<冨田聖徳寺> (2009.10.05初出、2009.11.12 追加、2009.12.09訂正、2010.02.26修正)
『信長公記』は、「(天文十六年)霜月十七日、織田備後守殿後巻として、又、憑み勢をさせられ、木曽川・飛騨川の大河、舟渡しをこさせられ、美濃国へ御乱入、竹が鼻(羽島市竹ヶ鼻)放火候て、あかなべ(茜部)口へ御働き候て、所々に烟を揚げられ候間、道三仰天致し、虎口を甘(クツロ)げ井口居城へ引き入るなり。」と書く。
そしてまた、「四月下旬の事に候。斎藤山城道三、富田の寺内正(聖)徳寺まで罷り出づべく候間、織田上総介殿も是れまで御出で候はば、執着たるべく候。対面ありたきの趣、申し越し候。・・・上総介公、(この申し入れを)御容赦(躊躇)なく御請けなされ、木曽川・飛騨川大河の舟渡し打ち越え、御出で候。」とも書く。
信秀の場合は、木曾川右岸にある羽島市竹ヶ鼻に放火して茜部を攻撃しているのだが、信長は富田の寺内聖徳寺へ道三との会見に出向いたというのである。
ここで問題にするのは、信秀も信長も二人して「木曽川・飛騨川の大河、舟渡しをこさせられ」ていることである。
なぜなら、『新編一宮市史』が尾西市冨田字大堀を主張し『尾西市史』がそれを継承するのに対し、重松明久氏が苅安賀地内の冨田(一宮市萩原町富田方)に比定すると、角川文庫版『信長公記』(奥野・岩沢校註)もそれを踏襲している。これはどちらも現・木曾川の左岸になるのだが、これでは牛一が「木曽川・飛騨川大河の舟渡し打ち越え」と言うことに矛盾しはしないだろうか。
「富田」が苅安賀の冨田であろうが、尾西市冨田町字大堀であろうが、木曽川左岸であることは変わりがない。これでは、信長は木曽川を越していないのである。だから、当時の木曽川が(1)現在より東側に偏して流れていたか、または(2)冨田聖徳寺が木曽川右岸になければ理屈に合わない事になる。
それ以外に考えられることには、(3)「舟渡し打ち越え」を船での航行であると解釈することがある。これは、桐野氏などが云われる。信長が当時清州の守護代と敵対関係にあったから、清州城下の東(鎌倉)海道を通れなかったと考えることによるものであるのだが、これには二つの無理がある。(イ)一つは、如何に木曾八流といわれるほど河川網が入り乱れていようと、東端の那古野のから西端を流れる木曽川まで、尾張国を横断できる河川網はなかったと思われるからである。
(2009.11.12 挿入) これは、建設省中部地方建設局の『木曽川三川・その流域と河川技術』が、「p157.完新生以降には、犬山扇状地における木曾川およびその分流は、それ自身が造った浅谷部を流下するようになったことは、同扇状地に残る一之枝川(石枕河)・二之枝川(般若河)・三之枝川(浅井川)等の跡が、深さ4mに及ぶ開析谷をなしている事からも窺える。同様な事は今の木曾川本流にも見られ、その河床は扇状地面より4〜5mも低いのである。これ等の扇状地の状態から見て、少なくとも完新生には、犬山扇状地における木曾川およびその分流の河道は思いのほか固定しており、めまぐるしい変遷はなかったものと推測される」「p158.扇状地部分における河道位置が比較的安定していた事は、それらの続きとしての三角州平野部における河道位置も、少なくとも歴史時代に限ってみれば著しい変動はなく、大局的には今日のそれとは大差ない状態であったと言える。そのことは金田彰浩が(1975)指摘するように、尾張平野の条里背地割遺構の阡陌線が、現在の日光川・三宅川・五条川の河道を境にして、左右両側地域の間で若干のずれがあることからもわかる。・・・八世紀ごろまで遡る可能性のある条里制施行期の河道位置と現在のそれとが大きく違わないことを物語っている」としていることから言えることである。(ただし、建設省のその他の出版物には天正十四年の大洪水以前には、現木曽川(笠松以南)は存在していなかったとする図版が多い。)
まして、清州城下の五条川・青木川を経由せずに航行できる水路網はない。信長が許可なく兵を満載させた多数の舟を五条川から青木川を航行させたならば、守護代は黙ってはいないだろう。
(ロ)二つ目は、清州守護・守護代らと敵対関係にあったならば、守護役として五条川辺りから公式に舟を徴発することは難しいのではないかと考えられることである。そこで考えられるのは、熱田から伊勢湾を横切って日光川河口から遡上するのが苅安賀の冨田聖徳寺へ航行する方法であり、長良川を河口から木曾川へ遡上する方法が木曾川右岸の尾西市冨田への航行の仕方である。
だが、これにも問題がないわけではない。このような行程を果たして牛一は「大河の舟渡し打ち越え」と書くだろうかということである。まず「舟渡し」という詞が、船で河川を上下に行き来することを意味するだろうかという問題があるわけだが、【舟渡し】はそもそも舟で対岸へ渡すことであるし、【渡し】自体がもともと船で人を対岸に運ぶことである。【越す】という詞も、山や川等の障害物や境界線の上を通り過ぎてその向こう側へ行くことであり、突破することに主眼があるのだから、河川を航行するという意味にとるのはどうも無理があるように思える。 (2009.10.06 挿入)それに、弘治二年に信長が道三を救援に出陣したときには、「木曽川・飛騨川舟にて渡り、大河打ち越え」ていると書き、明確に「木曽川・飛騨川を舟で渡った」と書いているからである。
次に、『信長公記』の問題点をさらに細かく見てみる。
- 信長が「木曽川・飛騨川大河の舟渡し打ち越え」た先に冨田聖徳寺があること。
- 「やがて参会すべしと申し、罷り立ち候なり、廿町許り御見送り候。」とあって、信長は道三の帰路=陸路を約2kmほど同道していること。
- 道三は信長と別れた後、「途中、あかなべと申す所にて、猪子兵助(高就)、山城道三に申す様に」とあり、茜部を通っていること。そして、その間の道三は舟で川を渡っていないこと。
- 信長は道三の会見申入れを「御容赦なく」請けたとあるのだから、通常ならば躊躇しても当然だと考えられる状況があったと思われること。
(1)の冨田聖徳寺は「木曽川・飛騨川大河の舟渡し打ち越え」た先にあり、木曽川は当時は境川と言われ、父・備後守信秀は天文十六年に木曽川・飛騨川の大河を舟渡しに越して、美濃国へ御乱入し竹鼻(羽島市竹ヶ鼻)茜部口へ攻め入っていることからすると、冨田聖徳寺は木曽川右岸になければならないことになる。それを裏付けるのが、(2)(3)(4)であり、(2)の信長は道三の帰路を陸路で約2kmほど同道しており、(3)での道三は信長と別れた後に「あかなべ」で猪子兵助(高就)と語りあったことが書かれている。そして、その間の道三は川を舟で渡った形跡がない。さらに、森可成には金山城に移るまで居城としていた蓮台城(田代)のそばにある八幡神社(現在:白髭神社と合祀)には、富田聖徳寺で対面した後、ここまで信長が見送りしたという伝がある。(4)によって、道三が聖徳寺が不入の寺内であっても「境川を超えた右岸の美濃国」での会見を申入れたのであるとすると、信長が「御容赦(躊躇)なく」請けた事は牛一がその豪胆を特筆するに値したのであろうと考えると、全て辻褄が合うように思える。
だとすると、信長と道三が会見した聖徳寺は木曽川の右岸にあったのであり、それはおそらく大浦郷にあったものと思われる。
冨田聖徳寺が木曽川右岸に在ったことを間接的に示す史料がないわけではない。そもそも聖徳寺は、その寺伝によれば、寛喜年中(1229〜32)に親鸞か尾張国葉栗郡大浦(岐阜県羽島市正木町)に創建し、直弟子を住僧としたことに始めたものと云い、天文九年五月七日付の『実如画像』と九月十六日付の『親鸞画像』のそれぞれ裏書には尾州葉栗郡大浦郷聖徳寺とするからである。
問題は、十世顕清(1520年没)のころに木曽川洪水にあって寺堂が流出したために、中島郡苅安賀に移ったが、また大浦に帰り、さらに永正十四年(1517)に中島郡富田に移転したといい、その後『証如上人日記』によると天文六年三月二日・天文九年五月七日・天文十二年三月五日は苅安賀聖徳寺と記されていて、その後天正十七年に三屋村に移転するまでは場所を特定できる史料が現れないことから話がややこしくなる。それでも全く現れないというわけではない。小牧長久手の戦いにおいて、秀吉が大浦城なるものに本陣を置いているからである。そして、これは木曽川右岸にあるのだ。
(2)小牧長久手の戦いと聖徳寺
そこで、、『新編一宮市史』の玉村竹二氏は、「寺伝によると小牧長久手の戦いの際、羽柴秀吉は聖徳寺に陣を置き竹鼻城主・某および苅安賀の浅井氏を攻めたが、その時竹鼻勢によって聖徳寺は焼き払われ、そのうえ天正十四年(1586)には大洪水を受けたので、三屋に移ったという。・・・当時の史料によると、加賀野井城攻めのため秀吉は五月三日に自ら本隊を率い大浦を発し、冨田の寺内に移っている。・・・その地理的・軍事的状況から見て秀吉のいた冨田寺内を加賀野井城から6kmも離れた苅安賀とすることは不可能である。苅安賀の冨田は織田長益・滝川雄利が守る吉藤や本田忠勝がいる萩原の敵陣より奥深く、しかも数百m先には織田方の苅安賀城もある。・・・苅安賀の聖徳寺は天文以降、天正十二年以前のある段階に尾西市冨田の地に移ったと考えざるを得ない。」と述べている。
この推論は概ね肯定できるのだが、常識的に考えて戦術的に納得できないところが一点ある。
どこが非常識な戦術かというと、秀吉軍の行動の軌跡を辿ってみると、木曽川という大河を何度も渡っていることにある。玉村竹二氏は、「大浦を発し、冨田の寺内に移っている」とされ、大浦と富田は別の場所であり、木曽川右岸の大浦には聖徳寺はなく、木曽川左岸の富田に聖徳寺はあったと理解されている点である。玉村氏は「地理的・軍事的状況から見て」と再三言われるが、これこそ地理的・軍事的状況から見て納得できないことである。
『新編一宮市史』などによると、犬山から移ってきた秀吉は木曾川右岸の大浦城に本陣を構え、その南のこれも木曾川右岸の三柳に先陣を配し、五月三日に自ら本隊を率いて大浦を発し、木曾川左岸の尾西市冨田字大堀の寺内に移ったと解釈している。そして、木曽川右岸の加賀野井城と木曾川左岸の奥城を囲み、まず七日に加賀野井城を攻め崩し、次いで奥城を九日に開城させたとする。これには加賀野井城が木曾川の右岸にあること以外には問題がない。その後、秀吉は木曽川右岸の三柳へ移り、さらに間島村に本陣を置いて不破源六の籠る竹鼻城を水攻めにして、一ヶ月の六月十日にこれを開城させたとしている。
結果からみて秀吉の軍事目的は初めから、木曽川右岸の東軍(信雄・家康)方を一掃することであったものと思われる。それが証拠に、この戦いで占領した地域は、味方した者に知行しており、講和後も不破らの東軍についた者に返還したりしてはいないからである。だとすると、秀吉は木曽川右岸というよりも、木曽川から西を固めることが目的であったことは疑いのないところである。それならば、木曽川左岸へは支隊を派遣することはあっても、秀吉自身が進出するなどという危険を冒すことはないだろう。なにしろ八万ほどの大軍を率いていたらしいのだから。
実際の戦況をみてみる。
- 『一柳家文書』は、天正十二年四月、秀吉は家臣の伊藤牛助と人柳直末の二人に木曾川右岸の「大浦城」在番を命じたという。『譜牒余録』後篇巻26によると、翌月家康家臣・本田忠勝が丹波の蘆田氏に送った戦況報告には、秀吉軍は「おうら、三柳」に布陣したと見える。
- そして『家忠日記』 は、五月四日に羽柴軍が加賀野井城を包囲したことを記す。「おうら」も「三柳」も共に木曾川右岸である。そして、その南にある「加賀野井城」を囲んだのである。
- 『不破文書』 は、織田信雄が竹鼻城の不破源六に、秀吉が五月五日に冨田寺に本陣を構えて加賀野井城を包囲しようとしている事を伝え、同七日には源六が加賀野井への後詰要請を徳川家康にしたという事を書き送ったとしている。
- 『池田文書』は、秀吉側は五日には木曾川右岸の竹ヶ鼻および、これは木曾川左岸の祖父江(稲沢市)近辺に放火し、加賀野井城の外構を破って堀を残すのみになり、これを木下重堅に報じている。
- 『毛利輝元宛秀吉書状』によると、木曾川右岸の加賀野井城は七日に落城して将兵は断首され、続いて木曾川左岸の奥城も落ちたといい、十日には竹ヶ鼻城も攻略予定になっていたとする。
確かに秀吉軍は木曽川左岸にも軍勢を派遣して大浦城の対岸にある奥城を攻撃し、加賀野井城の対岸にあたる祖父江に放火もしているが、秀吉が本陣を左岸の尾西市冨田へ進出させたという証拠はない。目的は竹ヶ鼻城を水攻めにしたのだから、主戦場は右岸であったはずだからである。そして、秀吉はさらに西の竹ヶ鼻城を囲み、竹ヶ鼻城の北1kmにある間島村の砂山に付城を築いて本陣とし、水攻めを始めたといわれる。ここに、後になって竹ヶ鼻城兵が聖徳寺を焼き討ち出来る隙が生まれる。囲われた堤防が決壊しさえすれば、聖徳寺が大浦に在りさえすれば、船などを用意することなく襲撃することができるからである。大浦城と呼ばれた位であるから、聖徳寺はその寺内町が城塞に転用されていたものと考えるべきであろう。
さて、以上の経過を『新編一宮市史』によって秀吉の軌跡を辿ってみると、秀吉は犬山から木曾川右岸の大浦→木曾川左岸の冨田(尾西市)→木曾川右岸の三柳→木曾川右岸の間島村と本陣を移したことになる。ここで、『新編一宮市史』は秀吉が本陣を置いた冨田が苅安賀冨田や一宮市萩原町富田方とするのでは、周囲が敵が布陣しており考えられないとして之を否定し、それより少し距離を置いた木曾川左岸の尾西市冨田字大堀に聖徳寺があったと主張している。しかし、秀吉の目的が水攻めをした竹鼻城の攻略にあり木曾川右岸からの敵勢一掃にあったことは明白であるから、秀吉が木曾川左岸に本陣を置くなどは考えられないことであるし、ましてや木曾川を右往左往して本陣を移したものとも思えない。
さて、秀吉は木曾川を渡っていないことになるとすると、天正十二年三月十七日に織田信雄が寺中・町中に年貢所免除等の禁制を出し、秀吉も三月中に軍勢の乱暴狼藉・放火等を禁止した禁制を出しているちょうど両勢力の真ん中に位置した「冨田聖徳寺」は、木曾川右岸に在ったことになり、その最も有力な候補地は「尾州葉栗郡大浦郷」だということになる。これには、天文九年五月七日付の『実如画像』と九月十六日付の『親鸞画像』の裏書を根拠として、未だ移転していないものとすることができる。
また、秀吉は五月二日と六月にも禁制を聖徳寺に発給しているうえ、『尾西市史』は、「『聖徳寺系譜』によれば、秀吉がつづいて竹鼻城を攻撃していた時、突然背後から襲ってきた苅安賀城主・浅井氏一族とやりあっているうちに、竹鼻城兵により聖徳寺は焼き払われたという。」と書いている。このように敵兵に襲われた際に手薄になるような聖徳寺の場所としては、当然に苅安賀や一宮市萩原町富田方は該当せず、尾西市富田字大堀か大浦郷の二ヶ所が候補地として挙げられることになる。それでも尾西市富田字大堀では、竹鼻城の籠城兵が木曾川を舟で越さねばならないから、ほとんど実現不可能である。したがって、このような事件が起こりうるのは木曾川右岸の大浦でしかない。それに、当時の秀吉軍は竹鼻城を攻囲して水攻めにしている最中であるのだから、態々味方の救援のし難い木曾川右岸に兵を配置して聖徳寺を確保していたとは考え難いものがある。
(2009.12.08 挿入) ところで、秀吉が木曾川左岸に渡って本陣を置く必然性が生じるには、加賀野井城が木曾川左岸にあった場合がある。そして、現実にも加賀野井城の井戸は木曾川河中にあると言われている。そして、これを採り上げたのが旧陸軍参謀本部の日本戦史『小牧・九州・小田原の役』である。そこでは、「加賀野井城は木曾川の左岸にあって、清州城西北方面の鎮台だった。・・・五月三日に大浦を出発し、木曾川を越えて冨田に移り、聖徳寺に布陣した。」「(竹鼻城と加賀野井城の)両城は木曾川を隔てて向かい合っていた。・・・五月六日、神保平内を先導として三柳に移り、木曾川を渡って小熊に出、さらに間島に至って布陣し、竹ヶ鼻城を包囲したのである」と書く。この場合、大浦城と冨田聖徳寺は別物であることになる。竹ヶ鼻城兵に焼かれた聖徳寺が冨田にあることだけが矛盾する。籠城していて木曾川右岸に舟を確保できるわけのない竹ヶ鼻城兵が木曾川を渡って冨田の聖徳寺を焼き払うことなどできるわけがないだけでなく、兵粮や物資を略奪するのが目的でない限りは、焼き討ちする意味もないからである。・・・(2009.12.10 挿入) おそらく、旧陸軍参謀本部の主張は根拠がないだろう。なぜなら、加賀野井城が当時木曾川左岸になかったことは、関ヶ原の戦いの状況を見ることで証明できるものと考えるからである。慶長五年(1600)八月廿一日、東軍の福島勢らは尾張起渡し経由で、池田勢らは河田渡し経由でそれぞれ岐阜城へ、中村勢は押さえとして犬山城方面へと行動することに決し、福島正則が向かった渡河予定の起渡し(現尾西市起・濃尾大橋付近)は、『慶長五年岐阜軍記』に「此所砂地にて、馬の足立悪しく進みがたく」とあって渡河し難かった。また、対岸に布陣した西軍の竹ヶ鼻城城主・杉浦五左衛門重勝らの防御が予想以上に堅固だったので、正則らは下流の加賀野井城(羽島市加賀野井・名神下り線羽島PA付近)対岸まで移動して、攻撃開始の狼煙合図を待った。二十二日払暁、正則らは寄せ集めておいたた筏で木曽川を渡り竹鼻城へと向かったとされている。このときの加賀野井城はというと。城主・加賀野井秀望が、慶長五年の関ヶ原の合戦の直前七月十九日に、三河池鯉鮒で水野忠重と口論してこれを斬殺、秀望も水野の家臣に斬られて絶命し、除封されて加賀野井氏は断絶し城も廃城となっていた。現在、城跡に比定される場所は羽島市下中町西加賀野井857-1の水田の一角に塚が存在するだけであり、城の井戸が木曽川の中ほどにあるという伝承がある。まず考えられるのは天正十四年(1586)の洪水で城地の多くを失ったともいわれており、本丸が現木曾川河中に沈んでいると想像した場合であるが、この場合は当時の木曾川は現在よりも西側を流れていたことになる。地元の伝承では城の井戸が木曽川の中ほどにあると言い、村は現在東西に分割されており、東加賀野井は愛知県にあるのだから、検討の必要はあるが、現在木曽川左岸に残る東加賀野井には自然堆積台地がなく、城跡が発見されていない事からして、ほとんど見込みはない。
小牧長久手戦の時の加賀野井城主は、加賀井重宗・重望の親子であるが、重望は秀吉から登用の誘いを受けてこれに仕え、『諸大名・旗本分限帳』によると慶長四年(1599)には加賀野井に八千石の知行があったらしい。その加賀野井秀望は、慶長五年の関ヶ原の合戦の直前七月十九日に三河池鯉鮒で水野忠重と口論を起こして之を斬殺、秀望も水野の家臣に斬られ絶命して除封され、加賀野井氏は断絶し城も廃城となった。このようであるから、天正十四年(1586)の洪水で失われたのは田畑であって城そのものではなかったとも考えることもでき、その場合には現・城址が所在地になろう。
そうしたうちに事態は推移して東軍は清州から岐阜城を攻めんとしており、福島正則が軍議で決定した通り渡河予定の起渡し(尾西市起・濃尾大橋付近)へ向かうことになった。『慶長五年岐阜軍記』によると「此所砂地にて、馬の足立悪しく進みがたく」と云い、あたり一帯は深い砂地のうえ水深もあり渡河し難かったらしいのだが、さらに西軍方の防御が予想以上に堅固だったためもあって、正則らは下流の加賀野井城(羽島市加賀野井・名神下り線羽島PA付近)対岸付近まで移動して、合図の狼煙を待ったという。正則は加賀野井城跡が左岸にあれば、そこは自然堤防よりも高く、指揮するに都合がよいため、そこに本陣を置いているはずなのだが、そのような事はしていないようである。開戦予定日二十二日払暁、上流の銃撃音が聞こえると、寄せ集めた筏で木曽川を渡り竹鼻城へと向かったとされている。当時の竹ヶ鼻城城主は杉浦五左衛門重勝だったが、木曾川右岸に布陣中であり、正則が背後に回ったことを知って、慌てて大浦辺りの陣を引き払い竹鼻城へ戻り城の防御に努めたが敗れている。西軍の杉浦は兵力が不足したのか、ここに兵を配置してはいなかった。こうしてみると、小牧長久手戦において加賀野井城が清州の西の要であったとするのは間違いであることがわかる。
そして、慶長十三年(1608)の御囲堤築造に伴う治水工事で城郭・城地の大半を失ったと推定するならば、この時に木曾川が西側に押しやられて、東加賀野井ができたのであろうから、現東加賀野井の城の遺構がないことを考えると加賀野井城が木曾川左岸にあったとする旧陸軍参謀本部の日本戦史の説は同意できないということになる。
(2009.12.08 挿入) ただ、これには問題がある。天文九年五月七日の『証如上人日記』には聖徳寺が苅安賀にあったことを示しており、それ以前の天文六年三月二日の『証如上人日記』や永正十七年三月廿五日の『方便法身尊像裏書写/極楽寺文書』も聖徳寺が苅安賀にあったことを示している。そして、文献上確認のできる最も古い文明七年九月廿七日の『方便法身尊像裏書写/聖徳寺文書』以降ずっと聖徳寺は苅安賀にあったというのだ。その間、永正二年十月一日と天文九年九月十六日の『聖徳寺画像裏書写』のみが尾州葉栗郡大浦郷と記しているだけなのである。そこで、これらのことを合理的に解釈しようとするならば、重松明久氏が『冨田聖徳寺の所在地について/日本歴史140号.1960年』で、「正徳寺は苅安賀から移転していない」とする考え方を受け入れざるを得ないのだが、同時に創建時の大浦郷の寺祉にも支寺を構えていたと考えざるを得ないように思われる。このような考えを裏付ける記事が『信長公記』にはある。弘治二年(1556)に斎藤道三が義龍と対陣するに至ったときにこれに合力するため大良(大浦)に出陣した際の記事である。「木曽川・飛騨川舟渡り、大河打越、大良の戸島東蔵坊構に至て御在陣。銭亀(甕)爰もかしこも銭を布きたる如くなり」とある。確かに、大良(大浦)には寺があったのである。そしてそれは「戸島東蔵坊」といった。・・・このことからすると、大浦の聖徳寺は弘治二年以前に苅安賀に本寺を移転した可能性があるが、同時に末寺として大浦にも会下寺を残していたことが考えられる。それは、寺内町の遺構に「銭亀(甕)」が至るところから掘り出されているからである。これは、一旦水没したものが水が引いたことを意味するとも考えられるから、その場合の「戸島東蔵坊」には現実には建物はなかったのかもしれない。そして、この後の天正十二年までに再び大浦に寺を営んだのかもしれない。
『不破文書』 が、秀吉が冨田寺に本陣を構えて加賀野井城を包囲しようとしたと伝えていることは、確実に寺があったらしく思われる。おそらく「本寺」は水害に襲われにくい苅安賀の方なのかも知れないが、故事来歴からすると大浦郷の方も有難味が多く、檀家も多くて廃寺にできなかったのかも知れない。開基の小笠原左衛門尉長顕は、信濃国出身の武士であったが親鸞聖人の直弟子となって法名閑善と七つの寺宝を親鸞から授けられたいうのであるから、浄土真宗においては本願寺の直参と格付けられており山号の七寶山は大浦の地を捨て難くさせていたかも知れない。
『信長公記』に「在家七百間(軒)もこれある富貴のところなり」とあるのは苅安賀聖徳寺であるよりは大浦聖徳寺であった可能性の方が大きく思われる。天正十二年の聖徳寺の冨田寺内では、毎月一日・六日・十一日・十六日・廿一日・廿六日に定期市(六斎市)が開かれていたという『聖徳寺文書』の記述は、苅安賀の方であろうが、大浦にも寺内を持っていた可能性を残す。大浦は郷名の如く木曾川による水運の便がよいからである。一方の苅安賀の方は、領内川と日光川の合した上流に位置し、水運は別系統であるから市場も別であったろう。
そして、天正十四年(1588)六月廿四日の木曽川大洪水により水没した冨田村は木曾川右岸の三屋村(笠松町)へ移転して秀吉より二百石を与えられたと『聖徳寺文書』が言い、岐南町史』は木曽川洪水で冨田聖徳寺内町が円城寺の専福寺に富田の商人を移住させたのが円城寺市場であるといい、『起町史』が冨田市場は竹鼻に継承されたと言うのも、大浦郷の聖徳寺であるように思える。なぜなら、文禄二年二月八日付けの『聖徳寺顕如画像裏書』にも「中島郡留田郷聖徳寺」という裏書きが見えるからである。
やはり、中世の聖徳寺は木曾川を挟んで両岸に寺院と寺内町を構えていたように思えるのだ。もしかすると、木曾川の両岸に寺院を構え両岸に渡る寺内町を持っていたとしたならば、木曾川の渡を管理していたのは聖徳寺であったことも考えられる。
勿論、信長が斎藤道三と会見したのは大浦郷の聖徳寺であろう。
ただ、小牧長久手戦に際して、ここを「大浦城」と呼んだり、秀吉の本陣になっているのをみると、天正当時の大浦聖徳寺は会下寺か道場のようなものでしかなかったのかも知れない。
(2009.10.06 追加) なぜなら、『信長公記』には、三年後の信長が山城道三を救援しようとして出陣した際に、大良(大浦)に本陣を置いて斎藤義龍と戦った記事があり、そこが舟渡の渡河地点であることが分かるだけではなく、聖徳寺が存在したと見做せるような記事があるからである。即ち、弘治二年四月の「土岐頼芸公の事」という記事に、「信長も道三婿にて候間、手合(援軍)のため、木曽川・飛騨川舟にて渡り、大河打ち越え、大良の戸島、東蔵坊構へ至りて御在陣。銭亀(甕が)爰もかしこも銭を布きたる如くなり。」と書くからである。つまり、木曾川左岸の大浦郷には、弘治二年四月には戸島というところに東蔵坊構へというから、遺構なのだろうが、そこは陣地構築に適当な付近より高地をなしているため、陣地構築のために掘ったならば、銭甕がそこらじゅうから出てきたというのである。これは、「かって」聖徳寺内町であった可能性を示唆してはいないだろうか。だから、「東蔵坊構」は実際に寺堂が建っていいてもいなくても構わないのだが、弘治二年(1556)四月以前、聖徳寺会見の天文二十一年(1553)四月下旬以降の三年の間に洪水に襲われて埋まってしまったか、信長の聖徳寺の会見時には、既に大伽藍は存在していなかったのどちらかが考えられると思うのだ。ただ、天文二十一年(1553)四月下旬以降の三年間の間には、飢饉はあっても洪水に襲われたという記録はない。
- 天文廿一年五月二日、『天文日記』「頭人尾州国中講衆、使者を以て申す事には、去年迄は小志これを上すといへども、今歳儀は、弥各正体無く罷成るの間、其儀無く申し上げ候」
- 天文廿一年十月二日、『天文日記』美濃尾張河野門徒が来訪して「飢饉乱世に依り、唯今四百疋これを上す」
- 天文廿二年、『定光寺年代記、龍渓院年代記』「異常気象九〜十月まで夏日のごとし」
・・・残念ながら、戸島も東蔵坊もよくわからない。
だが、『信長公記』は聖徳寺会見については、「冨田の寺内正(聖)徳寺」と書く。冨田の聖徳寺の「寺内」ではないのである。「冨田の寺内」の正徳寺と書くのである。これは、熱田「宮中」の源太夫殿之宮と書くようなものではないか。これは、もしかすると「正徳寺」は当て字などではなく、本当に冨田聖徳寺の寺内すなわち不入の地である「飛び地の大浦郷の正徳寺」なのではなかろうか。いずれにしろ、『信長公記』の書き方から見ると、会見場所になった正徳寺は飛騨川・木曾川を舟で渡った大浦になければならないことは確かであろう。
この他にも『信長公記』には、「木曽川・飛騨川の大河船渡し」という記事が三つほどある。
永禄四年の森部合戦と翌五年の十四条合戦であるが、これを最後に信長が「木曾川・飛騨川」を超えることはなくなる。信長は、尾張北部を制圧する戦略に変更し、その後は東濃を攻略している。これは、未だ尾張国の北部を制圧する前に、西美濃攻めをしていたことが度重なる失敗の主要な原因であるというのが衆目の見るところである。現に、一族の岩倉城および犬山城が美濃・斎藤氏と内通して清洲城を襲う事態が発生しているからである。
永禄四年(1561)五月のもりべ合戦は、「五月十三日、木曽川・飛騨川の大河船渡し、三つ越させられ西美濃へ御働き、其の日はかち村に御陣取り、翌日十四日、雨降り候と雖も、御敵、州の股より長井甲斐守・日比野下野守大将として、森辺口へ人数を出し候」 とあって、舟で木曾川をこしているからこれは起で渡っているのだろう。余談だが、墨俣には砦があり斎藤方が駐屯していた可能性がある。
永禄五(1562)年五月の十四条合戦でも、「永禄四年辛酉五月上旬、木曽川・飛騨川大河打ち越え、西美濃へ御乱入、在所々々放火にて、其の後、州股御要害丈夫に仰せ付けられ、御居陣候のところ、五月廿三日、井口より惣人数を出だし、十四条と云ふ村に御敵人数を備へ候」・・・これをみると、斎藤方が墨俣の砦を恒常的に維持していたわけではなさそうである。
永禄八年にも信長は木曾川を越えている。「飛騨川を越え、美濃国へ乱入。御敵城宇留摩の城主大沢次郎左衛門、並びに、猿ばみの城主多治見とて、両城は飛騨川へ付きて、犬山の川向ひ押し並べて持ち続けこれあり」と『信長公記』は書く。宇留間(鵜沼)城も猿喰城も木曾川の右岸にあるが、ここでの牛一はそれを飛騨川と呼び、木曽川・飛騨川とは書かない。・・・此の時の信長が越したのは木曾川とだけしか牛一は書かない。「木曽川・飛騨川」とは区別しているようだ。だから、信長は木曾川を舟で渡ったのではないのだろう。
だが、信長は加賀見野(各務原)に出ているのであるから、飛騨川と合流してからの木曾川を渡ったはずである。それを窺わせるのは、慶長五年、関ヶ原合戦の前哨戦が木曽川を挟んで開始された時の東軍の先鋒・池田輝政・浅野幸長・山内一豊・一柳直盛など一万八千余は、木曽川を河田を渡り、新加納を経て岐阜城に向う策戦をたてたことにある。それからすると、信長もこの辺りを渡河したに違いない。
さて、木曾川を超える記事はこれが最後になるのだが、永禄九年「一、四月上旬、木曽川の大河を打ち越え、美濃国加賀見野に御人数立てられ、御敵、井口より、龍興人数罷り出て、新加納の村を拘え、人数を備え候。その間、節所にて馬の懸引きならざる間、其の日、御帰陣候ひしなり」とある。
以上の事々からも分かるように、木曾川・飛騨川は船渡でなければならないが、飛騨川と書かれた木曾川の墨俣から上流では、下流よりも多くの個所で渡河できたかのようである。
因みに、『承久の記』によって十三世紀ころの渡しの状況をみると、尾張川(木曾川が飛騨川と合したより下流)には九つの「渡」があったという。(1)大炊度渡は土田、(2)鵜沼渡は内田、(3)板橋渡は小伊木か大伊木または栗栖、(4)池瀬渡は気瀬か大伊木または小伊木、(5)魔免渡の渡は大豆途か前渡の渡、(6)稗島の渡は萩島か平島の渡、(7)食の渡は印食の渡、(8)墨俣の渡は洲俣の渡、(9)市脇の渡は市川前渡に比定されている。つまり、墨俣より上流の木曾川には八ヶ所も渡場があったのである。
このように見てくると、織田方にとっての墨股城というのは西美濃(長良川〜揖斐川の間の輪中地域)現瑞穂市辺りの穀倉地帯(十九条〜高屋条理)を攻略するための「長良川」の渡河点を確保するのが目的の城砦であって、岐阜(井ノ口)城を攻めるための橋頭堡としては無意味な城なのである。なぜなら井ノ口城は長良川の左岸(東岸)にあるからだ。だから、井ノ口城を攻略するのが目的であるならば、東濃を制圧し終えた永禄九年の時点で態々墨股に城を築く必要などないのである。この部分でも偽書・『武功夜話』は間違っている。ともかく、偽文書・『武功夜話』は軍事には疎いようだ。・・・(2010.02.26 追加) と思っていたのだが、どうも違うようだ。松浦武氏の翻刻版『武功夜話1・2』を読んでみると、永禄三年〜五年にかけて争った墨俣と、永禄九年の一夜城の州俣は場所が違うようなのである。墨俣は現在・記念館が建築されている場所でよさそうなのだが、州俣は小熊村であって長良川左岸になる。こうなると、秀吉が築いたとされる州俣は、その置かれていた状況も戦略目的も、墨俣とは違ってくる。即ち、州俣は長良川を渡って上洛するための拠点である。しかし、断じて井ノ口城を攻略するための拠点などではない。
- 信長の上洛は永禄十一年(1568)だが、その二年前の永禄九年に足利義秋の斡旋で、信長と斎藤龍興との間で和平が結ばれていた。
- 『閏八月十八日付甲斐国何某宛の氏家直元等連署状写』「一、濃尾間之事、先書ニ如申入候、公方様(足利義秋)御入洛ニ付而、織田上総(信長)参陣御請申之条、対尾州此方矢留之儀、令同心者可為忠節之由、被仰出候・・・去春己来三好かたより、種々懇望仕候、其外御調略之筋、幾重二在之由候き、彼等依妄言、御上洛相滞剰江州矢嶋御逗留も難届式候之間、朽木歟若州辺へ可被移御座之旨候・・・」
- 足利義栄を将軍に擁立していた三好氏の調略に乗り、龍興が義秋方から三好方に寝返った。このため、近江矢嶋の安全も怪しくなった義秋は朽木〜若狭〜越前朝倉へと逃れることになる。
- 義昭は、永禄八年七月に興福寺一乗院から脱出して後、翌九年二月に還俗して義秋と名乗り、四月に従五位下左馬頭に叙任されているから、一応足利将軍に叙任されるためのラインに乗ったことになる。だから、信長は義昭に乗ったのだ。それから義昭は、近江から若狭経由で越前に逃れる。
- 三好党の篠原長房、三好康長らに擁されていた足利義栄が従五位下左馬頭に叙任されて同時に名を義親から義栄と改名したのは、永禄九年(1566)十二月廿八日である。義秋が従五位下左馬頭に叙任されたのは同九年四月と早く、前将軍を殺害したことが朝廷に忌避された結果であろうから、美濃の斎藤龍興の政治眼は狂っていたと言わずばなるまい。
つまり、足利義昭を大義名分に掲げるためには、井ノ口城に龍興を封じ込めたままで、上洛する覚悟が信長にはあったということだろう。・・・尤、永禄九年の龍興には上洛する信長の背後を襲う実力などは既になかったといってよいだろう。
<天正十四年の流路変更>
(2009.11.12 追加) 多くの人は天正十余年の大洪水によって河川流路が変わったという事実から、木曽川の流路が全線にわたって河口まで大幅に変更されたものと無条件に信じ込んでいるようなのだが、そのような認識は誤りである。
『岐南町史・通史編』p414によると、「木曽川の乾流であった境川は、前渡村において河口がふさがり、水脈を絶って、各務郡北部の各務村より発して来る一小川の下流となり、長良川の支流に変わった」としているのだが、天正十四年(1586)六月廿四日の大洪水によって大幅な変更をみたのは、木曾川のうち北部を東西に流れている部分であり、それまで境川と呼ばれて現在の木曾川より北部を流れていた流路が、現在我々が知るものに近い流路に変わったのであり、それ以降の変更は専ら人為的な土木工事によるものであることは明らかである。だから、木曽川のうち大洪水以前の支流とされている木曽川の笠寺から南の現在長良川と並流しはじめる部分(一宮氾濫平野を貫流している部分)は、多少の蛇行を除いてはほとんど流路変更をしてはいないと考えるべきだと思うのである。
榎原雅治氏はその著『中世の東海道をゆく』において、木曾川について文献的な考察をされているが、「天正十四年以前に現在の【木曾川】とはほぼ同じ場所に大きな川が流れていたと考えて良いのではないだろうか。天正十四年の洪水によって(一宮氾濫平野貫流部の)流路が大きく変わって現在の木曽川が誕生したというのは、文献資料に明らかに反する説であるといわなければならない」と結論されている。そして、「天正十三年地震の影響によって、翌年にもし洪水があったとしても、それによって一挙に(一宮氾濫平野貫流部の)木曽川の流路が変わってしまったとはいえない」とも言われる。榎原雅治氏が研究対象にされた文献には『信長公記』は含まれていないのだが、『信長公記』によっても現・木曾川が現在位置に大河として存在していただろうことは、文献的に明らかであろう。つまり天正十四年の大洪水で大きく変更したのは境川と呼ばれた現・木曾川の前渡村から徳田を経て中佐で大きく湾曲して墨俣で長良川に合流していた中世の幹(主)流部分だけなのである。
参考のために『信長公記』首巻の木曾川に関する部分を採録しておく。
- 天文十三年(1544)十一月の大柿(垣)城へ後巻 「憑(頼)み勢をさせられ、木曽川・飛騨川の大河、舟渡しをこさせられ、美濃国へ御乱入、竹が鼻(羽島市竹ヶ鼻)放火候て、あかなべ(茜部)口へ御働き候て」
- 弘治二年(1556)大良(大浦)「信長御陣所大良口(羽島市正木町大浦)へ人数を出し候。大良口より三十町計り出で、および河原にて取合ひ、足軽合戦候て、・・・大良の本陣まで引き入るなり。爰にて大河隔つる事に候間、雑人・牛馬、悉く退けさせられ、殿(軍)は信長させらるべき由にて、惣人数こ(越)させられ、上総介殿めし候御舟一艘残し置き、各々打ち越え候ところ、馬武者少々川ばたまで懸け来なり候。其の時、信長鉄炮をうたせられ、是れより近ゝとは参らず、さて、御舟にめされ、御越しなり、」
- 天文廿一年四月聖徳寺会見 「四月下旬の事に候。斎藤山城道三、富田の寺内正(聖)徳寺まで罷り出づべく候間、織田上総介殿も是れまで御出で候はば、執着たるべく候。対面ありたきの趣、申し越し候。・・・上総介公、(この申し入れを)御容赦(躊躇)なく御請けなされ、木曽川・飛騨川大河の舟渡し打ち越え、御出で候」
- 永禄四年(1561)五月のもりべ合戦「五月十三日、木曽川・飛騨川の大河船渡し、三つ越させられ西美濃へ御働き、其の日はかち(勝)村(岐阜県平田町)に御陣取り、翌日十四日、雨降り候と雖も、御敵、州の股(墨俣)より長井甲斐守・日比野下野守大将として、森辺口(安八町森部)へ人数を出し候」
- 永禄五(1562)年五月の十四条合戦「永禄四年辛酉五月上旬、木曽川・飛騨川大河打ち越え、西美濃へ御乱入、在所々々放火にて、其の後、州股(墨俣)御要害丈夫に仰せ付けられ、御居陣候のところ、五月廿三日、井口より惣人数を出だし、十四条(現真正町。岐阜の西)と云ふ村に御敵人数を備へ候」
- 永禄八年飛騨川を越え、美濃国へ乱入。「御敵城宇留摩の城主大沢次郎左衛門、並びに、猿ばみ(喰)の城主多治見とて、両城は飛騨川へ付きて、犬山の川向ひ押し並べて持ち続けこれあり」と『信長公記』宇留間(鵜沼)城も猿喰城も現・木曾川の右岸にあるが、ここでも牛一はそれを飛騨川と呼び、木曽川・飛騨川とは書かない。
- 永禄九年「一、四月上旬、木曽川の大河を打ち越え、美濃国加賀見野(各務原市)に御人数立てられ、御敵、井口より、龍興人数罷り出て、新加納(各務原市)の村を拘え、人数を備え候。その間、節所にて馬の懸引きならざる間、其の日、御帰陣候ひしなり」木曾川を超える記事の最後。
<『武功夜話・翻刻』でみた木曽川>
余談だが、偽文書・『武功夜話』もその全訳本『武功夜話1』の巻頭に掲載した「永禄寅年(九年)前野将右衛門長康花押付 尾張地方絵図面」は、勝村公(タダシ)氏が批判されたように永禄九年当時の木曾川流路を描いたとは言えないのだが、一方でそれを批判した勝村氏が『武功夜話』の本文について、「小越(現・一宮市起)と大浦(現・羽島市正木町)間に絵図通りの大河があったように記しているのは明らかな錯覚であって、・・・」と批判されるのも間違いであると言わねばならない。この部分では明らかに偽書・『武功夜話』の方が、『信長公記』と照らしてみても正しいのである。
(2010.02.26 追加) 全訳本『武功夜話1』や墨俣町の『墨俣一夜城築城資料』に全面的に依拠したと思われる松原清史氏の小説『木下藤吉郎と松原内匠』が、境川が徐々に川幅を狭め、代わりに現・木曽川が流路を広げていった挙句、天正十四年の洪水によって、塞き止められた結果境川が涸れて小川と化し、現木曽川が本流となったとするのもやはり間違いだろう。松原清史氏の論拠は、永禄九年の洲俣築城の時の木材を松倉から小越まで現・木曽川を筏流しで送ったのは、現・木曽川の川幅が広くなければならず、逆に旧木曽川幹線が狭くなている必要があり、洲俣城資料館に前野将右衛門の署名花押のある当時の河川の絵図がその証拠だとしているが、信じ難いものがある。
しかし、『武功夜話翻刻』のいう州俣城の築城場所が現小熊であり、柵材を流したのが長良川ではなく、現木曽川を流して。・・・工事中
以下、工事中




