波隼人佐に義元は、愛知郡沓懸・高大根・部田・大脇・知多郡横根を安堵しているから信秀の勢力著しく後退。「沓掛・高大根・部田村之事。右、去六月福外在城以来、別令馳走之間、令還付之畢、前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、并近藤右京亮相拘名職、自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件。天文十九十二月朔日。治部大輔(花押)丹羽隼人佐殿」『豊明市史/今川義元判物・手鑑』
- ?十二月五日、「今度、山口左馬助、別して馳走ある可の由、祝着に候。然りと雖も、織備懇望ノ仔細候之間、苅谷ノ赦免ヲ令す。(後略)十二月五日」岡崎市大和町の妙源寺(明眼寺?)所蔵の今川義元書状に次のようにある。………天文廿年との説もあるが、天文廿年には信秀逝と『万松寺』『桃岩寺位牌』『張州雑誌』がいうし、横山麓の戦いがあるから賛成しない。
- 十二月廿三日、織田信長、尾張国密蔵院へ笠寺別当職は織田信秀判形の通りに、知行分の賽銭・開帳については寺内の裁量とするよう命。『密蔵院文書』。………『信長公記』に信秀の疫癘というのは本当らしい。
- 天文廿年(1551)
- ?天文廿年三月三日、織田信秀逝『万松寺』『桃岩寺位牌』『張州雑誌』………妊娠期間を10か月と仮定すると翌年に信長の妹・小田井城主(西枇杷島町)織田信直室の室になる十二娘生まれることは可能である。
- 『横山麓の戦い』で信長(十八歳)、岩崎丹羽氏に敗る。「尾張藤島城将丹羽氏秀、織田信長ノ援ニ依リ、其カ宗家、同国岩崎城将丹羽氏職ヲ攻メテ敗績ス」『丹羽家譜』『三草本』『丹羽軍功録』とある。『史料綜覧巻十/天文二十年是歳条』東大史料編纂所刊行
- 天文廿一年(1552)
- 信長の妹・小田井城主(西枇杷島町)織田信直室の室になる信秀の十二娘生まれる。
- ?三月三日、『信長公記』は万松寺で「銭施行」を執り行うとしている。万松寺過去帳、定光寺年代記はこの儀をもって織田信秀の死亡と見做している。「御舎弟勘十郎公、家臣柴田権六・佐久間大学・佐久間次右衛門・長谷川・山田以下御供なり」とある
- ?四月十七日、信長、山口九郎二郎と赤塚で合戦に及ぶ。引き分けるも三王山は陣城(発掘調査結果)が構築されて丹下砦が構築されるまでの間、山口氏を鳴海に封じ込めるのに成功する。…天文廿二年説がある。
- ?六月廿二日、道三の心配。「御札拝見申し候。御家中の躰、仰せの如く外聞然るべからざる次第に候。此方においても迷惑せしめ候。寄り退き候はざる間、共々捨て置かれず、仰せ談ぜられるべき事、然るべく候。何篇重ねて使者を以てご存分承るべく候。三郎殿様御若年の義に候、不端(断)のご苦労尤もたるべく候。猶、来音を期され候。恐惶謹厳。六月廿二日、織田玄蕃允(秀敏)殿御報、道三(花押)」
- 七月廿一日 織田信長、尾張国三輿山空音坊(津島神社社僧)へ師匠の譲状に任せ今式坊領・先達職を安堵。『津嶋神社旧記』『張州雑誌抄』
- 八月十五日、坂井大膳(清洲城将)、坂井甚介・河尻与一・織田三位と共に尾張国松葉城を攻略、織田伊賀守(松葉城将)・織田右衛門尉(深田城将)を人質として織田信長に「御敵の色を立て」た。『信長公記』
- 八月十六日 織田信長萱津口(海津口)を攻撃し、清洲衆を撃破して清洲城まで進撃し苅田を実行。坂井甚介、は中条小一郎・柴田権六勝家に討たれる。『信長公記』
- 十月十二日、織田信長、大森平右衛門尉(知多郡代?)へ知多郡と篠島の商人が守山を往来することについて自由を安堵。『古今消息集・四』
- 十月廿一日付け、信長の織田玄蕃允(ジョウ)秀敏宛て判物に尾張国中村三郷を「桃岩(信秀法名)判形の旨に任せて」とある。『尊経閣文庫所蔵文書・雑纂保包四百三十四』
- 十二月廿日、織田信長、加藤全朔・加藤資景(織田氏御用商人)父子へ商売に関する優遇を安堵。「加藤秀一氏所蔵文書」
- 天文廿二年
- 天文廿二年閏一月十三日、織田信長傅役平手政秀諌死。
- 一月十六日、信長の近習・菅屋長頼、加藤順光へ千秋四郎(熱田神社大宮司)の売却地に関する指示を通達。『熱田加藤家史』




