梶野渡氏の布陣図は、承知しています。
彼が講演テキストに使っている「桶狭間合戦始末記」
に載っている当時の街道図も知っています。
梶野渡氏からは、直接説明をお聞きしたこともありますし、
彼の考える信長の進撃ルートを、一緒に現地で案内してもらったこともあります。
私なりに、彼の考え方は、理解しているつもりです。
また、郷土史家・海福三千雄氏(故人)が、「郷土文化」に
(昭和50年代に)載せた「合戦当時の街道図」も承知しています。
国会図書館で、入手できる鳴海地区の地形図で、最も古いものは
明治24年の測図です。私は、次に古い大正9年測図の方が、
丘の標高も詳しく記載しているので、実感がわきやすいので
こちらを使用しています。
現在の地形図と比べると、昭和40年代から始まった宅地開発が
地形を変えていった様子が想像できます。
肝心の「桶狭間山(標高64.9mだった丘)」も、
現在は、山頂だった部分は、10〜15m削られてしまったようです。
近代的な測量技法で計測された最古の地形図(明治24年)から、
1560年当時の道筋を想像するのは、非常に困難で、
厳密な検証は不可能でしょう。
「かぎや」さんの説で、疑問を感じているのは
「東海道は、合戦当時には、かなり整備されていた」
というところです。
有松では、今年2008年、開村400年という観光イベントを
やっているようです。つまり、1608年に、有松村という村落が
できたようで、道の整備は、その何年か前からあったかもしれませんが、
合戦のあった50年も前の1560年当時は、手越川沿いに間道が
あっただけではないか、と想像しています。
ご承知かもしれませんが、当時の東海道は、今は「鎌倉往還」と呼ばれている
二村山から相原・鳴海へ抜ける旧道を指していました。
余談ですが、「信長公記」に記述がある「沓掛峠」とは、この二村山の峠を指す、
と考えるのが妥当だと思います。
そのあたりにも、織田の兵士がいたのか、清洲への帰り道に見た倒れた木の
話を載せたのかもしれません。
これも余談ですが、私は、太田牛一は、この合戦に参加していなかったと
みています。彼が、信長の側近に取り立てられたのは、永禄11年と
考えています。
竹内