合戦当日の井伊隊の役割・位置は?
竹内元一 2009/01/03(Sat) 07:42
「真説・桶狭間の戦い」の項では、井伊直盛の名前は、4:42の鷲津砦攻撃のところにしか出てこないようですが、桶狭間での戦闘の時、井伊隊はどこにいたのでしょうか。
井伊直盛も戦死していますし、井伊隊からは死傷者が多く出ていますので、戦闘に巻き込まれたことは間違いないようですが。

ついでですが、三浦備後守の部隊、葛山信貞の部隊は、それぞれ何千人の単位でいたはずですが、桶狭間の戦闘には巻き込まれていないようです。19日当日、どこで何をしていたか、わかれば教えてください。
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RE:合戦当日の井伊隊の役割・位置は?
かぎや散人 2009/01/05(Mon) 17:42

竹内さん あけましておめでとうございます。

残念ですが、駿河勢の動向についてはよく分かりません。

井伊直盛、三浦備後守、葛山信貞らについての史料は、概ね『武徳編年集成』、『東照軍鑑』、『改正三河風土記』などだと思いますが、定かなことは分かりません。

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RE:RE小瀬甫庵は、真実を知っていた
かぎや散人 2008/12/31(Wed) 22:32

『信長公記』には、「十八日夜に入り、大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、塩の満ち干を堪がへ、取手を払ふべきの旨必定」と書いてあります。

先入観を持たずによめば、その主体は義元であると受け取るのが普通であると思います。

元康が兵粮入れを行ったという知識を持たずに読めば、「大高城への兵糧入れ」も「取手を払う」のも義元が行ったと読者は思うはずです。それが十九日には二つながら実行されたのが分かったわけですから、普通ならば、それを行った義元は当然、十八日の夜には大高城にいたと受け取るはずだと思います。

ですから、読み方だけの問題だと小生は思います。

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RE:RE:RE小瀬甫庵は、真実を知っていた
竹内元一 2009/01/01(Thu) 02:22

ご教授頂き、ありがとうございました。
そうすると、「信長公記」も、「三河物語」も、(ついでに言えば甫庵の「信長記」も)いずれの史料も、18日夜は、義元が大高城にいた、と同じ事を書いている、と解釈できるわけですね。
これは、新年早々、すごいことを教わりました。

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小瀬甫庵は、真実を知っていた
竹内元一 2008/12/29(Mon) 13:32
藤本正行氏に、奇襲説の創作を始めた犯人扱いされている小瀬甫庵ですが、「信長記」を読んでみると、「義元は、5月17日に沓掛にいて、18日の夜に、大高城で軍議し、翌朝の二砦の攻撃を決めた」とはっきり書いてありますね。
(長くなるので、引用はやめます。小瀬甫庵「信長記」上、現代思潮社、P58)

 甫庵の「信長記」には、確かに、荒唐無稽な記述も多いですし、戦闘経過の記述でも辻褄の合わない箇所もありますが、藤本氏のように「すべて創作だ」として切り捨ててしまうのは、いかがなものでしょうか。
 そうでも言わないと、三百数十年続いた「迂回奇襲」伝説を打ち消せなかったという事情は理解できますが。

 ついでですが、簗田出羽守が恩賞を与えられた理由も「信長記」(同上、P63)を読むとよくわかりますね。「私が、殿を引き付けるから、その間に大将を討てるでしょう」というようなことを進言したと書いてあります。それに対し信長は「立派な申し様だ」と大声で言った、とあります。これが恩賞の決め手ですね。
 この箇所は、藤本氏の近著のP192に、彼の意訳が載っています。
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RE:小瀬甫庵は、真実を知っていた
竹内元一 2008/12/31(Wed) 13:00
返信頂き、ありがとうございました。

5月18日の義元の居場所について「信長公記」は、何も書いていません。
「5月17日、今川義元は軍兵を率いて沓掛に参陣」とあるだけです。

しかし、甫庵の「信長記」には、「翌18日の夜に入り、大高城へ兵糧を入れ、ここに於いて軍評しけるが、翌朝は鷲津丸根両城を攻め干すべきにぞ定めける」とありますので、18日の義元の行動に関してだけは、太田牛一が知りえなかった情報を、甫庵は知っていた、と考えていいのではないでしょうか。
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RE:小瀬甫庵は、真実を知っていた
かぎや散人 2008/12/31(Wed) 08:50

返信が遅れて申し訳ありません。

(1)甫庵は信長記を書くにあたって、「牛一の不備を補完する」と断っていますが、17〜19日の問題については、甫庵が改めて考証したというのではなく、牛一本『信長公記』をそのように読んだというだけのことでしょうから、甫庵信長記の信憑性がますとは思えません。

美濃出身で前田家の家老・横山長知が、自分の茶飲み話からネタを仕入れて出版されてしまったことを悔いていたという話もあるようですから、甫庵の底は浅いものと思われます。大久保彦左衛門などは、「うそが多い。三分の一はあったことだ。三分の一は似たことがあった。三分の一は全くなかったことだ。」と『三河物語』で評している。

(2)甫庵は、「私が、殿を引き付ける」などと言ったと書いたとは思えません。

簗田出羽守が信長に戦に勝てる理由として挙げたのは、「是は後陣へかかり合ふ間」ということであり、なぜその様だと義元を討ち取れる機会があるのかというと、「其陣を易へからす」だと言っているわけですから、義元は後巻した本陣に居り、駿河勢は布陣の再編成ができていないから、その先鋒隊は救援にも間に合わないだろう、だから「唯急かせ給へ」と言っているのだと思います。

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藤本正行氏の新刊本
竹内元一 2008/12/18(Thu) 18:08
藤本正行氏の新刊本「桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった」(新書Y)を読み出しました。
 まず気がついたのは、義元の本陣を「高根山(あたり)」に変更していました。文章には出てきませんが、P27の戦場地図では、明らかに、以前の著書「信長の戦国軍事学」「信長の戦争」の図と違っています。(以前の図では、現朝鮮学校の丘あたり)
 彼の説では、この日の義元本隊の目的は、中島砦・善照寺砦への攻撃ですから、高根山でないと、都合が悪いと、考えが変わったようです。
 また、義元の進軍ルート図(P68)は、今までになかった新しい資料でした。
 後半では、黒田氏の「乱取状態急襲説」や橋場氏の「別働隊による迂回奇襲説」を批判しているようですが、まだ、ちゃんと読んでいません。
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RE:藤本正行氏の『三河物語』解釈
かぎや散人 2008/12/20(Sat) 21:56

これは、『三河物語』が間違っていると考える前に、それが事実であった場合に『信長公記』と整合性がとれる解釈がとれるか、それは合理的な行動であるかを考えるべきでしょう。

それぞれについての記述に対して、それを明確に否定する一次史料が出現するまでは、両方を無理なく成立させられるストーリーを考えるべきだと思います。

この場合に『三河物語』は、「其寄大高之城に兵ラウ米”多く”誉。」として、兵粮を”多く”籠めたと言っているのですから、元康が城番として大高城に籠るにあたり、万全を期して前夜に補給した以上の兵粮を搬入したか、または搬入する手配をしたとしてもおかしいものとは思えません。従って、後世の人間である大久保彦左衛門が前後関係に拘らなかったと早計に結論すべきではないと思います。

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藤本正行氏の反論を予想する
竹内元一 2008/12/20(Sat) 15:21

藤本氏の新刊本「桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった」P160からの引用です。
 「橋場氏は砦の攻略を兵糧入れの前とする「三河物語」を論拠にあげられたが、後世の人間である著者の大久保彦左衛門は、前後関係にさほどこだわらなかったはずだ。だいいち「三河物語」と「信長公記」の記事が相違した場合、よほどの裏付けが無いかぎり、「三河物語」のほうを信用する方はまずあるまい。
 橋場氏の史料操作には、事実に近い史料よりも自説に近い史料を優先する傾向が見られる。それはまた戦国軍事を論じる多くの方に共通の問題でもある。」

これは、橋場氏の説を批判した文章の一部です。
 これを読んで、かぎやさんの説(私は、勝手に「背面強襲説」と命名)を知った時、藤本氏は、何と批判するか、予想できそうな気がしました。

 「信長公記」絶対主義者の藤本氏は、戦闘経過の描写が、「信長公記」では、
桶狭間山で休息→北西に向け兵の備え→謡を三番→信長、善照寺到着→前哨戦を義元も観戦→信長、中島へ移動→中島を出撃
となりますので、これに合わない戦闘経過を「三河物語」を根拠に主張しても、切り捨ててくるような気がしました。

 ただし、かぎや説は、「高根峠で、前哨戦を観戦した義元が、桶狭間山(64.9mの丘)で昼食休憩に入った」として、十分なる合理性がありますので、十二分に対抗出来ます。

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藤本正行氏の「おけはざま山」
竹内元一 2008/12/20(Sat) 07:09
前回のコメントの補足です。
 藤本の説では、義元本陣があった「おけはざま山」は、特定の丘ではなく、「この当たりいったい」とぼやかしています。それは、64.9mの丘だとすると、織田の砦が見えなくなり、彼の説のように砦攻撃のための本陣とするのに、都合が悪いからです。現地の地理に詳しくない人は、誤魔化せるかもしれませんが、それにも限界があります。
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RE:藤本正行氏の新刊本
竹内元一 2008/12/19(Fri) 05:34
さっそくのご返信、ありがとうございました。
 活字で発表するのは、怖いですね。訂正したくても、引っ込みがつかないので、同じ事を言い続けるしか、方法がなくなってしまいます。この本でも小和田氏のかなり古い本の引用を槍玉に挙げていますが、明日はわが身です。
 藤本氏の新刊本には、「三河物語」の引用が、いくつかありましたので、ちゃんと読んでいらっしゃるようですので、「桶狭間の戦い」の項で、丸根砦に対し、「それなら攻め取ろう。そうするなら元康せめろ」とは、誰が、いつ、どこで言った言葉か、藤本氏に、聞いてみたいものです。
 また、「元康が尻払いをしておいでなら」の尻払いの意味を、同じように、藤本氏に、聞いてみたいものです。
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RE:藤本正行氏の新刊本
かぎや散人 2008/12/18(Thu) 21:52

竹内さん今晩は

小生も、読ませてもらいましたが、おっしゃる通りですね。

藤本氏が正面攻撃説を提起してから20年後もたった今になっての本書ですが、何とも期待はずれな書物でした。

相変わらず自説に固執されていて、前軍を本陣に追い込んだというのですが、おそらく納得する人は少ないと思います。

 

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服部徹著「信長四七〇日の闘い」のこと
竹内元一 2008/12/05(Fri) 06:07
今年11月末に発売になった服部徹著「信長四七〇日の闘い」(風媒社)を読み出しました。
「桶狭間の合戦は、一言でいうと、伊勢湾海運経済争奪戦争だった」という指摘は、なかなか的を得ているなと感じました。
だからこそ、義元にとっては、大高、緒川を押さえて、知多半島の湊を今川方にする必要があったのですね。そうして、織田の経済基盤である津島・熱田の富を減じ、最終的には、それをも、手に入れたかったのでしょう。

この本には、織田・今川の三世代にわたる興亡史が、詳しく書かれています。
ただし、合戦経過については、従来の正面攻撃説の範疇にあります。

余談ですが、この本P50の「山科言継の旅程図」を見て、伊勢神宮がなぜ、ここにあったのか、ようやくわかりました。伊勢の大湊は、奈良と東国を結ぶ街道の湊だったのですね。(大湊と吉田(現豊橋)は海路)
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RE:服部徹著「信長四七〇日の闘い」のこと
かぎや散人 2008/12/05(Fri) 21:32

情報ありがとうございます。

服部徹氏の「信長四七〇日の闘い」はまだ読んでいませんが、彼の前著『大高と桶狭間の合戦』は読ませていただきました。

その中でも伊勢湾をめぐる経済戦争という見解は述べられていました。

桶狭間合戦については、梶野渡氏の説を踏襲しておられました。

ただ、間違いが多いのが難点ですので、小説と思われた方が無難なのではないでしょうか?

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